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2015年7月

2015年7月29日 (水)

ハイチとリベリア(連載第33回)

十一 ハイチ大震災を越えて(続き)

アリスティドとプレバル
 米軍・国連の民主化介入を経て、アリスティドが大統領に復帰した1994年から2011年までのおよそ20年間のハイチは、アリスティドと彼の支持者であったルネ・プレバルがほぼ交互に政権に就いたため、アリスティド‐プレバル時代とも言える時期を画した。
 アメリカの意向もあり、クーデター前の残任期2年足らずでいったん退任したアリスティドの後任として95年の大統領選で当選したのが、91年クーデター前のアリスティド政権で首相を務めたプレバルである。
 プレバルは農学専門家であったが、63年、当時のデュバリエ独裁政権に追われて一家で海外亡命を余儀なくされた。亡命中のプレバルはニューヨークでウェイターをするなどの苦労もあったが、帰国後は政府機関での勤務を経て、貧困者向けの慈善活動をする中で、アリスティドの知遇を得た。
 こうした履歴を持つプレバルは、元司祭の情熱的な政治運動家だったアリスティドとは対照的に、テクノクラート的な性格が強く、実務手腕に長けていた。その点では、亡命経験も含め、リベリアのサーリーフ大統領と似たタイプの政治家と言えた。
 一期目のプレバルは経済改革に取り組み、国際社会が求める構造調整や民営化などの新自由主義的な政策を導入した。そのため、左派のアリスティドやその支持者とは対立するようになり、議会との協調に行き詰まると、99年には議会を解散し、政令統治に移行するなど、一期目後半は独裁色が強まった。
 しかし、彼は過去の多くの大統領のように任期延長を画策せず、任期満了をもって退任した。ハイチ史上、大統領が任期の中断なく法律上の任期を全うして平穏に退任するのは、実に1874年のサジェ大統領以来のことであった。
 続く00年の大統領選挙ではアリスティドが圧勝し、大統領に返り咲いた。国民の大きな期待のもとに始まった実質三度目のアリスティド政権は混乱に満ちたものだった。
 不正選挙が指摘される中、アリスティド派と反アリスティド派の対立が激化し、旧軍政支持者などで結成する反政府勢力の暴力に対抗するため、政権はシメールと呼ばれる暴力組織を使って反アリスティド派を弾圧するなど、ハイチは再び暴力と流血の政治に逆行していった。
 04年初頭には、決起した反乱軍が短期間のうちに主要都市を占拠し、首都ポルトープランスにも迫る中、アリスティドは再び亡命に追い込まれた。この政変の裏にはまたしてもアメリカの影があったが、今度はアリスティドの追放を非難する国際的な声は大きくなかった。
 政変後の暫定政権を経て行なわれた06年の大統領選ではプレバルが再び当選し、第二次プレバル政権が発足した。二期目のプレバルは政変以降の混乱を収拾するとともに、ラテンアメリカ諸国との経済関係を強め、中南米諸国では唯一フランス語圏に属するハイチをラテンアメリカ経済圏に結びつけることに成功した。
 08年には食糧価格の高騰から暴動に直面したが、ハイチで多数を占める貧困層を強力な支持基盤とするプレバル政権には大きな打撃とはならなかった。しかし、誰にも予見できなかった最大の打撃は政権終盤の2010年にハイチを襲った大地震であった。

2015年7月28日 (火)

新計画経済論(連載第22回)

第5章 計画経済と企業経営

(3)自治的労務管理
pencil周知のように、市場経済下の企業活動における労務管理は、経営と労働の分離に基づき、経営者が企業の収益獲得のための人的資源として労働者を使役するための管理政策であるから、それは自治的ではあり得ず、本質上命令的かつ統制的なものとなる。
 これに対抗するべく、民主的な諸国では労働者に労働組合の結成を認めているが、労組はあくまでも社外の労働者組織に過ぎず、企業の内部的な意思決定に直接関わることはできないうえ、労組の活動には法律上も事実上も種々の制約があり、企業の労務管理への対抗力としては限界を抱えている。
pencilこれに対し、計画経済下における企業経営は、前回も見たとおり、労働者が企業の内部機関を通じて直接に企業経営に参画する自主管理もしくは労使共同決定が基本となる。このことは、必然的に労務管理が労働者自身によって自治的に行われるということを意味する。そこでの労務管理は本質上自治的なものとなる。
 反面、労働組合のような社外組織は必要なくなるため、労働組合制度も廃止してさしつかえない。「労組廃止」という言い方が不穏当であるならば、共産主義企業においては、資本主義的な労働組合の制度が企業の総監督機関たる内部機関としての従業員総会という形で発展的に解消されると理解することもできよう。
 こうした自治的労務管理をもってしてもなお発生し得る個別的な労働紛争に関しては、社内に臨時の労務調停委員会を設けるなどの方法で個別に対処することが考えられる。
pencilちなみに、広い意味での労務管理は準役員級の幹部労働者を含めた人事管理にも及ぶが、こうした人事管理の扱いについては別途考察を要する。基本的に人事案件も自治的労務管理の範囲に含まれ、少なくとも幹部労働者人事については自主管理ないし共同決定の対象となると考えられる。
 しかし、企業規模の大きな生産事業機構や生産事業法人の場合には人事の効率性を考慮して、一定の幹部人事については定款をもって経営責任機関の権限に委ねることも許されてよいであろう。ただし、この場合も何らかの形で従業員機関の意見が反映されなければならない。

2015年7月25日 (土)

イラクとシリア―混迷の近代史(17)

seven シリア内戦

nightダマスカスの短い春
 シリアでは2000年にアサド大統領が急死し、近代シリア最長30年に及んだ長期政権が終焉した。しかし事前の入念な世襲工作が功を奏し、次男のバッシャール・アサドへの権力継承が円滑に行なわれた。これは共和制国家での権力世襲という異例の出来事であったが、アラウィー派少数支配という特異な体制を混乱なく維持するためには、世襲政権の形を取る必要があったのであろう。
 ただ、本来後継候補だった兄の事故死でお鉢が回ってきたにすぎないバッシャールは眼科医の出身であり、軍部・治安機関を最大権力基盤とした職業軍人出身の父親に比べ、指導力には疑問がつきまとった。それを補うため、父はバッシャールを軍に編入して、軍人としての経験を積ませたほか、レバノン干渉のような重要外交問題でも役割を与えるなどしたが、父アサドの死はいささか早かった。
 政権発足当初のバッシャールは父の厳格な抑圧政策を一定緩和する姿勢も示そうとした。こうしたバッシャール政権下での自由化は「ダマスカスの春」と呼ばれる一時期を作った。この時期、シリアの知識人らは「サロン」を結成して、それまでタブーだった様々な政治・社会問題について討議し、00年9月には有力知識人99人による「99人声明」が提起された。
 この声明は恒常的な非常事態令の廃止や、政治犯の釈放、言論・集会の自由などの民主化を求めていた。これはさらに翌年1月の知識人1000人による「1000人声明」としてより具体化された。
 バッシャールもこうした在野の声に答え、政治犯収容所の閉鎖やムスリム同胞団関係者の釈放などシリア体制としてはかなり大胆とも言える自由化措置に出たが、それも束の間だった。こうした自由化政策は父親の時代以前から続くバース党支配体制の安定を危うくしかねないものであり、古参党幹部の反対にあい、挫折する運命にあったのだ。
 01年に入ると、政権はこうした批判的知識人の投獄やサロンの強制閉鎖などの弾圧措置を開始し、ダマスカスの春は一年で終息した。しかし、その余波はさらに継続し、05年にはシリア政府の権威主義的な姿勢を批判する知識人による「ダマスカス宣言」が改めて出された。
 こうした動きは裏を返せば、体制批判を完全に封じ込めた父ほどの絶対的権威を持てない息子の世襲政権の弱さを示していた。しかし、シリアでの先駆け的な民主化運動は、2010年代に入ってアラブ世界に広く同時発生した民衆蜂起「アラブの春」の序章のような意義を持ったとも言える。シリアでも、11年初頭以降、民衆のデモ行動が開始される。

2015年7月23日 (木)

ハイチとリベリア(連載第32回)

十一 ハイチ大震災を越えて

米国・国連の民主化介入
 1991年の軍事クーデターでアリスティド政権がわずか半年余りで転覆された後には、セドラ軍事政権下でデュバリエ時代さながらの恐怖政治が再現された。その主役はハイチの前進と進歩のための戦線なる民兵組織であった。
 CIA協力者の一ハイチ人によって設立されたこの組織は、クーデター後、アリスティド派の弾圧・殺戮に関与し、デュバリエ時代のトントン・マクートさながらの役割を果たしたが、その背後には左派のアリスティド政権を忌避するアメリカが深く関わっていた。
 軍事政権下で難民化してボートでアメリカへ脱出するボートピープルが急増し、軍事政権の人権侵害が国際的に非難される中、アメリカでも92年の大統領選ではハイチの民主化を公約した民主党のクリントンが当選した。
 クリントン政権はハイチ軍事政権に圧力をかけるとともに、アリスティドと軍事政権の仲介も試み、いったんは軍事政権退陣の合意を取り付けるが、軍事政権側は態度を翻し、執拗に居座り続けた。93年9月には国連の平和維持活動としてハイチ・ミッションが組織されるも、軍事政権の態度は変わらなかった。
 そこで、翌年7月の国連安保理決議をもってハイチへの武力行使が容認された。これを受けて、9月にはアメリカ軍部隊が侵攻し、軍事政権を崩壊させた。その結果、10月にアリスティドが三年ぶりに大統領職に復帰することとなった。
 アメリカがハイチに直接侵攻するのは、1915年のハイチ占領以来のことだったが、その占領統治下でアメリカが培養したハイチ軍がアメリカの手にも負えなくなるほど増長したのは皮肉であった。
 この民主化介入においてアメリカが果たした役割は両義的であった。アメリカはいつものように「裏庭」のラテンアメリカに左派政権が登場することを嫌い、当初は前述の民兵組織を使って軍事政権を密かにバックアップしていたと見られるが、難民への懸念と国際社会の非難を考慮して、政権交代を機にアリスティドの政権復帰を容認する方針に転換したと見られる。
 復帰したアリスティドの残任期に亡命期間を含めるかどうかについては議論の余地があったものの、アメリカは含めない解釈に立って圧力をかけ、アリスティドの残任期を二年足らずに短縮させたことにも、アリスティドを早期退陣させたいアメリカの「本心」が垣間見えた。
 結局、アメリカの意向に沿い96年2月に退任したアリスティドは再選禁止規定に従い、いったん下野したが、短い復帰政権期にハイチ軍を解体し、国家警察と沿岸警備隊の文民組織に転換したことが、最大の実績となった。

2015年7月21日 (火)

もう一つの中国史(連載第10回)

三 西方諸民族の固有史(続き)

チベットの形成
 西域の手前には、古くからチベット系諸民族が展開していた。中国語とチベット語は言語学上包括してシナ・チベット語族を形成することからも、中華民族とチベット民族は言語学的に共通祖語を持つ可能性もある近縁な民族同士である。
 とはいえ、両民族は早くに片や農耕民、片や遊牧民として分岐したと見られる。中華民族側では、西方のチベット系諸民族を「西戎」と総称し、蛮族視した。前8世紀に周王朝が崩壊したきっかけは、西から犬戎と呼ばれる勢力に侵攻されたことにあったが、この犬戎もチベット系と見られる。
 漢代になると、現在は四川省の少数民族チャン族の祖とされる羌族や氐族といったチベット系遊牧民勢力の活動が記録される。特に羌族は軍事的にも強力で、漢族と合従連衡し、後漢末から三国時代の動乱にも関与した。
 羌族と氐族はともに五胡六国時代には五胡の一角を成し、いくつかの国家を形成した。中でも氐族系前秦は三代皇帝苻堅の時、華北を統一し、さらに南下して全国統一も窺ったが、江南の東晋に大敗し、滅亡に向かった。
 しかし、チベット民族にとって歴史的な画期となるのは7世紀初頭におけるソンツェン・ガンポによるチベット高原の統一である。彼は元来一地域王権の王に過ぎなかったが、近隣部族を征服してラサを首都とする統一王朝を建てた。彼を実質的な始祖とする吐蕃王国は以後、9世紀後半まで統一王朝として存続していく。
 ソンツェン・ガンポは唐の皇女・文成公主(元は早世した息子の妃)を妃に迎えて唐から冊封を受けるも、その後の両国は支配領域をめぐって勢力を張り合った。しかし安史の乱で唐が混乱し始めると、吐蕃が優位に立つようになり、強力なティソン・デツェン王時代の763年には首都長安を占領し、唐の皇帝擁立にも干渉した。その勢力は西域にも及び、シルクロード交易を掌握するまでになった。
 こうした力関係の変化を明瞭に確証するのが、821年に吐蕃‐唐の間で成立した長慶会盟である。現在まで石碑に刻まれた外交文書に残されたこの条約は、吐蕃と唐を対等な国家として扱いつつ、両国の支配領域を確定している。
 しかし、こうして吐蕃が隆盛を誇ったのも束の間、9世紀中頃から吐蕃支配層の内紛が激しくなり、国力の低下が進んだ。唐が反転攻勢に出て、吐蕃に押さえられた旧領土の奪回作戦を進める中、民衆蜂起も重なり、吐蕃は877年に滅亡した。
 吐蕃の時代は唐の時代ともほぼ重なるが、後に述べるように、北朝の流れを汲む唐も非中華系鮮卑族が漢化した国であり、この時代の中国大陸はともに非中華系民族が支配する二つの大国がせめぎ合う場であったと言える。

2015年7月20日 (月)

新計画経済論(連載第21回)

 第5章 計画経済と企業経営

(2)民主的企業統治
pencil市場経済下では「民主主義は工場の門前で立ちすくむ」と言われ、株式会社をはじめ、市場経済的な企業経営は代表経営者のトップダウンや少数の重役だけの合議で決定されることになりやすい。これは、市場経済的な企業経営にあっては収益獲得が最大目標となるため、同業他社との競争関係からも迅速な意思決定が求められることによる。
 これに対し、計画経済における企業経営では、企業統治の民主化が大きく進展する。前回述べたように公益増進を目標とする計画経済下の企業経営にあっては、民主的な討議に基づく意思決定―民主的企業統治―が可能であり、また必要でもあるからである。
pencilとはいえ、そのあり方は前章で見た種々の企業形態により様々であるが、共通しているのは、従業員機関が基本的な議決機関となることである。この点では、株式会社の株主総会制度と類似する面もあるが、株主総会はあくまでも投資家としての経営監督機関にすぎず、株式会社における従業員機関は社外組織としての労働組合が不十分に事実上代替し、内在化されていない。
 従業員機関を基盤とする究極の民主的企業統治は、労働者自らが直接に経営に当たる自主管理である。この点で、私企業に当たる自主管理企業としての生産協同組合は、民主的企業統治のモデル企業となる。
pencilしかし、それは計画経済の適用外にある企業であり、計画経済の適用を受ける公企業としての生産事業機構にあっては、企業規模からしても文字どおりの自主管理は可能でない。そこで、この場合は共同決定制が妥当する。その詳細はすでに企業形態について議論した前章で言及してあるが、繰り返せば経営委員会と労働者代表委員会との共同決定制である。
pencilさらに民主的企業統治のもう一つの鍵は、経営責任機関の合議制である。いずれの企業形態にあっても、強大な権限を与えられた代表経営者は存在しない。生産事業機構の経営委員長にせよ、生産協同組合の理事長にせよ、経営責任機関をとりまとめる議長役にすぎず、いわゆるワンマン経営の余地は全くない。こうした合議制を徹底するうえでは、あえて経営責任機関に委員長・理事長等の筆頭職を置かないことも一考に値しよう。

2015年7月19日 (日)

犯罪精神医学事始(連載第7回)

6 治療的処遇の概要

 前回見たように、犯罪精神医学の臨床においては、触法者に対して医師が医学的なコーディネーターとなって実施する治療的処遇というものが中核となるが、これは一般精神医学における治療とは具体的にどう違うのか。

 現今、一般精神医学の治療では、薬物療法がますます優勢になってきている。このことを問題視する向きもあるが、精神医学も「医学」であるからには、薬物の処方が中心となることに不思議はない。むしろ、非薬物的な精神療法が中心なら、それは臨床心理学の治療と重複してくることにもなる。
 これに対し、治療的処遇は「処遇」の一類型であるから、その基本的な枠組みは治療ではなく、矯正または保護である。その最終目的は精神疾患の治療そのものではなく、犯行者の行動・思考パターン全体の矯正であるから、薬物療法が中心に据えられるわけではない。むしろ精神療法的アプローチの比重が高くなる。

 となると、それは純粋の医学的な治療ではなく、臨床心理学的な治療の要素が強く、薬物療法は症状に応じた対症的・補充的な意義を担う。ただし、行動・思考パターンの矯正は通常の臨床心理学的な治療よりも深層心理に踏み込むので、心理士のみならず、医師が関与して医学的にも適切にフォローしていく必要性は高い。
 従って、心理治療は心理士、薬物療法は医師というような形式的な縦割りの役割分担は妥当せず、処遇のスケジュール管理者である刑務官や保護観察官なども加わって、それぞれが自己の知識経験をもとに対等に処遇実践に関与し、チームで進めていく必要がある。

 ちなみに、精神疾患の症状が重く、医学的治療に相当の比重を置く必要性が高い場合は、医療に特化した医療刑務所や医療少年院の制度が活用される。こうした医療化施設は病院とは異なるが、対象者の医療の必要度が高いため、医師の役割が通常の場合よりは前面に出てくるが、これも治療的処遇の特例であるからには、チームによる処遇の原則は否定されない。

 他方、審理の段階で、心神喪失・心神耗弱が認定され、医療観察処分に付せられた者は病院での治療が優先されるため、通常の精神医療の枠組み内での治療が実施される。この場合は治療的処遇ではなく、治療そのものであるが、患者が触法者であることに変わりはないので、矯正も念頭に置いた「矯正的治療」でなければならない。

2015年7月18日 (土)

ハイチとリベリア(連載第31回)

十 リベリアの国家再建(続き)

エボラ禍を越えて
 サーリーフ大統領は、2011年の大統領選で再選を果たし、二期目に入った。大統領がその年にノーベル平和賞を受賞したことは、二期目の後押しとなった。しかし、試運転的だった一期目とは異なり、二期目は具体的な成果がより厳しく問われる。
 再選を決めた大統領選挙でも、有力野党候補の挑戦を受け、第一回投票では50パーセントに満たず、不正選挙を指摘する野党がボイコットした決選投票で当選を決める苦戦であった。政権の目玉である反汚職でも顕著な成果はまだ見えず、一期目末期には自身の兄弟である内相が金銭的不祥事で解任されるなど、身内の不祥事にも見舞われた。
 それでも、サーリーフが大統領に当選した05年と翌年には二年連続でアメリカの平和基金会が発表する「破綻国家」ランキングのワースト10位前後にランクされていたリベリアが07年以降は20位圏外となり、国際的な指標でも次第に国家再建の進展が裏付けられるようになった。
 こうした国家再建の道に大きく水を差したのが、2013年末に北隣ギニアを感染源とすると見られるエボラ出血熱の大流行であった。この流行は短期間のうちに国境を接するリベリアほか西アフリカ地域に拡大した。
 元来保健行政・医療が不備なところへ、内戦からの国家再建の途上という脆弱期を襲ったこのパンデミックは、隣国シエラレオーネとともにリベリアにも大きな損失をもたらした。損失は経済的なものにとどまらず、感染防止のため教育機関が長期閉鎖されたことによる教育面にも及び、国家再建の道を長引かせることは確実である。
 それでも、サーリーフ政権は迅速な感染拡大防止策を取り、15年5月には流行地域でいち早く流行終息宣言を発した。油断を許さない情勢とはいえ、国際機関とも連携したサーリーフ政権の実務的な手腕はここでも発揮されたと言えよう。
 こうしてエボラ禍を乗り切ったサーリーフ政権二期目は、2018年で終了する。三選禁止の規定を遵守する限り、サーリーフ大統領は同年に退任する見込みとなる。リベリアで政権が10年以上にわたるのは、80年軍事革命以前のタブマン政権以来となろう。
 一期目から通算で9年になる現時点でも、リベリア現代史上「サーリーフ時代」と呼ぶべき画期と言えるが、その二期目も後半に入った現在、ポスト・サーリーフが視野に入ってくる。再び不適格者が後任に就けば、内戦や政治混乱の時代に逆行することもあり得るのが、国家の宿命である。

2015年7月16日 (木)

もう一つの中国史(連載第9回)

三 西方諸民族の固有史(続き)

オアシス都市国家群
 月氏が西域で優勢だった頃、より西のタリム盆地オアシスにも、著名な楼蘭(クロライナ)をはじめとする小さなオアシス都市国家群が成立していたと考えられる。これらの諸国家の起源や民族・言語系統はいまだ解明されていないが、言語的には、おおむねトカラ語地域だったと推定される。
 これらのオアシス都市国家群は月氏を駆逐した匈奴が優勢になると、匈奴の勢力圏に組み込まれたと見られるが、やがて前漢が匈奴を追い詰めて西進してくると、諸国は漢と匈奴に両属するバランス外交で防衛するとともに、東西シルクロード貿易の利益も享受した。
 しかし、前77年、漢は西域筆頭国の楼蘭に干渉し、親漢派の王に立て替えたうえ、国名も鄯善国に強制改名させた。以後、鄯善は漢の傀儡国家の地位に置かれるとともに、西域全域が西域都護の統制に置かれた。
 とはいえ、西域諸国が完全に独自性を喪失したのではなく、前漢末期から後漢草創期の混乱を突いて鄯善は再び独立性を回復し、最盛期を築く。この時期には、他にも于闐国、車師国、亀茲国、焉耆国といったオアシス国家が勢力を張った。
 しかし、後漢の体制が安定すると、後漢による西域支配が強まり、西域諸国は再び後漢の統制に下るが、後漢の西域支配は前漢ほどに強力でなく、鄯善の繁栄は3世紀頃までは続く。ただし、鄯善をはじめとする諸国は2世紀頃から、伝統的なトカラ語に代えてガンダーラ語のようなインド系の言語を公用語として採用し始める。この言語転換の要因については諸説あるが、仏教を通じて北インド方面の文化が強く刻印されたことは間違いないだろう。
 中原が南北朝時代に入ると、鄯善は衰微し、445年、強勢化した北魏によって占領され、滅亡した。他方、しばしば鄯善と争っていた于闐(ホータン)―言語的にはイラン系と見られる―は南北朝時代を通じて命脈を保ち、やがて西域に進出してきた唐に服属する。
 ちなみに、隋・唐初期の時代には唐の建国に貢献した凌煙閣二十四功臣の一人に数えられる尉遅敬徳や画家として著名な尉遅跋質那・乙僧父子のように尉遅姓の人物の活躍が散見される。このうち尉遅敬徳らはモンゴル系と見られる鮮卑族出身とされるが、尉遅跋賀那・乙僧父子はホータン出身とされるように、この尉遅姓はホータンの王姓ヴィジャヤの転写と見られ、王家に直接連なるかは別としても、尉遅姓は本来ホータン人の可能性が高い。
 このように西の大乗系仏教国として隆盛を誇ったホータンも、11世紀初頭にテュルク系イスラーム勢力(カラハン朝)によって滅ぼされ、消滅した。
 結局のところ、砂漠に点在するオアシス諸都市を領域的に支配する強国は現われないまま、他の西域諸国も唐の時代に唐に服属し、やがては西域で優勢となるイスラーム化したテュルク系民族の中に吸収同化されていき、現在の旧西域は新疆ウイグル人の拠点となっている。

2015年7月13日 (月)

新計画経済論(連載第20回)

第5章 計画経済と企業経営

(1)公益的経営判断
pencil計画経済における企業経営は、当然にも市場経済におけるそれとは大きく異なったものとなる。すでに述べたように、真の計画経済ならば貨幣交換を前提としないから、およそ企業活動にはそれによって貨幣収益を獲得するという目的が伴わない。とりわけ計画経済が適用される公企業にあっては、まさに公益への奉仕が企業活動のすべてである。
pencil公企業の経営は経済計画評議会が策定した共同計画に準拠して行われるから、経営機関の裁量は限られたものとなる。ここでの経営判断は共同計画の範囲内で、いかに環境的に持続可能で、安全かつ高品質の製品・サービスを生産し、公益の増進に寄与し得るかという観点からなされるのである。
 このことは、ソ連式計画経済の下で起きていたように「中央計画」にただ従うだけの機械的・官僚的な経営判断を意味していない。新しい計画経済にあっては、経済計画評議会を通じた企業自身による自主的な「共同計画」―「中央計画」ではない―が経営の共通指針となるのであるから、この共同計画(3か年計画)の策定へ向けた見通しと準備も重要な経営判断事項となる。
pencilこうした非収益的な経営判断を公益的経営判断と呼ぶことができるであろう。ただ、このような経営判断は主として計画経済が適用される公企業に妥当するものであり、計画経済の適用外となる私企業については全面的に妥当するものではない。
 とはいえ、私企業であっても、市場経済下とは異なり、やはり貨幣交換による収益獲得が存在しない点では公企業と同様であり、公企業から製品・サービス等の供与を受ける限りでは、間接的な形で計画経済の適用も及ぶことからすれば、その経営判断は多分に公益的性質を帯びることになるだろう。
 もっとも、私企業にあっては、物々交換の形で一定の交換取引に従事することも認められることから、その面では収益的な活動を展開する自由がある。その限りで、私企業では収益的経営判断も必要となるだろう。
pencil総じて言えば、計画経済下での経営判断はいかに儲けるかではあり得ず、いかに社会に貢献するかという公益性を強く帯びるという点において、市場経済下ではせいぜい企業の二次的な活動にすぎず、所詮はPR活動の一環でしかなかった「社会的責任(CSR)」が、そうした特殊な用語も不要となるほど、企業経営の本質として埋め込まれるであろう。

2015年7月11日 (土)

イラクとシリア―混迷の近代史(16)

six イラク戦争と「内戦」

night「内戦」の時代へ
 第二次イラク戦争終結後は、米英主導の有志国暫定当局がイラクの統治に当たることとなったが、その法的根拠は薄弱で、イラク国民からすればまさに「占領当局」であった。米英ではかつての連合国による日本統治をイメージしていたようであるが、これは国情を無視した全くの空想であった。
 暫定統治開始直後から、強制解党されたバース党残党などを主力とする武装抵抗が活発化し、2003年末にフセインが拘束されても、終息しなかった。04年4月には残党の拠点となっていたファルージャで米軍と武装勢力の大規模な戦闘が起きた。この戦闘では、米軍による数々の残虐行為が報告されている。
 この戦闘をどうにか制した暫定当局は、同年6月にはイラク側暫定政権に権力を委譲した。この点でも、占領終了まで7年をかけた日本統治とは異なり、中途半端であった。明けて05年には暫定議会選挙を経て、国民投票により新憲法も承認された。
 こうして正式に発足したイラク新体制は多党制に基づく議会制を強制されたため、イラクの宗派構成に沿って、多数派シーア派主導のものとなった。これは、それまでのイラク近代史上における重大な転換であった。スンナ派主導で成り立っていたバース党関係者が公職追放されたため、スンナ派は一転して政治的に閉塞するようになったのだ。
 シーア派主導政権の中心に立ったのは、フセイン政権時代は政治犯として亡命していたヌーリー・マーリキ首相であった。彼はイランが支援するシーア派宗教政党ダーワ党に属していたが、同党トップのジャーファリー移行政府首相がイランやシーア派武装勢力指導者ムクタダー・サドルと親密なことから各方面の反発を買い、首相を辞退したのを受け、ナンバー2のマーリキに白羽の矢が立ったのだった。
 短命に終わると見られたマーリキ政権であったが、マーリキは次第に長期執権を想定した権威主義的な傾向を見せ始める。特に仇敵フセインに対しては容赦せず、フセインを裁判にかけ、06年には死刑に処したが、こうした強硬策はかえってフセイン体制残党を含むスンナ派の反発と抵抗を強めるだけであった。実際、マーリキ政権下では爆弾テロが日常化する状態となった。
 これに対し、09年に発足したアメリカのオバマ政権は戦死者を出し続ける米軍の早期撤退に動き、10年8月までに駐留米軍撤退、11年にはイラク軍訓練部隊も撤退し、完全にイラクから手を引いた。
 こうしたアメリカの無責任とも言える対応と、まとまりを欠くシーア派政権の弱体はスンナ派武装勢力にとっては絶好の空隙であった。瞬く間にイラクの広域を実効支配するようになった「イスラーム国」集団はそうした空隙を突いて台頭した新興勢力である。
 この勢力はカリフ国家の再興を呼号する宗教的過激勢力として台頭したが、行政・軍事面は実務経験豊富な旧バース党・旧政府軍残党が担っていると見られ、こうした奇妙な聖俗合同に当たっては、フセイン政権ナンバー2の地位にあったイザト・イブラヒムが尽力したとも言われる(後に離反し、2015年の政府軍による掃討作戦で死亡したとされるが、未確定)。
 かくして、第二次イラク戦争後のイラクは「内戦」の時代に入ったと言える。その行方は、シーア派主導政権の背後にいるイランと米英など元有志国の利害も複雑に絡み、混沌として予測不能である。
 他方、フセイン政権下で民族浄化を経験したクルド人は新体制下では高度な自治権を獲得し、そのクルディスタン地域はイラク国内で最も安定繁栄を享受し、宿願の独立すら窺う情勢にある。これは、イラク戦争の数少ない成果の一つである。

2015年7月10日 (金)

「いじめ対策」の無効性

 岩手中学生の自殺事件をめぐり、生徒が担任教師との交換日記に書き付けていたいじめによる自殺サインを教師が無視した疑いありということで、担任教師や学校への非難が強まっている。テレビ番組でも一昨年に立法化されたいじめ防止対策推進法が現場で生かされていないことを指弾する評論家の叱声もあった。
 しかし、私に言わせれば、いじめ問題が一本の法律で解決するという発想が浅薄だし、もっと言えば対策法自体もごまかし立法である。日本では、立法化が行政なり学校なりの担当機関が何かを対策しましたというアリバイ作りの手段であることがよくある。いじめ対策法もその一つであり、現場でもそうした法律の正体は看破されているから、真剣には受け止められていないのだろう。
 以前から主張していることだが、自殺を誘発するような深刻ないじめは、子どもの領分における差別であり、一本の法律では解決がつかない問題である。担当教員を責めたところで、そもそもいじめの本質に関する認識が教育界全体に欠けているのだから、今度もまたその場しのぎの対策と定型マニュアル化されたお詫び措置で手仕舞いとなることは必至である。教育界がいじめ認識を根本から再考するしかないが、教育界の官僚体質には多くを期待し得ない。

2015年7月 9日 (木)

ハイチとリベリア(連載第30回)

十 リベリアの国家再建(続き)

サーリーフ政権
 第二次内戦終結後の暫定政権を経て2005年に行なわれた大統領選挙で当選したのは、エレン・ジョンソン‐サーリーフであった。彼女は、アフリカの女性国家元首としては史上三人目だが、選挙で選ばれた正式の元首としては史上初であった。このような有権者の選択には、アフリカ史上初の共和国であるリベリアの先進性が垣間見える。
 しかし女性大統領誕生の背景には、後に2011年度ノーベル平和賞の共同受賞者となる女性活動家レイマー・ボウィの寄与もあった。彼女は、第二次内戦末期、宗派を越えた女性にセックス・ストライキを含む非暴力抵抗を呼びかけて、男性政治家中心の和平交渉進展に圧力をかけ続け、女性パワーを社会に認識させたのだった。
 サーリーフは経済・財政の専門家でもあり、80年軍事革命で転覆されたトルバート政権の財務相を経験したように、本来は伝統的支配層アメリコ・ライベリアン系の政治家であった。80年軍事革命後は野党の副大統領候補として一時帰国時に当時のドウ独裁政権により短期間投獄された以外は、ほとんどを海外の金融機関や国連機関で経済実務家として勤務した。
 第一次内戦勃発時には当初、後に内戦中の犯罪行為で有罪判決を受けた元大統領チャールズ・テーラーを資金援助したため、自らが大統領として内戦時代の真相究明のために設置した真実和解委員会から指弾され、謝罪に追い込まれたが、サーリーフのテーラーとの関係は一時的なものにすぎなかった。
 大統領としてのサーリーフに託された課題は、言うまでもなく二次にわたった凄惨な内戦によって崩壊状態にあった国家を再建し、国民和解を実現することであった。
 国家再建策としては特に債務免除と反汚職に注力したが、ここでは彼女の経済財政専門家としての国際経験が生かされた。また西アフリカでは初となる情報自由法を制定し、情報公開制度を創設するなど、政府の透明性確保にも努めた。
 外交面では、建国以来の援助国・同盟国でもあるアメリカとの関係改善に努めるとともに、中国との関係も構築し、建設や通信などのインフラ整備面で中国の援助を受け入れるなど、米中両大国との関係強化を図った。
 国民和解の面では、党派色を薄め、野党政治家も入閣させる挙国一致内閣を組織し、実務型政権運営を進めた。ここでも、大統領自身元来政党政治家よりテクノクラートの性格が強いことが役立っただろう。
 こうした民主的な国家再建努力は国際的にも高く評価され、サーリーフは前述したボウィとともに、2011年度ノーベル平和賞を受賞した。ちなみに、もう一人の同時受賞者はイエメン人女性ジャーナリストのタワックル・カルマンで、この年のノーベル平和賞は受賞者全員が女性という同賞初の画期的な出来事となった。

2015年7月 7日 (火)

新計画経済論(連載第19回)

第4章 計画経済と企業形態

(5)企業の内部構造③
pencil前回まで見た企業形態は、いずれも一般的な生産活動に当たる生産組織の例であったが、今回はそれ以外の分野における特殊な企業形態について概観する。
pencilまず計画経済の適用があり、計画Bに基づいて運営される農漁業分野のような第一次産業分野は社会的所有型の生産事業機構(農業生産機構水産機構)によって担われる。ただ、その内部構造は通常の生産事業機構とは異なる。
 第一次産業は地方性が強いため、地方ごとの分権的な分社構造を採ることが合理的である。どのレベルでの分社構造かは政策的な判断に委ねられるが、集約性を高めるには相当広域的な分社構造とされるだろう。この点で、細胞化された地域協同組合の連合組織として運営されてきた日本の農協・漁協とは根本的に異なる。
 こうした地方分社はそれぞれが生産事業機構としての構造を備えるが、中央本社にも各分社から選出された委員で構成する経営委員会と労働者代表委員会が置かれる。
pencil他方、地方ごとの消費計画に基づく消費事業を担うのは、消費事業組合である。これは自主管理型の生産協同組合とは異なり、各地方ごとの住民全員を自動的組合員とする一種の生協組織である。
 従って、その運営は組合員の代表者で構成する組合員総代会をベースに、経営に当たる理事会と組合従業員の代表から成る労働者代表役会が共同決定する二元的な内部構造になるだろう。
pencil以上とは異なり、福祉・医療・教育などの公益事業に関わる公益事業組織のあり方も問題となる。こうした公益事業組織は、資本主義の下では非営利事業体として特殊な法人格が与えられているが、共産主義経済では営利事業が消失することから、営利と非営利の区別は明瞭には存在しなくなる。
 そこで、こうした公益事業組織も自主管理型の生産協同組合でよいとも考えられるが、単純な生産活動とは異なるため、特別な公益事業組合/法人の組織とし、特に公益確保のため、日常運営に当たる理事会のほかに、外部の識者や市民から成る監督・助言機関として、監事会が常置される。 

2015年7月 5日 (日)

犯罪精神医学事始(連載第6回)

5 犯罪精神医学の方法

 犯罪精神医学の方法を大きく分ければ、鑑定、臨床、予防の三つがあるが、このうち鑑定をめぐる理論については、従来「司法精神医学」と称されて、歴史的な蓄積がある。しかし、臨床は依然未開拓な状態にある。そこで、ここでは鑑定については専門書・論考に譲り、臨床に焦点を当てる。

 犯罪精神医学は、臨床医学としては一般精神医学の応用分野でありながら、それとも異なる特殊性を持つ。臨床犯罪精神医学は触法者の治療という特殊な目的を帯びることから、その臨床の場も、医療観察下を除き、病院ではなく、刑事施設や少年院等の拘禁施設となる。
 また、これは鑑定においても同様であるが、はじめにまず触法行為とその結果としての各種強制処分が前提され、本人または家族が治療の意思をもって医師を受診する任意的な治療の形をとらない。そのうえで、犯罪の原因を成す精神的な疾患を発見し、治療することが目指される。
 そのため、その治療も純粋医学的な治療ではなく、再犯防止を目指す矯正や保護といった処遇の一環としてなされるものである。ここでは医師を頂点とする医学中心主義は通用せず、刑務官や少年院教官、保護観察官、保護司などとのチームワークをもって治療が成立する。
 その意味で、犯罪精神医学の臨床は矯正プログラムに基づいた治療的処遇である。治療的処遇における医師の役割は医学的な面からのコーディネーターであり、リーダーやマネージャーではない。

 これに対して、医療観察下では対象者の精神疾患が法的にも心神喪失・耗弱を認定されるほどに重症であることから、病院での治療が優先されるため、通常の精神医療に近い環境となるが、その場合でも、触法者を対象とすることに変わりなく、犯罪事象を無視した一般的な治療は成り立たない。

 このように、犯罪精神医学の臨床は、病院で医師が患者と向き合い、病名診断し、薬物処方する身体医学のアナロジーとして発達してきた一般精神医学とは対照的である。犯罪精神医学は病気そのものより、その現われ方に着目するという点で、方法論体系的な違いが見られる。
 また触法行為には精神疾患のみならず、個々の性格的な素質の関与も大きいことから、臨床に当たっても言わば体質に相応するパーソナリティの改善に関心が向けられるという点では、漢方医学的な視座も持ち合わせていると言えるかもしれない。

 なお、犯罪被害者臨床の分野では、処遇はなく、治療のみであるので、一般精神医学の臨床に近いが、ここでも病気から入るのでなく、個々の被害内容(体験)からアプローチすべきであり、その限りではやはり一般精神医学の方法論がそのままパラレルに当てはめられるわけではない。

2015年7月 2日 (木)

もう一つの中国史(連載第8回)

三 西方諸民族の固有史

月氏の展開と移動
 「西域」という語は、『漢書』において初出し、元来はタリム盆地一帯(東トルキスタン)を指す地理的概念であったが、ここでは、より広くチベット地域まで含めた中国西部の意で用いることにする。
 とはいえ、ひとまずチベットについてはさておき、本来の意の西域に関して言えば、古代におけるこの地域の先住者は印欧語族系諸民族であった。中でも先駆的なのは、中国文献に月氏の名で記録された遊牧民族である。
 かれらの民族的・言語的な系統について定説と言えるものは確立されていないが、言語面からの研究により、かれらが現在は死語である印欧語族一派トカラ語の話者であったらしいことが判明してきている。この言語はタリム盆地周辺のオアシス都市国家群でも話されていた言語であり、月氏はこれらオアシス人とも近縁だった可能性がある。
 月氏の勢力圏は今日の甘粛省までせり出していたが、月氏は中原の中華民族の争乱に介入することはなく、中華民族には翡翠を供給する交易パートナーの関係にあったと見られる。こうした交易関係は戦国時代になるといっそう強まり、中原諸侯は月氏から良馬の供給を受けるようにもなった。秦の時代になると、月氏は軍馬と中国絹の交換取引を本格的に開始し、かくして月氏はシルクロード交易の先駆者ともなった。
 だが、月氏の西域での優勢は長く続かなかった。従来は間接支配下に置いていた東隣の匈奴が強大化し、月氏の人質の身でもあった冒頓単于により侵攻され、民族離散状態となった。
 中国文献によれば、月氏の主流はそのまま匈奴の支配に下ったが、一部は南方(今日の青海省)へ避難し、小月氏となった。別の一派は西方へ敗走、匈奴と結んだ烏孫の攻撃を避けて、最終的に中央アジアのソグディアナ地方へ定着し、大月氏となった。かれらはその地にあった大夏(トハリスタン)を滅ぼして、五人の総督(翕侯)による分割統治を開始したが、後にこの五翕侯のうちの一侯が強大化し、統一王朝クシャーナ朝を創始したとされる(異説あり)。
 ちなみに、本格的な匈奴征討を開始した前漢の武帝は当初、大月氏と同盟するべく、張騫を使節として派遣するも、当時の大月氏は中央アジアで地歩を築いており、リスクの高い匈奴征討作戦への参加を固辞したのだった。
 こうして対大月氏の外交工作は失敗したが、この時に張騫がもたらした地政学的情報は、まさに中国にとって「西域」を本格的に意識し、この地域への領土的関心を高める最初の契機となったのであった。

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