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2015年6月14日 (日)

小学一年の魂

 不用品の片付けをしていたところ、とうに処分済みと思っていた小学校時代の通信簿が出てきた。久しぶりに恐々として開けてみると、一年次から全学年ほぼ共通していたのは、「人前で意見を発表するのが苦手」という教師の御苦言であった。たしかに、そのとおりである。克服すべき課題とされていたが、今に至るまで克服されていない。
 申し訳ないと言いたいところだが、現在ではそれほど無垢ではなくなっている。人前で意見を発表するというのは、つまり政治演説や研究発表のような口頭での意見表明である。学校という場では、とかくこうした口頭表現が至上視されがちで、人前で大きな声で発表できる子は良い子という通念がある。これぞ、まさに西洋的なロゴス=音声言語中心主義の現われである。
 表現法には、音声によるものと、非音声である文字や図像、ジェスチャー等によるものとがあるが、どれも等価的な表現方法であり、人がどの方法で表現するかは各自の適性と選好の問題である。筆者の場合、文字による表現は小学生時から比較的得意で、40年を経てこんな書き物をしているのも、その延長なのだろう。しかし口頭表現に優位性を置く学校では、文字表現はさほど高く評価されないのだ。
 三つ子の魂百までではないが、小学一年の魂はほぼ生涯不変と見える。であれば、学校は小学生時からすでに発現している一人一人の適性を伸ばす場であるべきで、全員に同じことができることを強制する場であるべきではない。だが、画一性を共通項とする近代的な学校制度に、そのような広い度量は本質的に期待できないだろう。

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