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2015年11月

2015年11月30日 (月)

新計画経済論(連載第38回)

第9章 計画経済の世界化

(2)貿易から経済協力へ
pencilグローバルな環境計画経済が実現された暁に世界経済上生じる最も大きな変化は、貿易という経済行為の消滅である。これはちょうど「一国」レベルでは商業が消滅するのとパラレルな関係にある。貿易とは国際的な商業活動の謂いであることからすれば、当然の事理である。
pencil貿易が消滅するといっても、完全に「一国」レベルでの自給自足体制に移行するわけではない。食糧を含めた不足物資の海外調達は継続される。しかし、それはもはや貿易という商業的な形態においては行われず、無償の経済協力という形態で行われる。ただ、経済協力といっても、資本主義経済下の経済協力のように「途上国」に対する例外的な「援助」として実施される恩恵的経済行為ではなく、原則的・日常的な互恵的経済行為として行われることに注意が必要である。
pencilそのような試みの不完全な先例として冷戦時代にソ連を中心とした社会主義経済圏の経済協力体制(コメコン)があったが、これは形式的な分業体制を採ったため、メンバー国の産業構造の偏りを生んだ。環境計画経済における経済協力はそうした形式的な分業によらない地域間協力である。
 実際、前節で述べた世界経済計画はそれ自体が経済協力の全体指針でもあるが、具体的な経済協力は地理的近接性を考慮して近隣経済協力圏のレベルで行われる。これも次章で改めて述べるが、世界を五つに区分した環域圏がそのまま経済協力圏として機能する。例えば、日本の場合は環東方アジア‐オセアニア圏が帰属経済協力圏となる。
pencilこうした経済協力の中でも、食糧に関しては人間の死活に直結し、自然条件に左右されるところが大きいため、通常の経済計画とは別途計画が立てられるが、具体的な経済協力はやはり環域圏のレベルで行われる。
pencilまた経済協力の一環として、エネルギー源となる天然資源の民際管理の問題がある。前章で論じたとおり、天然資源はナショナリズムに委ねず、何者にも属しない無主物として民際管理下に置かれるが、その管理機関として世界天然資源機関が置かれ、持続可能な共同採掘が行われる。世界経済計画はこうした資源の分配計画も包含するものとなる。

2015年11月29日 (日)

犯罪精神医学事始(連載第18回)

17 病理性過失犯罪者の治療的処遇

 過失の原因となる不注意は、多くの場合一時的な注意散漫によって惹起されるが、それ自体が何らかの精神疾患の症状であり得る病的な注意散漫や意識障碍、認知障碍による場合もある。そのような過失によって犯罪を起こした者を、単純な過失犯罪者と区別して、病理性過失犯罪者と呼ぶ。
 そもそも過失犯は、本来の意味での「犯罪」には当たらないが、人身被害をもたらした場合に政策的な観点から犯罪化されているもので、過失犯に固有の治療的処遇があるわけではなく、過失の原因となった疾患の治療そのものが即、有効な再犯防止策である。

 この点、近年の犯罪情勢として、アルコール・薬物使用下での自動車運転事故が問題化している。相次ぐ重大事故への対策として、刑法に危険運転致死傷罪が新設されたことで、この種事案は過失犯から故意犯に転化した。
 これは、この種事案に対する過失犯としての処罰だけでは刑が軽すぎるとの批判に答えて、政策的に故意犯としての厳罰化がなされたものであり、アルコール・薬物使用下での自動車事故の本質が過失であることに変わりはない。つまり法律的な転化であって、医学的な転化ではないから、病理性暴力犯罪者への治療的処遇は妥当しない。
 重大事故を起こした者の場合、背景にアルコール・薬物依存症、またはその予備軍としてのアルコール・薬物乱用が隠されていることが少なくないと見られることから、処遇に当たっても、それら物質依存症・乱用の治療を実施しなければ確実に再犯を予防できない。

 もう一つ、近年の問題として、認知症高齢者による自動車事故がある。認知症は脳の器質的障碍に由来する症候群であり、その本質は神経変性疾患であって、精神疾患ではないが、中核的な認知障碍に加え、周辺的な行動・心理症状も発現することから、精神医学の対象範囲にも含まれ得る。
 認知症も進行段階によって様々なレベルがあるが、認知症が認められる過失犯罪者を実刑に処して矯正施設に収容することは、症状の悪化の可能性を含め、処遇上の困難を生じ、適切でない。そこで、認知症高齢者の過失犯に対しては、心神喪失を認めるか、少なくとも執行猶予を付して社会内処遇に置いたうえで、適切な医療と介護が受けられるように配慮されることが妥当である。

2015年11月28日 (土)

アフガニスタン―引き裂かれた近代史(4)

one 「保護国」アフガニスタン

 第二次アングロ‐アフガン戦争後のアフガニスタンは、英国の保護国として再起することとなり、その最初の指導者が英国から王として認証されたアブドゥル・ラフマーン・ハーンであった。彼は敵対していた前首長の従兄弟であったから、血縁ではあるも、ここからは実質上別王朝の成立とみなすことができる。
 アブドゥル・ラフマーンの治世は対英戦争からは解放されたが、その代わり、国内の敵対勢力の反乱に悩まされた。最大の敵手は、従兄弟で元首長のアイユーブ・ハーンであった。対英強硬派でアブドゥル・ラフマーンを英国の傀儡として敵視する彼は1880年、地盤のあるヘラートに進軍・占拠したが、アブドゥル・ラフマーンは反撃して、アイユーブをペルシャ亡命に追い込んだ。
 アイユーブを片付けても、他のパシュトゥン系有力部族や少数民族の反乱が続いた。特に1880年代末に、シーア派の少数民族ハザラ族が大規模な反乱を起こすと、これを弾圧し、奴隷化ないし殺戮する民族浄化も断行した。
 このように、アブドゥル・ラフマーンは国内の反乱勢力に対しては軍事力とともに、国内に張り巡らせた諜報網を使って苛烈に弾圧したため、「鉄の首長」の異名を取ることにもなった。他方で、彼は中央集権化を進め、慎重ながら一定の近代化も主導した。
 彼の治世後半期で特筆すべきは、1893年に英領インドとの間で取り決めたデュアランド・ラインである。時の英領インド外相・デュアランド卿の名を取って呼ばれるこのラインは、今日のパキスタン‐アフガニスタン国境線につながる英領インドとの境界線を確定するものであった。
 これにより、英露間の「グレート・ゲーム」で争点となっていた両国の勢力圏を確定することにその狙いがあったが、アフガニスタンにとってみれば、第二次対英戦争の結果、すでに生じていた歴史的なパシュトゥン人居住地域の分断が法的に確定したことを意味し、この分断状況は現代にまで禍根を残している。
 アブドゥル・ラフマーンが20年近い治世を終えて1901年に死去し、息子のハビーブッラー・ハーンが後を継いだ時には、国内の安定は確保されていた。そうした基盤のうえに、ハビーブッラーは父の代ではまだ不完全であった近代化改革を前進させた。その改革は医療・科学技術から教育、法制度にまで及ぶ広範囲なものであり、言葉の真の意味でのアフガニスタンの近代化はこの時代まで保留にされていたと言ってもよい。
 外交面では彼の時代に第一次世界大戦を経験するが、オスマン・トルコ=ドイツ陣営からの誘いにも乗らず、中立を守り通し、英領インドとの関係維持に努めることで、アフガニスタンの安全を保障した。
 しかし、ハビーブッラー・ハーンは1919年、狩猟中に暗殺され、後継首長には、ハビーブッラーの弟で、後継指名を受けていた実力者ナスルッラー・ハーンが就いた。しかし、この直後、ハビーブッラーの三男アマヌッラーがクーデターを起こし、ナスルッラー・ハーンはわずか一週間で廃位されることになる。

2015年11月27日 (金)

もう一つの中国史(連載第26回)

八 「一つの中国史」へ(続き)

モンゴルとチベット
 辛亥革命では、多分にして名目的なスローガンではあったが、旧清朝を構成した主要五民族、すなわち漢・満・蒙・回・蔵の五族共和が掲げられていた。このうち、辛亥革命後いち早く独立へと動いたのは、モンゴル人とチベット人であった。
 清朝体制下でのモンゴル人は清朝皇帝を大ハーンとして戴く同君連合的な同盟関係者として位置づけられており、清朝の消滅はモンゴル人にとって同盟解消・独立の契機であった。
 辛亥革命初期の1911年、まず外モンゴルで、当時モンゴルの最有力部族となっていたハルハ部実力者らがチベット人活仏ジェブツンダンバ8世(ボグド・ハーン)を君主として推戴する政権を樹立する。
 他方、清朝末期に英国が事実上併合していたチベットでは13年、宗主権を取り戻した清に追われ、インドに亡命していた時のダライ・ラマ13世が帰国して独立宣言を発し、ラサを首都にダライ・ラマを元首とする政権を樹立した。
 相次いで成立したモンゴル・チベットの両民族政権は中華民国に対抗して、独立国家としての国際的な承認を求めて共闘すべく、13年にチベット・モンゴル相互承認条約を締結する。しかし、ここで両国は清朝の旧版図を基本に中央集権の確立を狙う中華民国、さらにはモンゴルへの勢力拡大を狙うロシア、インドに接するチベットを勢力圏に置こうとする英国の綱引きに巻き込まれてしまう。
 モンゴルでは、外モンゴルが紆余曲折を経ながらも最終的に現代のモンゴル国につながる独立国家となるが、内モンゴルは切り離されて中国領に残留した。その後、ロシアに次ぐ世界で二番目の社会主義革命によって外モンゴルが社会主義国となると、これに呼応して内モンゴルでも統一運動が起き、45年には内モンゴル人民共和国が成立するが、ソ連とモンゴルの承認拒否により、わずか2か月余りで消滅した。
 その後は共産党中国に吸収され、内モンゴル自治区となる。現代の内モンゴル自治区は経済発展が目覚しいが、漢族の大量移住と60年代の文化大革命期に行なわれたモンゴル族大量粛清の結果、同自治区は人口の8割を漢族が占める状態となり、モンゴル族の主体性は大きく削がれている。
 チベットに関しては1913年‐14年のシムラ条約により、チベットに対する中華民国の名目上の宗主権を承認しつつ、実質上は独立国とすることが取り決められた。しかし中華民国側が署名を拒否したこの条約の真の狙いは、英国がチベットを間接支配することであった。
 このように英国の傀儡的立場に置かれながらも、これ以降のチベットは実質的な独立国家としての体制を維持し、一定の近代化も推進されたが、51年における共産党中国のチベット進軍・占領が状況を一変させた。これに対する抵抗運動は時のダライ・ラマ14世の亡命を結果した59年のチベット蜂起で頂点に達したが、結局は中国当局の圧倒的な軍事力の前に押さえ込まれた。
 その後、独立運動掃討が一段落した66年に至り、チベット自治区が設定されるが、「自治」は多分に建て前であり、分離独立運動は徹底的に排撃される状況が続いている。しかしチベット人の抵抗はなお継続しており、チベット問題は現代中国のアキレス腱となっている。

2015年11月25日 (水)

私家版足利公方実紀(連載第5回)

五 足利義満(1358年‐1408年)

 足利将軍中でも最も著名な3代将軍義満は、父・義詮の死去に伴い、11歳で将軍に就任した。このように年少での後継となったため、当初は管領・細川頼之が政治の実権を持った。細川氏は足利氏庶流から出た足利一門であり、頼之以降、管領職を世襲する。
 前回見たように、頼之は先代の義詮が自作クーデターで斯波氏に代えて管領に抜擢した人物であったが、先代の見込みどおり忠実かつ有能で、政情がなお定まらない中、年少の義満を支え、南朝勢力の抑制にも努めた。幕府政庁が室町に定められたのも頼之実権時代であり、その意味で、厳密な室町時代とはこの時代に始まるとも言える。
 しかし、頼之は康暦元年=南朝天授五年(1379年)、突然罷免された。康暦の政変と呼ばれるこのクーデターは前管領の斯波義将や尊氏時代以来古参の宿老・土岐頼康ら反頼之派が起こしたとされ、義満は彼らの要求に屈して頼之を罷免させられたことになっている。
 幕府内に派閥抗争があったのは事実としても、実際のところ、この政変を契機に、20歳を過ぎていた義満の親政が開始されていくので、義満自身が関与した自作クーデターの疑いは充分にある。この時点で頼之を粛清せず、十数年後には赦免し、宿老としての復帰を許していることも、この政変が頼之の権力をそぐことを目的としていたことを裏付ける。
 いずれにせよ、この政変を契機に義満は自身の権力を確立していく。その過程で、義満はまず興福寺に代表される寺社強訴勢力を抑え込むとともに、後ろ盾の北朝・公家にも食い込み、源氏長者として朝廷・公家勢力を統制するようになった。
 この時期のもう一つの課題は、南朝勢に代わって幕府体制の内在的な不安定要素となりつつあった守護大名勢の統制であった。守護大名は、細川頼之実権時代の応安元年=南朝正平二十三年(68年)に出された応安の半済令によって、鎌倉幕府以来の守護の土地支配が強化され、旧来の荘園・国衙領を侵食していったことにより成立したもので、これによって日本型の封建領主制が形成されていく。
 このことは守護大名勢に支えられた幕府の中央権力の弱体化を意味した。義満はこうした状況を食い止めるため、有力守護大名の抑圧を行なった。手始めは土岐氏征伐であった。土岐氏は尾張・伊勢を所領とする美濃源氏系の名門で、康暦の政変では当主・頼康が功労者となったが、その後息子の康行が起こした一族内紛に付け込み、討伐、所領没収としたものである。
 その後も、明徳二年=南朝元中八年(91年)には足利氏とも親戚筋の新田氏庶流で、当時全国66か国中11か国の守護を兼ねたため「六分の一殿」の異名を取った山名氏を挑発し、討伐した。義満の守護大名征伐は隠居後も続き、応永六年(99年)には南北朝合一時の仲介人として功労もあった中国地方の土豪大名・大内氏を討伐している。
 義満親政前半期の集大成が明徳三年=南朝元中九年(92年)の南北朝合一であった。すでに南朝勢は先代の頃には弱化しており、この時期の合一は必然とも言えたが、義満の権力確立を背景として初めて実現したことではある。
 義満はこの合一を見届けた後、応永元年(94年)に将軍職を幼少の息子・義持に譲り、隠居した。これは室町将軍の生前譲位の初例であり、ここにも将軍権力の確立ぶりが窺える。しかし、隠居といっても形だけであり、この後応永十五年(1408年)の死去までの時期は義満が大御所として以前にも増して絶大の権力を握った親政後半期と言えた。
 親政後半期の事績としては、中国明朝との勘合貿易の開始がある。その際、義満は明朝皇帝から「日本国王」として冊封を受けており、少なくとも対外的には将軍が「君主」として認証されたことになる。義満には自身が皇位簒奪を狙っていたと指摘されるほど君主志向があったと見られるが、その念願は少なくとも対外的には果たされたのであった。
 彼が死去した時、朝廷はその権勢におもねってか、天皇並みに「太上法皇」の称号を追贈するが、これは後継者の四代将軍・義持によって辞退されたため、実現しなかった。
 こうして、年少での就任から大御所時代まで通算すれば40年近くに及んだ義満時代は終焉するが、守護大名統制という彼の目標は次第に公家化していく軟弱な子孫たちによって果たされることなく、幕府権力は彼の死後、多少の浮沈はあれ、弱体化の途をたどることになる。

2015年11月24日 (火)

新計画経済論(連載第37回)

第9章 計画経済の世界化

(1)グローバル計画経済
pencil前章まで、環境的持続可能性に配慮された新しい計画経済環境―環境計画経済―のあり方について論じてきたが、ここでの議論はさしあたり、「一国」のレベル―続く第10章で改めて論じるように、環境計画経済は「国」という政治単位と両立しない―での計画経済を想定してきた。
 しかし、環境的持続可能性とは正確に言えば、地球環境の持続可能性―つまり、地球が少なくとも内部的な要因から死滅することのないように保持していくこと―を意味するから、環境計画経済は特定の「一国」だけで実践され得るものではない。
pencil環境計画経済は、その究極的な形態においては、まさに地球規模で実践されなければならない。この点において、それは環境的持続可能性を「一国」の政策レベルの課題に矮小化する「環境保護論」とも、また気候変動や生物多様性等々特定の環境課題を個別の国際条約―しかも、批准/脱退は各国の個別判断任せ―を通じて協調しようとする近年の潮流とも異なり、よりいっそう徹底した世界化を目指ざしている。
 そのためには、環境計画経済の世界的な準則となる世界経済計画が必要とされる。それは前章までの議論で前提とされてきた「一国」レベルにおける経済計画の全体的な大枠(キャップ)となるものである。言い換えれば、「一国」レベルでの計画は世界レベルでの経済計画に基づく個別的な割当て(クォータ)の位置づけとなる。
pencilこのような壮大な構想に対しては、果たして数十億人口を抱えるに至った現存地球上でそのような大規模な経済計画を紛議なく実効的に策定することができるのかという「現実主義」からの疑問が示されるであろう。
 たしかに、これは人類がいまだ経験したことのない壮大な経済実験ではあるが、それも現存の主権国家体制を撤廃し、主権国家の連合体にすぎない現存国際連合に代わる「世界共同体」を創設することを通じて、実現の道が開かれると考える。その意味で、環境計画経済と政治制度の関係は重要な論点となるが、これは次章の課題とする。

2015年11月23日 (月)

犯罪精神医学事始(連載第17回)

16 アルコール・薬物依存性犯罪者の治療的処遇

 アルコール・薬物依存性犯罪は、日常的な犯罪報道でもお馴染みのものであろう。厳密に言えば、合法的な飲料である酒と、禁制薬物を包括するのは適切でなかろうが、依存性癖がしばしば暴力犯罪の原因となる点では包括しても誤りではない。
 なお、アルコール・薬物ともに、依存症状態にない者(例えば初体験者)が摂取し、酩酊ないし薬理作用下で暴力犯罪に及ぶこともあり得るが、このような突発的なケースはここでの考察からは除外する。

 さて、薬物依存性犯罪の場合、禁止薬物自体を依存的に使用する場合と、何らかの薬物の薬理作用下で犯罪を起こす場合とは区別され得る。前者の自己使用は、本来犯罪というよりはまさに疾患としての依存症そのものなのであるが、法律は自己使用も犯罪として処罰するいわゆるパターナリズムの立場をとっている。
 とはいえ、自己使用者に懲役刑を科して刑務作業を強制しても、それだけで依存症自体の治療効果は期待し難い。犯罪としての取り締まりは治療につなげる手がかりと割り切って、早期に依存症自体の治療プロセスに入ることが更生にもつながる。その点で、少なくとも初犯者は保護観察処分に付して、保護観察下で治療を強制するような制度が望まれる。

 これに対して、飲酒酩酊下あるいは薬理作用下での暴力犯罪の場合は、暴力犯としての処罰は免れないところである。この点、酩酊や薬理作用により犯行当時意識障害に陥っていたとしても、一連の犯行の起点においては正常であったならば、全体として完全責任能力ありとするのが日本の司法実務であるが、医学的には疑問の余地ある扱いである。
 責任能力の要素として是非弁別能力のみならず行動制御能力も併せて見るならば、犯行の起点において正常であっても、犯行時点で重篤な意識障害のゆえに行動制御能力が著しく減退していたならば、少なくとも心神耗弱は認めるべきであろう。そうしたうえで、矯正施設では依存症の治療を優先的かつ集中的に行なう必要がある。

 アルコール依存症と薬物依存症は古くから見られ、その治療法一般も研究されてきているにもかかわらず、難治性で、確立された定型的治療法はない。また専門医療施設も限られ、まして矯正施設内での治療的処遇となると未開拓である。
 このような遅れは、人間の精神作用の高度な複雑さを象徴しているが、臨床犯罪精神医学はこのような分野でこそ、その真価を発揮できるはずである。

2015年11月22日 (日)

もう一つの中国史(連載第25回)

八 「一つの中国史」へ

辛亥革命と満州族の行方
 清朝は1900年の義和団の乱を契機として、急速に衰亡に向かい、1912年には辛亥革命により滅亡した。革命はいくつかのスローガンを掲げていたが、その中に「回復中華」があった。つまり、漢民族の支配権奪回である。
 その点では、清末の革命運動は、モンゴル系元朝から漢民族が支配権を奪回した明朝樹立運動と同質的な面があり、実際、革命による中華民国の樹立は、明朝以来およそ300年ぶりの漢民族体制の再興でもあった。
 これ以後、中国の体制は軍閥割拠、日本の侵略、中台分断・共産党支配と激しく変遷していきながらも、漢民族の主体性は一貫している。周辺民族が中国史の主役となる「もう一つの中国史」の時代は終わり、「一つの中国史」の時代に入っていくのである。
 その意味では、本連載もここで閉じてよいのであるが、最後に、清朝の時代まで「もう一つの中国史」を動かしてきた諸民族のその後の進路を一章割いて総覧してみようと思う。
 まずは清朝の支配者層であった満州族である。上述のように、清末革命運動は単なる清朝打倒にとどまらない漢族の支配権回復運動でもあったから、旧支配者民族・満州族に対する風当たりは強く、その後の満州族は民族喪失の一途であった。
 もっとも、清朝は満州族が多数派の漢族に同化することを厳しく警戒しながら、言語・文化面での自然同化は避けられず、その民族故地・満洲にも漢族が大量入植することを阻止できなかったため、満漢同化は決定的となった。
 そうした中、中国大陸への侵略を進めていった大日本帝国は、閉塞状態にあった満州族に目を付け、清朝最後の皇帝だった愛新覚羅溥儀を復位させる形で満洲国を建てたが、これは日本の戦略的な傀儡国家であり、もはや満州族主体の独自国家とは言い難かった。
 戦後、中国共産党体制が樹立されると、少数民族公認政策の一環として、旧八旗人の子孫は満族として認定された。現在、満族は1000万人を超え、55の公認少数民族中ではチワン族、回族に次ぐ勢力ながら、満州族固有の文化は消滅し、話者をほとんど喪失した満州語は絶滅危機言語となっている。
 かくして、かつてあれほどの成功した帝国を築いた民族としては異例にも、清朝を支えた満州族は名目上の存在と化しており、分離独立の動きもなく、今後の中国史において固有の役割を果たす可能性はほとんどないであろう。

2015年11月20日 (金)

私家版足利公方実紀(連載第4回)

三 足利義詮(1330年‐1367年)

 足利義詮〔よしあきら〕は、室町幕府を開いた尊氏の嫡男であるが、実際は、上に二人の異母兄がいた。しかし、どちらも庶子だったため、正室との間の長男であった義詮が嫡男となる。従って、父が幕府を建てた頃はまだ幼児であった。
 しかも、父が後醍醐天皇討伐のために出陣した際には、鎌倉幕府・北条氏への忠誠の証となる人質として鎌倉に置かれるという封建的な悲哀も体験した。しかし、父が幕府に反旗を翻すと、義詮は家臣の導きで鎌倉を脱出し、父の名代を務めるなどしたが、この時点では親族や家臣に守られ、多分に象徴的な役割を果たしていたにすぎなかった。
 その後、政権を掌握した父と権力を分有する形となっていた叔父・直義のもと、鎌倉で育成されていた義詮が実質的に頭角を現すのは、観応の擾乱の頃である。乱を契機に父から京都に呼び寄せられた義詮は直義の後任を託され、後継者としての道を本格的に歩み始めた。
 しかし、幕府の政情は安定せず、南朝勢や直義方に付いた異母兄・直冬らにより、たびたび京都を奪われる政権崩壊危機を経験するが、武将としての手腕もあったらしい義詮は常に父を支え、京都奪回、政権回復に貢献している。観応の擾乱の後、健康が悪化していた尊氏が延文三年=南朝正平十三年(1358年)に死去すると、2代将軍に就任した。
 将軍としての義詮の使命は父から受け継いだ幕府の権力の安定化にあったが、彼はそのために軍事行動に頼るよりは、懐柔と融和に努めた。その結果、63年頃までには南朝との融和、さらに中国地方でにらみを利かせていた直義派の山名氏、一時南朝に転じた大内氏の取り込みにも成功し、幕府体制はひとまず安定に向かった。
 そのうえで、義詮は父が苦手としていた行政・司法制度の整備に努めるとともに、将軍権力の強化を目指した。死の前年、それまで重用していた管領・斯波義将をその父でやはり将軍側近であった斯波高経の「陰謀」を理由に更迭し、細川頼之に交代させた政変(貞治の変)も、そうした将軍権力の強化につなげる自作クーデターであったと言える。
 しかし、義詮は貞治の変の翌年貞治六年=南朝正平二十二年(67年)に発病、死去した。将軍在任年数は9年と長くはなく、後継指名した嫡男・義満もまだ幼少であった。道半ばでの早世であったが、幸いにして新管領の細川頼之は忠実かつ有能であり、幼少期の義満を補佐し、間もなく義満の室町全盛時代を準備したのである。

四 足利基氏(1340年‐1367年)

 足利基氏は、義詮とは年の離れた同母弟であり、その活動もほぼ並行している。基氏は父・尊氏が幕府を開いた後に生まれた子であったが、観応の擾乱後、尊氏の指示で鎌倉公方として鎌倉に下ったことから、基氏が鎌倉公方家、さらには古河公方家の始祖となった。
 基氏が鎌倉入りした当初は当然にも幼児であり、この後、しばらくは観応の擾乱に端を発する争乱に巻き込まれる。特に、関東執事として当初は鎌倉府の実権を持った上杉憲顕が直義派として尊氏により追放されると、鎌倉府は文和二年=南朝正平八年(1353年)以後、9年にわたり武蔵国入間川に移され、基氏もここに陣取ることになった。
 しかし、基氏は心情的に憲顕に相当肩入れしていたようで、父の死後は憲顕の復権工作に没頭、これが彼の短い後半生の目標のほぼすべてを占めたと言っても過言でない。その過程で、憲顕の後任の関東執事に就いていた畠山国清及び憲顕から剥奪された越後・上野の守護職に就いていた宇都宮氏綱を相次いで討伐、最終的に憲顕の復権を成功させ、以後関東管領職は上杉氏の世襲で確定するのである。
 基氏は政治面では憲顕に入れ込む一方、文化面では臨済宗僧侶の義堂周信を重用した。足利家と縁の深い禅僧・夢窓疎石の高弟でもあった彼は基氏から鎌倉に招聘され、禅宗の教導者や、基氏嫡男の氏満の教育係を務めるなどした。周信を通じて、基氏は鎌倉に京文化を持ち込んだとも言える。
 基氏が長生して、甥の3代将軍・義満とも並び立てばどうなっていたかは興味のあるところであるが、基氏は兄の義詮と同年、兄に先立って早世する。短命だったため、基氏の評価は難しいが、兄の義詮と協力し、何度も危機に陥った室町幕府体制を何とか持ちこたえさせた手腕は認められるであろう。
 なお、足利将軍宗家断絶後、最終的に近世足利氏である喜連川氏となるのは、基氏の子孫であった。その意味では、結果的ではあるが、基氏は単なる鎌倉公方家始祖にとどまらない重要人物とも言える。

2015年11月17日 (火)

新計画経済論(連載第36回)

第8章 計画経済とエネルギー供給

(4)エネルギー消費の規制
pencil環境計画経済におけるエネルギー供給計画は、末端需要者のエネルギー消費のあり方にも影響を及ぼす。当然にも、資本主義経済下のように需要者が欲するだけ無制限に消費できるということにはならない。
pencil特に二次エネルギー源の中でも最も重要な電気の消費は厳正な計画供給制となるが、その場合、事前告知による計画停電のような全体統制的な方法とリミット制のような個別規制的な方法とがある。
 計画停電は大災害時等の非常措置としてやむを得ない場合もあるが、日常的にこうした全体統制的な供給体制を採ることは、電力供給システムが整備されている状況では不必要である。
pencilそこでリミット制が選択されるが、その適用方法は一般世帯と企業体のような大口需要者とでは異なる。大口需要者については、電力事業機構との個別協定により日量のリミットを設定するが、一般世帯では個別協定ではなく、予め通知された約款で定められた日量上限を超えた場合、事前警告のうえ自動的に停電するという方法によることが望ましい。
 おそらく、環境計画経済が確立される頃には、こうしたリミット制を支える技術革新が進み、末端需要者が電力使用量をリアルタイムで把握でき、リミットに接近すれば警告されるような測定装置が一般世帯にも普及すると予測されるから、現時点で想定されるような煩雑さはないものと思われる。
pencil同様のリミット制はガスにも導入されるが、環境計画経済はオール電化とかオールガス化といった消費エネルギー構成の偏向は許さず、消費エネルギーバランスが考慮される。そのためにも、電力供給とガス供給は統合的な事業体(電力・ガス事業機構)を通じて包括的に行われることが考えられてよい。
pencilとはいえ、こうしたエネルギーの大量供給体制はいかに計画化を進めても環境的持続可能性にとって十分ではないから、エネルギー自給システムの普及も併せて考慮されなければならない。具体的には自家発電装置の常備や地方集落では薪火のような伝統的発火手段の復活併用などである。

2015年11月14日 (土)

アフガニスタン―引き裂かれた近代史(3)

zero 曖昧な近代の開始

night第一次アングロ‐アフガン戦争
 バーラクザイ朝アフガニスタン首長国に対する英国の第一次戦争で前面に出てきたのは、当時英国のアジア侵略の先兵であった東インド会社軍であった。非正規の傭兵組織とはいえ、インド人のセポイを主力に強大な軍事力を持った東インド会社軍は、1839年8月までに首都カーブルを陥落させ、バーラクザイ朝初代首長ドスト・モハンマドは中央アジアのウズベク系ブハラ首長国に亡命した。
 英国は約束どおり、旧王家のシュジャー・シャーを王位に就けた。こうしてバーラクザイ朝はいったんはあっけなく崩壊するのであるが、ここからアフガン人持ち前の粘り強さが発揮される。バーラクザイ朝勢力はカーブル北西の渓谷地帯バーミヤーンを根拠地にカーブル奪回を目指して武装抵抗を続ける。
 ドスト・モハンマドの息子ワジル・アクバル・ハーンがこの戦争を指揮して、42年には東インド会社軍を撃破した。この際、老将エルフィストーンに率いられてカーブルから撤退した英軍は軍属を含む1万6千人以上が殺害されるか、捕虜とされる(将軍も捕虜となり、抑留中に死亡)悲惨な敗北を喫した。この後、功労者アクバル・ハーンが二代目首長に即位する。
 英国は翌年報復戦を挑むも、芳しい成果を上げることなく、アフガニスタン攻略をひとまず断念する。一度帰国するも、その後捕らわれ英領インドに抑留されていたドスト・モハンマドも解放された。彼は45年に息子のアクバル・ハーンが死去したことを受け、再度首長に復帰する。
 二期目のドスト・モハンマドは当初、英国への牽制策として仇敵シク王国と同盟する道を選ぶが、ランジート・シング死後、混乱を極めていたシク王国は49年に英国に敗れ、英国領に併合された。
 これを見たドスト・モハンマドは一転、英国との融和に転じ、55年にはペシャワール条約を締結して英国と同盟した。以後は、英国と結びつつ、北西部の要所ヘラートの領有権をめぐり、ペルシャとの戦争に没頭し、ヘラートを奪回した63年に死去したのである。

night第二次アングロ‐アフガン戦争
 ドスト・モハンマドの死後、後継指名されていた彼の30人近い息子の一人シール・アリ・ハーンが即位するも、翌年以降、二人の兄が反乱を起こし、66年にいったん首長位を失う。しかし反攻に出たシール・アリは、68年までに地位を回復した。
 こうして始まったシール・アリの治世は再び英露の「グレート・ゲーム」に悩まされるものとなった。この間、ロシアが攻勢に出て、68年から76年までに中央アジアの三つのウズベク系ハーン国を次々と保護国化していった。
 これに対し、シール・アリは中立政策で臨もうとするが、78年、外交上の不手際から招待していないロシアの外交使節の強行訪問を排除できず、対抗上要求された英国の使節は拒否したことを英国側に咎められ、英国の宣戦布告を招いた。
 こうして38年ぶりに始まった第二次アングロ‐アフガン戦争では前の戦争と違い、74年に東インド会社を解散していた英国は正規の軍隊(英印軍)で三方から侵攻する巧妙な作戦を展開し、優位に戦況を進めた。シール・アリは退位を余儀なくされ、北部マザリシャリフに逃れ、死去する。
 後を継いだ息子のモハンマド・ヤークブ・ハーンとの間で79年に締結されたガンダマク条約で、アフガニスタンは英国の保護領となることが約された。しかし粘り強いアフガン人の抵抗が断続的に続く中、ヤークブ・ハーンはわずか八か月で退位、後継の弟モハンマド・アイユーブ・ハーンは妥協的な兄とは異なり、反英闘争を続け、今日でも国民的英雄として記憶されている。
 こうした中、英国はシール・アリへの反乱に加わった後、ロシアの庇護下で亡命生活を送っていたタシケントから帰国したシール・アリの甥アブドゥル・ラフマーン・ハーンに目を付け、前記ガンダマク条約の履行を条件に、彼に王位を約束した。アブドゥル・ラフマーンはこれを受け入れ、新首長に即位した。
 以後、戦争の泥沼化を恐れた英国はアフガニスタンから軍を撤退させ、内政はアブドゥル・ラフマーンに委ねる自治政策を採った。こうして、アフガニスタンは改めて英保護国として再出発する。
 しかし、この時の条約で取り決められた国境線の結果、パシュトゥン人の居住地域がアフガニスタン側と当時の英領インド側(現パキスタン)とに分断されることとなった。この分断が、遠く21世紀には過激派集団が掃討作戦を逃れて活動するうえで有利に働いているのは、歴史の皮肉である。

自然の警告

 自然は時に、まるで意思を持っているかのような現象を見せることがある。人類が神の存在を信じたくなるゆえんであろう。本日早朝、鹿児島・佐賀方面で発生した地震・津波は、まさにそれである。
 地震・津波の発生エリアでは、先般、川内原発が再稼動を開始し、続いて玄海原発も来年度中の再稼動が画策されているところである。今回の地震・津波は中小規模で、本稿執筆時点において両原発への被害情報はないようだが、政権・財界がちょうど原発再稼動の起爆地点に狙い定めたエリアでの地震・津波の発生は、まさしく自然の警告である。
 超自然的なものへの信仰が政治にも反映されていた古代の為政者ならば、これを実際、政治の過ちへの警告と受け取って、原発再稼動の撤回を決定したかもしれないところである。
 標榜上「科学」に依拠している現代の為政者はそういう発想をとらず、ひとまず被害影響なしで安堵し、再稼動政策を強行するのだろうが、自然の警告を無視すれば、いずれ自然からしっぺ返しを食らう時が来るだろう。

2015年11月13日 (金)

もう一つの中国史(連載第24回)

七 東北民族の興亡(続き)

清帝国の覇権
 明の時代に有力化した建州女真族の中から、一人の英傑が現われた。ヌルハチである。建州女真の部族長家に生まれた彼は当初、明の後ろ盾を巧みに得て、建州女真の統一に成功する。その基盤の上に、彼は他の女真系部族を次々に征服して、1616年、後金を建国した。金の滅亡以来、およそ400年ぶりの女真系国家の樹立である。
 ヌルハチは組織力に長け、女真族の伝統的な社会集団を八旗制と呼ばれる軍事組織に再編して、軍事力を強化した。そうした軍事力を背景に、彼は明朝の打倒を宣言し、天下取りを目指したのである。
 志半ばで1626年に没した彼の遺志は後を継いだ息子のホンタイジ(太宗)に受け継がれ、孫の順治帝の時に至り、清は全国王朝として確立される。ここまでの展開は、北方から出たモンゴル系元の成立過程とよく似ているが、違っていたのはその後である。
 元が漢化をほぼ拒否し、モンゴル独自の慣習に固執したのに対し、清は漢化を受け入れ、科挙制度も継承した。特に清の全盛期を演出した第4代康熙帝は自ら儒学を勉学し、著名な漢字字典『康熙字典』の編纂事業など、漢文化の集大成にも尽力している。
 康熙帝はその一方で、版図拡大にも力を入れ、モンゴルやチベット方面にも遠征し、勢力圏に収めた。彼の時代に東北部から新疆に及ぶ現代中国の領土がほぼ確定し、清は広大な覇権国家となる。
 このような超域性も元と似ているが、モンゴル民族主義を脱することができなかった元とは異なり、清は満州族と改称した支配者民族の主導性を固守しつつも、最大民族漢族をはじめ、支配下民族間の融和にも意を用いた。
 こうして、清はちょうど同時代に並存したロシアのロマノフ朝、日本の徳川幕藩体制と並び、東方の近世を担う持続的な王朝として確立されていった。しかし、康熙帝に始まる清の全盛時代である三代130年あまりに及んだいわゆる「康雍乾盛世」が終わり、19世紀に入ると、清は帝国主義化した西洋列強からの攻勢と領土蚕食に悩まされることになる。
 この点では、末期まで「鎖国」によって体制防衛を図った徳川幕藩体制とは異なり、中途半端な半開国政策を採った清の末路はより厳しいものとなった。それも、清が異文化の受容に対して寛容であったことがあだとなったかもしれない。
 一方で、清は西洋列強の一つとして帝国主義化していった帝政ロシアのような道もとらず、国際的には中国古来の多分に儀礼的な朝貢外交の域を出ようとはせず、おおむね過去の中国王朝と同様に中国大陸を中心とした「中華帝国」の踏襲にとどまっていたことは、やがてアジアでいち早く帝国主義化していく近代日本を含めた列強に付け込まれる要因となったであろう。
 とはいえ、およそ300年にわたって存続した清は、中国における異民族王朝としては最も成功を収めた体制であったことは事実である。同時に、それは中国大陸最後の世襲支配体制ともなった。その点でも、ともに革命によって打倒されたロマノフ朝や徳川幕藩体制と近似するのは、興味深いところである。

2015年11月11日 (水)

私家版足利公方実紀(連載第3回)

二 足利尊氏(1305年‐1358年)

 足利尊氏は、先代貞氏の次男として鎌倉時代末期に生誕したが、本来足利氏の家督は貞氏の出家後いったんは異母兄の高義が継いでいた。しかし、高義は20歳ほどで夭折したため、貞氏が復帰していた。
 以後、貞氏は存命中に次男の尊氏(当時は高氏)に家督を譲った形跡がない。その理由としては、高義の母は北条氏出身の正室だったのに対し、尊氏の母は上杉氏出身の側室だったことが想定できる。北条氏への忠義に生涯を尽くした貞氏としては、北条氏の母を持たない次男に生前家督相続させることには憚りがあったのかもしれない。
 しかし、貞氏没後には尊氏が家内文書発給者となっており、相続は円滑に行なわれたようである。当初の尊氏は父の敷いた路線どおり、鎌倉幕府の忠臣としてスタートし、後醍醐天皇派による倒幕運動でも幕府側で鎮圧に当たっている。
 ところが、元弘三年=北朝正慶二年(1333年)に後醍醐天皇が再挙兵すると、当初鎮圧のため出陣した尊氏は幕府に反旗を翻して天皇側に付き、幕府の京都支配機関であった六波羅探題を滅ぼす功績を上げ、政権を握った後醍醐天皇から勲功第一人者として名前の偏諱を受け、尊氏に改名した。
 このように、尊氏はまさに「ミイラ取りがミイラになる」の諺どおりの行動を示したのであった。その理由として『太平記』では、元弘元年に後醍醐天皇が蜂起した際、父貞氏の喪中にもかかわらず幕府に出陣を強要されたことへの恨みを挙げているが、いかに封建時代人とはいえ、形式的な理由に過ぎるであろう。むしろ、後に後醍醐天皇にも反旗を翻した尊氏の行動からして、彼には情勢を読んで敵味方を乗り換える党派政治家的な性格が濃厚に見て取れる。
 実際、彼は後醍醐天皇の反動的な天皇中心政治が人心を離反させているのを見るや、天皇を見限る。この後、後醍醐天皇派との抗争を経て、北朝を樹立したうえ、室町幕府を開くまでのよく知られた経緯は省略するが、彼の党派的な日和見主義が朝廷・公家勢力をも巻き込み、南北朝動乱を招いたことは否めない。
 さて、尊氏の天下取りは東国武士源氏が再び政権を奪回したという歴史的意義を持ったが、おそらくは分裂した朝廷を統制しやすくするため、平氏政権を除けば、歴代武家政権としては唯一京都に首府を置いたため、室町幕府体制は一種の公武二重権力状態となった。
 そのうえ、発足当初の幕府は主として軍権を握る尊氏に対し、行政・司法面を同母弟の直義〔ただよし〕が分担する二頭政治であった。このような権力分有体制は尊氏が行政・司法のような実務を苦手としたことの結果とも言われるが、幕府の基盤が安定しない間の権力分有は内紛のもとになりかねなかった。
 果たして、足利氏の執事として強い発言力を持つようになっていた高師直と直義の対立が高じて、貞和五年=南朝正平四年(49年)から観応三年=南朝正平七年(52年)にかけて内戦が勃発する。この観応の擾乱で、尊氏は兄を裏切って南朝に降った直義を追討するため、自身も南朝に降るという奥の手を使った。結果として、暫定的な南北朝統一(正平一統)が成立したのだが、このような幕府の権威を落としかねない術策にも、尊氏の日和見主義が現われている。
 観応の擾乱を契機に、尊氏は嫡男の義詮を擁するとともに、四男の基氏を鎌倉公方として鎌倉に赴任させ、出先機関として鎌倉府を整備した。このように、東国統治の出先にも足利将軍家を配したことから、後に鎌倉府が自立化し、事実上の東西幕府体制に移行するもととなった。
 観応の擾乱が文和元年=南朝正平七年(52年)の直義の敗北と急死―尊氏による暗殺説がある―をもってひとまず終結する。しかし直義派残党はその養子で尊氏の未認知の実子とされる直冬を立てて、中国地方を根拠地に抵抗を続け、文和三年=正平九年(54年)には京都に進撃、尊氏が一時京都を追われる危機に陥るが、義詮の助力を得てこれを撃退した。
 このように、尊氏の治世は南北朝動乱に加え、一族の内紛も絶えず、政情が安定することはなかった。ここにも、尊氏の日和見主義と統治能力の欠如が関わっていたであろう。その点で、江戸幕府初代の徳川家康とは大きな相違がある。
 それでも、幕府が倒壊せず、存続していけたのは、尊氏自身、武将としての戦闘指揮には長けていたこととともに、嫡男として2代将軍に就任する義詮と初代鎌倉公方として関東統治の基礎固めをした基氏という二人の有能な息子たちの補佐があったことによるところが大きい。

2015年11月10日 (火)

新計画経済論(連載第35回)

第8章 計画経済とエネルギー供給

(3)エネルギー事業体
pencil一般世帯と企業体その他のエネルギー需要者に対するエネルギー生産・供給を任務とする事業体(エネルギー事業体)のあり方は、生産様式一般と無関係ではないが、必ずしも必然的な関係にあるわけではない。
pencilすなわち資本主義生産様式にあっても、天然資源の共有化政策によりエネルギー事業体に関しては国有などの公企業体の形を採ることはあり得るし(特に石油などの資源事業体)、日本の電力事業体のように株式企業ではあるが、地域独占企業体としての特権を国から保障された公認独占企業体の形態を採ることもある。
 しかし、近時の新自由主義的なイデオロギーはエネルギー生産・供給の自由化にも及び、特に電力事業の民営競争化を志向する傾向が強まっている。
pencilこれに対して、エネルギーの民際管理に基づく供給計画化が図られる計画経済下のエネルギー事業体は、社会的所有型の公企業を基本とする。具体的には、第4章で見た生産事業機構の形態を採ることになる。
 例えば、電力であれば、電力事業機構である。このような企業体は現行電力会社のように地域ごとに分割するのではなく、全土統一的な事業体として設立されるが、いくつかの地方管区ごとに地方事業所が置かれ、ある程度の分権的な運営は図られる。
pencilまた民際管理される石油をはじめとする一次エネルギー源は、商業的な輸入によるのでなく、各領域圏ごとの供給枠に従い計画供給されることになるため、その統一的な受け入れ窓口となる事業体が必要である。
 この点、前回指摘したように、経済計画評議会の下部機関としてエネルギー事業体で構成するエネルギー計画委員会の直轄事業体として、供給資源の包括的な受け入れ窓口となる天然資源渉外機構を設置し、供給枠の交渉から海上輸送まで担当する。受給した資源の領域圏内での二次供給については、エネルギー計画委員会が担う。
pencilなお、原子力発電を用いない環境計画経済は同時に原発廃止という歴史的な時間を要するエネルギー廃棄のプロセスをも含んでいる。こうした脱原発計画も世界規模で実施されるが、さしあたり領域圏内でも電力事業機構とは別途、原発廃止事業機構のような専門事業体が設置される。

clubMEMOclub
(2)で付言したように、エネルギー計画委員会を二院制の上院的に構制するならば、上記天然資源渉外機構や原発廃止事業機構なども、「上院」の直轄事業体となる。

2015年11月 7日 (土)

アフガニスタン―引き裂かれた近代史(2)

zero 曖昧な近代の始まり

nightバーラクザイ朝の成立
 アフガニスタンに関して近代史を語る難しさは、いつから近代が始まるのかが曖昧なことである。いちおう、現代アフガニスタンにおいて最大勢力―とはいえ、その比率は50パーセント前後―であるイラン系民族パシュトゥン人が最初に王朝を建てたのは、1709年のことであった。
 しかしこのホターキー朝はわずか29年で滅びてしまう。続いて1747年、ホターキー朝を担ったギルザイ部族連合とは別のパシュトゥン人一派がドゥッラーニー朝を樹立する。以後、アフガニスタンの王家は広くはこの王朝を建てたドゥッラーニー部族連合から出るため、その始祖アーマド・シャー・ドゥッラーニーは「建国の父」とみなされている。
 彼に始まるサドーザイ部の王朝支配は19世紀まで持続するが、1826年、弱体化・分裂した王朝からドスト・モハンマド・バーラクザイが独立して、新たにバーラクザイ朝を樹立した。ドスト・モハンマドはドゥッラーニー部族連合の中でも旧王家を担ったサドーザイ部とは別筋のバーラクザイ部の出身であった。
 彼は首長(アミール)を名乗ったため、以後はアフガニスタン首長国となる。このバーラクザイ朝首長国は1929年の内乱を契機に実質的な王朝交代がなされるまでアフガニスタン近代への橋渡し役を担ったので、いちおうこのバーラクザイ朝の成立をもってアフガニスタン近代史の始まりとみなすことはできるが、その歩みは古い部族的慣習とイギリスとの戦争により大きく遅れる。
 初代首長となったドスト・モハンマドが最初に直面した外患はムガル帝国が衰退したインドとインドを根拠に西アジアへの覇権拡大を狙うイギリスが絡んだ複雑なものであった。当初は復権を狙う旧王家サドーザイ部のシュジャー・シャーが北インドのパンジャーブ地方に興ったシク王国と組んで、バーラクザイ朝の転覆を企てた。ドスト・モハンマドは抗戦し撃退したものの、現在はパキスタン領に属するペシャワルを奪われた。
 当時のシク王国を率いるのは、「パンジャーブの虎」の異名を持つランジート・シングであったが、ドスト・モハンマドも善戦し、シク王国の南下を抑止した。これでひとまずバーラクザイ朝は安定的な船出に向かうかに見えたが、今度はイギリスが干渉してくる。
 当時ムガル帝国を攻略してインドに足場を築きつつあったイギリスはロシアの南下に対抗するべく、戦略上アフガニスタンへの軍の進駐を必要としていた。このイギリスの要求に対し、ドスト・モハンマドは先に失ったペシャワルの回復を条件とする駆け引きを展開した。
 イギリスにとってみると、バーラクザイ朝がペシャワルを回復することは領土拡張につながり、イギリスの西アジア戦略上障害となりかねない。そこで1838年、イギリスはなお復権の野望を捨てていなかった前出のシュジャー・シャーに対し、王位を約束しつつ、バーラクザイ朝に対し、宣戦布告する。
 こうして始まったイギリスの対アフガン戦争は、その後、さらに二度起こる一連の対アフガン戦争の最初のものとして、後世、「第一次アングロ‐アフガン戦争」と呼ばれることになる。
 またこの頃に始まる、アフガニスタンを中心とした西/中央アジアをめぐるイギリスとロシアの帝国主義的な覇権抗争を「グレート・ゲーム」とも称するが、他人の庭を踏み荒らすこの迷惑な「ゲーム」こそ、アフガニスタンの近代史を引き裂いた主因であった。

2015年11月 5日 (木)

もう一つの中国史(連載第23回)

七 東北民族の興亡(続き)

先駆者・金
 東北のツングース系諸民族の中でも最大勢力に成長していた靺鞨族は、渤海を建てた粟末部と黒水部の二大集団に分岐していたが、粟末部の渤海が10世紀に滅んだ後、台頭してきたのが黒水部である。
 黒水靺鞨は、かれらの自称を漢音に当てたと見られる「女真」の名で呼ばれるようになっていた。女真族は当初、契丹系の遼に服属していたが、遼は次第に国政が乱れ、衰退していた。そうした中で、女真族の中でも遼と緊密な関係にあった完顔部の族長・阿骨打が部族の統一と軍事的組織化に成功し、1115年、遼から分離独立して金を建国した。
 その後、金は燕雲十六州の返還を宿願とする漢民族系の宋と同盟して、遼を攻め滅ぼす。ところが、燕雲十六州を取り戻した宋が忘恩的な背信行為を繰り返すことに憤慨した金の第二代皇帝・呉乞買(太宗)は二次にわたって宋に侵攻し、華北を占領、1127年、宋は敗走・南遷した(南宋)。
 かくして遼、宋を相次いで駆逐し華北を奪取した金は、東北民族が中国史上に台頭する先駆者となった。その後も華北奪回を目指す南宋と逆に南征を狙う金との間で断続的に戦争が続くが、1142年と64年の二度の和約を通じて両国関係は安定し、おおむね平和が保たれた。
 この一種の南北朝時代を通じて、征服王朝・金は次第に漢化の度を増していく。要職は女真族が占めたが、初代阿骨打が組織した猛安と謀克の二段階式軍事制度も形骸化していき、軍事的な弱体化が進んだ。
 そうした中で、モンゴル族に強力な指導力を備えた首長チンギス・カンが台頭する。モンゴル族も当初は金に服属していたが、チンギスは朝貢を拒否し、分離独立姿勢を鮮明にした。そして、従来金の支配下で閉塞し、しばしば反乱していた同系の契丹族を配下におさめ、金に対して征服戦争を開始する。
 金の征服はチンギスの代では完了しなかったが、チンギス時代の1215年に華北から東北の大半を奪われ、河南の地方政権に落ちていた金は、1234年までに完全に滅亡した。
 こうして、金は中国大陸全土の支配者となることはないまま、120年ほどで命脈を絶たれたことになるが、女真族そのものは滅亡することなく、続く元と明の時代には次のチャンスまで雌伏を続けるのである。
 元の時代には東北の本拠地に残存した女真族が朝鮮半島北部にまたがって元に服属し、日本侵攻(元寇)や朝鮮攻略にも兵士として動員されている。元の撤退後、明の時代には小部族ごとの間接統治下に置かれた。そうした中で部族の再編が起き、やがて満州を自称する建州女真が有力化してくる。

2015年11月 4日 (水)

私家版足利公方実紀(連載第2回)

一 足利貞氏(1273年‐1331年)

 室町幕府を開いた足利氏は、清和源氏の流れを汲む源氏一門であり、河内源氏棟梁・源義家の四男・義国が下野国足利荘を拝領したことで、その次男・義康以降、足利氏を名乗るようになった。このように足利氏は源氏一門とはいえ、傍流であることは否めず、源氏が政権を掌握した鎌倉幕府でも、御家人の立場にあった。
 源氏将軍が三代で途絶え、鎌倉幕府の実権が執権北条氏に奪われても、足利氏に将軍の座が回ってくることはなく、引き続き北条氏に従属した。とはいえ、北条氏との関係は比較的良好で、北条氏の側でも足利氏と歴代にわたり姻戚関係を結ぶことで、その権力の正統性を確保する意図があった。
 こうしたことから、御家人とはいえ、足利氏の家格は格別であったが、北条氏が健在な限り、潜在的なライバルとして警戒もされ、陰の存在にすぎないこともたしかであった。そうした中、鎌倉時代晩期に生まれた足利宗家第七代の貞氏は先代の父・家時が謎の自殺を遂げたことから、幼年で家督を継いだ。彼の人生もほぼ北条氏への服従に尽くされ、主体的な動きとしてみるべきものはない。
 にもかかわらず、彼を本連載の筆頭人物に置くのは、何よりも室町幕府を開いた足利尊氏(高氏)の父であることによるが、それだけではなく、貞氏の時代が足利氏の興隆を準備したからである。そうなったのも、北条執権体制の揺らぎという受動的な動向による。
 貞氏が家督を相続した翌弘安八年(1285年)に起きた霜月騒動は、その始まりであった。この政変を通じて、既成の御家人勢力に代わり、北条氏被官の内管領・平頼綱による独裁政治が彼の死のまで続く。正安六年(93年)の平禅門の乱で頼綱を滅ぼし、実権を回復した執権・北条貞時は、足利貞氏を源氏嫡流として公認することで、権力の安定を図った。
 北条氏があえてこのように潜在的なライバルとなりかねない足利氏の権威を引き上げる策に出たのは、古くからの御家人層の間にある源氏将軍復活論を牽制するとともに、足利氏の顔を立てることで、その忠誠を確保する狙いがあったと見られる。
 貞氏はこうした北条氏の意図をよく汲み、出すぎた真似は決してせず、北条氏に尽くすことで答えた。貞時の出家に追随して、自らも出家したのも、そうした忠誠姿勢の表れであった。その一方で、貞氏は足利氏の内政を扱う家政機関や菩提寺・氏寺の再建・整備などの事業を地道にこなし、足利氏の基盤強化に努めていた。出家によって、いったんは家督を長男・高義に譲ったと見られているが、高義が早世すると、自ら再登板して家督を保持した。
 貞氏の晩年になると、鎌倉幕府の体制はいよいよ弱体化していくが、そうした中でも貞氏は積極的な動きを見せることはなかった。貞氏は元弘元年(1331年)に始まる後醍醐天皇らによる倒幕計画が当初失敗に終わった時には、計画に加わった僧・忠円の身柄を預かるなど、幕末期に至っても幕府側で行動している。
 貞氏はこの年、死去し、家督は次男の高氏に継承されたため、その二年後の倒幕を見届けることはなかった。歴史に「もし」はないと言われるが、もし貞氏がもう少し長生していたら、倒幕に左袒したかと言えば、それは疑わしい。
 それほどに貞氏は鎌倉幕府忠臣としての生涯を全うしているのだが、ある意味では長生しなかったことで、高氏を足利氏の新世代として世に送り出した功績があったと言える。中国的な王朝慣習によるなら、追贈的に足利将軍家「太祖」として数えられることもあり得る立場にいたのが、貞氏である。その意味でも、彼を筆頭者に上げたのである。

2015年11月 3日 (火)

新計画経済論(連載第34回)

第8章 計画経済とエネルギー供給

(2)エネルギー供給計画
pencil前節で、共産主義的な環境計画経済下での経済計画の根幹はエネルギー計画であると指摘した。環境経済計画の実際については、すでに第3章で詳論したところであるので、本節はその補充的な位置づけとなる。
pencilそこで第3章で述べた環境計画経済の要点を今一度振り返ると、環境経済計画には環境アセスメントが予め包含されており、従って、主として生産の量的な調節を目的とする「物質収支」にとどまらず、環境的持続可能性に適合するエネルギー資源の選択、生産方法や生産品構造の規制にも及ぶ質的な「物質管理」も組み合わされなければならないのであった。
pencil特にこの「物質管理」の前提として、エネルギー計画が必要となる。その場合、エネルギー計画を経済計画本体と分離して独立に組むか、それとも経済計画の序章のような形で組み込むかという技術的な問題がある。
 エネルギー計画が経済計画全体の枠付けとなることを強調するためには、別立てとするほうが明瞭であろう。そうした場合、狭義の経済計画とは別途策定されたエネルギー計画を包括する経済計画の全体が広義の経済計画として現れる。
pencilこのようなエネルギー計画は、3か年の経済計画本体と同様、規範性をもって産業界に強制される指針であって、単にエネルギー政策の基本方針を綱領的に掲げたものではない。その点、日本のエネルギー政策基本法で定められた「エネルギー基本計画」とは似て非なるものである。
 またエネルギー供給は、エネルギー源の世界的な共同管理の制度とも密接に関連するため、世界レベルでのエネルギー源管理計画ともリンクしていなければならず、「一国エネルギー計画」は存立し得ない。
 内容的には、石油などの枯渇性エネルギーの節約と再生可能エネルギーの積極活用が基調となり、二次エネルギー源の中でも高度産業社会で最も比重の高い電力の環境持続的な総量規制はエネルギー計画の重要な柱となる。
pencilこうしたエネルギー計画の策定主体は行政機関ではなく、やはり生産企業体で構成する経済計画評議会であるが、エネルギー計画の原案は、評議会の専門機関として製油や電力等のエネルギー事業体で構成する「エネルギー計画委員会」で策定される。

clubMEMOclub
エネルギー計画の主導性を明らかにするため、経済計画評議会を二院制的に分け、エネルギー計画評議会を上院、一般計画評議会を下院として構成する案もあり得る。

2015年11月 2日 (月)

犯罪精神医学事始(連載第16回)

15 常習犯罪者の治療的処遇

 同一または同種の犯罪を執拗に繰り返し、一般社会と矯正施設の間を往復する常習犯罪者の存在は、刑事政策上の永遠的課題として、各国を悩ませている。常習犯罪者が比較的多い分野は、窃盗や放火、性犯罪である。このうち性暴力犯罪については、前回扱ったので、ここでは除外する。

 一般的に常習者が幾度処罰されても犯罪を繰り返すのは、規範意識の鈍磨の証拠とみなされ、厳罰に処されがちであるが、常習犯罪者の処遇に関しては、知的障碍の有無がまず鑑別されなければならない。
 知的障碍があるために社会規範の理解力が本質的に制約されている場合は、法律上少なくとも心神耗弱が認められる。この場合は、知的障碍の克服に向けた処遇が中心となるが、限界もあることが直視されなければならない。

 これに対して、知的障碍が認められない場合は、規範意識はありながら、対象物を見ると犯罪行為への衝動を抑え切れない衝動制御障碍が原因となっていることが多い。例えば、窃盗症や放火症などである。これらは精神疾患として治療しなければ、処罰を繰り返すだけで再犯を防止することは困難である。

 衝動制御障碍者の再犯防止のためには、症状が固定し、常習性が固着化する前の段階で早期発見したうえ、保護観察などの社会内処遇の中で、適切な治療に結びつけることが必要である。
 ただし、衝動制御障碍に関しては有効な治療法が確立されていないが、認知行動療法を軸に、補助的に気分安定薬や非定型抗精神病薬などの薬物療法を行なうモデルが試みられている。

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