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2016年3月

2016年3月31日 (木)

日本語史異説―悲しき言語(連載第13回)

四 倭語の形成⑥

 前回まで、倭語の形成過程で重要な役割を果たした流入言語として伽耶語と百済語とを見たが、実はもう一つ、高句麗語がある。前回見たとおり、百済語は高句麗語の百済方言という性格を持ったが、高句麗語そのものも日本列島に流入している。

 とりわけ東日本、中でも両毛地方を中心とした関東から信州にかけてその傾向が顕著に見られる。この点、拙論『天皇の誕生』でも論じたように、この地方には高句麗的特徴を備えた方墳(その変容形態としての前方後方墳を含む)や、積石塚を墓制とする渡来勢力の足跡が多く見られる。
 詳しくは上掲論稿記事を参照されたいが、この推定高句麗渡来勢力は、4世紀後葉に高句麗が百済に惨敗し、一時国力が衰退した時に相当数の流民が生じ、かれらがはじめ能登半島付近に漂着し―実際、能登半島付近にも高句麗的特徴を備えた方墳が分布している―、そこから関東一円や信州にも拡散、東国以来の古い在地勢力を征服し、混血・土着していったものと見られる。
 特に信州の千曲川流域は高句麗が427年に平壌に遷都する以前の墓制の特徴を濃厚に持つ積石塚古墳が密集するところであり、軍事的にも相当強力な地域王権に発展したと考えられる。その結果、言語学的にも、信州の倭語の形成に関しては高句麗語の基層性を特殊に考慮する必要があるかもしれない。
 さらに、推定高句麗勢力の足跡は山陰地方の島根東部から岡山の久米郡にかけても見られる。この地域の高句麗勢力と先の東日本のそれとの関係性などは全く不明であるが、久米の勢力は後に畿内へ東遷していった伽耶系勢力に随行した可能性がある(拙稿参照)。だとすると、畿内に百済語が流入する以前に、その祖形とも言える高句麗語が畿内に持ち込まれていた可能性も想定できることになる。

 こうして地域限定的に流入してきた高句麗語は、在地の既存弥生語を置換してしまうほどに地域の支配的言語となったのかどうか、あるいは伽耶語のように弥生語と放散的に接合されるにとどまったかのかは不明である。
 ただ、高句麗的特徴が濃厚な信州(千曲川流域)では高句麗語の影響は強く、ある種の高句麗語倭方言のような転訛言語が後世まで残された可能性も想定できる。また関東に形成された東国方言にも、高句麗語的痕跡は認められたかもしれない。

 いずれにしても、高句麗語と百済語は同一言語の方言とも言える関係にあったから、どちらが基層にあったにせよ、倭語としての大差はなかったと考えることもできるであろう。このことは、倭語の東西方言の近似性として反映されてくるだろう。

2016年3月30日 (水)

日本語史異説―悲しき言語(連載第12回)

四 倭語の形成⑤

 倭語の形成に際して、伽耶語に続き少し遅れて流入してきたのが百済語である。これは5世紀頃から百済がライバル高句麗への対抗上、倭に接近し、百済‐倭の関係が緊密化したことで、百済人の渡来者が増大したためである。
 その点、筆者は5世紀後半以降、畿内の伽耶系王権が渡来百済人勢力によるクーデターにより打倒され、百済王子出身の渡来人を王に戴く百済系王朝が成立したと想定している(拙稿参照)。これは正史・通説ではないけれども、古墳時代後期から上代にかけて百済人の渡来者が増大したことは考古史料上も記録上も確証がある。

 ところで、百済語とはいかなる言語であったのだろうか。百済語もまた古代に絶滅言語となっているため、完全な再構は困難な状況にあるが、手がかりは百済が高句麗から分離したという建国伝説にある。すなわち、高句麗の始祖・朱蒙の三子温祚が百済を建国したというのである。
 温祚は王位継承争いに敗れ、馬韓の領域まで南下して百済を建てたとされる。その前身は馬韓諸国の一つとして『三国史』にも記される伯済国である。ということは、百済は征服王朝であり、支配層と被支配層に齟齬があったと見られる。
 その点、建国伝説に従う限り、高句麗出自の王家は高句麗と同じ扶余系民族であったが、臣民は馬韓族であったと考えるのが自然であろう。この点、中国史書『周書』において、百済王は自らを「於羅瑕」と称する一方、民衆は「鞬吉支」と呼んでいたという二重言語性が示唆されていることからも裏付けられる。
 ただ、扶余系支配層は王家とその血縁者に限られ、その余は重臣クラスも含めて馬韓系だったと推定されるから、百済語の二重言語性は次第に止揚され、おそらくは馬韓語彙を多く摂取した高句麗語の百済方言として整備されていったと想定できる。

 倭に流入してきた百済語とは、このように百済的に転訛した高句麗語だったと考えられる。少なくとも初期宮廷での公用語は百済語そのものだった可能性がある。ただ、それまでの伽耶語の影響を受けた倭語が完全に排除されたわけではなく、それに百済語がかぶさり、さらに転訛するような形で百済語倭方言のような新言語が形成された可能性を想定できる。
 この言語は畿内倭王権が6世紀を通じて揺るぎない全国王朝として確立されたことで、倭語として定着していく。その意味で倭語の形成において、百済語は最終決定的な要素となったと考えられるのである。

2016年3月28日 (月)

仏教と政治―史的総覧(連載第4回)

一 初期仏教団と政治

ヴァッジ国と根本分裂
 釈迦没後、マガダ国の首都ラージャグリハで仏教史上最初の宗教会議である第一回結集を大檀越として後援したのは、かのアジャータシャトル王であったと言われる。この時は、釈迦十大弟子の一人マハーカーシャパを座長として経典と戒律の整理編纂が行なわれた。
 しかし、この後、仏教団は当時の十六大国中、最も自由主義的な気風の強かった自治共和制のヴァッジ国に拠点を移したようである。このことは、釈迦没後100周年の第二回結集が同国の商都ヴァイシャーリーで開催されたことや、仏教僧団を意味するサンガ(僧伽)がヴァイシャーリーの同業者組合を意味する単語に由来することにも現われている。
 このヴァッジ国が、仏教史上の大分裂である「根本分裂」の舞台ともなる。「根本分裂」の時期については釈迦の生没年ともども諸伝による齟齬があり、確定しにくいが、第二回結集の後とされている。何をめぐる分裂であったかについても説が分かれるが、ヴァッジ国の比丘が提起した教団の戒律を緩和する修正規則をめぐる対立(十事問題)であるとする説が有力である。
 戒律のあり方をめぐっては、つとに釈迦存命中にも前回触れたデーヴァダッタによる五事戒律をめぐる騒動が起きていた。五事とは、一 村邑立入り禁止 二 托鉢戸別訪問の禁止 三 俗人的着衣の禁止 四 樹下瞑想の義務 五 魚肉・乳酪・塩の摂取禁止というものだが、釈迦はこの提案を却下したのだった。
 いずれも苦行に近いかなり厳しい戒律であり、反苦行論の釈迦には合わない方針だったと見られる。ということはそれだけ原初仏教団の戒律は緩やかであったことも意味しており、釈迦の自由主義的な思想が教義にも反映されていたと考えられる。結局、デーヴァダッタは分派活動を筆頭とする三逆の罪により生きながら無間地獄に落ちたとされるが、これが意味するのは教団からの破門であろう。
 戒律のあり方をめぐる論争は釈迦の存命中は破門で処理できたが、その没後にはより大きな内部対立とその結果としての根本的な分裂を引き起こしたのである。論争はとりわけヴァッジ国の比丘が提起した十の緩和された戒律のうち、在家信徒からの布施の是非をめぐって生じ、これを容認する大衆部と容認しない教団長老を中心とする上座部とが分裂したとされる。
 政治的にはヴァッジ国の自由な気風に染まった革新派とこれを忌避する保守派の対立である。これはこの頃、教団内部で在家信徒にも連なる末端比丘と権威的な上級比丘の階層化が進んでいたことをも示しているが、この対立は教団内部の階級闘争では済まず、現代仏教にまで持ち込まれた上座部仏教と大衆部から派生したとされる大乗仏教の恒久的な分裂を結果した。
 このような分裂は釈迦が意図しなかったことに違いないが、大分裂は大宗教の常であり、仏教もその例外に漏れなかった。ただ、仏教の大分裂はキリスト教におけるカトリック‐プロテスタント、イスラーム教におけるスンナ派‐シーア派の対立ほど政治的な紛争の要因とはならなかったことは注目されてよい。

2016年3月22日 (火)

仏教と政治―史的総覧(連載第3回)

一 初期仏教団と政治

マガダ国と仏教
 前回も触れたように、釈迦が布教に力を注いだマガダ国があった地方は、当時インドにおける政治経済的な中心地であったが、一方で、バラモン教的身分秩序が弛緩している地域としても知られていた。釈迦の原初仏教団が目を付けたのは、まさにその点であった。
 釈迦の同時代のマガダ国の国情については確実な史料はないが、釈迦が教化したビンビサーラやアジャータシャトルといった諸王はシシュナーガ朝という半伝説的な古王朝に属するとされている。
 ビンビサーラはその5代国王で、当初はライバルだったコーサラ国の内政を撹乱させる目的で、属国シャーキャ国公子だった釈迦の帰城を勧めたが、釈迦が断り、目的を達成できなかったとされる。その後、逆にビンビサーラ王を説き伏せて仏教に入信させてしまった釈迦の術策も相当なものだったようである。
 そのビンビサーラの子がアジャータシャトルであるが、彼は厳しい戒律の必要を進言して釈迦に却下されたことを恨み、反逆して分派形成を図った弟子デーヴァダッタの教唆により、父王を幽閉・餓死させて、王位を簒奪したとされる。だが、その後、悔悟して頭痛に苦しんでいたところ、釈迦の導きで治癒したため、これまた入信し、釈迦没後には盛大に供養したとされる。
 このように、釈迦はマガダ国の生々しい政治にも関与しながら、君主まで教化していくのである。シシュナーガ朝はやがてカースト制度上第四身分(労働者階級)のシュードラから出たナンダ朝によって滅ぼされたとされる。ナンダ朝の成立はまさに旧来の身分秩序の革命的転覆に近い出来事であった。
 ナンダ朝についても確かな史料は存在しないが、ギリシャの史料にはその強大な軍事力・経済力が記録されている。ただ、この王朝の下で仏教がどのような扱いを受けていたかはわからない。ナンダ朝は紀元前4世紀の末に、チャンドラグプタの挙兵によって滅ぼされ、マウリヤ朝が樹立される。
 チャンドラグプタの出自身分についてはシュードラ説とクシャトリア説の両説があり、これも確定できない。ただ、彼は仏教ではなく、仏教とは対照的に厳格な苦行の立場を採るジャイナ教の信者だったとする説が有力である。マウリヤ朝において仏教が隆盛化するのは、チャンドラグプタの孫に当たる3代国王アショーカの時代になってからである。

2016年3月19日 (土)

日本語史異説―悲しき言語(連載第11回)

四 倭語の形成④

 古墳時代以降の倭語形成において先行的な基盤言語となった伽耶語とはどんな言語だったのだろうか。残念ながら伽耶語は古代に絶滅言語となり、系統的な文字史料は残されていない。ただわずかに朝鮮三国の歴史を叙述する『三国史記』で、「旃檀梁」という語の語尾「梁」が「門」を意味する伽耶語として紹介されているのみである。
 その発音は漢字音からは導出できないが、中国側の史書『三国志』東夷伝では伽耶の前身弁韓諸国の言語は後に新羅が出た隣接する辰韓諸国のそれと類似していると記されている。ただし、より後世の『後漢書』東夷伝では両言語は異なるとされ、齟齬がある。
 この齟齬をどう解釈するかは難しいが、『三国志』が書かれた3世紀末頃から『後漢書』が書かれた5世紀前半までの間に伽耶語が独立的に分岐し、辰韓系言語との隔たりが生じていたことを反映するものと考えることもできる。
 歴史的には弁韓と辰韓は協調関係にあり、共に同時期に遼東半島方面から南下し、一時は漢江流域に共同して辰国を建てたとされる経緯もあり、習俗・言語が近似した集団だった可能性は高い。

 その推定が正しいとすると、弁韓系の伽耶語は辰韓系の新羅語とも類似していた可能性が出てくる。新羅語は新羅が半島統一を果たしたことで半島全体の公用語となり、これを基盤に高麗時代を経由して中期コリア語、さらには現代コリア語にも継承されている。
 この新羅語と倭語の関係性も問題となるところであるが、奈良朝の時代に新羅征討計画に関連して新羅語通訳の急養成がなされたという史実から、この時代の日本語と新羅語の間では通訳を必要としたことがわかる。
 現代日本語とコリア語の間にも引き継がれている若干の共通語彙の存在は、遡れば、倭語と新羅語そのものではなく、新羅語と類似していた伽耶語からの継承関係の痕跡かもしれない。この点で注目されるのは、感覚に関わる目・鼻・耳・口にまつわる単語の対応関係である。

目:nun か(額)[ぬ+か:目の辺?]
鼻::k'o ぐ(嗅ぐ)
耳:ky く(聞く)
口:ip う(言う)

 両者は感覚器官を表わす名詞とそれに関連する名詞ないし動詞という違いはあるものの、最も日常的な感覚にまつわる語彙に関して同一語源に由来する可能性を示唆する対応関係が現代コリアと日本語の間にも認められるのは、新羅語類似の伽耶語が倭語の基層にあった可能性を推認させるかすかな痕跡である。

2016年3月15日 (火)

仏教と政治―史的総覧(連載第2回)

一 初期仏教団と政治

原初仏教団の創立と布教
 シャーキャ国のガウタマ・シッダールタ公子、すなわち釈迦の出家動機の宗教的な説明としてよく知られている逸話として、「四門出遊」の伝承がある。すなわち公子が居城の東西南北の四つの門から郊外に出かけた際、各門の外で老人、病人、死者、行者に出会い、人生の苦しみを目のあたりにして、苦諦に対する目を開き、出家を決意したという話である。
 これは他の宗教でも見られる開祖美化譚の一種であり、より世俗的に解すれば、当時のアーリア人社会を支配したバラモン教―後のヒンドゥー教―の厳しい身分差別制度やその堕落を批判する新興宗教の潮流が起きており、大国の属国公子の身分に限界を感じていた若き公子もそれらに感化され、出家に至ったと思われる。
 このように既成宗教、あるいはそれを前提した社会制度に対する反発を核として成立する経緯は、大宗教ではよく見られる現象であり、既成ユダヤ教への批判に端を発したキリスト教や、ユダヤ‐キリスト教への反発を動因としたイスラーム教にも共通している。そのため、大宗教は創始時には危険視され、弾圧されたものも多い。
 仏教の場合は、開祖の貴種身分の出自を反映して、三大宗教の中では最も穏当な出発をしている。少なくとも、釈迦存命中に仏教が政治的に弾圧された形跡はない。ただ、釈迦の父シュッドーダナ公は釈迦の出奔と出家に当初難色を示し、帰城を求めたが、最終的には許し、身辺警護を兼ねて最初の信者となる五人の従者を付けたとされる。
 最初の仏教団細胞は釈迦にこの五比丘を加えたわずか六人の宗教サークルだったことになるが、苦行を否定する釈迦の「優しい」説法は人気を博し、布教を開始した仏教団は急速に信徒を殖やしていく。こうした急成長は教団の布教戦略の巧みさの賜物でもあった。
 仏教団が重点的な布教対象としたのがガンジス河中流域であったが、この地域にはシャーキャ国が従属したコーサラ国の他にも、マガダ国のような強力なアーリア部族国家がひしめいており、まさに当時のインドの政治経済上の中心地であった。
 とりわけ強力なマガダ国の布教には力を入れ、ビンビサーラとその子アジャータシャトルという二代の王を仏教に入信させることに成功している。釈迦はまさに権力中枢に布教照準を定めたのであり、それには彼が庶民でなく、貴種身分の出であったことが大いに助けとなったであろう。このように、仏教はそのイメージに反して、その出発点から権力志向的な側面が強いことは留目すべき特徴である。

2016年3月13日 (日)

日本語史異説―悲しき言語(連載第10回)

四 倭語の形成③

 倭語の形成において重要な役割を果たした基盤言語として、伽耶語と百済語があると考えられるが、このうち時代的に最初に到達したのは伽耶語であった。というのも、古墳文化を先駆的にもたらしたのは伽耶人だったからである(詳しくは、拙稿参照)。
 最初の伽耶人の渡来地点は九州北部であった。その推定時期は、邪馬台国が衰亡した3世紀末から4世紀初頭にかけてである。最初の伽耶人が渡来した時、九州は晩期弥生時代にあったが、かれらは形質上は自分たちと似た人間たちが別の言語を話しているのを発見した。この言語は弥生語であり、以前に論及したとおり、私見によれば、アルタイ系の特徴を持つ伽耶語とは異なる南方系言語の一種であった。

 もっとも、朝鮮半島南部の言わば方言であった伽耶語と弥生語の基層にある南朝鮮の古語がいかなる関係にあったかについては別途考察する余地はある。伽耶は元来北方から南下してきた韓族集団の弁韓から発展したもので、半島南部の先住民はその一部が日本列島に移住して弥生人となった南方系別種族だったと考えられる。
 この種族の命運は定かでないが、弁韓人に同化吸収されたとすれば、その過程でアルタイ系言語の弁韓人は言語上も南方系言語の語彙を一定以上摂取した可能性はある。そうした言語摂取のうえに伽耶語が形成されたとすれば、伽耶語にも語彙的には南方系要素が包含されており、伽耶人が日本に渡来した際に見出した弥生人の言語ともある程度の共通性が見られた可能性は存在するだろう。ただ、これはあくまでも推定の域を出るものではなく、伽耶語と弥生語は全く別言語であった可能性も否定できない。

 伽耶では後世まで統一国家が形成されず、小国分立の不安定な状態が続いたことから、流民を多く出す地域であった。そのため、伽耶人は3世紀末から4世紀半ば頃までを中心に日本列島各地に移住した。かれらの痕跡は西日本の広い範囲で地名に残されているが、このことはかれらが広く分散的に展開定住したことを意味する。
 その中でも、北九州を基点に何世代かかけて瀬戸内海を通過し、畿内まで到達した一派が在地豪族勢力に担がれる形で畿内に最初の統一王権を形成したと考えられる。これが後のいわゆるヤマト王権の先行王権となる(拙稿参照)。
 この王権の王家は伽耶系であったが、王国の公用語がいかなるものであったかは確定し難い。王家が在地勢力に深く同化していれば、公用語も在地言語―弥生語か―に統一されていた可能性が高いが、王廷での公用語と王民の日常語が別であった可能性もある。

 伽耶人は畿内王権以外にも、少なくとも吉備、丹波、日向に相当強力な王権を形成したが、その構造はいずれも畿内のそれと同様であったと考えられる。その他、より小さな地域王権を形成したケースや王権を形成せず一般住民として定着したケースなど多様な定住形態があった。
 いずれにせよ、かれらは先住弥生人を排除するよりは、かれらと混合し、言語的にも語彙については相当部分を弥生語から摂取したのであろう。一方、弥生人もより高度な文化を持ち込んできた伽耶人を受容し、言語的にも体系性の高い膠着語構造を受容した。
 そのようにして、北方系の伽耶語は南方系の弥生語と放散的に接合されて、新しい言語体系が形作られていっただろう。その際、すでに語彙的な方言分化が相当進んでいた弥生語の影響から、新言語の方言分化が発生したと考えられる。

2016年3月 9日 (水)

仏教と政治―史的総覧(連載第1回)

序 シャーキャ国

 キリスト教、イスラーム教と並び世界三大宗教の一つに数えられる仏教は、他の二つの宗教に比べ、俗世間から離脱した脱政治的なイメージが強いが、仔細に見れば決してそんなことはないことがわかる。特に、南アジアから東アジアにかけてのアジア大陸東半部では仏教は政治と浅からぬ関わりを今日でも有している。

 そのような仏教と政治の関わりを史的に総覧する旅が本連載の目的であるが、旅の出発点はやはり開祖釈迦が出たシャーキャ国である。周知のとおり、釈迦の名はこの部族名かつ国名でもあったシャーキャに由来するのであるから、このことからして仏教の政治性は明白である。
 シャーキャ国は紀元前6世紀前後の北インドにてアーリア人が形成した十六大国の一つで強大なコーサラ国の属国であり、その都カピラヴァストゥの位置は諸説あり帰一しないが、現在のネパール領内もしくはネパール国境のインド最北部にあったと推定される。そうした地理的関係から、シャーキャ族はアーリア系ではなく、チベット‐ビルマ系民族だったとする説もあるほどである。
 ただ、アーリア人は早くからヒマラヤ山麓方面まで進出していたと見られ、シャーキャ族もそうしたアーリア人の北方辺境支族だった可能性が高い。しかし、その周辺にはチベット‐ビルマ系民族も居住しており、シャーキャ国は今日のネパールのようにアーリア系とチベット‐ビルマ系が混在する国だったと見る余地は十分にある。
 そうした点で、仏教は民族的・文化的な境界線上の混成的な辺境国家で誕生した宗教だと言える。辺境性という点では、キリスト教やイスラーム教もユダヤ人とアラブ人が交錯する中東辺境地で誕生しており、辺境性は三大宗教に共通する特徴とも言える。

 さて、当時の北インドのアーリア人諸国家には大きく分けてコーサラ国のように王が支配する王制のほかに、専制的な王を持たず部族集会で選出された執政が政治を行なう共和制の二種があったが、シャーキャ国は共和制であった。
 族長(ラージャン)を集会で選挙する部族集会制はアーリア人の伝統であったので、シャーキャ国のような共和制はアーリア人の伝統に忠実で、古風な慣習を守っている保守的な国であるとも言えた。しかし完全な民主制ではなく、王制では王を意味するラージャと呼ばれる貴族が存在した。釈迦、本名ガウタマ・シッダールタもそうしたラージャの生まれで、有力氏族ガウタマ氏の公子であった。
 青少年期には裕福で不自由のない生活が保障されたが、所詮シャーキャ国は大国の属国という従属的地位にあった。よく知られているように、シッダールタ公子は29歳の時、恵まれた貴族生活を捨て、出家の道に入るわけだが、その動機は純粋に宗教的な霊感ばかりでなく、辺境の小さな属国の公子という地位に将来性を感じられなくなったという俗世間的な要因が全くなかったと断言できるだろうか。実際、シャーキャ国は釈迦の晩年、コーサラ国の王位を簒奪した王子ヴィドゥーダバによって攻略され、民族もろとも殲滅されてしまうのである。

2016年3月 5日 (土)

アフガニスタン―引き裂かれた近代史(16)

five 9・11事件とその後

nightカルザイ政権の10年
 9・11事件後の有志連合軍の攻撃でターリバーン政権が崩壊すると、国連の支援―実質は米国の影響下―で、暫定行政機構が設立され、ハミド・カルザイが議長に就任した。
 カルザイはザーヒル・シャー国王を支持したパシュトゥン系有力政治家一族の出で、内戦中はムジャーヒディーンに戦闘参加はせず、パキスタンを拠点に資金提供者として活動した。有力部族長でもある彼は米国の協力者として急浮上し、暫定政権トップに据えられたのであった。04年には正式に大統領に就任し、09年の再選をはさんで10年にわたり政権を維持した。
 カルザイ大統領は保守的ながら、海外で近代教育も受けた知識人でもあることを反映し、その政権は近代化を受容する穏健なイスラーム主義政権という性格を持った。そして米国の軍事的な後ろ盾のもとに長期に及ぶ内戦で疲弊した国土の回復と崩壊した国家機構の再建を課題としたが、それに立ちはだかったのが、パキスタン領内に退避し、カルザイ政権を米国の傀儡とみなす反政府武装組織として破壊活動を継続するターリバーンであった。
 他方、09年に発足したアメリカのオバマ政権は01年の開戦以降の作戦で2000人近い戦死者を出していた米軍を2011年7月以降撤退させる方針を示した。11年5月には逃亡中のビン‐ラディン容疑者を米軍特殊部隊がパキスタン国内で射殺したと発表されたが、9月には和平交渉機関の長に就任していたラバニ元大統領がターリバーンにより暗殺され、和平交渉は頓挫、撤退プランは危うくなった。
 米軍撤退を急ぐオバマ米政権とカルザイ政権の関係もこじれ、13年にはアフガンの頭越しにターリバーンとの交渉を試みたオバマ政権にカルザイ政権が反発し、和平交渉は暗礁に乗り上げた。そうした中、14年には任期満了をもってカルザイ大統領が退任、新たな大統領選でアシュラフ・ガニーが当選した。
 これはアフガニスタン共和制史上初の平和的な政権交代としての歴史的意義を持った。ガニー新大統領は世界銀行での勤務経験を持ち、暫定政権で財務相としても評価の高かった国際派テクノクラートである。このような履歴者がトップに就くのは、近年国家再建中の途上国でよく見られる現象であり、その成否が注目される。
 2014年は治安権限が国際治安支援部隊からアフガニスタン政府に返還された画期でもあるが、オバマ政権は15年、米軍のアフガニスタン駐留を16年以降も継続する方針に転換した。これは同政権が任期内でのアフガニスタン和平を断念し、次期政権の宿題として引き渡したことを意味している。
 これに対するターリバーン側では、かねて逃亡中だった最高指導者オマル師が13年に病死していたことが15年になって公式発表された。これをめぐってターリバーン内部でも動揺と新指導部への反発が見られ、ビン‐ラディンの死亡によるアル‐カーイダの弱体化とあいまって、中東のイスラーム過激派組織イスラーム国がアフガニスタンにも浸透する動きを見せている。こうして、アフガニスタン情勢は中東情勢とも連動し、混沌としてきている。
 見てきたように、アフガニスタンの近代は大国の覇権主義によって、また国家の枠に収まり切らない伝統的な部族主義によっても大きく引き裂かれ、依然として修復できないままである。国家なるものの暴力性と限界性とが最も露にされているのが、アフガニスタン近代史であるとも言える。(連載終了)

2016年3月 3日 (木)

私家版足利公方実紀(連載最終回)

二十三 足利義尋(1572年‐1605年)

 足利義尋〔ぎじん〕は最後の室町将軍足利義昭の庶長子であるが、義昭は正室を持たなかったため、義尋が嫡男扱いとなる。だが、彼は1歳の時、父が信長に京都を追放され、幕府が崩壊した後、信長の人質となったうえ、おそらくは将軍家嫡流の断絶を狙った信長の策により、直ちに出家させられた。
 僧籍に入った義尋は、若くして興福寺大僧正にまで栄進したが、突如還俗して、後に宮中に出仕し後陽成天皇の妃となる古市胤子と結婚し、二人の息子をもうけたとされる。還俗時期は、第一子の生年(1601年)からすると、父義昭が没した慶長二年(1597年)以降かと思われる。
 突然の還俗理由は定かでないが、大名として遇され、秀吉の御伽衆に編入されていた父の死没を受け、継嗣として改めて足利宗家再興を図った可能性もなくはないし、彼にはその資格が一応はあった。
 だが、秀吉も関ヶ原の勝者となった家康も、足利氏後裔としては古河公方家の流れを汲む喜連川氏を立て、義尋には関心を示さなかった。そして義尋自身も慶長十年、32歳にして没してしまうのである。結局、義尋の二人の息子たちも仏門に入り、生涯非婚を通したため、義昭系の足利将軍家嫡流は断絶することとなった。
 義尋については同時代の史料も乏しく、将軍子息でありながら、その生涯・人物像も不詳で影のような存在である。室町幕府滅亡期に将軍庶子として生を享けた者の悲運を体現していたのであろう。ほぼ同世代の一門女子ながら、喜連川氏の実質的な祖となる足利氏姫とは命運が分かれた。

二十四 足利氏姫(1574年‐1620年)

 古河公方家に男子継承者なく、天正十一年(1583年)の5代公方足利義氏の死をもって後任公方は任命されなかったことは前回述べたが、家臣団は義氏の存命中の9歳の娘氏姫を城主として擁立した。この時点では、関東の支配者は後北条氏であったから、おそらく氏姫擁立には後北条氏の了解もあったのであろう。
 しかし、周知のとおり、後北条氏は天正十八年(90年)の豊臣秀吉による小田原征伐により滅亡し、秀吉の天下となる。その際、秀吉は氏姫に対して古河城立ち退きを命じつつも、古河公方家の存続は認め、天正十九年(91年)、氏姫を旧小弓公方足利義明の孫に当たる足利国朝と結婚させ、古河公方家の再統合を実現させた。
 ただ、この政略結婚はうまくいかなかったようで、秀吉から新領地として一族本貫にも比較的近い下野の喜連川を安堵され、入部した国朝に対し、氏姫は古河に固執・在住し続け、別居状態となった。
 そうするうちに、文禄二年(93年)、国朝が秀吉の朝鮮出兵に参陣する途中で死去したことから、氏姫は国朝の弟で氏姫より六歳年下の頼氏と再婚させられることとなった。これも政略婚だったが、二人の間には、慶長四年(1599年)に嫡男・義親が誕生している。
 頼氏は慶長五年の関ヶ原の戦いには参陣しなかったが、勝者の家康に祝賀使を派遣したことが評価され、秀吉から安堵された3500石に1000石加増のうえ、喜連川藩としての存続を許され、初代藩主となる。
 しかし、氏姫は相変わらず喜連川入りせず、生涯を閉じるまで息子の義親、孫で2代藩主となる尊信とともにその御所周辺300石余りに切り縮められた古河の領地に在住し続けた。これは家康に対する無言の抵抗とも言える行動であったが、天下人といえども、足利氏直系の氏姫らを強制的に転居させることをあえてしなかった。
 こうして信長、秀吉、家康と「三英傑」すべての治世を経験した氏姫は時の天下人の政略によってではあったが、分裂していた古河公方家の統合者となり、かつ足利氏の流れを汲む近世喜連川氏へのつなぎ役を果たした中世足利氏最後の実質的な当主と言える人物であった。
 ところで、家康が喜連川氏を丁重に遇したのは、源氏長者を仮冒していた徳川氏がその不十分な格式を補うためにも、なお関東一円に威信を残していた「純正」な源氏系名門足利氏の存在を必要としていたこともあったと考えられている。
 そのため、喜連川氏は石高上は旗本級にもかかわらず、徳川氏とは主従関係にない客分的な地位のまま参勤交代義務も免除された特例的な大名格(享保年間以降は諸侯待遇)という半端な地位に置かれ続けたのであった。
 ちなみに、「純正さ」という点では、室町幕府11代将軍足利義澄の次男義維の末裔に当たる平島公方家のほうが足利将軍家直系と言えたのであるが、こちらは以前述べたとおり、蜂須賀氏の徳島藩客分にとどまり、その存在を迷惑視した藩からも冷遇されたうえ、19世紀には京都へ退去し、紀州徳川家の援助などに頼って生計を維持する窮状に置かれたのとは明暗を分けた。
 その対照性は明治維新後まで続き、実子で継いできた平島氏はすでに浪人化していたこともあり、華族への叙任努力も実らず、士族身分すら得られないまま、京都近郊で帰農し、平民身分となったのに対し、養子で幕末までつなぎ、血統的には絶えていた喜連川氏は新たな身分制度で子爵に叙せられ、近代足利氏の祖となった。 

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