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2015年10月

2015年10月31日 (土)

アフガニスタン―引き裂かれた近代史(1)

序説

 「テロの世紀」となってしまった21世紀は9・11テロ事件への報復としてアメリカ主導で断行された対アフガニスタン戦争で幕を開けた。同戦争が一段落して十数年を経て、火種はより西の中東へ遷移したため、アフガニスタンへの世界の注目は失われたかに見える。
 しかし、アフガニスタンの苦難はまだ終わったわけではない。この苦難はしかし、アフガニスタンの近代そのものである。この地理的にも過酷な山岳国家の近代史は、その時々の欧米覇権国家との戦争を経験するという数奇に満ちている。
 その最初のものは19世紀末から20世紀初頭にかけて大英帝国との三次にわたる戦争であり、アフガニスタンが現在のような内陸山岳国家に切り縮められたのも、この対英戦争の結果であった。
 次は20世紀後半の冷戦期におけるソ連との十年に及んだ長期戦争であった。この戦争はアフガニスタン国内の革命とそれに端を発する反革命勢力との内戦を伴い、反革命勢力を米国が支援する形で、米ソの代理戦の意味をも持つ複雑なものであった。
 そして、三度目が21世紀初頭における米国との戦争である。これは米国による報復戦争の性格が強かったため、短期で終結したが、「対テロ戦争」の名の下に、米国主導での干渉戦が現在まで断続的に続き、終わりは見えない。
 このように、アフガニスタンは19世紀から21世紀にかけて、大国との戦争にたびたび巻き込まれた。このことはアフガニスタンの辺境的な位置を考慮すると、一見不可解ではあるが、実のところ、ユーラシア大陸の東西南北を分ける十字路的なその位置こそが、覇権国家の戦略上の関心を引いてきたのである。
 こうした大国との度重なる戦争により、アフガニスタンの近代が大きく引き裂かれてきたことは疑いないが、一方で、アフガニスタンは大国に大敗したことがない。敗北した時ですら、部分的には勝利し、大国にも相当のダメージを与えてきたのである。
 この不思議さも、アフガニスタンの過酷な地理的条件とそこで鍛錬されたアフガン人の精神的な強靭さの賜物である。大国はこの事実を直視すべきであろう。「アフガニスタンに介入した大国は没落する」という歴史法則がある。実際、大英帝国、ソヴィエト連邦はいずれもアフガン介入からほどなくして、没落していった。次は、アメリカ合衆国の番である。実際、米国の斜陽化も始まっている。
 本連載は、これまでイラク及びシリア、イエメンと見てきた西アジア近代史の最後を締めるものである。取り上げた諸国に共通しているのは、いずれも現在進行中の深刻な内戦・紛争を抱えることである。その根源を表層的にではなく、近代史に遡って剔出することは、本連載においても変わらぬ視座である。

2015年10月29日 (木)

もう一つの中国史(連載第22回)

七 東北民族の興亡

東北民族前史
 中国史上の激動期となる近世をもたらしたのは、征服王朝のモンゴル系元から支配権を奪還した漢民族系の明ではなく、やはり征服王朝の性格を持つ女真族(満州族)系の清であったが、このような東北民族が中国史に台頭してくるのはそう古いことではない。
 女真族に代表される東北系諸民族はツングース系民族とも呼ばれ、言語学上はモンゴル語やテュルク語とも類縁的であり、アルタイ語族と総称されることもあるが、前二者とは言語学的な相違も大きく、その民族的な起源について定説はいまだにない。
 この点、以前言及したように、東北地方の先史文明として遼河文明があるが、その担い手はウラル語族系と見られるので、ツングース系諸民族が東北地方の主体勢力となったのは、遼河文明人が何らかの理由で東北地方から姿を消した後と考えられる。漢民族の側では、これらの新たな東北民族を日本の倭人や朝鮮半島人などと合わせて「東夷」と総称し、中華文明外の蛮族とみなしていた。
 ツングース系民族は早くから黒竜江やその支流である松花江流域に定着し、モンゴル族やテュルク系民族とは異なり、遊牧よりも狩猟と農耕の混合生活様式を主として営んだ。中国史書では弓矢の名手として粛慎の名で周代から登場する。
 一方、同じくツングース系と見られる夫余族は最も早くに部族国家を形成し、漢の時代には今日の吉林省付近に夫余国を建てる。そこからやがて朝鮮半島にまたがる強国となる高句麗を建てる分派が現われた。このように夫余族の活動は中国東北部から朝鮮半島にまたがるため、中国史と朝鮮史のいずれに組み入れるかで論争が起きるが、当時中国東北部はまだ明確に中国領土とは言い難い辺境の地であった。
 粛慎は夫余国や高句麗に服属しながら、やがて勿吉、さらに靺鞨と呼ばれる部族勢力に発展していく。7世紀、高句麗が唐‐新羅連合軍によって滅亡に追いやられた後、高句麗に服属していた靺鞨族粟末部が高句麗の復興を大義名分として、渤海を建てる。やがて渤海は唐とほぼ並存する律令制国家に成長、繁栄するが、10世紀、唐の滅亡からほどなくして契丹により滅ぼされた。

2015年10月28日 (水)

私家版足利公方実紀(連載第1回)

 14世紀から16世紀後半にかけて、周知のように、日本では京都に武家政権機構である幕府と天皇の朝廷とが並立するという独異な時代―いわゆる室町時代―を経験した。言わば軍事政権と宮廷が並存したわけで、しかも幕府も基本的に世襲制であったから、一種の王朝化を来たし、軍閥王朝と貴族王朝が並立する二重権力状態であった。
 江戸時代にほぼ匹敵する15代237年に及んだ室町時代は、日本の歴史においては、中世と近世とを分ける大きな転換点であったと言える。大雑把に見れば、その出発点である南北朝分裂動乱の頃までは鎌倉幕府以来の中世の延長であったが、南北朝統一以降は幕府を頂点とする守護領国制が発展し、次第に軍事的な封建制の基盤が固まっていく。
 しかし、幕府の王朝的軟弱化により守護大名らの自立化が進行し、応仁の乱を境に自立的な戦国大名が群雄割拠する戦国時代へと突入し、幕府は事実上の地方政権へと縮退する。その幕府自体も、言わば関東支部に当たる鎌倉府が古河に東遷すると、幕府から自立化し、実質的な東西分裂を来たす。
 こうした長期にわたる内乱的過程で、農民層をも巻き込んだ大規模な社会変革と下克上と呼ばれるような階級再編が継起した激動期が、室町時代であった。通俗的には、派手な合戦に満ちた戦国時代が偏重的に注目され、その動因となった先行の室町時代が注目されることはめったにない。しかし、この歴史的な大転換の時代はその後の日本を考えるうえでもっと留目に値する。
 本連載は、そうした室町激動史をあえて紀伝体という古風な叙述法によって描こうとするものである。すなわち室町幕府の主であった足利公方たちの小伝をもって構成される。ここで足利公方というと、最狭義では室町幕府の15人の将軍のみを指すが、最広義には各地に拡散した足利将軍家一族当主を含む。
 しかし、本連載では中庸を取り、幕府の15将軍に加え、初代将軍足利尊氏の父で、足利将軍家の実質的な始祖に当たる足利貞氏から始め、かつ最後の足利家当主とも言える足利氏姫をもって締める。
 そのうえ、将軍ではないが、最終的には幕府から事実上自立し、将軍に準じた実力者となる鎌倉公方(後に古河公方)歴代9人に、古河公方から分離・対抗し、最終的には近世における足利宗家後裔・喜連川氏に連なる小弓公方の祖・足利義明も加え、計27代の紀伝にまとめる予定である。

2015年10月27日 (火)

孤独死考

 単身高齢者が増え、「孤独死」対策が各地で取り組まれるようになってきた。こうした「対策」は一様に「孤独死」を好ましくないこととみなしている。しかし、なぜ好ましくないのか、突き詰めて考えられているようには見えない。実際、「孤独死」は良くないことなのだろうか。

 そもそも「孤独死」の定義もはっきりしない。典型的な事例では、一人暮らしの高齢者が部屋で病死し、長期間誰にも気づかれず、腐敗臭を発して初めて通報・発見されるというようなケースであろう。
 しかし、誰にも看取られずに死ぬという意味なら、家族と同居している人が就寝中、あるいは家族の長時間外出中に死亡するのも、「孤独死」と言える。ただ、この場合は、家族がすぐに気がつくであろうから、いわゆる「孤独死」とは違うというのだろう。

 いずれにせよ、人知れず死を迎えるということは、家族の有無にかかわらずあり得ることで、誰かに看取られつつ死ぬのは末期がんなど死期が事前に告知される一部の病気の場合に限られていると言えるのではないだろうか。急性的に起こる病死の場合は、孤独死の確率は高くなる。

 しばしば「看取り」は人間と動物の違いとして強調される。野生動物は野垂れ死にするか、誰にも知られず土に還るのが普通の死に方だが、人間はそうでなく、他人に看取られつつ死ぬのが人間らしい死に方なのだ、と。
 しかし、それも価値観次第である。筆者などは野生動物のように人知れず土に還るのが理想的な死に方だと思っているが、野生でない人間にはかえって難しい死に方である。自宅で人知れず死ねば、いつか腐敗臭を発して近所に気づかれてしまうからだ。そして警察・行政・家主の手を煩わせることにもなる。

 人間の「孤独死」にはそういう心苦しさがつきまとうのはたしかであり、筆者も予備軍である単身高齢者はやはり早めに施設入りするなどして、「孤独死」をなるべく避ける用意はしておいたほうがいいのかもしれない。

2015年10月26日 (月)

新計画経済論(連載第33回)

第8章 計画経済とエネルギー供給

(1)エネルギー源の民際管理
pencilおよそ高度産業社会がエネルギーを物理的な基盤としていることは、いかなる生産様式にあっても変わらない。しかし、エネルギー供給の理念と方法は、生産様式いかんと密接に関連している。
pencilこの点、資本主義産業社会にあっては、エネルギーは物質的な生産活動の手段にすぎない。すなわち「初めに生産ありき」であって、想定された物質的生産活動に見合うエネルギーを供給しようと試みる。しかも、その生産活動は全体的な計画に基づいておらず、個別資本による利潤追求を目的とした競争的な経営計画の競合であるから、エネルギー供給に限界を設定することはできない。
 共産主義的な環境計画経済の発想は、それとは逆である。すなわち「初めにエネルギーありき」であり、環境的持続性に配慮されたエネルギー供給計画の枠内で生産活動が展開される。言い換えれば、環境計画経済下での経済計画の根幹はエネルギー計画である。エネルギーはエネルギー源(ここでは、狭義のエネルギー源、すなわち一次エネルギー源を指す)から生み出されるから、持続可能なエネルギー計画の前提には、持続可能なエネルギー源管理、すなわち持続可能な天然資源管理がなければならない。
pencil資本主義社会には、そもそも「エネルギー源管理」という発想自体がなく、エネルギー源は枯渇の限界に達するまで恒久的に開発の対象であり、せいぜい天然資源の埋蔵国の政府や国営開発企業による間接的な開発コントロールがなされているにすぎない。近年はそうした間接コントロールすらも弛緩し、資源が投機の対象にすらされている。その結果は、石油を中心とするエネルギー源の価格変動による経済不安、そして資源の浪費・枯渇である。
 環境計画経済は、こうした「エネルギー無政府状態」とは対極にあるエネルギー源の民際管理と結びついている。エネルギー源の民際管理とは、石油に代表されるエネルギー源はその埋蔵国に属するという「資源ナショナリズム」の国際常識と決別し、エネルギー源を無主物とみなし、人類全体の共同管理下に置くことを意味する。
pencil平たく言えば、「天然資源は誰のものでもない」ということである。ただ、天然資源の民際管理を単なる理念でなく、実際に可能にするためには、地球規模での計画経済化を前提とした効果的な共同管理システムの構築を必要とするが、その詳細は次章の課題とする。

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経済計画の前提的な枠組みとしてエネルギー計画があるという論理からいけば、エネルギー問題を扱う本章は行論上、環境計画経済を扱った第3章より前に位置すべきであったかもしれないが、本稿ではベースとした旧連載『新計画経済論序説』の章立てを踏襲した。

2015年10月25日 (日)

犯罪精神医学事始(連載第15回)

14 性暴力犯罪者の治療的処遇

 性暴力犯罪に関しては、因習的性暴力犯と病理的性暴力犯の鑑別が必要である。前者の因習的性暴力犯とは、社会の性差別的な因習に起因する性暴力犯罪である。このような性暴力犯罪は医学的な治療対象とはならず、性暴力を招く因習の根絶という社会改革の対象である。
 それに対して、病理的性暴力犯はその背景に精神疾患が認められるものであり、因習とはかかわりなく発現するため、医学的治療の対象となる。

 病理的性暴力犯罪の医学的な原因疾患としては、性障碍の一種である性的サディズム、小児性愛や性衝動制御障碍などの根本的な治療法が確立されていない難治性疾患が想定されるが、近年は認知行動療法を軸とした処遇プログラムが開発されており、成果を上げつつある。ただし、病理的性暴力犯罪者のうちには知的障碍を伴うケースも見られ、知的健常者を前提とした一般的な認知行動療法には限界も想定される。
 また性暴力犯罪者は通常、ほとんどが完全責任能力と認定されるため、その処遇は矯正施設内における治療的処遇の形で行なわれることになり、その点では前回まで見た病理性暴力犯罪者の治療的処遇に関する一般理論が妥当する。

 ところで、常習的な性暴力犯罪者のうちには通常の治療的処遇では矯正できない難治ケースがまま見られることから、そうした場合には薬物による性欲制御が認められてしかるべきであろう。こうした薬物療法の究極は薬物による去勢―いわゆる化学的去勢―である。
 化学的去勢は生殖器の外科的切除に比すれば侵襲性が低く、人道上の問題は少ないが、不可逆的な性機能の剥奪という点では人権上の問題が生じる。とはいえ、精神療法や非去勢的な薬物療法が功を奏しない難治性の常習的性暴力犯に対する最後の最後の手段としては、このような処分も全く必要でないとは言えない。
 ただし、こうした去勢処分は刑罰ではなく、非刑罰的な保安処分の一種であるから、その対象要件や手続きに関しては厳密な議論を経る必要があることはもちろんである。

2015年10月24日 (土)

イエメン―忘れられた近代史(10)

後記

 サレハ政権崩壊後に勃発したイエメン新内戦はまだ歴史でなく、現在進行中の事象であるので、後記として言及するにとどめざるを得ない。こたびの内戦は南北間の内戦ではなく、サレハ政権を継いだハーディ政権とザイド派武装勢力フーシ派との間のものである。
 フーシ派はイエメン統一後に一介の宗教指導者フーシ一族を中心に台頭した新興の宗教勢力で、その目的は北イエメン共和革命までの支配層であったザイド派の復興にあるとされる。しかしサレハ政権から危険視され、04年に当時の指導者の殺害を含む大規模な弾圧を受けて以来、軍事化傾向を強める。
 11年の「アラブの春」では、反政府側で参加し、サレハ大統領の退陣に一役買うが、湾岸協力会議やアメリカを後ろ盾とするハーディ新政権とは対立関係に陥った。そして14年9月に首都サナアに進軍、翌1月にはハーディ大統領を辞任に追い込み、2月に政権を掌握した。
 フーシ派はザイド派イマームの統治を理想とするが、当面は最高革命委員会を指導機関とする暫定政権を発足させた。最終的にどのような体制を構築する意図かは明らかでないが、14年10月にはザイド派王朝最後の国王バドルの子息アギール・ビン・ムハンマド・アル‐バドルを亡命中のサウジアラビアから招聘・帰国させるなどの復古的な動きも見られた。
 このような一種の革命を成功させた要因として、同じシーア派イランの支援に加え、背後にサレハ前大統領の支持もあると見られている。変わり身が早く、政略に長けたサレハであれば、何らかの形での復権を狙って、在任中は敵対したフーシ派支持に回っても不思議はない。
 こうした「フーシ革命」に対して、15年3月以降、サウジアラビアを中心とする有志連合が空爆作戦でフーシ派政権の殲滅を開始し、内戦が本格化するとともに、民間人の犠牲者も増大している。
 15年10月現在、復権を目指すハーディ派が暫定首都とする南部の中心都市アデンを奪還し、北部をフーシ派が実効支配する状況であるが、結果として旧南イエメン出身のハーディ派と北部に多いザイド派を代表するフーシ派が南北に分断支配する形となりつつあり、イエメンは再び分断の危機に直面しているとも言える。
 ちなみに、イエメンではサレハ政権末期の混乱に乗じて、アル・カーイダ系過激組織がスンナ派の多い南部に拠点を置きつつ、12年、13年と首都サナアで大規模な爆破テロ事件を起こすなど、活動を活発化させている。かれらはフーシ派とは宗派上対立関係にあり、フーシ派殲滅を呼号する一方で、サウジアラビアとも敵対している。
 さらには、同じ反フーシのスンナ派系過激組織ながら袂を分かったアル・カーイダとは対立するイスラーム国を名乗る爆破テロ事件も発生しており、同勢力もしくはシンパ勢力がイエメンにも浸透しつつあることを窺わせる。
 かくて、現イエメンはフーシ派(親イラン)vsハーディ派(親サウジ)vsアル・カーイダ(反サウジ)vsイスラーム国(反フーシ)の四勢力の抗争関係にあるとも言え、その行方は混沌として見通せない情況である。
 そうした中、国連世界食糧計画は15年8月、イエメンで食糧難が発生しており、数百万規模での飢餓に陥る危険があることを警告した。そうした大規模人道危機を抑止するには内戦の早期終結が不可欠であるが、そのためにも周辺大国や米欧による自国利益を慮った介入の中止がまず求められることは、シリア内戦と同様である。(連載終了)

2015年10月23日 (金)

もう一つの中国史(連載第21回)

六 台湾の中国化(続き)

鄭氏政権から清版図へ
 オランダの台湾統治は、インドネシア統治とは対照的に半世紀も続かず、終幕した。その要因は皮肉にも、オランダ統治下で移入された漢人の勢力増強にあった。1652年の漢人大反乱は、その予兆であった。
 これはオランダの重税にあえぐ漢人入植者による反乱事件であるが、その稚拙な計画は事前にオランダ当局に漏れていたため、短時日で鎮圧された。その過程で数千人とも言われる漢人がオランダ当局に殺戮されたと言われるが、真相は不明である。
 この事件の当時、大陸中国ではすでに明朝が滅亡し、新たに成立した満州族系の清に対する旧皇族による抵抗運動が展開されていた。そうした抵抗運動の武将となっていた鄭成功が抵抗の一大拠点を確保すべく台湾に侵入し、オランダを駆逐して1662年、ここに地方政権を樹立した。
 鄭成功は台湾に拠点を置いた福建省出身の武装商団長の父と平戸出身の日本人武家女性の母の間に生まれ、日本人の血も引く人物で、後に近松門左衛門が国姓爺の俗称を持つ成功を主人公に史実を脚色した浄瑠璃『国性爺合戦』を発表したことでも知られる。
 鄭成功自身は台湾奪取の年に志半ばで没するが、後を息子の鄭経が継いで発展させた。こうして樹立された台湾史上初の漢人系政権である鄭氏政権は漢人入植者を束ねた屯田政策を基盤に大陸の集権的な官制も導入し、台湾の開発を進めたことから、現代台湾でも特に初代・鄭成功は「開発始祖」として崇敬されている。
 しかし標榜上明朝の復権を目指す亡命政権であった鄭氏政権は王朝として確立されず、世襲制の軍閥政権のまま終焉する。地位継承以来、19年にわたって執権者の地位にあった鄭経が40歳で没すると、重臣によるクーデターで鄭経の12歳の息子・鄭克塽が擁立される。
 しかし彼は重臣の傀儡にすぎず、政情が安定しない中、反攻に出た清の水軍が台湾に迫ると、鄭克塽とその擁立勢力はあっさり降伏、ここに鄭氏政権は三代わずか20年余りで終焉したのであった。
 この後、台湾は清帝国の版図に編入されるも、清当局は辺境地・台湾の統治に大きな関心を示さず、大陸側の福建省の一部とした。その結果、従来にも増して福建省からの漢人の入植民が増大し、鄭氏政権の開発政策を受け継ぐ形で、半ば自治的に開発を推進していったのであった。これにより、鄭氏政権に始まる台湾の中国化は既定路線となる。

2015年10月21日 (水)

ルクセンブルク―資本主義の優等生(連載最終回)

⑩ 展望的総括

 前回まで、資本主義優等生ルクセンブルクの秘密を探ってきたが、その特質を簡単にまとめれば、開放的で多角化された経済基盤に基づく高所得に支えられた資本主義経済ということになり、これを一つの資本主義モデル―ルクセンブルク・モデル―として認識することができる。
 このようなモデルはアメリカ型の自己責任的な自由主義モデルと北欧型の高度福祉に支えられた社会民主主義モデルの中間にあって、GDPの高い個人還元を実現してきたのであるが、こうしたモデルは小人口の小国ならではのモデルであって、大国には部分的にしか模倣できないものである。
 典型的には改革開放後の中国がそうであるが、GDP総額では日本を抜きアメリカに次ぐ位置まで発展しても、それを10億人を超える人口に還元するのは困難で、一人当たりGDPではなお途上的位置にあることは象徴的である。
 大国中比較的ルクセンブルクに近いモデルを示すのは歴史的にも関連の深い隣国ドイツであるが、ドイツとて欧州最大の8000万人口を抱えるため、日本に次ぐ世界第四位のGDPをルクセンブルク並みに個人還元することは難しい。
 ちなみに、当初本連載では欧州中堅国のスイスとノルウェーを比較対照例とする構想であったが、筆者の力量不足のために断念した。そのスイスはルクセンブルクよりも人口が多い中では、ルクセンブルク・モデルに最も近いと思われる。スイスはとりわけ2014年の世界経済フォーラムによる国際競争力調査においてトップに位置し(19位のルクセンブルクも小国としては健闘)、イノベーションの強さを発揮している。
 一方、ノルウェーは基本的に北欧モデルの国であるが、国連統計の人間開発指数では連年トップを独占する国として知られる。この指標は平均余命や教育まで含めた総合指標であり、高度福祉国家が強みを発揮するが、ノルウェー財政は北海油田に支えられているところが大きく、その経済も国家管理型の資本主義で、部分的には中東の石油首長制諸国に近い。
 ここでルクセンブルク・モデル自体の持続性を考えてみると、前にも記したように、世界大不況、欧州債務危機以降、さしものルクセンブルクも成長鈍化傾向とともに失業率の上昇が見え始めたことは事実である。
 そのパフォーマンスは欧州の平均よりは相対的に良好とはいえ、ルクセンブルクも静かな斜陽期に入ったという厳しい見方は可能である。資本主義優等国の斜陽化は、すなわち資本主義そのものの運命を予示するものではないか。その意味で、ルクセンブルクの行方は資本主義の長期予報である。(連載終了)

2015年10月18日 (日)

イエメン―忘れられた近代史(9)

eight 「アラブの春」から内戦へ

 1994年の南北内戦に勝利し、統一イエメンの支配者としての地位を確実にしたサレハ大統領は、1999年大統領選挙で三選を果たした。事前の工作により、この選挙での候補者はサレハ一人だけの出来レースであった。
 調子づいたサレハは、大統領任期を従来の5年から7年に延長するなど、事実上の終身支配に向けた布石を打ち出す。こうした驕りは内外の批判を受け、05年、サレハは次期大統領選への不出馬を表面するも、7年任期での選挙年となる翌年にはあっさり公約を撤回した。
 06年選挙では野党の統一候補が立てられたが、結局はサレハが80パーセント近い得票率で圧勝した。これで2013年までの任期が確保されることになり、北イエメン時代からの通算で30年を超える長期執権となることは確実であった。
 この間、08年には無駄遣いの批判を押して、自らの名を冠した壮大な現代イスラム寺院アル‐サレハ・モスクの建造を強行するなど、サレハ政権は個人崇拝の性格も強めていた。対外的にも、世紀の変わり目頃からイランに接近し、体制保証の後ろ盾とし、03年のイラク戦争ではイラク支持を封印して、これを乗り切った。
 こうして内外共に磐石に見えたサレハ政権であるが、2011年以降アラブ諸国で続発した「アラブの春」の波を免れることはできなかった。これに対して、サレハは前例に従い、またも次期大統領選不出馬表明で沈静化を図ったが、成功せず、湾岸協力会議の仲介で早期退陣プロセスが用意された。
 しかし、いったんは退陣を受諾したサレハがまたも撤回したことから、再び反政府勢力との衝突が起きた。その渦中でサレハが大統領府に打ち込まれた反政府勢力の砲弾により重傷を負うという異例の事件が転機となった。
 再び湾岸協力会議の仲介で退陣と暫定政権移行の調整が行われ、翌12年2月の大統領選でハーディ副大統領が新たな大統領に選出されることで、北イエメン時代から34年近くに及んだサレハ体制にようやピリオドが打たれた。
 新大統領となったアブド・ラッブー・マンスール・ハーディは旧南イエメン軍人の出身ながら、サレハの信任を受けて統一イエメン副大統領に上り詰めた能吏タイプであり、混乱期にはふさわしく見えたが、事態はむしろ悪化し、イエメンは新たな内戦へと陥るのである。

2015年10月15日 (木)

もう一つの中国史(連載第20回)

六 台湾の中国化(続き)

オランダ統治期
 台湾島は地理的には中国大陸の島嶼部とも言えるため、早くから漢人の手が伸びても不思議はないはずだったが、中原の覇権競争に明け暮れた時代には、海洋進出は漢人の関心外であった。明朝も海禁政策を採ったため、漢人の海洋進出は澎湖諸島を限度とし、台湾には到達していなかった。
 数千年単位での伝統的定常社会が続いていた台湾が大きく変化するきっかけは、西洋列強の侵出であった。はじめにやってきたのは果たして、大航海時代を拓いたポルトガル人である。記録によると、かれらは16世紀半ばにはすでに台湾島に到達していたが、本格的な関心を示すことはなかった。
 次にやってきたのは、東インド会社を設立してアジア侵出を活発化させていたオランダ人である。インドネシア方面に足場を築いたオランダ人の到来は、当時の台湾が地政学上中国ではなく、東南アジアの延長域だったことを示してもいる。
 オランダは1622年、まず台湾に近い澎湖を占領したため、澎湖の支配権を主張する時の明朝と交戦したが、短期で講和し、オランダが澎湖を撤退する代わりにオランダの台湾支配が容認された。容認といっても、台湾に明朝の実効支配は及んでいなかったので、実質上はオランダが台湾初の全島的統治者となった。
 このようにして、1624年以降、オランダによる台湾統治が始まる。かれらは現在の台南市にゼーランディア城を築き、ここを政庁兼貿易事務所として統治した。しかし、間もなくフィリピンに侵出していたスペインが台湾に割り込みを図り、北部を占領する。オランダが最終的にスペインを台湾から駆逐したのは、42年のことであった。
 オランダの統治下では、中国大陸南部から大量の漢人労働者が移入され、プランテーション経営が試みられたので、この時期以降、漢人の台湾移住がようやく本格化する。同時に、オランダは台湾先住民の教化にも注力したが、そのやり方はお決まりのキリスト教宣教活動であった。
 ただ、文字を持たなかった台湾先住民にローマ字を伝え、しかもオランダ語の強制ではなく、現地語のローマ字表記を基本とする比較的リベラルな教化方針を採ったことから、内発的な文明開化も起きた。特に平地部を拠点としていた平埔族はいち早く開化し、部族語(新港語)をローマ字表記した「新港文書」と呼ばれる一群の契約文書類を残している。
 とはいえ、オランダ統治は典型的な植民地支配であり、先住民は租借の形で土地を奪われ、開化が進んだ平埔族を中心にその民族性も喪失していった。特に漢人の大量移入は血統的にも台湾社会を大きく変革し、台湾が中国化していく歴史的な一大転換点となったであろう。

2015年10月14日 (水)

ルクセンブルク―資本主義の優等生(連載第10回)

nine 歴史的土台

 前回まで見てきたルクセンブルクの優等な資本主義体制は、一時的な経済政策によってもたらされたものではなく、たしかな歴史的土台に支えられている。そこで、今回はルクセンブルクの歴史を検証してみることにする。
 実際のところ、中世にフランク族の伯領として誕生したルクセンブルクの歴史は曲折し、複雑だが、独自の大公を元首とする完全な独立国家として自立するのはオランダとの同君連合を解消した1890年のことである。従って、独立国家としてのルクセンブルクは、近代史しか持たない。
 その独立ルクセンブルクが誕生した19世紀末は、大英帝国の世界支配というパックスブリタニカの晩期に相当した。この時期の欧州では1871年に念願の統一を果たしたドイツ帝国が新興資本主義国として急成長し始めていた。そのドイツと国境を接するルクセンブルクは当初、ドイツ関税同盟にも加盟し、ドイツ資本主義の強い影響下に鉄鋼国として出発したことは前に述べたとおりである。
 そのドイツが第一次世界大戦で敗戦国となると、ルクセンブルクも言わば連鎖倒産的な破局に追い込まれる。戦後には、ロシア革命の余波を受け、1918年から19年にかけて、左派による二度の社会主義革命が発生しかけたが、二度目はフランス軍の介入を受けて鎮圧した。
 こうした未遂革命を経験するなかで、ルクセンブルクでは先述したような政労使三者の協調体制が形成されていく。しかし、第二次大戦ではナチスドイツの侵攻・占領を受け、大公と政府は亡命を余儀なくされる。この際、一時ポルトガルが亡命地を提供したことは、戦後ポルトガルからの移民受入れの伏線となった。
 こうして第二の国難とも言えるナチス占領を脱した戦後、国家再建の軸となったのは、ベルギー、オランダと組んだ三国関税同盟(ベネルクス関税同盟)であった。これは60年以降、労働や資本の域内自由化を含む経済連合に進む。ベネルクス連合は間もなく、フランス、ドイツ、イタリアを加えた欧州経済共同体(EEC)の一部に組み込まれ、さらに加盟国を増やして、今日の欧州共同体(EU)へと発展していく。
 他方、これも先述したとおり、戦後のルクセンブルクはアメリカ人の一実業家のコネクションを通じてではあるが、米国資本の誘致も積極的に進めた。このように、一国完結経済が成り立たない小国ルクセンブルクは歴史的にも自由貿易を基調とする開放経済路線を一貫して追求しており、このことがルクセンブルク資本主義の歴史的な土台となっていると考えられるのである。

2015年10月13日 (火)

新計画経済論(連載第32回)

第7章 計画経済と消費生活

(4)計画流通と自由流通
pencilマルクスは「流通そのものは、ある一定の交換の契機にすぎないか、あるいはまたその総体として考察された交換である」とし、流通の重要性を相対的に低く評価していた。だからというわけではないが、マルクス主義を公称した諸国での計画経済は流通に弱点があり、特に流通システムの欠陥や汚職により生活物資の入手に困難が生じる傾向が見られた。
 しかし、本来流通は交換一般に回収できない独自の意義を持つプロセスとして、そのシステム構成が具体的に考案されなければならず、計画経済を成功させるためには、流通の問題は避けて通れない課題である。
pencil新しい計画経済において消費計画の主体となる消費事業組合は消費計画を策定するのみならず、物品供給所を直営する。物品供給所には、規模に応じてコンビニ的な軽便供給所、スーパー的な包括供給所の区別がある。
 軽便供給所は商業的なコンビニエンスストアのように過密状態とならないよう配慮されつつ、高密度に計画配置され、まさにコンビニ的な末端供給機能を果たす。それに対し、包括供給所はより低い密度で同様に計画配置される。これらの供給所には、高齢者や障碍者など供給所に出向くのが困難な条件を持つ消費者のための宅配サービスが例外なく用意される。
pencil一方、消費事業組合は生産企業から搬入された生産品を各供給所に確実に配送するための独自の輸送部門を配備する必要がある。計画経済は分業体制を否定するものではないが、分業を相対化するため、輸送のようなサービスは内部化されることになるのである。
 こうした日常的な物品供給所とは別に、消費事業組合は災害等の非常時に対応する備蓄倉庫も管理し、災害時には災害救難機関とも連携して、非常用物品の円滑な供給に当たる。
pencil以上の消費計画に基づく計画流通は実は流通の一部にすぎず、日常的な生活物資以外の驕奢品の生産・流通は自由である。このように、新しい計画経済における流通は、基本的生活物資の計画流通とそれ以外の自由流通の混合体制で成り立つことになる。
 自由流通といっても、貨幣経済は廃止されているから、貨幣交換による流通ではなく、無償または物々交換による自由流通に委ねられる。従って、こうした分野では、個人商店型の私設供給所ないし交換所が電子上を含め、広く認められる。

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デパートに相当する「百貨供給所」というものを想定することもできるが、まさに百貨商品の凝集であるデパートは沿革的にも資本主義商品経済の象徴であり、共産主義的消費生活にはそぐわない形態ではなかろうか。

2015年10月12日 (月)

体育の非

 行政改革の時代に逆行して、二つの行政機関が新設された。一つは防衛装備庁、もう一つはスポーツ庁である。このように防衛分野と体育分野で同時(同日)の新設があったのは決して偶然ではない。元来、国防と体育は密接に関連する。なぜなら、強兵を育成するには国民の運動能力向上が欠かせないからである。
 スポーツ庁は単に五輪対策の暫定機関ではなく、常設行政機関であり、学校体育まで所管する。かねて筆者は学校教育では定番となっている体育の全員必修制に疑問を持ち、体育は任意選択制とするか、せめて個別競技を課さない健康体育に転換すべきと考えてきたが、現状は逆に競技体育の強化に向かおうとしているようである。
 体育の強制は運動の苦手な生徒にとっては、しばしば屈辱の生き地獄である。体育競技での失敗・失策がいじめの引き金になることもある。体育は音楽や美術と並び、個人の適性・志向に依存する度合いが高い分野であるので、合理的に考えて全員一律の強制はばかげているのである。
 だが、近年、武道必修化を含め、政府が音楽や美術以上に体育にのめりこむのは―「芸術庁」を新設する話は聞かない―実際、再び富国強兵的な発想が政府部内で台頭してきていることと無関係ではないだろう。
 ちなみに、今日は体育の日。これは前回の1964年東京五輪の開会日を記念した祝日だというが―ならば「五輪の日」でよい―、このような世界にも例のない内容空疎な珍祝日は迷惑千万、廃止すべきであると考えている。ついでに体育強制の廃止も願って、体育の非としたい。

2015年10月11日 (日)

犯罪精神医学事始(連載第14回)

13 病理性暴力犯罪者の治療的処遇⑥

 病理性暴力犯罪者の中には、統合失調症や鬱病等の精神疾患を背景としている者―精神疾患性暴力犯罪者―が一定数含まれており、その程度が重篤である場合は、現行法上は心神喪失者または心神耗弱者として刑法39条の適用により無罪または必要的減軽となる。しかし、多くの場合は完全責任能力者として原則通り処罰される。
 この点、以前に提唱したとおり、心神耗弱の下位概念として「心身減弱者」の概念を増設して、裁判所の裁量で減軽できるようにすべきであるが、いずれにせよ、精神疾患性暴力犯罪者は矯正施設と医療施設とに分散的に収容されることになる。

 このうち、医療観察処分を受けて医療施設に収容される重症者については、当然ながら医師の管理下で治療を受けることになるが、この場合でも、彼/彼女が一定の犯罪行為を行なったことに変わりはないので、矯正的な働きかけが不要となるわけではない。その点でも、この種の患者の治療計画は矯正の観点を踏まえたものでなければならず、それを効果的なものとする犯罪精神医学の確立が不可欠である。

 一方、矯正施設に収監される精神疾患性犯罪者に関しては、通常の矯正処遇を受けながら投薬等の必要な治療も行なうという形で、治療的処遇を受けるべきことになるが、刑務作業に重点を置く懲役刑は本来治療的処遇には不向きである。その点、精神疾患性犯罪者向けの刑務作業は作業療法的な意義が認められるものを課すように工夫されるべきである。
 また矯正施設に収監中の精神疾患性犯罪者の症状が悪化した場合は、医療刑務所に移監する必要があるが、医療刑務所の数も、そこで勤務する精神科医師の数にも限りがあるため、場合によっては刑の執行を停止し、改めて医療観察に付すといった柔軟な制度を組む必要があるだろう。

2015年10月10日 (土)

イエメン―忘れられた近代史(8)

seven 統一後の混乱

 想定以上にスムーズに実現したイエメン統一であったが、それは滑り出しからつまずく。まずは、統一プロセス渦中で発生した湾岸戦争で、サレハ政権がクウェートを侵攻・占領したイラクを支持するという誤った選択をしたことである。
 このような選択は元来、北イエメン時代からサレハ政権がイラクのサダム・フセイン政権と同盟的関係にあったことの結果ではあるが、同時にサレハ政権はイラクが侵攻・占領したクウェートやその同盟国サウジアラビアにも多くの出稼ぎ労働者を送る立場にあった。
 このようなイエメンの親イラク姿勢に対し、クウェートやサウジアラビアは報復としてイエメン人労働者の大量送還で応じ、従来友好的な関係が築かれ始めていたサウジをはじめ湾岸諸国や西側諸国からの支持・援助を喪失した。
 特に海外出稼ぎ労働者やイエメン国籍者の大量帰還は統一イエメンの人口を10パーセント近くも急増させ、難民を生じさせるなど、統一したばかりの国家を政治経済的な危機に陥れた。
 これに加え、北主導の統合に対する旧南イエメン派の不満が、統合後初となる93年の議会選挙後に爆発する。政府を離脱した旧南イエメン系のベイド副大統領らは94年5月、イエメン民主共和国の樹立を宣言した。
 このような南イエメンの分離主義の背景には、旧南イエメンに対する差別的な処遇という問題もあったが、経済利権問題も絡んでいた。特に少ないながらも産出する油田は潜在的なものも含め、南側に集中しており、このことは統合過程では統合促進材料となったが、分離過程では分離派の強い動機となっていた。
 94年5月から7月にかけて、南北間での内戦に突入するが、南の分離政府は国際的な承認が得られない中、最終的に軍事力で勝る北の勝利に終わった。実際のところ、南イエメン独立派は南出身者総体の支持を受けていたわけではなく、86年の内乱後、北に亡命していたムハンマド元書記長のように分離に反対した元要人もいたのである。
 こうして統一後に史上初めて発生するという皮肉な南北イエメン内戦は、完全な吸収合併の形を取った東西ドイツ統一とは異なり、南北の合同にすぎなかったイエメン統一の脆弱さをさらけ出したが、北の勝利に終わったことで、サレハ政権の基盤固めを助けた。
 政略に長けたサレハは、94年10月に統一イエメンの大統領として再選されると、懸案であった軍の統合を進め、97年にはイエメン軍最高位の陸軍元帥の称号を得るなど、統一イエメン政軍関係の掌握を確実にしたのである。

2015年10月 8日 (木)

もう一つの中国史(連載第19回)

六 台湾の中国化

台湾先史
 現在、台湾は大陸中国とは別の統治主体が支配しているが、広い意味では中国圏の一部である。しかし、台湾が中国圏に属するようになったのは近世以降のことであり、それ以前は中国圏からは切り離された離島であった。
 元来、台湾にはマレー語などとも同系のオーストロネシア語族に属する言語を持つ諸民族が割拠していた。この先住諸民族のうち最大のアミ族を初めとする16民族は台湾政府から「原住民」として公認されている。かれらの話す言語―台湾諸語―は、オーストロネシア語族の最も古い形を残しているとされ、この語族の原郷は台湾にあったとも推定できるところである。
 台湾先住民族は公認16民族以外にも、文化風習ごと多岐に分化しており、17世紀にオランダ人が到来し、台湾を「発見」するまでは、統一国家を形成することなく、部族ごとの伝統社会を維持していたものと見られる。
 かれらがいつから台湾に居住するようになったかは明らかでないが、紀元前4000年ないし3000年頃に大坌坑文化と呼ばれる新石器文化が台湾北部に現われる。この文化は急速に台湾全土に広がり、そこから派生文化が各地で定着していくので、この文化の担い手こそ台湾先住民の祖先集団だったと推定されている。
 この文化はそれ以前の台湾の先史文化とは断絶があるため、その担い手民族はおそらく外来者であり、かれらの原住地は中国大陸南部と見られる。このことと、近年の比較言語学的研究でオーストロネシア語族と中国語が含まれるシナ・チベット語族の内的関連性が明らかにされてきたことを考え合わせると、台湾先住民及び漢民族の基層的な系譜関係も想定することができる。
 ただ、台湾の先史文化が大陸の黄河文明圏のような形で王朝形成に向かわなかったのは、漁業に依拠した隔絶された離島では農耕が発達せず、治水事業をベースとする中央権力も必要とされなかったことによるものであろう。
 ある意味では文明化を必要としないまま、極めて長きにわたって定常的な先史社会を維持し得たのは、台湾の地理的な環境条件によるものであった。

2015年10月 7日 (水)

ルクセンブルク―資本主義の優等生(連載第9回)

eight 政治的環境

 ルクセンブルクの資本主義的成功を支える上部構造的秘訣は、高度の政治的安定性にある。ルクセンブルクは1890年にオランダから実質的に独立して以来、オランダ王家も出しているナッサウ家系の大公が世襲元首として君臨する立憲君侯制を採用する。
 実質上は欧州立憲君主制の標準モデルと同様の議院内閣制であり、首相が政府を率いる。大公には議会解散権や正副首相の任命権も留保されているが、大公が政治を主導することはない。
 多党制による議会政治が定着している点でも、一般的な欧州諸国と大差ないが、ルクセンブルクの特徴は二大政党ならぬ三大政党政が定着している点である。三大政党とは、結党順に社会主義労働者党、キリスト教社会人民党、民主党である。
 このうち最大勢力は中道保守系のキリスト教社会人民党で、同党は第二次大戦後、現時点では二人の例外を除くすべての首相を輩出してきた優位政党である。ただし、単独で過半数に達することはなく、リベラル保守系の民主党や社会民主主義の社労党を含む他党との連立政権が慣例となっている。
 このように保守系優位の議会政治が確立されている一方、共産党は第二次大戦後70年代までは常時5議席前後を維持する小勢力として議会参加していたが、産業構造が鉄鋼基軸から金融基軸に転換した80年代以降は退潮し、2004年総選挙で唯一の議席を喪失して以来、議会外政党に凋落している。
 代わって、近年は環境政党緑の党が伸張してきている。さらに反資本主義を掲げる新興政党として左翼党や、年金の官民格差に対する抗議政党として台頭してきたEU懐疑派の代替的民主改革党も議席を持つなど、三大政党の周辺に左右の新しい政治潮流を代表する小政党も参集し、政治的多様化が進んでいる。
 このように、ルクセンブルクの政治的安定性は、一党独裁や一党の独占的優位によるのではなく、安定性と多様性の微妙な均衡の上に成り立つ柔軟な構造を特徴とする。
 一方、外交上は欧州統合支持の立場を堅持し、小国ながら欧州司法裁判所その他EU諸機関が置かれる中核メンバーとして存在感を持っている。
 また防衛に関しては、小国にしばしば見られる同盟大国への防衛委託でも、アイスランドのような非武装独立でもなく、総兵力800人程度の小規模な陸軍のみを保有する軽武装政策を採用している。
 こうした現実的防衛政策は、かつて永世中立国として非武装政策を採っていたルクセンブルクが二つの世界大戦でいずれもドイツに侵攻・占領された過去の経験を踏まえたものである。
 冷戦終結後90年代以降のルクセンブルク軍は国連平和維持活動やアフガニスタン、イラクへの「有志連合」へも参加するなど、海外派兵を積極的にこなし、米国主導グローバル資本主義秩序の維持にも寄与している。政治的にも、まさしく資本主義の優等生なのである。

2015年10月 6日 (火)

新計画経済論(連載第31回)

第7章 計画経済と消費生活

(3)消費事業組合
pencil消費計画の主体となるのは、地方圏ごとに設立される消費事業組合である。その内部構造については第4章でも簡単に見たが、ここで改めてその組織構造や活動内容について整理しておきたい。
pencil共産主義計画経済下の消費事業組合は、当然にも非営利的に運営される点では、生活協同組合(生協)に近いが、生協との組織上の違いは、当該地方圏の住民が自動的に組合員に登録されることである。例えは関西地方圏の住民は関西消費事業組合の組合員に自動登録され、そのサービスを利用する権利を得る。
 ここで組合員であることの意味は、単にサービスを利用する受益主体であるにとどまらず、組合の運営主体であるということにある。従って、消費事業組合は組合員総会を最高機関として運営されるが、相当数に上る地方圏住民による全員総会の開催は物理的に難しいため、組合員総会は抽選で選ばれた代議員で構成されることになる。
pencil消費事業組合の主要な任務である消費計画は、中央の3か年経済計画を参照しつつ運営責任機関である運営役会が策定した計画案を組合員総会で審議採択し、さらに地方圏議会に相当する地方圏民衆会議で承認を受けて正式に発効する。
 消費事業組合はこの消費計画に従い、組合と提携する消費財生産企業に生産を委託する。生鮮食品に関しては、農業生産機構及び水産機構が自動的に提携企業となる。それ以外の提携企業の公募・選定に当たっては、環境的持続性と安全性が適格性基準となる。
pencil組合はこうした適格性基準が充足されているかどうか、常時検査する。その検査の基礎資料として、組合員総会代議員及び市町村単位で抽選されたモニター員は供給された物品の品質について毎月定期的に、必要があれば随時組合に報告する。検査の結果、問題が認められれば、組合は当該生産企業に対し、改善要請や提携停止・解除などの措置を講ずる。

2015年10月 5日 (月)

未証明科学

 疑似科学という語は定着しているが、実のところ疑似科学と真正科学の境界線はあいまいであり、線引きは難しい。その難しさに付け込んで、科学的に証明されない現象を「超常現象」などと銘打って宣伝する者たちがいる。
 特に、近年の日本のマスメディアでは競争のようにそうした「超常現象」を扱う長時間番組をあたかもキャンペーンのように流している。UFO、心霊写真/映像、未確認生物がその三大テーマである。
 これに対して、科学界がそうした「現象」を科学的に解明し―捏造の可能性も含め―、反駁しようとしないのは不思議である。まさか科学者たちも「超常現象」を信じているわけではあるまい。とすれば、なぜ沈黙しているのだろうか。
 おそらくそのような疑似科学の類に関わり合うのは科学者の任務外だというのだろうが、疑似科学と真正科学の境界線はあいまいだとすれば、明らかに科学的法則に反する偽りの“似非科学”は除くとしても、まだ証明されていないという意味で「未証明科学」という広いくくりの下に、正面から解明に取り組むことも科学者の任務の内ではないだろうか。
 その点では、UFOと未確認生物は「未証明科学」の主題となり得るだろう。心霊は似非科学の範疇にかかりそうだが、しかし、どのようなメカニズムで「心霊」のようにも解釈し得る像が映し出されるのか、あるいはそのような錯覚が生じるのかは物理学的ないし認知心理学的な解明の余地があるという限りでは、心霊も未証明科学の範疇に含め得るだろう。
 UFO、未確認生物、心霊の三大「未証明科学」を誰もが納得するように科学的に反証した科学者は、イグノーベル賞ではなく、優にノーベル賞に値すると思うのだが。ちなみに、いまだに再現性を確認できないSTAP細胞も今のところ「未確認細胞」として生物学分野の「未証明科学」に含めてよいかもしれない。

2015年10月 4日 (日)

犯罪精神医学事始(補遺)

12ノ2 病理性暴力犯罪者の治療的処遇⑤

 殺人をはじめとする暴力犯罪を動機別にみると、実のところ「激情」によるものが最も多い。たいていは、怒りの感情が引き金となる。その多くは一時的な感情の爆発によるものであり、病理性を認めることはできないであろうが、常軌を逸した感情爆発や、頻回に暴力事件を起こすような場合は、背景に怒りの感情を正常範囲に制御できない間欠性爆発性障碍(IED)を認めることがある。

 これは後で述べる常習犯罪の原因疾患となる衝動制御障碍の一種と位置づけられているが、しばしば反社会性パーソナリティ障碍(ASPD)との鑑別が問題となる。この点、ASPDの場合、攻撃性は手段的で、しばしば計画的に発現するが、IEDでは衝動的で、非計画的に発現するという相違がある。

 重篤なIEDによる暴力犯罪者は、責任能力を構成する要素中、行動制御能力を欠き、心神喪失無罪となる。しかしIEDによる暴力犯罪は通常、捜査・公判の段階では認識されず、単なる激情犯として処理されがちであるが、矯正の段階では慎重に鑑別して、治療的な処遇を与える必要がある。

 IEDの治療法は、必ずしも確立されていないが、ASPDのような人格の再形成を必要とするパーソナリティ障碍とは異なり、感情のコントロールを学習する認知行動療法のような表層的な治療法の有効性が認められている。薬物療法は、抗うつ剤や気分安定剤が症状をコントロールするうえで有効な場合もあるとされる。

2015年10月 3日 (土)

イエメン―忘れられた近代史(7)

six イエメン統一まで

 南北イエメンは、ほぼ同一・同種民族間のイデオロギー的分断国家という点では、同じ冷戦期に現出した東西ドイツや南北朝鮮と類似していたが、それらに比べれば、ともに社会主義的志向性を持つ両イエメンのイデオロギー対立の溝はさほど深くなかった。
 そのため、早くも冷戦渦中の1972年には両イエメン統一の合意がいったんは成立していた。とはいえ、大まかに言えば、アラブ社会主義(民族主義)対マルクス‐レーニン主義という路線の違いはあり、特に南イエメン側で強硬派が主導権を握っていた70年代末には両イエメンで統一積極派が排除され、再び緊張関係に陥る。
 しかし、80年代に入って南イエメンで強硬派が排除されることで再び統一機運が起き、1981年には統一憲法の起草にまでこぎつけた。ところが、強硬派が盛り返し、86年には内乱に発展したことで、またしても統一は頓挫するのであった。
 こうして紆余曲折が続く中、両イエメンの統一を決定付けたのは、89年の米ソ両首脳による冷戦終結宣言やそれに続く東欧社会主義諸国のブルジョワ民主化革命よりも、86年の内乱後、体制維持が困難となった南イエメン側の切実な事情によるところが大きかった。
 とりわけ致命的だったのは、最大援助国ソ連からの経済援助が内乱後、半減されたことである。これは当時のソ連の「改革派」ゴルバチョフ政権が進めていた海外の同盟・衛星国からの一方的な援助引き上げ策の一環でもあったが、南イエメンのような不安定な新興衛星国にとって、ソ連からの援助は生命線であった。
 他方、北イエメンでは78年以来のサレハ政権が長期執権の下、政情安定化と一定の経済成長を実現させており、南イエメンに対しては優位な立場を築きつつあった。こうして、両イエメンは88年から統一へ向けた協議を本格的に開始し、翌年には正式に統一で合意、90年2月に統一が宣言された。
 このように南北イエメンの統一は同年10月の東西ドイツの統一にも先立ち、想定を越えるスピードで進められた。それだけ、南イエメン側には条件闘争に出るだけの余裕もなかったことを示唆する。
 新生統一イエメンの大統領には北イエメンのサレハ大統領が横滑りし、86年内乱後の南イエメンを党書記長として実質的に率いてきたベイドが副大統領に就任した。91年に国民投票で承認された統一憲法に基づき実施された93年議会選挙では、サレハの翼賛政党である人民全体会議が第一党を占め、旧南イエメン支配政党イエメン社会主義者党は第二党に甘んじた。
 このように両イエメン統一が旧北イエメン主導のペースで性急に推進され、統一イエメンも旧北イエメン優位の体制で構築されたことは、間もなく深刻な摩擦・紛争を引き起こすことになったであろう。

2015年10月 2日 (金)

もう一つの中国史(連載第18回)

五ノ二 モンゴル帝国の覇権(続き)

元朝の撤退
 巨大帝国化した元朝は、全盛期を築いた世祖クビライ・カーンが1294年に没すると、斜陽化の道をたどる。元朝では明確な皇位継承制度が確立されておらず、後継争いが生じやすいことが致命的であった。
 クビライを継いだ末子のテムル(成宗)も長兄を飛び越えての即位となったが、彼の治世前半には、クビライ時代から中央アジアを拠点に元朝に反乱を起こしていたオゴデイの孫カイドゥを破り、反乱を平定に導く功績を上げた。しかし後半期になると、酒乱・淫乱から病床に伏せ、政務は皇后ブルガンの手に委ねられた。
 テムルが1307年に死去すると、ブルガン派と反ブルガン派の抗争が起き、反ブルガン派のクーデターにより、テムルの甥に当たるカイシャン(武宗)が即位する。しかし、彼は短命で死去し、弟のアユルバルワダ(仁宗)が継ぐ。
 アユルバルワダ時代は科挙の限定的復活や儒者の登用などが実行され、漢文化や漢制に傾斜した例外的な時期であったが、こうした漢化路線が定着することはなく、アユルバルワダを継いだ息子のシデバラ(英宗)が保守的なイェスン・テムル派に暗殺されると、終わりを告げた。
 これ以降は短命な皇帝が続き、政情不安と財政難が常態化する中、元朝の衰退は目に見えて進行していく。元朝最後の皇帝となるトゴン・テムル(恵宗)は13歳で即位し、元朝最長の35年の治世を保つが、皮肉なことに、その治世は元朝史上最も混乱に満ちたものであった。
 1351年以降、漢民族を主体とする元朝打倒運動として紅巾の乱が勃発する。1353年以降は自立傾向を見せる皇太子アユルシリダラとの対立・内紛により、中央政府が機能麻痺に陥った。
 こうした中、江南を基盤に実力をつけていた紅巾軍ゲリラ兵出身の朱元璋が率いる北伐軍が1368年、元朝軍を破り、首都大都を制圧、明朝を樹立する。トゴン・テムルはアユルシリダラとともにモンゴル高原に敗走した。
 ただし、元は完全に滅亡したわけではなく、本拠であるモンゴル高原に撤退して存続していくが、これ以降、再び中国大陸の支配権を取り戻すことはなく、中国史上の国家としては終焉する。
 こうして、クビライ死後の元朝ではクビライ級の英主が現われることなく、混乱しながらクビライの死後70年余りも延命されたのが不思議なほどであった。元朝が前後する鮮卑系唐朝や、女真系清朝と比べても長続きしなかったのは、漢制を軽視した征服王朝の限界であった。
 一方、強力な騎馬軍団に支えられた遊牧的な機動性を駆使し、歴史上初めてアジアとヨーロッパを一本につなぎ、ユーラシアの地政学を作り出した功績は元朝にあった。これ以降、中国史は単に中原の覇権を争奪し合う椅子取りゲームではなくなり、世界史の中に組み込まれていくのである。

2015年10月 1日 (木)

ルクセンブルク―資本主義の優等生(連載第8回)

seven 「豊かさ」の秘密③

 ルクセンブルクは2パーセント台の際立った低失業率を維持してきたが、2008年大不況後は、さすがに失業率は上昇に転じ、欧州債務危機を経て2010年以降はさらに上昇を続け、2014年度は7パーセント台にまで達した。
 それでも欧州全体(ユーロ圏)の失業率が10パーセント台であることに比較すれば、相対的に低い数値ではあるものの、賃労働による稼得を中心に豊かさを築いてきたルクセンブルクにもグローバルな経済危機が続発する近年は陰りが見えてきた。
 そうなると、資本主義優等生ルクセンブルクといえども、社会保障制度の助けを借りる必要が出てくる。この点、ルクセンブルクは前回も指摘したように、社会民主主義に基づく福祉国家モデルによらない体制を構築してきたわけだが、それは福祉国家を否定する米国型とも異なっている。
 ルクセンブルクには被保険者、雇用主、公的機関三者拠出型の統一的な社会保障基金制度が存在し、労働者は職業に応じてこれに強制加入する。対象範囲は疾病、妊娠、労災、職業病、失業、老年、家族手当、扶養手当、早期退職、最低賃金など多岐にわたる。
 これとは別に、18歳未満及びフルタイムの教育を受けている限り最長27歳までの子を対象とする子ども手当の制度があり、これには障碍児を対象とする無制限の保障も付随している。
 医療保険に相当する部分は疾病基金がカバーしており、医療費の公費負担率は90パーセントと極めて高い。患者負担は定率制ながら、医療費は事後還付制であるため、患者はいったん全額支払を強いられる点では、高所得を前提とした制度となっている。
 元来は財政難に陥っていた職域別疾病金庫を前身とする疾病基金に関しては、医療費抑制策として90年代から各病院と基金の個別交渉が導入されるなど、市場的要素も取り込まれている。
 こうしてみると、ルクセンブルクの社会保障制度はドイツやフランスに代表される欧州の大国と同様の制限的福祉国家モデルによっていることがわかる。この点でも、ルクセンブルクは資本主義優等生ゆえに、小国ながら大国に準じたモデルを採用する力量を擁していると評し得るだろう。
 反面で、外資誘致を目的としたタックスヘイブン政策のゆえに、多くの税収は望めないことから、社会保障全般を税財源でカバーする北欧型福祉国家モデルは構造的に採用できないのである。

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