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2015年9月

2015年9月30日 (水)

反闘病論

 「闘病」という言葉が気に入らない。「闘病」にはいかにも病気という敵と戦う英雄的なイメージがあって、勇ましい。世間ではその点が気に入られて、この言葉が膾炙しているのだろう。「闘病記」というエッセイのサブジャンルも確立されている。

 病気の治療を目的とする医学も、ある意味では病気と闘うための戦略学であるから、医学の実践者たる医師たちにとっても「闘病」という言葉は、受容しやすいのだろう。特に、癌治療は体に巣食う悪性新生物のイメージから、「闘病」の主戦場となっている。
 かねてより癌の「放置」を推奨する医師が医学界でつまはじきにされるのも、単にエビデンス云々以前に、病気と闘って打ち負かすという医学の戦略的本質を否定するかのような言説への職業的嫌悪感からなのではないかと思う。

 しかし、癌に限らず病気とは戦争の相手ではない。共存できるに越したことはない。癌にしても、癌細胞を殺す「抗癌剤」ではなく、癌細胞と共存したまま命を保持できる「共癌剤」が開発されればどんなにいいかと思うが、そういうものはまだないらしい。
 となると、今のところは各自の生き方の選択の問題となるが、あえて「闘病」しないという非英雄的な選択肢があってもよいだろう。これは「宿命死」ともつながる生き方で、癌になっても、成り行きに任せるのである。まさに「放置」である。

 このような選択は、周囲で少なからず波紋を呼ぶ一定の勇気ある決断となるだろうが、実際のところ、癌を放置した場合、何らかの治療を施した場合より確実に余命が縮まるという大量的なデータは存在しない。なぜなら、医師の側から癌をあえて放置させて大量の比較データを取るという行為は、ある種の消極的な「人体実験」となる恐れがあって、医療倫理上困難だからである。

 ・・・・というわけで、「反闘病」は必ずしも自ら死地に赴く自殺行為とは限らないのである。もちろん、急に胸が苦しくなって倒れてもそのまま放置することも選択肢だなどと言うつもりはない。生と死の問題は、ケースバイケースの場当たり主義であって全然構わないと思う。

2015年9月28日 (月)

新計画経済論(連載第30回)

第7章 計画経済と消費生活

(2)消費計画の概要
pencilソ連式計画経済では、生産計画はあっても消費計画はなかった。これはソ連式計画経済においては生産活動、それも重工業や軍需産業のような重厚長大産業分野に傾斜していたからである。その結果、消費財の生産・流通には不備欠陥が目立ち、消費生活の貧弱さの原因を成していた。
 新しい環境計画経済では、消費に留意する。消費は生産の単なる結果ではなく、マルクスも指摘したように、「それ自身生産的活動の一契機である」。従って、計画経済は生産のみならず、消費にも及ぶ。
pencilこの消費計画は、全土的―究極的には全世界的―なレベルでなされる生産計画とは別に、地方的なレベルで策定される。消費様式には地方的な特色があり、そうした特色を踏まえた計画的な地産地消が環境的にも持続的だからである。
 消費計画の主体となるのは、各地方圏(例えば関西地方圏とか東北地方圏)ごとに設立される共同消費組織としての消費事業組合である。その組織の実際については次回に回すとして、消費計画の内容についてここで概観しておく。
pencilこの消費計画では基本的な衣食住に必要な標準的日用必需品に関して、地方ごとの特色を考慮しながら、3か年計画の形で需要見通しを定める。その際、製品の環境持続性や安全性への配慮も盛り込まれる。
 こうした消費計画は地方議会に相当する地方圏民衆会議の承認を経て発効し、向こう3か年の消費財生産活動の指針となる。これに従って、消費事業組合と提携する生産企業に発注され、製品の供給が行われる。
pencil商業的な大量生産が行われる資本主義市場経済では全般に過剰生産傾向にある結果として、平常時に物不足が生じることはほとんどない反面、大量の売れ残り・廃棄物が発生するが、共産主義計画経済では厳正な需要見通しに立った消費計画に基づく適量生産が行われる。
 ただ、災害時の非常用物品の備蓄も常備するため、実際の需要見通しは突発的な災害も想定していくぶんオーバーに見積もられることから、相対的な過剰生産体制―余剰生産体制―を取ることになる。

clubMEMOclub
日々の生活と直結する消費サイクルの短さを考えると、消費計画(中でも食料品計画)は中央計画の3か年と連動させる必要はなく、中央計画を参照しつつも、基本1か年計画のような短期更新計画のほうがふさわしいかもしれない。

2015年9月27日 (日)

犯罪精神医学事始(連載第13回)

12 病理性暴力犯罪者の治療的処遇④

 病理性暴力犯罪の背景には、反社会性パーソナリティー障碍に限らず、各種のパーソナリティー障碍(PD)が潜伏していることは少なくない。こうしたPD保持者は何らかの精神疾患を合併していない限り、通常の医療機関に現われることは少ない。
 むしろ犯罪行為のような逸脱行為が発現し、司法的処分を受けて矯正施設に収容されることで、矯正現場に現われる可能性が高い。そのため、PDの治療は医療施設よりも矯正施設が主たる現場となるだろう。

 その意味で、PDの治療は矯正施設における治療的処遇において大きなウェートを占めることになるが、そこでの中心は薬物療法よりも精神療法に置かれ、中でも精神分析の意義が再発見されるはずである。なぜなら、PDの治療は単に病的な行動癖を矯正するだけでは足りず、幼少時からの人格形成過程まで遡及した深層心理治療が必要だからである。

 現在、薬物療法が主流となった一般の精神医療において精神分析のウェートは極めて低いと見られ、また行動療法が主流化した臨床心理治療においても精神分析はすでに退潮しているようである。
 これには、客観的なエビデンスに基づく医療(EBM)の普及、あるいは精神分析における「偽りの記憶」のような施療過誤問題が影響していると思われ、それなりに理由があるわけだが、人格形成過程に病理性を抱える重篤なPDの治療に関してはむしろ薬物療法や行動療法のような表層的治療法では十分な効果が期待できない。

 おそらく精神分析は従来のままではもはや再生できないであろうが、その問題点を克服した改良型精神分析はPDの治療法として、なお考究されるべきである。実際、アメリカの精神分析医オットー・カーンバーグが開発した転移焦点化精神療法は境界性PDや自己愛性PDに対して有効な改良型精神分析療法として提示されている。
 これは一例に過ぎず、他のPDに対しても同様にエビデンスを伴う改良型精神分析療法の開発が求められるが、その点でも犯罪精神医学の確立は寄与するはずである。

2015年9月26日 (土)

イエメン―忘れられた近代史(6)

five 南北イエメンの歩み〈2〉

 南北イエメンでは、1978年に同時発生したそれぞれの政変を経て、新体制が発足する。北ではサレハ独裁政権、南ではイエメン社会主義者党(YSP)独裁政権である。
 北で新政権を樹立したサレハは一兵士として北イエメン軍に入隊した後、王党派との内戦で功績を上げ、将校に昇進したたたき上げの軍人であった。77年にガシュミ前大統領が暗殺された時、彼はまだ権力中枢に届かぬ軍の少壮幹部に過ぎなかったが、事件直後の混乱を速やかに収拾し、瞬く間に政権トップに躍り出たのだった。
 このような経歴からしても、サレハは相当な策士であった。彼は就任直後、謀反の疑いをかけた軍将校を大量処刑し、恐怖政治の姿勢を示した。そのうえで、82年には全体主義的な翼賛政党となる人民全体会議を結成し、早くも長期執権体制を確立した。
 人民全体会議はいちおう共和革命以来の北イエメンの国是でもあったアラブ民族主義を基調としてはいたものの、その内実は軍部を権力基盤とするサレハ独裁のマシンに過ぎなかった。とはいえ、この体制の下、従来政変が相次いだ北イエメンの政情は安定に向かう。
 サレハ政権は外交的にも共和革命以来の親ソ的な立場を修正し、サウジアラビアをはじめとする湾岸諸国や西側諸国と友好関係を築き、経済援助や出稼ぎ労働先の確保にも成功した。
 一方、南イエメンの事情はやや複雑であった。78年に一党独裁政党として改めて結成されたYSPのトップには独立闘争の古参で、67年の南イエメン独立以来、事実上の最高実力者でもあったイスマイルが就任し、新たに設置された元首相当職の最高人民会議議長も彼が兼務した。
 しかし、80年、イスマイルは突如、健康上の理由で全職務から引退し、ソ連へ出国、後任ポストは実質的なナンバー2のアリ・ナシル・ムハンマド首相が継承した。体制内でのこの政権交代は、実質上ムハンマド派による党内クーデターの意味を持っていた。
 その火種は、社会主義政党によく見られるイデオロギー対立の裏に中東的な部族対立も絡む複雑なものだった。簡単に言えば、イデオロギー的な親ソ・強硬派であったイスマイルに対し、より穏健で現実的なムハンマドが追い落としを図ったのだ。この党内抗争は尾を引き、85年にイスマイルが党政治局員として復権したことを契機に、翌年には内乱が勃発する。
 党政治局会議での銃撃事件に端を発したこの内乱は最大援助国ソ連の仲介により12日間で終結するが、短期間で最大推定1万人が犠牲となる凄惨な内戦となり、イスマイルを含む主要な党幹部も大半が命を落とす異常事態であった。
 銃撃事件の背後にあったと見られるムハンマドは結局敗北し、北イエメンに亡命した。代わって、イスマイル派のアリ・サレム・アル・ベイドが政権を掌握したが、これはイスマイル派の勝利というより、亡命したムハンマドを除けば、彼が党幹部で唯一の生き残りだったことによる。
 かくて、1980年代後半の時点では、軍事独裁制ながら政情安定化に成功した北イエメンと、内乱による社会経済の混乱で存亡の危機に立たされた南イエメンの明暗が大きく分かれる結果となった。

2015年9月25日 (金)

もう一つの中国史(連載第17回)

五ノ二 モンゴル帝国の覇権

元朝の独異性
 クビライ・カーンの頃に最大化したモンゴル帝国は中央アジアを越え、ロシア方面にも拡張されていたから、最盛期のモンゴル帝国は本来中国史を超えたユーラシア史に属するが、ここでは行論上中国史上のモンゴル帝国に限局する。
 中国史上のモンゴル帝国=元朝は、かつての遼以来の征服王朝の性格を持っており、実際、遼の二元統治システムを踏襲していたが、遼に比べても、モンゴル独自の制度・慣習を優先する傾向が強く、中国史上異彩を放つ存在である。
 そうした点では、かつての鮮卑族が漢化政策を採用し、北魏・隋唐の時代を通じて、律令制をはじめとする漢制を言わば漢族になり代わって大成させたこととは好対照であった。
 実際、元朝下で律令制は停止され、より体系性に欠けた部族慣習法的なモンゴル法が施行されるようになり、伝統的な官吏登用法であった科挙も停止された。当然にもモンゴル貴族が要職を占め、漢族は下級官吏などに閉塞した。
 法治は苦手とした元朝だが、広域統治には長けており、全国を省に分ける現代中国の広域地方行政の仕組みも「行中書省」と呼ばれた元朝の地方行政庁に由来している。元が残した広域統治の仕組みは、北京を首都とする政策とともに、その後、漢民族が支配権を奪回した後も広大な領土の統治に活用されていると言える。
 元朝時代のもう一つの独異性は、地理的な開放性から国際性が増したことである。この点では唐の時代に比すべきものがあるが、元朝期の国際性は商業・文化面での国際化にとどまらず、人材登用にも及んだ点に特色がある。特に西アジアのイスラーム教徒の登用である。
 財務に通じていた彼らは、特に財務官僚として重用された。最も著名な人物は、クビライ時代のアフマド・ファナーカティーである。彼とその一族は帝国の財務機構を掌握し、専横したことから、クビライの息子チンキム皇太子と対立し、暗殺されたほどであった。
 これと対照的なのはサイイド・アジャッルで、彼とその一族は雲南をはじめとする地方行政・経済開発で功績を上げ、その子孫は雲南省に土着した。後の明代に大航海の立役者となった提督鄭和も、サイイドの末裔とされる。
 今日では全国に拡散しているイスラーム系少数民族回族の祖先は、そのすべてではないにせよ、主として元の時代に移住してきた西アジアのイスラーム教徒が漢族と通婚し、形質的にも漢族と同化して形成されたものと考えられる。

2015年9月24日 (木)

ルクセンブルク―資本主義の優等生(連載第7回)

six 「豊かさ」の秘密②

 前回、ルクセンブルクの「豊かさ」の秘密は、所得の高さにあることがわかったが、ここでルクセンブルクの労働環境について見ておこう。一般に、ルクセンブルクでは労使関係が安定しており、このことも海外投資にとって利点とされるが、こうした「安定性」は決して歴史的なものではない。
 特に20世紀の戦間期には、最大貿易相手国であったドイツの敗戦・破綻から波及的な不況に陥ったことを契機に労働者に大量解雇の嵐が吹き荒れた。これへの対抗上労働運動が急進化し、ストが頻発したばかりか、ロシア革命の影響を受けた革命的な労働者評議会の設立も見られた。
 これに対して、政府は警察力をもって鎮圧しつつ、労働者側の意見を汲み取る制度を創設する硬軟両様の策で臨んだ。この策は大恐慌と1936年の大規模デモを経て、労使関係を政府が仲介する「労働国家評議会」の制度に結実した。
 こうして政労使協調体制が確立されたことにより、戦後の労使関係は欧州でも最も安定的なものとなって現在に至っているのである。このような労使協調は、政府主導によるファッショ的な官製労使協同ではなく、熾烈な闘争の止揚形態としての政労使協同モデルと言うべき特徴を持つ。
 他方、ルクセンブルクの「豊かさ」のもう一つの鍵である「外国人経済」は、歴史的なものである。ルクセンブルクでは19世紀に製鉄が主産業として成長すると、主としてドイツからの労働者の移入が大量化したのである。
 しかし、戦後の産業構造転換に伴い、ドイツ人は減少し、代わってポルトガルからの移民が大量化した。一見縁の薄い南欧からの移民が到来したのは、1960年代から70年代にかけ、当時のポルトガルのファシスト体制下での政治経済危機により、大量移民が生じたことによる。
 その後、90年代内戦に陥った旧ユーゴスラビアからの移民も加わり、現在のルクセンブルクでは人口のおよそ40パーセントを移民が占めている。
 このように外国人の人口比率が高い社会編制は中東の湾岸諸国でも顕著に見られるが、そこでは外国人が家事などの底辺労働に従事する下層階級に置かれているのに対し、ルクセンブルクではそうした階級格差が見られないことが特徴である。
 またしばしば高い失業率を示す一般的な欧州諸国の移民とも異なり、ルクセンブルクの外国人は失業率に関しても国民と大差なく、移民差別的な社会意識も希薄と考えられる。
 このように、ルクセンブルクの労働環境は、協同モデルによる高度の安定性と内外平等性に特徴づけられている。これは北欧型の社会民主主義とも異なる資本主義枠内での限定止揚的な修正主義と評することができるだろう。

2015年9月22日 (火)

新計画経済論(連載第29回)

第7章 計画経済と消費生活

(1)生産様式と消費様式
pencilマルクスは、『経済学批判要綱』の序説で、「消費は新しい生産のための欲求を作り出し、かくて生産の前提である」とし、「消費の仕方もまた、客体的にだけでなく、主体的にも、生産によって生産される」と指摘していた。つまりは、消費様式も生産様式いかんにかかるということである。
 そのくだりで、マルクスは料理された肉をフォークやナイフで食して充たされる空腹と、手や爪、歯で貪り食って充たされる空腹とを対比した興味深い例を挙げている。しかし、この事例はやや的確性を欠いている。というのも、前者はどのような形態かは別にしても肉や食器が生産品であることを前提としているが、後者は生産活動をしない狩猟民の消費行動を示唆しているからである。
pencil前者の事例でも、肉や食器が自給自足されている場合と商品として量産されている場合とでは、消費様式にも大きな違いがある。前の場合は前資本主義的な農業社会の消費様式に相当するが、後の場合は商品生産社会の消費様式に相当する。
 今日の資本主義的生産様式にあっては、周知のとおり、商品として量産された物・サービスを貨幣と交換して取得・消費するという大量生産‐大量消費様式が定着しているから、肉も食器も通常は量産品を購入している。
 これに対して、商品生産が廃される共産主義的生産様式では、肉や食器は商品として生産されるのではなく、非商品として計画的に、かつ無償で供給されることになる。
pencilここで生産品の取得方法についてみると、資本主義市場経済では、生産品は原則として、市場で貨幣との交換によって取得され、一般消費者は賃労働で得た貨幣報酬をその交換手段に供するのが通例である。
 これに対して、共産主義社会では労働力を商品化する賃労働も廃されるから、労働と消費は分離される。標語的に言えば、「各人はその能力に応じて(働き)、各人にはその必要に応じて(分配する)」となる。従って、労働のいかんを問わず、各人は必要な物やサービスを無償で取得できる。先の例で言えば、肉や食器も各自が必要とするだけ取得できるわけである。
pencilただ、このような消費様式となると、資本主義市場経済では消費制限の意義をも担っていた貨幣量(俗に言うサイフの中身)のような抑えがないため、一人占めや高需要物品の品切れといったモノ不足が恒常化する「不足経済」に陥る危険と隣り合わせである。そこで、そうした問題を回避するためには、供給末端での取得数量の制限措置が不可欠となる。
 このような消費様式は配給制に近いものであるが、供給される物品の種類が限られている配給制とは異なり、供給される物品・サービスの種類に制限はなく、日常必需的な物品・サービスが全般的に無償供給される。ただし、非日常的な驕奢品・希少品については、物々交換慣習に委ねられる。

clubMEMOclub
統制経済的な配給制と区別された如上のような制度をひとことで言い表す決めの単語は見出しにくいのだが、さしあたりは「数量制限付き無償供給制」と呼んでおこう。

2015年9月20日 (日)

もう一つの中国史(連載第16回)

五 遊牧民族の時代Ⅱ(続き)

モンゴル族の席巻
 宋、遼、西夏の鼎立体制は遼が新興の金に滅ぼされ、次いで宋も金によって華北を追われ、南遷したことで、華北の金と華南の宋(南宋)という一種の南北朝体制に変化した。この体制に終止符を打ったのは、モンゴル族であった。
 かれらは元来室韋と呼ばれる民族集団の一部族を成し、東北部に出自する遊牧民族であるが、系譜的には金を建てた東北系の女真族などとは異なり、鮮卑族や契丹族などと同系とみなされている。
 モンゴル族がモンゴル高原に進出したのはかなり遅く、9世紀代にすぎない。それも初めは部族連合体を形成していたにすぎず、鮮卑や契丹のような統一国家樹立の機運は生じなかったようである。そのため契丹・遼、続いてこれを滅ぼした金に服属していた。
 そうした従属的状況が一変するのは、有名な族長チンギス・カンが登場してからである。本名テムジンといったチンギスは有力家系でも傍流の出であったが、その傑出した組織力と軍事的な才覚により、1206年までに部族的分裂を統一し、全モンゴル族の頂点に立った。
 彼はその勢いで、東西に及ぶ異民族征服戦争を開始する。生前の成果は、契丹系の西遼、タングート系の西夏を滅ぼすところまでであったが、彼の征服戦争は息子のオゴデイに継承され、彼の代で金を滅ぼし、金が領有していた華北に進出を果たす。
 オゴデイはモンゴル史上初めて大王号に相当するカーン号を名乗り、モンゴルの国家体制の基礎を築いた功労者であったが、その治世は十余年で終わり、その死後には20年以上にわたる後継者争いが続き、統一国家が再建されるのは1264年のことであった。
 時のカーンはチンギスの孫でオゴデイの甥に当たるクビライである。祖父譲りの強い指導力で内紛に終止符を打ったクビライ・カーンは1271年、漢風の国号・元を定め、現在の北京に首都・大都を置いた。
 そして南宋を1279年までに滅亡させ、ここにモンゴル高原から中国大陸まで包括する帝国を樹立したのであった。祖父チンギス・カンの推戴から三世代七十余年での功業である。こうして、中国大陸は歴史上初めて異民族征服王朝の統一的支配に下ることになった。 

2015年9月19日 (土)

ドイツ難民経済

 欧州への難民押し寄せが新たな国際人道問題として注目されているが、その中で、最も受け入れに積極的なドイツには「人道的配慮」に隠された一つの経済計算が働いているように見える。
 ドイツの人口は現在8000万人余りと、経済大国としてはあと一歩だが、先住ドイツ人は少子高齢化が進んでいる。だが受け入れた難民・移民が今後ドイツに定着・扶植されていけば、将来人口1億に達する可能性もあり、超少子高齢化による労働人口減で生産力も低下していく日本を尻目に、欧州の突出した経済大国として、超欧州的な経済主体にのし上がる可能性を秘めている。ドイツがGDPで日本を抜き去る可能性もゼロでない。
 ドイツの資本主義は、社会民主主義や環境主義が歴史的に埋め込まれた修正資本主義の性格が強く、上部構造も政治的多様性が保たれ、政治経済のバランスが取れている点、現時点ではドイツの上に位置するも、それぞれに歪みを抱える米・中・日とはいささか異なっている。
 資本主義が晩期にあることはたしかだが、終末期に達する前にドイツが主導する小繁栄の一時期を経る可能性はあるのではないか。そんな展望を持ちながら難民問題を眺めると、また違った側面が見えてくる。

[追記]
ただし、難民・移民の子孫たちが被差別的な下層労働者階級として固定されることになれば、かれらの社会への反感を醸成し、これまでドイツではほとんど見られなかった「ホーム・グロウン・テロリスト」を誕生させるという自爆装置を抱え込むことにもなるだろう。

2015年9月17日 (木)

ルクセンブルク―資本主義の優等生(連載第6回)

five 「豊かさ」の秘密①

 前回までルクセンブルクの経済構造及び税財政について概観してきたが、ここで改めてルクセンブルクの「豊かさ」の秘密に迫ってみよう。まずルクセンブルクの「豊かさ」を示す最大の指標は一人当たりGDPの高さにあった。
 一人当たりGDPは分子のGDP数値が高く、かつ分母の人口が少ないほど、言い換えれば生産力が高く、人口が少ないほど高数値となるが、この点で生産力が高く、かつ人口50万人程度のルクセンブルクは有利な立場にある。
 しかも、ルクセンブルクは人口の約40パーセントを外国人が占め、労働人口の半分は周辺諸国からの越境通勤者が占めている。このように大きな比重を占める「外国人経済」も、上記の一人当たりGDPの算定に含まれている。実は、このことが各種の一人当たり経済数値に関して、ルクセンブルクに有利に働いているのである。
 一人当たりGDPの算出法には、為替レートによる理論値と購買力平価による実数値とがあるが、ルクセンブルクの場合は前者の理論値のほうが高く出る傾向にある。
 このことは、為替レート基準によった場合は貿易や海外投資といった国際間資本移動の影響を受けるところ、ルクセンブルクは前回も見たように、外資導入を積極的に行い、まさに資本移動の拠点であることが大いに寄与していると考えられる。
 他方、購買力平価基準によった場合は、生活費やインフレ率、所得などの生活経済的要素が反映されるため、より実態に合った数値が算出される。この点でルクセンブルクがやや水準を下げ、中東カタールにかなりの差をつけられるのは、これらの生活経済的要素では必ずしも絶対的な優位性を持たないことを示唆する。
 ちなみにルクセンブルク国民の平均所得は、2014年度統計で約8万ドルの世界4位(1位は約9万5千ドルのスイス;米国は約5万7千ドルの8位、日本は約3万7千ドルの18位)、国民一人当たりの総所得を見ると、同じく2014年度統計で約7万ドルの4位で、10万ドルを越す1位のノルウェーには差をつけられている(米国は約5万3千ドルの9位、日本は約4万6千ドルの14位)。
 こうしてルクセンブルクの所得水準はノルウェーやスイスには及ばないものの、米国や日本に比べて高水準にあり、このことは稼得が生活水準の決定的要素となる資本主義的鉄則に忠実であることを示している。

2015年9月15日 (火)

新計画経済論(連載第28回)

第6章 計画経済と労働生活

(4)労働紛争
pencil共産主義的企業体では労使の対立が止揚されているため、深刻な労働紛争は通常想定できないが、労働者と所属企業の間で労働条件等をめぐる個別的な紛争は発生し得る。そのような場合の対応として、労働者参加を基本とする共産主義的企業体は紛争処理機能をも内在化している必要がある(企業内司法)。
pencilそうした労働紛争を処理する企業内第三者機関として、「労働仲裁委員会」の設置が考えられる。これは当該企業と利害関係を持たない外部の法律家で構成される調停機関で、問題を抱える労働者からの相談を受けて紛争調停に当たる。出された調停案に不服の労働者は、前々回述べた外部の労働オンブズマンに苦情申立てをするか、裁判所に提訴するか次の手段を選択することができる。  
 こうした委員会は協同労働グループや生産協同組合を除く大規模企業体で常置が義務づけられ、労働紛争は先行的に企業内の労働仲裁委員会での調停を経なければ、オンブズマンへの申立てや裁判所への提訴はできない(仲裁前置主義)。
pencilでは、より集団的な形での争議行動は容認されないか。先に指摘したように、労働者の経営参加が基本となる共産主義的企業体では集団的に闘争しなければならないような労働紛争の発生は想定し難い。中でも資本主義社会では労働争議のほぼすべてを占めていると言ってよい賃金闘争は、賃労働が廃される共産主義社会ではあり得ないことである。
 従って、集団的労働争議についてはそもそも想定外とみなしてよいとも言えるが、仮にそうした事態が発生した場合は、労働者参加機関を通じ、経営責任機関との協議によって解決するのが基本である。前回述べたように、共産主義社会では労働組合の制度は存在しないからである。
pencil上述した正規ルートをもってしても解決できない極限的な対立状況で、有志労働者が組合を結成し、ストライキなどの争議行動に出ることは禁止されないが、「争議権」が正面から認められるわけではないので、ストなどの争議行動の合法性は法廷での個別的な司法判断に委ねられることになろう。

2015年9月13日 (日)

犯罪精神医学事始(連載第12回)

11 病理性暴力犯罪者の治療的処遇③

 親密な関係にあるパートナーからの暴力全般をドメスティック・バイオレンス(DV)と呼ぶが、そのうち臨床犯罪精神医学上考察を要するのは、反復的かつ執拗な暴力行為やそれに準じた精神的虐待(拘束・監視行為など)―病的DV―に限局される。従って、いわゆる痴話喧嘩のような感情的対立からの一過性暴力は除かれる。

 DVは男尊女卑の封建的価値観が優勢だった時代には、病的なものも含めて等閑視されることが多かったが、病的DVは価値観の問題ではなく、一つの精神病理であるので、女性が加害者となることもあり得る。
 こうした病的DVの背景には、アルコール依存や薬物依存などの各種依存症やパーソナリティ障碍などが伏在していることがあり、単純な暴力犯罪としては処理し切れない。

 またDVでは被害者と加害者が最も親密な関係にあるという点からも、特有の問題を生じる。すなわち被害者に加害者に対する愛情が残されており、そうした被害者と加害者がいわゆる共依存関係に陥り、暴力を断ち切れないことがあり得る。そうでなくとも、DV被害者は精神疾患を抱えやすいので、被害者をも治療対象に加える必要性が高い。
 DV対策では身体・生命の危険にさらされた被害者を一時的に緊急保護するシェルター施設も重要であるが、保護するだけでなく、シェルターでの被害者の心理検査と必要に応じた精神医療の提供も欠かせない。

 DVの法的対応はストーカー犯罪と共通する面があり、初期段階では接近禁止などの保護命令にとどまることが多いので、やはり身柄不拘束の状態で治療的処遇につなげることが考えられなければならない。これについては、前回ストーカーに関して述べたことが当てはまるであろう。

2015年9月12日 (土)

イエメン―忘れられた近代史(5)

four 南北イエメンの歩み〈1〉

 南北イエメンは、ともに1970年に転機を迎えた。この年、北イエメンでは62年共和革命以来の王党派との内戦が正式に終結し、改めて共和国として再出発した。一方、南イエメンでは前年の英国からの独立を経て、民族解放戦線内のマルクス‐レーニン主義派が主導する社会主義共和国が発足する。
 南北イエメン関係は、当時の冷戦期にあって東西ドイツや南北朝鮮のような分断国家の形を取っていたが、ともに社会主義的な傾向を持ち、そのイデオロギー的な相違は相対的なものであった。とはいえ、当時の北イエメンのイリアニ政権は南イエメンに敵対的な態度を取り、早くも72年には南北間の武力衝突が起きている。
 しかし北イエメンでは74年に新たな軍事クーデターが発生し、イブラヒム・アル‐ハムディ大佐が指導する軍事政権が樹立された。この政変は、内戦初期の63年のクーデター以来、政権の座にあったイスラーム法判事出身のイリアニ大統領の保守的な政治姿勢に対する反発―革命の軌道修正―が動機となっていた。
 ハムディ政権は南イエメンとの融和策を打ち出すとともに、いまだ中世的な伝統を保持していたイエメン社会の近代化とインフラ整備を強力に進めた。結果、ハムディ政権下では共和制樹立以来、最大の経済成長も経験したが、その政治手法は強固な軍事独裁であった。
 こうした第二の革命政権のような性格を持ったハムディ政権は77年、ハムディの暗殺によって終焉した。事件の真相は不明のままである。2011年になって、後に30年以上の長期独裁体制を維持したサレハ大統領(事件当時は中堅将校)の暗殺関与を示唆する証言が現われた。
 もっとも、ハムディの後任には軍事政権のメンバーでもあったアーメド・アル‐ガシュミが就任したため、ハムディ体制はひとまず継承されたかに見えた。ところが、ガシュミもまたわずか八か月で暗殺されてしまう。
 ガシュミ暗殺は南イエメンからのメッセージを携えた特使の所持していたブリーフケースに仕掛けられた爆弾が爆発するという異例の爆弾テロ事件であった。当然、南イエメンの関与が疑われたが、この事件も未解明に終わっている。
 実は暗殺事件の二日後、南イエメン側でも当時のサリム・ルバイ・アリ指導評議会議長(元首)がクーデターで失権したうえ、即決処刑される政変が起きた。ルバイ・アリも北イエメンとの融和に積極的であったことから推すと、南北でほぼ同時に起きた二つの政変は南北融和に否定的な両国勢力の手によるものとの推測も可能である。
 いずれにせよ、1978年は南北イエメンにとって新たな転機となり、北では軍幹部アリ・アブドゥラー・サレハ大佐が大統領に就き、南北統一をまたいで30年以上に及ぶこととなる長期政権を開始する。南でも改めてNLFを母体とするイエメン社会主義者党による一党独裁体制が樹立される。

2015年9月10日 (木)

ルクセンブルク―資本主義の優等生(連載第5回)

four 税財政

 ルクセンブルクの税財政の特徴は、外資誘致を容易にする競争的な企業税制にある。実際のところ、小国ルクセンブルクの経済を支えているのは、国内資本よりも圧倒的に外国資本である。
 こうした外資誘致政策には歴史的な蓄積がある。発端はドイツ出身のアメリカ人実業家ヘンリー・レイアが1930年代、時の元首シャルロット女大公の財政顧問に就任したことにあった。彼はルクセンブルクに拠点を置く一企業が世界中の未開拓地を開発し、社会経済を発展させるという資本主義的なユートピア小説を出版したこともあるほど、確信的な資本主義者であった。
 第二次大戦後、レイアは大公室公認の下、アメリカ財界とのコネクションを使って、グッドイヤー、デュポン、モンサント、ウェルズ・ファーゴなどの米系大資本をルクセンブルクに誘致した。彼はさしあたり、ルクセンブルクという未開拓地を開拓したのだった。
 こうした外資誘致政策は現在も継続しているが、その秘訣は優遇税制にある。課税前所得に対してかかる法人税を含むすべての事業課税を加算した「総税率」で見ても、20パーセント前後と圧倒的に低い。また持株会社に対する源泉課税免除や知的財産のキャピタルゲイン免税、幅広い移転価格税制などの優遇措置が多彩に用意されている。
 ちなみに付加価値税(消費税)は15パーセントであるが、これも20パーセント前後が「相場」で、最大25パーセントを越える欧州諸国にあっては最低レベルに抑えられている。また中小企業にとってしばしば負担となる納税処理に要する時間も6時間と最短レベルで、納税処理の簡便さも際立つ。
 こうした優遇税制はいわゆるタックスヘイブンとして国際的にも批判されるようになり、政府も国際基準に沿った税制改正に乗り出す姿勢は見せているが、匿名性に関しては、国際NGO税制正義ネットワークの2013年度調査でも、ルクセンブルクはスイスに次ぐ世界第二位にランクされている。
 また2015年には、欧州委員会がルクセンブルクに子会社を置く米国大手アマゾンに対するルクセンブルク政府による税制上の優遇措置が国による補助金に相当するとして合法性を疑問視する判断を出すなど、問題はくすぶっている。
 税収をあえて縮小してでも優遇税制により外資を誘致し、雇用を創出するというタックスヘイブン政策は国内資本に乏しい小国にとっては生き残り戦略という意義があり、これを根本的に放棄することは困難であろう。
 批判的な資本主義大国にとっても、タックスヘイブン政策は資本主義的に合理性のある魅力的な戦略ではあるのだが、国家機構が大規模で、大人口を抱える大国は税収確保の要請も高く、この策に踏み切れないのである。

2015年9月 7日 (月)

新計画経済論(連載第27回)

第6章 計画経済と労働生活

(3)経営参加
pencil資本制企業の労働基準は、外部的な規制・監督と企業内労働組合の圧力(後者は存在せず、また存在しても労使癒着により機能しない場合もある)によって辛うじて担保されている状態であるが、それは資本制企業では企業内でも労使の厳格な階級的区別と優劣関係が基本となっているからである。
 これに対して、共産主義的な企業体においては、その程度と方法には企業形態ごとに差異はあれ、労働者の経営参加が共通した要素となる。この問題についてはすでに第4章でも論じたところであるが、ここで改めて労働の観点からも整理しておく。
pencil共産主義的企業体における労働者の経営参加は、大雑把に言って、経営と労働が分離されざるを得ない大企業では労働者代表機関による間接的な参加となり、経営と労働が合一化される中小企業では職員(組合員)総会による直接的な参加となるのであったが、いずれにせよ、こうした労働者参加機関は、経営上の重要な案件に関しては、経営責任機関との共同決定権を保持している。
 共同決定という意味は、重要な案件は、必ず経営責任機関と労働者参加機関との合意に基づいて決定しなければならないということである。また労働者参加機関は、これらの案件に関して、経営責任機関に対し提案権を持つこと、さらに特定の経営問題が労働条件や福利厚生にも影響を及ぼす場合は共同決定事項として取り上げるよう経営責任機関に対し要求する交渉権も含まれる。
pencilこれを資本制企業に移し変えて類推すれば、重要な案件については経営機関と企業内労働組合の共同決定事項とされるようなものである。しかし、資本制企業における労組はあくまでも企業外組織であるので、真の意味での労使共同決定は成立し得ない。
 共産主義的企業体にあっては、外部的な労働組合組織は必要ない。企業内労働者参加機関は、言ってみれば労組が企業内在化されたようなものだからである。この場合、労組の結成が禁止されるわけではないが、労働者は企業内参加機関を通じて行動することが基本であり、組合はあくまでも外部の非公認グループにすぎないから、企業体はこれを公式の交渉相手とみなす義務はない。

2015年9月 6日 (日)

犯罪精神医学事始(連載第11回)

10 病理性暴力犯罪者の治療的処遇②

 病理性暴力犯罪と性犯罪の中間に位置するものとして、ストーカー犯罪がある。ストーカーは多くの場合、その名のとおり、ストーキング=つきまとい行為にとどまり、傷害や殺人のような典型的な暴力犯罪に至るケースはレアである。
 しかしストーキング自体が被害者には身体・生命の危険を感じさせることも少なくないこと、レアとはいえ暴力犯罪にまで展開していくケースも確実に存在することから、ここでは概念を広く取って病理性暴力犯罪に含めている。

 ストーカー行為は好意を持った相手に言い寄って関心を向けさせる熱心な求愛行為とは本質的に異なり、明らかに社会常識を逸脱した病的な執着行動であり、精神医学的な治療を要するものである。
 こうしたストーカー行為の原因を成す精神病理はまだ完全には解明されておらず、「ストーカー症」のような固有の疾患なのか、それとも境界性PD、反社会性PDその他のPDが背景にあるのかは不明であるが、近年は認知行動療法や弁証法的行動療法などの行動療法が試行されるようになっている。
 ストーカー行為が暴力犯罪にまで展開していく病理的なメカニズムもまだ解明されていないが、ストーカー行為者を暴力犯罪に至る前の段階で早期に医療に結びつけることは防犯上も必要不可欠である。

 その場合、ストーカー行為者は初期段階ではまだ処罰されず、接近禁止等の司法的行動規制にとどまるので、その治療的処遇は身柄不拘束の状態で行なわれることが想定される。
 こうした場合、接近禁止命令に加え、精神科医師の鑑定を経て治療命令も併科するような制度が要請されるだろう。それには当然、対応する治療施設が存在しなくてはならず、この面でも臨床犯罪精神医学の発展と確立は急務である。

2015年9月 3日 (木)

もう一つの中国史(連載第15回)

五 遊牧民族の時代Ⅱ(続き)

遼と西夏
 宋の成立により漢民族が再び中原の覇権を奪回したように見えたが、宋の覇権は初めからカッコ付きのものであった。というのも、北方には遼が睨みを利かせ、やがて西方にもチベット系タングート族の建てた西夏が台頭してきたからである。
 華北の漢民族は宋から切り離されて遼の支配下に置かれたが、遼は旧鮮卑族系国家と異なり、伝統的な遊牧民社会の慣習を維持しつつ、農耕系の漢民族社会は漢制によって支配するという一国二制度戦略を採用したため、「征服王朝」とも呼ばれる。このような二元的な支配体制は後のモンゴル帝国によっても参照された。
 漢民族にとっては遼に奪われた燕雲十六州の奪還が民族回復の宿願であり、後周から宋へと引き継がれる課題となったが、宋では文官優位の文治主義により軍事的な弱体化が進んでいたため、1004年、大軍をもって侵攻してきた遼との間で、和平を結び、国境の確定と多額の財貨の提供などを約束させられた。
 遼は宋からの事実上の経済援助を元手に北アジア最大の帝国として発展していくが、こちらも次第に豪奢な漢化が進み、騎馬遊牧国家としての国力が弱まる中、東北の被支配民族であった女真族が分離独立し、金を建国した。
 金を粉砕しようとした遼はかえって反撃を受け大敗、これを見た宋は金と同盟して遼を挟撃し、最終的に1125年、遼は金により滅亡に追い込まれた。
 その際、王族の耶律大石に率いられた一派は中央アジアまで敗走し、現在のキルギスの地に西遼を建国し、故地回復を目指すも果たせず、1218年にはモンゴル帝国によって征服され、滅亡した。
 一方、西夏(自称は大夏)を建てたチベット系遊牧民タングート族は当初は突厥沙陀部と同様に唐に服属し、黄巣の乱では反乱鎮圧に功績を上げ、藩鎮軍閥としてのし上がる。唐滅亡後は宋に服属したが、李元昊の時、独立国家を建てた。
 西夏は漢風の制度も必要に応じて取り入れたが、遼と異なり、民族独自の慣習を重視する民族主義的な政策を追求した。李元昊が発したタングート独自の髪型を強制する禿髪令はその象徴である。
 建国初期の西夏は北方の遼と同盟して宋を挟撃する政策を採るが、1044年に和議を結び、遼と同様に宋から多額の財貨を引き出すことに成功した。その後は、宋・遼との鼎立関係の中で、微妙な均衡を保持していくが、東方から金が台頭すると、金に服属する政策に転じた。
 この頃になると、西夏は政治腐敗等から国力の低下が目立っていたが、新たに北方から台頭してきたモンゴルに服属して国家の延命を図った。しかし13世紀に入ると、膨張主義的なモンゴルによる数次にわたる西夏征服作戦の末、1227年に滅ぼされた。

2015年9月 2日 (水)

ルクセンブルク―資本主義の優等生(連載第4回)

three 経済構造Ⅲ

 鉄鋼業中心の工業を土台に金融立国を新たな資本主義的経済戦略としてきたルクセンブルクであるが、近年は金融依存からの脱却と産業の多角化にも注力している。とりわけ情報通信分野である。
 その先駆けとなってきたのは、1931年設立のラジオ・ルクセンブルクを沿革とするRTLグループである。これは現在ドイツ資本の傘下にあるが、総計で80局を超えるテレビ局やラジオ局を運営する欧州最大規模の多国籍メディア企業体に成長している。
 もう一つは、人工衛星運用会社SES S.A.である。これは1985年に設立され、他国に先駆けて通信衛星用軌道スロット使用権と営業免許を与えられた半国策的な企業であり、技術面でも高精細度テレビ放送の開発をリードしてきた世界有数の衛星通信事業者として展開する多国籍企業に成長している。
 また光ファイバーによる高速通信が全土化され、インターネットの普及率でもほぼ100パーセントに近い北欧アイスランドには及ばないものの、90パーセントを越え、世界トップ10に名を連ねるなど、情報社会基盤の整備も進んでいる。
 一方、ルクセンブルクは欧州内陸中心部に位置するその地理的条件から、海路を除く交通網が発達しており、特に航空分野では1970年に設立された世界最大級の国際航空貨物会社カーゴルックス航空が本拠を置いている。
 こうした交通の発達は観光業の発達も促進してきた。中世以来の歴史遺産や郊外田園地帯を主な名勝地とするルクセンブルクの観光はGDP及び労働人口のそれぞれ10パーセント前後を占める有力部門であり、近年の経済成長の鈍化を補う役割を果たしている。
 さらに近年は環境技術行動計画に基づき、政府の肝いりで環境技術の開発に取り組み、200近いエコ関連企業が設立されているほか、化学工業分野でも複合素材メーカーであるユーロ・コンポジットを中心に、先端的素材の開発に取り組むなど、新産業・新素材の創出も政策的に推進している。
 このような産業多角化政策は、晩期資本主義の大状況下にある先発資本主義諸国にとっては共通的な課題と言えるが、こうした施策を大国以上に機動的に実行できるのは、ルクセンブルクが歴史的に外資誘致政策を追求してきたことによる。
 その武器となってきたのが、高度に競争的な企業税制を柱とするタックスヘイブン政策であるが、これについては税財政と密接に絡むので、稿を改めて検証することにしたい。

2015年9月 1日 (火)

新計画経済論(連載第26回)

第6章 計画経済と労働生活

(2)労働基準
pencil資本主義市場経済下での労働基準は、労働力商品の対価である賃金と労働時間の相関で規律される。すなわち労働時間に見合った賃金の保障、賃金に見合った労働時間の規制が基本となるが、実際には多くの不払い労働時間を含んでおり、それがマルクス的な意味での「剰余価値」の源泉である。
pencil無償労働を基礎とする共産主義計画経済下の労働基準では、賃金という対価制度がないため、労働基準も一元的に労働時間で規律される。法定労働時間をどう設定するかは政策的な判断にかかるが、計画的な労働配分制度が確立されれば、いわゆるワークライフバランスも、単なる企業努力の問題ではなく、労働計画の一内容として統一的に実施できる。
 例えば、計画的なワークシェアリングと組み合わせて現在の半分の4時間労働(半日労働)を原則とすることも不可能ではない。無償労働であれば、裁量労働制の導入・拡大がしやすくなり、法定労働時間の規制が形骸化するのではないかという疑問もあり得るが、対価を伴わない労働において時間は唯一絶対の規制枠組みであるから、そうした懸念は杞憂である。 
pencilさらに、賃金問題に収斂しがちな市場経済下の労働基準とは異なり、計画経済下では労働環境の問題、例えば安全衛生や職場ハラスメント防止対策や性別その他の属性による雇用差別の問題など、賃金問題には回収できない労働問題も広くカバーされるだろう。
pencil資本主義的な労働基準は、資本の活動に対する後発的・外在的な経済規制の一種であるから、利潤を上げようとする企業体の側では極力その規制をかいくぐろうとする底意を秘めている。そのため罰則で担保された労働基準監督制度が要求されるが、それすらしばしば有効に機能しない。
pencil共産主義的な労働基準は原発的・内在的な社会規範であって、利潤を考慮する必要のない企業体にはそれをかいくぐろうとする動機は働かない。そのため、労働基準監督制度は不要とは言わないまでも、さほど厳格なものである必要はなく、警察権を持つ労働基準監督官のような制度ではなく、任意の苦情処理を中心としたオンブズマン制度で十分である。

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