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2015年5月

2015年5月29日 (金)

ハイチとリベリア(連載第28回)

九 リベリア「革命」から内戦へ(続き)

テーラー独裁政権
 7年あまりにわたって20万人以上の犠牲者を出し、アフリカ史に残る惨事となった第一次リベリア内戦が96年に終結したことを受けて、翌年実施された大統領選を含む総選挙では、内戦中の最大軍閥チャールズ・テーラーと彼が率いたリベリア国民愛国戦線から改称した国民愛国党が圧勝した。
 テーラーは内戦中の残虐行為に加え、それ以前から芳しくない疑惑に包まれた人物であったにもかかわらず圧勝したのは、「彼はママを殺した、彼はパパを殺した、でも私は彼に投票する」という選挙スローガンに象徴される彼の一種伝道師風の巧妙な扇動能力のおかげであった。
 ちなみに内戦終結後、大統領としてリベリアの国家再建を担うことになるエレン・サーリーフもこの時の大統領選に立候補し、次点につけたが、得票率では10パーセントに満たない大敗であった。
 こうして国際的にはおおむね公正と評価された選挙で権力を手にしたテーラーだが、その本性はさっそく発揮される。彼はドウと同族のクラン族将兵を大量解雇して軍を弱体化させたうえ、国家警察に対テロ部隊を創設し、これを自身の私兵的な治安組織として利用する恐怖政治を開始したのだ。
 それに加えて、テーラー大統領の内戦中の悪行の数々が暴露されてきた。特に問題だったのは、同じく内戦状態に陥っていた隣国シエラレオーネで、テーラーの盟友でもあったアハメド・サンコーが率いる反政府武装組織・革命統一戦線と結託し、ダイヤモンドと武器の密輸に関わっていたことであった。
 テーラーはシエラレオーネ軍下士官出身のサンコーとリビアの軍事訓練キャンプで知り合い、共に独裁体制を打倒することで意気投合し、それぞれ本国の内戦を通じて軍閥として共闘するようになっていたのだった。しかし、両人は真の革命家などではなく、本質は金銭的に腐敗した政治的野心家であった。
 特にサンコーの武装組織は内戦中、シエラレオーネのダイヤモンド鉱山を支配し、これを資金源として確保しつつ、勢力を広げていたが、軍事的にはやや劣勢で、テーラーの武装組織の助けを必要としていた。
 この両国軍閥同士の結託により、リベリアとシエラレオーネはアフリカを特徴づけるいわゆる「戦争ダイヤモンド」の象徴的な存在となってしまった。テーラーはまた軍事的にもサンコーを支援し、数々の殺戮行為や少年兵徴用などの組織的人権侵害に手を染めていた事実が暴露された。
 こうした中、99年には反テーラーの武装組織・和解と民主主義のための団結リベリア人が北部で、隣国ギニアの支援のもと、狼煙を上げる。以後、第一次内戦終結からわずか3年にして、リベリアは第二次内戦に引きずり込まれていくのである。

2015年5月28日 (木)

新計画経済論(連載第14回)

第3章 環境計画経済の試み

(6)環境計画経済の実際④
pencil前回まで述べてきた経済計画はさしあたり領域圏内のドメスティックなものであるが、地球環境の持続可能性に配慮する環境計画経済は、その究極的な完成形態においては、地球全域をカバーするワールドワイドな計画を必要とする。
pencilそれを実際に可能とするためには、個別国家の枠組みを超えた地球全域での政治的統合―世界共同体の創設(その経済的な側面については、最終章で詳述する)という難事業を経る必要があるが、そうした政治問題についてはここではいったん棚上げし、世界規模での経済計画の概容について考えてみたい。
pencilこのような世界規模の計画経済にあっても、基本的にはドメスティックな経済計画の策定と同様に、行政機関主導の官僚制的計画経済ではなく、生産企業体自身による共同計画となる。また計画の中心が環境高負荷産業分野となる点も同様である。
 この場合、ドメスティックなレベルでの環境高負荷産業分野の企業体がワールドワイドな統合体(例えば世界鉄鋼事業機構体)を結成し、それら統合体が計画策定の責任主体となることが想定される。こうした機構体合同による世界経済計画機関は、ドメスティックなレベルでの経済計画評議会に相当するものであって、その組織的な構造もほぼ同様に考えてよいであろう。
pencil以上の計画はドメスティックな経済計画で言えば計画Aに対応するが、食糧分野に特化した食糧計画も必要となる。これはドメスティックな計画で言えば農漁業分野の計画Bに対応するもので、環境的に持続可能かつ安全な農漁業の世界規模での展開と食糧の公平な世界的分配を目的とし、その策定責任主体は、世界食糧農業機関である。
 さらに基礎的医薬品の平等な世界的普及のため、ドメスティックな計画Cに対応する製薬計画は、製薬事業機構体が世界保健機関と連携しながら、策定する。
pencilこれらワールドワイドな経済計画は、その範囲内でドメスティックな計画が策定されるという意味で、総枠としての条約的な意義を持つと同時に、資本主義的な世界貿易に代わる世界的な物財融通計画の意義を持つことになる。

2015年5月26日 (火)

もう一つの中国史(連載第5回)

二 北中国の混成

北方文化の起源
 今日の中国は、周知のとおり、北方の北京を首都としており、北に心臓部を持つことで確定しているが、北方は本来、漢民族の拠点ではなかった。先史時代の北方文化としては、20世紀初頭に日本人考古学者・鳥居龍蔵によって発見された紅山文化が知られる。
 紅山文化は今日の河北省北部から内モンゴル自治区、遼寧省にかけて分布する一連の先史文化であり、より南の黄河文明とも並行している。中でも、後に漢民族のシンボルともなる龍信仰を示す造形や風水の原型と見られる証拠物から、これらを中華文明の源泉とみなす説もある。
 紅山文化の担い手民族については不詳であり、北限の漢民族と見る説もあるが、この時期に漢民族がここまで北進していたと想定することには疑問もあり、非漢民族説も強い。より北辺は後に匈奴に代表される非漢民族系の騎馬遊牧民勢力の拠点となる地域だが、紅山文化人の生活様式は農耕であり、まだ遊牧形態が広まる以前の文化である。
 一方、紅山文化の発見を契機に、さらに東方の遼河流域に、より広範囲な文化圏の存在が明らかとなり、遼河文明と総称されるようになった。このようなくくり方をするなら、遼河文明圏は北方を含み込んだ東北系文明圏とも言える。
 おそらく、並行した黄河文明圏とは早くから何らかの交流が持たれており、相互の文化浸透が早くから進んでいたものと見られるが、遼河文明圏は前5000年頃から順次衰退を始め、最も後発のものでも紀元前500年頃には終焉しているので、比較的早くに滅んだようである。
 ちなみに遼河文明圏で出土した人骨の解析によると、フィンランド人なども含むウラル語族系の諸民族や言語的にはテュルク語系ながら遺伝子型ではウラル語族と共有するヤクート人と共通する遺伝子型が高率で見られたといういささか意外な結果が出ている。今日の中国領内にウラル語族系と見られる少数民族は存在しないことから、ウラル系遼河文明人は完全に中国から姿を消したことになる。
 かれらの行方と運命は明らかでないが、少なくとも遼河文明自体は、やがて人口増により北方にも拡散していった漢民族がこれを基層に取り込みつつ、我がものとし、独自の文明圏を構築していったものと考えられるのである。

2015年5月25日 (月)

杞憂なドローン

 杞憂とは、中国古代の杞の人が天が崩れ落ちてきはしないかと心配したという故事から、心配する必要のないことをあれこれ心配することを意味する格言であったはずだが、今や街を歩くときも、空に注意しなければならないようだ。ドローンが頭上に落ちてくるかもしれないからだ。
 空の産業革命云々と叫ばれているが、これまでの産業革命に比べても、ドローンは迷惑で、筋の悪い“革命”である。落下は事故の範疇に入るが、ドローンを使った盗撮や禁制品運搬、ドローン爆弾、戦闘でのドローン爆撃などとなると、事故では済まない。手軽に手に入るためか、少年がはまって偏執する「事件」も起き、教育上の悪影響が早くも出始めている。
 インターネットの産業革命性に比べても、ドローンの革命性には重大な疑問符が付く。規制反対論もあるようだが、杞憂が現実となってしまうようなシロモノを自在に飛ばしまくる自由があるとは到底考えられない。ドローンを産業革命と呼ばなければならない晩期資本主義は、いよいよ革命のネタ切れに陥っていると見える。

2015年5月24日 (日)

犯罪精神医学事始(連載第4回)

3 犯罪精神医学の対象③

 犯罪精神医学の主要な対象は犯罪の加害者側であるが、被害者側も対象に含まれる。この点については異論もあり得るところで、被害者側については一般精神医学でカバーすることができるという考え方もあり得る。
 しかし、序論でも論じたように、犯罪被害は誰もが日常経験することではなく、極めて非日常的なショック体験であるため、犯罪被害者には固有の精神障碍が生じやすいこと、また被害者のある犯罪現象は加害者‐被害者の相互作用として生じることからしても、被害体験を加害行為と無関係に把握することはできず、被害者側も犯罪精神医学の対象に取り込むことが望ましいと考えられるのである。

 ただし、犯罪被害者に対しては精神鑑定という司法的関わりはなく、臨床的な関わりに限られ、診療の場も、加害者の場合、多くは刑事施設や少年院等の特殊な場で行われるのに対し、被害者側の精神医療は病院や診療所で行われるという点で、両者の扱いは異なる。

 犯罪被害者を犯罪精神医学の対象とする場合、臨床的に特に重点的な対応を要するのは、次の五者である。

Ⅰ 性犯罪被害者
性犯罪被害の中でも暴力的なレイプ被害は「心の殺人」と言われるほど、被害者には深刻な精神的打撃を与え、最悪の場合、人格崩壊を引き起こすこともあり、その影響は長期に及ぶ。レイプ被害者はそのすべてが、程度差はあれ何らかの精神医療的対応を必要としているであろう。ことに未成年被害者の場合は、人格形成面で重大な障害となるため、その治療的対応技法の開発が急務となる。

Ⅱ 致傷性犯罪被害者
致傷性犯罪とは、故意・過失を問わず人を負傷させる犯罪を指す(性犯罪により負傷させる場合は、Ⅰに含む)。家庭内暴力(DV)も含む。こうした犯罪の被害者は、外傷の外科的治療を要することはもちろん、精神的外傷も負いがちであるため、精神医療的対応も必要となる。ここでも、未成年被害者には、発達面に関する特段の考慮を要する。

Ⅲ 致死性犯罪被害者遺族
一般的に、家族との死別は精神疾患の発症要因となり得るが、致死性犯罪(ここでは故意・過失を問わず、およそ人を死亡させる犯罪全般を指す)で家族を喪失した遺族は、精神的な打撃に特有のものがあり、また加害者への怒りや憎しみといったマイナス感情にも支配されやすい。致死性犯罪被害者遺族のすべてが精神医療を要するわけではないが、予防的関与を含め、重点的な対応が必要な範疇である。

Ⅳ 監禁犯罪被害者
量的には少ないが、誘拐や人質犯罪により緊張を強いられる拘束的状況に長時間置かれた被害者は、拘禁に伴う精神症状やその後遺症を発症しやすいため、精神医療的対応を要する場合が多い。

Ⅴ 高額財産犯罪被害者
人身被害には及ばない財産犯罪の被害者も、一定の精神的ショックは受けるであろうが、通常それは正常な心理的反応の範囲内である。しかし高額の盗難や詐欺等の犯罪被害者は強度の喪失感や自責感情からも、気分障害などの精神疾患に陥るリスクは高い。そのため、予防的対応も含め、高額財産犯罪被害者には固有の精神医療的対応が望まれる。

2015年5月23日 (土)

もう一つの中国史(連載補遺2)

一ノ二 西南中国の固有性(続き)

秦滅巴蜀から屠蜀まで
 漢民族系では最西端に発祥し、次第に強勢化した秦は南の楚の征服を当面の目標に定めていたが、その際、長江沿いに並ぶ穀倉地帯である巴蜀の征服は楚への水路を確保し、攻略を優位に進めるうえで得策と考えられた。
 折から、蜀では王弟が敵国である巴と通じたとして討たれ、巴に亡命、巴が秦に救援を要請してくる事件があった。時の秦の恵文王はこの機会を利用し、蜀の征服を企て、蜀に侵攻、一挙にこれを滅ぼした。返す刀で巴も滅ぼし、ここに巴蜀はあえなく滅亡した。前316年のこととされる。
 こうして、巴蜀は戦国時代中期には歴史の表舞台から消え、秦・漢の時代には帝国の辺境地の地位に甘んじた。だが、特に蜀の地名と住民はその後も絶えることなく続いていく。次に蜀の名が歴史に登場してくるのは三国時代のことである。
 劉備が三国の一つ、蜀漢を前漢時代から益州と呼ばれるようになっていた旧巴蜀の地に建てるのは221年である。蜀漢は便宜上古名の蜀を冠せられているものの、漢王室の末裔を称した劉備をはじめその支配層は西遷してきた漢民族系豪族であった。しかし、古蜀を構成した民族はなお残留していたと見られ、蜀漢の被支配庶民層を形成していたものと考えられる。
 蜀漢も長続きせず、劉備を継いだ劉禅が魏に投降、わずか二代で終焉して、旧巴蜀の地は魏の領土となり、次いで西晋へと継承されていく。その後も五胡十六国時代には成漢(氐族系)、後蜀、さらに五代十国時代にも前蜀、後蜀といった短命な国家が成立するなど、旧巴蜀の地にはしばしば独立政権が建てられた。
 北宋の時代になって、旧巴蜀の地は四川路として再編され、今日の四川省に通じる新地名が成立する。さらに時代下り、明末、武装蜂起した農民反乱軍指導者・張献忠が四川の地で独立政権を樹立する。この際、張献忠は四川で先住民族大虐殺を断行し、古代以来の蜀人は絶滅したとされる。これがいわゆる「屠蜀」である。
 「屠蜀」の存否や犠牲者数に関してはこの種の反人道的事象の常として論争があるが、いずれにせよ、この時代以降、人口が急減した四川地域には漢民族の大量移住の波が生じ、現在の四川省住民は大半が漢民族系で占められている。
 確証はないが、前回も指摘したとおり、現在も四川省西部・南部にわずかに居住するチベット系少数民族の少なくとも一部が「屠蜀」を逃れた蜀人の血を引いている可能性はあるだろう。

2015年5月22日 (金)

イラクとシリア―混迷の近代史(13)

five バース党の支配

nightサダム・フセイン独裁体制
 イラクのバース党体制では、1979年に一つの転機が生じた。この年、68年のバース党クーデター以来大統領の座にあったバクルが退任し、副大統領サダム・フセインが後継に就いたのだ。この政権交代は表向き大統領腹心ナンバー2への平和的な禅譲の形を取ってはいたが、その経緯には疑念も持たれている。
 というのも、バクルは数年来実権をフセインに握られていたとはいえ、それまで対立関係にあったシリアのアサド政権と前年に国家統合の方向で交渉に入っていたからである。この統合で自身の権力が弱化することを恐れたフセインが、バクルを退任に追い込む画策をしたという説がある。実際、フセインは大統領就任直後、親シリア派と目された党幹部らを大量粛清していることからも、こうしたフセイン画策説は間接的に裏づけられる。
 経緯はどうあれ、前大統領を傷つけずトップの座に昇ったフセインはバクルや隣国シリアのアサド大統領のように、職業軍人ではなく、文民の党活動家・職業的テロリストの出身であった。にもかかわらず、2003年まで24年にわたったフセイン時代は、職業軍人以上に好戦的なフセインの性格も反映して、多大の犠牲を伴う戦争に明け暮れる年月となった。
 最初の戦争はもう一つの隣国イランとの戦争であった。ちょうどフセインが大統領に就任した79年、イランではホメイニが指導するイスラーム革命が成功した。イランで支配的なシーア派はイラクでも多数派であり、南部を中心に大きな勢力を持っていた。
 バース党体制は表向き世俗主義であったが、実際のところはフセインも含め、イスラーム世界全体では多数派ながらイラクでは劣勢のスンナ派主導の体制であったから、フセインは冷遇されていたシーア派がイラン革命に触発されて蜂起することを恐れた。バクル政権下の75年の合意でイラン側に渡っていたシャットゥルアラブ川の領有権を奪回しようとの野心も手伝って、フセイン政権は80年、イランを攻撃して、戦争を開始する。
 イラン革命に脅威を感じていた同じスンナ派優位の湾岸諸国や前年の革命渦中、米大使館人質事件に見舞われて、革命イランと激しく敵対していたアメリカとも利害が一致したフセイン政権は、これら諸国からの支持・援助を取り付けることにも成功した。
 ことにアメリカでは81年に成立したレーガン政権が反イランの立場から敵の敵は味方の論理に従い、第三次中東戦争以来断絶していた国交を回復した84年以降、フセイン政権への軍事援助も開始した。これは、その20年後には逆にフセイン政権を粉砕することになるアメリカのご都合主義がはっきりと現われた政略であった。
 このように、多くの有力な諸国から支持・援助を取り付けながらも、イラクはイランの徹底抗戦を前に苦戦を強いられ、結局、88年、双方による国連停戦決議受諾をもって8年にも及んだ長期戦は終結した。この間、イラク側でも最大推定50万人という大量の戦死者を出す消耗戦であった。
 こうして、ほぼ引き分けに近い形ながらも「勝利」を称したフセイン政権下のイラクは、いつしか中東随一の軍事大国に成長していた。一方で、89年以降東欧・ソ連の社会主義独裁体制が連鎖的に民主革命で倒れた出来事は、同様の体制を採るフセインに政権引き締めの必要を痛感させた。
 元来、フセインはナンバー2時代から治安機関を掌握し、その増強を図ってきた。この点では隣国シリアと同様にムハーバラートと呼ばれる治安諜報機関を中心に、アサド体制に勝るとも劣らぬ監視国家体制を作り上げていたのである。
 さらにフセイン政権は対イラン戦争の末期、並行して少数民族クルド人に対する民族浄化作戦を展開し、特に88年のアンファル作戦では毒ガスまで使用した無慈悲な虐殺で最大推定20万人近い犠牲者を出した。こうした政策はフセイン政権の本質が本来のバース社会主義を逸脱し、ナチスに近いものであったことを示している。
 ちなみに、フセイン政権がシリアから亡命保護していたバース党創設者のミシェル・アフラクは89年に死去した。フセイン政権は儀礼上アフラクを厚葬したが、彼はイラクの国政上何らの政治的影響力も有していなかった。

2015年5月21日 (木)

イルカ騒動

 イルカ追込み漁をめぐり、世界動物園水族館協会から除名通告を受けていた問題で、日本の協会が追込み漁によるイルカ入手の禁止と世界協会残留を決定したというニュース。もし世界協会脱退を決めていたら、これは戦前満州侵略問題をめぐり国際連盟を脱退した時のような様相を呈すると心配していたが、さすがにそうはならなかった。
 国際社会との協調を維持する賢明な判断ではあるが、決定は賛成多数であり、水族館を中心に相当数の反対もあったというので、不満はなおくすぶるだろう。
 国際的批判の的となっている追込み漁については批判に科学的根拠がないといった反論も見られるが、動物愛護問題には科学だけでは割り切れない余白がある。特に人類も属する哺乳類の扱いに関しては、単なる愛護を越えて動物にも一個の権利(動物権)を認めるべきだという思想も強まっている。一方で日本側反論の裏には、科学云々より人気アトラクションであるイルカショーと地元漁業利益の護持という経済計算が見え隠れしていることを世界に見透かされているのではないか。
 現在は無反省に行なわれているイルカショーのような動物ショーも、厳しい訓練や反復的なショーが動物に与えるストレスという獣医学的な問題が脇に追いやられているが、いずれはそうしたショー自体の禁止という課題が提起される時代が来るかもしれない。科学を云々するならば、反論ばかりでなく、反省にも科学を及ぼすべきだろう。

2015年5月20日 (水)

ハイチとリベリア(連載第27回)

九 リベリア「革命」から内戦へ(続き)

第一次内戦
 80年の軍事革命を境に、リベリアの歴史は大きく変わった。それまでのアメリカ型文民共和政治の伝統は消滅し、軍事的な暴力と人権侵害が常態化し、世紀をまたぎ二度にわたることとなる内戦への伏線が生じていた。
 アメリコ・ライベリアンの寡頭支配を倒したサミュエル・ドウ政権が形ばかりの民政移管後、出身部族優遇の不公平かつ残忍な独裁政治の傾向を強める中、89年末、反政府武装組織・リベリア国民愛国戦線(以下、愛国戦線という)が結成された。
 この組織は85年のクーデター未遂事件後に、政府軍の報復的虐殺を受けたギオ族・マノ族に、政権によって排除されていた旧アメリコ・ライベリアンも加わった混成組織であり、民族解放組織というよりも、全体としてドウ政権転覆を目指す「反ドウ」の武装組織であった。
 その指導者として台頭してくるのが、後の大統領チャールズ・テーラーである。彼はアメリコ・ライベリアンの父と少数部族出身の母を持つ中流層の出自であったが、当初はドウらの軍事革命を支持し、ドウ政権下で調達庁長官のポストを得た。しかし83年に公金横領の疑いで解任された後、逃亡していた。
 テーラーは伝手をたどってリビアの最高実力者カダフィ大佐の知遇を得て、リビアで軍事訓練を受けたうえで、愛国戦線を結成したのだった。リビアの支援を受けた同戦線は、もともと貧弱なリベリア軍の隙を突いて翌年には首都を除く国土の大半を制圧するに至った。
 そうした中、テーラーの盟友ながら袂を分かった親米派のプリンス・ジョンソンが独立リベリア国民愛国戦線(以下、独立戦線という)を結成する。ジョンソンは、元はリベリア軍でドウの上官に当たり、軍事革命にも参加したが、85年のクーデター未遂に関わり、亡命していた人物でもあった。
 90年7月以降、テーラーの愛国戦線とジョンソンの独立戦線が競合しつつ、首都モンロビアを包囲する中、ジョンソンが抜け駆け的にドウを拘束した。ドウは当時、仲介に入った西アフリカ経済共同体監視団を通じてジョンソンと交渉しようとしていた。ところが、ジョンソンはドウを生きたまま身体部位を切り落とした末に銃殺するという残酷極まる方法で「処刑」し、しかも一部始終をビデオ撮影させるというホラー映画さながらの猟奇性で世界を震撼させた。
 こうしたドウの超法規的処刑―実質惨殺―による政権崩壊を受けて、暫定国民統合政府が樹立され、アメリコ・ライベリアンで政治学者出身のエーモス・ソーヤーが議長に選出された。しかし、テーラーやジョンソンはこれを認めず、さらにイスラーム系などの新たな武装組織も加わって、内戦は96年の停戦まで遷延した。
 この7年にも及んだ内戦の間、多くの残虐行為や少年兵徴用などの人権侵害が累積し、リベリア社会は荒廃した。経済的にも崩壊し、アフリカ最初の独立共和国の歴史を誇るリベリアは、破綻国家への道を転げ落ちていくのだった。

2015年5月19日 (火)

もう一つの中国史(連載補遺1)

一ノ二 西南中国の固有性

四川文明と巴蜀
 今日、中国西南部には主要省として四川省が存在するが、1980年代になり、同省広漢市の三星堆遺跡で前2000年かそれ以前にも遡る高度文化圏の存在が明らかになった。
 四川盆地は長江の上流に当たるため、この文化圏も広い意味では南中国の長江文明に含めることは可能だが、四川文化には怪物をあしらったかのような異形の青銅製仮面や人物像に象徴される固有の特色が認められることや、地理的にも長江文明中心地から隔たった辺境地であることから、独自の四川文明圏を形成した可能性が想定される。
 史料上はこの地域にはかつて独立国として蜀(古蜀)があったとされることから、蜀は四川文明を基層とした国家であると推定されている。四川文明・蜀の担い手民族については不詳であるが、四川省には今日でも西部・南部を中心にチベット系少数民族が居住することからして、四川文明の担い手もチベット系だった可能性はある。
 ただし、蜀の王権には複数回の交代の形跡があり、最終的に今日の成都を拠点に王室を担った開明氏は楚から入ったとされる。そうだとすれば、蜀は最終的に楚人系の勢力に征服されたと見ることもできる。
 蜀は殷最後の暴君紂王の討伐と周王朝の樹立に貢献した後は周に属したと見られるが、辺境地のため、実質上は独立国であり、周が事実上滅亡すると、いち早く王を称して自立した。しかし、地理的条件からも春秋・戦国期の抗争の外にあり、結果として独立を保ったようである。
 一方、蜀の東隣には現在の重慶付近を拠点とする巴があった。巴も蜀と同様に周王朝樹立に貢献している。戦国時代の巴は東の楚とは通婚関係にあった。巴人の末裔民族の一つとしてチベット系のトゥチャ族が想定されているが、古代国家としての巴は多様な民族集団の連合体であったと考えられている。
 巴蜀はともに塩の生産を経済基盤として発展したが、ライバル関係でもあり、しばしば交戦した。最終的に両国が滅亡した要因も、その対立関係を新興の秦に利用・介入されたことにあった。

2015年5月18日 (月)

新計画経済論(連載第13回)

第3章 環境計画経済の試み

(5)環境計画経済の実際③
pencil前回まで環境計画経済の内実を述べたが、こうした計画をどのようなプロセスで策定するかという手続き的な問題も、計画経済の成否を左右する。
 この点、ソ連式計画経済では支配政党共産党の統制下に、国家計画委員会を司令塔とする行政機関が主導しつつ、複雑なプロセスを経て計画案が策定されていたが、新しい計画経済はそうした官僚制的なプロセスではなく、生産企業体による自主的な共同計画となることは既述した。
 その場合においても、計画経済を成功させるポイントとなるのは、いかに現場からの正確な経済情報に基づき、簡素かつ迅速な計画策定プロセスを確立するかである。
pencil具体的には、全土的な共通計画である計画A(環境高負荷産業分野)及び計画B(農漁業分野)については、該当生産企業体の代表者(計画担当役員)で構成する「経済計画評議会」(以下、単に「評議会」という)が計画策定の責任機関となる。
 生産企業体はまず3か年の計画年限の初年度が始まる半年前に各企業体自身による需給予測と労働時間配分を踏まえた個別計画案を提出する。それを基礎資料としつつ、評議会調査部が環境経済学的な知見をもとに作成した調査報告書を踏まえ、評議会で審議したうえでA、Bそれぞれの計画案を策定する。
 このうち、計画Bは農漁業分野の性質上、地方性があるため、全土的な計画とはいえ、広域地方ごとに区分けされた計画となるが、コメのように全土的に流通する主食については全土的な融通計画も必要である。
pencil評議会で議決された計画案は、さらに民衆代表機関(中央民衆会議)へ送付されるこの段階で代表機関が修正提案をした場合は評議会に差し戻し、修正の必要性を審議するが、修正不要とされた場合は、原案どおりに可決・成立する(評議会優先の原則)。
 こうして可決・成立した経済計画は法律に準じた法規範性を有するが、通常の法律とは異なり、施行後も評議会がフォローし、環境経済的な条件の変化に応じて事後的に随時修正される(修正プロセスも、上記と同様である)。
 なお、全土的な計画の中でも製薬に関わる計画Cについては計画A及び計画Bとは別枠とし、製薬企業体自身の策定した計画案を直接に代表機関へ送付し、別途審議・議決することになる。
pencil以上の全土的な生産計画に対し、地方的な消費計画の策定は、全く別個に行われる。これは広域地方(地方圏)ごとに設立される消費事業組合が策定主体となり、地方圏民衆代表機関に送付し、審議・議決される。
 消費計画は、生産計画とは異なり、消費事業組合の組合員たる地方圏住民からの要望と環境的持続可能性及び健康・安全にも配慮された消費財の生産計画と公平な分配を目的とする流通計画的な性格を帯びた計画である。また、この計画には災害時備蓄のための余剰生産計画が含まれる。

clubMEMOclub
「経済計画評議会」は具体的なイメージが持ちにくい独特の機関であるが、経済計画専門の議会のようなイメージを持っておけば、そう誤りではない。ただし、メンバーの評議員は選挙で選出されるのではなく、各生産企業体からの選任となる。この機関は民主性よりも、専門性が要請されるからである。審議に当たって、評議員は自己の出身企業体の守備範囲を越えて意見を表明し、討論することができる。

2015年5月17日 (日)

犯罪精神医学事始(連載第3回)

2 犯罪精神医学の対象②

 前回、犯罪精神医学の対象として述べたものは、成人を前提とするものであったが、犯罪精神医学の対象は少年非行及び少年犯罪にも及ぶ。法学的には犯罪行為と少年非行は厳格に区別され、後者は司法手続きも福祉的配慮のなされた家庭裁判所の審判により行なわれる。しかし、医学的には犯罪と非行を区別する必要はなく、いずれも触法行為として包括される。

 少年の触法行為については、刑事罰を科する場合でも、不定期刑のように矯正教育に重点を置いた刑罰が用意されているため、医学的な関与の余地は成人より高くなる。もっとも、精神的な成長の途上にある少年の触法行為は、本格的な精神疾患やパーソナリティ障碍よりも、発達障碍や知的障碍など発達に伴う各種障碍の関与が疑われることから、小児科医や発達心理学者等の参与も欠かすことができない。

 犯罪精神医学の対象となる少年の触法行為は、成人の犯罪行為よりも広い範囲に及び、厳密にはそのほぼすべてのケースが対象となり、特に少年院または少年刑務所における教育的処遇の中での精神保健的な関与は有益である。しかし、司法実務との関わりの強さから対象を絞り込めば、ほぼ次の三種に限定されるだろう。

Ⅰ 病理性暴力行為
成人の病理性暴力犯罪に相当するものである。量的には希少であるが、嗜好殺人(人を殺してみたかった)のようなものがここに含まれる。性暴力はⅡの性的触法行為に含まれる。

Ⅱ 性的触法行為
性暴力のような加害者型触法行為が中心となるが、成人の買春相手となるような被害者型触法行為についても、ケースによっては精神医学的な対応が必要な場合があり得る。

Ⅲ 準成人犯罪
成人に近い年長の少年が成人並みに常習犯罪やアルコール・薬物依存性犯罪を犯すこともあり得るが、このような場合は、少年の発達上の特性を考慮しつつ、成人犯罪に準じた考察が必要となる。

2015年5月15日 (金)

もう一つの中国史(連載第4回)

一 南中国の独自性(続き)

楚の盛衰
 南方系諸国の中から後に戦国七雄にまでのし上がる楚の主体民族は不詳であり、発祥地からすると、中原にも近く、漢民族系と見る余地もある。ただ自ら蛮夷とみなしていたことや、貝貨や墓制に漢民族系のものと明白に異なる特徴が認められることから、越と同様、南方民族系の可能性も高い。
 楚の歴史は古く、『史記』では周の第二代成王から子爵に封じられたと記録される。これは半ば伝説であり、実質的な建国は前8世紀後半から前7世紀初頭にかけての武王の頃と考えられるが、このような古記録からも、楚はその地政学上、早くから漢化が進行し、準漢族系国家として整備されていったことが想定される。
 ちなみに、かつて楚が所在した湖北省から湖南省にかけては現在、少数民族ミャオ族が集住している。同じ地域には紀元前5000年に遡る稲作系新石器文化である大渓文化の存在が確認されており、遺伝子系統から、ミャオ族の祖先集団が担い手だった可能性も指摘される。そこから、漢化する以前の楚の主体民族との関連も想定できるところである。
 楚は次第に南方で勢力を広げ、武王から数えて6代目荘王の時に当時中原の強国だった晋を破り、中原の覇を窺うまでになる。この時代の楚は漢民族系の呉と同盟することで、覇権を分有した。しかし、7代目共王の時、晋から復讐戦を挑まれて敗北、覇権を失う。その後も呉から攻撃され、滅亡の危機に瀕するが、当時中原最西端から台頭してきていた新興国・秦の援軍を得て、亡国を免れた。
 戦国時代に入ると、特に前4世紀前半には七雄の一つ魏から亡命してきた兵法家・呉起の献策により富国強兵を目指し、国政改革を断行する。その後、南方の強国越を破った楚は南方系では唯一戦国七雄に名を連ねる強国として存続していく。
 春秋・戦国時代の楚は老子が創始した道家や政治家でもあった詩人・屈原に代表される南方系詩集『楚辞』といった北方とは異なる独自の哲学・文学を生み出し、文化的にも高度な強国であったが、秦が強盛化してくると、秦との関係をめぐり国論が二分され、策略をもって反秦派の屈原を追放した親秦派が勝利する。しかしこれが裏目となり、楚は狡猾な秦に圧迫され、最終的に前223年に滅亡した。
 統一王朝を建てた秦が短期で衰退後、漢の建国者・劉邦のライバルとして覇を争った項羽は楚の武将であり、彼が勝利していれば楚が復活し、統一王朝となった可能性もあるが、歴史の歩みはそうはならなかった。以後、南方系独立国は中国史から姿を消す。
 おそらく、漢の建国以降、漢の地方行政区に組み込まれた南中国にも漢民族の大規模な移住波が起きたことにより、言語・文化ともに漢民族化が進み、南方独自の民族・文化は漢化しなかったチワン族やミャオ族等の少数民族として再編・収斂されていったものであろう。

2015年5月14日 (木)

イラクとシリア―混迷の近代史(12)

five バース党の支配

nightアサド家独裁体制の確立
 シリアとイラクのバース党の分裂が確定した1970年代以降、20世紀末までの両国は、ハーフィズ・アサドとサダム・フセインという互いに反目し合いながらも、共通の残酷さと巧妙さにかけては20世紀史に残る二人の独裁者による長期支配の時代に入る。
 先行したのは、アサドであった。アサドは60年代後半、シリア・バース党内の「穏健派」を代表する指導者として台頭し、70年の党内クーデターで「急進派」の政権を倒して政権を掌握した。これにより、以後のシリア・バース党政権は「穏健派」のものとなる。
 しかし、ここで言う「穏健」とは、専ら社会主義的政策における内政面での「穏健」―緩和―を意味しており、対外的な「穏健」を意味しなかった。そのことは、初期のアサド政権がエジプトと共にイスラエルに侵攻した第四次中東戦争を発動して以降、対イスラエル強硬派の立場を維持したことや、隣国レバノンの内戦に介入し、その後もレバノンを間接支配し続けたことに現われていた。
 アサド政権の特質は、政権と軍中枢を人口の1割程度に過ぎないアラウィー派で固める少数派独裁にあった。そのような脆弱な政権構造を補うためにも、アサドは自身の出身基盤でもある空軍の情報部をはじめとする複数の治安諜報機関網ムハーバラートを組織して、徹底した監視国家体制を構築した。
 そうした監視体制をもってしても、その異教的な教義からアラブ世界では異端視されるアラウィー派の少数支配には限界があり、80年代に入ると、多数宗派スンナ派の抵抗・武装蜂起を招くようになる。
 その最大級のものが、1982年に西部の古都ハマーで発生した。当時、ハマーを拠点に武装抵抗活動を展開していたスンナ派イスラーム組織ムスリム同胞団が当地で革命的に蜂起し、解放区を設定したのだった。
 これに対し、アサド政権は大量の政府軍を投入して、陸と空から激しい武力攻撃を加えた。自国都市を攻撃破壊するというこの異常な軍事作戦により、数万人規模の犠牲者を出したと推定されているが、インターネットも存在していなかった時代柄、アサド政権の徹底した情報管制もあり、この「ハマー大虐殺」の全貌はいまだ解明されていない。
 アサド政権後半期で特筆されるのは、隣国イラクのフセイン政権との反目であった。共に類似のバース党系独裁体制でありながら、長年にわたる両国バース党の分裂に加え、互いにアラブ世界の盟主たらんとする二人の独裁者の野心が両体制の敵対を助長していた。
 アサド政権はイラクが当事国となったイラン‐イラク戦争ではイラン側を支持し、続く湾岸戦争ではアメリカ主導の多国籍軍を支持して、サウジアラビアにも派兵するなど、一貫してフセイン政権の弱体化を狙った。
 政権末期になると、心臓に持病を抱えるアサド大統領の健康問題が浮上してきた。アサドは政権世襲を目指しており、当初は長男を後継者と目していたが、長男が交通事故で不慮の死を遂げると、医師だった次男のバッシャ-ルを後継候補に立てた。
 こうした生前からの周到な世襲準備が功を奏し、20世紀最後の年2000年にアサドが急死した際には、バッシャールの後継大統領就任が円滑に行なわれた。社会主義共和体制としては北朝鮮に次ぐ政権世襲であった。
 このような異例が可能となったのも、アサドの30年に及ぶ執権の過程で、前述の徹底した監視国家体制と思想洗脳的な個人崇拝教育を通じ、アラウィー少数派支配というアラブ世界では独異な王朝的寡頭体制が確立されていたことによるであろう。

2015年5月13日 (水)

ハイチとリベリア(連載第26回)

九 リベリア「革命」から内戦へ

80年軍事クーデター
 リベリアでは、建国間もなくから100年以上にわたって続いてきたアメリコ・ライベリアンの支配に終わりが来た。「米騒動」で威信を失墜したトルバート政権に対し、下士官が主導する史上初の軍事クーデターが勃発したのだ。
 下士官の指導者サミュエル・ドウ曹長は先住部族クラン族の生まれであった。先住部族の地位はタブマン、トルバート両政権下で改善は見られたが、なお周縁化されており、ドウも下積みの下士官であった。
 建国以来、まがりなりにも米国流の文民共和政治の形態が続いてきた中での下士官クーデターは不意を突かれた形となり、速やかに成功を収めた。しかも、クーデター政権はトルバート大統領を殺害し、政権閣僚・高官らを大量処刑するという強権行使を見せた。
 下士官の軍事政権は、こうした見せしめを通じて、アメリコ・ライベリアン支配の終わりを演出しようとしたのだった。実際、これをもって近代リベリアの体制は大きく変わったため、この政変は単純な軍事クーデターではなく、革命の性格を備えるものであった。
 近年になってアメリカがクーデターに関与していたかどうかが議論になったが、明確なことは不明である。ただ、79年のソ連によるアフガニスタン侵攻で再び東西冷戦が悪化する中、トルバート政権がアメリカから距離をおき、東側にも接近しようとしていたことは事実であり、米軍の訓練を受けたこともあるドウが政権掌握後、明確な親米路線を取ったことから推すと、アメリカが背後で何らかの糸を引いていた可能性は否定し切れない。
 ともあれ、「人民救済評議会」を称した革命軍事政権は、リベリア人民にとって何ら救済とはならなかった。政権を率いるドウは、奇しくもハイチのジャン‐クロード・デュバリエ大統領と同年生まれの当時若干28歳、100年以上の歴史のある国の元首としては共に異例の若さであった。しかし、ドウは独裁者として意外な有能さを発揮し、向こう10年にわたり政権を維持したのであった。
 ドウは85年、前年の新憲法に基づき、表向き複数政党制を装った出来レースの総選挙を実施したうえ、自ら大統領に就任し、民政移管の体裁を整えた。しかし、選挙直後にクーデター未遂事件が発生すると、ドウは報復としてクーデターに関与した部族に対する虐殺を行なった。
 こうして流血で始まったドウ政権の後半期は人権抑圧と政治腐敗に満ちたものとなった。これに対して、抑圧された少数部族勢力などが中心となって反政府武装組織が結成され、89年末以降、ドウ政権転覆を目指して進撃を開始する。

2015年5月11日 (月)

新計画経済論(連載第12回)

第3章 環境計画経済の試み

(4)環境計画経済の実際②
pencil前回言及したのは基幹産業分野を中心とした計画(計画A)であるが、これは見方を変えれば非食糧分野の計画である。これに対し、食糧生産の軸となる農漁業分野に関する計画(計画B)は別立てとなる。
pencil計画経済下の農(漁)業は「集団化」というキーワードで表される。この語は伝統的な家族経営でも、資本による「集約化」でもなく、農漁業を公的な生産集団によって統一的に運営することを意味する。その組織の具体的な概要については次章に回すとして、計画Bはとりわけ自然環境条件に強く規定される農漁業分野について、環境規準及び安全規準に基づき、持続可能な農漁業を追求するための全土共通計画である。
pencilこの点でも、ソ連式農(漁)業における「集団化」が―資本主義的な「集約化」と同様に―専ら生産効率の向上を志向していたのとは異なり、環境計画経済下における「集団化」は、環境的持続可能性の保持を主目的としている点の相違は重要である。
 従って、ここでの計画は生産量の需給調節にとどまらず、農業分野では循環型農法の統一的選択、林業や漁業分野では乱伐・乱獲防止のための綿密な選別的数量規制にも及ぶことになる。 
pencil計画Bは一次産品に関わる計画であるが、現代生活では加工食品の生産も欠かせない。こうした加工食品を中心とする日用必需品消費に関わる分野にも、計画経済は及ぶ。この消費関連分野の計画(消費計画)は、食品を含めた日用品の公平な供給の調節を図る分配計画としての意義を持つ。
 こうした消費計画は、地産地消を徹底するためにも、全土共通の生産計画である計画A及びBとは異なり、地方的な単位で分権的に実施されるべきものである(詳細は次章で述べる)。
 その手法は基本的に一般計画と同様であるが、異なるのは大災害や疫病の大流行に備えた余剰生産が行われることである。こうした災害備蓄を計算に入れ、需要を超過する供給計画が立てられる。
pencilところで、消費計画の中でも医薬品の生産については、その性質上通常の食品生産とは異なり、全く別立ての計画が必要である。この全土共通計画としての製薬計画(計画C)は、中立的な治験・安全性検証機関とも連動しながら、実施される。

2015年5月 8日 (金)

もう一つの中国史(連載第3回)

一 南中国の独自性(続き)

越の短い覇権
 中原で周王朝が覇権を確立した頃、中国南部の長江文明圏はいったん閉塞したように見えるが、長江文明人が完全に消滅したとは考えにくい。周の東遷(事実上の滅亡)後、春秋時代に入ると、今日の河南省から湖北省、湖南省付近に楚が、また浙江省(後に江蘇省へ遷都)を中心に強国・越が台頭してくるからである。
 その中でも、歴史上は後発である越は元来、百越とも呼ばれ、江南に広く分布していた南方系諸民族に出自する民族が主体となって建てたとも言われており、越が本拠とした浙江省と言えば、まさに長江文明最盛期の遺跡が存する所であることは示唆的である。
 百越はその名のとおり、多様な民族の総称であって、単一の民族集団ではないが、現代中国で最大の少数民族を構成するチワン族はかつての百越の中から派生したと推定され、言語学上はタイ・カダイ語族に属し、タイ人とも近縁関係にある。
 現代の浙江省はチワン族の拠点ではないが、かれらと近縁な民族が越の主体勢力であった可能性はあるだろう。他方で、越の最盛期を作った勾践王は伝承上の漢民族最初の王朝・夏王朝の庶子の流れとする伝承も存在することを考慮すると、先住民族と漢民族が混血し、越のような南方系強国を形成するようになったことも想定できる。
 越は長江文明時代以来の稲作を生産基盤とし、製銅でも繁栄した。風俗に関しては、哲学書『荘子』に越人は断髪、半裸で文身を入れていたとある。この記述が正しいとすれば、時代下って紀元後3世紀代の倭人の風俗として『魏志』に記述されたものと類似する点もあり、改めて倭と南方中国の文化的な連関が留目されるだろう。
 越の最盛期は紀元前5世紀後半に出た勾践王の時代であり、勾践は周王朝の同族が建てたとされる漢民族系の隣国呉と中原の覇を争った。その過程で勾践は一時呉の捕虜となり、虐待されたが、解放されるまで毎日苦い肝を舐めて呉への復讐を誓ったとされる故事から、「臥薪嘗胆」の格言を生んだ英傑でもあった。
 ちなみに、宿敵同士が協力し合うことのたとえ「呉越同舟」のもとともなったライバル呉はその建国者こそ漢民族とされるが、在地有力者により首長に推戴されたとの伝説から推すと、王族以外の被支配層は越と同様に南方系民族だったとも考えられるところである。
 さて、腹心の工作のおかげで解放された勾践は、最終的に呉を破って中原を制したため、春秋五覇に数えられることもある。南方民族系の国が中原を制するのは、これが最初であった。しかし、越の覇は長続きせず、南方で新たに台頭してきた楚によって破られ、前4世紀末までに滅亡、戦国七雄に名を連ねることはなかった。
 結局、越は楚に吸収されたうえ、さらに楚の滅亡後、漢化されていったことで、完全に消滅した。とはいえ今日、北方方言(官話)と中国語の話者を二分する南方方言の呉語は、越の言語を基層としているとの説も有力で、そうだとすると、短い覇権に終わった越は言語の面では漢民族にも大きな痕跡を残していることになるだろう。

2015年5月 6日 (水)

ハイチとリベリア(連載第25回)

八 デュバリエ家独裁下のハイチ(続き)

デュバリエ残党の支配
 父子二代にわたるデュバリエ家独裁体制を倒した1986年の政変は単純なクーデターではなく、民衆革命の要素も帯びていたが、過去30年に及んだデュバリエ体制がすぐに清算されたわけではなく、代わって軍が前面に出てきた。
 デュバリエ大統領辞任・亡命直後に設置された暫定的な国家統治評議会は軍人と文民から成る軍民混合政権であったが、トップのナンフィ将軍はデュバリエ時代の軍参総長からの昇格であり、残りのメンバーも含め、真にデュバリエ体制を解体できる政権ではなかった。
 87年の新憲法制定以降、88年と90年に大統領選挙が実施され、文民政権が発足するが、いずれも軍事クーデターを招き一年未満で打倒され、アメリカと国連の介入で民政復帰がなされた94年まで、計四代の軍事政権がめまぐるしく交替した。
 デュバリエ政権時代の悪名高い治安組織トントン・マクートはいったん解体されていたものの、形ばかりの解体であり、残党が次第に再編され、軍事政権とタイアップしながら再び政治暴力を活発化させていた。加えてデュバリエ政権崩壊後にアメリカの肝いりで設立された情報機関の国家諜報局が新たな人権侵害組織として機能し始めていた。
 この間、88年から90年までの軍事政権を率いたアブリル将軍はデュバリエ時代の軍精鋭・大統領親衛隊幹部としてデュバリエ父子から絶大な信頼を置かれていた人物であり、その経歴から言ってもアブリル政権はデュバリエなきデュバリエ政権の復刻であった。
 しかし、アブリル政権は軍内に十分な権力基盤を確立できず、90年の新たな軍事クーデターによりあっさり転覆された。同年末に行われた大統領選挙で当選したのは、ジャン‐ベルトラン・アリスティドであった。
 彼は、中南米諸国において民主解放運動へのカトリック聖職者の積極的な参加を主張する左派色の強い「解放の神学」を奉じた元司祭で、デュバリエ政権時代からサレジオ会を基盤に反体制運動を展開し、88年にはその政治性の強さを批判されて、会を除名されたカリスマ性を持つ在野指導者であった。
 アリスティド政権は言わばその40年前の左派エスティメ政権の再来のような性格を帯びて登場したが、それだけにエスティメ政権と同様の運命が待っていた。91年、アリスティド自身によって軍司令官に任命されていたセドラ将軍が主導する軍事クーデターを招き、アリスティド政権はわずか8か月で転覆されたのだった。
 この後、実質的にセドラ将軍が支配する軍部独裁政権が94年まで続くが、この間も正規軍・警察のほか、90年代初頭に旧トントン・マクート関係者らによって結成された新たな民兵組織などによる暴力支配が続いていくのだった。

2015年5月 5日 (火)

社会性再考

 学校は教科学習のほか、社会性を涵養することも重要な役割と考えられている。そのため、少なくとも義務教育課程に通信制はなく、通学制が当然とされている。そして、学校現場でも「非社会的」な孤立生徒は「反社会的」な非行生徒とはまた違った意味で「問題児」とみなされやすい。
 実のところ、筆者もそのような非社会的生徒の一人として、しばしば「問題視」されたものである。生徒は教師や親から「問題視」されることで、自分に自信を失い、ますます社会性を喪失していくという悪連鎖に陥る。しかし、社会性というものをそこまで絶対視する必要があるのか、疑問に思っている。
 人間は類としては高度な社会性生物ではあるが、個々の個体としては社交型と非社交型とに大別されることは、おそらく人種・民族の違いを超えた真理である。そうした個体間の性格特性の大きな差異もまた、人類という生物の特徴である。人類は社会性生物だから非社交型は人間として欠陥ありと決め付けるのは早計である。
 ヒトなら職業に相当する役割規定が生まれつき絶対的に決定付けられているアリやハチのような社会性生物とは異なり、ヒトはある程度まで任意に職業を選択することができるので、各自の性格特性に合った職業を選択すればすむことである。非社交型なら、社交性を要しない職を選べばよく、職業選択でミスマッチを起こすと、ストレスや精神病理の原因ともなる。
 となれば、学校に社会性涵養といった役割を求めることはきっぱり放棄し、義務教育課程から通信制を設置して、通学/通信を選択的としても問題はない。そうすれば、学校が苦手な子どもも大いに救われるはずである。通信制小学校―。存在するなら、入学し直してもいいくらいである。

2015年5月 3日 (日)

犯罪精神医学事始(連載第2回)

1 犯罪精神医学の対象①

 犯罪精神医学における研究と治療、鑑定、予防の実務の対象とされるのは、一般精神医学と異なり、特定の犯罪の原因もしくは重要な因子となるような精神障碍、及び犯罪被害体験を契機として引き起こされる精神障碍であり、一般精神医学に比べて狭く限局される。このように犯罪精神医学の特質は、特定の精神疾患から入るのではなく、まずは犯罪事象を出発点とすることである。
 また犯罪精神医学の対象を患者となる人で分ければ、大きく犯罪の加害者側と被害者側とに分かれるが、後者は一般精神医学でカバーできる部分もあるため、犯罪精神医学固有の対象は加害者側ということになる。そこで、本連載でもまずこの固有の対象領域を考察し、次に被害者側の問題にも及ぶことにする。

 犯罪精神医学が対象とする精神障碍がその原因や重要な因子となる犯罪行為は、実のところそう多くはない。まず、専門的な知識や頭脳を悪用して犯される詐欺、横領、背任のような知能犯や役職者が金銭的な利欲から職務行為に関連して犯す汚職犯、また行政的取締法規に違反する行政犯のような犯罪行為は除外される。
 そうすると、残るのは、おおむね次の五種に分類される犯罪群であるが、これらの範疇に含まれる犯罪行為は犯罪総数の中では少数であっても、深刻な社会不安をもたらすものが多く、単に犯行者を法的に処罰するだけで解決がつくものではない。
 なお、以下の五分類はおおまかなものであり、一人の犯行者が複数の範疇に及ぶ複数の犯罪を同時または累積的に犯す場合もあり得ることを前提としている。

Ⅰ 病理性暴力犯罪
何らかの精神障碍が原因や因子となっている暴力犯罪。ただし、Ⅱに含まれる性暴力犯罪とⅣに含まれるアルコール・薬物依存性の暴力犯罪は除く。不可解な動機による殺人犯罪のようなものが典型的であるが、統合失調症や鬱病のような精神疾患を背景とした暴力犯罪も含まれる。ストーカー行為のような非暴力的な病理性犯罪でも、被害者に身体・生命の危険を感じさせるものはここに含める。

Ⅱ 性暴力犯罪
強姦が典型的であるが、強制わいせつや痴漢行為のように非姦淫型の性犯罪も含まれる。常習的である必要はなく、要するに「力」で性行為を強要する犯罪である。ただし、飲酒行為に起因する一過性の痴漢行為のようなものは除く(Ⅳの依存性犯罪群に含まれる可能性はある)。

Ⅲ 常習犯罪
特に窃盗症や放火症のような衝動制御障碍を原因とする常習犯罪。性衝動制御障碍を原因とする常習的性暴力犯罪については、Ⅱの性暴力犯罪に含める。

Ⅳ アルコール・薬物依存性犯罪
アルコール依存症や特定薬物依存症を原因・因子とする犯罪。そのうち違法薬物依存症の場合は、違法薬物を所持・摂取すること自体が犯罪行為となる。依存症者がアルコールや薬物摂取下で犯す暴力犯罪も含む。

Ⅴ 病理性過失犯罪
病的な注意散漫状態で惹起される過失犯罪。アルコール・薬物依存症者がアルコール・薬物摂取下で犯す過失犯罪も含む。

2015年5月 1日 (金)

イラクとシリア―混迷の近代史(11)

five バース党の支配

nightイラク・バース党の支配
 “本家”シリア・バース党に対し、後発のイラク・バース党は1963年のクーデターでアーリフ政権の実質的な基盤となるが、間もなく非バース党員のアーリフによる弾圧・排除により、しばらく閉塞せざるを得なかった。
 他方、“本家”のシリアでは66年のクーデターで急進派が党創設者アフラクを追放したのを機に、アフラク支持派であったイラク・バース党はシリアの本家から離反、対立するようになったため、以後、両国バース党は事実上別党となった。
 この頃、イラク・バース党内では軍人出身で、アーリフ政権初期に首相を務めたバクルが実力者として台頭していたが、アーリフ政権の弾圧により罷免・投獄された。しかし、党組織は壊滅することなく維持される。幸運にも、アーリフが航空機事故で急死した後に政権を継承した兄のアブドゥル・ラフマーンは優柔であった。
 そうした中、68年7月、バース党はクーデターを成功させる。このクーデターは軍内のバース党シンパ将校の支援もさりながら、この頃バクルの従弟で、側近としても台頭していた後の大統領サダム・フセインのような若手文民党員の貢献が大きかった。
 その後、二代にわたり2003年まで続いたバース党支配体制の樹立契機となったことから、クーデターの日付を取って「7月革命」とも呼ばれるこのバース党クーデターで、バクルは大統領の座に就いた。
 バクル政権はトップの大統領こそ軍出身であったが、フセインをはじめ、政権中枢者の多くが軍歴を持たない文民であり、シリアのバース党政権とは異なり、文民政権の性格が強いものとなっていった。しかし、それは政権が民主的であることを意味しなかった。
 政権は一党支配体制確立のため、ナセル主義者や共産党を弾圧した。その過程で、イラク・バース党創設者で、党を除名された61年以降はナセル主義運動を率いていたリカービーも投獄・殺害された。彼は71年、投獄中に仲間の囚人により殺害されたと公式には結論づけられたが、政権による謀殺を疑う向きもある。
 当時のバクル政権ではクーデターの翌年、ナンバー2の革命指導評議会副議長に任命されたフセインが治安機関の再編・強化に集中的に取り組み、後に自身の政権下で猛威を振るうことになる秘密警察機構を作り上げている最中であった。
 しかし、70年代をほぼカバーしたバクル政権の時代は石油ショックとも重なり、有力な産油国であるイラクは国際的な石油価格の上昇により、高い経済成長のチャンスをつかんだ。社会主義的な土地改革や福祉制度も実施され、この時代のイラクは近代史上では相対的に最も安定と繁栄を享受した時代と言えた。
 しかし、それも長くは続かなかった。野心家フセインが高齢化するバクルに代わって次第に党内及び政権内で実権を握るようになり、政権継承へ向けて布石を打っていたのだった。70年代末になると、バクルの権力は名目的なものとなり、79年には病気を理由に退任、禅譲の形で副大統領のフセインが大統領に昇格した。

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