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2016年3月24日 (木)

私家版李朝国王列伝(連載第10回)

十 明宗・李峘(1534年‐1567年)

 短期の在位で死去した仁宗に代わって13代国王に立ったのが、年の離れた異母弟明宗であった。彼は、中宗の継室文定王后との間の子であり、即位時まだ12歳であったので、文定が大王大妃となり、垂簾聴政を取った。
 彼女は、すでに中宗晩期から弟の尹元衡とともにいわゆる小尹派を形成し国政に介入していたが、これに対抗したのが仁宗の生母章敬王后の兄尹任の率いる派閥・大尹派であった。両尹氏は親類関係ながら、激しいライバル関係に立っていた。
 仁宗の即位で一時は大尹派が実権を握るが、明宗即位により小尹派は乙巳士禍を起こして大尹派を弾圧、文定王后を後ろ盾とする国王外戚として政権を独占した。小尹派政権では、首相格である議政領に上り詰めた尹元衡の野心的な妻鄭蘭貞も権勢を張った。
 垂簾聴政は表向き明宗治世前半期の8年で終了したが、文定はその後も65年に死去するまで宮中で影響力を保持したため、明宗時代は鄭蘭貞ともども女性が権勢を張る李朝でも異例の「女人天下」の時代となった。
 中でも鄭蘭貞は妓生から身を起こし、夫の正妻を謀殺して正妻の地位を略奪したとされ、朝鮮王朝史上「悪女」の一人と目される女性権勢家であった。政治的な手腕には一定評価のある文定王后も李朝では抑圧された仏教を擁護したため批判され、総じて「女人天下」は李朝史上否定的に評される。しかし明宗が指導力を欠く中、朝廷を安定させたのは「女人天下」であったことも事実である。
 明宗は文定が没した65年になってようやく実権を取り戻し、親政を開始する。手始めに尹元衡・鄭蘭貞夫妻の粛清を図り、夫妻を問責、自殺に追い込んだ。そして士林派を呼び戻して改革を試みるが、親政開始わずか二年にして死去してしまう。兄仁宗の二の舞であった。
 こうして20年以上に及んだ明宗の治世は比較的安定していたが、大きな成果はないまま終わった。明宗には男子継承者なく、弟の子である甥の河城君が14代宣祖となる。時代は中近世の曲がり角にさしかかっていた。

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