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2016年2月

2016年2月28日 (日)

アフガニスタン―引き裂かれた近代史(15)

five 9・11事件とその後

night9・11事件と対米戦争
 内戦中は米国からも支援を受けたムジャーヒディーンの外国人義勇戦士から出たビン・ラーディンを指導者に戴くアル・カーイダが過激な反米活動に転じた契機は、91年のイラク戦争(湾岸戦争)で、サウジアラビアが米軍の駐留を認めたことへの反発にあったとされる。
 ビン・ラーディンはサウジアラビア王家と対立して祖国を出国した後、当初は89年以来イスラーム原理主義的な軍事政権が続いていたアフリカのスーダンを拠点としたが、スーダンから追放されると、アフガニスタンのターリバーン政権の客将的な立場で招かれ、アフガンを拠点とするようになった。
 ビン・ラーディンはターリバーン最高指導者オマル師とも個人的な親交で結ばれており、政治・軍事顧問的な役割も果たしていたと見られるため、ターリバーンとアル・カーイダの一体性が強まり、ターリバーン政権は正確には「ターリバーン‐アル・カーイダ連合政権」という特異な性格を帯びていたとも言える。
 アル・カーイダはアフガニスタン移転以前の93年の世界貿易センタービル爆破事件を皮切りに、国際的な反米破壊活動を本格化し、アフガン移転後も引き続き、駐ケニア・タンザニア米大使館爆破事件(98年)や米艦コール襲撃事件(00年)などを次々と引き起こした。
 ビン・ラーディンは98年と00年の事件で指名手配され、国連安保理からもターリバーン政権に対して身柄引き渡し要求決議がなされたが、政権は頑強に拒否した。そうした中、01年9月、未曾有の米国中枢同時多発爆破事件(9・11事件)が発生する。
 この事件でアル・カーイダは明確な犯行声明を出さなかったにもかかわらず、米国政府は即座にアル・カーイダの犯行と断定し、ターリバーン政権に改めてビン・ラーディンの引渡しを求めた。しかし、ターリバーン側は明確な証拠の欠如を理由に拒否した。
 こうした経緯からこの事件をめぐっては米国の自作自演説まで提起されたが、ターリバーン側が改めてアル・カーイダ庇護の強固な姿勢を示したことは、米国の軍事攻撃に大義名分を与えることとなった。
 米国とその有志連合軍は事件から一か月も経たない10月上旬に、アフガン攻撃に着手した。この合同軍事行動はクウェートを侵略したイラクを相手取った湾岸戦争時の多国籍軍によるものと比べても法的根拠は薄弱であったが、単なる爆破テロではなく、歴史上初の米国本土中枢への航空(機)攻撃という手法が拡大解釈されて「侵略」とみなされたのである。
 ともあれ、受けて立ったアフガニスタンにとっては、19世紀の英国、20世紀のソ連に続き、今度は米国という大国を相手取った戦争であった。しかし、今度の戦争は最も短期で決着せざるを得なかった。ターリバーン政権の軍事力は余りにも貧弱で、圧倒的な航空戦力を擁する連合軍には太刀打ちできなかったからである。
 この戦争は二か月で勝敗がつき、ターリバーン政権はあえなく崩壊した。だが、政権最高指導者オマル師もビン・ラーディンも捕らえることができなかったという点では、有志連合は「敗北」したとも言える。
 ここには、アフガニスタンの歴史地理的な特殊性が関わっている。19世紀に英国が戦略的に引いた旧英領インドとアフガニスタンの分割線デュアランド・ラインは有名無実化しており、ターリバーンもアル・カーイダも現在はアフガニスタン‐パキスタン間の国境線となった同ラインを越えてパキスタン側のパシュトゥン人居住地域へ退避し、活動を継続したと見られるからである。
 こうして、9・11事件後の米国もまた、旧ソ連とは異なる形ながら、アフガニスタンとの泥沼の紛争に引き込まれていくことになるのである。それは同時に、全世界がテロリズムとそれへの対抗戦争(対テロ戦争)に巻き込まれる時代の始まりであった。

2016年2月25日 (木)

私家版足利公方実紀(連載第18回)

二十二 足利晴氏(1508年‐1560年)/義氏(1541年‐1583年)

 古河公方体制終末期の4代足利晴氏・5代義氏父子時代(1535年~83年)は、室町幕府ではおおむね12代義晴から最後の15代義昭にかけての時代と重なっている。すでに見たように、この時代はまさに戦国時代只中であり、幕府も三好氏や織田氏のような下克上大名勢に乗っ取られていたが、事は関東でも同じであった。
 古河公方家では3代高基の時代に高基の弟の義明が小弓公方を分離独立させていたが、間もなく高基に対して、元服した嫡男晴氏が反逆して内紛となった。同時に関東管領山内上杉家中でも家督をめぐる内紛が起き、古河公方家・関東管領家同時内乱(関東享禄の内乱)に発展した。
 ただ、この内乱自体は2年ほどで片が付き、古河公方家側では享禄四年(1535年)、晴氏が勝利した。古河公方の地位を確立した晴氏は続いて天文四年(38年)、叔父に当たる小弓公方義明を討つべく時の後北条氏当主北条氏康と同盟し、義明を攻め滅ぼした(第一次国府台合戦)。
 こうして当時関東地方を席巻しつつあった後北条氏の力を借りたことは、ちょうど最後の将軍義昭が織田氏の力を借りた時のように、高くついた。晴氏は継室として氏康の異母妹に当たる芳春院を送り込まれ、その間に生まれたのが次男の義氏である。
 野心的な氏康はこうした婚姻戦略にとどまらず、古河公方家そのものの乗っ取りも狙っていたため、次第に晴氏と不和になる。両者はついに武力衝突に至り、晴氏は関東管領上杉氏と連合し、先に先代北条氏綱によって奪われていた本来扇谷上杉氏の居城だった河越城の奪還を図る。
 晴氏側は関東の主要な大名のほとんどを参集させた大勢力だったにもかかわらず、氏康側は膠着状態に持ち込んで相手の戦意を緩めたところを偽りの降伏申し入れで油断させたうえ、夜討ちをしかけるという奇襲作戦で勝利したとされる。結局のところ、これも室町最後の将軍義昭が織田信長にしかけた包囲網作戦と同様、百戦錬磨の下克上大名の実力を見誤った無謀な戦であったのだった。
 ただ、勝利した氏康も晴氏を処刑することはせず、しばらくは形ばかりの古河公方として留任させていたが、甥に当たる義氏がある程度成長した天文二十二年(52年)に至り、義氏を5代古河公方に擁立し、晴氏を幽閉した。
 しかし、この決定に不満を爆発させた義氏の異母兄で長男の藤氏は上杉氏や後に上杉氏の家督を継ぐ長尾景虎(上杉謙信)の支援を得て反乱決起し、永禄四年(61年)、いったんは義氏追放に成功する。しかし翌年反攻に出た後北条氏により捕らえられ、数年後に消息を絶った(後北条氏の手で抹殺されたとも言われる)。
 こうして義氏は古河公方の地位を奪回できたが、生母から後北条氏の血を引く彼の地位は徹頭徹尾後北条氏によって支えられた傀儡公方に過ぎず、短い中断をはさんで30年以上に及んだその在任中、実権を持つことはなかった。
 天正十一年(83年)に義氏が死去した時、後を継ぐ男子はなく、後任者は立てられなかった。こうして鎌倉公方時代から通算すれば九代(藤氏を数えれば十代)240年近くに及んだ関東の足利公方体制は終焉した。すでに室町幕府もおよそ10年先行して滅亡しており、これにより足利氏支配体制そのものが名実ともに終焉したことにもなる。

2016年2月20日 (土)

アフガニスタン―引き裂かれた近代史(14)

four イスラーム主義の台頭

nightターリバーン革命
 ターリバーンの起源については半ば伝説化されており、詳細は不明であるが、ムジャーヒディーンから派生してきたことは間違いない。その初代最高指導者ムハンマド・オマルはパシュトゥン系元ムジャーヒディーン戦士で、戦闘で右目を失明したまさに独眼流の伝説的戦士であった。
 その生涯も詳細不明だが、主にパキスタンでイスラーム宗教思想を身につけ、非公式な宗教指導者となり、ムジャーヒディーン内部の抗争から第二の内戦が本格化した94年頃、同志らとともに郷里に近いカンダハールで活動を開始したとされる。
 そのようなマイナーな集団がなぜわずか数年で政権勢力にまで成長できたのかも謎だが、前回言及したように、旧ムジャーヒディーン内最大勢力だったヘクマティヤル派を見切ったパキスタン諜報機関が支援に乗り出し、当初は米国さえも代替勢力として好意的に見ていたことが決定的だったと考えられる。
 他方で、ラバニ大統領の軍閥連合政権はすでに内部崩壊しており、ターリバーンへ鞍替えする戦士らも相次ぎ、急速に勢力を拡大したターリバーンは早くも96年9月には首都カーブルを制圧して政権を掌握、オマルを指導者とするアフガニスタン・イスラーム首長国の樹立を宣言する。これは、歴史的に見れば、1973年共和革命以来の近代化の流れを逆流させるイスラーム反動革命としての意義を持った。
 とはいえ、この「国」を承認したのは、後ろ盾のパキスタンのほか、サウジアラビア、アラブ首長国連邦のみであり、国際社会においてはヘクマティヤル派を除く旧ムジャーヒディーン軍閥連合が一つにまとまった「北部同盟」としてアフガニスタンを代表し続けたが、「同盟」の支配地域は北部に限局され、しかも次第に狭められていった。
 ターリバーンはイスラーム法の厳格な施行を旗印とする原理主義勢力と見られ、当初は長期の内戦に疲弊した国民からも社会秩序の再建を期待されたが、その期待はすぐに恐怖に変わった。ターリバーンはカーブル制圧に際し、まだ国連施設に庇護されていた旧社会主義政権のナジブッラー元大統領を拘束したうえ、裁判なしに惨殺したように、反人道的衝動を持った全体主義的集団としての体質を露にし始めたからである。
 実際、2001年に米国の攻撃を受けて崩壊するまでの約五年間のターリバーン政権下では、娯楽や服装の規制、女性の抑圧などの全体主義的な統制がイスラームの名において大々的に行なわれるとともに、少数民族を中心とした住民虐殺や反対派に対する大量処刑などが日常化した。
 その実質をどう評価するかについて議論はあり得るが、ターリバーンが単純な宗教原理主義勢力でないことは明らかであり、パシュトゥン民族主義的傾向を含め、見方によってはイスラームの名による新たなファシズムと呼ぶべき性格を認めることもできる。
 ターリバーンはまた、スーダンからアフガニスタンに拠点を移したサウジアラビア人の元ムジャーヒディーン戦士ウサーマ・ビン・ラーディンと結託し、彼が率いるアラブ系イスラーム過激派組織アル・カーイダを庇護した。この結びつきは、ターリバーンをアル・カーイダが世界で展開する反米破壊活動のスポンサーにし、2001年の米国中枢同時多発テロ(9.11事件)というクライマックスへと導くことになる。

2016年2月18日 (木)

私家版足利公方実紀(連載第17回)

二十一 足利義昭(1537年‐1597年)

 室町幕府最後の将軍となった足利義昭は12代将軍義晴の次男として生まれ、幼少の時に興福寺の僧となったが、兄の13代将軍義輝が永禄の変で三好三人衆らに暗殺され、三人衆が擁立した14代義栄も一度も入京できず死去するという異常事態の中、にわかに将軍のお鉢が回ってきた。
 永禄の変の後、反三好派幕臣に援護されて奈良を脱出、還俗した義昭は上洛の機を窺う。最終的に、当時朝倉氏家臣だった明智光秀を介して、美濃の実力者として台頭してきた織田信長と接触し、彼の支援も取り付けたうえ上洛を果たし、永禄十一年(1568年)、15代将軍に就任する。
 しかし信長の力を借りたことで、以後の義昭は三歳年長で「室町殿御父」の称号を帯びた信長との関係に振り回されることになる。当然にも幕府の再興を構想していた義昭と自ら天下人たることを狙っていた信長の思惑は初めから食い違っており、両人の衝突は避け難かった。
 義昭の権限を制約して傀儡化しようとする信長に対し、義昭の不信感は募る。義昭は仇敵の三好三人衆とさえ連携し、信長包囲網を形成して対抗した。元亀三年(1572年)に信長が実質的な挑戦状である十七か条の意見書を送り付けるに至り、両人の対立は決定的となり、義昭は挙兵する。
 しかし長く仏門にあった義昭が寄せ集めの包囲網で百戦錬磨の信長を撃破できるはずもなく、頼みの綱だった武田信玄の死も打撃となり敗北、京都を追放される。以後、京都を含む畿内の支配権は信長が掌握する。この天正元年(1573年)をもって室町幕府は実質上終焉したものと解されている。
 とはいえ、畿内以外の地では義昭の支持勢力はまだ健在であった。義昭はそうした勢力の一つ毛利氏を頼り、その領国備後の鞆に逗留する。ここで義昭は毛利氏の庇護のもと、信長追討・復権を目指して外交工作を展開するため、「鞆幕府」とも呼ばれるが、実態は中国地方の実力者毛利氏の持ち駒であった。
 義昭に再びチャンスがめぐってくるのは、他でもない本能寺の変で信長父子が自害に追い込まれ、織田政権が崩壊した時である。信長追討の意思が固いことや、変の実行者である明智光秀との旧主従関係から、義昭自身が変の黒幕であったとする説もあるが、確証はない。
 ただ、信長討伐を決意した光秀が義昭を完全に蚊帳の外に置いたとも考えにくく、義昭が事前に何らかの情報を得ていた可能性は高いと思われる。しかし光秀が変の直後に羽柴秀吉に討たれ、新たに秀吉が政権を掌握したことで義昭の計算も狂ってしまう。
 その後、まだ形式上は将軍の地位にあった義昭は秀吉側と折衝して上洛の機を窺うが、老獪な秀吉は義昭を体制に取り込みつつ、無力化することを考えていた。その結果、義昭は最終的に天正十六年(1588年)に将軍辞職、山城国にわずか一万石の領地を与えられ、秀吉の御伽衆編入という名誉職待遇となった。
 ちなみに義昭は秀吉と同年の生まれで、没年は一年早く、その生涯はほぼ重なっている。天下人だった者が一庶民から成り上がった同年齢の天下人の臣下に下ったのは、まさに下克上の時代にふさわしい歴史の皮肉であった。

2016年2月17日 (水)

資本主義終末期の始まり

 約二年前の本欄で、「新興国が軒並み下降期に入っていく頃、資本主義はいよいよ終末期を迎えることになる。それまでまだ相当の期間が残されているから、その間、新興国は投資対象として最後のフロンティアを提供するだろう。」と暢気なことを書いたが、想定していた終末期は意外に早まるかもしれない。
 今年に入っての世界同時株安は、新興国全般の不振を背景とした底の深いものであることが明らかとなりつつある。直接には米国の利上げによる資金引き上げが影響しているが、それ以上に中国をはじめとする新興諸国経済が早くも下降期に入ったようだ。
 元来、これら諸国は先発資本主義諸国のように歴史的な時間をかけた資本蓄積に基づかず、外資依存の身の丈に合わない背伸びで急成長してきたため、ちょうど無理な背伸びに耐え切れず、姿勢が崩れた体のような状態になっているのだ。新興諸国経済のドミノ倒し的な崩壊は先発諸国経済にも打撃として跳ね返ってきて、資本主義総体の内部的な瓦解を促進するはずである。
 それに照応する革命運動の胎動が始まるかどうかについてはまだ予断を許さないが、従来社会主義を事実上のタブーとしてきた資本主義総本山アメリカで社会主義者を公称する大統領選候補者が出現し、とりわけ若い世代の間で旋風を巻き起こしていることは小さくない注目に値する。こちらは暢気に観戦しよう。

2016年2月13日 (土)

アフガニスタン―引き裂かれた近代史(13)

four イスラーム主義の台頭

night軍閥連合政権の破綻
 1992年4月に社会主義のPDPA政権が具体的な受け皿のないまま崩壊すると、イスラーム系反政府武装勢力ムジャーヒディーンが首都に殺到し、無政府騒乱状態に陥った。前述したように、同勢力は民族別に分かれた多数の武装集団の寄せ集めであったから、このような混乱は当然の帰結であった。
 とはいえ、この時点での反政府勢力は、多数派パシュトゥン人系の軍閥グルブッディン·ヘクマティヤルが率いるイスラーム党ヘクマティヤル派、イスラーム学者ブルハヌッディン・ラバニと軍閥アフマド・シャー・マスードが率いる少数派タジク人系のイスラーム協会を二大勢力とし、これにPDPA政権の軍人ながら半独立的な部隊を率い、政権末期に寝返った少数派ウズベク人ラシッド・ドスタムのイスラーム民族運動が合流する構図に収斂しつつあった。
 混乱の中から大統領に就任したのは、イスラーム協会のラバニである。少数民族タジク人出身ながら彼に白羽の矢が立ったのは、イスラーム主義政党として比較的古い歴史を持つイスラーム協会の権威とラバニの学識によるものと思われるが、同協会主導の政権には他派からの強い反発があった。
 とりわけヘクマティヤル派である。ヘクマティヤルは元来、PDPA党員からの転向組であったが、70年代を通じてパキスタンの軍事政権とサウジアラビアから多大の支援を受け、自派に多くの海外戦士を引き入れて最強集団を作り上げていた。当然、彼の強硬姿勢の背後にはパキスタンとサウジがあった。
 93年にはヘクマティヤルがラバニ政権の首相に就任することでいったんは妥協が成立したが、事前準備もないにわか作りの軍閥連合は当然にも長くは続かなかった。
 同年11月にヘクマティヤルは首都を離脱し、ドスタム派と同盟してラバニ政権打倒に乗り出すのである。こうして94年以降、新たな内戦が本格化し、軍閥連合政権は事実上崩壊する。今度の内戦は旧ムジャーヒディーン内部の対立に起因するものであり、内戦は第二段階に入った。
 この間、暫定政権構想を提示していた国連の介入的調停も有効に機能せず、ドスタム将軍の寝返りで首都脱出を阻止され、国連施設に逃げ込んだナジブッラー元大統領の身柄を保護せざるを得なくなったことも、国連の立場を苦しくした。
 その一方、水面下では、それまで強力に支援していたヘクマティヤルの政治手腕と宗教的な権威のなさにも失望し、彼を見限ったパキスタン諜報機関(軍統合諜報部)の支援の下、新たなイスラーム武装組織の結成がなされつつあった。これが、後に政権を握る過激集団ターリバーンである。

2016年2月11日 (木)

私家版足利公方実紀(連載第16回)

二十 足利義維(1509年‐1573年)/義栄(1538年‐1568年)

 足利義維〔よしつな〕は11代将軍義澄の次男である。年齢上は長男であったが、何らかの事情で異母弟の義晴が嫡男たる長男とされたため、当初は将軍候補から外され、京都を出奔した10代将軍義稙の養子として連れ出され、阿波国で養育されていた。
 転機が訪れたのは、時の管領細川高国と対立した細川晴元・三好元長に義晴の対抗馬として担ぎ出された時である。大永七年(1527年)、晴元らが高国を打ち破ると、義維は次期将軍含みで堺入りし、堺公方を称した。
 この時期の堺公方の実力については説が分かれ、「堺幕府」と呼ぶべき対抗政権がすでに成立していたという説もある。ただ、朝廷では義維を次期将軍が歴任する慣例となっていた従五位下左馬頭に叙任する一方で、改元に際してはまだ京都に存続していた義晴の幕府にだけ打診するなど、義維の権力は固まっていなかった。
 そうするうち、享禄四年(1531年)の高国敗死を契機に、義晴との和睦策に転じた晴元とあくまでも義維を擁立しようとする元長の亀裂が生じた。両人の対立は武力衝突に至ったが、晴元側は法華宗徒の元長に反感を抱く一向一揆を動員するという策で天文元年(32年)、元長を追い詰め、自害に追い込んだ。
 この後、後追い自害を止められた義維は阿波に退避し、堺公方は5年ほどで崩壊した。それから30年以上にわたる閉塞の時代を経て、再び義維にとって転機となったのは、義晴を継いだ13代将軍の甥義輝が暗殺された永禄の変である。
 ところが、不運にもこの頃、義維は脳卒中と見られる病気の後遺症で将軍職に就ける身体ではなかったため、実権を握った「三好三人衆」の後ろ盾を得て、嫡男義栄〔よしひで〕を14代将軍に立てることに成功、自身は後見役となった。
 しかし、「三人衆」政権は脆弱で、義栄擁立は幕臣総体の支持を受けていなかったうえ、「三人衆」と松永久秀との対立抗争が勃発したため、義栄は摂津国にとどまったまま入京することもできなかった。
 そうした中、とみに頭角を現していた織田信長が義輝の弟義昭を擁して京に攻め上ってくる。「三人衆」は抗戦するも、信長軍に駆逐され、抜け目のない久秀は信長に服従したことで、「三人衆」政権はあえなく崩壊してしまう。
 病身だった義栄は結局、一度も入京することのないまま、永禄十一年(68年)、在任わずか7か月にして死去してしまう。死亡した日付も場所も不明という。京都から放逐されたり、出奔したりした将軍は幾人かいたが、京都に一度も入京できなかった将軍は彼だけであり、それほどに室町幕府は風前の灯となっていた。
 義栄に先立たれた義維は阿波に帰国し、さらに5年ほど存命、失意のうちに死去した。彼の家系は次男の義助が継いで、阿波の平島を本拠地に平島公方を称し続けるが、その後は阿波に入部してきた蜂須賀氏の客将として細々と命脈をつなぐばかりであった。下克上ならぬ上落下の典型である。

2016年2月 9日 (火)

日本語史異説―悲しき言語(連載第9回)

四 倭語の形成②

 日本語に北方的な要素をもたらした新たな渡来勢力は、文化的には古墳文化を持ち込んだ勢力と一致する。この勢力は人類学的な形質上は弥生時代に農耕をもたらした先行渡来勢力と大差なかったと考えられるが、言語的には南方系の前者に対して、明瞭に北方系の言語を携えてきたのであった。上代以降の日本人の主流を成しているのは、先住民を混血・吸収したこの後発渡来勢力の末裔たちである。

 このことは、現代日本人のY染色体及びミトコンドリアDNA双方のハプロタイプから裏付けることができる。
 すなわちY染色体にあっては、O1b2である。これは日本人とコリアン双方に最大で40パーセント程度も認められる共通因子である。*これに対し、アイヌ人とも共有するD1bは東日本で多く、西日本では比較的少ない。Y染色体は父系遺伝因子であるから、このことは日本人とコリアンの父系がかなりの程度重なり合うことを示している。
 他方、母系遺伝因子であるミトコンドリアDNAにあっては、D4が最大グループである。これもコリアンと共通する型であり、母系もコリアンと重なり合うことがわかる。沖縄人やアイヌ人と共有するM7aは少数派である。
 ちなみに、中国人(漢民族)の場合、Y染色体ではO2、ミトコンドリアDNAではD5が多いというように、日本人と漢民族とは父系・母系ともにずれが見られるが、コリアンではO2が最多であり、父系が漢民族と相当程度重なることを示している。

 こうしてみると、現代日本人とコリアンは遺伝系譜上も重なる部分が多いことがわかり、日本に北方的な言語・文化を持ち込んだ勢力はやはり朝鮮半島人であったと推定される。
 ところが、現代語同士で比較しても、日本語とコリア語は文法構造の近似性を除けば、語彙の共通性に乏しく、系譜関係を立証できないというアポリアが生じる。
 この謎を解く最もわかりやすい答えは、渡来勢力が日本に「帰化」し、南方系の日本語を吸収して本来の母語であるコリア語を忘却したためというものである。これはある意味常識的で、ナショナリズムとも両立するので、通説的な説明として通りやすい。
 管見によっても、この説明に半分は同意できる。すなわち、現代日本語に南方系弥生語の語彙が多く継承されているとすれば、その限りでコリア語とは語彙の相違が生じるからである。*ただし、コリア語にも南方系要素が認められるという説があることは既述した。
 
しかし、管見によれば、日本語とコリア語の齟齬には、もう一つ別筋からの理由がある。

 この点、筆者は以前、別連載『天皇の誕生』において、この問題に別の角度から一つの回答を示したことがある。
 それをおおまかに要約すれば、古墳文化をもたらした勢力の故地は朝鮮半島南部であるが、区分すれば初期は伽耶諸国、次いで百済ということになる。そして最終的に日本の天皇家を頂点とする支配層に納まるのは、百済王族の一派であったと説いた。
 この仮説に沿って言語移動を考えると、最初に持ち込まれたのは伽耶語であったが、最終的には百済語が主流となり、少なくともある時期までは、宮廷における公用語は百済語(その倭国方言)であったということになる。

 これに対して、現代コリアの基層には新羅語があるため、伽耶語/百済語の系譜を引く日本語とコリア語は近似していながら相違するという微妙な関係を結果したと考えられるのであるが、ここでまた別のアポリアにぶつかる。それは伽耶語や百済語は絶滅言語となって久しく、それを復元するだけの言語史料が一部の地名や人名を除き、存在しないことである。しかし、これについては中国側の同時代史料や言語地理的な推察に基づいてその概要を推論することは可能である。

2016年2月 6日 (土)

アフガニスタン―引き裂かれた近代史(12)

three 社会主義革命と内戦

nightソ連軍撤退から政権崩壊へ
 1979年のソ連軍侵攻以来、PDPA政権は本来は非主流的な旗派が主導することになったが、最初のバブラク・カルマル政権は優柔不断な性格が強く、内戦終結への道筋を描くことはできなかった。他方、ソ連でも85年にミハイル・ゴルバチョフが新たな書記長に就任したことで、アフガン政策にも変化が現われる。
 ゴルバチョフは泥沼化したアフガニスタンからの段階的な撤退を構想していたため、アフガニスタンには自力で政権を維持できるより強力な指導者が必要と考えていた。そこでカルマルに代わる新指導者として白羽の矢が立てられたのが、ムハンマド・ナジブッラーであった。
 元来は医師であるナジブッラーも旗派の出身で、人民派の独裁期には亡命に追い込まれたが、ソ連軍侵攻後に帰国を果たし、カルマル政権下では秘密警察・国家保安局(KHAD)長官として政治犯の取締りに当たっていた。KHADはソ連のKGBに匹敵する政治保安機関であり、カルマル長官の下で同機関は肥大化し、大量人権侵害が断行されていた。
 ソ連がこのような恐怖の人物を抜擢したのは、ソ連のアフガニスタン介入で中心的役割を果たしていたKGBとも直結する保安畑の人間なら強力な指導性を発揮できると計算されたからであった。実際、ナジブッラー政権は表向き国民和解と民主化を演出する一方で、自らを大統領に据えたPDPA体制は固守するという二重的な政策で巧みな滑り出しを見せた。
 新憲法の下、ソ連軍撤退の直前に行なわれた複数政党制に基づく議会選挙では、PDPAは下院で過半数を割り込んだが、協力政党との連立で政権を維持した。しかし、この選挙を反革命武装勢力ムジャーヒディーンはボイコットしたため、内戦の終結にはつながらなかった。
 一方、ソ連軍のアフガニスタン撤退は、アフガニスタン・ソ連に、パキスタンとアメリカを加えて88年に署名された四か国間のジュネーブ協定に基づき、同年10月から順次開始され、翌年2月までに完了した。
 しかし肝心な内戦終結の見通しが立たず、かつナジブッラー政権が独力で体制を守り切るだけの軍事力を持たない中でのこの早期撤退は一方的なものでありすぎ、事実上はソ連がPDPAをほぼ見限ったことを意味していた。
 軍事的な後ろ盾を失ったナジブッラーはムジャーヒディーンへの懐柔策として、90年にはアフガニスタンがイスラーム国家であることを明記した憲法改正及びPDPAのマルクス‐レーニン主義路線の放棄と祖国党への党名変更を主導したが、78年革命体制そのものの打倒を目指すムジャーヒディーン側には何ら通用しなかった。
 91年にはソ連自体も保守派クーデターの失敗を契機に解体されたうえ、新生ロシアのエリツィン政権がアフガニスタンへの経済援助の停止という最後通告を突き付けると、軍事作戦の展開にも支障を来たしたナジブッラー政権は命脈を絶たれる。92年3月、ナジブッラーは国連が提案する暫定政権への権力移譲を表明し、翌月、辞任した。
 こうして78年革命以来のPDPA体制は終焉したが、とにもかくにも15年近くにわたり統治してきた体制を内戦が終結する前に梯子を外す形で瓦解させたことは、その後のアフガニスタンの破滅的な混乱の元を作った。このことに関して、内戦に介入した米ソ、パキスタン及び紛争調停者としての国連の責任は重いと言えるだろう。
 一方、PDPAもロシア革命後のボリシェヴィキ政権のように結束して軍事力を固め、外国が干渉する内戦に勝利して体制を確立するだけの力量を持ち合わせてはいなかった。結局、PDPAはソ連の傀儡的代理政党としての地位を最後まで脱することができなかったのである。

2016年2月 3日 (水)

私家版足利公方実紀(連載第15回)

十九 足利義輝(1536年‐1565年)

 足利義輝は、12代将軍義晴の嫡男として、天文十五年(1546年)、11歳で将軍位を譲られた。しかし当時は義晴が近江に避難中であったため、就任式も近江で執り行われた。実権は義晴が死去する同十九年(50年)までは父が保持していた。
 義晴は前回見たように、細川晴元配下から下克上により台頭した三好長慶との抗戦の最中、病死したのであった。父の死後、自立した義輝は長慶討伐と和睦の可能性を天秤にかけていたようだが、結局、強大な軍事力を持つ長慶を討伐することはあきらめ、永禄元年(58年)、六角氏の仲介で長慶と和睦し、ようやく京都に落ち着くことができた。
 将軍としての義輝は、父と同様、決して無能ではなく、地に墜ちていた将軍の権威を回復することに努めたが、時代状況がそれを許さなかった。長慶は和睦後、形式上は将軍の臣下たる御相伴衆に編入されたが、彼はそうした従属的な地位に甘んじてはいなかった。
 長慶は晴元を最後に没落した細川管領家に代わって幕府の実権を掌握したため、以後の体制は三好政権と称されることもある。三好氏は信濃源氏の一族小笠原氏庶流で、本来の所領は阿波にあったが、次第に勢力を増し、長慶の頃には畿内一円も勢力圏に収める大大名に成長していた。
 そのため、長慶を信長に先立つ最初の下克上的戦国天下人と評する向きもあるが、これにはいささか過大評価が含まれている。長慶の勢力の大きさは認められるが、上述のように将軍義輝も決して長慶の傀儡的な地位に満足せず、独自に戦国大名の統制を図り、張り合ったため、長慶の下克上はさしあたり幕府機構内部で主家の細川氏を凌駕したことにとどまっていたからである。
 従って、長慶自身が死去するまでは、義輝と長慶の主導権争いの時代とも言える。それに加え、長慶存命中から三好氏自体の衰亡も始まっていた。永禄四年(61年)に実弟で三好政権確立の功労者でもあった十河一存〔そごうかずまさ〕が急死し、同六年(63年)には嫡男で武将としても有能だった一人息子義興も失った。
 こうした一族有力者の死の空隙を突いて、反三好勢力の攻勢が強まったが、これを撃退する中で、長慶腹心の松永久秀の権勢が増大する。出自不詳の久秀は、いかなる経緯でか三好氏の家宰に納まり、一代で立身した典型的な戦国大名であった。
 最晩年の長慶は失意の中で精神にも異常を来たしていた形跡があり、すでに執権者として機能しておらず、永禄七年(64年)には自らも病没してしまう。これを奇禍として、義輝は将軍親政体制を再構しようと立ち上がるが、これに立ちふさがったのが「三好三人衆」であった。
 三好三人衆とは、三好氏一門の三好長逸〔ながやす〕・三好宗渭〔そうい〕と岩成友通の三人であったが、かれらは長慶の養子として家督を継いだ義継(十河一存の子)が若年のため、これを後見する形で実権を握った集団指導陣であった。
 野心家の彼らは久秀の子久通と共謀したうえ、永禄八年(65年)、義輝を二条御所に急襲、暗殺するクーデターに出た(永禄の変)。室町将軍が臣下に暗殺されるのは、6代義教の「嘉吉の変」以来二例目である。室町幕府における将軍の存在の軽さを改めて露呈した事件であった。

2016年2月 1日 (月)

日本語史異説―悲しき言語(連載第8回)

四 倭語の形成①

 日本語は文法構造上アルタイ諸語に近い膠着語の性質を持っていることは定説であるが、こうした北方的な言語構造は、いつどのようにもたらされたのか。この点、村山説をはじめ有力な学説は、弥生時代における言語変容の結果と見る点で一致している。
 しかし、前回論じたとおり、弥生語は縄文語とは別系統ながら南方系であったとするなら、日本語の北方的要素がもたらされたのは、弥生時代ではなく、次の古墳時代以降と推論されることになる。

 このように北方的要素がもたらされた時期はともかく、その内容についてはかつてコリア語との関連性に焦点が当てられ、「日朝同語源論」も提唱されたが、研究が進むと、日本語とコリア語は基礎語彙に相当な齟齬が見られ、共通祖語を持つとは立証されないことが明らかになった。
 この点、村山説では日本語の北方的要素はコリア語よりも、満州語をはじめとするツングース諸語に近いとされ、イヌ(犬)のような基礎単語をはじめ、いくつかの具体例も挙げられている。
 ただ、現代コリア語は、かつての朝鮮三国のうち新羅がはじめて半島統一に成功し、新羅語が全国的な公用語となって以降の中世コリア語を基礎に発達してきたものであるため、それ以前、百済や高句麗を含めた朝鮮各国で使われていた絶滅言語との比較対照もしなければ、完全ではない。
 この点、高句麗及びそこから分離した百済を建てた勢力はいずれも扶余族と呼ばれる民族であるが、かれらの言語・扶余語の系統については議論があり、ツングース系あるいは独自の扶余語族を想定する説もある。とすると、日本語の北方的要素については、こうした扶余語との関連性も視野に入ってくる。ただし、高句麗語や百済語はわずかな断片しか残されていないため、比較対照が困難なことが壁となっている。

 いずれにせよ、私見によると、南方的な弥生語に北方的な文法構造が埋め込まれ、再編される形で現代日本語の直接的な祖語となる言語が完成されたものと考えられる。この日本語の直接的な祖語のことを、ここでは「倭語」と呼ぶことにする。
 こうした倭語は、古墳時代を通じて多様に方言分化しながら、東北北部と北海道、沖縄を除く列島全域に浸透していき、飛鳥時代以降、まずは上代日本語として確立を見たものと考えられる。こうした倭語の発展プロセスについては、次回以降検討する。

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