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2016年5月11日 (水)

私家版朝鮮国王列伝(連載第15回)

十五 粛宗・李焞(1661年‐1720年)/景宗・李昀(1688年‐1724年)

 父の第18代顕宗の後を受けて1674年に14歳で即位した第19代粛宗は、朝鮮王朝では久々に半世紀近い長期治世を保つ王となった。彼は政治的にも早熟と見え、年少で即位したにもかかわらず、当初から親政を試みた。
 しかし、当時の朝廷では顕宗時代の党争を制した南人派が専横していたため、粛宗は1680年、自ら介入して南人派を追放、西人派の政権に立て替えた(庚申換局)。西人には、嬪の立場から王妃、さらに大妃に栄進した母后の明聖王后や粛宗正室の仁顕王后も付いてこれを支えた。
 ところが、王と王妃の支持を得て国政を握った西人派も間もなく、王の外戚に近い少論派とこれに批判的な老論派とに分裂・抗争するありさまであった。そこで、粛宗は89年、一転して西人派を追放して、南人派を呼び戻した(己巳換局)。
 当時の南人派は粛宗の野心的な嬪で、後の20代景宗を産んだ禧嬪張氏を後ろ盾としており、89年の己巳換局は子どもを産めなかった仁顕王后を廃位して、禧嬪張氏を王妃に昇格させる彼女と南人派の策動という一面があった。
 禧嬪張氏は支配階層両班より下位の中人と呼ばれる一種の中産階級出自から王妃に栄進した異例の人物であるが、その野心家ぶりのゆえに「悪女」とみなされることも多い。実際、粛宗は彼女を頂点とする南人派の専横を懸念し、94年に再度介入して張氏を嬪に降格、仁顕王后を復位させたのであった(甲戌換局)。
 張氏は最終的に1701年、仁顕王后の死去に関連し、これを呪詛したとする罪で賜薬により処刑されたが、これは復権した西人派の謀略とも言われる(彼女の性格からすれば、王妃への復位を狙い、実際に呪詛した可能性もなくはない)。
 こうして粛宗時代の前半期は党争とそれに王自らが介入して政権を立て替える「換局」と呼ばれる事態の繰り返しであった。しかし、こうした王主導での一種の政権交代が王権強化にとってプラスに作用した可能性もあり、粛宗は強力な王権を背景に内政外交上かなりの成果を上げている。
 まず税制面では従来地域限定適用にとどまっていた大同法の適用を咸鏡道、平安道、済州島を除く全域に拡大した。またかねてなかなか定着しなかった貨幣経済を普及させるため、統一銅銭・常平通宝を常時発行し、全国に流通させた。
 外交通商面では徳川幕府治下で安定繁栄し始めていた日本との関係を重視し、在位中三度にわたり通信使を派遣したほか、倭館貿易の振興にも努めた。また国境画定にも積極的で、大陸側では清との間の白頭山定界を明確にしたほか、日本との間でも鬱陵島の領有権を明確にした。 
 さらに従来タブーとされた歴史修正に踏み込んだのも粛宗の特質であり、彼は第7代世祖が起こした癸酉靖難で犠牲となった「死六臣」の名誉回復や廃位され年少で処刑された6代端宗の追贈などを主導したが、こうしたことも粛宗の強力な王権なくしてはあり得なかっただろう。
 粛宗時代の後半期は比較的平穏であったが、結局嫡男は生まれず、禧嬪張氏が産んだ息子を世子とするほかなかった。こうして1720年、粛宗の死を受けて即位したのが20代景宗である。しかし、彼は生母が処刑されたことを契機に精神疾患にかかっていたと言われ、王としては父と比べるべくもない弱体であった。
 そこで、当時実権を握っていた西人‐老論派はより壮健聡明と見られた異母弟の延礽君を後継者の世弟に立てたうえ、延礽君の代理聴政をもくろむが、これに少論派が反撃、老論派を弾圧し追い落とした。
 実権を握った少論派は病弱で生殖も望めない景宗に養子を取って延礽君を排除しようとするも、24年に景宗が急死したことで、このもくろみも潰えたのであった。後継者は予定どおり延礽君で決まり、これが第21代英祖となる。

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