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2015年6月

2015年6月29日 (月)

新計画経済論(連載第18回)

第4章 計画経済と企業形態

(4)企業の内部構造②
pencil労働と経営が分離する社会的所有型の生産事業機構に対して、自主管理型の生産協同組合は、労働者自身が経営にも当たる構造となる。そのため、生産協同組合では全組合員で構成する組合員総会が最高経営機関となる。イメージとしては、労働組合が直接に経営にも当たるようなものと考えればよい。
pencilこうした自主管理が可能な企業規模はどのくらいかということが一つの問題となるが、最大で組合員数1000人未満が限度かと考えられる。あるいはより限定的に500人といった水準まで下げることも考えられるが、こうした数的要件は法政策に委ねられる。
 組合員数500人を超える場合、全員参加による総会を常に開催することが現実的でないとすれば、生産事業機構の労働者代表委員会に準じた組合員代表役会を設置することが認められてよいだろう。また500人未満の場合でも、委任状による代理参加が認められてよいかもしれない。
 いずれにせよ、生産協同組合では組合員が総会を通じて直接に経営に当たるが、零細企業よりは大きな規模を持つ以上、経営責任機関としての理事会は必要である。理事は組合員総会で選出され、総会の監督を受ける。監査制度については、生産協同組合でも業務監査と環境監査が区別され、それぞれに対応して業務監査役と環境監査役が常置されなければならない。
pencil以上に対して、組合員数が1000人を超える大企業となると、もはや生産協同組合の形式では律しきれないため、社会的所有企業に準じた生産事業法人を認める必要があろう。従って、生産協同組合が組合員の増加により、生産事業法人に転換されることもあり得ることになる。
 この大企業形態は、生産事業機構に準じて労働と経営が分離され、経営役会と労働者代表役会が常置される。その余の内部構造も生産事業機構に準じたものとする。
pencil他方で、組合員20人以下のような零細企業に対しては、生産協同組合の形式では融通が利かない恐れがあるので、こうした場合はより自由な協同関係を構築できるように、協同労働グループのような制度がふさわしいだろう。
 この場合、監査役を最低一人は置くこと以外(業務監査役と環境監査役を区別する必要はない)、企業の内部構成については任意とし、経営はメンバー全員の合議によるか、数人の幹事の合議によるか選択できるようにする。

2015年6月25日 (木)

イラクとシリア―混迷の近代史(15)

six イラク戦争と「内戦」

night第二次イラク戦争
 第一次イラク戦争(湾岸戦争)から第二次イラク戦争までには、12年のタイムラグがある。この間はフセイン政権の延命期と言えた。フセイン政権は、圧倒的な力の不均衡の中で行われた第一次戦争では徹底抗戦を避け、あえて早期に事実上降伏することで、延命に成功したのだった。
 とはいえ、この敗北は多方面からの反乱を招いた。最も大規模な反乱は、イラク社会で多数派を占める南部シーア派の反乱であった。この時は、一時国土の過半が反乱側の手に落ちたが、政権側も温存されていた精鋭部隊を投入して反撃、鎮圧に成功した。その際、政権軍の報復作戦で10万人とも言われる犠牲者を出した。この惨事はフセイン亡き後の宗派対立の遠因となる。
 その勢いで、フセイン政権がクルド人や南部湿地帯住民らの反乱に対する無慈悲な弾圧を強めたことで、米英仏はイラクに広域の飛行禁止空域を設定、イラクの制空権を奪った。これへの対抗上、フセイン政権は地対空ミサイルの配備などを進めたため、米英仏軍からしばしば限定攻撃を受けることとなった。
 この間、国連の制裁が継続し、国民経済が困窮する中、フセイン政権はかえって焼け太り的に体制を強化していた。その際にフル稼働したのは、フセインにとって最大の権力基盤だった治安機関であった。従来からの個人崇拝的な施策もいっそう強化された。
 転機は、01年の9・11事件であった。これを機にアメリカはイラクが事件首謀集団のアル・カーイダを庇護しているとの不確かな情宣により、反イラクの姿勢を強めた。時の米政権の主は第一次戦争時のブッシュ大統領の子息であった。
 こうしたブッシュ政権の反イラク政策は政権一期目が曲がり角を過ぎた03年に至って戦争発動に結実する。この時、ブッシュ政権はイラクが大量破壊兵器を秘密裏に開発保有しているとの情報を流した。この情報は事後に虚偽と判明しているが、ブッシュ政権は父の政権が主導した第一次戦争の成果を無にしかねないフセインを最終的に葬るための口実を探していたと考えられる。
 こうして虚偽情報に基づいて始まった第二次イラク戦争は、イラクのクウェート侵略という大義名分のあった第一次戦争にもまして根拠を欠くものであったが、またしても米英主導の圧倒的な有志連合軍の前に、イラクは敗北した。逃亡したフセインは、同年末に潜伏先の隠れ家で米軍に逮捕された。
 第二次イラク戦争の結果、近代イラク史上最長の24年に及んだフセイン独裁政権はあっけなく崩壊した。同時に、前任のバクル政権時代から通算すれば、35年に及んだイラク・バース党支配体制も終焉した。だが、イラクに民主主義は訪れず、代わって米英主導の占領統治が開始されるのである。

2015年6月22日 (月)

新計画経済論(連載第17回)

第4章 計画経済と企業形態

(3)企業の内部構造①
pencil前回まで、共産主義的な企業形態として、大きく社会的所有型公企業としての生産事業機構と自主管理型私企業としての生産協同組合の種別を見た。ここからは、これら諸企業の内部構造を立ち入って考察する。
pencilまず計画経済の主体ともなる社会的所有型の生産事業機構は企業規模に関しては最大であり、それは資本主義経済における一つの「業界」の大手企業すべてを統合するに匹敵するような規模を擁する。資本主義的に言えば、究極の「独占企業体」である。
 こうした大規模企業体を運営していくうえでは、労働者が自ら経営に当たる自主管理型の労働と経営の合一は現実的に無理であるので、株式会社と同様、労働と経営は分離せざるを得ない。
 そこで、経営責任機関として株式会社の取締役会に相当する経営委員会が置かれるが、企業規模が大きいことに加え、民主的な企業統治を保証するためにも、最高経営責任者のような独任制の経営トップは置かず、経営委員長を中心とした合議制型とすべきである。
pencilここで労働と経営の分離といっても、資本主義的に労使が指揮命令関係に立つのではなく、労働と経営の共同決定制が確立される。
 こうした共同決定制は進歩的な資本主義諸国ではかねて株式会社形態でも導入されてきたが、労使の上下関係からこうした共同決定は事実上形骸化しているのが実情である。これに対し、共産主義的な公企業では、共同決定制を実質的なものとするため、労働者の代表から成る労働者代表委員会が設置される。
pencilところで、およそ共産主義的企業には株式会社の総監督機関である株主総会に相当するオーナー機関は存在しない。しかし、社会的所有の生産事業機構の場合、究極のオーナーは民衆であるから、民衆代表機関が究極のオーナー機関だが、これは多分に政治的・象徴的な意義にとどまり、実際上は職員総会が総監督機関となる。従って、上記経営委員会及び労働者代表委員会の委員はいずれも職員総会で選出され、両機関の活動は職員総会で監督される。
 ただ、職員総会といっても、生産事業機構は大規模であるため、全員参加型の総会開催には無理があり、総会代議員による間接民主制的な制度となるだろう。その代議員の選出法は選挙または抽選により、それぞれの企業ごとに選択できるようにすればよい。
pencilさて、最後に株式会社の監査役会に相当する業務監査機関として、業務監査委員会が置かれるが、これは主として法令順守の観点からの監査機関である。環境計画経済下では、企業活動に対する環境的持続可能性の観点からの内部監査制度の確立も求められるから、業務監査委員会とは別に、環境監査委員会が常置される。両監査委員会の委員も、職員総会で選出される。

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資本主義において、「独占禁止」は究極の経済憲法であるが、実際のところ、基幹産業界は独占もしくは寡占状態にある。基幹産業分野は、分裂競争よりも、集約安定が要請されることから、「自由競争」を標榜する資本主義経済体制下でも自ずと独占的状況に収斂していくわけである。環境計画経済では、計画の中核となる基幹≒環境高負荷産業分野は、よりいっそう集中される必要があるのである。

2015年6月18日 (木)

ハイチとリベリア(連載第29回)

十 リベリアの国家再建

第二次内戦
 第一次内戦の勝者であったテーラー独裁政権に対する反乱として1999年に起こされた第二次内戦は、第一次内戦の第二幕とも言える新局面であった。反乱当事者は、緒戦ではギニアに支持された和解と民主主義のための団結リベリア人であったが、内戦末期には南部からコートジボワールに支持されたリベリア民主主義運動も出現し、挟撃される形となった。
 軍閥出身のテーラーがドウ政権時代の政府軍を弱体化させたことが裏目となり、守勢に立たされる中、2003年に入ると、テーラー政権の支配領域は国土の三分の一程度にまで縮小し、首都モンロビアが包囲された。この状況は、かつてテーラー自身がドウを追い詰めた時の再現であった。
 一方、前年に内戦終結後のシエラレオーネ政府と国連が共同設置したシエラレオーネ特別法廷がテーラーを戦争犯罪容疑で起訴に踏み切ったことも、テーラー政権にとって打撃となった。その時、彼はガーナで反政府武装組織各派との和平協議に臨んでいたが、起訴により、和平の可能性も遠のいた。
 ここでアメリカが外交的に介入し、時のブッシュ政権は公然とテーラーの辞任を要求するに至り、テーラーの政治的命脈は尽きた。03年8月、テーラーは辞任を表明し、ナイジェリアへ亡命していった。
 テーラーの辞任直後に署名されたアクラ包括和平合意にもとづき、暫定政府が樹立され、ジュデ・ブライアントが暫定大統領に就任した。
 これにより、第二次内戦は第一次内戦よりも短い4年ほどで終結を見たが、犠牲者数では第一次内戦の最大推定20万人を上回る最大推定30万人に及ぶ惨事であった。89年に始まった第一次内戦から通じてみれば、人口500万人に満たないリベリアで最大推定50万人の犠牲を出す異常な消耗戦であった。
 なお、06年にナイジェリアで逮捕されたテーラーは政治的な理由からハーグの国際刑事裁判所に移送され、審理の結果、12年に拘禁50年の有罪判決を受けた。これは国連設置の法廷で国家元首経験者が有罪判決を受ける画期的な先例となったが、罪状は隣国シエラレオーネでの戦争犯罪に限局され、自国での犯罪では裁かれていない。

2015年6月16日 (火)

新計画経済論(連載第16回)

第4章 計画経済と企業形態

(2)公企業と私企業
pencil新しい計画経済―環境計画経済―は、環境高負荷産業分野以外の分野では、自由経済に委ねられる。こうした計画経済の適用外となる自由経済分野の生産活動は、私企業によって担われる。この点で、その純粋形態においては私企業の存在を容認しないソ連式の社会主義体制とは異なることが留意されなければならない。
pencil私企業であるということは、設立が自由であること、その活動が経済計画に拘束されず、関係法令を順守する限り自由であることを意味する。ただ、私企業といっても、もちろん株式会社ではなく、共産主義社会に特有の私企業である。
 共産主義社会特有とは、第一に株式会社のように利益配当を目的とする営利企業ではなく、非営利企業であることを意味する。第二に、株式会社のように経営と労働が分離され、経営者が労働者を指揮命令して生産活動に従事させるのではなく、生産活動に従事する労働者自身が自主的に経営に当たる労働と経営が一致した自主管理企業である。
pencilこのような企業形態は会社というよりも組合であり、こうした共産主義的私企業の法的な名称を「生産協同組合」としておく。名称の点ではマルクスが想定していた生産協同組合と重なるが、マルクスの生産協同組合は計画経済の運営主体と位置づけられていたのに対し、ここでの生産協同組合は計画経済の外で活動する自由な私企業である点において相違する。 
pencilこうして共産主義的生産様式の下での生産活動の基軸は、公企業として計画経済の主体となる生産事業機構―設立は認可制―と、自由経済分野を担う私企業としての生産協同組合―設立は登録制―の二本立てとなる。企業規模で言えば、前者は大企業、後者は中小企業である。
pencilただし、私企業でありながら、その規模が大きいために自主管理を文字どおりに実行することが困難であり、社会的所有企業に準じた内部構造を持つ中間的な企業形態や、反対に組合よりも小さな零細企業に特化した協同労働形態も存在し得る。こうしたヴァリアント企業形態の法的な名称と内部構造については後述する。

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自由経済といっても、貨幣経済を前提としないため、貨幣交換経済ではない。慣習的な物々交換はあり得るが、それも全面化はしないだろう。その意味で、ここで言う「二本立て」体制は、計画経済と市場経済の混合経済体制とは本質的に異なる。

2015年6月14日 (日)

小学一年の魂

 不用品の片付けをしていたところ、とうに処分済みと思っていた小学校時代の通信簿が出てきた。久しぶりに恐々として開けてみると、一年次から全学年ほぼ共通していたのは、「人前で意見を発表するのが苦手」という教師の御苦言であった。たしかに、そのとおりである。克服すべき課題とされていたが、今に至るまで克服されていない。
 申し訳ないと言いたいところだが、現在ではそれほど無垢ではなくなっている。人前で意見を発表するというのは、つまり政治演説や研究発表のような口頭での意見表明である。学校という場では、とかくこうした口頭表現が至上視されがちで、人前で大きな声で発表できる子は良い子という通念がある。これぞ、まさに西洋的なロゴス=音声言語中心主義の現われである。
 表現法には、音声によるものと、非音声である文字や図像、ジェスチャー等によるものとがあるが、どれも等価的な表現方法であり、人がどの方法で表現するかは各自の適性と選好の問題である。筆者の場合、文字による表現は小学生時から比較的得意で、40年を経てこんな書き物をしているのも、その延長なのだろう。しかし口頭表現に優位性を置く学校では、文字表現はさほど高く評価されないのだ。
 三つ子の魂百までではないが、小学一年の魂はほぼ生涯不変と見える。であれば、学校は小学生時からすでに発現している一人一人の適性を伸ばす場であるべきで、全員に同じことができることを強制する場であるべきではない。だが、画一性を共通項とする近代的な学校制度に、そのような広い度量は本質的に期待できないだろう。

2015年6月11日 (木)

もう一つの中国史(連載第7回)

二 北中国の混成(続き)

匈奴の解体と諸族割拠
 匈奴国家は、漢の武帝に破られた後は支配下諸部族の離反・反乱や単于位をめぐる内紛にも見舞われ、東西に分裂したが、前58年に登位した呼韓邪単于がいったん再統一に成功する。しかし、呼韓邪は漢に対して臣従的な態度を取り、優位を保ったかつての勢いはもはや見られなかった。
 他方、前漢の衰退に乗じ、革命により漢を倒して新を建てた王莽は匈奴に対して蔑視的かつ強硬な態度で臨み、匈奴に干渉、その分裂を画策した。ところが、新も間もなく打倒され、再び漢室が王権を奪回、後漢が成立すると、一時的な漢の劣勢を突いて再び匈奴は漢に対して攻勢に出る。
 時の呼都而尸道皐若鞮(ことじしとうこうじゃくてい)単于は自らを往年の冒頓単于になぞらえるほどの勢いであったが、これも長続きしなかった。息子の蒲奴単于の時、大規模な旱魃及び蝗害に見舞われ、亡国の瀬戸際に立たされたのだ。
 これを機に、蒲奴の従兄弟に当たる比が反乱を起こし、自ら祖父と同じ呼韓邪単于を称して独立、南匈奴を建てた。これより先、匈奴は南北に大分裂し、二度と統一されることはなかった。
 南匈奴は建国当初から一貫して後漢に服属する政策を採り、後漢の意を受け、北匈奴に攻勢をかけた。対する北匈奴は後漢や南匈奴による掃討作戦で衰退していき、国家としての体制も崩れ、部族勢力的なものへと回帰・転落する。後91年、北匈奴は、かつて匈奴に破られた東胡の流れを汲むとされる新興の鮮卑に大敗したところを漢軍の攻勢でとどめを刺され、中央アジア方面へ敗走、離散した。
 一方、漢に従順な南匈奴は長城内側に居住を許され、北辺の警備に当たる辺境伯的な地位を与えられ、存続していくが、もはや独立勢力とは言えなかった。後漢に服属したことから、その運命も後漢と共にすることになる。
 南匈奴は後漢末から三国時代にかけての内乱に巻き込まれた末、実質上最後の単于となった呼廚泉が最終的に魏の曹操に投降し、南匈奴は曹操の手により五部に分割されたうえ魏に服属する。これ以降、統一国家時代から単于家を継承してきた攣鞮(れんてい)部も漢風の劉氏を名乗るようになり、漢族化していった。
 こうして匈奴が解体した後の北中国では、鮮卑や南匈奴残党をはじめとする遊牧系有力諸民族(五胡)が台頭し、地域国家を建てて割拠するようになる。いわゆる五胡十六国時代である。100年以上に及んだこの分裂の時代を通じて、北中国では漢族も含めた諸民族の混成が進行する。

2015年6月 9日 (火)

新計画経済論(連載第15回)

第4章 計画経済と企業形態

(1)社会的所有企業
pencil近現代の主要な生産活動は、労働力と物財を集約した企業を拠点に組織的・継続的に行われる。計画経済にあっても、この点は変わらないが、その企業形態は生産活動の様式(生産様式)に応じて異なる。
pencil資本主義的生産様式の下では、民間から広く投資資金を調達しやすい株式会社形態が代表的な企業形態となる。他方、ソ連式の行政主導型計画経済による社会主義的生産様式の下では、国家が直接投資し、運営する国有企業形態が代表的な企業形態となる。
 これに対して、生産企業が主体的に策定した共同経済計画に基づく共産主義的生産様式では、株式会社でも国営企業でもない公企業が代表的な企業形態となる。
pencilこの点に関して、マルクスは共産主義社会を「合理的な共同計画に従って意識的に行動する、自由かつ平等な生産者たちの諸協同組合からなる一社会」と定義づけている。この定義によると、マルクスが構想する共産主義社会の生産活動は生産協同組合という企業形態によって行われるようである。実際、マルクスの計画経済は、こうした協同組合企業の共同計画に基づくことが想定されていた。しかし、この定義及び構想はいささか理想主義的に過ぎるであろう。
pencil現代の基幹的産業分野では大規模かつ集約的な生産活動が要請されるし、環境的持続可能性を組み込んだ環境計画経済を実行するためにも、計画経済が適用される環境高負荷産業分野については協同組合よりも大規模な企業体を活用することは不可欠と考えられる。
 この共産主義的公企業は、株式会社のように投資家株主が所有者となるのでも、国有企業のように国家が所有者となるのでもなく、社会的な共有財として社会に帰属するという点で、社会的所有企業と規定することができる。その法的な名称については様々あり得るが、ここでは仮に「生産事業機構」と命名しておく。
pencilこうした大企業型の生産事業機構が生産する分野は、計画経済が適用される環境高負荷分野に限られる。言い換えれば、計画経済の運営主体は公企業である生産事業機構である。

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マルクスの「協同組合共産主義」も十分魅力ある構想ではあるが、もしマルクスの構想を生かしつつ、基幹的産業分野の生産活動に照応する生産企業体を設計するとすれば、協同組合合同のような形態が想定される。ただし、このような企業合同は統合的なガバナンスの点で問題を生じる恐れもあり、一つのモデル論にとどまるだろう。

2015年6月 7日 (日)

犯罪精神医学事始(連載第5回)

4 犯罪精神医学の対象⑤

 犯罪精神医学は、臨床精神医学の一翼として個々具体的な患者(触法精神障碍者及び犯罪被害者)の治療を目指す実践の学であるが、同時に、社会精神医学の領域では社会感情制御という任務を持つ。社会感情制御とは、犯罪事象が発生した際に生じ得る社会的なパニック現象を制御することを目的とする予防医学的対応である。

 重大な犯罪が発生すると、現代の情報社会では、マスメディア及びインターネットを通じて、真偽織り交ぜた情報が瞬く間に社会に拡散し、ある種のパニックが起きる。このパニックは被疑者が特定・拘束されるまでは、社会不安として表れ、過剰な自衛や警戒態勢を招くことがある。こうした犯罪発生直後のパニックが、被疑者の逮捕を機に、今度は犯人視された被疑者やしばしばその家族など周辺者へのリンチ的な攻撃に転化していく。
 初発のパニックは犯罪に対する恐怖がもたらす真性の内向的なパニック現象であるが、被疑者特定後のパニックは道徳的憤激に由来する激情的なパニック(モラルパニック)であり、両者の性質は異なるが、両者には関連性がある。おそらく初発の恐怖が「犯人逮捕」を機に、恐怖の原因者であった「犯人」への憎悪へと転化するものと考えられる。

 モラルパニックは、犯罪の内容が凄惨・残酷であるほど、外的表出へ向かい、被疑者やその家族など周辺者への排斥行動が顕著に見られるようになる。現代的な司法手続きでは、重大犯罪の被疑者は通常身柄を拘束されるため、これがある種の「保護」の機能を果たし、憤激した大衆による報復的なリンチへの防波堤となるが、身柄拘束前の被疑者がリンチ殺人の被害者となることも、稀にある。
 日本では、1985年、空前の巨額詐欺事件の主犯格であった悪徳投資会社社長が自宅マンションで、取材報道陣も集まる中、侵入した暴漢により銃剣で刺殺された事件、そのちょうど10年後、二つのサリン事件を起こしたオウム真理教団の幹部がやはりテレビ中継中、暴漢に刺殺された事件がある。いずれも、犯行現場が実況中継されるという異常な出来事であったが、殺害を実行した犯人(複数)は言わばモラルパニックの渦中にあった大衆の深層心理を代表して、犯行に及んだとも言える。

 上記の二事例はいずれも極端なレアケースではあるが、もっと穏やかな形でモラルパニックが表出される例として、被疑者が正式起訴された後に、犯行現場の近隣住民有志などから厳罰要求の署名運動が起こされるようなケースがある。これはリンチ殺人とは異なり、法的な刑罰を要求する合法的な形態をとっているものの、全当事者・関係者から独立であるべき司法に外部から署名圧力をかけることは健全な市民的行動とは言い難く、これも穏やかな形態のリンチ行動である。

 こうした犯罪に起因する社会的パニック現象は社会心理学的事象として単に客観的な記述の対象とされれば足りるというものではなく、司法機能を歪め、時にリンチ殺人を招く社会病理現象として、社会精神医学的にも制御される必要があるのである。もちろん、それは個別的な治療の形ではなく、衛生啓発的なアプローチをもって行われる。

2015年6月 4日 (木)

イラクとシリア―混迷の近代史(14)

six イラク戦争と「内戦」

night第一次イラク戦争(湾岸戦争)
 対イラン戦争に「勝利」したフセイン政権は、戦争の傷跡も癒えない中、今度は隣国クウェートへの侵攻・併合というあまりに古典的な侵略行動に出た。クウェートはイラン‐イラク戦争では湾岸諸国中最も強力にイラクを支持した「恩人」であったが、恩を仇で返すかのようなフセインの行動には経済的な打算があった。
 イラン‐イラク戦争終結時、原油価格の値下がりにより、石油を主要な輸出品とするイラクに不利な状況が生じていた。当時のイラクは、多額の戦時債務と戦乱からの復興事業の遅れに苦しんでおり、原油安はそれに追い打ちをかけていたのだ。
 イラク政府はOPECに対し、原油価格引き上げを要請するも、受け入れられず、フセインは矛先をクウェートへ向ける。両国国境にあるルメイラ油田でクウェートが傾斜採掘法によりイラク側油田を盗掘していると非難し始めたのだった。
 この主張を否定するクウェートとイラクの対立が頂点に達したため、サウジアラビア、エジプト、PLOの仲介外交が活発に行われ、いったんは外交的解決に向かうかに思われたが、1990年8月2日、イラク軍は10万人の精鋭部隊をもってクウェートに奇襲攻撃をしかけた。
 元来小規模・軽武装のクウェート軍はほとんど抗戦できないまま、数時間のうちにクウェートはイラク軍に占領され、当時のジャビル首長は亡命、親イラク派のクウェート軍将校を首班とする傀儡政権が樹立された。こうした経緯を見る限り、フセインは早くからクウェート侵攻を計画し、隠密に準備を進めていたと思われる。
 この時、アメリカの駐イラク大使がフセインとの事前会談で不介入方針を示唆する誤ったメッセージを送ったと非難されたが、米大使にクウェート侵攻を容認する意図はなく、情報戦に長けたフセインはアメリカに対しても侵略の底意を巧妙に隠していたのである。
 こうして、フセイン政権によるクウェート侵攻は電撃的な成功を収めたが、フセインは長期的な展望においては、計算を間違えていた。国連の経済制裁によりイラク経済はいっそう疲弊したうえ、アメリカの武力介入を招いたからである。
 アメリカのブッシュ(父)政権は東欧も含む欧州諸国やサウジをはじめとする湾岸諸国の支持に加え、フセイン政権と対立する反米的なシリアまで引き入れ、30か国を超える多国籍軍を結成、翌91年1月以降イラクへの介入戦争を開始した。
 多国籍軍は米空軍を中心とするハイテクを駆使した圧倒的な制空力で有利に戦況を進めた。これに対し、地上戦力中心のイラク軍は苦戦し、数万人規模の戦死者を出して、91年3月、停戦協定に至った。あっさり降伏したように見えるが、これは残存戦力の温存を図ったフセイン政権の思惑でもあっただろう。
 「湾岸戦争」と通称されるこの戦争は参加国の国際的な広がりから見て、第二次大戦以来の国際戦争の様相を呈するとともに、冷戦終結を象徴して、多国籍軍が東西にまたがって組織された点に特徴があった。とはいえ、イラク側で正式参戦した国はなく、多勢に無勢の非対称な戦争であり、「湾岸戦争」という呼称は的確と言えない。
 むしろ、この十数年後の2003年、再びアメリカが発動し、最終的にフセイン政権を排除した「イラク戦争」の前哨戦とも言えるので、03年の「第二次イラク戦争」に対し、「第一次イラク戦争」と呼ぶほうが正確であろう。

2015年6月 1日 (月)

もう一つの中国史(連載第6回)

二 北中国の混成(続き)

騎馬遊牧勢力の台頭
 北方・東北の遼河文明が衰退した後、後に漢民族として統一されていく黄河文明人が北方にも拡散していったと見られるが、さらなる北方から対抗勢力として立ち現れたのが、騎馬遊牧勢力であった。この勢力については、伝承的な夏の時代から黄河文明人によって認識されており、時代により様々な呼称が与えられてきた。
 遊牧という生活様式は、その素朴さにもかかわらず、農耕より遅く現われた比較的「新しい」生活様式である。それは農耕の延長形態である定住型の牧畜とも異なり、季節ごとに移動しながら可動的な生活を営むもので、軍事面では高い機動力を持った騎馬戦力の発達を促した。
 その高度な騎乗騎射術は中華民族にも永続的な影響を及ぼし、戦国七雄の一つであった趙の武霊王は騎馬遊牧民の胡服騎射を自国にも導入し、それまで直接騎乗する習慣のなかった中華民族に軍事的な革命を引き起こした。
 こうした騎馬遊牧勢力は、当初は統一されず、部族ごとに割拠していたと見られるが、中原が戦国時代末期にあった前3世紀末頃になると、漢民族により匈奴と称された騎馬遊牧勢力が強力な首長に率いられ、統一的な遊牧国家を樹立する。こうした北方の情勢変化は、中原でも秦、次いで前漢が相次いで統一国家を樹立した戦乱止揚の潮流に沿ったものであっただろう。
 匈奴の民族的出自については諸説あり、定説を見ないが、その主流がモンゴロイド種族であったことはほぼ間違いなく、また言語・文化の特徴からは、後代のモンゴルに近いものがある。おそらく、後に中央アジア方面で二大遊牧勢力となるモンゴル系とテュルク(トルコ)系とが分化する以前におけるモンゴロイド系騎馬遊牧勢力の最初の民族的凝集が匈奴であったのだろう。
 ただ、匈奴に破られるまで、モンゴル高原東部にはモンゴル系の直接的な遠祖と見られる東胡と呼ばれた民族集団が展開し、高原西部を本貫とした匈奴には遺伝的にも一部コーカソイド系の混在が確認されている点からすると、匈奴は後代のテュルク系遠祖集団に近いと想定することもできそうである。
 匈奴国家の実質的な創始者は前漢の創始期に並行的に現われた冒頓単于で、彼は父の頭曼単于をクーデターで殺害し権力を簒奪したうえ、強力な軍事力で統一帝国を建てた戦略家であった。前漢開祖・劉邦とも対等以上に渡り合い、劉邦率いる前漢軍を攻囲し、賄賂で辛くも脱出した劉邦と有利に講和してみせた。
 その後、60年にわたり前漢は毎年多額の財物を贈って匈奴による領土不可侵を保証させる羽目となり、この間の両国関係は河南オルドスまで南下占領していた匈奴側優位と言ってよかった。匈奴はまた、亡命漢人を官僚として登用し、記録や徴税など国家制度の整備も進めた。
 しかし、前漢に第7代武帝が現われると情勢が一変する。内政を安定させた武帝は、本格的な対匈奴戦争を開始、衛青と霍去病という有能な武将を起用して匈奴に勝利を収め、冒頓の後は名君に恵まれなかった匈奴を北方へ退却させたのだった。一方、北辺を安定させた前漢は、以後領土を拡大し、全盛期へ向かう。

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