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2015年5月 5日 (火)

社会性再考

 学校は教科学習のほか、社会性を涵養することも重要な役割と考えられている。そのため、少なくとも義務教育課程に通信制はなく、通学制が当然とされている。そして、学校現場でも「非社会的」な孤立生徒は「反社会的」な非行生徒とはまた違った意味で「問題児」とみなされやすい。
 実のところ、筆者もそのような非社会的生徒の一人として、しばしば「問題視」されたものである。生徒は教師や親から「問題視」されることで、自分に自信を失い、ますます社会性を喪失していくという悪連鎖に陥る。しかし、社会性というものをそこまで絶対視する必要があるのか、疑問に思っている。
 人間は類としては高度な社会性生物ではあるが、個々の個体としては社交型と非社交型とに大別されることは、おそらく人種・民族の違いを超えた真理である。そうした個体間の性格特性の大きな差異もまた、人類という生物の特徴である。人類は社会性生物だから非社交型は人間として欠陥ありと決め付けるのは早計である。
 ヒトなら職業に相当する役割規定が生まれつき絶対的に決定付けられているアリやハチのような社会性生物とは異なり、ヒトはある程度まで任意に職業を選択することができるので、各自の性格特性に合った職業を選択すればすむことである。非社交型なら、社交性を要しない職を選べばよく、職業選択でミスマッチを起こすと、ストレスや精神病理の原因ともなる。
 となれば、学校に社会性涵養といった役割を求めることはきっぱり放棄し、義務教育課程から通信制を設置して、通学/通信を選択的としても問題はない。そうすれば、学校が苦手な子どもも大いに救われるはずである。通信制小学校―。存在するなら、入学し直してもいいくらいである。

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