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2016年4月

2016年4月30日 (土)

「地火庁」独立提言

 日本の気象庁は、その名称にもかかわらず、地震・津波の観測・予報まで担っている。しかし、そろそろこのような体制は見直したほうがよい。
 気象庁は5年前の東日本大震災でも予想される津波の規模を過小評価したし、先日の熊本地震でも「前震」と「本震」を識別できず、犠牲を拡大している。これらを「誤報」と断じることができるかは難しいが、気象庁の(ほとんど神秘的な)信頼性からして、その過小予報が犠牲を拡大する危険性は常にある。
 現行気象庁の体制では地震火山部という包括的な部署が、地震から火山、さらに津波の観測まですべてを管掌するというかなり大雑把な構制である。天の問題を専門とする気象庁が言わば副業的にこれら地の問題を扱っている印象は否めない。
 こうした無理な包括体制はこの際改め、気象庁から地震火山部を分離独立させ、人員も大幅に拡充したうえ、「地震火山庁」(地火庁)を設置すべきではないか。ただし、津波は地震とも関連はするものの、海洋問題でもあり、津波監視センターのような特化観測機関をさらに独立させるほうがなお望ましいかもしれない。
 「行革」に反する? 否、地震大国にあっては、スポーツ庁の新設が「行革」に反しないなら、「地火庁」はいっそう反しないはずである。

※例えば、米国では気象庁に相当する「国家気象局」(商務省管轄)と地震・火山の観測・警報に当たる「合衆国地質調査所」(内務省管轄)は完全な別立てとなっている。

2016年4月27日 (水)

私家版朝鮮国王列伝(連載第14回)

十四 孝宗・李淏(1619年‐1659年)/顕宗・李棩(1641年‐1674年)

 17代孝宗は、16代仁祖の次男(鳳林大君)として、丙子の乱で朝鮮が清に敗れた後、兄の昭顕世子とともに清に人質として送られた。抑留時代の鳳林大君は世子である兄を守り抜くため、兄の代わりに清の側で戦場に赴くことすらあった。
 ところが、8年間の抑留生活の後、1645年に帰国した昭顕世子は、国王の居室で急死した。彼は抑留中、中国大陸に現われていた西洋人宣教師と接触し、西洋的文物に感化され、また清に接近しすぎたため、警戒心を強めた仁祖と確執していたとされる。
 そのため、昭顕の急死には暗殺が疑われたが、真相は不明である。しかし昭顕の正室姜氏までが処刑され、子どもたちも流刑に処せられたことから、昭顕一家を排除する政変があったことは間違いないと見られる。
 結果として、49年の仁祖の死去に際しては、次男の鳳林大君が即位した。これが17代孝宗である。実際のところ、彼も抑留中に兄ととともに西洋人と接触していたのだが、同時に鳳林大君には新たな技術を取り入れ、朝鮮を強化し、清に反攻しようとするナショナリストとしての一面があった点が兄とは違っていた。
 そうした観点から、孝宗はまず軍備増強を即位後最初の課題とし、清への反転攻勢(北伐)を目指した。折りしも、オランダ東インド会社のヘンドリック・ハメル一行が漂着すると、孝宗は彼らを抑留して召し抱え、朝鮮初のマスケット銃の製造を命じている。
 とはいえ、明を打倒し、いよいよ中国大陸の覇者としての地位を固めた清の強大な軍事力に対抗することなど、事実上不可能であった。皮肉にも、孝宗の下で増強された朝鮮軍は清の要請により二度にわたる対ロシア戦に援護参戦し、戦果を挙げたのだった。
 孝宗が治世10年にして59年に死去すると、長男の18代顕宗が円滑に王位を継承した。しかし彼の治世では、父の時代には鳴りを潜めていた党争が再燃した。それは仁祖継室の慈懿大妃が服すべき服喪期間という儒教的な礼節問題(礼訟)の形を取りつつ、仁祖反正以来政権の座にあった西人派に対して、閉塞していた南人派が仕掛けた権力闘争であった。
 最初の礼訟は孝宗の死に際して、その翌年60年に持ち上がり、この時は西人派が勝利して権力を維持したが、74年に孝宗妃の仁宣王后が死去した際に持ち上がった第二次礼訟では南人派が勝利し、形勢が逆転した。
 こうした党争が再び宮廷を揺るがす最中、顕宗も治世15年ほどにして、死去したのである。父の孝宗時代を通算すれば25年になるが、この間、朝鮮は清への従属的な関係を強いられつつも、独自に近代的な文物を摂取し始めた模索の時期だったとも言える。

2016年4月23日 (土)

仏教と政治―史的総覧(連載第6回)

二 インドにおける仏教政治

マウリヤ朝以後の仏教政策
 全般的に仏教に傾斜していたマウリヤ朝が滅亡した後、登場したのはマウリヤ朝将軍の出身とも言われるプシャヤミトラがクーデターによって建国したシュンガ朝であった。プシャヤミトラはインド伝統のバラモン教を信奉し、反仏教政策を採ったとされることが多い。
 特に仏教の伝承では彼が仏教団を弾圧し、僧侶を大量虐殺した悪行が強調されるが、一方で仏教徒も重臣に起用するなど、排仏政策はさほど徹底されていたわけではなかったとの反論もある。少なくともプシャヤミトラ以後のシュンガ朝諸王は、仏教に対して好意的な態度を示すようになっていったようである。
 むしろシュンガ朝が成立した紀元前2世紀初頭頃より、仏教に押され気味だったバラモン教勢力自身の巻き返しが強くなったと見られる。親バラモン的なシュンガ朝の成立は、かれらにとって大きなチャンスであった。おそらくは、バラモン教勢力が王朝の庇護・黙認下に仏教徒を迫害することが多くなったのかもしれない。
 シュンガ朝を継いだカーンヴァ朝はシュンガ朝の臣下に出自する後継王朝で、やはりバラモン教を支柱とした。やがてカーンヴァ朝はデカン高原から出たサータヴァーハナ朝によって滅ぼされ、マガダ地方を拠点とした歴代のマガダ国系王朝自体がいったん滅亡した。
 サータヴァーハナ朝支配層はアーリア系ではなく、南インドに多いドラヴィダ系とも言われ、マガダ国系諸王朝とは異質の集団であったが、宗教上はバラモン教に依拠した。しかし仏教も保護され、王族の信者・寄進者も存在していた。とはいえ、仏教団はバラモン教祭礼に参加させられるなど、国教的地位にあるバラモン教に対しては従属的な地位に甘んじていった。
 その後、マガダ地方の小領主から出たと言われるグプタ朝が紀元後3世紀に興り、再びマガダ国系王朝が覇権を取り戻す。グプタ朝の始祖スリ・グプタは、バラモン教徒ながら領域内での仏教団の活動には寛大だったとされる。
 グプタ朝の実質的な創立はスリ・グプタの孫に当たるチャンドラグプタ1世の時代であるが、以後6世紀半ばまで200年以上続いた同朝期に、バラモン教はヒンドゥー教へと発展的に再編されていき、従来の習俗的信仰から宗教体系としての確立を見る。
 他方、この間も仏教は弾圧されず、その存在を認められたばかりか、5世紀には当時最大級の教学機関であったナーランダ僧院が建設され、最大1万人の学生が学んだ。その中にはかの玄奘三蔵もいた。
 このように、インド諸王朝による仏教政策はシュンガ朝初期を除けば、必ずしも排仏的ではなかったのだが、諸王朝はバラモン→ヒンドゥー教を中核的な宗教として格別に保護したため、結果として、仏教は次第にインド亜大陸中心部では衰退していったのである。

2016年4月21日 (木)

日本語史異説―悲しき言語(連載第15回)

六 日本語の誕生と発達①

 前日本語としては最終段階、従って日本語の直接的な祖語となる倭語が確立を見るのはおおむね6世紀代のことと考えられる。この時代はいわゆる古墳時代後期に相当し、この間、畿内の百済系倭王朝は精力的な征服活動によって、その支配領域を大きく拡張し、ヤマト王権へと成長した。
 その際、王権の地方支配機関として機能したミヤケでは当初、中央派遣の長官や役人によって公用語である倭語が地方にも伝えられたと考えられる。後には部民制を通じて地方豪族一族が中央で奉仕するシステムを通じても倭語が地方に拡散されていき、倭語は行政‐経済上ある種のリンガ・フランカとして、方言転訛を伴いつつ、地域における共通語の地位を獲得していったであろう。その点、ミヤケは倭語が共通語化するに当たり、言語政策的な役割も果たしたと考えられる。

 ただ、この時期の倭語は専ら口語であり、なおラングとしては不安定な構造を脱しておらず、行政上も日本では文書行政の仕組みがなかなか発達しなかった関係から、独自の文字体系を生み出すにも至らなかった。6世紀の偉大な大王であった欽明の頃には大王直属部として史部のような文書部局も設置されたと考えられるが、当時の行政文書類や政治的な碑文などは現存せず、確証はない。
 飛鳥時代以前の確実な文字史料となると、江田船山古墳出土大刀の銀象嵌銘と稲荷山古墳出土鉄剣の金象嵌銘文くらいであるが、いずれも漢文である。この時期の文章語は漢文体であったと考えられる。ただ「獲加多支鹵(ワカタケル)」のように、倭語を漢字で当てる後の万葉仮名の萌芽のような書式の存在は確認できる。

 倭語が日本語へと完成されるのは、形式的に言えば、7世紀の飛鳥時代後期に「日本」の国号を確立した時であるが、実質的に見れば、それ以前の飛鳥時代前期には上代日本語のラングとしての基礎的体系は確立されていたであろう。
 しかし日本語が文章語として記録されるようになるのは、さらに進んで8世紀の奈良時代のことである。この時代になると、ヤマト王権は天皇を戴く王朝としての体制を整え、文書行政や文学書・歴史書の編纂などの文治政策が大きく進展したからである。
 もっとも、文章語に欠かせない文字体系に関しては、奈良時代の段階ではまだ、音韻の似た漢字を転用する万葉仮名のような借字であり、仮名といういちおう独自の文字体系を備えた日本語が完成するのは、続く平安時代を待つ必要があった。

2016年4月18日 (月)

私家版李朝国王列伝(連載第13回)

十三 仁祖・李倧(1595年‐1649年)

 16代仁祖は14代宣祖の孫に当たり、伯父の光海君を打倒した西人派のクーデターによって擁立された。そのため、このクーデターは仁祖反正とも称される。クーデターに際して最大の動機となったのは、光海君の中立的外交政策であった。
 その点、西人派は親明・反後金の保守的外交政策を掲げ、光海君と対立した。しかし、親明・反後金政策は、間もなく明が倒れ、後金が清として中国大陸の新たな覇者となったことにより、かえって国難を招くことになる。
 まず1627年、明の朝鮮駐留軍を撃破した後金軍に侵攻され、朝鮮は窮地に陥る。この時は後金に抑留されていた朝鮮武将の仲介により和議が成立するも、朝鮮は後金を兄とする兄弟盟約の締結を余儀なくされた。
 この後、明を打倒し、清朝を樹立した2代皇帝ホンタイジは36年、朝鮮に対して従来の兄弟関係から君臣関係への移行を要求してきた。仁祖政権は一部の有力な宥和論を退けてこれを拒否、戦争準備に入った。
 しかし、これは両国の軍事力の格差を見誤る策であった。36年、軍事力で勝る清は10万の大軍をもって電撃作戦で侵攻、わずか5日で首都ソウルを制圧した。仁祖はソウル南方に退避して抗戦するも、45日で降伏した。
 その結果、仁祖はホンタイジの前で臣下として三跪九叩頭の礼を強制される屈辱を味わったうえ、朝鮮は11項目から成る従属的な講和条件をもって清の冊封に下ることとなり、この関係は以後王朝最期まで続く。かくして、仁祖反正はかえって朝鮮の国際的な地位を低める結果をもたらしたのである。
 一方、清に対する従属的な関係を強いられたはけ口を対日修好関係に求めるべく、仁祖は、光海君時代までは秀吉による朝鮮侵略の戦後処理を目的とした回答兼刷還使という名目での朝鮮通信使を正式の通信使に格上げさせつつ、在位中に三度派遣している。
 仁祖は26年在位した後、1649年に死去するが、以後の朝鮮国王はすべて仁祖の子孫の系統で占められることとなったので、清への従属という新展開とともに、爾後、王統的には「仁祖朝」とも呼ぶべき新たな歴史が始まると言える。

2016年4月13日 (水)

日本語史異説―悲しき言語(連載補遺)

五ノ二 倭語の特徴(続)

 前回、倭語の言語形態や語彙の特徴を見たが、ここで補足的に敬語体系についても触れておきたい。日本人自身がしばしば誤用する敬語体系の複雑さは、現代日本語にも認められる大きな特徴であるが、この特徴は上代日本語にすでに備わっていたことから、前段階の倭語から継承した特徴と見られる。

 言語地理的に見ても、二人称や状況に応じた表現法の上で実質的な敬語を持つ言語は世界に少なくないが、相手との関係性に応じ、動詞や名詞に至るまで詳細な敬語が要求される言語は多くない。知られているところでは、コリア語とバリ語ぐらいである。こうした敬語体系の発達は、支配層と被支配層の絶対的な非対称性に相応すると考えられる。

 では、倭語における敬語体系はどこに由来するかであるが、用言における丁寧語の存在はアルタイ諸語の特徴とされるところ、日本語がアルタイ諸語に属するかどうかについては論争がある。
 敬語体系が日本語と比較的類似しているのはコリア語であるが、現代コリア語は倭語とは距離のある新羅語ベースと考えられるので、倭語とコリア語の敬語体系が完全に同根のものとは思われない。
 そうなると、やはり従来論じてきたとおり、敬語体系も倭語の母体となった百済語由来のものと見るのが自然であろう。仮に百済語においてすでに複雑な敬語体系があったとすれば、その理由は百済が征服国家であるがゆえに、王室をはじめとする支配層と被支配層の身分差が強調され、そこから複雑な敬語体系が生じたと考えられる。

 同時に、倭語を公用語化した倭王権自体もまた、百済王子を実質的な祖とする外来系王朝であったとするならば、支配層と被支配層の身分差が強調され、なおかつこの王権はやがて神の化身とされる超越的な君主=天皇を戴く王朝に発展したことで、宮廷を中心にいっそう敬語体系が発達を遂げたと想定される。

2016年4月12日 (火)

私家版李朝国王列伝(連載第12回)

十二 光海君・李琿(1575年‐1641年)

 14代宣祖には長く嫡男が生まれず、その晩年は後継問題で揺れていた。庶長子の臨海君は性格上の問題から後継候補を脱落し、最有力候補は庶次子光海君だったが、これには明が長男でないことを理由に世子としての認証を拒否したため、後継者は容易に定まらなかった。
 そうした中、正室と死別した宣祖が嫡子にこだわり、後継問題の混乱を懸念する重臣らの反対を押して迎えた継室仁穆[インモク]王后が1606年に初の嫡男永昌大君を生んだことで懸念は的中し、永昌大君を推すグループ(小北派)と光海君を推すグループ(大北派)の対立が起きる。
 朝廷の党争に深入りしない主義だった宣祖が後継指名しないまま08年に死去すると、幼少の永昌大君ではなく、光海君を推す声が強まり、彼が15代国王に即位した。即位後の光海君は権力基盤を固めるため、永昌大君を処刑し、仁穆王后も廃位・幽閉するとともに、同母兄臨海君まで謀殺するという身内への容赦ない粛清を断行した。
 結果として、光海君政権は、大北派の天下となった。大北派とは、宣祖晩年に実権を握っていた東人派が南人派と北人派に分裂したうちの後者から、さらに先の後継問題をめぐって分裂した一派で、メンバーは古参官僚を主体としていた。
 光海君政権は、死の前年07年に第一回通信使を派遣して日本との和議に先鞭をつけていた父の方針を継承して、09年には成立間もない江戸幕府と正式に講和した。以後、この己酉約条が江戸時代を通じて朝日関係の基本的な修好条約として機能していく。
 また内政面では、李朝創始以来の税制であった貢納制を抜本的に改正し、これも父の在位中に食糧難対策として一年間の時限法として施行されたことのある大同法を正式に導入した。
 従来の貢納法では特産品による納税が困難であったことから、原則として土地ごとに定められた米で納税する方法に改めたのであった。この制度の施行は大地主層の両班や大商人の抵抗により当初は京畿道限定であったが、光海君の廃位後に拡大され、1677年までに一部地域を除いて、全国に拡大されていった。
 治世後期の課題は、女真系の後金(後の清)の攻勢に苦しむ明からの援軍要請であった。光海君は秀吉の朝鮮侵略時の明の援軍への謝意やかつて自身の世子冊封に反対した明への気兼ねから、援軍に応じたが、19年に大敗したため、後金と講和し、中立政策に転じた。これは間もなく後金が清として新たな中国大陸の覇者となったことからすると、先見であった。
 このように光海君は為政者として父以上の手腕を発揮したと言えるが、23年、雌伏していた西人派が幽閉中の仁穆王后を担ぎ出して決起し、光海君を拘束・廃位、江華島へ追放した。代わって、光海君の甥に当たる仁祖が即位した。
 このクーデターの結果、光海君は五代前の燕山君と並んで、後世の追贈によっても廟号を与えられない「暴君」として名を残すこととなったが、廃位直後に死亡した燕山君と異なり、20年近い配流生活を過ごし、66歳まで存命した。
 おそらく光海君が「暴君」とされたのは、異母弟や同母兄らを葬り去った身内への粛清のゆえであろうが、むしろ彼が息を吹き返した西人派によってあっけなく廃位に追い込まれたのは、「暴君」どころか、その権力基盤はなお磐石でなかったことを示している。
 光海君はその後も政治的には名誉回復されることはなかったが、これは以後の王統がすべて仁祖の子孫で占められたせいであろう。しかし現代の歴史的評価のうえでは、病的な逸脱行動が目立った燕山君とは異なり、二度にわたる日本の侵略で打撃を蒙った国土を立て直し、内政外交上実績を残した光海君は名誉回復されつつあるようである。

2016年4月 7日 (木)

仏教と政治―史的総覧(連載第5回)

二 インドにおける仏教政治

アショーカの「法の政治」
 仏教は根本分裂の後も、北インドでは引き続き勢力を拡大したが、インドにおける仏教は王朝体制それ自体ではなく、個々の国王の信仰心によって左右される傾向が強かった。マガダ国マウリヤ朝3代アショーカ王はその典型例である。
 彼は、父の2代ビンドゥサーラ王の死後、長男の王子を後継指名した父の遺言に反し、多数の異母兄弟たちを粛清して王位を奪取したとされる。王子とはいえ簒奪者だったアショーカの政権は安定せず、しばらくは反乱と粛清が続いたようである。
 内政が安定した治世9年目になると、当時マガダ国と覇権を争っていたインド亜大陸東海岸のカリンガ国に対して戦争を起こした。このカリンガ戦争で、アショーカは勝利したものの、10万人を越すとされる大量犠牲者を出したことを悔悟して仏教に帰依、不殺生を誓ったとされる。
 戦後のアショーカの統治は仏法に基づく「法の政治」と呼ばれ、国内的には仏教の保護、対外的には非戦政策を特徴とした。こうした平和政策は、アショーカ王個人の宗教的改心のみならず、カリンガ国の征服によりひとまずマウリヤ朝の覇権が安定を見たことからくる余裕政策でもあったのだろう。
 もっとも、アショーカ王が敬虔な仏教徒であったことは、自ら釈迦ゆかりの地を巡幸して教宣活動に当たり、仏法宣布に専従する大法官職を新設したことに現われている。また彼は釈迦没後200年を期して、首都パータリプトラに千人の比丘を集めて第三回結集を主宰した。
 ちなみに仏教の根本分裂はアショーカ王代のこととする説もあるが、それ以前のことだとすれば、アショーカは仏教教理の再統一を図らんとして、あえて政治介入し、自ら結集の音頭を取ったということも考えられる。
 ただ、アショーカ王も仏教を国教と規定するには至らず、伝統のバラモン教やジャイナ教、父のビンドゥサーラが信仰したと言われる宿命論的なアージーヴィカ教も平等に保護した。そうした釈迦由来の寛容さも「法の政治」の一環であったかもしれない。
 アショーカ王の「法の政治」はしかし、長続きしなかったようである。30年余りに及んだ治世末期の事績は不確かであり、政変により幽閉されたという説もある。おそらく、宗教的な「法の政治」は当時においてはあまりに急進的にすぎ、重臣たちの不安を高めたであろう。
 実際、アショーカの死後、マウリヤ朝はにわかに弱体化し、アショーカの孫で後継王と目されるダシャラタ王がマウリヤ帝国の碑文を刻んだ最後の王となるのである。その後のマウリヤ朝は王名や代数も諸伝により不統一となるほど、分裂・縮退の一途をたどったと見られる。 

2016年4月 6日 (水)

日本語史異説―悲しき言語(連載第14回)

五 倭語の特徴

 主として百済語の倭方言として形成された倭語とはいかなる特徴を持っていたのだろうか。当時の文字史料は残されていないため、その答えもまた推論となるが、現代日本語の最も直接的な祖語となるだけに、現代日本語にもその特徴は継承されており、そこから倭語を再構することも不可能ではない。

 まず言語形態として、現代日本語の特徴でもある膠着語構造は倭語において確立を見たと考えられる。以前にも論じたように、膠着語構造自体は伽耶語が流入してきた時に先行してもたらされていたのではあるが、伽耶語の影響は全般的ではなかったため、弥生語を膠着的に改変するまでは至らなかったのではないかと推察される。*弥生語がすでに膠着語構造だったと想定するなら別論であるが、私見は弥生語は膠着語ではなく、南方的な孤立語ではなかったかと推察する。
 一方、百済語は高句麗語の百済方言と言うべき位置づけにあったところ、高句麗語は伝統的な語族分類によれば、膠着語のツングース語族に属するとされる。*近年は、ツングース語族とは別に扶余語族を立てる見解もあるが、これによっても扶余語族は膠着語構造に分類される。となると、膠着語構造は百済語を介してその倭方言として出発した倭語にも組み込まれたであろう。
 その点、村山七郎は日本語の膠着語構造を象徴する目的格助詞「を」は、ツングース語族の諸語にも見られる対格接辞‐wəと同語源としているが、そうだとすると、動詞の目的語を表示するこの枢要な接辞は百済語を介して倭語に定着した可能性が高いだろう。

 次に語彙の点であるが、倭語の語彙の中核は百済語(高句麗語)に由来すると想定できる。しかし、明確に百済語として記録されている単語はないため、ここではわずかながらも残されている高句麗語との間接対比で見ると、数詞やその他の身近な単語に関して、日本語との共通性が窺える。

三:密(mil) み
五:干次(uc) いつ
七:難隠(nanun) なな
十:徳(tok) とお
兎:usaxam うさぎ
口:kuc くち
谷:tan たに
鉛:namr なまり

 さらに犬(いぬ)が、ツングース語族のindahun(女真語)、ina(エヴェンキ語)などと同語源であると見られることは、類推的に百済語もこれに近い単語を擁していたと考えられるところである。
 数詞や兎あるいは犬のように身近な動物に関する単語の共通性が高いことは、倭語と百済語の共通語彙は元来相当豊富であったであろうことを推測させるに十分である。

 ところで、日本語が南方系に同定される語彙のクラスターを持つことは以前の回で見たが、これを弥生語からの継承と見るか、それとも百済語の語彙にこうした南方系要素が豊富に含まれていたと見るかは難問である。
 百済は高句麗支配層の一部が馬韓領域まで南下・建国し、馬韓をなし崩しに征服・併合して領域国家に発展したものであるから、百済語には馬韓語が相当に取り込まれていたと見られるところ、馬韓は朝鮮半島でも西南部をカバーするので、その南方的習俗とともに、言語にも南方的要素が認められたとしても不思議はない。
 しかし、弥生語の保続性を正面から認めるならば、現代日本語彙にも残る南方的要素は百済語が転訛して倭語が形成されるに際して弥生語彙を多く摂取した痕跡として理解されることになるだろう。ここではその線で理解しておくが、絶対のものではない。

 こうしてみると、倭語は百済語を基本としつつ、そこに伽耶語の先行流入によって変容されていた可能性のある弥生語も取り込まれて形成されたと考えられる。その結果、北方系の言語形態をベースとしながら、南方系語彙が複合的にビルトインされた独自の言語が誕生することとなった。

2016年4月 2日 (土)

私家版李朝国王列伝(連載第11回)

十一 宣祖・李昖(1552年‐1608年)

 宣祖は伯父に当たる先代の明宗の世子が夭折し、他に男子なく、しかも父の徳興大院君も早世していたことから1567年、明宗の死去を受けて14代国王に即位した。10代での即位から40年余りに及んだその治世は四期に分けられる。
 第一期は治世初期の改革期である。民生に配慮する若い国王は先代明宗が外戚を排除して開始した儒教的改革政治を継承し、引き続き士林派を重用した。その過程で、文学科目を偏重した科挙制度の改正も主導した。
 だが、この第一期の善政も士林派内部の派閥抗争のせいで暗転する。治世第二期の75年頃から始まるこの抗争は、沈義謙率いる東人派と金孝元率いる西人派の間で発生した。この両派の対立の根底には朱子学内部の理論党争があった。
 ここでは詳細に立ち入らないが、東人派は保守的で朱子の学説を踏襲する李滉、西人派は朱子の学説に拘泥せず、より合理主義的かつ実践的な志向性を持つ李珥に近い派閥であった。両派の争いは理論党争にとどまらず、官職をめぐる権力闘争に発展した。
 当初は柔軟な李珥が両派の仲介役として対立をある程度止揚していたが、84年に彼が他界すると、押さえが利かなくなり、以後は西人派と東人派の間で政権が行き来する政情不安に陥った。
 そうした中、対日防衛という重要問題をめぐる両派の対立が国家の存亡に関わる事態を招来する。元来、李珥は強兵論を説き、死の前年には女真や日本の侵略に備えるべく、「養兵十万」を宣祖に進言していた。これに対し、保守的かつある意味では平和主義の東人派は反対した。この対立は秀吉の朝鮮侵略の直前に派遣された日本視察団にも反映され、当時の東人派政権は日本の侵略可能性を警告した西人派正使の報告を無視した。
 この政策判断の誤りは、実際に警告が現実のものとなったとき、高くつくこととなった。朝鮮側では「壬辰倭乱」と呼ばれる豊臣秀吉による第一次朝鮮侵略(文禄の役)で、軽武装だった朝鮮軍は日本の封建領主連合軍を撃退できず、首都漢城は陥落、宣祖も義州まで逃亡して明の介入を要請しなければならなかった。
 しかし、明からは朝鮮朝廷の頭越しに対日講和交渉をされたあげく、その交渉も決裂して、「丁酉倭乱」と呼ばれる秀吉の第二次侵略(慶長の役)を受けるが、これは秀吉の急死による日本軍撤退という僥倖に助けられた。こうして92年の「壬辰倭乱」に始まり、98年の「丁酉倭乱」で終わる宣祖治世第三期は朝鮮王朝創始以来最大の亡国危機の時代であった。
 これを乗り切った宣祖晩年の第四期は後継者問題で揺れるが、その詳細は次の光海君の項で言及する。この時期の宣祖の外交上の功績は、豊臣政権から徳川政権に交代した日本と早期に講和し、1607年に第一回朝鮮通信使を派遣したことである。この対日国交回復を最後の事績として、宣祖は翌年死去したのである。
 その治世は中近世の過渡期にあって内憂外患に見舞われたが、自らは党争に深入りすることなく長期治世を保ち、どうにか内政外交上の課題を処理して李朝体制の命脈をつないだことは、宣祖の功績であった。

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