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2016年4月 7日 (木)

仏教と政治―史的総覧(連載第5回)

二 インドにおける仏教政治

アショーカの「法の政治」
 仏教は根本分裂の後も、北インドでは引き続き勢力を拡大したが、インドにおける仏教は王朝体制それ自体ではなく、個々の国王の信仰心によって左右される傾向が強かった。マガダ国マウリヤ朝3代アショーカ王はその典型例である。
 彼は、父の2代ビンドゥサーラ王の死後、長男の王子を後継指名した父の遺言に反し、多数の異母兄弟たちを粛清して王位を奪取したとされる。王子とはいえ簒奪者だったアショーカの政権は安定せず、しばらくは反乱と粛清が続いたようである。
 内政が安定した治世9年目になると、当時マガダ国と覇権を争っていたインド亜大陸東海岸のカリンガ国に対して戦争を起こした。このカリンガ戦争で、アショーカは勝利したものの、10万人を越すとされる大量犠牲者を出したことを悔悟して仏教に帰依、不殺生を誓ったとされる。
 戦後のアショーカの統治は仏法に基づく「法の政治」と呼ばれ、国内的には仏教の保護、対外的には非戦政策を特徴とした。こうした平和政策は、アショーカ王個人の宗教的改心のみならず、カリンガ国の征服によりひとまずマウリヤ朝の覇権が安定を見たことからくる余裕政策でもあったのだろう。
 もっとも、アショーカ王が敬虔な仏教徒であったことは、自ら釈迦ゆかりの地を巡幸して教宣活動に当たり、仏法宣布に専従する大法官職を新設したことに現われている。また彼は釈迦没後200年を期して、首都パータリプトラに千人の比丘を集めて第三回結集を主宰した。
 ちなみに仏教の根本分裂はアショーカ王代のこととする説もあるが、それ以前のことだとすれば、アショーカは仏教教理の再統一を図らんとして、あえて政治介入し、自ら結集の音頭を取ったということも考えられる。
 ただ、アショーカ王も仏教を国教と規定するには至らず、伝統のバラモン教やジャイナ教、父のビンドゥサーラが信仰したと言われる宿命論的なアージーヴィカ教も平等に保護した。そうした釈迦由来の寛容さも「法の政治」の一環であったかもしれない。
 アショーカ王の「法の政治」はしかし、長続きしなかったようである。30年余りに及んだ治世末期の事績は不確かであり、政変により幽閉されたという説もある。おそらく、宗教的な「法の政治」は当時においてはあまりに急進的にすぎ、重臣たちの不安を高めたであろう。
 実際、アショーカの死後、マウリヤ朝はにわかに弱体化し、アショーカの孫で後継王と目されるダシャラタ王がマウリヤ帝国の碑文を刻んだ最後の王となるのである。その後のマウリヤ朝は王名や代数も諸伝により不統一となるほど、分裂・縮退の一途をたどったと見られる。 

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