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2016年5月

2016年5月24日 (火)

私家版朝鮮国王列伝(連載第16回)

十六 英祖・李昑(1694年‐1776年)

 20代景宗が急死した後を受けて即位した異母弟の21代英祖は、生母淑嬪崔氏が最下層の賤民階級出自という異例の王である。景宗の生母禧嬪張氏も中人階級出自ながら一時は王妃に昇格した異例の人物であったように、父王である19代粛宗の後宮には出自身分を問わない気風があったようである。
 兄景宗の急死は延礽君を名乗っていた世弟英祖もしくはその支持勢力である老論派による毒殺とする風評もあるが、真相は不明のままである。ただ、英祖は即位するや、兄王の支持勢力であった少論派を排除し、老論派政権を形成したことはたしかである。
 しかし、1728年に少論派によるクーデター未遂事件(戊申政変)を経験した英祖は父王のように相対立する党派を交互に入れ替える「換局」の手法を採らず、老論派と少論派を平等に遇し、相互に牽制させる「蕩平策」と呼ばれる勢力均衡策を編み出した。
 この方法で英祖は以後、長期にわたる安定的な治世を維持した。その間、減税策や飢饉対策となるサツマイモ栽培の奨励など、民生に配慮する政治を行なった。また印刷技術の改良により、書籍の出版を支援し、庶民の知識の向上も図るなど、生母が下層階級出自の英祖の治世は歴代王の誰よりも庶民に篤い傾向を見せた。
 しかし、治世後半期、健康問題を抱えた英祖は後継者の荘献世子に代理聴政を取らせるようになっていたところ、少論派に近い荘献世子は老論派と対立し、1762年、老論派による告発により、英祖の命で廃位、米櫃への監禁による餓死という残酷な手法で処刑された。
 荘献世子の罪状は殺人を含む非行とされていたが、彼は当時、政争の中で精神を病むようになっていたとされ、荘献世子の刑死を招いた壬午士禍は、当時英祖の継室貞純王后を後ろ盾とした老論派による謀略だった可能性も指摘される。
 ただ、英祖は荘献世子存命中の1759年に荘献の子で自身の孫に当たる8歳の李祘を世孫に冊立していたところを見ると、荘献世子は実際病んでおり、後継候補としての可能性は事実上すでに消失しかけていたのかもしれない。
 後に、英祖は荘献世子に「思悼世子」の諡号を追贈したが、完全に赦したわけではなく、世孫李祘を正式に後継者とするに当たり、夭折した長男孝章世子の養子としたうえで後を託している。こうして、英祖は李氏王朝歴代王では最長の52年に及ぶ治世を終え、これまた歴代王で最長寿の83歳で死去した。
 英祖は強力だった父王粛宗の後継者にふさわしいまさに英君であり、その善政は次代の孫正祖にも継承された。粛宗から短命の景宗をはさみ、英祖、そして正祖の治世が終わる18世紀末年までの120年余りは、完全には封じ込め難い党争に左右されながらも、朝鮮王朝にとって最後の繁栄期だったと言える。

2016年5月18日 (水)

仏教と政治―史的総覧(連載第8回)

三 スリランカの仏教化

マヒンダの渡来
 今日、インドを軸に地政学上の南アジアを構成するネパール、ブータン、パキスタン、バングラデシュ、スリランカ、モルディブの7か国のうち、仏教徒が多数を占めるのは南端の島国スリランカと北辺の内陸国ブータンに限られている。
 しかし、ブータンはチベット系の国であるため、インド系の国に限れば、インド亜大陸の島嶼部を成すスリランカだけが仏教優勢国となっている。それだけ亜大陸部での仏教は衰滅したことを意味している。
 スリランカの民族構成は大雑把に言って、多数派仏教徒のシンハラ人と少数派ヒンドゥー教徒のタミル人から成るが、このうちシンハラ人は遺伝子系譜上ベンガル人に最も近いとされている。
 このことは、シンハラ人がベンガル地方からの移住集団であることを示唆している。スリランカ建国神話によれば、スリランカ最初の王ウィジャヤ(紀元前6世紀後半)は北インドから移住してきたとされるが、この「北インド」とは、スリランカから見て「北」に位置するベンガル地方を指すと解することもできる。
 そのスリランカ―シンハラ人―が仏教化されるに当たっては、伝承上アショーカ王の長男マヒンダの渡来と彼による布教が出発点となったとされている。マヒンダ王子の半生は、釈迦のそれと重なるところがある。
 元来マヒンダは父王から後継者に望まれていたが、母のカースト身分が低かったことから、国内のバラモン教勢力に配慮して、後継から外されたという。結局、彼は比丘となり、国を離れ、辺境の島国スリランカに移住することになった。
 なぜスリランカであったのかについては、精神的な動機と政治的な動機の双方が指摘されている。後者は、マヒンダが王位継承戦争に巻き込まれるのを恐れた父王の差配によるという。
 いずれにせよ、マヒンダと彼に随行した比丘団がスリランカにもたらしたのは、上座部仏教であった。このことは、この時期、すでに仏教の根本分裂が起きていたことを示唆する。
 マヒンダが伝えたのは、上座部の中でも分別説部と呼ばれる一派であった。これはアショーカ・マヒンダ父子の導師でもあり、第三回結集を理論指導した高僧モッガリプッタ・ティッサが採った説に由来するようである。
 幸いにして、当時のスリランカ王デーワーナンピヤ・ティッサは仏教の受容に積極的で、伝承上紀元前247年6月の満月の日にマヒンダと出会ったとされる王は自ら仏教に帰依するとともに、王都アヌラーダプラにマハーヴィハーラ(大寺)を建立した。
 これ以降、マハーヴィハーラがスリランカ仏教(赤銅鍱部)の中心的寺院となり、大寺派と呼ばれる主流派が形成されていった。大寺派は後世、東南アジアにも伝播し、いわゆる南伝仏教の起源ともなる。
 ちなみに、マヒンダに遅れて彼の妹サンガミッターも比丘尼らを伴ってスリランカに渡来し、比丘尼団の形成に寄与している。このようにアショーカ一族による大掛かりな布教活動を見ると、これはアショーカ王を後援者とする政策的なスリランカ布教プロジェクトの一環であった可能性も認められよう。

2016年5月15日 (日)

日本語史異説―悲しき言語(連載第17回)

六 日本語の誕生と発達③

 漢字を当てた日本式表音文字体系の万葉仮名からより簡略な仮名文字が発明されたのがいつのことか、明確には判明していない。奈良時代の末頃には漢字を崩した草書体が散見されるというが、正規文字としての使用は平安時代に入ってのことと考えられている。まとまった書物としては、905年に出た『古今和歌集』序文が最初の平仮名文書と目されるので、10世紀初頭には平仮名はすでに開発されていたことになる。
 続いて、個人の散文作品としては935年頃に出た紀貫之『土佐日記』が最初の仮名文学とされるが、男性筆者の貫之が女性に仮託して執筆するというジェンダー論的にも興味深い作品である。筆者があえて女性を装ったのは、当時、平仮名書体は女性のものと見られていたことによると考えられる。
 つまり、教養程度が高い男性は依然として漢文体で綴るのに対し、漢文素養のない女性は平仮名でしか綴れないというジェンダー・バイアスである。実際のところ、紫式部をはじめ、平安時代の著名な女流作家たちは皆、漢文素養も十分に備えていた一方、男性たちも私信や和歌では平仮名を用いており、少なくとも文章家の間における漢字と仮名の使い分けはジェンダーよりも文章のジャンルによっていたものと見られる。

 ちなみに、もう一つの仮名文字である片仮名は平仮名に比べて遅れて発達し、当初は漢文和読に際しての訓点という補助記号的な性格の文字であった。しかし、10世紀後半に出た作者不詳の『うつほ物語』の中に片仮名の書体が現われていることから、この頃には片仮名の使用も普及していたが、なお不統一かつ限定的であり、現代のような形で正規文字として確立されたのは、12世紀以降と見られている。

 仮名文字の特徴は字形が簡略されており覚えやすいことであるが、音声的には母音を示す五十音ア行はともかく、カ行以下は子音と母音が文字上は区別されないため、表音文字としては万葉仮名よりも後退してしまったことである。
 この点、コリア語のハングル文字では、母音と子音が発音記号的に書き分けられるため、文字を見れば発音が一覧できるのとは異なり、仮名文字の場合、ア行以外は文字だけでは発音が部分的にしか判明しないという限界を持っている。*ただし、アラビア文字のように子音のみを示すアブジャドとは異なり、カ=k(+a)、キ=k(+i)・・・・のように、母音を隠す形で子音プラス母音の組み合わせが示されているとも言える。

 とはいえ、平仮名と片仮名の二種類の仮名体系は漢字を起源としながらも、日本語独自の表音文字として定着していき、これによって日本語は文字体系を備えた文章語としても確立される。
 しかし一方では、漢字も排除されることはなかった。この点、日本語は漢語を固有の和語に翻案して造語するという言語ナショナリズムを徹底することなく、多くの漢語をそのまま取り込んだために、漢語は漢字で表記する習慣が残されたのである。
 そこから、やがて漢字仮名交じり文という二種類の文字で混淆表記する異例の折衷的書式が確立された。これが日本語の悲劇の始まりである。日本語の文章語を習得するには、二種類の文字と、漢語と和語双方の単語を覚え、その選択法についても訓練しなければならなくなったからである。
 和漢混淆文による最初の作品と目される平安時代末の『今昔物語集』の段階では漢字・片仮名交じり文であったが、近代以降、西洋からの外来語をやはり和語に翻案せず、和語と区別して片仮名表記する習慣が定着したせいで、現代日本語では漢字・平仮名・片仮名の三種文字混淆体が標準である。
 このような三種文字併用策は、非ネイティブによる日本語の読み書き習得を著しく困難にし、日本語の国際性を妨げているばかりか、ネイティブ日本人自身の読み書き習得をさえ困難にしているのである!

2016年5月11日 (水)

私家版朝鮮国王列伝(連載第15回)

十五 粛宗・李焞(1661年‐1720年)/景宗・李昀(1688年‐1724年)

 父の第18代顕宗の後を受けて1674年に14歳で即位した第19代粛宗は、朝鮮王朝では久々に半世紀近い長期治世を保つ王となった。彼は政治的にも早熟と見え、年少で即位したにもかかわらず、当初から親政を試みた。
 しかし、当時の朝廷では顕宗時代の党争を制した南人派が専横していたため、粛宗は1680年、自ら介入して南人派を追放、西人派の政権に立て替えた(庚申換局)。西人には、嬪の立場から王妃、さらに大妃に栄進した母后の明聖王后や粛宗正室の仁顕王后も付いてこれを支えた。
 ところが、王と王妃の支持を得て国政を握った西人派も間もなく、王の外戚に近い少論派とこれに批判的な老論派とに分裂・抗争するありさまであった。そこで、粛宗は89年、一転して西人派を追放して、南人派を呼び戻した(己巳換局)。
 当時の南人派は粛宗の野心的な嬪で、後の20代景宗を産んだ禧嬪張氏を後ろ盾としており、89年の己巳換局は子どもを産めなかった仁顕王后を廃位して、禧嬪張氏を王妃に昇格させる彼女と南人派の策動という一面があった。
 禧嬪張氏は支配階層両班より下位の中人と呼ばれる一種の中産階級出自から王妃に栄進した異例の人物であるが、その野心家ぶりのゆえに「悪女」とみなされることも多い。実際、粛宗は彼女を頂点とする南人派の専横を懸念し、94年に再度介入して張氏を嬪に降格、仁顕王后を復位させたのであった(甲戌換局)。
 張氏は最終的に1701年、仁顕王后の死去に関連し、これを呪詛したとする罪で賜薬により処刑されたが、これは復権した西人派の謀略とも言われる(彼女の性格からすれば、王妃への復位を狙い、実際に呪詛した可能性もなくはない)。
 こうして粛宗時代の前半期は党争とそれに王自らが介入して政権を立て替える「換局」と呼ばれる事態の繰り返しであった。しかし、こうした王主導での一種の政権交代が王権強化にとってプラスに作用した可能性もあり、粛宗は強力な王権を背景に内政外交上かなりの成果を上げている。
 まず税制面では従来地域限定適用にとどまっていた大同法の適用を咸鏡道、平安道、済州島を除く全域に拡大した。またかねてなかなか定着しなかった貨幣経済を普及させるため、統一銅銭・常平通宝を常時発行し、全国に流通させた。
 外交通商面では徳川幕府治下で安定繁栄し始めていた日本との関係を重視し、在位中三度にわたり通信使を派遣したほか、倭館貿易の振興にも努めた。また国境画定にも積極的で、大陸側では清との間の白頭山定界を明確にしたほか、日本との間でも鬱陵島の領有権を明確にした。 
 さらに従来タブーとされた歴史修正に踏み込んだのも粛宗の特質であり、彼は第7代世祖が起こした癸酉靖難で犠牲となった「死六臣」の名誉回復や廃位され年少で処刑された6代端宗の追贈などを主導したが、こうしたことも粛宗の強力な王権なくしてはあり得なかっただろう。
 粛宗時代の後半期は比較的平穏であったが、結局嫡男は生まれず、禧嬪張氏が産んだ息子を世子とするほかなかった。こうして1720年、粛宗の死を受けて即位したのが20代景宗である。しかし、彼は生母が処刑されたことを契機に精神疾患にかかっていたと言われ、王としては父と比べるべくもない弱体であった。
 そこで、当時実権を握っていた西人‐老論派はより壮健聡明と見られた異母弟の延礽君を後継者の世弟に立てたうえ、延礽君の代理聴政をもくろむが、これに少論派が反撃、老論派を弾圧し追い落とした。
 実権を握った少論派は病弱で生殖も望めない景宗に養子を取って延礽君を排除しようとするも、24年に景宗が急死したことで、このもくろみも潰えたのであった。後継者は予定どおり延礽君で決まり、これが第21代英祖となる。

2016年5月 8日 (日)

日本語史異説―悲しき言語(連載第16回)

六 日本語の誕生と発達②

 前日本語としての無文字の倭語から文字体系を備えた日本語への発展を促進するうえで架橋的な役割を果たしたのは、上代日本語の表記に用いられたいわゆる万葉仮名であった。上代日本語とは誕生したばかりの日本語であり、そこにはそれ以前の倭語の特徴が多く継承されている。その意味で、万葉仮名は日本語誕生前の倭語の痕跡を垣間見ることのできるプリズムであるとも言える。
 万葉仮名のユニークな点は、本来表意‐表語文字である漢字の音韻を借用する形で日本語を表記する体系として構成されていることである。言わば漢字をアルファベットのような表音文字化したのである。そのおかげで、上代日本語の音声・音韻を相当程度に再構することが可能となる。

 万葉仮名の研究から判明した事実で最も重要なのは、母音の数である。現代日本語はアイウエオのシンプルな五母音体系であるが、上代日本語はイエオがi e oと曖昧母音としてのï ë öに分かれ、a i ï u e ë o öの八母音体系であったと考えられている。この点では、十母音体系(単母音)の現代コリア語とも近いのは興味深い。
 また上掲八母音の組み合わせに一定の制限法則が存在することも確認されており(有坂・池上法則)、これがアルタイ諸語の共通的特徴である母音調和原則の痕跡ではないかとの指摘もある。
 ちなみに、日本語の大きな特徴である単語の母音終止(開音節)は、上代日本語にすでに認められることから、倭語から継承した相当に古い特徴と見られる。この点は、子音終止(閉音節)を特徴とする現代コリア語とは対照的である。この特徴が倭語の基層にある百済語(その祖語は高句麗語)からの継承であったのか、それ以前の弥生語(南方系)の特徴が混合されたのかは確定し難い。*高句麗語・百済語を開音節言語とする説もあるが、推定の域を出ない。

 万葉仮名はかなり壮大な表記システムではあったが、漢字は文字数があまりに膨大であるうえに、音韻にも地方的な相違が少なくないなど、表音文字化するには適さない面もあり、文字体系として確立を見ることはなかった。最終的には漢字を崩して簡略化した平仮名及び片仮名が開発され、これが言わば日本式アルファベットとして定着した。
 しかし、大幅に簡略化されたぶん、平仮名及び片仮名は表音文字としては不完全なものとなり、ï ë öのような曖昧母音を表記するには適さなくなった。そのゆえもあってか、日本語の母音は減数され、現在の五母音体系に確定したのかもしれない。*コリア語は真逆に、曖昧母音の表記も可能な発音記号を兼ねた独特のハングル文字の開発へと進んだ。

2016年5月 5日 (木)

仏教と政治―史的総覧(連載第7回)

二 インドにおける仏教政治

ヴァルダナ朝とパーラ朝
 ナーランダ僧院が建立されたのはグプタ朝第4代クマーラグプタ1世の時代のことであったが、その40年に及ぶ治世の末期から、アフガニスタンに興った混成的遊牧勢力エフタルによる侵入に悩まされるようになった。
 6世紀初頭には、北インドを占領支配したエフタルのミヒラクラ王による大規模な仏教弾圧が断行された。この事変は仏教的末法思想を生み出すほど、峻烈なものだったようである。ミヒラクラはゾロアスター教徒だったとされるが、エフタルの版図では仏教も庇護されていたことを示す記録もあることから、ミヒラクラの破仏は王の個人的な信条によるものだった可能性もある。
 グプタ朝はエフタルの侵略を契機として分裂し、6世紀半ばには滅亡した。その後、北インドでは半世紀以上に及ぶ混乱が続いた後、606年になって、北インドの地方領主から出たハルシャ・ヴァルダナがガンジス河上流域を統一し、ヴァルダナ朝を建てた。
 ハルシャ・ヴァルダナはかつてのアショーカ王のように、個人的に仏教に深く帰依し、年に一度学僧を集めた仏教的な学術会議を主宰したほか、5年ごとに大布施会を開催するなど、仏教に理論・実践の両面で多大の後援を行なった。かの玄奘三蔵がインドを訪れたのも、ハルシャ・ヴァルダナ治下のことであり、王は玄奘三蔵の学識に感銘を受け、種々の便宜を図っている。
 しかし、ヴァルダナ朝は創始者ハルシャ・ヴァルダナ個人のカリスマ的権威に依存するところが大きく、その内実は封建的分立状態にあったため、継嗣のなかったハルシャ・ヴァルダナが647年に没するとたちまち分裂・滅亡してしまった。
 以後は13世紀まで、バラモン教身分秩序における戦士階級クシャトリアの子孫ラージプートを称する諸王朝が群雄割拠する一種の戦国時代に突入する。
 そうした中で、8世紀半ばにベンガル地方に興った非ラージプート系のパーラ朝は仏教を庇護し、インド亜大陸における最後の崇仏王朝となった。その第2代国王で自身も熱心な仏教徒であったダルマパーラ王時代に建立されたヴィクラマシーラ僧院は、先行のナーランダ僧院と並ぶ仏教の二大教学機関として栄えた。
 ヴィクラマシーラ僧院は特に密教の中心地となり、11世紀に出た僧院長アティーシャはチベットから招聘され、布教活動を行い、チベット仏教に大きな影響を及ぼした。
 しかし、10世紀以降弱体化が進んだパーラ朝は、最終的に11世紀後半、ベンガルのヒンドゥー系新興勢力セーナ朝によって滅ぼされた。さらに8世紀以降インドにも到達したイスラーム勢力の攻勢が強まる中、1193年にはナーランダ僧院が、1203年にはヴィクラマシーラ僧院が相次いでトルコ・イスラーム勢力によって破壊された。
 以後、北インドではいずれもイスラーム系のデリー・スルタン朝が興亡し、南インドではヒンドゥー系諸王朝が興亡する構図となり、仏教を庇護する王朝はインド亜大陸からは姿を消した。これにより、インドにおける仏教の衰滅は決定的となった。

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