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2016年1月

2016年1月30日 (土)

アフガニスタン―引き裂かれた近代史(11)

three 社会主義革命と内戦

night内戦の長期化
 1978年の社会主義革命以前、アフガニスタン史上近代主義的な大改革は王政時代のアマヌッラー国王による改革、共和革命後のダウード政権による改革と二度あったが、いずれもイスラーム保守層からの強い反発・反乱を招いている。PDPA社会主義政権もその例に漏れなかった。
 しかし、社会主義政権はさらに踏み込み、地主階級の部族長に所有された封建的な大土地制度にメスを入れ、大土地の無償接収と農民への再分配という農地改革を性急に断行したことで、部族長勢力の虎の尾を踏むことになった。
 歴史的に見れば、西洋に遅れて19世紀から近代化が進んでいたロシアでも10月革命は時期尚早であり、そのことが以後のロシア史にも影を落としていくが、20世紀後半を過ぎてもまだ中世的な部族主義が地方では克服されていなかったアフガニスタンではなおさらのことであった。
 反革命派の蜂起は革命直後から始まり、革命翌年の79年には全国に拡大し始めていたが、同年末のソ連軍侵攻はこうした反革命蜂起に反ソ抵抗運動の性格を与え、続く80年代をほぼ内戦一色に染めてしまった。
 反革命武装組織はムジャーヒディーン(聖戦遂行者)と総称されたが、最後まで統一戦線にまとまることはなく、主として民族ごとに組織され、戦闘は軍閥化した部族指導者が指揮して、ばらばらに行なわれた。戦闘に参加した組織は代表的なものだけでも優に10を越えるありさまであった。
 このようにばらばらな半封建的ゲリラ組織を、当時アメリカと並ぶ軍事大国となっていたソ連が粉砕するのはたやすいことのはずであったが、そうはならず、想定外の長期戦となったことにはいくつか理由があった。
 一つは、アフガニスタン部族勢力が山岳ゲリラ戦を得意としたことである。これは、19世紀にアフガニスタンと交戦した英国が敗北したのと同様の理由であった。
 もう一つは、西アジアへのソ連の覇権拡大を懸念したアメリカがムジャーヒディーンに対して、軍事援助を行なったことである。特に81年にソ連とイデオロギー上も厳しく対峙するレーガン共和党政権が発足すると、ムジャーヒディーン支援は本格化した。
 加えて、アフガニスタンとは真逆に、アフガン革命の前年77年にイスラーム保守的な反共親米の軍事独裁政権が樹立されていた隣国パキスタンも、軍諜報機関を通じてムジャーヒディーンを支援した。
 さらにアフガニスタン反革命戦争は反イスラーム無神論勢力(PDPA政権プラスソ連)からの解放戦争として宣伝されたため、ムジャーヒディーンには中東アラブ世界からも義勇兵が参加するようになった。その中には、後にイスラーム過激派組織アル・カーイダに結集するアラブ人勢力もあった。
 こうして、ソ連軍は拡大する反革命勢力を掃討することに手間取り、長期化したアフガニスタン内戦は、冷戦期における米ソの典型的な代理戦争の一例となっていくのである。特に最大で10万人余りの軍を投入したソ連にとって、アフガニスタンはアメリカにとってのベトナムとなった。

2016年1月28日 (木)

私家版足利公方実紀(連載第14回)

十八 足利義晴(1511年‐1550年)

 足利義晴は、先代の10代将軍義稙に将軍の地位を追われた11代将軍義澄の子として、幼少期には赤松氏、次いでこれを下克上により破った浦上氏のもとで庇護・養育されるなどの苦労を味わった。
 そんな彼に将軍のお鉢が回ってきたのは、義稙が管領細川高国と対立して出奔・解任されたことがきっかけである。高国の政略により、義晴が次期将軍に決まり、永正十八年(1521年)、わずか10歳余りで12代将軍に就任した。
 しかし、すぐにまた苦難が始まった。細川管領家の新たな内紛に巻き込まれたのである。今度の内紛は細川政元の三養子の一人として、かつて高国と争った澄元の息子晴元と高国の間のものだった。晴元は配下の三好元長と組んで義晴より年長ながら何らかの事情で弟の扱いを受けていた義維〔よしつな〕を引っ張り出して将軍に立て替えようと画策していたのだった。
 大永七年(1526年)の桂川原合戦で高国勢が敗北すると、義晴も高国らとともに近江に逃れた。しかし、頼みの綱の高国は享禄四年(1531年)、義維の拠点であった堺への進攻に失敗し、自害に追い込まれる。
 これにより、義維が将軍に就任するのは時間の問題と思われたが、間もなく晴元と元長が対立、元長が討たれたことで事態が一変する。その状況を利用し、義晴は近江に幕府を移して、本格的な統治を開始する。
 その後、六角氏の仲介で晴元と和睦して京都に帰還するも、幕府の実権を握ろうとする晴元との主導権争いはおさまらず、義晴は京都と近江を頻回に出入りするありさまであった。そうした中、天文十五年(1546年)に息子の義輝に譲位し、大御所となった。
 最終的には晴元と和睦するが、この頃晴元配下から下克上的に台頭した三好長慶(元長嫡男)に晴元が敗れると、再び近江に逃れた義晴は京都奪回作戦のため出陣するも、その途上で病没した。
 こうして義晴は25年間在位したものの、その大半を都落ちと入京の反復に費やし、政権を安定させることはできなかった。時はすでに戦国時代に突入しており、将軍自身が戦争に明け暮れる戦国大名化していたのだった。
 ちなみに、義晴の同世代人としては、織田信長の父で織田氏(弾正忠家)台頭の基礎を築いた織田信秀や、徳川家康の祖父で、短い生涯の間に松平氏を躍進させた松平清康、後北条氏全盛期を築いた後北条氏3代目北条氏康らがいる。
 義晴自身は幕府機構の再編に取り組む一方、外交政略の手腕や武将としての技量も備えており、決して無能な将軍ではなかったが、戦国大名勃興期と重なる時期の足利将軍としての宿命から逃れることは最後までできなかった。

2016年1月23日 (土)

日本語史異説―悲しき言語(連載第7回)

三 弥生語への転換②

 前回、大陸から弥生人がもたらした新しい言語=弥生語は従来前提されてきたような北方系ではなく、それ自体も縄文語とは別系統の南方系ではないかと仮説を立てた。そう考えると、現代日本語にも継承されている南方的要素は縄文系のものと弥生系のものと二元性を持つのか、それとも一元的に弥生系のものなのかが問題となってくる。

 この問題は縄文語がどの程度現代日本語にも継承されているのかということにも関わる。一般論として言語寿命はさほど長くないことを考慮すれば、縄文系の要素が数千年の時を経て現代まで保続されていると想定することは現実的ではない。
 一方で、弥生人の到来により一気に縄文語が絶滅したと想定することもまた現実的ではなく、縄文語の駆逐は地域的な偏差を伴いながら漸次進行していったものと考えられる。その場合、まず弥生人が最初に上陸・定着した九州北部では最も早くに縄文語は弥生語に置き換わったであろう。
 その後、弥生人は先住縄文人を征服・通婚しながら、本州を東へ進んでいっただろうが、関東・東北への到達は遅れたと見られるので、大雑把に言って東日本では縄文語は比較的長く保続されたものと見られる。また西日本でも弥生人に駆逐された一部縄文人が山間部に逃亡し、山地民として存続したとすれば、西日本の山地民の間でも縄文語は長く保続されたかもしれない。
 しかし、弥生化が西から東へ順次進行していくにつれ、次第に弥生語が縄文語を凌駕する形で、少なくとも北関東・東北南部までは弥生語地帯となっただろう。それ以降、東北南部(今日の福島県付近)を大まかな分岐点として弥生語系地域とそれ以北の縄文語系地域に分かれていく。後者の言語帯は後にエミシの地とされる領域と重なり、このうち北海道地方の方言が近世アイヌ語の母体となる。

 このように整理してみると、現代日本語から析出される南方系要素は縄文語ではなくほぼ弥生語からの継承と考えることができ、それは同時に、縄文語の系譜を引く近世アイヌ語における南方的要素との齟齬部分を成す。他方、アイヌ語ともわずかながら共有する要素の部分はかすかな縄文語由来の痕跡であるかもしれない。

2016年1月20日 (水)

私家版足利公方実紀(連載第13回)

十六 足利政氏(1462年‐1531年)/高基(1485年‐1535年)

 足利政氏は、古河公方初代足利成氏から生前譲位を受けて2代古河公方に就任した。享徳の乱を戦い抜いて古河公方の地位を確立した父から有利な条件で家督を譲られたはずの政氏であったが、彼は継承者の役割を適切に果たすことはできなかった。
 まず延徳元年(1489年)の就任当時、すでに関東管領上杉氏の内紛に巻き込まれていた。上杉氏は享徳の乱の間は幕府方で結束していたものの、乱終結後は宗家の地位にあった山内上杉家とこれに対抗する扇谷上杉家の間に紛争が勃発した。この長享の乱は途中、扇谷家家宰・太田道灌の暗殺をはさんで長引き、永正二年(1505年)にようやく両家和睦に至った。
 これで一息ついたのもつかの間、翌永正三年(1506年)には成長した嫡男の高基が譲位を要求し、古河公方の地位をめぐって父子間で争いになった。これは、山内家当主の関東管領上杉顕定の調停により政氏留任の方向で和解した。
 しかし、その顕定が山内家自身の内紛で敗死すると、その後継者をめぐりまたも父子は対立、戦闘に発展した。曲折の末、永正九年(1512年)に至って高基は政氏を引退に追い込み、念願の公方の地位を手にした。
 政氏は本拠の古河城を退去し出家したうえ、久喜で余生を送ることになる。彼はこの久喜館に甘棠院〔かんとういん〕という臨済宗寺院を開いた。この寺院は、徳川時代になっても、最終回で述べる徳川氏の足利氏敬重策の一環として朱印地を与えられる格式をもって遇され、今日まで存続している。
 政氏は、正統的な公方‐関東管領体制の復活を構想していたとされるが、それにふさわしい政治的手腕に欠け、むしろ文化活動に傾斜していた。一方、政氏と争い続けた嫡男高基のほうは政治的野心に満ち、公方の地位に執着したが、やはり政治的手腕に欠け、晩年には自身の嫡男晴氏と争って、関東享禄の内乱を起こす始末であった。
 こうして成氏が一代で築いた古河府の基盤はその子と孫の代で早くも大きく揺らぎ、その弱みを突いて、やがて古河府を乗っ取ることになる後北条氏の関東進出が進行していくのである。

十七 足利義明(生年不詳‐1538年)

 足利義明は政氏の子で高基の弟に当たるが、嫡男ではなかったため、当時の慣習に従い、早くに僧籍に入っていた。しかし永正の乱で父兄が争うのを見て野心を起こしたらしく、出奔後、還俗して義明を名乗る。
 そこで甲斐源氏系武田氏から出た上総の支配者真里谷〔まりやつ〕氏の庇護を受け、その勢力拡大戦略に乗る形で、坂東平氏系千葉氏が拠っていた下総の小弓城を攻撃・占拠し、小弓公方を称した。これによって、兄が継いだ古河公方家は事実上分裂することになった。
 成立の経緯から小弓公方は真里谷氏の傀儡と思われたが、義明は野心家で、真里谷氏から独立して関東一円の支配者となることを夢見たようである。手始めに、彼は庇護者だった真里谷恕鑑が没すると、その跡目争いに介入して恕鑑の庶子ながら後継者に立てられていた信隆を追放して、弟の信応〔のぶまさ〕にすげ替えた。
 折から、後北条氏では早雲を継いだ北条氏綱が関東支配を狙い、鎌倉から江戸にも進出してきていた。氏綱は義明に追放された信隆を庇護し、さらに高基を継いだばかりの古河公方・足利晴氏とも同盟して義明と対峙した。
 こうした状況下で、義明は自身の野望達成のためにも、氏綱打倒を決意、ここに天文七年(1538年)、第一次国府台合戦が勃発した。しかし北条軍二万に対し、小弓軍は一万と初めから劣勢だったうえ、小弓軍の参謀だった里見義堯らと作戦をめぐって対立し、義堯の裏切りもあって小弓軍は敗北、義明も戦死してしまう。
 こうして、元来自称にすぎなかった小弓公方は実質義明一代限りで滅亡したのだが、義明の子孫は絶えることはなかった。嫡男義純は国府台合戦で戦死したが、次男の頼純が里見氏の庇護の下に生き延びた。
 最終的には頼純の娘を側室に迎えた豊臣秀吉の承認の下、小弓公方の家系が足利将軍家嫡流断絶後の足利氏の実質的な宗家となり、喜連川氏と改姓した後、徳川氏によっても事実上の大名格で遇され、幕末まで続いていくことになる。
 義明自身はそうした子孫の運命を予想してはいなかったに違いないが、結果的には、この風雲児的な異色の傍流公方が足利氏の継承者となったのは、歴史の皮肉であった。

2016年1月17日 (日)

アフガニスタン―引き裂かれた近代史(10)

three 社会主義革命と内戦

night革命からソ連軍事介入へ
 アフガニスタンの1973年共和革命から78年の社会主義革命までの過程を見ると、ロシア革命の経過とよく似ている。第一次73年革命がロシアでは帝政を打倒した2月革命に相当するものだとすれば、第二次78年革命がボリシェヴィキによる10月革命である。
 異なるのは、第二次革命以降の経過である。78年中に言わばメンシェヴィキに相当する旗派を排除して全権を握った人民派であったが、今度は人民派内部で主導権争いに陥る。トップのタラキー革命評議会議長(PDPA書記長)に対して、ナンバー2のアミン外相が反旗を翻したのだった。
 元来、78年革命もアミン主導で実行されており、アミンには一定の実務能力が認められたが、タラキーは教条主義的なうえ、健康問題も抱えていた。二人の亀裂は深まり、タラキーがアミンの左遷を画策しようとした時、アミンが先制攻撃に出てタラキーを殺害、実権を掌握した。78年の革命からわずか一年余りである。
 このように、10月革命後レーニンを中心に結束を固めたボリシェヴィキとは異なり、アフガニスタンの革命家たちは内紛を抑えることに失敗した。新たなアミン政権は集団指導制を打ち出し、革命直後から開始されたイスラーム保守派の反革命蜂起を慰撫しようと、イスラーム信仰の尊重を認めた。対外的にも後ろ盾ソ連との関係を相対化し、隣国イランやパキスタンとの関係構築に動き、アメリカとの関係改善さえ模索しようとしていた。
 こうした穏健化路線でアミンは大衆的人気と党内基盤を確立しようとしていたものと思われるが、アミンの親西側路線はソ連の不信感を強めていった。もともとタラキーの排除にも批判的だったソ連はアミン排除の介入計画に着手する。
 79年12月、ソ連軍特殊部隊がアフガニスタンに侵攻し、アミン政権を転覆、アミンは殺害された。嵐333号作戦と名づけられたこの軍事介入は綿密に計画されたものであったため、アメリカをはじめとする西側陣営は激しく非難した。
 冷戦期のアメリカはソ連以上に同盟国への軍事介入を積極的に行なっていたから、この非難は笑止であったが、ソ連のアフガニスタン介入は収まりかけていた冷戦を再燃させる20世紀晩期の大事変となった。
 一方で、ソ連がここまで西アジアの一途上国にすぎないアフガニスタンに深入りした理由も不可解だが、すでに中央アジア一帯を領土に取り込んでいたソ連としては、中央アジアに接続するアフガニスタンを戦略的要衝として確保し、東のモンゴルのような衛星国として傀儡化しようという戦略的な意図があったとも考えられる。
 軍事介入後のソ連はタラキーとアミンという二大指導者の相次ぐ死で凋落した人民派に見切りをつけ、元来は穏健派の旗派擁立策に切り替えていた。そのため、人民派政権によりチェコスロバキア大使に左遷されていた旗派指導者のバブラク・カルマルを呼び戻す形で、新政権のトップに据えた。そのため、この軍事介入以降のPDPA政権は旗派政権となる。
 しかし、旗派のプログラムはもともと革命を時期尚早とするものであっただけに、ソ連の介入によって突如革命政権を率いることには無理があった。カルマル政権は民主改革と一党支配の間を中途半端に漂い、一方でイスラーム勢力の武装抵抗の拡大と泥沼の内戦化を抑え切れなかった。このことは、ソ連の不満を次第に高めていったであろう。

2016年1月15日 (金)

私家版足利公方実紀(連載第12回)

十四 足利義澄(1481年‐1511年)

 足利義澄は、明応二年(1493年)、細川政元が主導したクーデター・明応の政変により先代で従兄に当たる10代将軍足利義材〔よしき〕が追放された後を受けて11代将軍に擁立された。しかし、このような不正常な就任経緯からも、彼は管領として新政権を独裁する政元の傀儡将軍にすぎなかった。
 元来、義澄は堀越公方足利政知の子であったが、嫡男ではなかったため、早くに僧籍に入っていたところを将軍として担ぎ出されたのだった。ちなみに政知の嫡男だった茶々丸は年少時から素行不良で、長じてからも暴虐のため家臣団の支持を失い、当時伊豆への進出を狙っていた北条早雲率いる反乱軍によって征伐されている。
 これは堀越公方という元来基盤の弱い足利将軍分家を転覆した地方的な事変にすぎないが、最初の戦国大名とも称される早雲を祖とする後北条氏が東国へ浸透していくステップとなる出来事でもあった。
 さて、成長した義澄は次第に傀儡の立場を脱しようとしてしばしば政元との関係がこじれ始めていたところ、永正四年(1507年)、細川氏の家督争いの結果、政元が暗殺されてしまう。これは修験道者であった政元が独身で実子を持たなかったことに加え、競合する三人の有力な養子を迎えたことから招いたお家騒動であった。
 この事変は義澄にとっては幕政の実権を細川氏から取り戻すチャンスともなり得たが、それを生かすことはできなかった。永正五年(1508年)に、義尹〔よしただ〕に改名していた前将軍を庇護・擁立する周防の守護大名大内義興が上洛軍を差し向けたため、義澄は近江に逃亡、あっけなく将軍の座を追われた。
 それでも義澄は将軍復帰の執念を燃やし、近江を拠点に反攻の機を窺い、永正八年(1511年)には幕府軍との合戦に備えていたところ急死、復帰の夢はかなわなかった。

十五 足利義稙(1466年‐1523年)

 足利義稙〔よしたね〕は当初義材を名乗り、10代将軍に擁立されたが、先述のように明応の政変で地位を追われ、諸国を下向して回る羽目となった。この間、義尹に改名した彼は将軍復帰への執念を持ち続け、最終的には周防の大内氏の軍事力に頼って上洛、念願の将軍復帰を果たしたのだった。
 とはいえ、上述のように義澄もまだ反攻の機を窺い、武力衝突が続いたため、彼の第二次政権がいちおう確定するのは、義澄が死去して以降のことであった。
 義尹は永正十年(1513年)以降、義稙と再改名、実権を掌握しようと努めるも、幕政は細川政元の養子の一人で家督争いに勝利して管領職に就いていた細川高国と義稙復帰への貢献から事実上のナンバー2に就いていた大内義興に握られており、不満から義稙は一時、近江へ出奔したほどであった。
 しかし永正十五年(1518年)に義興が諸事情から領国へ帰国すると、政元の三養子の一人で、高国の政敵細川澄元が挙兵した。高国はいったん敗れ、近江に逃亡するが、これを実権掌握の機会と見た義稙は澄元に接近していた。しかし反攻に出た高国が澄元を追い落とし、復権を果たしたことで、再び形勢は逆転する。
 これ以降、義稙と高国の関係は決定的に決裂、大永元年(1521年)に義稙はまたしても堺へ出奔した。これは天皇の即位式直前の職務放棄となり、天皇の怒りを買ったことから、高国はこれを名分として義稙を廃し、義澄の遺児義晴を12代将軍に擁立することができた。
 こうして、義稙は再び将軍の座を追われ、淡路島に逃れてなおも将軍復帰の機会を狙うが果たせず、最後は澄元の本拠でもあった阿波に逃れて大永三年(1523年)に客死した。
 このように、義稙と義澄が交互に擁立された15世紀末から16世紀初頭にかけての時期は将軍家と管領細川家の家督継承争いが絡み合い、応仁の乱で低下した幕府の権威の凋落は明白となった。
 とはいえ、この時点での戦乱は限られており、国政はまだ幕府を中心に動いていたが、将軍は管領をはじめとする諸公の傀儡的な存在に墜ち、地方の守護大名たちも次第に幕府を離れて、独自の領国経営に着手し始めていた。ある意味では、日本型の軍閥封建制が確立されていく始まりの時期でもあった。

2016年1月13日 (水)

日本語史異説―悲しき言語(連載第6回)

三 弥生語への転換①

 弥生時代は大陸、特に朝鮮半島から農耕をもたらした渡来勢力により拓かれたというのが定説となっている。この時、言語体系も大きく転換され、コリア語とも共通する膠着語的な構造が刻印され、現代の日本語にも継承されていると説かれる。
 膠着語は一般にいわゆるアルタイ諸語の通有性であるので、弥生語は縄文語とは異なる北方系言語であったことになる。ただし、語彙に関しては縄文語の南方的要素が継承されたので、語彙は南方系、文法は北方系という混成言語が日本語の特徴であるというのが村山説である。村山は弥生時代に刻印された北方的要素は満州語に代表されるツングース諸語に近いと解析している。

 これはすっきりした筋の通った有力な仮説ではあるが、言語寿命を考慮したときに古い先史言語である縄文語の語彙が現代まで継承されているとは考えにくい。それでもなお日本語に南方的要素が認められるとすれば、それは縄文時代よりも新しい言語要素ではないか。その場合、弥生語からの継承ということがさしあたり想定できる。
 そう考えると、弥生語=北方語という定式は放棄せざるを得ず、弥生語も縄文語とは系統を異にする南方語だったとみることになる。この点で、渡来系弥生人の故地を考えると、朝鮮半島南部から黄海をはさんで中国江南地方にかけての言わば環黄海地域が想定できる。
 この地域は北方というよりは南方であり、南中国とも連続した文化圏に属すると言え、弥生人も広くはこの圏域に含まれる種族だっだと考えることができる。実際、『魏志倭人伝』に記録された晩期弥生時代の倭(邪馬台国)の風俗をみると、文身のような南方的要素が濃厚である。文身は南中国の越のほか、朝鮮半島南部の古代国家馬韓や弁韓にも共通して見られた風習である。
 とすると、この環黄海地域は南方系の言語文化を共有していたのではないかの仮説も成り立つだろう。この点、村山がコリア語の語彙にも南方的要素が認められる可能性を示唆し、将来の検討課題として指摘していたことは意味深長である。

 なお、『魏志倭人伝』は邪馬台国の言語の断片として、承知を意味する「噫」(あい)という語を紹介している。おそらくこれは弥生時代の言語として唯一記録に残されたものであろう。この語が現代語の承知表現である「はい」の祖形だとすれば、弥生語が現代まで保続されている可能性はかなり高いと言えるだろう。

 この弥生語の祖語となる南方系言語がいかなるものであったかを再構するのは困難な作業であるが、弥生人の故地は日本列島への渡海距離を考えれば朝鮮半島南部が最も近いので、やはり弥生語の祖語も主にこの地域で話されていたものであろう。この地域は紀元前3世紀頃に遼東半島方面から韓族が南下してくるまでは、別の南方系種族が先住していたと見られ、この未知の民族が保持していた言語Xが弥生祖語であった可能性が高い。
 ・・・といかにも漠然とした仮説ではあるが、現時点ではこの程度しか言うことができない。少なくとも、弥生語=北方系という定式を必ずしも絶対のものととらえる必要はないと思うのである。

新計画経済論・総目次

本連載は終了致しました。下記目次各「ページ」(リンク)より該当記事をご覧いただけます。

前言 ページ1

第1章 計画経済とは何か

(1)計画経済と市場経済 ページ2
(2)計画経済と交換経済 ページ3
(3)マルクスの計画経済論 ページ4

第2章 ソ連式計画経済

(1)曖昧な始まり ページ5
(2)国家計画経済 ページ6
(3)構造的問題点 ページ7
(4)政策的問題点 ページ8

第3章 環境計画経済の試み

(1)環境計画と計画経済 ページ9
(2)非官僚制的計画手法 ページ10
(3)環境計画経済の実際① ページ11
(4)環境計画経済の実際② ページ12
(5)環境計画経済の実際③ ページ13
(6)環境計画経済の実際④ ページ14

第4章 計画経済と企業形態

(1)社会的所有企業 ページ15
(2)公企業と私企業 ページ16
(3)企業の内部構造① ページ17
(4)企業の内部構造② ページ18
(5)企業の内部構造③ ページ19

第5章 計画経済と企業経営

(1)公益的経営判断 ページ20
(2)民主的企業統治 ページ21
(3)自治的労務管理 ページ22
(4)二種の企業会計 ページ23
(5)三種の監査系統 ページ24

第6章 計画経済と労働生活

(1)労働配分 ページ25
(2)労働基準 ページ26
(3)経営参加 ページ27
(4)労働紛争 ページ28

第7章 計画経済と消費生活

(1)生産様式と消費様式 ページ29
(2)消費計画の概要 ページ30
(3)消費事業組合 ページ31
(4)計画流通と自由流通 ページ32

第8章 計画経済とエネルギー供給

(1)エネルギー源の民際管理 ページ33
(2)エネルギー供給計画 ページ34
(3)エネルギー事業体 ページ35
(4)エネルギー消費の規制 ページ36

第9章 計画経済の世界化

(1)グローバル計画経済 ページ37
(2)貿易から経済協力へ ページ38
(3)世界経済計画機関 ページ39
(4)環域経済協力機関 ページ40

第10章 計画経済と政治制度

(1)経済体制と政治制度 ページ41
(2)世界共同体の役割 ページ42
(3)世界共同体の構成単位 ページ43
(4)政経二院制 ページ44

2016年1月12日 (火)

新計画経済論(連載最終回)

第10章 計画経済と政治制度

(4)政経二院制
pencil計画経済と政治制度の関係で、最後に残された難問は、代表制のあり方である。この点、旧ソ連のような行政指令型の計画経済では、経済計画は行政機関の任務であったから、旧ソ連の国家計画委員会のような計画行政機関が用意されれば足り、代表制の問題は回避される。
 もっとも、そのような強大な権限を持つ行政機関を代表機関がどのように監督し得るかという民主的な監督の問題は発生するが、これは代表制そのものというより、行政監督の問題である。
 しかし、企業体の自主的な共同計画を軸とする新しい計画経済にあっては、そうした共同計画を策定する代表機関の制度や構成いかんが重要な問題となる。
 最もラディカルな制度としては、企業体の代表機関に一本化することが考えられる。例えば、業界ごとの代表者で構成する代表機関である。これは職能代表制に近い構成となる。
pencil特に、「合理的な共同計画に従って意識的に行動する、自由かつ平等な生産者たちの諸協同組合からなる一社会」という定義に基づくマルクスの共産主義社会論は、生産協同組合(企業体)自身が代表機関を持つという構制を導くであろう。
 マルクスによれば、共産主義社会では、(一)統治機能は存在せず、(二)一般的機能の分担は何らの支配をも生じない実務上の問題となり、(三)選挙は今日のような政治的性格を完全に失う。そして共産主義的集団所有の下ではいわゆる人民の意志は消え失せ、協同組合の現実的な意志に席を譲るとも論じている。イメージとしては、協同組合が合同して直接に執政するような体制である。
pencilしかし、経済計画はそれだけでも多くの審議と調整を要する作業であるので、他の一般政策の審議は別途代表機関を設けて機能分担することが合理的であろう。その意味で、経済計画機関は一般代表機関とは別立ての企業代表機関として設置運営し、一般代表機関は経済計画機関の策定した経済計画に承認を与えるのみにどとめるのがよい。
 こうした計画(経済)/一般(政治)の二本立て代表機関―政経二院制―は、世界共同体とそれを構成する領域圏のレベルにセットで設置されることになるだろう。ただし、環域圏は経済計画そのものよりも、その枠内での連関地域経済協力を主任務とするから、固有の経済計画機関が設置されることはない。

clubMEMOclub
政経二院制といっても、両者の関係は完全対等ではなく、政治院である民衆会議が言わば上院として計画の最終的な承認権を保持することになるだろう。また世界共同体レベルにおける経済計画機関(世界経済計画機関)は、二院制構造の例外として、世共総会(世界民衆会議)の下部機関としての位置づけが強くなる。世共の場合、政治的統合性が重視されるからである。ただし、この場合も世界経済計画機関は官僚制機関ではなく、世界の生産事業機構体で構成する合議機関である。

2016年1月 9日 (土)

アフガニスタン―引き裂かれた近代史(9)

three 社会主義革命と内戦

night1978年社会主義革命
 前回触れたように、1973年の共和革命はイスラーム保守勢力を後退させ、マルクス‐レーニン主義の人民民主党(以下、PDPAと略す)が台頭するきっかけを作った。しかし、共和革命を主導したダーウード大統領は革命当初友好的だったPDPAを次第に遠ざけ、78年には弾圧に出る。
 弾圧の引き金を引いたのは、暗殺されたPDPAのさる有力なイデオローグの葬儀の場を借りた大規模な抗議集会だった。反政府暴動につながることを恐れたダーウード政権が弾圧に出たものと思われるが、政権の動きは鈍かった。
 一方のPDPA側は大弾圧による組織壊滅を防止すべく、軍部内の支持勢力と連携し、78年4月、クーデターに及んだ。このクーデターは短時間で成功し、PDPAが全権を掌握した。
 事前に入念に計画されていたように見えないクーデターがこれほど簡単に成功した理由は必ずしも明確でなく、背後にPDPAの後援者であるソ連が介在した可能性も否定できないが、軍部内にPDPAが相当に浸透していたことに加え、ダーウード政権が国民的な支持を受けていなかったことも一因であろう。
 実際、ダーウードはこのクーデターの渦中、家族もろとも無残に殺害されていた。ダーウード殺害の事実は当初伏せられていたが、後に当時の関係者により埋葬場所が明かされ、2008年に至って首都カーブルの集団墓地でダーウードらの遺体が発見された。このように前国家元首一家を秘密裏に「処刑」し闇に葬り去るやり方は、ロシア革命のアナロジーだったのだろう。
 こうしてマルクス‐レーニン主義を標榜する政党が政権を掌握し、国名も「アフガニスタン民主共和国」に変更したうえ、以後ソ連を後ろ盾に社会主義的政策を遂行していくことになるので、78年クーデターは社会主義革命の性格を持った。イスラーム主義が強い西アジアでは歴史上も稀有の出来事である。
 他方、PDPAを中心的に動かしていたのは、従来、支配層のドゥッラーニ部族連合に対し従属的な立場に置かれてきたギルザイ部族連合であり、社会主義革命の背後には伝統的な部族対立の構図も見え隠れしていた。
 とはいえ、一躍政権党となったPDPA内部も元来、段階的な革命を志向し、ダーウード政権に協力的な「旗派」と一挙革命を主張し、ダーウード政権に批判的な「人民派」とに分裂していた。この分裂はロシア革命当時のメンシェヴィキとボリシェヴィキの対立に相似し、諸国のマルクス主義政党ではお馴染みの党内路線対立でもあった。
 この対立は革命前年の77年に表面上は解消され、党は再統一を確認していた。しかし78年革命を主導したのは人民派であり、初代革命評議会議長に座ったのも同派指導者の党書記長ヌール・ムハンマド・タラキーであったので、政権掌握後、両派の確執はすぐに表面化した。
 タラキー指導部は旗派を政権から追放したうえ、旗派がクーデターを計画したという理由で同派幹部らを処刑もしくは投獄した。こうして78年8月までにタラキーと事実上のナンバー2だったハフィーズッラー・アミン外相を中心とする人民派が主導権を確立する。

2016年1月 7日 (木)

私家版足利公方実紀(連載第11回)

十三 足利成氏(1438年or34年‐1497年)

 足利成氏〔しげうじ〕は、永享の乱で敗死した第4代鎌倉公方足利持氏の遺児であった。乱による混乱からか、生年が確定していない。しかし、乱後の延長戦として起きた結城合戦で結城氏に担ぎ出されて敗北、幕命により殺害された二人の兄とは異なり、成氏は信濃源氏系の豪族大井氏のもとで庇護・育成された。
 彼にとって転機となるのは、嘉吉の乱で時の将軍足利義教が暗殺されたことである。これを機に鎌倉府再興運動が開始された結果、幕府は再興を許可する。時の将軍義政がまだ幼少期で幕府の体制が固まっていなかったこともプラスに影響したものであろう。
 こうして晴れて第5代鎌倉公方に就任した成氏であったが、自身まだ少年であり、実権は関東管領上杉憲忠に握られた。ところが、長じた成氏は父が敗死する原因を作ったのが憲忠の父憲実であることを根に持ち、憲忠への憎悪を露にするようになった。これは享徳三年(1455年)、成氏の命による憲忠暗殺という形で発現した。
 これをきっかけに、またも鎌倉公方と上杉氏の内戦が勃発する。幕府が上杉氏を支援する体制も、永享の乱の繰り返しであった。そして、今度も優勢な上杉‐幕府方が鎌倉を制圧して勝利するはずであった。
 ところが、成氏は鎌倉をあっさり放棄し、享徳四年以降、古河に移ってなおも抵抗を続けるのである。彼が鎌倉に執着しなかったのは、幼少期に鎌倉を脱出し、信濃育ちであったこと、迷わず古河に移ったのはこの地が鎌倉公方御料地として経済基盤となっていたことや、忠臣の小山氏や結城氏の拠点にも近いなどの戦略上の理由からであったと考えられる。
 こうした成氏の専断に対して、幕府側も将軍義政の異母兄政知を新たな鎌倉公方に任命し、鎌倉に向けて出立させた。しかし、成氏軍に阻止され、鎌倉入りできず、伊豆の堀越で足止めされた。政知は結局、最後まで鎌倉入りできず、堀越に定住することとなったため、堀越公方と呼ばれるようになる。
 こうして、関東は上杉‐幕府方の傀儡である堀越公方と古河公方間で二分され、内戦状態に突入するが、京都では間もなく応仁の乱が勃発し、幕府は関東に軍勢を割けなくなった。一方で、成氏も文明三年(1471年)の堀越公方攻めに失敗し、撤退するなど、両勢力とも決め手にかけ、内戦は膠着状態にあった。
 文明九年(1477年)に応仁の乱が終結したこと、同八年(1476年)には上杉家家宰長尾氏の内紛に端を発する長尾景春の乱が発生して家中が混乱状態に陥ったことなどを転機として、和平の機運が高まり、文明十年(1478年)に上杉氏と古河公方、同十四年(1483年)には幕府と古河公方の和睦が順次成立し(都鄙合体)、発生から30年近くに及んだ内戦・享徳の乱はようやく終結した。
 成氏の古河への移座は当初は暫定的な避難であった可能性もあるが、結局成氏は鎌倉へ帰還せず、古河を本拠とする初代古河公方の地位を確立し、以後は旧鎌倉府の後身として古河府が関東支配の拠点となり、「合体」よりも室町幕府と古河府の東西「分裂」が増すきっかけとなった。
 そして、成氏がほぼその全生涯をかけ、応仁の乱よりも長い30年に及んだ享徳の乱は義政・義尚父子時代における室町幕府権力の失墜を象徴するとともに、全国に先駆けて関東に戦国時代をもたらしたという点で、画期的な内乱であった。

2016年1月 6日 (水)

日本語史異説―悲しき言語(連載第5回)

二 縄文語の生成と行方③

 前出村山説によると、日本語は縄文時代にもたらされた南方系オーストロネシア語族系の言語が後続の弥生時代にもたらされた北方のアルタイ語系、中でもツングース系言語によって系統的に変容させられ(特に膠着語的文法構造)、混合言語の性質をもって現代にまで至ったとされる。
 ただ、村山がとりわけ集中的に取り組んだ基層語彙の南方的要素の内容を見ると、その再構過程は複雑で、相当な苦心の跡が見られる。少なくとも日本語を直接にオーストロネシア語族に分類し直すことができるほど明証的な系譜関係ではなく、異論の余地も残す検証となっている。現代語にも残されているこのオーストロネシア語族的要素はかなり古層的で、オーストロネシア語族そのものよりも古く、かつより広い南方祖語に基因するのではないか、とも推論できるところである。

 ここで注目されるのは、従来の語族論よりも広い範囲で語族を想定するいくつかの新理論である。例えば、従来は別系統とされてきたオーストロネシア語族とタイ語に代表されるタイ‐カダイ語族の内的関連性を認め、「オーストロ‐タイ語族」を想定する見解がある。さらには、このオーストロ‐タイ語族を含み込み、かつベトナム語に代表されるオーストロアジア語族及び中国の少数民族ミャオ族・ヤオ族の言語に代表されるモン・ミエン語族を加えた「オーストリック大語族」を想定する見解も出されている。
 このような広域語族の想定は、現代語の分類というよりは現代語の古形あるいは古層にまで遡った祖語レベルでの分類であるので、通常の意味での「語族」ではなく、「祖語族」ととらえたほうがより正確であろう。このような角度から改めて縄文語の南方的要素とされるものをとらえ返すと、それは上掲のより広域的な大祖語族の中から派生してきたものとみなすこともできるように思われるが、その詳しい検証は今後の研究課題である。

 ところで、村山説で日本語と同じくオーストロネシア語族との系譜関係が指摘されていたアイヌ語であるが、実はこの系譜関係も日本語の場合と同様、かなり間接的ないし遠縁的であり、アイヌ語を直接にオーストロネシア語族に分類し直すことが可能なほど明証的ではない。これも上述の大祖語族の理論に照らし合わせれば、前日本語としての縄文語と前アイヌ語とは、共に「オーストリック大語族」のような広域祖語からの分岐とみなせるように思われるのである。
 この点、遺伝子型による人類学的分類でも、縄文人とアイヌ人は共通性が高く、さらにアイヌ人に顕著で現代日本人においても特に東日本人に比較的多いY染色体のハプログループD系統はこれら縄文‐前アイヌ語話者の末裔である可能性を残している。

 もっとも、このように縄文語と前アイヌ語とを同系の南方的古言語と把握した場合、それらの後身である日本語とアイヌ語に残された南方的要素に齟齬が見られる理由をどう説明するかが問題となる。前アイヌ語は比較的直線的に近世アイヌ語に再編されたと考えられるので、縄文語のほうが大きく変容ないし絶滅した可能性が高いが、それはいつどのようになされたか。
 この問題を究明する手がかりは、縄文時代に続く弥生時代にもたらされた新言語の系統や内容をどうとらえるかという問題と関わってくるので、ここで稿を改める必要があるのだが、一つだけ議論を先取りしておくと、「弥生語=北方系」という村山説も依拠する有力な定式は再考される必要があるということである。

2016年1月 4日 (月)

新計画経済論(連載第43回)

第10章 計画経済と政治制度

(3)世界共同体の構成単位
pencil世界共同体=コモンウェルスは地球全域に及ぶ一つの計画経済主体であるわけであるが、それが非効率・非民主的な巨大集権体とならないためには、分権的に体制を構築する必要がある。
 地球的分権のあり方にも種々のものが考えられるが、まずは民衆の生活圏に最も近い領域圏を基礎に、近隣・周辺領域圏のまとまりとしての環域圏を広域単位として想定するのが、最も合理的かと思われる。
pencilこのうち、世界共同体の基礎構成単位となる領域圏は、伝統的には国に相当する政治単位であるとともに、一定の領域を束ねる計画経済主体でもある。例えば、日本領域圏は日本の政治単位であるとともに、日本領域の計画経済主体である。
 この領域圏のレベルにはそれぞれ単一の経済計画機関(経済計画評議会)が置かれ、世界経済計画機関が設定した経済計画に沿って、それぞれ領域圏内の経済計画を策定することになる。領域圏経済計画評議会と世界経済計画機関は完全な上下関係にはないが、前者は後者の受託機関のような関係に立つ。
pencilグローバル計画経済は、こうした縦関係の計画だけでなく、横のつながりとしての経済協力関係を内包しているが、そうした経済協力は地理的・文化的にも共通項を共有する領域圏がまとまる連関地域を単位に行なうことが合理的である。
 そのような領域圏の連関地域的な協力体となるのが、環域圏である。環域圏の分け方もまた種々あり得るが、筆者はかねてより、世界をアフリカ、ヨーロッパ‐シベリア、アメリカ‐カリブ、東方アジア‐オセアニア、西方アジアの五つに区分することを提案してきた。
pencilこのような連関地域の経済協力体は資本主義の現在でも存在しているが、それはしばしば連関地域ごとの経済競争関係に転じ、最悪の場合、排他的な経済ブロックと化し、国際戦争の要因ともなる。他方で、国境を越えてグローバルに跋扈する多国籍資本はこうした連関地域経済協力とは調和しない。
 グローバル計画経済における環域圏は競争的単位でもなければ、旧コメコンのような国際分業圏でもなく、相互補充的な経済協力に特化した、すぐれてグローバル計画経済に特有の政治単位と言える。

2016年1月 3日 (日)

犯罪精神医学事始(連載第19回)

18 触法少年の治療的処遇①

 前回まで各論的に見てきた犯罪精神医学的な治療的処遇は成人犯罪者を対象とするものであったが、同様の治療的処遇は触法少年にも及ぶ。
 しかし、第2回でも触れたように、少年の触法行為は、本格的な精神疾患やパーソナリティ障碍よりも、発達障碍や知的障碍など発達に伴う各種障碍の関与が疑われることから、小児科医や発達心理学者等の参与も欠かすことができない。従って、犯罪精神医学固有のテーマとしては論じ切れないところがある。

 少年の触法行為の中でも、成人の病理性暴力犯罪に相当するものは数は少ないとはいえ、過去に著名な事例もある。とりわけ1997年に神戸市で起きた当時14歳少年による連続児童殺傷事件は社会を震撼させ、その後の少年法厳罰化などの政策転換を促した事案であった。
 この事件の加害少年は結局、精神鑑定の結果、成人の反社会性パーソナリティ障害に相当する行為障碍が認められ、当時の少年法の規定により医療少年院送致で確定した。この少年の場合も、事件を起こす以前に、神経発達障碍の一種である注意欠陥・多動性障碍の診断を受けており、発達上の問題も複合的に抱えていたと見られる。

 こうした病理性暴力行為を示す少年の治療的処遇は事例の少なさからも確立されておらず、全くの手探り状態であるが、上掲少年の場合は、医療少年院で男女の医師を両親に見立てた疑似家族を形成するある種の育て直し的な療法が一定の成果を上げたとされ、現在は退院・社会復帰している。
 このように人格の再形成を試みる治療法は上掲少年向けに組まれた実験的な手法であったようだが、発達障碍を持つ同種の病理性暴力行為の事例に対して一般化できるか検証が必要であろう。

※本連載は、都合により、当分の間、休載とさせていただきます。

2016年1月 2日 (土)

私家版足利公方実紀(連載第10回)

十一 足利義政(1436年‐1490年)/義尚(1465年‐1489年)

 8代将軍足利義政は父義教暗殺、兄義勝夭折というお家の危機に、8歳で将軍位に就いた。兄が長生していれば将軍になることもなく、数奇者として生涯を終えることもできたろうに、不運にして好きでもない政務に就くことになってしまった悲劇の人である。
 しかも、戦国時代初期までかぶる義政の治世は応仁の乱に象徴される中世の動乱期であったが、彼はそうした激動期の指導者にはふさわしくなく、また彼の政治的無能は動乱の要因でもあった。
 義政はある程度長じてからは祖父の義満を模した将軍親政を志した時期もあったようだが、すぐに断念し、側近政治に移行していった。その結果、奉行衆のような文官組織が発達し、幕府の行政機構が整備されるというプラス面もあった。
 こうして義政は最終的には政治から手を引き、銀閣寺に代表されるような文化事業の方面に沈潜していくため、彼の治世の政治的事績のどこまでが義政自身の政策と言えるかは曖昧になり、極端には彼は象徴的な将軍に過ぎず、真の執権者は妻の日野富子や彼女と結んだ有力守護大名だったとも言える。
 義政時代の動乱として最大級のものは何と言っても治世後半期の応仁の乱であるが、より初期に始まり、より長期に及んだのは関東を戦場とする享徳の乱であった。ただ、この乱については、その張本人である初代古河公方・足利成氏の項目で取り上げる。
 義政年少期には、南朝残党も再びうごめき出す。嘉吉三年(1443年)には時の後花園天皇暗殺を企てた集団が皇居に乱入し、三種の神器を奪って逃走する事件を起こした。この時に奪われた神璽は長禄元年(57年)に赤松家遺臣らの急襲によって奥吉野に立てこもる南朝残党からようやく回収された。
 応仁の乱は、富子との最初の子を失った後、異母弟の義視を養子としながら、富子との間の次子義尚が生まれると、いずれを後継者とするかを示さない義政の優柔さが一つの要因となって発生した動乱であった。
 もちろん、これには他の複雑な要因も絡んでおり、単純な後継者争いではなかったから、これを機に時代は戦国へと移行していく画期的な戦乱となった。乱後も幕府は存続し得たが、幕府の威信は低下し、守護大名の自立傾向が増す一方、守護代クラスによる守護職の下克上的奪取も始まった。
 義政は応仁の乱渦中の文明五年(73年)に実子の義尚に譲位し、いよいよ本格的な隠居生活に入った。その義尚は父とは異なり、母富子の期待に応え、乱後の処理と幕府権力の回復に努める姿勢を示した。武官集団の奉公衆を結集し、近江守護として専横が目立った六角氏を攻めたのもその象徴である。
 しかし、義尚は延徳元年(89年)、六角攻め陣中で父に一年先立ち二十代で病没してしまう。足利将軍家では三度目となる後継将軍の早世である。翌年には義政も病没し、こうして通算40年余りに及んだ義政・義尚父子の時代に幕府権力はすっかり凋落してしまうのだった。

十二 日野富子(1440年‐1496年)

 義政・義尚時代の実力者として欠かせないのが、義政の正室にして義尚の母であった日野富子である。とはいえ、彼女が実権を持ち始めるのは義政時代の後半期、応仁の乱渦中、義政との間の息子義尚が将軍職に就いてからと見られる。
 男尊女卑風潮の強かった中世に、女性の富子が政治的実力を持ち得た理由はいくつか考えられるが、一つには出自した日野家の威信が土台となっていた。日野家は藤原北家系の公家(堂上家)で、南北朝時代に北朝に付いた縁で足利将軍家との結びつきが生じ、3代義満以来、将軍正室を多く輩出する姻戚として高い権威を持っていた。
 義政自身も生母は側室ながら日野家出身で、富子の大叔母にも当たる日野重子であり、重子もまた政治的な実力を持ち、義政幼少期には幕政に関与した。そういう政治家としての重子の姿を間近で見ていた富子は、重子を自身のモデルとした可能性もあるだろう。
 富子の実権を直接に後押ししたのは、義政の政治的無能と早期の隠居であった。彼女は将軍の妻を意味する「御台」の名義で、実質上は9代将軍義尚生母の立場で後見的に政治に介入したが、彼女の政治の新しさはようやく貨幣経済が発達してきた時代にあって、武力よりも貨幣の力による金権政治にあった。
 実際、彼女は応仁の乱に際して、政治的には細川勝元を総帥とする東軍に与しながら、経済的には東西両軍の諸大名に資金を融通して戦乱を混迷させていた。また、京都七口に設けた関所で収納された公金を私的に横領・蓄財し、今日の貨幣価値にして数十億円の資産を形成するなど、日本における窃盗政治(クレプトクラシー)の先駆者でもあった。
 文明十二年(80年)に関所を破壊した徳政一揆はこうした富子政治に対する民衆の反発を象徴するものであったが、富子は意に介さず、民衆暴動には弾圧の強硬措置で臨んだ。
 義尚の死に際しては、将軍再登板を望んだ夫義政に反対し、かつては次期将軍位をめぐり対立した義政の異母弟義視の息子で、義理の甥に当たる義材〔よしき〕を後継に擁立するよう計らった。
 ところが、義材が10代将軍に就いて間もなく、富子は義視・義材父子と対立関係に陥り、幕政から追放されてしまう。富子は明応二年(93年)、出陣していた義材の留守を狙った細川政元のクーデターに関与するが、以後は新たな11代将軍足利義澄のもとで政元が実権を握る体制に移行する中、富子は明応五年(96年)に没した。
 富子は同時代にも後世にも「悪女」呼ばわりされたが、これには一定の根拠があると同時に、女性政治家をタブー視する男性中心的な視座による必要以上の悪評も込められているだろう。同種のことを男性政治家がしても、彼女ほどの悪評は受けなかったに違いない。

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