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2016年3月17日 (木)

私家版李朝国王列伝(連載第9回)

九 中宗・李懌(1488年‐1544年)/仁宗・李峼(1515年‐1545年)

 暴君と化した燕山君を廃位に追い込んだ1506年のクーデターは「中宗反正」とも称されるように、新たな11代国王に擁立されたのは燕山君の異母弟に当たる中宗であった。しかし、燕山君即位時と同様、18歳の年少国王であり、彼の長い治世は「反正」には程遠かった。
 対外的には、治世初期の10年に三浦の乱が起きている。これは、15世紀前半以降、半島南部の三つの海港(三浦)に居留し、事実上自治を行なっていた日本人(恒居倭)が起こした反乱を対馬領主宗氏が援軍した武力衝突事件であり、その背景には朝鮮当局による日本人への管理統制強化への反発があった。
 三浦の乱を鎮圧した後は内政混乱が待っていた。中宗は勲旧派のクーデターで擁立されたにもかかわらず、彼らの増長を抑えるため、政権初期には燕山君時代に弾圧された士林派を復活させたため、これを巻き返しのチャンスと見た彼らの権勢が増した。
 特に15年から19年にかけては儒学者でもある趙光祖を中心とする士林派が実権を握り、儒学の理念に基づく急進的な改革を断行した。趙光祖は儒教的理想主義者であり、その主張には当時の朝鮮王朝では現実離れした点が多々あったうえ、科挙によらない人材登用や偽勲者の追放など勲旧派の権益を脅かす施策を進めたため、19年、勲旧派の謀略により、趙光祖をはじめとする士林派が弾圧され、趙光祖も流刑の後、賜死となった(己卯士禍)。
 これ以降、中宗治下では弾圧、陰謀、反逆事件が相次ぎ、燕山君時代に勝るとも劣らぬ政情不安に陥った。指導力を欠く中宗の宮廷では、勲旧派と姻戚の権力闘争が絶えなかった。晩年には継室文定王后とその親族の政治介入を招いた。ただ、唯一の救いは、燕山君と異なり中宗は暴君ではなかったことである。そのため、彼は44年に死去するまで、38年の長期治世を保った。
 中宗の死の前日に譲位を受けた長男の12代仁宗は成均館で学んだ好学の君主で、故・趙光祖の理想に基づく政治の復活によって父王時代に凋落した国政の改革を試みたが、李朝歴代国王中最短の在位わずか8か月にして死去した。
 その急死には不審な点もあり、仁宗の政治改革を快く思っていなかった育ての親である文定王后による謀殺説も提起されるが、真相は不明である。ただ、仁宗の早世は続く13代明宗の生母でもある文定王后とその親族にとっては密かな慶事であったことはたしかである。

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