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2016年2月11日 (木)

私家版足利公方実紀(連載第16回)

二十 足利義維(1509年‐1573年)/義栄(1538年‐1568年)

 足利義維〔よしつな〕は11代将軍義澄の次男である。年齢上は長男であったが、何らかの事情で異母弟の義晴が嫡男たる長男とされたため、当初は将軍候補から外され、京都を出奔した10代将軍義稙の養子として連れ出され、阿波国で養育されていた。
 転機が訪れたのは、時の管領細川高国と対立した細川晴元・三好元長に義晴の対抗馬として担ぎ出された時である。大永七年(1527年)、晴元らが高国を打ち破ると、義維は次期将軍含みで堺入りし、堺公方を称した。
 この時期の堺公方の実力については説が分かれ、「堺幕府」と呼ぶべき対抗政権がすでに成立していたという説もある。ただ、朝廷では義維を次期将軍が歴任する慣例となっていた従五位下左馬頭に叙任する一方で、改元に際してはまだ京都に存続していた義晴の幕府にだけ打診するなど、義維の権力は固まっていなかった。
 そうするうち、享禄四年(1531年)の高国敗死を契機に、義晴との和睦策に転じた晴元とあくまでも義維を擁立しようとする元長の亀裂が生じた。両人の対立は武力衝突に至ったが、晴元側は法華宗徒の元長に反感を抱く一向一揆を動員するという策で天文元年(32年)、元長を追い詰め、自害に追い込んだ。
 この後、後追い自害を止められた義維は阿波に退避し、堺公方は5年ほどで崩壊した。それから30年以上にわたる閉塞の時代を経て、再び義維にとって転機となったのは、義晴を継いだ13代将軍の甥義輝が暗殺された永禄の変である。
 ところが、不運にもこの頃、義維は脳卒中と見られる病気の後遺症で将軍職に就ける身体ではなかったため、実権を握った「三好三人衆」の後ろ盾を得て、嫡男義栄〔よしひで〕を14代将軍に立てることに成功、自身は後見役となった。
 しかし、「三人衆」政権は脆弱で、義栄擁立は幕臣総体の支持を受けていなかったうえ、「三人衆」と松永久秀との対立抗争が勃発したため、義栄は摂津国にとどまったまま入京することもできなかった。
 そうした中、とみに頭角を現していた織田信長が義輝の弟義昭を擁して京に攻め上ってくる。「三人衆」は抗戦するも、信長軍に駆逐され、抜け目のない久秀は信長に服従したことで、「三人衆」政権はあえなく崩壊してしまう。
 病身だった義栄は結局、一度も入京することのないまま、永禄十一年(68年)、在任わずか7か月にして死去してしまう。死亡した日付も場所も不明という。京都から放逐されたり、出奔したりした将軍は幾人かいたが、京都に一度も入京できなかった将軍は彼だけであり、それほどに室町幕府は風前の灯となっていた。
 義栄に先立たれた義維は阿波に帰国し、さらに5年ほど存命、失意のうちに死去した。彼の家系は次男の義助が継いで、阿波の平島を本拠地に平島公方を称し続けるが、その後は阿波に入部してきた蜂須賀氏の客将として細々と命脈をつなぐばかりであった。下克上ならぬ上落下の典型である。

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