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2015年12月

2015年12月30日 (水)

日本語史異説―悲しき言語(連載第4回)

二 縄文語の生成と行方②

 前回末尾で触れた比較言語学者・村山七郎は、日本語の基層を集中的に掘り下げる中で、日本語の基本的な語彙の基層にオーストロネシア語族との系譜関係を見出した。ただし、村山は「縄文語」の導出には慎重であるが、少なくとも日本語のオーストロネシア語族的要素は縄文時代に持ち込まれたものと推定している。
 オーストロネシア語族は、現代ではマレー半島、インドネシアからフィリピン、台湾先住民、そして南太平洋全域、さらにはアフリカのマダガスカルにまで広がる大語族であり、発祥の地は台湾とする説が有力である。
 総体的に航海を通して拡散した海洋民族の言語であり、縄文人もこの語族人の一部が日本列島に渡り、形成されたという推論も成り立つ。このことは、例えば関東地方で発見された縄文人骨のDNA型がマレー系の現代人のそれと類似しているといった人類学的証拠からも間接的に裏付けられる。

 ただ、村山説で注目されるのは、北海道の少数言語・アイヌ語についても、同じくオーストロネシア語族との系譜関係を指摘していることである。オーストロネシア語族はその内部がさらにいくつかの系統に細分されるが、村山によるとアイヌ語はメラネシア語派に近いという。
 もっとも、現在の系統分類上、メラネシア語派というくくりはせず、ミクロネシア諸語やポリネシア諸語と併せて太洋州諸語というより広いくくりに含まれている。
 ところで、アイヌ語と日本語(アイヌ語に対する和人語)とは別系統の言語であるとするのが定説であるところ、その両方が同じオーストロネシア語族との系譜関係を持つということは、アイヌ語と日本語の前身形態は同系語であったが、いずれかの時点で大きく袂を分かったとの推論を導く。
 実際、最もよく知られたアイヌ語で「神」を意味する「カムイ」などは、和人語の「神:カミ」からの借用語だという説が有力だが、このような説は文化的に低いアイヌ人が文化的に高い和人との接触によりその語彙を借用したという和人優越論を前提としている。
 しかし、神のような精神文化の中核的な概念語を簡単に異文化から借用するとは考えにくく、本来アイヌ語と和人語は同系統で、共通語源の語彙を豊富に有していたという推論も成り立つように思われる。

 もっとも、アイヌ人とアイヌ語は中近世以降に形成されたもので、それ以前は北海道から東北地方にもまたがって集住していた先住民族エミシの言語がアイヌ語の土台となっていると考えられる。これを仮に前アイヌ語と呼ぶとすれば、前アイヌ語と前日本語としての縄文語は同系統言語であったと推定できる。
 このうち、前アイヌ語のほうは東北地方のエミシ勢力が日本朝廷の民族浄化政策で消滅した後も、北海道では保続され、アイヌ語として継承・再編されていったということになるだろう。
 一方の縄文語の行方が不明である。いずれかの時点で大きく変容されつつも継承されていると考えるか、それとも完全に消滅し、絶滅言語となったと考えるか。この問題については、年越しの宿題として次回以降検討してみたい。

2015年12月29日 (火)

2077年の世界

 今、民放(東京MX)で『コンティニーム』という珍しいカナダ発のSFミステリードラマが放映されている。あらすじの説明は端折るが、このドラマの前提舞台となる2077年には、ハイテク企業を中心とした「企業議会」が政権を掌握する一種の企業専制政治が行なわれているという設定である。さしあたり、それは「北アメリカ連邦」という新国家を舞台としているが、世界企業議会という国際議会もあるようである。
 この構想は、民衆会議―世界民衆会議が自己統治を行なう筆者の構想とは真逆的で、資本が政治も直接に掌握する資本主義的上部構造の究極である。現代の議会政治において、資本はすでに資金提供者として政治と密着しているが、そのような代理人政治には飽き足らず、最終的には自らが政権運営に乗り出すというわけだろう。
 実際に2077年という近未来にそこまで進んでいるかどうかはわからないが―ドラマではそういう未来を改変するべく、テロ集団が2012年にタイムスリップする―、悔しいかな、企業議会制のほうが民衆会議制より確率の高い未来に見えてしまう。
 ただ、しぶとい国家はそう簡単には資本に全権を引き渡さないだろう。2077年頃には国家が資本とより一体化しつつ、ある種のファッショ的なハイテク警察国家化をきたしているというのがより穏当な予測かもしれない。それでも十分に企業議会制に近いだろうが・・・。

2015年12月28日 (月)

新計画経済論(連載第42回)

第10章 計画経済と政治制度

(2)世界共同体の役割
pencil 旧ソ連の行政指令型計画経済は、いくつかの構成共和国の連邦体ではあったが、ソ連邦という単一の主権国家一国限りでの計画経済として運用されていたから、その目標は一国の経済開発に置かれていた。そのため、一国を越えたグローバルな計画経済の構想は、ついに現れることがなかった。
 これに対して、新しい自主的な計画経済は、地球環境の保全を何よりも優先する環境計画経済という性格上、地球規模で実施される。そのために、その究極的な計画も全世界を包摂するようなレベルで協調的に行われる必要がある。そのような協調主体が、すでに何度も言及している世界共同体である。
pencilここで、そうしたグローバルな計画経済をより実効的に行なうには、世界連邦のような本格的な世界政府機構を設立したほうが直截的ではないかとの疑問が向けられるかもしれない。世界連邦はまさに世界を統一する政治機構であり、かねてより主として世界平和の観点から提唱する運動も存在している。
 しかし、前回も述べたとおり、行政指令型でなく、企業体による自主的な共同計画を軸とする新しい計画経済にあっては、国家という枠組みが無用であったのと同じように、世界連邦のような連邦国家的な枠組みも無用であり、世界連邦制度はグローバルな計画経済を上部で保証する政治制度としてふさわしいものとは思われない。
pencilこの点、世界共同体とは英語ではWorld Commonwealthと表されるが、このCommonwealthには「連邦」という政治的な意味もあり、現存する制度としては、英国とその旧植民地諸国で結成する国際機構・英連邦はCommonwealth of Nationsと呼ばれている。これと同様に、World Commonwealthを「世界連邦」と訳しても誤りとは言えない側面もある。
 ただ、語源的にCommonwealthとはCommon=共通+wealth=富という構成であり、「世界共通の富」という経済的な含意も込められている。このようなグローバルな人類共通の富の計画的な生産・分配に関わる政治体として、世界共同体というものが想定されてくるのである。

2015年12月26日 (土)

アフガニスタン―引き裂かれた近代史(8)

two 独立アフガニスタン

night1973年共和革命
 1963年、ザーヒル・シャー国王は当時のアフガニスタンでは急進的すぎる近代化改革を推進していた従兄のダーウード首相を追放して、改めて親政を開始するが、それによって近代化路線が全面撤回されたわけではなく、スピードを落とされただけであった。
 64年には立憲君主制を基調とする新憲法が制定された。この憲法は西洋で教育された近代主義者たちにより起草され、普通・自由選挙に基づく議会や市民的権利、女性の人権などの西欧ブルジョワ憲法の諸要素を一応備えていた。
 しかし、当時のアフガニスタンでは西洋的教育を受けた者は政界でも少なく、この憲法を政治行政上使いこなすだけの土台を欠いていたため、民主化は円滑に進まなかった。王族が首相に就く慣例は排除されたが、政府‐議会関係が紛糾し、頻繁な内閣の交代が起き、安定した政権運営が妨げられた。
 そのように未熟で不安定な立憲政治が10年続いた後、ついに長い王制の終わりが訪れた。病気治療などのため、ザーヒル・シャーがイタリアを訪問中の73年、ダーウードが無血クーデターで政権を奪取したのだった。
 ダーウード自身王族の一員だったが、彼は新国王に即位するのでなく、王制廃止と共和制移行を主導し、自ら初代大統領に就任した。このように73年クーデターは単なる政権交代ではなく、政治制度そのものの変革にまで及んだため、共和革命の意義を持った。イスラーム王朝で、王族が共和革命を主導するのは極めて異例のことであった。
 大統領としてのダーウードは首相時代の政策の修正をいくつか試みている。一つは、ソ連との関係である。軍の近代化は依然として未完の課題だったが、そのためにダーウード大統領はソ連よりもエジプトからの援助に乗り換えようとした。
 当時のエジプトはソ連とは距離を置く独自のアラブ社会主義を追求しており、社会主義的傾向を帯びていたダーウードにとって、同じイスラーム圏に属するエジプトはいろいろな意味でモデルとして想定されていたように見える。しかし、このような「ソ連離れ」はソ連の心証を害し、ダーウード政権の命脈を縮める遠因となる。
 もう一つは、パシュトゥン民族主義である。政権発足当初こそ、彼は再びこれを蒸し返し、パキスタン領内のパシュトゥン人勢力を煽動してパキスタンと緊張関係に陥ったが、次第に当時のパキスタン側のブット左派政権との妥協に動いていった。
 一方、近代化推進路線は変わらず、むしろ大統領権力を使ってよりいっそう大規模な社会変革を試み、これに反発した宗教保守勢力の反政府運動を厳しく弾圧した。だが、外交面ではイスラーム保守主義のサウジアラビアに接近するなど、一貫しない面があった。
 ダーウード政権が短命に終わる直接の要因となったのは、マルクス主義政党の人民民主党との関係であった。同党はザーヒル・シャー親政時代の65年に結党された政党で、73年革命でもダーウードを支持した連立与党的な勢力だった。
 しかし、ダーウード自身は社会主義的傾向を持ちながらも、マルクス主義者ではなく、74年には自身の政党として国民革命党を立ち上げ、一党支配体制の構築を狙っていた。そのため、ダーウードは次第に人民民主党を遠ざけ、最後には弾圧を仕掛けるのだが、その時機遅れが命取りとなる。

2015年12月24日 (木)

私家版足利公方実紀(連載第9回)

十 足利持氏(1398年‐1439年)

 足利持氏は、足利義持から義教にかけての時代に並立した第4代鎌倉公方である。先代鎌倉公方の父満兼の死去に伴い、12歳ほどで鎌倉公方となったため、当初は関東管領・上杉氏憲(禅秀)が実権を持った。
 この時期の事績としては、奥州で発生した伊達氏の反乱鎮圧がある程度だが、これも基本的には禅秀主導によるものであった。しかし、長じた持氏と禅秀の関係は間もなく険悪化する。応永二十二年(1414年)には禅秀は管領辞職に追い込まれた。
 これに対して、禅秀とその同盟者で持氏の叔父に当たる足利満隆が決起したクーデターが、応永二十三年(16年)の上杉禅秀の乱である。当初、持氏は鎌倉を追われ、駿河まで敗走するが、この時は幕命を受けた今川氏などの援軍を得て反転攻勢し、鎌倉奪還に成功した。
 しかし、この乱の処理をめぐり、持氏が苛烈な報復と粛清で臨んだことが、幕府との対立原因となる。特に将軍家と結ぶ京都扶持衆で、禅秀側についた常陸の小栗氏が戦後の懲罰として所領の大半を没収されたことに反発し、応永三十年(23年)に反乱を起こすと、持氏は小栗氏討伐に仮託して、関東の親幕府派一掃を図ったため、幕府は持氏討伐軍の派遣も検討するが、この時は持氏の謝罪で収拾された。
 しかし応永三十五年(28年)、6代将軍・義教がくじ引きで決定されると、持氏の不満は爆発した。元来、持氏は名前の偏諱を受けていた4代将軍・義持の猶子となっており、大御所の義持には早世した5代将軍・義量以外に世子がなかった以上、自身が将軍継承者となるべきだとの思いがあったと見られる。
 そのため、彼は自ら京都へ乗り込むことを計画するが、時の関東管領・上杉憲実の諫言により思いとどまった。しかし以後も義教を軽んじ、鎌倉府を事実上幕府から自立化させる動きを見せていった。実際、持氏が将軍に就いていれば、鎌倉府との統合も進み、永享の乱はもちろん、その後再興された鎌倉府・古河府と幕府の分裂も起きていなかったかもしれない。
 そのような東西分裂の緊張状態が10年にわたって続いた後、ついに衝突の時が来た。事の発端は、持氏が嫡男の賢王丸元服に際して、将軍から名前の偏諱を受ける慣例に反し、義久と名づけたことにあった。些事のようであるが、主従関係が基本の封建時代にはこれだけでも大事であった。
 このような慣例無視を諌めていた管領の上杉憲実は元服式をボイコットし、領国の上野国へ退いたが、これを反逆とみなした持氏が憲実討伐軍を差し向けた。この一件を鎌倉府の内紛として収拾することもできたはずだが、将軍義教はこれを持氏討伐の好機とみて、介入した。
 彼は憲実救援を名分としつつ、持氏を朝敵として正式に討伐対象とし、幕府軍を差し向けた。部下の裏切りもあって敗れた持氏は出家し、鎌倉の永安寺に蟄居となったが、義教の命を受けた憲実の兵に攻め込まれ、息子の義久ともども自害に追い込まれた。永享の乱である。
 持氏・義久父子の死によって、鎌倉府はいったん崩壊する。その二年後の永享十二年(40年)に持氏の別の遺児らを擁した結城氏が蜂起し、いわゆる結城合戦が発生するが、これもすぐに鎮圧され、幕府の最終的勝利が確定する。
 一方、前回触れたように、翌年には将軍義教も赤松父子の手により暗殺されることになるが、その舞台となったのは、まさに結城合戦の戦勝を祝するとの名目で仕組まれた宴席であったのは、皮肉なことである。

2015年12月23日 (水)

日本語史異説―悲しき言語(連載第3回)

二 縄文語の生成と行方①

 日本語史を考える場合、前回も触れたように、旧石器時代の使用言語はおくとして、縄文時代に日本列島で使用されていた言語―縄文語―がとりあえずのスタート地点となる。とはいえ、縄文語に関しても、その概要を直接に知り得るような言語史料は存在しないため、推定の域を出るものではない。
 ウラル語族を専門とする言語学者の小泉保は、大胆にも『縄文語の発見』と題する書物を公刊し、縄文語が現代日本語の直接的な基層となっているという説を提唱したが、そのいささか独断主義的な方法論には批判もある。

 そもそも「縄文語」といっても南北に長大な日本列島を統一する中央政府など想定もされなかった時代、列島全域で共通の言語が使用されていたとする証拠はなく、複数の言語が使用されていた可能性もある。また、基本的には同一の言語だったとしても、それこそウラル語族に属するサーミ語(主に北欧のトナカイ遊牧民であるサーミ族の言語)のように、方言同士で通じ合わないほど方言差が大きかった可能性はある。*小泉も縄文晩期における裏日本縄文語、表日本縄文語、九州縄文語、琉球縄文語 という四大方言を区別する。
 実際、日本語は近世に至っても方言差が大きく、明治政府が標準語を定めた大きな理由の一つが、全国各地の出身者を集めた政府軍内で方言差による命令伝達の誤りや不通を防止するためだったのはそのことを象徴している。

 縄文語を複数言語の集合とみるか、顕著な方言差を伴う同一言語とみるかはともかくとして、縄文語は大陸から切り離された日本列島で1万年余りの長期にわたって使用されたことからして、大陸の言語からは独立した孤立言語として発達していった可能性が高い。そのことが、現代日本語の孤立性と直接に関わっているかどうかは、縄文語が現代日本語に直接に継承されているかどうかという問題に関わる。
 この点、世界の現代語の多くは比較的歴史の浅い言語であって、いわゆる四大文明圏で使用されていた言語のうち、アクティブに現存しているのは中国語くらいである。ただし、中国語の原郷と見られる黄河文明圏は、四大文明圏中では最も後発で、現在確認されている最古の漢字は紀元前1000年紀を遡らない。*文字の発明は言語の発生に遅れるので、中国語の発生時期はより遡るであろう。
 言語の寿命は意外に短いもので、多くの有力な古代言語が今日では絶滅言語となっている事実から推せば、2000年以上前に終焉した縄文時代の言語が現代まで系統的に保持されているという推定には悲観的とならざるを得ない。

 それでも、縄文語は日本列島で生成し、極めて長きにわたって使用されていた言語であった事実に変わりなく、その断片要素が現代日本語に一切継承されていないと断じるだけの証拠もない。そこで、縄文語の概要を推論的に再構することは意味のあることである。
 次回は、「縄文語の発見」よりもオーソドックスな「日本語の起源」という視座から日本語の基層に関する系統的な研究業績を残した比較言語学者・村山七郎の著作によりながら、縄文語の概要について考察することにしたい。

2015年12月21日 (月)

新計画経済論(連載第41回)

第10章 計画経済と政治制度

(1)経済体制と政治制度
pencil前章まで新しい計画経済のあり方を検討してきたが、最終章となる本章では、そうした新しい計画経済体制を上部で保証する政治制度のあり方について見ておきたい。
pencil一般的に、経済体制と政治制度の間に論理必然的な関係があるかと言えば、はっきりとイエスとはならない。しかし、緩やかながら論理的な対応関係を見出すことはできる。
 例えば、資本主義は自由経済を志向するから、経済規制を最小限にとどめる自由主義的な政治体制、特に議会制と結ばれた時に最も効果を発揮する。これは、議会制が多額の金銭をつぎ込む公職選挙を土俵とする金権政治の代表的制度であるからして、資本が自らの保証人となる政党・政治家を通じて経済界の総利益を保持するという持ちつ持たれつのパトロニッジ関係を構築しやすいからである。
 他方、旧ソ連のような行政指令経済に基づく社会主義経済体制は、経済司令塔となる政府と計画行政機関を必要とするので、相当に集権的な国家体制と結びつく。特に諸政党の寄合である議会制はこの体制には適合しにくい。
pencilこれに対して、新しい計画経済は行政指令主義ではなく、計画経済の対象企業自身による自主的な共同計画を軸とするから、計画行政機関は無用である。そこからさらに、国家という制度そのものも不要とするかは、一つの問題である。
 ここでは、貨幣制度の廃止が鍵となる。通貨高権を失った国家はもはや国家ではないとすれば、貨幣経済によらない共産主義的計画経済は国家制度とは両立しないことになる。
 もっとも、国家廃止は必ずしも計画経済特有のものではなく、貨幣経済は残すが、国家の通貨高権は廃し、私的通貨制度に一本化する最もラディカルな自由市場経済論に立つなら、少なくとも理論上は国家なき資本主義も成り立つことになる。しかし、実際のところ、国家の権威づけを一切持たない私的通貨が安定的に通用するとは想定しにくく、これはまさに机上論にどとまろう。
pencil結局のところ、自主的な計画経済体制は、国家制度によらない全く新しい政治制度を上部構造に持つことになると考えられるが、そのグローバルな大枠がこれまでにも言及してきた世界共同体である。

2015年12月19日 (土)

アフガニスタン―引き裂かれた近代史(7)

two 独立アフガニスタン

nightザーヒル・シャー時代
 1933年にモハンマド・ナーディル・シャーが暗殺された後を受けて、新国王に即位したザーヒル・シャーの40年に及んだ治世は大きく三期に分けることができる。
 その第一期は、19歳での即位後、二人の叔父に実権を預けていた53年までの20年間、第二期は従兄に当たるモハンマド・ダーウードが実権を掌握した63年まで、第三期は、ザーヒル・シャーが親族に依存せず親政を開始し、共和革命で王位を喪失する73年までの最後の10年間となる。
 このザーヒル・シャーの40年間は総体的に、アフガニスタンが近代国家として漸進的に整備され、安定的な王制の下、ある程度までの発展と繁栄を享受した時代として記憶されている。
 特に最初の20年間は相対的に高度の安定期であった。この時代は、モハンマド・ハーシム・ハーンとその後を継いだシャー・マフムード・ハーンという国王の二人の叔父が相次いで首相として政府を主導した時代であった。
 最初のモハンマド・ハーシムは先王時代からの留任であり、先王暗殺後の混乱を収拾し、ザーヒル・シャーへの円滑な王位継承を後見するうえで大きな役割を果たした。戦後の46年まで首相を務めた彼の時代は、アフガニスタンの国際化が進展した時代でもあった。
 34年には遅れて国際連盟に加盟し、国際的な認知を受けた。さらに従来あまり縁のなかったドイツやイタリア、日本からの経済援助を引き出し、経済発展の土台とした。このように経済関係では第二次大戦の枢軸同盟側と親密であったが、大戦中は中立を守り、乗り切った。
 また中央アジア方面では、33年に中華民国からの独立を目指すウイグル族とキルギス族が建てた第一次東トルキスタン共和国を支援し、中央アジアに独自の勢力圏を築こうと試みたが、これは中国系回族軍閥の軍隊に破られ、成功しなかった。
 戦後、モハンマド・ハーシムを継いだもう一人の叔父であるシャー・マフムード・ハーンが53年に死去すると、ザーヒル・シャーは従兄のモハンマド・ダーウード・ハーンを新首相に任命した。ダーウードはすでに国防相や内相を歴任していた大物だったが、確信的な近代主義者でもあり、その政策や急進的な政治手法はかつてのアマヌッラー国王に似ていた。
 ダーウード政権は近代化路線を明確にし、女性の地位向上を含む社会の全般的な刷新に乗り出した。これに反発・抵抗した宗教保守勢力は容赦なく弾圧された。外交的には再びソ連に目を向け、特にソ連からの軍事援助で軍の近代化を進めた。
 一方で、ダーウードは近代的国民国家の建設のため、パシュトゥン民族主義を掲げたが、戦後英国から独立した隣国パキスタン領内のパシュトゥン人の再統合まで図ったことで、パキスタンとの摩擦を引き起こした。
 パキスタン側は国境封鎖で対抗したため、アフガニスタン側は経済危機に陥り、ソ連への経済的依存関係がいっそう強まる結果となった。1960年、ダーウードは事態打開のため、パキスタン領内に軍を侵攻させるが、大敗を喫した。
 このパキスタン危機を憂慮したザーヒル・シャーはようやく独自の行動に出る。63年、国王はダーウードを辞職させ、後任の首相に史上初めて王族ではないテクノクラート出身のモハンマド・ユスフを任命した。
 この国王自身による一種の自己クーデターにより、ザーヒル・シャーの親政が開始され、ダーウードはいったん政界を去ることになるが、彼は10年後、革命という手段で再び戻ってくる。その間のザーヒル・シャー時代第三期については、73年共和革命への伏線として、次回に回す。

2015年12月17日 (木)

私家版足利公方実紀(連載第8回)

九 足利義教(1394年‐1441年)/義勝(1434年‐1443年)

 足利義教は、甥の5代将軍義量が早世した後、兄の先代将軍義持に世子がなかったことから、義持の存命中の4人の弟の中からくじで選ばれるという前代未聞の経緯で6代将軍に就任した。日本の政治史上、最高執権者がくじで選ばれた唯一の事例である。
 義教の就任が異例だったのは、くじ引きによったばかりでなく、元服前に出家した身から還俗して将軍職に就いたことである。そのため、髪が伸び、改めて元服してから将軍職に就くという異例のプロセスを経た。
 このような異例尽くめの将軍として周囲からも軽視されることを恐れてか、義教は仏門にいたとは思えぬ横暴な振る舞いを意識的にする傾向があり、その治世は民衆から「悪御所」と渾名され、公家からも「万人恐怖」と評されるほど暴虐に満ちていた。
 このことは、義教が政策的には、合議を重視し結果的に将軍の権威低下を来たした兄義持の路線を否定し、父義満時代の将軍親政を復活させようとしていたこととも関連するだろう。
 管領の権限を抑制し、将軍主催の内輪的な会合である御前沙汰を最高意思決定機関としたほか、将軍親衛隊である奉公衆を整備して、将軍直属軍を強化した。また秩序維持の要として訴訟を重視し、好んで自ら裁定した。ある意味では、父をも越えようとしていたのかもしれない。
 彼の治世は身内を含む様々な討伐・粛清で彩られている。治世前半には義満時代に討伐されていったんは勢力を失った大内氏を使って九州の守護大名を攻撃した。また自らかつて天台座主を務めた延暦寺にも介入、攻撃した。
 治世後半期における最大の事績は最大の身内であった鎌倉公方・足利持氏を討伐し、鎌倉府を解体に追い込んだ永享の乱であるが、これについての詳細は持氏を取り上げる次回に回すことにする。
 義教は、かねてより有力守護大名家の家政にも好んで介入していたが、永享十二年(1440年)、播磨の有力守護大名・赤松氏に介入し、幕府長老でもあった時の宗家当主・赤松満祐を遠ざけ、庶流分家を優遇したことは、文字どおり命取りとなった。
 満祐とその子・教康父子は翌嘉吉元年(41年)、教康邸への将軍御成の機会を利用し、義教を暗殺したのである。突如独裁者を失った幕府は自失状態となり、権力の空白が生じたが、ようやく細川氏と山名氏の軍勢が赤松討伐に立ち上がり、赤松父子を討ち取り、秩序を回復したのであった。嘉吉の乱である。こうして、義教は恨みを買った敵対者に暗殺されるという「暴君」にふさわしい最期を遂げた。
 総じて、義教の血塗られた圧政は後の戦国大名のそれに似ており、戦国的常識からは必ずしも「暴君」とは言えないものだったが、戦国時代到来前の15世紀前半にあっては、いささか常軌を逸した暴政と見られたものであろう。同時に、守護大名がためらうことなく将軍を謀殺するというのも、後の下克上の時代を予感させる出来事であった。
 義教の突然の横死により、彼の幼少の嫡男・義勝が7代将軍に就くが、当然にも父のような親政は無理で、実権は管領・細川持之が掌握した。しかし、義勝は嘉吉三年(43年)、在任8か月にして10歳で急死したため、続いて同母弟の義政が8歳で将軍に就くこととなり、義教の敷いた将軍親政は早くも崩れ去ったのである。

2015年12月16日 (水)

日本語史異説―悲しき言語(連載第2回)

一 日本語と前日本語

 本連載では、日本語の歴史を扱うが、ここで日本語とは、日本を国号とする国が成立して以降、日本国が事実上の公用語としてきた言語を指す。その意味で、ここでの「日本語」は政治的な意味合いを帯びた用語となる。
 日本の国号が定まった正確な年度は定かでないが、おおむね7世紀代であることは定説となっているので、上記のような意味での日本語の歴史は7世紀以降に限られることになるはずである。しかし、それだけでは一見孤立した独異な日本語の生成過程はよく見えてこないので、本連載では日本国成立以前の日本語、言わば前日本語についても併せて扱うことにする。

 言語の履歴は人類の履歴とほぼイコールであるので、日本列島で使用されてきた前日本語の履歴も、日本列島人の履歴とほぼイコールである。この前日本語の履歴は日本語の歴史に比べて気が遠くなるほど長大である。
 かつて日本列島には後期旧石器時代以前に人類が居住した証拠はないとされてきたが、その後、前期旧石器時代に遡る遺跡が「発見」され、学術上のコペルニクス的転換があった。ところが、この「発見」は記念すべき20世紀最後の年2000年に発掘担当者の捏造であったことが発覚するという大スキャンダルとともに否定され、現在のところ、日本列島において後期旧石器時代以前に遡る人類の存在は確証されていない。
 とはいえ、わずかながら前・中期旧石器時代のものと考えられる正当な遺跡も発見されており、少なくとも後期旧石器時代にはすでに日本列島人は存在しており、かれらも何らかの言語を使用していたはずであるが、そのような先史言語を証明する史料は当然ながら残されていないので、推測の域を出ない。*遺伝子型としては、現代日本人にも10パーセント未満」の割合で継承されているミトコンドリアDNAのハプログループM7a型は旧石器時代の人骨からも検出されており、最古日本列島人のものである可能性がある。

 時代はやがて土器を製造する縄文時代に入り、これが1万年余りも持続した後、稲作農耕社会である弥生時代という一大社会変革期を経て、当初は倭国を称した古代国家が次第に形成され、歴史時代へ入っていく。この間も当然に前日本語は存在していた。
 直線的な史観を重ね合わせれば、この前日本語は同一言語の一貫した連続的発展体であったことになるが、分子遺伝学や移住・定住史などを参酌する限り、それほど綺麗な直線史観を描くことはできない。そこで、やや図式的になるが、本連載ではいちおう通説的な時代区分に合わせ、前日本語を縄文語・弥生語・倭語と細分化してみたい。7世紀以降の日本語と併せて図式化すれば、縄文語・・・弥生語・・・倭語―日本語という流れになる。

 より精確には、縄文語以前に、先述した旧石器時代の「先日本語」とでも呼ぶべき何らかの言語Xが置かれるべきであるが、これについては何も言うことができないので、ここでは割愛せざるを得ない。
 ところで、上の図式におけるそれぞれの項の関係を矢印→でなく、点線・・・や棒線―で結んだのは、その間に必ずしも連続した関係性を認めず、切断やずれの可能性を想定するからである。この時点ですでに日本語史の有力な見解に反する「異説」としての管見の一端が現われているのであるが、その詳細は次回以降の記事で明らかにしていきたい。

2015年12月14日 (月)

新計画経済論(連載第40回)

第9章 計画経済の世界化

(4)環域経済協力機関
pencil世界共同体とは一つの国家のような統合体ではないため、世界経済計画といっても、それは領域圏の地域的なまとまりである五つの環域圏間での経済協力関係を内包する。そうした環域的な経済協力関係は、資本主義的な商業貿易に代わるものとして、環境計画経済において極めて重要である。
 煎じ詰めれば、環境計画経済とは、世界経済計画を基本に、個別的な領域圏計画経済と横断的な環域間経済協力が有機的に連関しながら運営されていく地球的な経済システムと言える。
pencilその意味でも、経済協力圏としての環域圏は重要な単位であり、そうした環域間経済協力を担う機関として、世界経済計画機関とは別途、環域圏経済協力評議会のような実務機関を設置し、常時経済協力関係を維持する必要がある。 
 具体例を挙げれば、自動車なら世界経済計画に示された指針に従い、各々環域圏内での中心的な領域圏が生産し、環域圏内で融通する。その結果、自動車メーカーが世界的なシェアーを巡り競争し合うという関係はなくなり、生産活動はそれぞれの環域圏内で完結することになる。
 ただし、それは硬直的なルールではなく、例えばアフリカのように独自の自動車メーカーが存在しないところでは―独自に育成される可能性は資本主義経済下よりも開かれるが―、隣接するヨーロッパから調達するというように、環域圏を越えた協力関係の存在も否定されない。
pencil環域圏のもう一つの重要な役割として、食糧農業分野での経済協力がある。共産主義的な食糧生産は貿易によらず、各領域圏で自給的にまかなうことが基本であり、現実にも共産主義はそれを可能とするが、農業の発達状況と生産量は地理的条件及び天候にも左右され、不均衡を完全には免れないことから、食文化に共通性のある環域圏間で不足産品を融通し合う協力関係は不可欠である。
 そうした協力関係をグローバルに調整する専門機関として世界食糧農業機関が置かれる。これは現存国連機関である国連食糧農業機関(FAO)の業務を引き継ぐものであるが、この機関は調整機関にとどまり、現実の協力実務は環域圏ごとに設置される食糧農業評議会が行なう。

2015年12月12日 (土)

アフガニスタン―引き裂かれた近代史(6)

two 独立アフガニスタン

nightモハンマドナーディル・シャーの登場
 1929年の反乱で、アマヌッラー国王を打倒して政権を掌握したのは、タジク族出身のハビーブッラー・カラカーニーであったが、アフガン軍の脱走兵出身と言われる彼は冒険主義者にすぎず、王として多数派民族パシュトゥン人をまとめるような力量はなかった。
 これに対して、アマヌッラーは遠縁に当たる軍人モハンマド・ナーディルを軍司令官に任命し、反撃させた。彼はアマヌッラー時代の第三次アングロ‐アフガン戦争当時の軍司令官として功績を上げ、戦後には戦争大臣にも任じられていたが、その後アマヌッラーと対立し、亡命していたのだった。
 モハンマド・ナーディルが指揮する軍隊は装備に勝っており、パシュトゥン部族勢力の加勢もあり、29年10月までにはカーブルを制圧し、ハビーブッラー・カラカーニーを捕らえ、処刑した。こうして、ハビーブッラー・カラカーニーの簒奪王朝はわずか9か月で終焉した。
 ただし、イスラーム保守派であったらしい彼は短い治世中に、アマヌッラー改革で導入されていた女子教育や西洋式教育の廃止を決めている。このような反動化傾向はシャー王位に就いたモハンマド・ナーディルにも継承される。
 ナーディル・シャーはバーラクザイ朝開祖ドスト・モハンマド・ハーンの兄弟の血筋から王家の親類ではあったが、本来王位継承権は希薄であったため、彼の登位は実質上新王朝の開始を意味した。
 ナーディル・シャーは保守派であり、アマヌッラーの近代化政策の多くを覆し、イスラーム主義的な政策を追求した。31年に制定された新憲法でも第一条でイスラーム教を国教とすることが宣言され、立憲君主制は形骸化された。
 一方、物質面では道路整備や金融、ビジネスの発展などの改革を推進する姿勢を見せた。おそらく、ナーディル・シャーはアマヌッラーの性急な近代化・欧化政策が反乱を招いたことに鑑み、精神的にはイスラーム主義、物質的には近代主義という二元的な折衷主義の立場を志向していたものと考えられる。
 しかし、こうした保守化を基調とする統治は、王権の正統性の弱さともあいまって、必然的に宗教勢力・部族勢力を増長させ、しばしば反乱を招いたが、ナーディル・シャーは軍の増強を進め、これらの反乱を鎮圧していった。
 ナーディル・シャーの新政策が軌道に乗り始めた矢先の33年、彼は高校での式典に出席中、暗殺されてしまう。犯人はアフガニスタンでは少数派のイスラーム教シーア派を信奉する少数民族ハザラ族の高校生であった。ナーディル・シャーの反ハザラ政策への反感が動機と言われるが、背後関係等の真相は不明のまま、犯人は残酷な拷問の末に処刑された。
 ナーディル・シャーの死去に伴い、弱冠19歳のモハンマド・ザーヒル王子が国王に推戴される。この新国王ザーヒル・シャーの40年に及ぶ長い治世と革命によるその終焉が、近代アフガニスタンの命運を大きく揺るがすことになったであろう。 

2015年12月11日 (金)

私家版足利公方実紀(連載第7回)

八 足利義持(1386年‐1428年)/義量(1407年‐1425年)

 足利義持は3代将軍義満の子で、応永元年(1394年)に9歳で将軍位を譲られた。しかし、当然にも親政は無理で、義満が死去するまでは、父が大御所として実権を保持していた。従って、義持の将軍在位年は28年と室町将軍歴代一位の長さであったが、将軍として実権を持ったのは、義満が死去した応永十五年(1408年)以降のことである。
 義持は長じると、義満とは何らかの理由から不和になっていたとされ、義満の死後、父のいくつかの政策や趣向を覆しているが、中でも特筆すべきは、明朝との冊封外交を中止し、最終的に明と国交を断絶したことである。
 その理由は必ずしも明らかでないが、将軍が中国皇帝の封建家臣的な立場で朝貢することへの疑問があったと見られる。このことは、一方で、父義満に対して朝廷が申し出た上皇号の追贈を辞退したこととも関連し、父子間で将軍位に関する考え方の相違があったようである。推測するに、義満は将軍を「日本国王」として認証されることで、君主格に押し上げ、幕府を王朝的なものにしようとしていたが、義持のほうは、おそらく当時の常識に従い、日本の王朝はあくまでも朝廷であり、幕府は武家政権機構にとどまるとみなしていたのかもしれない。
 とはいえ、義持は、南北朝動乱を収め、有力守護大名を統制した父から安定した権力を譲られたおかげで、比較的平穏な治世を享受することができた。それでも、全く無事というわけにはいかなかった。
 義持時代の騒乱としては、義満死去から間もない応永十八年(1411年)から同二十二年(15年)頃にかけて続発した南朝残党による反乱がある。一連の事件の発端となったのは、応永十七年(10年)に南朝最後の天皇で、南北朝合一の講和にも応じた後亀山上皇が吉野に出奔したことであった。困窮が理由とされるが、その真意は不明である。ただ、この南朝残党の反乱は散発的なものに終わり、上皇も最終的には幕府の説得に応じ帰京し、ひとまず終息した。
 もう一つ、より深刻な動乱として、応永二十三年(16年)に関東で起きた上杉禅秀の乱がある。この乱は、直接的には4代鎌倉公方・足利持氏と対立して事実上解任された関東管領・上杉氏憲(禅秀)によるクーデター事件であり、幕府はこれに巻き込まれる形となった。
 乱自体は幕府の加勢により、短期で持氏側の勝利に終わったが、乱に関連して波及的事件があった。一つは、義持の弟・義嗣の出奔と殺害である。義嗣は元来、父義満から義持以上に寵愛され、一時は家督相続人になるかの勢いであったが、父の死後は義持から冷遇されていた。
 義嗣が禅秀と実際に内通していたかは不明だが、乱の際に義嗣が京都を出奔したことが疑惑を招き、軟禁・出家の末に義持の命で殺害される事態となった。またその取調べの結果、複数の有力守護大名や公家が禅秀に呼応し、義持打倒を図っていたとして、処分された。
 ちなみに、義嗣の遺児・嗣俊は幼年だったせいか、連座せず、越前に下って鞍谷御所(公方)の名乗りを許された。この家系は後に足利同門の斯波氏から養子を立てた朝倉氏により傀儡化される戦国時代まで、越前における室町将軍家の分家として存続していく。
 長年の潜在的なライバルであった弟を片付けた義持は、応永三十年(23年)、父にならって息子の義量〔よしかず〕に譲位したうえ、密かに出家したが、父と同様に実権は保持していた。
 ちょうどこの頃、上杉禅秀の乱後の処理をめぐり、苛烈な報復・粛清措置で臨んだ持氏とこれに不信感を抱いた義持の間で緊張が高まり、一時は幕府軍の派遣すら検討されたが、この時は持氏が謝罪し、和睦している。
 最晩年の義持を悩ませたのは、後継者問題であった。一人息子の5代将軍義量は病弱で、ほとんど何の事績もないまま、譲位からわずか二年後の応永三十二年(25年)に夭折してしまう。ところが、義持は養子もとらず、病床に伏しても、次期将軍の指名をかたくなに拒否した。
 そこで、次期将軍はいずれも出家していた義持の四人の弟の中からくじ引きで選ぶという前代未聞の奇策が提唱され、義持もこれを了承した。義持は自身の死後にくじ引きをするよう要望したが、幕閣の反対により、開封を死後とすることで妥協された。こうして、義持の治世はくじとともに幕を閉じたのだった。

2015年12月10日 (木)

日本語史異説―悲しき言語(連載第1回)

 筆者は、バイリンガルやそれ以上のマルチリンガルを尊ぶ近時の「グローバル化」風潮に反し、日本語を唯一の使用言語とするモノリンガルな人間である。それだけに、日本語の成り立ちについては、以前より関心を抱いてきた。
 しかし、日本語の起源及び成立史はこれまで内外の諸学者が取り組みながら、いまだに通説と言える学説を確立し得た者がいない。それだけ日本語は独自性が強いとも言えるが、そのことはこの言語を悲しいものにしている。
 言語学上異論なく日本語と同語族を形成する同祖の親縁な外語も存在しないため、日本語人の外語習得は英語はもとより、コリア語(本連載では、韓国・朝鮮語を総称してこう呼ぶことにする)のように比較的近似する言語であっても、容易でない。
 その事情は外語人にとっても同じであり、外語人の日本語習得は容易でないので、日本語が国際的に普及する可能性は乏しい。日本語人自体は1億人を越えながら、そのほとんどは日本国内にとどまり、日本語が公用語とされたり、国全域で通じるという外国は存在しない。まさに孤立言語である。
 とはいえ、日本語が他言語と一切の接触を絶って自生してきたわけでもなく、長い歴史を通じて、大きな言語体系転換や外字・外来語の大々的な摂取を経験しながら現代日本語が生成されてきたこともたしかである。
 比較言語学者と呼ばれる学者たちはかねてからそうした日本語史の研究を進めており、通説は確立されていないとはいえ、いくつかの有力学説は存在している。しかし、本連載では、比較言語学は排除されないまでも、正面からは展開されない。
 それには筆者がその分野に疎いという理由もあるが、比較言語学という学術の不安定さも理由となる。比較言語学は近似する複数の言語を古形まで遡って同時代の言語資料を相互比較しながらそれらの系譜関係や共通祖語を解明・再構していくものだが、そのような作業は比較資料の不足という限界から困難を極める。
 ただ、比較言語学者にはそうした困難を乗り越えてしまう「天才肌」が多く、その労作には感嘆させられることもあるが、それだけに個性も強く、諸説林立状態となりやすいのだろう。比較言語学は、永遠に未完の学術なのかもしれない。
 本連載では、比較言語学の成果に、言語の発生・発展要因となる民族集団の移住・定住史、近年のゲノム解読により発達著しい分子遺伝学の成果も重ね合わせることにより、日本語の起源・成立史を試論的に展開しようとしている。
 結果は、比較言語学における有力学説とは相当に異なるものとなった。これは日本語モノリンガルの筆者自身にとっては愛しき言語でもある日本語再発見の旅である。もちろん、いつもながら、邪説としての批判・黙殺は覚悟のうえである。

2015年12月 8日 (火)

新計画経済論(連載第39回)

第9章 計画経済の世界化

(3)世界経済計画機関
pencilグローバルな計画経済の実務機関となるのは、世界経済計画機関である。これは各領域圏の計画機関である経済計画評議会の総本部に相当する機関でもあり、最終的に完成された暁には、同計画機関が策定した世界経済計画の総枠内で各領域圏の経済計画が策定されるシステマティックなものとなる。
pencilこの世界経済計画機関は全世界の領域圏で構成する世界共同体の専門機関の位置づけを持つが、現存国連諸機関のような官僚制的行政機関ではなく、各領域圏の経済計画評議会と同様に、生産企業自身の共同計画を策定する合議制機関である。
 その構造は各領域圏の経済計画評議会の相似形となる。すなわち、世界経済計画機関の評議部である計画理事会は環境負荷産業分野の生産事業機構の世界組織である生産事業機構体の代表者で構成され、討議を経て世界経済計画を策定する。
pencilこの生産事業機構体とは、例えば鉄鋼なり自動車なり計画経済の適用を受ける生産事業機構で作る世界組織である。資本主義経済にはこのような組織は存在しないが、現存する類似例を挙げるとすれば、世界鉄鋼協会(World Steel Association)とか国際自動車工業連合会(Organisation Internationale des Constructeurs d'Automobiles)といった国際的な業界団体をイメージすればよい。
 資本主義体制の下では、こうした国際業界団体はあくまでも業界ごとの国際的な利益代表組織であり、生産活動そのものの調整を行なうことは国際カルテルに当たり、むしろ禁止される。しかしグローバルな計画経済下の生産事業機構体は単なる業界団体ではなく、まさに世界計画経済の主体組織となるのである。
pencilこうして世界経済計画機関が策定した経済計画は、世界共同体総会で承認審査を受けて発効すると、世界法(条約)に準じた規範性をもって各領域圏を拘束し、各領域圏レベルでの経済計画の参照指針となる。

2015年12月 6日 (日)

アフガニスタン―引き裂かれた近代史(5)

two 独立アフガニスタン

nightアマヌッラー国王の「社会革命」
 1919年、電撃クーデターで政権を掌握したアマヌッラー・ハーンがまず着手したのは、英国からの外交的自立であった。そこで、彼は5月、英国に対してジハードを宣言し、戦争を開始した。このような電撃的なやり方は、アマヌッラーの治世を特徴付けた。
 当時の英国は第一次世界大戦に勝利したとはいえ、総力戦による消耗も来たしていた。とはいえ、前線の英領インド帝国軍はなお精強で、装備が貧弱なアフガン軍は苦戦を強いられた。これに対し、アマヌッラー・ハーンはインド帝国領内に分断されていたパシュトゥン人の蜂起を煽動する作戦を用いるとともに、一時はインド帝国領内まで侵攻・占領する勢いを示した。
 戦況は英国優勢ながらも、膠着化の様相を呈する中、戦争の長期化を懸念した英国は一か月ほどでアフガン側の停戦要求に応じた。こうして8月には新たな条約が締結され、アフガニスタンは保護国の地位を脱したのである。
 こうしてアマヌッラー・ハーンの下、アフガニスタンは独立国としての道を歩み始める。対英戦争時にはジハードというイスラームの大義を掲げたアマヌッラー・ハーンであるが、統治者としては断固たる近代主義者であり、父が着手した近代化改革をいっそう急進的に進めた。
 その改革は、社会の全領域に及び、特に一夫多妻制の否定や女性のチャドル着用義務の撤廃、世俗教育の導入などの欧化を進めた。23年には人権を保障する近代的な憲法を初めて発布し、26年には、従来のアミールの称号を廃止、イラン風のシャーに変更した。
 こうした一連のアマヌッラー改革では、ソラヤ王妃も一役買っていた。イスラーム系王朝では妃は表に出ない慣例を破り、ソラヤ王妃は常に夫と行動を共にし、公衆の前に立った。彼女はまた女性の権利向上、特に女子教育の拡充に熱心に取り組むなど、アフガニスタンにおける近代的な女性像を自ら体現していた。
 外交上も、アマヌッラーは革命後のロシア・ソヴィエト政権を承認し、21年には善隣条約を締結したうえ、ソヴィエトからの経済、技術、軍事にわたる多方面の援助を受け入れた。特に空軍の創設に当たってソ連製軍用機を導入したことは、英国の警戒と不信を買い、対英関係を悪化させた。
 ソ連も領内のイスラーム教徒を統制するうえで、国境を接するアフガニスタンの戦略的重要性を認識しており、独立アフガニスタンが発足当初からソ連との関わりを強めたことは、遠く後のソ連によるアフガニスタン軍事介入とその後の内戦の遠因ともなっただろう。
 このような一連の内政外交全般に及ぶアマヌッラーの改革は、優に「革命」と呼んでもよい性格を持ち始めており、親ソ的な外交政策を除けば、後に隣国イランでパフラヴィ国王が主導した「白色革命」の先駆けとも言えた。
 そして、それは共々イスラーム保守勢力の反感を強め、政権の命脈を絶つ結果ともなる。保守派はすでにたびたび反乱を起こしていたが、28年、パシュトゥン系シンワリ部族によるジャララバードでの反乱と北部の少数民族タジク族の反乱が同時発生したことは、命取りとなった。
 騒乱状態の中、アマヌッラー国王は王位を長兄のイナーヤトゥッラーに譲り、国外に脱出した。ところが、首都カーブルはすでにタジク族反乱軍が占領しており、イナーヤトゥッラー・シャーはわずか三日で退位に追い込まれた。代わってタジク族反乱軍指導者のハビーブッラー・カラカーニーが王位に就く事態となった。

2015年12月 5日 (土)

不信蓄積

 このところ、マンションのくい打ちデータ偽装、血液製剤の不正製法など老舗大手とされる企業の長年にわたる不正慣行が相次いで明らかになっている。企業倫理の問題という見方もあるが、それだけでは済まない。資本制度の本質的な問題である。
 資本は、コスト負担を何より忌避する。コストのかからない生産方法こそ、資本蓄積の要だからである。それが不正・違法であっても、容易に発覚しないなら、選択・継続するだろう。資本企業とはそういうものである。
 競争が解決策だというのも間違っている。競争に打ち勝つためにはコスト削減競争にも勝つ必要があるからだ。その過程で不正に手を出す可能性は大いにある。丁寧・誠実は職人的手工業の古き良き伝統だったが、そうしたものを壊して成立・成長してきたのが、資本主義である。その流れは今後も本質的に変わることはない。
 しかし、製品の質や安全性への不信の蓄積は、資本主義の土台を自ら揺るがし、いずれ掘り崩すだろう。資本蓄積と不信蓄積とは、表裏一体で進行し、いつという予測はできないとしても、いつか内爆的にはじけ、砕け散る時が来る。

2015年12月 4日 (金)

もう一つの中国史(連載最終回)

八 「一つの中国史」へ(続き)

テュルク系民族の行方
 辛亥革命当時のスローガン五族共和のうち、回族とは、現代の民族分類上の回族―同化されたムスリム―とは異なり、新疆に根拠するウイグル族と重なる。この現代ウイグル族は、歴史的なウイグル族とはずれがあり、また中国史上しばしば重要な役割を果たしたテュルク系諸民族の直接子孫とも言えない。
 歴史的なウイグル族は、中国史上にも現われた同じテュルク系突厥を最終的に滅ぼし、ウイグル可汗国を建てて一時的にモンゴル高原の覇権を握る。ウイグルは8世紀の安史の乱では唐朝を支援し、9世紀には唐、吐蕃と三国会盟を結ぶほどの強国に成長したのもつかの間、840年、元来は支配下民族だったやはりテュルク系キルギス族の蜂起・攻撃を受け滅亡した。
 その後のウイグルはいくつかの地方的な王国に分裂するが、そのうち現在の新疆ウイグル自治区に相当する地域に建てられた天山ウイグル王国が強盛となる。これにより、同地域がテュルク化され、トルキスタンという地名も生じたとされる。
 この王国はやがてモンゴル帝国に従属し、ウイグル王族はモンゴル王族に準じた地位を保証される。宗教的には、当初のマニ教から仏教を経て、15世紀頃よりイスラーム教に改宗したと考えられる。
 やがてモンゴル帝国が衰微すると、この地域では同じモンゴル系ながらチンギス・カン系統とは異なるオイラト部族が建てたジュンガル帝国が覇権を握る。今日の新疆省につながる行政区が成立するのは、清朝時代の1762年、時の乾隆帝がジュンガル征服に成功し、新たな統治機関としてイリ将軍府を設置したことを起源とする。
 この統治システムでは、満州族が占める軍政長官(イリ将軍)の下、ムスリムにはベグ官人制と呼ばれる自治が保障され、新疆は清朝の半自治地域である藩部に組み込まれることになった。
 この体制はその後、この地域での重税に反発したムスリム蜂起(回民蜂起)とウズベク族軍事指導者ヤクブ・ベクの東トルキスタン支配、ロシアによる占領などの混乱を経て、支配権を奪回した清朝による1884年の新疆省設置をもって、一新される。
 新体制では、旧来のベク官人制が廃され、本土並み直接統治となったため、ムスリムの自治は剥奪された。この状態で辛亥革命を迎えると、新疆でも革命派が蜂起、前イリ将軍でモンゴル系の広福を擁する革命政権を樹立した。しかしこの後、漢族のウルムチ知事・楊増新が新疆省長として実権を掌握し、1928年に暗殺されるまで、半独立的な独裁政権を維持する。
 この間、新疆ムスリム社会ではムスリムの自立性を回復する運動が盛んとなり、すでに廃れていたウイグルの民族名を東トルキスタンのテュルク系ムスリムの呼称として復活させた。これが、現代にもつながる近代的なウイグル族の発祥であった。この民族名を政治的にも公式に確定させたのは、楊増新暗殺後、33年から44年にかけて新疆の新たな親ソ派軍事独裁者となった漢族の盛世才であった。
 その後、国民政府に鞍替えした盛が政府閣僚に就任するため、新疆を離任すると、親ソ派の東トルキスタン共和国が樹立される。この政権はウイグルの独立を目指してはいたが、実質はソ連の傀儡に近いものであった。
 戦後、国共内戦に勝利した中国共産党は49年中に新疆全域を制圧、こうした軍事的圧力の中で、東トルキスタン共和国首脳も共産党中国への合併を決断せざるを得ず、最終的に55年以降、新疆ウイグル自治区が成立した。
 こうして共産党中国統治下でも、ウイグルの名は残されたわけだが、合併後、中国当局は自治区に漢族の大量入植を進めたことから、現在の同自治区人口構成上は漢族が40パーセントを越え、ウイグル族に迫る勢力となっている。
 このことから、経済的権益を掌握する漢族とウイグル族の格差を生み、ウイグル族による暴動事件、さらにはイスラーム過激主義の浸透による爆破事件も散発するようになっている。これに対して、中国当局は徹底した鎮圧方針で臨んでいるが、元来地政学的には中央アジアに近いウイグルの北京からの支配には限界があるだろう。
 一方、ウイグルにはチベットのダライ・ラマに相当するような精神的指導者は見当たらず、民族回復・独立運動も統一されていないため、これまでのところ、十分な成果を上げられずにいる。

2015年12月 2日 (水)

私家版足利公方実紀(連載第6回)

六 足利氏満(1359年‐1398年)

 2代鎌倉公方・足利氏満とその息子の3代・満兼父子は、3代将軍・義満とほぼ同時代的に並立した鎌倉公方であり、ともに義満から名前の偏諱を授かりながら、その生涯は父子ともども義満への反抗に彩られていた。
 その反抗史の出発点となるのは、康暦の変であった。中央におけるこの政変時、氏満は斯波氏から教唆されて、反義満の挙兵を企てたが、時の関東管領・上杉憲春の自刃による諫言があり、断念した。この時は義満に謝罪していちおう赦されているが、父の初代鎌倉公方・基氏が京都から招聘した氏満の教育係で、彼のメンターでもあったらしい義堂周信を京に強制召還されるという報復を受けた。
 氏満には将軍就任の野心があったと見られるが、さしあたりその野望を断たれた彼は、地盤である鎌倉府の権威確立に転じる。すでに彼が10歳の時には、上杉氏の支援を受け、父の代に鎌倉府を支えていた武蔵国実力者で坂東平氏の流れを汲む河越氏を中心とする武蔵平一揆を壊滅させていた。
 これによって鎌倉府及び関東管領職・上杉氏の権威は大いに高まったが、まだ充分でなかった。ことに北関東には土豪的名族の下野守護・小山氏が睨みを利かせていた。小山氏は、平安時代の武将・藤原秀郷の末裔を称する一族として足利将軍家とも結んでいた。
 氏満は康暦二年=南朝天授六年(1380年)、小山氏と同じ下野の名族・宇都宮氏の間の衝突に付け込んで、時の小山氏当主・義政を攻め、永徳二年=南朝弘和二年(82年)までにこれを滅ぼした。しかし、小山氏側も義政の子・若犬丸を擁して抵抗を続けるも、応永四年(97年)までに敗北した。その過程で、小山氏を支援した小田氏や新田氏などの豪族も討伐し、鎌倉府の関東支配を強固なものとした。
 こうした氏満の実力を義満も認めざるを得なくなったものか、晩年の氏満は義満から奥州の統治を委ねられるなど、将軍家との関係は改善に向かうかに見える中、氏満は応永五年(98年)、40歳で病没し、嫡男・満兼が後を継ぐ。

七 足利満兼(1378年‐1409年)

 満兼は、父・氏満が没した時、すでに20歳に達しており、その地位承継は円滑に行なわれたようである。同時に、彼は父の反抗精神をも承継していたようで、就任の翌年に中国地方の名族・大内義弘が堺で反幕決起した際には、大内氏に加勢すべく、自ら出陣したほどであった。
 ところが、この時も康暦の乱の際の父と同様に、時の関東管領・上杉朝宗の諫言を受け、鎌倉に引き返している。その後、幕府に謝罪して赦された経緯も父と同様であった。
 満兼は、幼少で鎌倉公方として立ち、約30年の長期執権に及んだ父とは異なり、10年余りの執権であったので、さほど目立つ事績はないが、後半期の事績として、晩年の父から受け継いだ奥州統治を確立するため、二人の弟、満直と満貞を奥州に下向させ、それぞれ篠川公方、稲村公方とした。
 ところが、両公方を通じて鎌倉府から領地の割譲を要求されたことに反発した奥州の実力者で、幕府と結んでいた伊達政宗(戦国時代の政宗とは同姓同名の先祖)が、応永七年(1400年)に挙兵する。時の関東管領・上杉朝宗は息子の氏憲(禅秀)を派遣、応永九年02年までにこれを鎮圧した。しかし、伊達氏の乱はこれにて終わらず、政宗の孫・持宗の代でも再び反乱を起こしている。
 将軍家では応永十五年(08年)に大御所・義満が死去し、息子の義持が名実共に将軍として立っていたが、満兼も翌年、義満の後を追うように没したため、以後いっそう激化する鎌倉府と幕府の対立抗争は後継者の嫡男・持氏のもとで展開されることになる。

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