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2015年8月

2015年8月31日 (月)

切り札としての「宿命死」

 「宿命死」という考えには、どこか消極的な諦念の響きも感じられようが、必ずしもそうではない。自然のお迎えに乗るという発想は、国家に生と死を左右されないための積極的な切り札なのである。

 戦時中、国家は戦争に勝利すべく「国のために死ね」と国民に死を強要したが、それで本当に大量死を招いた後は、一転して国家の再建と経済的繁栄を達成すべく「国のために生きろ」と国民に生を強要するようになった。国家とはまこと身勝手なもので、その時々の国勢に応じて国民の生と死を左右しようとする。

 「宿命死」は、「国のために死ね」という命令に対しては、自然のお迎えが来るまでは死なぬと拒否する切り札となり、「国のために生きろ」という命令に対しては、自然のお迎えに従って死ぬと拒否する切り札となる。

 一方で、「宿命死」は生死を「自己決定」するという個人主義的な死生観とも一線を画する。だから、自殺とか安楽死―それは医療化された自殺である―のような死に方を肯定はしないのである。お迎えが来ない間の早まった自死に対しては、ブレーキとして働く。

 そうした意味では、「宿命死」はお迎えが来るまでの間の限られた生を尊重するという積極的な死生観である。といって、無条件の生命賛歌ではないから、人工的な延命治療は受け入れず、癌死ですら受け入れる。

 その限りでは、「宿命死」には生と死の過剰な医療化に対抗する切り札という意義も付け加えてよいかもしれない。ただし、それは一切の医療を拒否するという意味ではないことも付言されなければならない。

2015年8月30日 (日)

イエメン―忘れられた近代史(4)

three 南イエメンの独立

 南イエメンは、北イエメン独立後も長く英国保護領の地位にあり、実質上植民地であった。56年のスエズ動乱で英国がスエズ運河権益を喪失すると、南イエメンの中心港湾都市アデンは石油精製の拠点として重視されるようになる。
 そのアデンは英国統治下で近代化が進み、労働組合運動などの社会運動も盛んになっていったが、それは一方で対英独立運動の足場も提供した。そうした南イエメン民衆の政治的エネルギーは北イエメン共和革命にも触発され、表面化する。
 北イエメンで共和革命が起きた62年、南イエメンでは英国主導の南アラビア連合が設立されていた。これは最終的に17もの小邦(大半は首長国)で構成され、英国から68年の独立を約束された一種の独立準備国家であった。
 しかし、それを待たず63年に反英独立闘争の火蓋が切られる。英国側の視点に立って「アデン非常事態」と呼ばれるこの武装闘争は、ナセル主義の南イエメン被占領地域解放戦線(FLOSY)とマルクス主義の民族解放戦線(NLF)という二つの対立的な武装組織によって主導された。
 この独立闘争は北イエメン内戦とほぼ並行する形で、67年にかけて対英ゲリラ戦の形で展開された。転機は67年の南アラビア連合軍の兵士・警官による反乱であった。英国側の現地兵士・警官の反乱は、英国にとって大きな打撃であった。英国政府は軍の完全撤退を決定、同年11月に南イエメン人民共和国が発足する。
 この際、英国との独立協議では優勢なNLFだけが当事者として扱われ、FLOSYや小邦首長らは排除された。そのため、南イエメンは最初からNLF主導体制でスタートする。
 NLF内部でも穏健派と急進派のせめぎ合いがあり、当初は南イエメン初代大統領カフタン・ムハンマド・アル‐シャービが率いる穏健派が主導したが、間もなくアブドゥル・ファッター・イスマイルに指導された急進派が69年に党内の実権を掌握し、アル‐シャービを投獄したうえ、70年に改めて南イエメン人民民主共和国を発足させた。
 NLFは78年にはイエメン社会主義者党と改称、以後同党が唯一合法政党とされる。この体制ではマルクス‐レーニン主義が基本路線となり、南イエメンはソ連陣営に組み込まれ、ソ連の衛星国となった。これはアラブ史上唯一のマルクス‐レーニン主義国家であった。

2015年8月29日 (土)

もう一つの中国史(連載第14回)

五 遊牧民族の時代Ⅱ

突厥の短い覇
 鮮卑系の唐が安史の乱以降衰退し、黄巣の乱の渦中で907年に滅亡すると、中国は再び五代十国と呼ばれる内戦状態に突入する。五代最初の後梁は漢民族系だが、黄巣反乱軍武将から寝返った朱全忠が創始した同国は正統政権として認知されず、早期に没落した。
 その後梁を打倒したのが、後唐であった。後唐は突厥沙陀部の軍閥によって建てられた王朝である。突厥はテュルク系遊牧諸民族の始祖集団であり、匈奴の支配下から自立し、6世紀には大帝国を築くが、間もなく東西に分裂した。その西突厥から出た沙陀部は安史の乱後、唐に帰属し、唐朝軍閥として地位を確立したうえ、唐末混乱期に反乱軍の鎮圧で功績を上げた。
 唐の後継者を自認した後唐は一時、華北を平定し、統一王朝化も窺うが、第二代で名君と謳われた明宗の短い治世の後は衰退し、滅亡した。明宗の女婿であった石敬瑭によって建てられた後継の後晋、後漢、さらに十国の一つに数えられる北漢はいずれも沙陀部系国家であったが、長続きすることはなかった。
 こうして唐末に台頭した沙陀部が覇権を確立できなかった要因としては、養子相続に依存する慣習が一族内紛を招く脆弱な体制を克服できなかったこと、同時期に華北では契丹族が台頭し、軍事的に優勢な契丹に押さえ込まれたことが挙げられる。
 その契丹族は鮮卑と同様に東胡から派生したとされる民族で、後に台頭するモンゴル族とも同系と見られる民族である。その活動は南北朝時代の5世紀頃から活発になるが、統一国家を建てるのは916年、耶律氏の長・耶律阿保機がそれまでの八部族連合を統合して契丹国を樹立したのが最初である。
 契丹国は第二代耶律堯骨の時、後唐の内紛に介入してその支配下にあった華北の燕雲十六州の割譲を受け、領土拡張に成功した。その後、後唐を継いだ後晋をも滅ぼした契丹は華北の覇権を得て、国号も漢風に遼とした。
 しかし、遼もかつての隋唐のように完全な覇権を握ることはできず、五代十国の混乱は、五代国家最終にして漢民族系・後周の軍閥から出た趙匡胤によって創始された宋によって、ひとまず止揚されるのである。趙匡胤も突厥の血を引くとする説もあるが、そうだとしても漢化して久しい一族出身であろう。

2015年8月27日 (木)

ルクセンブルク―資本主義の優等生(連載第3回)

two 経済構造Ⅱ

 現在のルクセンブルクの経済構造上中核を成しているのは、金融である。ルクセンブルクの金融部門はGDPの三分の一超、労働人口の二割を擁する産業中心としての役割を担うまでになっている。これは石油危機後の産業構造変化の中、伝統的な鉄鋼に代わる新たな成長分野として金融が選択された結果である。
 このようなタックスヘイブン政策とも結びついたオフショア金融立国政策は、他の小国にも見られる経済戦略であり、この点ではルクセンブルク経済も大国並みに工業を経済基盤とする構造から金融依存の小国的構造に転換したとも言える。
 ルクセンブルクの特徴は、国際的なファンドアドミストレーションを得意とすることで、世界の投資銀行・証券会社の多くがルクセンブルクに拠点を置いている。それとも関連して、富裕層向けのプライベートバンキングも盛んである。また欧州最大の国際証券決済機関クリアストリームも本拠を置く。
 クリアストリームは1970年に世界の主要66金融機関によってセデルの名で設立されたもので、ルクセンブルクの金融立国の先駆的な象徴であり、95年の組織変更を経て、2000年にドイツ証券取引所傘下に入り、クリアストリームとなった。
 反面、こうした金融立国は多くの秘密口座を生む銀行の秘密保持政策に支えられており、タックスヘイブン政策とも合わせ、犯罪組織の資金洗浄や政治家の汚職、富裕者の脱税などの経済犯罪に悪用される危険と隣り合わせである。実際、01年にはクリアストリームを舞台とするフランス政界の汚職疑惑が浮上している。
 こうした経緯から、21世紀のルクセンブルクはタックスヘイブンの見直しとともに、銀行の透明性を高める改革も迫られている。金融改革は最終的に金融依存からの脱却につながるだろう。
 金融依存の危険性は、リーマンショックでも明らかとなった。同危機に当たり、ルクセンブルクも金融機関の破綻を回避するための公的資金注入を余儀なくされ、09年にはマイナス成長・財政赤字に陥り、公的債務残高の増大にも直面したのであった。
 一方で、こうした財政出動は経済危機の拡大防止にもつながったが、依然余波は続き、ユーロ圏債務危機の影響も加わり、ここ数年の経済成長は鈍化している。ルクセンブルク政府は金融を中軸とした産業構成を変更するつもりはないが、ポスト大不況に向けて金融依存からの脱却も模索しつつある。

2015年8月24日 (月)

新計画経済論(連載第25回)

第6章 計画経済と労働生活

(1)労働配分
pencil資本主義市場経済と共産主義計画経済を労働の面から大きく分ける点は、労働配分の有無である。資本主義市場経済にあっては、労働関係も市場的に構成されるから(=労働市場)、労働力もある種の無形的商品として“自由に”売り買いされることになる。
 その結果、資本主義市場経済には付きものの景気循環に応じて、労働力の過不足が常態化する。また求職者は基本的に自力で就職活動―労働力商品の売り込み―を展開するため、いわゆるミスマッチの発生も不可避的である。
pencil貨幣経済を前提としない経済計画は、貨幣基準ではなく、労働時間基準で示されるから、それは一面では労働計画でもある。労働計画は、計画的な労働配分を通じて実施される。計画経済の適用外の領域にあっては、労働計画は示されないが、労働力の過不足を生じないよう、労働配分は適用される。
 そのため、計画経済では、一見“自由”ではあるが、不安定でランダムな労働市場が存在しない代わり、無償労働を前提とした体系的な労働配分の制度が整備される。類推されたイメージとしては、ボランティアの割当を想起すればより理解しやすいであろう。
pencil労働配分の実際は、共産主義社会の発展段階に応じて変化し得る。人々がまだ無償労働に馴染んでいない最初期共産主義社会にあっては、適正な労働力確保のため、労働の義務付けを前提に、一定の強制的な配分がなされる可能性があるが、完成された共産主義社会にあっては、労働は完全に任意とされたうえ、より選択的な配分がなされる。
pencilいずれにせよ、計画経済の下では、職業紹介所が中心的な労働配分機関となる。職業紹介所は、資本主義的な職業紹介所とは異なり、単なる職の斡旋機関ではない。職業斡旋は、労働市場の存在を前提に、労使の出会いの機会を提供するにとどまるが、計画経済下の職業紹介所は、経済計画と環境経済情勢に照らし、個別的な求職者の志望と適性を科学的にマッチングしつつ、教育機関とも連携しながら適職を紹介する体系的な制度である。
 この制度が機能することで、労働の過不足は解消され、職住近接も相当程度実現する。反面、職業選択の自由に制約がかかる可能性はあるが、心理学的な職業カウンセリングを通じた適職紹介が保障されることで、そうした制約を補填することができる。

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最初期共産主義社会における強制的な労働配分の対象としては、清掃や建設、介護などの現業的業務が想定される。これらは徴兵制に類似した社会奉仕労働として組織化されることになろうが、共産主義社会が進展していくにつれ、必要性がなくなり、最終的に廃止される。

2015年8月23日 (日)

犯罪精神医学事始(連載第10回)

9 病理性暴力犯罪者の治療的処遇①

 今回からは治療的処遇の各論に踏み込むが、その筆頭は成人病理性暴力犯罪者の治療的処遇である。ここで言う病理性暴力犯罪は、性暴力犯罪やアルコール・薬物依存性暴力犯罪以外で、何らかの精神障碍が原因や因子となっている暴力犯罪を指すが、中でも焦点となるのは嗜好殺人である。

 嗜好殺人者は稀ではあるが、連続的大量殺人を起こしやすく、刑事犯罪中でも最も重大であるがゆえに重罰を科せられやすい。また報道を通じて社会的な憤激を買いやすいことからも、死刑存置国にあっては死刑が選択されやすい傾向にあると考えられる。
 臨床精神医学的にも難治性であるため、こうした犯行者を確実に治療・矯正する方法論は確立されておらず、いわゆる「矯正不能」の烙印を押されやすいことも、死刑や終身刑のような矯正を前提としない保安的な刑罰を科せられやすい要因となっているが、そうであればこそ、臨床犯罪精神医学におけるフロンティアでもあり、これを解決できれば、刑事政策のあり方は激変するであろう。

 嗜好殺人者の治療を難しくするのは、殺人行為の背景にパーソナリティ障碍(PD)、中でも反社会性パーソナリティ障碍(ASPD)が高率で含まれている可能性があるためである。ASPDはアメリカ精神医学会の診断基準表では、PDのB群(演劇型)に分類されるタイプであり、社会規範や他者の権利・感情を無視する傾向が強い人格特性を特徴とする。
 これに殺人行為に性的快楽を感じる傾向性が加われば、性嗜好異常症(性的サディズム)の可能性もあり、より難治性の高い複合的な障碍・疾患を持つことになる。

 元来、PD全般が診断・治療法の確立された「疾患」ではなく、病的体質に相応する病的性格の問題であるがゆえに、診断・治療とも開発途上的であるが、矯正施設では通常の医療機関よりもASPDに多く遭遇するであろうことから、ASPDに関する診断・治療の知見の発展は臨床犯罪精神医学においてより期待されるのである。
 矯正を一切想定しない死刑が科せられたケースでは困難であるが、無期刑以下にとどまったケースでは、刑務所入所時の調査で、幼児期からの人格形成過程に遡及した精神医学的検査を施し、適格な診断に基づく個別的な治療的処遇計画を試行的に策定することが可能である。

 なお、嗜好殺人者は裁判時に刑事責任能力を疑われ、精神鑑定が行なわれる可能性もあるが、日本の現行刑法における心神喪失/耗弱二分法では、ほとんどの場合、完全責任能力と認定されるであろう。しかし、以前にも指摘したとおり、刑事責任能力は三分法によるべきであり、少なくとも重度のASPDでは是非弁別能力の減弱を認め、心神減弱者として裁判所の裁量で刑を減軽することが望まれる。

2015年8月22日 (土)

ルクセンブルク―資本主義の優等生(連載第2回)

one 経済構造Ⅰ

 世界一豊かとされる資本主義の優等生ルクセンブルクの秘密を探るうえで、まずは三回にわたってルクセンブルクの経済構造を概観することにする。

 ルクセンブルクの資本主義を支える経済構造に関して特筆すべきは、鉄鋼業を中核とした重工業を歴史的な基盤としていることである。これは、人口50万人規模の小国としては異例のことである。
 元来、ルクセンブルクはドイツやフランスといった大国に挟まれた狭小な内陸国に過ぎず、主要産業はそれ自体も貧弱な農業であった。その段階から発達した工業国に変貌した最初のきっかけは、1850年代における鉄鉱石の発見という僥倖であった。
 続いて金属工学が導入され、ルクセンブルクではにわかに鉄鋼業ブームが起きる。いくつもの鉄鋼会社が設立され、隣国ドイツからの投資も呼び込み、19世紀後半、ルクセンブルクに最初の経済成長期がもたらされる。
 19世紀末から20世紀初頭における高度成長の集大成として、1911年には、主要鉄鋼会社が合併してアーベッド社が設立された。この会社はその後、二つの大戦やオイルショックなどの危機を乗り越え、100年近くにわたってルクセンブルク経済の牽引役を担う中核資本として君臨し続けるのである。
 アーベッドは2002年にスペインとフランスの鉄鋼会社と大合併してアルセロールとなった後、06年にはインド系のミッタル・スチールに買収され、引き続きルクセンブルクに本社を置きつつ、現時点で世界最大の鉄鋼会社アルセロールミッタルとして再編されている。
 ただ、石油危機以降の産業構造変化により鉄鋼はもはやルクセンブルク経済の中核ではなくなっており、アーベッドも外資に買収されたわけだが、依然として鉄製品は輸出において高い割合を示している。
 鉄鋼以外にも、シェアは限定的ながら化学、繊維、自動車部品などの工業部門も擁しており、小国としては異例の多角的な工業生産が行なわれていることが、ルクセンブルクの特色となっている。
 このことは、工業的基盤なくして初めから金融・観光立国等として商業的発展を遂げたよくある他の野心的な小国とは異なり、ルクセンブルクをまさに「資本主義国」たらしめている点である。

2015年8月21日 (金)

イエメン―忘れられた近代史(3)

two 共和革命から内戦へ

 イエメン王国のアラブ連合共和国への加盟は、軍部を中心にナセルに傾倒するアラブ民族主義者を勢いづかせ、前近代的な王制打倒への動きに弾みをつけた。その点で、アラブ連合共和国加盟はザイド派王朝にとって自らの命脈を縮める選択であった。
 アラブ連合自体は1961年、シリアの脱退により崩壊したが、翌年、アフマド国王が死去し、息子のムハンマド・アル‐バドルが即位したのを機に、近衛隊司令官アブドゥラ・アル‐サラル大佐に率いられた軍将校による軍事革命が勃発、北イエメンは共和制へ移行した。
 実のところ、バドル国王もナセルに傾倒しており、急進的なナセリストのサラル大佐を近衛隊トップに任じたのも国王自身であった。そうした臣下の裏切りの要素もあった革命に対してバドルは降伏せず、サウジアラビアの支援を得て亡命政府を樹立、共和派に対して反革命戦を挑んだのだった。
 時は冷戦の最中であり、イエメン内戦が中東全域の紛争に拡大することが懸念され、アメリカと国連は調停と監視を試みたが、成功しなかった。しかし、ソ連はこの紛争に深入りせず、米ソの代理戦となることはなかった。
 こうして開始された北イエメン内戦は、共和派をエジプトが、王党派をサウジアラビアとヨルダンがそれぞれ支援する形で、アラブ世界を分断する戦争となった。南イエメンの領有を続ける英国も、65年までは秘密裏に王党派を支援していた。
 特にエジプトのナセル政権は共和派支援に全力をあげて軍事介入した。エジプトが小国イエメンにそこまで入れ込んだのは、エジプト主導によるアラブ連合共和国の崩壊を受けて、中東におけるエジプトの覇権を維持することに理由があったと見られる。
 一方で、宗派こそ異なれど、旧イエメン王国同様の絶対君主制を維持するサウジアラビアは共和革命の波及を恐れ、イエメン王国の復旧を支援する立場にあった。
 配下の部族勢力を結集したバドルが率いる王党派は近代化されたエジプト軍を相手に、北部山岳地帯を拠点にゲリラ戦法を駆使したため、内戦は持久戦に持ち込まれた。天下分け目の転機は67年であった。
 この年、エジプト軍が撤退すると、革命以来のサラル大統領が共和派内部の無血クーデターで政権を追われ、イスラーム法判事で文民のアブドゥル・ラーマン・アル‐イリアニ大統領に交代した。これを機に王党派が大攻勢をかけ、首都サナーを包囲したのだ。しかし空軍力で勝る共和派はこの包囲に耐え、共和派の勝利を決定づけた。
 最終的にはイリアニ政権下の1970年にサウジアラビアも共和国承認に転じ、和平が成立、革命から8年に及んだ内戦は終結したのであった。かくして、北イエメンは共和国として改めて再出発することになる。
 共和国承認に関してサウジアラビアから事前に何の相談も受けず、はしごをはずされた形となったバドルはその後、英国へ亡命し、南北イエメン統一後の96年に当地で客死するまで、政治から身を引いて過ごした。

2015年8月18日 (火)

もう一つの中国史(連載第13回)

四 遊牧民族の時代Ⅰ(続き)

北周から隋唐へ
 華北における鮮卑族の覇権は、拓跋部からさらに宇文部へと引き継がれていく。実のところ、宇文部は本来匈奴系であったが、後漢末に鮮卑族に帰属し、以後は鮮卑族の一部族として存続していく。
 鮮卑系国家としては最も成功を収めた北魏は、前回述べたとおり、反乱・内紛により東西に分裂するが、このうち西魏の建国者として台頭してくるのが、宇文泰である。彼は元来、北魏の軍人で、統一北魏最後の皇帝となった孝武帝に重用され、534年の東西分裂に際しては、孝武帝を擁して西魏を樹立した。
 しかし間もなく孝武帝との対立が深まると、同年中に皇帝を殺害、孝武帝の従兄に当たる文帝を擁立し、自らが最高実力者として実権を掌握した。彼は有能な統治者であり、均田制や府兵制などの基本政策を実施するとともに、行き過ぎた漢化政策の修正も試みるなど、バランスの取れた政策を展開した。
 宇文泰の建てた西魏はやがて彼の子孫により北周として発展する。北周は宇文泰の四男で三代武帝の時にいったんは華北統一に成功するも長続きせず、五代静帝の時、外戚の楊堅により事実上簒奪され、滅亡した。
 楊堅が開いた隋は589年、南朝を打倒して全国統一に成功するも、二代楊帝の暴政により滅亡し、李淵の開いた唐に取って代わられ、以後300年近くにわたる大唐時代に入る。こうして、五胡十六国時代から南北朝時代にかけての長い分裂状態は止揚された。
 このいわゆる隋唐時代は、最も中国的な律令制の確立期であったため、隋唐も漢族系王朝とみなされ、通常の中国史の一部として論じられるが、隋唐皇室はともに西魏・北周時代の有力軍事貴族集団であった関隴集団に出自している。
 関隴集団の元をただせば、北魏時代の武川鎮軍閥に行き着く。その実力者が先の宇文泰であり、彼が武川鎮出身者を組織して西魏の支配層として固めたのが関隴集団であった。この集団の民族籍は確定されていないが、鮮卑系国家の支配層を形成したからには、部族系統はともかく鮮卑系とみるのが自然である。逆に鮮卑化した華北の漢族とする見解もある。
 その意味で、大唐は鮮卑系国家の集大成とも言える。ただ、漢化政策を既定路線とし、鮮卑系風俗からは完全に脱却していたため、文化的には漢族系王朝とみなすこともできるが、その基層には遊牧民族の血脈が流れていた。

2015年8月17日 (月)

「宿命死」について

 平均寿命が延びた現在、若い時分に生と死について熟考するようなことはよほどのことがない限りないだろうが、折り返し地点を越える年齢に達すると、自ずと考えざるを得なくなってくる。

 近年、筆者の脳裏に去来するのは、「宿命死」という死生観である。平たく言えば「お迎え」のことである。「お迎え」がいつ来るかは人によって過酷なほどに差があり、子どものうちに来てしまう人から、100歳を越えてようやく来る人まで様々である。
 いずれにせよ、人にはいつか「お迎え」が来る。そうした自然的に定められた自身の寿命に逆らわないようにしたいというのが「宿命死」の内容である。従って、死に至る病を得ても、対症的な管理以上の積極的な延命的治療は行なわないのである。

 このような考えは、現代の延命第一主義の医療常識に真っ向から反するため、医療者や家族との対立・摩擦は避けられないかもしれない。だから、「宿命死」を受容するかどうかはひとえに各人の哲学の問題であり、他人に強制も推奨もできない。常識に従い「宿命死」を受容せず、あえて延命的治療によって「お迎え」を拒否することも一つの選択である。

 だが、意思表示できない近親者を前にして、延命治療を実施するかどうかの決断を迫られることはあるだろう。本来はその人の意思を尊重すべきであるが、それが不明なことは少なくない。最も苦悩する場面かもしれない。こうした場合、いささか形式的なチャート図のようになるが、判断の目安を私的に整理してみると、次のようになる。

○当該近親者が平均寿命に達しているか、越えている場合⇒「宿命死」を受容する。
 だたし、家族間の意思統一ができない場合や、延命することに特段の理由がある場合は、この限りでない。

○当該近親者が平均寿命に達していない場合⇒「宿命死」を回避する。
 ただし、延命治療を施しても早期の死が避けられない場合は、この限りでない。

 これはあくまでも一つの目安である。「脳死」の概念も定着し、生と死の境目が曖昧になってきた時代であり、生と死の問題は、より掘り下げなくてはならなくなっている。

2015年8月16日 (日)

犯罪精神医学事始(連載第9回)

8 治療的処遇の枠組み

 治療的処遇は、個々の受刑者に応じた個別的な処遇計画に基づいて実施されるものであるが、そうなると、日本の現行行刑のように、懲役刑・刑務作業中心の枠組みでは有効に実施し難いのではないかという疑問が生じる。
 この点については、懲役刑/禁錮刑という区分がすでに古典的であり、両者を包括して拘禁刑といった枠組みに再編するのが最も合理的であろうが、ここではさしあたり現行の区分に従って論を進めることにする。

 そうした場合、労働を科すことに重点が置かれる懲役刑は治療的処遇とは両立し難いので、治療的処遇相当の被告人には裁判時点で懲役を伴わない禁錮刑が選択されることが望ましい。現在の日本の裁判制度では判決において処遇の内容が指定されることはないが、治療的処遇相当の場合は、禁錮刑としたうえで治療的処遇に付するべきことまで判決することが望ましい。
 そのためには、既判力のない判決の付言としてではなく、既判力を持った判決の内容として裁判所の裁量で治療的処遇に付することができる規定を刑法上に設けること―治療的処遇付き禁錮刑―が要請される。この限りでは、新制度の創設となる。

 その位置づけを刑事責任能力の観点から整理すれば、完全責任能力者で治療的処遇も不要な場合は懲役刑、完全責任能力者または限定責任能力者で治療的処遇を要する場合は治療的処遇付き禁錮刑、責任無能力者または限定責任能力者で刑罰が相当でない場合は医療観察という体系になるだろう。

 治療的処遇付き禁錮刑の受刑者は本来、一般の懲役受刑者からは完全分離された専用刑事施設で処遇されることが望ましいが、刑事施設の新設が困難であれば、既設刑務所内部に専用棟を設けることでもよいだろう。精神疾患の病状が重い場合は、医療刑務所に移送されることもあり得る。
 なお、治療処遇付き禁錮刑受刑者自らが希望する場合は刑務作業を科してもよいが、それも治療効果を考慮した作業療法的なものである必要がある。

2015年8月15日 (土)

イエメン―忘れられた近代史(2)

one 北イエメンの独立

 イエメンの近代史は、他の多くの中東諸国と同様、オスマン・トルコの支配を抜け出した時点に始まる。イエメンの場合は、1918年である。時のザイド派イマーム、ヤフヤ・ムハンマド・ハミド・エッディンはすでに13年のオスマン帝国との条約により、実質的な自治権を獲得していたが、第一次大戦の敗者となったオスマン帝国はついにイエメンを放棄したのだった。
 とはいえ、ヤフヤを君主とするこの独立イエメン王国の領土はイエメン北半部に限局されていた。というのも、イエメン南部は1839年以来、インドへの中継港としてアデンを侵略した英国によって保護領化されており、05年には当時のオスマン帝国との間で締結された南北境界条約で両大国によるイエメン分割支配が約されていたのである。
 大イエメン主義に基づくイエメン統一を悲願とするヤフヤ国王は19年以降、たびたび英国領南イエメンに攻撃をしかけるが、英国の反撃にあい、成功しなかった。結局、ヤフヤは34年の条約で、英国の南イエメン保護領を40年以上にわたり承認することを合意した。
 ヤフヤの大イエメン主義は北隣の新興王国サウジアラビアとの国境紛争も引き起こしたが、34年のサウジ‐イエメン戦争後の条約で、現在の両国国境線が画定した。
 かくして、近代イエメンはまず北半部の独立からスタートした。イエメン統一をひとまず断念したヤフヤ国王は正規軍の創設や文武の人材育成のため、留学生を周辺国へ送るなど、王国の基礎作りに専心した。
 ただ、サウジアラビアをはじめとする他のアラビア半島諸王国が1920年代の油田発見を契機に、石油を基盤とする近代的経済開発を進めていくのとは対照的に、イエメンは油田が乏しく、その近代化の歩みは出遅れた。
 国際的には、45年にアラブ連盟の創設メンバーとなったほか、47年には国際連合加盟国ともなった。しかし、独立からちょうど30周年に当たる48年、ヤフヤは対立する氏族勢力によるクーデターで殺害された。このクーデターは隣国サウジアラビアの支援で鎮圧され、ヤフヤの息子のアフマド・ビン・ヤフヤが後継者として即位することで、事態は正常化した。
 アフマド国王は父よりは外交関係の拡大に積極的に取り組み、冷戦初期にあってソ連陣営との結びつきを強めた。また共和革命後のエジプトに接近し、58年にはエジプト、シリアとともにアラブ連合共和国の創設にも加わった。
 とはいえ、ヤフヤとアフマド父子の二代40年以上にわたったイエメン王国統治は、基本的に保守的かつ絶対主義的なものであり、統治に必要な限りで近代国家の要素は取り入れるが、部族的慣習に基づく伝統社会は固守した。
 このことは、近代化が最も進んでいた軍部の青年将校らを中心に共和制樹立への動きを強めていったであろう。以後のイエメン近代史は、石油利権を武器として権力基盤を固めていく周辺王制諸国とは全く違ったものとなるのである。

2015年8月14日 (金)

もう一つの中国史(連載第12回)

四 遊牧民族の時代Ⅰ(続き)

北魏の覇権
 鮮卑慕容部に続いて勢力を伸張させてきたのは、同じ鮮卑系部族の拓跋部である。拓跋部は内モンゴルのフフホトを根拠地とする部族集団であったが、4世紀初頭に西晋を助けて匈奴系の前趙と交戦した功績で華北に領土を安堵されたことが飛躍の土台となった。
 かれらは五胡十六国時代の初め、315年に代を建国した。代も五胡十六国の一つに数えられるが、華北の辺境領主的な位置にあったうえ、内紛が多く、60年ほどしか続かなかった。それでも、万里の内長城域まで領土の割譲を受け、華北の広い領域を領有したほか、未完に終わったとはいえ、漢化政策を進め、後継国家・北魏の基礎を築いた。
 代が前秦によって滅ばされた後、386年に代を復活させる形で建国されたのが、北魏である。建国者・拓跋珪は積極的な軍事行動で慕容部の後燕などを押さえて勢力を拡大し、398年には皇帝(道武帝)に即位した。
 その後の北魏は道武帝の孫・太武帝の439年に華北統一に成功し、五胡十六国時代は終焉する。その勢いで太武帝はその頃東晋を廃して江南に建国していた漢人系の宋(南朝宋)にも侵攻し大敗させたが、征服はできず、回軍した。
 これ以降、北魏は江南の漢人系王朝とは並立的な関係を維持したことから、いわゆる南北朝時代に入る。この間、漢人系の南朝は政情不安で、四つの王朝が交替したのに対し、北魏は534年に東西に分裂するまで、統一性を維持した。
 華北統一に成功した北魏は、部族的伝統の保守を主張する民族派勢力を抑えつつ、漢人系官僚を中心に漢化政策を強力に推し進めた。特に漢族の血を引く馮太后とその息子で第6代孝文帝の時代には均田制などの社会経済改革が打ち出され、北魏はますます貴族制に基づく漢風王朝の性格を増していった。
 しかし、こうした漢化主義と民族主義の対立関係は結局本質的には止揚されず、孝文帝没後間もなく、民族派の蜂起の性格を持つ北方軍閥の反乱(六鎮の乱)が勃発した。これに皇室の内紛が重なり、534年には東西に分裂し、東魏と西魏の並立状態となった。
 かくして北魏の実質的な華北統治期間は100年弱であったが、この間、太武帝時代に漢人官僚・崔浩の主導する行き過ぎた漢化政策により廃仏政策が採られた一時期を除けば、北魏では仏教が厚く保護され、中国大陸に仏教が広く定着するきっかけとなった。

2015年8月12日 (水)

ルクセンブルク―資本主義の優等生(連載第1回)

序説

 ルクセンブルク大公国は、オランダ・ベルギーとともにベネルクス三国を形成する中欧の君侯国である。人口わずか50万人の小国であり、近隣のオランダ・ベルギーと比べても日頃はほとんど国際ニュースになることもない。本連載は、このルクセンブルクにあえて個別的な焦点を当てる。
 なぜかと言えば、この小国は様々な角度から見て、資本主義の優等生だからである。資本主義の優等生はコミュニストにとっては敵手となるわけだが、ある意味、コミュニストにとって最大の敵手はアメリカでも、日本でも、ドイツでもない、人口わずか50万のルクセンブルクなのだ。
 ルクセンブルクはニュースにならないとはいえ、経済統計を見慣れた者にとってはかねてより目を引く存在である。とりわけ一人当たりGDPの数値では、トップランクにつけることが多い。例えば、一人当たり為替レートに基づく2014年度のIMF統計では調査対象国中唯一USドル換算で10万ドルを超えてトップにつけている(世界銀行(2009‐14通年)統計でも、モナコ、リヒテンシュタインに次ぐ3位)。
 同統計で、日本は3万ドル台で26位(世銀統計では22位)、アメリカでもルクセンブルクの半分程度の数値で、10位(世銀統計では13位)であるから、米日の両資本主義大国よりもはるかに上回っているのである。
 もっとも、生活関連コストやインフレ率などを反映させたより実体経済に近い一人当たり購買力平均によるGDPでみると、IMF統計でも世銀統計でも中東産油国であるカタールに差をつけられているが、それでも独立国中では2位に位置する。
 ルクセンブルクのGDP総額はおおむね600億ドル前後であり、この数値は日本の県内総生産で中位の県と同規模でしかないが、一人当たりGDPではGDP総額ダントツ世界一のアメリカよりも高い数値をたたき出すのである。
 このことが意味するのは、ルクセンブルクは生産活動の個人還元率が高く、生活の豊かさにおいては世界一に近いということである。ルクセンブルクは、歴史上一貫して資本主義・市場経済主義を採用する工業国であり、マルクスによれば窮乏をもたらすはずの資本主義でこのような豊かさを達成し得たルクセンブルクはマルクス理論への反証例ともなり得る。
 ルクセンブルクのような小国がかくも資本主義の優等生たり得た秘訣は何なのか(あるいはこの秘訣には何らかの裏面が隠されているのか)、またこのルクセンブルク・モデルを普遍化することは可能なのかを解析することが本連載の目的である。
 なお、ルクセンブルクの概況については、既連載『世界小国通覧―小国の未来学―』にても取り上げているが、一瞥的な概説にとどまらざる得なかったため、本連載で改めて正面から展開する次第である(ウェブ上で読める日本語によるより詳しい概説としては外務省の各国・地域便覧がある)。

2015年8月10日 (月)

新計画経済論(連載第24回)

第5章 計画経済と企業経営

(5)三種の監査系統
pencil資本主義的市場経済下の企業監査は、しばしば利潤追求に傾斜する経営機関に対して従属的、微温的となりがちで、外部監査も含めて企業不祥事の防止に十全の機能を果しているとは言い難い。また、環境監査を独立させる発想も現状ほとんど見られない。 
 環境計画経済下の企業体における監査業務は、大きく三系統に分かれる。一つは業務の法令順守状況や事業遂行状況全般を監査する業務監査で、もう一つは会計監査、三つ目は事業活動の環境的持続可能性への適合性を監査する環境監査である。
 このうち、二番目の会計監査については外部会計士に委託して中立的に行われる。一番目の業務監査と三番目の環境監査は、企業体の内部機関によって行われるが、企業体の監査機関のあり方は、企業体の種類ごとに異なる。これについては前章で企業の内部構造を論じた際、すでに先取りしてあるが、ここで改めて整理しておく。
pencilまず計画経済が適用される公企業である生産事業機構にあっては、多人数の監査委員で構成される業務監査委員会と環境監査委員会とが別個に設けられる。大規模な私企業である生産事業法人にあっても、同様に業務監査役会と環境監査役会とが並置される。これら業務監査機関は、会計監査人の業務に対する監査も担う。
 環境監査機関は環境会計監査のほか、日常業務の環境的持続可能性適合も随時監査する。環境監査機関のメンバーには環境経済調査士(環境影響評価に基づいて経済予測・分析を行う公的専門資格)の資格を有する者を最低2名含まなければならない。
pencilこうした監査機関は緩やかな合議体であり、経営責任機関のように代表職を置かず、あえて各監査委員または監査役が重複して職務を行うが、必要に応じて経営責任機関に対して共同監査勧告を行うことができるほか、業務の差し止め請求訴訟を提起することもできる。
 他方、中小企業体の生産協同組合にあっては最低3名の監査役を置けば足りるが、そのうち最低1人は環境監査役でなければならない。なお、零細の協同労働グループにあっては、最低1名の外部監査人を任命するが、業務監査と環境監査は区別されない。

2015年8月 8日 (土)

イエメン―忘れられた近代史(1)

序説

 目下中東ではイラクとシリアのほか、アラビア半島南端のイエメンでも政府軍と反政府武装力の内戦に隣国サウジアラビアを主力とする周辺国―背後にはアメリカがある―が干渉する同様の構図が展開されている。
 しかし、イエメンの状況はイラクとシリアほどには注目されておらず、報道も断片的である。もっと言えば、国際情勢に翻弄されつつ、独立‐革命‐分断‐統一‐内戦という激動と苦難の経過をたどってきたこの古国の近代史自体が忘れられてきた。
 古代のイエメンはアラブの原点とも言える場所であった。アラブ人には非アラブ人がアラブ文化を吸収した「アラブ化されたアラブ人;アドナン族」―預言者ムハンマドもこの系列に連なる―に対して、「純粋アラブ人;カフタン族」の二大系統があるとされるが、イエメンは後者の純粋アラブ人の原郷と目されている。
 イエメン古代・中世史は本連載の守備範囲外のため省略するが、イエメンの歴史的な特色は、北部高原地帯を拠点とするシーア派系のザイド派と南部の正統スンナ派が勢力拮抗し、オスマン・トルコの支配に下るまで、イエメンにはいかなる統一的な体制も樹立されなかったことである。このことが今日の内戦の遠因ともなっている。
 ちなみにザイド派とは、シーア派の中でも主流的な十二イマーム派とは異なり、シーア派イマーム第三代フサイン・イブン・アリーの孫ザイド・イブン・アリーとその子孫のみを正統的なイマームと認める宗派で、今日では専らイエメンで勢力を持つ独特の少数宗派である。
 9世紀末頃に成立したザイド派イマーム体制は、長い間統一的な王朝の体をなしていなかったが、時代ごとに周辺大国と競合し、またはこれに従属しながらも、20世紀初頭頃にようやく世襲王朝として確立、同世紀半ばの共和革命で打倒されるまで、北部イエメンの支配的勢力であり続けた。
 他方、近世以降のイエメンはオスマン・トルコ、次いで西洋列強の帝国主義支配を受け、冷戦時代にはアラブ世界唯一のイデオロギー的分断国家も経験した。これら外部要因もまたイエメン近代史に大きな影を落としている。
 こうした特殊な歴史を反映して、イエメンは開発が遅れ、アラブ世界でも一貫した最貧状態にあり、前近代的因習も根強く残存する。一方で共和革命や独立戦争、社会主義体制も経験するなど、半島の周辺諸国には見られない革新的な一面もあり、近代イエメンの性格は複雑である。
 本連載では、こうしたイエメンの忘れられた近代史を概観することを通じて、イエメンが直面する現在を考える契機としてみたい。これにより既連載『イラクとシリア―混迷の近代史』と合わせ、中東における現在的な紛争の歴史的な認識を深めることが可能になるものと信ずる。

2015年8月 7日 (金)

ハイチとリベリア(連載最終回)

十一 ハイチ大震災を越えて(続き)

大震災と復興
 米国‐国連の介入による軍事政権崩壊後のアリスティド‐プレバル時代は、ハイチにとって国家再建の時代であった。その間、特に第二次アリスティド政権下では再びの騒乱もあったが、この時代はハイチ史上稀有の左派政権の時代でもあり、医療や教育面での成果が出始めていた。
 2010年1月の大震災は、その矢先、最悪のタイミングで発生した。最大震度は翌年の東日本大震災よりも弱いM7.0と推定されたが、直下型であったうえ、耐震対策もないに等しいハイチでは壊滅的被害をもたらすのに十分な規模であった。
 この地震により、大統領府や国会議事堂等の中枢機関も倒壊し、政府機能は完全に麻痺した。犠牲者は全人口の五分の一を越える20万人余り、被災者は三分の一に当たる300万人とされる空前規模の大震災であった。
 ただ、04年以来、国連の平和維持活動としてハイチ安定化ミッションが展開されていたことは、国際社会による復旧・復興支援プロセスを迅速に開始する上で有効に作用したことが救いであった。
 2010年は大統領選の年でもあり、プレバル大統領は再選禁止規定により退任することが予定されていた。壊滅状況の中で行なわれた大統領選で当選したのは、政治経験が全くないミュージシャン出身のミシェル・マーテリであった。
 マーテリ政権の誕生は、二つの点で画期的であった。一つはハイチ史上初めて前政権が選挙を経て平和裏に野党政権に移行されたこと、もう一つは従来、軍人かテクノクラートが就くことがほとんどであった大統領に芸能人が就いたことである。後者は従来型のエリート政治に対する民衆の幻滅を反映していた。
 しかし、大統領としてのマーテリは保守系に近い路線を敷いた。実際、彼はかつて亡命中のアリスティドの帰国復権に反対したこともあった。特に論議を呼んだのが軍の復活を掲げたことで、これは人権蹂躙的な軍事政権の記憶がまだ新しいハイチでは強い批判を受け、実現していない。
 12年には予定されていた上院中間選挙を延期したことや、汚職疑惑が持ち上がったことなどを背景に、13年以降、反政府デモが活発となった。15年初頭には、ついに大統領辞任を求める大規模デモが発生、警察との衝突が起きるなど、ハイチの政情は再び不安定化している。
 再選禁止規定によりマーテリ政権は16年には終了し、新政権が発足する運びであるが、先行きは不透明である。震災から5年を経て移り気な国際社会の関心は薄れ、復興の歩みも遅々としている。
 現状では、政争の的にもなってきた国連ミッションの撤退は困難で、当面は国連管理下で復興を進めることが新政権の任務となることに変わりない。エボラ禍を克服しつつある西アフリカのリベリアとともに、大西洋を隔てたハイチとリベリア二つの解放奴隷国家の存亡が注目される。

2015年8月 6日 (木)

思想統制復活の危惧

 文科省・中教審は次期指導要領改定案で、近現代史中心の「歴史総合」と「公共」を高校社会科必修科目に新設する方針を示した。メディア上では論評抜きの小さな報道にとどまっているが、これは戦後教育の重大な転換点になるかもしれない。
 筆者の世代の歴史教育は先史時代からおもむろに始めて、もたもたと進み、最後の近現代史は時間切れに終わることが普通だったし、公民教育では未成年者に公民権はないという前提で、政治経済の諸制度をとおりいっぺん概観する程度のものだった。
 こうした方針がどこまで意図的だったかは不明だが、少なくとも結果的には、皇国史観と国体護持を洗脳的に注入した戦前の思想統制教育とは逆に、思想的なものから生徒を隔離する思想漂白が戦後教育の基調となっていた。
 しかし、今般の新方針では近現代史を正面から教え、18歳選挙権を前提により踏み込んだ政治教育を施そうとしている。表面的には歓迎すべきことに見えるが、そうは思えない。ここ10年ほどの教科書検定の潮流を見る限り、「歴史修正主義」や愛国主義の影響が排除されるとは考えにくいからだ。
 要するに、支配層は従来の「思想漂白」を再び「思想統制」の側に引き戻そうとしている気配が感じられる。「思想漂白」は国民を無思想に保つことで支配の安定を維持する手段として有効だったが、それでは飽き足らず、改めて「思想統制」で体制の再構築が企てられているのだ―。
 このような危惧が思想漂白世代の取り越し苦労かどうかは、いずれ文科省が示すはずの新教科の詳細内容とそれに基づく教科書検定結果を見れば、はっきりするだろう。

2015年8月 5日 (水)

もう一つの中国史(連載第11回)

四 遊牧民族の時代Ⅰ

五胡十六国時代
 中国史において北方及び西方の遊牧諸民族の果たした役割は、極めて大きなものがある。大きく俯瞰して、三国時代に続く五胡十六国時代以降モンゴル帝国版図に中原が組み込まれた元の時代までのおよそ千年間の中国史を主導したのは遊牧諸民族だったと言っても過言でない。
 その遊牧民族の時代の先駆けとなったのが、匈奴・鮮卑・羯・氐・羌の五つの有力遊牧民族が華北で割拠した五胡十六国時代である。五胡十六国時代の始まりは、304年の前趙の建国に見るのが通常である。
 魏の重臣・司馬炎が建てた晋(西晋)は三国時代の分裂を止揚して漢人系統一国家の樹立にいったんは成功したが、間もなく内乱(八王の乱)に陥った。この乱の当事者らがこぞって軍事に長けた遊牧諸民族を傭兵として起用したことが、遊牧諸民族の軍事的・政治的な台頭を用意したのだった。
 南匈奴単于の流れを汲む劉淵によって建国された前趙はその先駆けであったが、長続きすることはなかった。他の諸民族もまたそれぞれに実力を蓄え、建国したからである。実質10年ほどに及んだ永嘉の乱はそうした諸民族の内戦であった。
 その中から台頭したきたのが鮮卑族である。前述のように、鮮卑は匈奴に追われた東胡から派生したモンゴル系と見られる民族であるが、その一部族である慕容部は三国時代末期に出た部族長・慕容廆の時に強大化し、その子孫が十六国の雄国となる前燕・後燕・南燕を相次いで建国した。
 また慕容廆の異母兄に当たる慕容吐谷渾は一族の内紛から慕容部を放逐された後、西の青海地方へ移住し、独自に建国した。始祖の名をそのまま取って吐谷渾と呼ばれたこの西方鮮卑系国家はシルクロード交易の利権も掌握し、300年以上にわたりチベット地方の強国として君臨したが、7世紀に入ると分裂・衰退し、663年には新興のチベット系吐蕃によって滅ぼされた。
 本来の遊牧国家の性格が強かった吐谷渾を例外として、鮮卑慕容部系諸国は短命に終わったものの、早くから漢化政策を採用し、魏や晋など漢人系諸国の制度や慣習を積極的に摂取したことで、後の北魏や隋唐など同じく鮮卑系覇権国家の漢化政策の先駆けをなしたとも言える。

2015年8月 3日 (月)

新計画経済論(連載第23回)

第5章 計画経済と企業経営

(4)二種の企業会計
pencilマルクスは、『資本論』第二巻のあまり注目されていない記述の中で、生産過程が社会化されればされるほど、簿記の必要性は高くなるとして、「共同的生産」では資本主義的生産におけるよりもいっそう簿記が必要になるが、簿記の費用は削減されると指摘した。この比較対照は重要な指摘である。
pencil資本主義的な市場経済は、企業の収益活動を記録し、いっそう利益拡大を図るための道具としても企業会計の技術と制度を発達させた。資本主義経済下での企業会計は、収益活動に関する収支の公開記録と収益的な経営計画策定上の参照データとしての意義を担っている。すなわち財務会計、管理会計いずれであれ、収益活動の計算=貨幣単位会計という点に最大の重点がある。
 別の視点から見れば、資本主義下の企業会計はその生産活動を金銭評価した間接的な計算記録であるがゆえに、それは極めて複雑で、簿記自体にコストを要するとともに、しばしば実態と乖離した粉飾決算のような不正も起こりがちとなる。
pencilこの点で、環境計画経済は貨幣交換経済の廃止という前提条件の上に成り立つものであるから、企業会計から金銭的計算という要素は排除され、金銭的に評価されない生産活動そのものの直接的な記録―生産会計―となる。そのため、それは基本的に保有材の状態を記録する資産表と物財のインプット・アウトプットを物量単位で簡明に記録する出納書が中心となるので、簿記に要する労力も節約される。
 ただし、計画経済が適用される公企業の会計と適用外の私企業の会計には相違点がある。公企業の場合は、生産活動の大枠となる経済計画の範囲内での生産活動の公開証明記録としての意義に力点が置かれるのに対して、私企業の場合は物々交換にも一定従事するため、その限りでは収益的な活動もあり、計算的な要素も認められる。
pencilしかし環境計画経済下での企業会計で最大の特徴を成すのは、環境会計の技術と制度が高度に発達することである。環境会計は、環境的持続可能性が考慮された市場経済下でも導入されてきているが、収益活動に重点がある限り、計算会計に比べれば優先順位は低く、補完的な役割を果たすにすぎない。
 これに対して、環境計画経済下の環境会計は生産会計に対して環境的な枠付けの意義を持つ優先的な会計であり、両者が一体となって、環境的に持続可能な生産活動の記録を成すのである。

2015年8月 2日 (日)

犯罪精神医学事始(連載第8回)

7 治療的処遇と刑事責任能力

 治療的処遇について、これを法的な刑事責任能力の観点から改めて位置づけてみよう。現行日本刑法の刑事責任能力は、責任能力の程度に応じ心神喪失と心神耗弱という二段階の構成を採り、前者の法効果は無罪、後者は刑の必要的減軽と定められているが(刑法39条)、心神喪失/心神耗弱が認められるのは、レアケースにとどまる。
 それは、この二つの概念が極めて厳格に定義づけられており、是非弁別能力または行動制御能力のいずれかが欠如しているか、著しく減退している場合に限られているからである。従って、刑事被告人に何らかの精神疾患が認められても、多くの場合は完全責任能力とみなされることになる。

 しかし、このようなオール・オア・ナッシングに近い概念規定は医学的には妥当と言えない。そもそも責任能力は相対的な程度概念であるからには、心神喪失・心神耗弱といった分類概念によることなく、責任能力の程度に応じた法効果を定めるほうが合理的であろう。
 ただ、ここではひとまず現行法の分類概念構成に従うとしても、心神耗弱のさらに下位ランクとして、刑事責任能力が一定減弱している「心神減弱」といった概念を増設することが望まれる。この場合における法効果については、裁判所の裁量に基づく刑の任意的な減軽とすることが適切である。

 このような三段階の刑事責任能力体系によった場合、治療的処遇の対象に入ってくるのは、心神耗弱と認定され刑を必要的に減軽されたが、医療観察には付せられなかった者及び心神減弱と認定された者ということになる。量的には心神減弱者が大半を占めることになるだろう。
 心神減弱者の刑は任意的に減軽され得るが、減軽されなかった場合でも、心神減弱をもたらした精神疾患等が処遇上考慮されなければならない。

 疾患別に見ると、心神喪失・心神耗弱者には、重症の統合失調症や重度知的障碍が認められることが多いであろうが、心身減弱者の場合は、軽度の統合失調症や気分障碍、各種のパーソナリティ障碍が認められることが多いであろう。
 こうした心神減弱者は従来は完全責任能力者としてくくられ、その精神疾患の影響については等閑視されてきた。特にパーソナリティ障碍者は「変質者」などと俗称され、無反省な矯正不能犯罪者としてかえって死刑や無期懲役刑などの重罰に処せられることが多かったが、犯罪精神医学はこのような現況に科学的な風穴を開けるであろう。

2015年8月 1日 (土)

イラクとシリア―混迷の近代史(18)

seven シリア内戦

night内戦の膠着
 シリアにおける「春」は2011年の初頭から静かに始まった。シリアには先行した「ダマスカスの春」の余波が残されており、バッシャール・アサド政権も民主化を一定は受け入れ、野党とも対話する姿勢を示していた。
 3月以降、反政府デモが拡大すると、政権は恒常的な非常事態令の撤廃や憲法改正、政党結成の自由化などの民主化措置を次々と打ち出すが、反政府デモはアサド体制そのものの打倒に向かっており、大衆行動は終息しなかった。
 政権による弾圧が増し、死傷者も増える中、7月にはシリア軍を離脱した将校により反政府武装組織・自由シリア軍が結成される。これ以降、シリアは政府軍と反政府武装組織との事実上の内戦に突入していく。
 自由シリア軍は世俗主義的な武装組織であったが、アサド家支配体制の打倒ということ以外に明確な理念を欠いた寄り合い所帯の軍事組織であった。しかし、イラクに続いて社会主義のバース党支配体制そのものを打倒したい欧米はこれに飛びつき、武器供与の支援も始めた。
 こうした欧米の干渉が膠着状態をひき起こした。アサド家支配体制は二世代にわたる世襲政治の過程で軍部・治安機関に強固な基盤を築いており、欧米が想定したほどに脆弱ではなく、内戦渦中の14年に行なわれた大統領選でもバッシャールは三選を果たし、父親同様の長期政権化の構えを見せている。
 対する自由シリア軍は内紛や連携するイスラーム系組織との確執などもあり、アサド家に忠実な空軍(前大統領の出身)に強みがあり、自国領土内でもなりふり構わず無慈悲な空爆作戦を展開する政府軍を圧倒することは今日までできていない。
 こうしたシリア内戦の膠着状態に付け入って急成長してきたのが、イスラーム国集団であった。この集団の本籍はイラクであるが、かれらが14年に入って急速に勢力を拡大した背景には、シリア内戦に参画して戦闘能力を向上させ、シリア側イスラーム系組織から武器・戦闘員の供与を受けたことがあると見られている。
 イスラーム国はイラクとシリアをまたにかけ、両者を統合する地政学的地図を描き、現時点ではシリア北部のラッカを事実上の首都とするまでに至っているが、こうした「戦果」はシリア内戦なくしてはあり得なかったと言ってもよいだろう。
 「アラブの春」はさしあたり成功した当事国でも多くの犠牲を出したが、シリアではとりわけ悲惨な失敗が待っていた。春から冬への急転である。この間、シリア難民は400万人を越えている。
 シリア内戦を出口の見えない袋小路に追いやらないためには、シリアの現実を見据え、バッシャール政権下で遅々としながらも進められてきた改革を平和的に後押しする支援が必要だった。今となっては過去形だが、これを現在形に戻すことはまだ不可能ではない。(連載終了)

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