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2015年6月 7日 (日)

犯罪精神医学事始(連載第5回)

4 犯罪精神医学の対象⑤

 犯罪精神医学は、臨床精神医学の一翼として個々具体的な患者(触法精神障碍者及び犯罪被害者)の治療を目指す実践の学であるが、同時に、社会精神医学の領域では社会感情制御という任務を持つ。社会感情制御とは、犯罪事象が発生した際に生じ得る社会的なパニック現象を制御することを目的とする予防医学的対応である。

 重大な犯罪が発生すると、現代の情報社会では、マスメディア及びインターネットを通じて、真偽織り交ぜた情報が瞬く間に社会に拡散し、ある種のパニックが起きる。このパニックは被疑者が特定・拘束されるまでは、社会不安として表れ、過剰な自衛や警戒態勢を招くことがある。こうした犯罪発生直後のパニックが、被疑者の逮捕を機に、今度は犯人視された被疑者やしばしばその家族など周辺者へのリンチ的な攻撃に転化していく。
 初発のパニックは犯罪に対する恐怖がもたらす真性の内向的なパニック現象であるが、被疑者特定後のパニックは道徳的憤激に由来する激情的なパニック(モラルパニック)であり、両者の性質は異なるが、両者には関連性がある。おそらく初発の恐怖が「犯人逮捕」を機に、恐怖の原因者であった「犯人」への憎悪へと転化するものと考えられる。

 モラルパニックは、犯罪の内容が凄惨・残酷であるほど、外的表出へ向かい、被疑者やその家族など周辺者への排斥行動が顕著に見られるようになる。現代的な司法手続きでは、重大犯罪の被疑者は通常身柄を拘束されるため、これがある種の「保護」の機能を果たし、憤激した大衆による報復的なリンチへの防波堤となるが、身柄拘束前の被疑者がリンチ殺人の被害者となることも、稀にある。
 日本では、1985年、空前の巨額詐欺事件の主犯格であった悪徳投資会社社長が自宅マンションで、取材報道陣も集まる中、侵入した暴漢により銃剣で刺殺された事件、そのちょうど10年後、二つのサリン事件を起こしたオウム真理教団の幹部がやはりテレビ中継中、暴漢に刺殺された事件がある。いずれも、犯行現場が実況中継されるという異常な出来事であったが、殺害を実行した犯人(複数)は言わばモラルパニックの渦中にあった大衆の深層心理を代表して、犯行に及んだとも言える。

 上記の二事例はいずれも極端なレアケースではあるが、もっと穏やかな形でモラルパニックが表出される例として、被疑者が正式起訴された後に、犯行現場の近隣住民有志などから厳罰要求の署名運動が起こされるようなケースがある。これはリンチ殺人とは異なり、法的な刑罰を要求する合法的な形態をとっているものの、全当事者・関係者から独立であるべき司法に外部から署名圧力をかけることは健全な市民的行動とは言い難く、これも穏やかな形態のリンチ行動である。

 こうした犯罪に起因する社会的パニック現象は社会心理学的事象として単に客観的な記述の対象とされれば足りるというものではなく、司法機能を歪め、時にリンチ殺人を招く社会病理現象として、社会精神医学的にも制御される必要があるのである。もちろん、それは個別的な治療の形ではなく、衛生啓発的なアプローチをもって行われる。

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