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2015年4月

2015年4月29日 (水)

もう一つの中国史(連載第2回)

一 南中国の独自性

基層‐長江文明
 現代中国は広大な単一国家の形態を採り、民族構成上は南北ともに大多数を漢民族が占めるとされているが、実際のところ、首都北京を中心とした北中国と上海を中心とした南中国とでは言語的に大きく異なる。今日ではそうした言語差も単一の中国語内部の方言差として説明されているが、歴史を遡れば、南北中国は別の文明圏であったことが判明してきている。
 本来の漢民族の本拠は黄河流域であり、この流域で発達した古代文明は黄河文明として、いわゆる世界四大文明の一つにも数えられてきた。長い間、この黄河文明を担った人々が南下して南中国にも勢力圏を拡大したと単純に想定されてきたが、文革終了後「改革開放」の頃を境に考古学研究が大きく進展すると、こうした漢民族中心史観を覆す発見が多くなされるようになった。
 特に文革末期の1973年に発見された浙江省河姆渡〔かぼと〕遺跡は最古級の稲作遺跡であり、この地域には畑作系の黄河文明とは明らかに異質の文化的特質が認められた。ここで栽培されていた稲はジャポニカ米の原種であり、日本の稲作ルーツを考察するうえで重要な標準遺跡として日本でも注目されてきた。
 長江文明を担ったのがどのような民族であったのかは未だ不明であるが、形質的には日本の弥生人との近似性も指摘されており、稲作ルーツとともにその系譜関係が議論されてきた。水稲文化でくくれば、日本の北九州や朝鮮半島南部までを包含する海を越えた連環文化圏を想定することができるかもしれない。
 この長江文明は紀元前14000年頃から同1000年頃までの長きにわたって続いており、河姆渡遺跡を中心とした河姆渡文化は中期の前5000年頃のものと推定されている。長江文明の最盛期はこの中期の時代であり、前2000年紀を過ぎると衰退の色が見える。
 しかし、完全に衰滅したわけではなく、最末期の江西省呉城文化は黄河文明圏の最初の王朝的所産である殷の時代と並行しており、黄河文明系の青銅器文化である二里岡文化の影響下に、独自の混合的な文化圏を生み出したと評価される。
 この呉城文化を最後に、長江文明としてくくられる文明圏は消滅するが、これをもって殷をも打倒した新興の周王朝による征服の結果とみなすべきかどうかは定かでない。後の中国南部には越や楚のような独自文化を備えた強国が現れるところからすると、長江文明は南下・浸透してきた黄河文明とも融合しながら、新たな文明段階に入ったとも考えられる。

2015年4月27日 (月)

新計画経済論(連載第11回)

第3章 環境計画経済の試み

(3)環境計画経済の実際①
pencil前回まで環境計画経済の概要を論じたが、その内実がどのようなものになるかということが、計画経済の実際の成否を決する。まずは貨幣経済が廃止されていることが、大前提である。以前に論じたとおり、真の計画経済は本質上アナーキーである貨幣経済とは両立しないからであった。 
pencilそのうえで、計画の中核は需要見通しに沿った供給計画である。この限りでは、旧ソ連式計画経済の技法でもあった「物質収支」はなお有効である。
 しかし、重要な相違点は需給計画が各種の環境規準に制約されることである。すなわち、経済計画には環境アセスメントが予め包含されている。従って、ここでの「物質収支」とは単にインプット・アウトプットの調節にとどまらず、エネルギー消費や廃棄・再利用のプロセスまで含めた循環的な収支となる。
 とすると、環境計画経済は主として生産の量的な調節を目的とする「物質収支」にとどまらず、環境的持続可能性に適合するエネルギー資源の選択、生産方法や生産品構造の規制にも及ぶ質的な「物質管理」も組み合わされなければならない。  
pencilこのように環境規準で規律される計画経済の期間的スパンは、3か年を軸とした中期的なものであるべきである。なぜなら、地球環境は可変的であり、絶対確実な長期予測を許さないからである。従って、3か年の限度内でも環境観測に基づいて常時検証し、随時計画内容の修正が可能とされなければならない。
 また貨幣経済廃止という条件下での経済計画では、当然にも金銭的な収益計画ではなく、何時間で何をどれだけ生産するかという労働時間の配分計画の形を取ることになる。この点でも、貨幣経済を残した条件下での旧ソ連式計画経済が収益で計量する個別企業の経営計画に近い面があったのとは異なり、物質的生産の価値尺度として労働時間に着目したマルクス経済理論の視座がより活かされることになるだろう。
pencilこうした環境計画経済の対象範囲は基本的に環境高負荷分野ということになるが、それは基幹産業分野に運輸、電機などが加わる程度で、さほど広いものではない。運輸や電機などの分野では、物質収支より物質管理に重点が置かれるだろう。農漁業や消費に関わる分野は、一般計画とは別立ての計画となる(次回詳述する)。
 その余の分野は計画経済の対象から外れ、自由交換経済に委ねられる。これはいわゆる「闇経済」ではなく、れっきとした合法的な経済活動である(禁制品の取引は当然違法である)。ただし貨幣経済は廃止されているから、物々交換経済となる。その限りで、市場経済的要素も残される。 
pencil要するに、環境計画経済とは物々交換経済との混合体制である。しかし、それは決して経済混乱のもととなる中途半端な「修正主義」や「折衷主義」ではなく、必要な限りでの計画的かつ柔軟な経済運営を導くベストミックスである。

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物質収支を考慮した計画経済に当たっては、高度な数理経済学が必要となるが、旧ソ連ではそうした計画数理経済の理論と実務が試行錯誤され、ある程度まで確立されていた。環境計画経済下の物質収支‐物質管理をベースとした具体的な経済計画の策定に当たっては、環境指標を織り込んだ新たな数理モデルの開発が必要となる。それは学術の文理融合の最前線である。

2015年4月26日 (日)

犯罪精神医学事始(連載第1回)

序説

 数年前、筆者は『犯罪と非処罰』なる連載において、犯罪→刑罰という現時点では圧倒的な「社会通念」とされている犯罪処理の図式に代えて、端的に言えば刑罰制度廃止論を展開した。これは、あらゆる種類の犯罪に対して、刑罰を科すことを止め、各犯行者の特性に応じた改善と更生のための処遇を与えるという構想であった。
 その前言でも述べたとおり、上記の構想が実現するのは相当遠い未来のことであり、当面はしばらく犯罪→刑罰図式が継続されていくであろうが、それにしても、この図式はすでに限界をさらけ出している。
 それは特に、病理性の強い犯罪事象の場合である。病理性犯罪は、犯行者の人格形成過程に根深い病理性が潜むために、犯行者に通常の刑罰を科しても感銘性がなく、その改善効果は薄い。いわゆる「懲りない犯罪者」である。そうした場合の便法として、死刑や終身刑が活用されるが、そのように犯罪者を抹殺・永久隔離する措置は実態としてはある種の保安処分であって、刑罰制度の敗北を意味するものである。
 しかし刑罰は究極的には犯罪によって侵害された法益の軽重と、惹起された結果の重大性に応じて重さが定まるため、被侵害法益が軽いものであったり、惹起された結果がさほど重大でなければ、いかに「懲りない犯罪者」であろうと、死刑や終身刑のような重刑に処することはできず、効果の薄い通常の刑罰に処するほかはない。
 というように、病理性犯罪に対しては、すでに刑罰制度は無力化していると言って過言でない。といって、刑罰制度の廃止は未来のこととすれば、当面は刑罰制度の枠内で病理性犯罪に対応していかざるを得ない。その際、基礎的な知見を提供するのが犯罪精神医学である。
 犯罪精神医学とは、まさに犯罪行為を精神医学的に研究する学術であるが、犯罪行為者の犯行心理のメカニズムを解析する犯罪心理学とは異なり、「医学」であるからには個別的な治療と集団的な予防とを目指す実践的な学である。

 とはいえ、現状犯罪精神医学というものは、ほぼ仮想的な学術にとどまる。日本でも、数ある医科大学の中で犯罪精神医学の講座と専任教授が置かれているところは、筆者の調べた限り皆無であった。外国はどうかといえば、犯罪精神医学の英訳criminal psychiatryで検索をかけても、ヒットせず、代わりにforensic psychiatryという用語がヒットする。
 forensic psychiatryとは、日本では「司法精神医学」と訳され、主として犯罪捜査及び刑事裁判の過程で刑事責任能力の有無・程度を鑑定するために行われるいわゆる精神鑑定の理論と実践に関わる学術である。このような司法精神医学については日本でも専門学会が存在しているが、医科大学に専門講座は置かれておらず、一般精神医学と司法精神医学が未分化なままである。
 この点、欧米の医科大学では一般的なpsychiatryとは区別してforensic psychiatryの専任教授が置かれることも多いらしく(詳細未調査)、一歩進んでいる。しかし、上述したように、criminal psychiatryという学術は欧米にあっても未確立のように見える。
 もっとも、forensic psychiatryの内容を拡大し、精神鑑定を越えて刑務所をはじめとする各種刑事施設内での治療や出所後の継続治療にも関わるのであれば、forensic psychiatryが実質上criminal psychiatryをカバーすることになるかもしれない。
 ただ、forensic とは本来「法廷の」という意味であり、forensic psychiatryではやはり「司法精神医学」というニュアンスが強い。言わば「心の法医学」であり、その中心的任務は法医学同様に鑑定となろう。これに対して、criminal psychiatryの任務は、以下のとおり臨床医学と社会医学の双方にまたがる広範なものとなる。

 criminal psychiatryの守備範囲のうち、臨床医学分野の中心的任務は病理性犯罪行為者の治療である。具体的には刑務所や少年院での個別的処遇計画の策定への医療的関与とそれに基づく治療的処遇(投薬を含む)の実践である。また例外的ではあるが、特定の犯罪を犯し心神喪失・耗弱と認定され、医療観察処分を受けた犯罪行為者の治療も含まれる。
 これに加え、臨床分野では犯罪被害者の被害回復治療も二本目の柱となる。犯罪被害は通常のショック体験とは異なる異常な出来事であり、その体験者はしばしば重篤な心的外傷を受け、場合により鬱病のような精神疾患を発症することもある。その治療は一般精神医学の応用でも可能であるが、犯罪被害体験を持つ患者の診療は医師にとっても非日常的であるので、一般的な精神科医では対応し切れず、犯罪精神医学の専門医が当たることが望ましいと考えられる。
 以上に対して、社会医学分野としては、従来からの鑑定実務が重要であることは言うまでもないが、そればかりではなく、今後は病理性犯罪の予防策という精神保健に関わる分野にも拡大されるべきであろう。病理性犯罪は発達の過程での問題性が大きく関わるため、幼児期から思春期にかけての適切な精神保健が重要であり、犯罪精神医学はそれに必要な知見を提供すべきである。
 さらに社会医学分野の任務として付け加えたいのは、犯罪事象をめぐる社会感情制御である。これについては後に詳しく論じるが、重大な犯罪事象をめぐっては、しばしば大衆の間にモラル・パニックと呼ばれるような集団パニック現象が惹起されることもあるが、このような社会病理現象は適切に制御されなければならない。これは感染症パンデミックの際にも必要とされる正確な医療情報の提供を通じた社会啓発の問題でもある。

 さて、以上縷々述べてはみたものの、もとより筆者は医学者ではない。医学者でもない者が医学について教説を開陳するなどおこがましいと思われるかもしれないが、前述したとおり、犯罪精神医学とは未だそれとしては存在しておらず、これから存在すべき学術である。既存の医学について素人が教説を垂れるのはおこがましいかもしれないが、これから存在すべき医学について語ることなら許されるのではなかろうか。
 それにしても、なぜ素人がそんなことをする必要があるのか。それは、究極的に刑罰制度の廃止と犯罪事象の科学的な処理体系の確立を望む者として、その目標へ向けて現状の枠組み内で可能的な知見の確立に初歩的な寄与をしたいとの願いからである。もちろん、これは表題のとおりほんの「事始」にすぎないので、最終的には専門の医学者に後を託して立ち去らなければいけないと心得ている。

2015年4月24日 (金)

イラクとシリア―混迷の近代史(10)

five バース党の支配

nightシリア・バース党の支配
 バース党“本家”のシリア・バース党が政治の前面に出てきたのは、1963年のクーデター時であった。その後、今日に至るまでの長いバース党支配の契機となったことから、クーデターの日付にちなんで「3月8日革命」とも呼ばれるこのクーデターは、党員の中堅将校で結成する党軍事委員会が主導したものであった。
 ここにはやはりアラブ連合問題が絡んでいた。その2年前のクーデターでアラブ連合からの離脱派が政権を取っていたが、63年のクーデターはアラブ連合再建派が起こしたものであった。
 しかし、63年クーデター後のバース党系軍事政権は再建のめどの立たないアラブ連合問題よりも、党創設者アフラクを奉じるアフラク派と軍将校を中心とした反アフラク派の間で権力闘争が続き安定しない中、66年、反アフラク派のリーダー格サラーフ・ジャディード将軍が主導する新たなクーデターが成功、アフラクとビータールの党共同創設者がともに追放されることで、ひとまず決着を見た。
 ジャディードは党イデオローグで文民出身のヌーレッディーン・アル‐アタッシーを大統領に擁立しつつ、自らは表向き党ナンバー2にとどまったが、穏健派のクーデターで失墜する70年まで、シリアの実質的な最高実力者として独裁的な権力を振るった。
 ジャディード主導政権は内政外交ともに妥協なき左派であり、内政面ではバース党一党支配体制を固めて社会主義的政策を敷くとともに、冷戦の只中にあってソ連と東側陣営に接近していった。またパレスティナ問題では反イスラエルの立場を明確にし、パレスティナ解放機構(PLO)を通じた解放闘争を支持するとともに、対イスラエル融和的なサウジアラビアなどとは対立した。
 このパレスティナ問題をめぐる党内対立は、67年の第三次中東戦争(六日戦争)でアラブ合同軍側のシリアが敗北し、ゴラン高原をイスラエルに占領された後、次第に表面化していき、ジャディード政権の命取りともなった。
 この頃、ジャディードの対抗馬として台頭していたのは、ジャディードと同じ少数宗派アラウィー派に属する空軍出身のハーフィズ・アル‐アサド国防相であった。アサドは66年クーデターの「同志」であったが、その後は穏健派のリーダー格となり、ジャディードと距離を置き始めていたのだった。
 両者の対立は次第に激化し、70年にジャディードがアサド派を排除しようとしたことに対抗してアサド派が忠実な軍部隊を動かしてジャディードらを逮捕することで、最終決着した。ジャディードの強硬路線を修正しようとした穏健派の立場から「矯正運動」とも呼ばれるこの無血クーデターにより、ジャディード主導政権は崩壊、以後長期に及ぶアサド独裁体制が確立されていく。

2015年4月23日 (木)

ハイチとリベリア(連載第24回)

八 デュバリエ家独裁下のハイチ(続き)

政権世襲と終焉
 1971年、フランソワ・デュバリエ大統領の死後、大きな反対もなく速やかに19歳の息子ジャン‐クロードが後継大統領に就けたのは、この時点ですでにデュバリエ体制が事実上王朝化していたことを示すが、共和制国家での完全な政権世襲は当時としても極めて異様であった。
 医師(ドクトゥール)であったことから「パパ・ドック」とあだ名された父に対し、若年のため「ベビー・ドック」とあだ名されたジャン‐クロードは政治的な関心が薄く、政治を母親や父親時代からの側近らに任せ、自らは放蕩三昧という有様であった。
 それでありながら、ジャン‐クロードの政権が父とほぼ同じ15年にわたり持続したのは、ひとえに父親が創設した残忍な治安組織トントン・マクートの支えがあったからであった。またハイチの地政学的な枢要性の低さもあり、アメリカをはじめとする諸外国がハイチにおおむね無関心であったことも、政権延命を助けた。
 国内的には恐怖政治、国際的には無関心という状況下で、デュバリエ一族や側近はタバコをはじめとする国営企業の私物化や麻薬取引、臓器売買等による不正蓄財に励む一方、国民の間では貧困が広がり、西半球の最貧国にまで落ちていった。
 強固に見えたデュバリエ政権が崩壊する遠因となったのは、1980年の大統領の結婚であった。推定で200万ドルを費やしたとも言われる豪華結婚式で迎えた妻ミシェルはデュバリエ政権が敵対してきたムラート富裕層の出身であった。
 この結婚により権力構造も変化し、再びムラート系テクノクラートが政権で発言力を持つようになり、父親の代からの黒人系側近たちとの関係が悪化した。ファーストレディのミシェルも無関心な夫に代わり政治に干渉するようになる一方で、しばしば航空機でパリに豪遊するなど一族の贅沢三昧も頂点に達した。
 大統領の結婚から6年後、政権の終末が来た。85年、かつて建国の父デサリーヌがフランスからの独立宣言を発した独立革命記念の地ゴナイーヴで始まった反政府デモは急速に全土に広がり、年末には南部でも大規模な蜂起があった。
 時のレーガン米政権は「人権外交」を掲げたカーター前政権の政策を転換し、「反共」を謳うデュバリエ政権を当初は庇護していたが、反政府抗議活動がピークに達した86年1月、ついに独裁政権を見限り、大統領に辞任・亡命を迫った。元来政治的関心の薄いデュバリエはあっさり米国の説得に応じ、同年2月、家族とともにアメリカが差し向けた米軍機で旧宗主国フランスへと亡命した。
 ここに、父子合わせて29年に及んだデュバリエ家の独裁体制は終焉したが、これでハイチに民主主義が訪れたのではなかった。大統領一家は去ってもトントン・マクートをはじめとするデュバリエ体制残党がなお根を張っていたからである。

2015年4月20日 (月)

もう一つの中国史(連載第1回)

 地政学上古くから中国史への関心が強い日本では中国史を扱う書籍・情報は通史・個別史を含め、無数に存在するが、その多くは中国人=漢民族を中心に描かれている。これは、中国の支配民族が漢民族であることからして無理もないことではあるが、中国史の読み方としては、一面的・平面的になる。
 筆者が数年前に当ブログ上に連載した『世界歴史鳥瞰』は世界歴史の通史ではあるが、部分的に中国史を包含している。しかし、ここでも行論上漢民族を中心とした記述とならざるを得ず、自己不満を抱いていたところである。
 これに対して、近年はチベットやウイグルなど「西域」の少数民族の解放運動と中国当局の衝突が国際関心事となっているため、中国の少数民族問題が改めて注目を集めている。ただ、その多くは、中国批判を絡めた現状分析的な関心に偏り、政治中立的に中国史の全体を少数民族を焦点に読み直そうとする意識は乏しく見える。
 現代中国―台湾も含めた広い意味―に連なる中国史の主役が漢民族であったことは否定できない事実であるが、広大な中国大陸とその周辺には多様な非漢民族が割拠し、時に中心部(いわゆる中原)を攻略し、独自の王朝を樹立することもあるなど、少数民族たちは単なる脇役を越えた役割を果たしてきた。その意味では「少数民族」ではなく、「周辺民族」と表現したほうが実態に合致するだろう。
 そうした「周辺民族」の視点で中国史を読み直せば、一味違った中国史―もう一つの中国史―も浮かび上がってくるのではないか。といっても、チベットその他個々の民族に焦点を当て過ぎると、それは当該民族中心史観となるだけであるので、ここではいかなる「中心史観」も排した「中立史観」の立場で記述するつもりである。
 本連載は、これまで連載した、もしくは連載中の当ブログ上の歴史企画すべてがそうであるように、専門史家ではない筆者の手になる“素人史”ではあるけれども、狭小な専門家視点では読み取り切れない何かが見い出されれば、それで拙連載のささやかな目的は達成されたことになるだろう。

2015年4月18日 (土)

イラクとシリア―混迷の近代史(9)

five バース党の支配

nightバース党の台頭
 1960年代以降のイラクとシリアでは、バース党という独自の政党が政権党として台頭してくる点で、イデオロギー的には共通の基盤を持つようになる。「アラブ社会主義復興党」を公式名称とするバース党は、その名称どおり、アラブ世界の復興を究極目的とする世俗社会主義政党であり、大きく言えば左派民族主義政党である。
 元来はシリアで結党された政党であり、シリア人の民族主義的思想家ザキ・アル‐アルスージーが独立前の1940年に結党した秘密結社アラブ・バース党を最初の細胞とする。さらにシリア独立直後の1947年、ともにシリア人思想家ミシェル・アフラクとサラーフッディーン・アル‐ビータールらによって正式に結党された。
 アフラクとビータールはともに元共産主義者であったが、フランス植民地政策に協力的なシリアの共産党に幻滅・離反し、より民族主義的なイデオロギーに傾斜するようになったとされる。もっとも、最初にバース党細胞を結成したアルスージーは、現実の政治活動よりも思索や教育に関心があり、47年の正式結党には参加していない。
 一方、イラクでも1950年代のはじめにバース党イラク支部がフアード・アル‐リカービーらによって結党され、シリアのバース党本部と連携して活動を開始した。両国バース党の不思議さはいずれも知識人主体のマイナー政党として出発しながら、シリアでは63年、イラクでも68年には政権党にのし上がり、瞬く間に長期支配体制を確立したことである。
 その要因として、シリア、イラクともにバース党が軍の中堅将校の間で急速に支持者を得たことがある。両国ともにバース党政権はいずれも党員将校らの軍事クーデターによって成立したこと(特にシリア)が、その結果である。
 また党共同創設者の一人であるアフラクが、共産党と一線を画しながらも、移行期の暫定的政治制度としてソ連型の一党支配体制を提唱していたことから、政権掌握後の両国バース党が速やかにライバル政党の排除に乗り出したことは、長期支配の要因となった。
 他方、バース党は世俗的なアラブ民族主義という以外、イデオロギー的な軸が明瞭でないため、思想的に雑多な分子が結集しやすい反面、分裂・党内抗争も発生しやすい素地があった。特にアラブ連合への対処は歴史の浅い党を揺さぶる大問題となった。
 汎アラブ主義に基づくアラブ連合やナセルのアラブ社会主義は表面上バース党の理念とも矛盾しないように見えたが、アフラクはエジプト主導の汎アラブ主義には反対であった。一方、イラク・バース党の創設者アル‐リカービーらはナセル支持の立場を打ち出し、党内抗争が起きたが、結局リカービーは61年に党を除名され、独自のナセル主義的運動を組織するに至った。
 しかし、アフラクも時の政権がアラブ連合結成に動くと、エジプトの要求に屈して独断で解党に出ようとした。これに対し軍将校を中心としたグループが党防衛のため党内分派的な軍事委員会を作って対抗し、深刻な対立に至った。
 この対立は尾を引き、最終的には66年にシリアで起きた党内クーデターを契機に党創設者のアフラクがシリアを追放される事態となる。一方、アフラクを支持するイラクのバース党は独自にアフラクを奉じて、後に生涯にわたるアフラクの亡命を受け入れた。こうして、シリアとイラクのバース党は分裂し、長い近親憎悪的敵対関係に陥ったのである。

2015年4月16日 (木)

ハイチとリベリア(連載第23回)

八 デュバリエ家独裁下のハイチ

デュバリエの登場
 1957年の軍事クーデターで左派のフィニョレ政権が転覆された後、フィニョレ支持派が暴動を起こすと、軍事政権は武力弾圧で応じ、多数の死傷者を出した。騒然たる情勢の中で実施された大統領選挙で当選したのは、医師出身のフランソワ・デュバリエであった。軍に支持されたムラートの候補を破っての当選である。
 デュバリエは、左派のエスティメ政権で保健相を務めるなど、伝統的なムラート支配層を抑えて黒人系エリートを登用したエスティメ政権で恩恵を受けた黒人中間層の出身であり、左派と見られていたが、大統領選では黒人文化を賛美するポピュリスト的選挙戦略により、ハイチで多数派を占める黒人層の心をつかんだことが勝因となった。
 デュバリエは在野時代、農村医療に携わるなど、民衆に奉仕する社会活動家の一面を持ち、政権初期には公衆衛生や福祉の向上に注力する姿勢を示したが、間もなく、仮面の下に隠された別の顔が現われ始める。
 その豹変は、最大の弱点であった軍との関係性を整理する過程で起きた。軍がデュバリエ政権初期に起こした新たなクーデターが未遂に終わると、デュバリエは対抗的な軍の再編に着手し、大統領親衛隊を中心とする忠実な将校で中枢を固めた。
 それでも不安な彼は、新たに民兵組織の国家保安義勇軍を創設した。ブードゥー信仰上恐れられていた人さらいの邪鬼の名になぞらえて「トントン・マクート」と通称されたこの特殊部隊は、デュバリエの私兵に近い治安組織で、その極度な残忍性と横暴さから、実態は犯罪組織と言って過言でなかった。デュバリエはこのトントンマクートを軍をしのぐ権力維持装置に育て、利用した。
 一方、彼は伝統的支配層のムラートが依拠していたカトリック勢力を抑えつつ、在野時代の民俗学的研究で得たブードゥー教の知見を利用して、ブードゥー教の民間信仰を擁護し、自らブードゥー教司祭のごとく振る舞い、これを個人崇拝の道具としてフル活用した。
 こうして、デュバリエは就任から瞬く間に恐怖政治のシステムを作り上げていったのだった。ハイチでは建国以来、独裁政権は珍しくなかったが、デュバリエの独裁政治はその宗教がかった個人崇拝と私兵集団を通じた抑圧の暴力性において特異なものであった。
 ハイチ占領以来、ハイチを直接間接に操作してきたアメリカも当初デュバリエ政権の体質に懸念を持ちながら、キューバ革命後は中米における「反共の砦」を標榜するデュバリエ政権を擁護せざるを得なくなった。このような地政学的情勢とアメリカのご都合主義も、デュバリエ独裁政治の延命を支える要素となった。
 64年、デュバリエは憲法を都合よく書き換え、不正と脅迫に満ちた形ばかりの「国民投票」によって、絶対的な権力を持つ終身大統領に就任したが、心臓病を抱えていた彼は七年後の在任中、死去した。政権は若干19歳の息子ジャン‐クロードに世襲された。「デュバリエ独裁」にとどまらぬ「デュバリエ家独裁」の始まりであった。

2015年4月15日 (水)

新計画経済論(連載第10回)

第3章 環境計画経済の試み

(2)非官僚制的計画手法
pencil新しい計画経済=環境計画経済は、前回見た観点のみならず、その手法の点でもソ連式計画経済とは異質のものとなる。すなわち、それはソ連式のような行政主導の官僚制的計画ではなく、生産企業体自身による自主的な共同計画の手法を採る。
pencilこの点で、「自主管理社会主義」と呼ばれた旧ユーゴスラビアの制度に類似するが、旧ユーゴの場合、各生産企業を労働者自身が管理運営するという「自主管理」に重点があり、全体計画に関しては二次的な関心しか置かれていなかったため、それは事実上個別生産企業の独立採算と一定の競争関係をもたらし、市場経済への近接を示していたのであった。
 これに対し、ここで想定する自主的な共同計画は、全体計画を生産企業が共同して策定・運用していくという「共同管理」に重点が置かれるのである。
pencilこうした生産企業体による共同計画の策定機関としては、各生産企業体の計画担当者で構成する「経済計画評議会」(以下、評議会と略す)のような代表機関が想定される。
 その計画は、内容的には前回述べたような環境的持続可能性に立脚するものであるから、評議会は計画に必要な環境経済分析の高度な機能をも擁し、計画策定をサポートしていくことになるだろう。従って、この機関には単なる事務局機能を超えて政策に関わる官僚は存在しない代わりに、環境経済調査員が所属する。
 となると、その調査員らが事実上評議会を動かす準官僚的な存在と化すのではないかとの懸念もあり得るが、かれらの役割はあくまでも計画に資する調査分析に限局され、実際の計画策定は評議会の評議の場で民主的に公開討議に付され、議決されるから、この機関は旧ソ連のゴスプランのような行政機関よりも議会に近いものと言える。
 こうした自主的共同計画は旧ソ連式国家計画に比して、格段に生産現場の判断に立脚した柔軟かつ分析的な知見をも反映した現実的な計画となると見込まれる。
pencilさらに、究極的には、環境計画経済は地球環境の持続可能性に立脚する以上、全世界的な規模で実施されなければ完結しない。こうした言わばグローバルな経済計画についても、各生産分野ごとの世界的な連合組織が自主的に策定・運営するシステムが想定されるのであるが、その詳細については改めて後述する。

clubMEMOclub
環境経済調査員(または調査士)とは、環境学的な観点から経済分析・予測をする仮称専門職であり、経済学と環境学が融合されて初めて成り立つ新しい専門職である。言わば、エコロジスト+エコノミスト=エコロノミストである。資本主義経済下でも「環境経済学」という新分野が誕生しているが、市場論を機軸的知見とする資本主義経済学の中では周縁的な領域にとどまっている。しかし、環境計画経済にあっては、環境経済学的知見が機軸となり、それに照応した実務職も誕生する。

2015年4月14日 (火)

関東通史―中心⇔辺境(跋)

十七 近現代の関東

 関東の概念は、これまで概観してきた通史の中で、幾度か変遷している。中世には東北を含めた東日本全域を指したこともあるが、本連載で前提としてきたのは、江戸時代に確立された「関東」の概念である。
 すなわち、それは江戸を防衛する箱根・小仏・碓氷の三関以東のいわゆる坂東八国であり、これが明治維新を経て、ほぼ今日の一都六県で構成される関東地方の概念に引き継がれている。
 明治維新後改めて全土の首都となった「東京」は江戸の遺産を継承したとはいえ、それまでの幕府の首府であった時代とはその位相を異にしている。最も大きな違いは、天皇が移り住み、「帝都」となったことである。
 「東京」という名称は、読んで字のごとく「東の京」という趣意で、「西の京」である京都を意識したものである。この新地名はすでに幕末前期の国家主義的思想家・佐藤信淵〔のぶひろ〕の主著『混同秘策』で提唱されていたというが、「江戸」とは異なり、歴史を持たない人工的な地名である。
 江戸時代には事実上まだ政経分離的に江戸と大坂が両都的な機能分化を保っていたが、天皇が在所する「帝都」となった東京にはすべてが集中するようになり、単なる政治首都ではなく、完全首都となった。
 こうして帝都東京を中心とする関東は、明治維新体制において、大日本帝国の核心地域として開発が進められ、人口集中も進んでいった。大正時代の関東大震災は、東京を中心に甚大な被害をもたらすが、これを機に遷都されることもなく、速やかに復興されていった。
 第二次大戦の敗戦による壊滅を経ても、東京を首都とする関東中心構造は不変であり、関東は高度経済成長の集中的なエンジンとなり、地方からの人口流入もいっそう増大した。この間、首都機能分散も叫ばれてきたが、本質的には進んでいない。
 関東中心構造は歴史的にも固着したかに見えるが、極度の一極集中には限界も見え始めており、未来永劫にこの構造が不変であるという保証はない。今、大阪を「都」に格上げすることを推進する政治勢力が大阪の地方政治を席巻しているのも、単なるブームを超えた地殻変動かもしれない。
 他方、日本本土の中間地点に当たる東海地方は、興味深いことに近世戦国期に順次「天下人」=最高執権者となった織田、豊臣、徳川の三氏を連続して輩出したにもかかわらず、首都が置かれることはなかった。将来改めて人工的に新都を設ける場合、東海地方は潜在的候補地となるかもしれない。 
 いずれにせよ、関東は中心と辺境の間を何度も往復してきた。関東が再び中心でなくなる時、日本の歴史はまた大きく動くであろう。

2015年4月12日 (日)

大学にも触手が

 国旗・国歌の公立小中高校行事での強制を追求してきた政府がついに国立大学にも強制しようと乗り出してきた。とはいえ、大学の場合は「大学の自治」という憲法上のいまいましい名分があるため、通達などを通じた直接の統制はできず、非公式な「要請」という術策による。
 しかし、近年は学長の権限強化や研究資金の配分競争などを通じて、大学の自治を骨抜きにし、政府の間接統制を強める政策が強まっている時勢であるから、「要請」の圧迫効果は小さくない。実際、「要請」を受け入れない大学への研究資金配分を減らすなどの冷遇措置で圧力をかけることは十分に可能である。
 大学のような自治権を持たない小中高を超えて、自治権を持つ大学にまで政権が手を伸ばしてきたのは、近年の歴史逆行的な流れが一線を越えようとしていることを意味する。戦前もそうだったように、権力が大学に触手を伸ばしてきたときは、全体主義化の重要な兆候である。
 今のところ、さすがに政府も私立校には小中高を含め統制を手控えているようだが、今後は安心できない。私立でも学校教育法上の学校として認可され、私学助成の対象である限り、憲法に言う「公の支配」を受けているとされる以上、大学と同様に国旗掲揚・国歌斉唱を「要請」できるという屁理屈もひりだせるからだ。
 権力にすり寄るマスメディアと同様、私立校が自主的に権力にすり寄っていく可能性も含め、全体主義的潮流は今後、私立も巻き込んで激流になるだろう。そういう流れに乗って育成された生徒・学生たちが社会の中心になる30年後にはどんな社会になっているか、想像するだに恐ろしい。学校教育の大きな影響を受けない不登校児や落第生は、かえって救いである。

2015年4月11日 (土)

イラクとシリア―混迷の近代史(8)

four アラブ連合の時代

nightイラク共和革命とその後
 1958年にエジプトとシリアが統合されてアラブ連合共和国が成立した時、イラクはまだハーシム家の王政下にあった。アラブ連合の攻勢に危機感を抱いたイラクは対抗上、同じハーシム家が支配する隣国ヨルダン王国とアラブ連邦を形成し、連邦元首にはイラクのファイサル2世が就いた。
 この前年、英国との条約が終了したヨルダンは完全独立国となったばかりで、不安定であった。そのため、イラクはヨルダンに援軍を派遣する手はずを整えたが、皮肉にもこれが命取りとなった。ヨルダン派遣部隊が反乱して、クーデターに発展したのだった。
 このクーデターを主導したのは、中堅軍人の秘密結社・自由将校団に属する職業軍人たちであった。その先頭にいたのが、アブドゥ・アル‐カーリム・カーシム准将とアブドゥル・サラーム・アーリフ大佐の二人であった。
 このクーデターは52年のナセルらによるエジプト革命同様、王政廃止・共和制樹立へと向かったため、イラクにおける共和革命の性質を持つものとなった。しかし、エジプトとの違いは、旧体制の国王、王太子、首相を皆殺しにした残忍性にあった。
 もう一つの違いは、ナセルが率いた中堅将校グループと同名を名乗りながら、イラク自由将校団は多様な勢力の寄せ集めだったことである。二人の指導者のうち、カーシムは共産党寄りのイラク・ナショナリストであったのに対し、アーリフはアラブ連合への統合を主張する汎アラブ主義のナセリストであった。
 二人の路線対立は、第一段階ではカーシム派が勝利し、アーリフ派を排除することで決着した。首相に就任したカーシムは党員ではなかったが共産党を支持基盤として、社会主義的な政策を強権的に進めた。これは一時的とはいえ、イスラーム圏の中東で共産党が国政上影響力を持った稀有の例であった。
 しかし、カーシム政権は持続しなかった。政情不安が続く中、アーリフを政権から排除しながら赦免した寛容さが裏目に出て、アーリフ派の反攻を招いた。63年、アーリフらが同じく政権から排除されていたバース党を味方につけてクーデターを敢行する。劣勢のカーシムは投降・亡命を申し出るもクーデター側は拒否し、カーシムは形ばかりの「即決裁判」により処刑された。
 こうして政権奪取に成功したアーリフは大統領に就任するが、今度はクーデターで重要な役割を担ったバース党との対立が表面化してきた。バース党は党実力者で軍人のアーメド・ハッサン・アル‐バクルを首相に出し、政権を実質上支配していたのだった。
 そこでアーリフはバース党に激しい武力弾圧を加え、いったんはその勢力を放逐することに成功した。こうして敵対勢力を一掃したアーリフは改めて持論であるエジプトとの統合へ向けた準備を慎重に進めていたところ、66年、搭乗していた空軍機の墜落事故により不慮の死を遂げた。
 事故はバース党の謀略の可能性も取りざたされたが、真相は不明のまま、後任にはアーリフの兄で国軍司令官のアブドゥル・ラフマーン・アーリフが就任した。穏健なアブドゥル・ラフマーンは弟の路線を基本的に継承したが、決断力に欠け、アラブ連合への統合も進まないまま、68年、攻勢に出たバース党のクーデターによりあえなく政権を追われ、亡命した。
 こうして58年の共和革命から68年のバース党クーデターまでのイラクでは安定政権が成立せず、軍部を舞台に党派的な軍人たちが権力闘争に明け暮れる10年であった。アブドゥル・ラフマーンが残した「過去を忘れ、未来を見据えることで、イラクに国民統合が訪れることを希望する」という言葉は、空しく響いた。

2015年4月 9日 (木)

ハイチとリベリア(連載第22回)

七 近代リベリアの建設(続き)

W・トルバート時代
 リベリア史上最長の27年にわたって続いたタブマン政権は1971年、在任中のタブマン大統領がロンドンの病院で死去したことで幕切れとなった。事実上の終身大統領であったタブマンの後を継いだのは、トルバート副大統領である。
 トルバートもアメリコ・ライベリアンの有力家系の出身であったが、自身はバプティスト派牧師で、副大統領時代の65年にはアフリカ人で初のバプティスト世界連盟総裁に就任した宗教界の重鎮でもあった。
 彼はタブマン政権下で52年から71年まで一貫して副大統領を務め、タブマン大統領の信任も厚く、後継大統領就任は順当なものであった。しかし、トルバートは前任者とは異なり、民主化に理解を示した。
 彼は長年の支配政党真正ホイッグ党内や支持勢力アメリコ・ライベリアンの反対を押して、憲法改正により大統領任期を8年に限定し、先住部族の登用をより積極的に進めた。75年には左派系のリベリア進歩連盟(後に進歩人民党)を合法的野党として認可し、一党支配体制も転換した。
 トルバート政権は、外交政策でも、前政権同様にアメリカのベトナム戦争を支持し、親米政策を堅持しながらも、従来の親米一辺倒政策を修正し、ソ連やキューバ、中国、その他の東側諸国との多角的な外交関係の構築に動き、パレスチナ人の権利を擁護した。
 こうした外交政策の変化は経済にも反映され、長くリベリアのゴム産業を特権的に支配してきた米系資本ファイアストン社に会計検査と厳正な徴税を行う一方で、リビアやキューバなど「反米」諸国からの経済援助を受け入れるようになった。
 こうして内政外交にわたる改革を推進し、順風満帆に見えたトルバート政権の命脈を一挙に縮めたのは、農業問題であった。79年、政府は農民の収入増のためとして、米価引き上げを発表した。これに対し、合法化されたばかりの野党が平和的な抗議デモを組織したが、これがリベリア史上最悪の暴動に発展し、多大な経済的な損害を生じさせる事態となった。
 「米騒動」による威信低下を恐れたトルバート政権が軍・警察を動員して鎮圧に当たり、野党関係者ら多数を検挙するなど、抑圧的な対応に出たことも裏目に出て、政権は80年4月、史上初となる軍事クーデターにより崩壊することになる。

2015年4月 8日 (水)

新計画経済論(連載第9回)

第3章 環境計画経済の試み

(1)環境計画と計画経済
pencil前章で見た数々の欠陥を抱えたソ連式計画経済に対し、ここで提唱する新たな計画経済はソ連式計画経済とは全く異なる観点と手法で行われるものである。
 そのうちまず観点という面から言えば、新しい計画経済は環境的持続可能性に視座を置くものである。つまり地球環境の可及的な持続性を保証するための計画経済である。
pencilここで概念の整理をしておくと、「環境計画経済」という語の構成は、「環境計画‐経済」ではなく、「環境‐計画経済」である。やや言葉遊びのようであるが、この意味の違いは重要である。
 前者の場合、計画的な環境政策を取り込んだ経済体制といった程度の意味で、ここでの経済体制は非計画的な市場経済であってもかまわない。このような体制は、欧州を中心に先進的な環境政策を展開する国ではすでに採られている。また、国際連合の公式機関である国連環境計画(United Nations Environment Programme:UNEP)は、まさにこうした環境計画‐経済を国際的な規模で実施するための調整機関である。
 これに対し、後者の環境‐計画経済とは、計画的な環境政策にとどまらず、―それを踏まえた―環境的持続可能性に関する指標を規準として計画される経済であって、それは計画経済の一つの類型である。より簡単に言えば、環境計画に基づいた計画経済である。
pencilこのような環境指標を重視した計画経済はソ連式計画経済では全く想定外のことであり、結果として、ソ連式計画経済は資本主義を上回る規模での開発優先政策による資源の浪費・消耗による環境破壊を引き起こしたのであった。
 その意味では、環境計画経済はソ連式計画経済を反面教師としつつ、ソ連邦解体後、高まってきた地球環境保護の潮流に合致した新しい計画経済として浮上してくるべきものである。
pencilこの点、現時点ではこうした環境計画経済を現実の政策として採用している国は(筆者の知る限り)存在せず、最も先進的な環境政策を提起する緑の党や環境保護運動でも、計画経済の提唱には踏み込まず、市場経済を維持したままでの環境政策の推進を主張するにとどまっていることがほとんどである。この主張は先の用語でいけば、「環境計画‐経済」の域を出ないものである。
 これはちょうど市場経済を維持したまま福祉政策でこれを補充する修正資本主義としての社会民主主義とパラレルな関係にもあり―両者はしばしば重なり合う―、修正資本主義としての環境主義の理念の表れでもあるが、その限界性はすでに地球温暖化のような国際的課題への取り組みが遅々として進まないことにはっきりと現れているのである。
pencil地球環境上の諸問題を根本的に解決するためには、環境規準によって生産活動を体系的に量と質の両面から規律する必要があるのであって、それを可能とするための計画経済こそが、ここでの環境計画経済である。

2015年4月 4日 (土)

イラクとシリア―混迷の近代史(7)

four アラブ連合の時代

nightアラブ連合の成立
 イラクとシリアが独立後の混乱に揺れる中、エジプトでは52年の共和革命で成立した社会主義体制がナセル大統領のカリスマ的指導の下、大規模な社会改革に着手していた。スエズ危機を乗り切った彼は汎アラブ主義の英雄として、アラブ世界の盟主となっていた。
 1958年2月、シリアとエジプトが統合して成立したアラブ連合共和国は、ナセルの絶頂期の象徴であった。とはいえ、国境を接していない両国の「連合」は唐突かつ奇妙であったが、これにはエジプト以上にシリア側に切実な事情があった。
 前回見たように、シリアでは、46年の独立以来、軍事クーデターが頻発し、短命政権が次々と交替する政情不安が収まらなかった。そうした中で伸張する共産党を抑えつつ、政情を安定させるにはエジプトとの統合が切り札とみなされるようになっていた。他方、急速な経済成長に伴い、経済界からは大規模なエジプト市場との統合を望む声も強まっていた。
 シリアで最強の政治勢力となっていた軍部内にも、エジプトのナセルを支持する汎アラブ主義の将校グループが形成されており、統合の機運がとみに高まった。こうして58年2月、国民投票を経て、正式にアラブ連合共和国が発足した。
 とはいえ、地理的にも離れた規模の異なる二国間の統合という試みは実験的ではあったが、見込みの薄いものであった。しかも、連合はナセルが当初構想していた連邦制ではなく、シリア側の要請により単一国家体制となったことから、必然的に「大国」エジプトの主導性が強まった。
 連合大統領にはナセルが座り、シリアにエジプトの軍人や官僚が送り込まれることになった。59年にはシリアの全政党が解散させられた。ナセルの中央集権政策がシリアにも適用され、当時は比較的分権的だったシリアの体制を変質しようとしていた。
 実態としてシリアがエジプトの「植民地」となりかねない兆候に対し、シリア人の不満は高まった。特に軍部内ではエジプト人将校への服従拒否が蔓延した。資本主義的志向が強かったシリア経済界にとっても、ナセルの社会主義政策、特に国有化政策は受け入れ難いものであった。
 そうした中、61年、当時抑圧されていたバース党所属の青年将校グループが主導するクーデターが成功した。ナセル主義者も含んでいたクーデター政権は当初、連合の枠内でエジプトとの関係を対等化する方向で交渉したが、不調に終わり、連合は解消に至った。
 しかし、その後もナセルはアラブ連合の試みを放棄せずアラブ連合共和国の名称を維持し続け、シリア側でも連合の復活を要求する汎アラブ主義者の抗議活動が続き、シリア国内の政情不安の元となった。

2015年4月 2日 (木)

ハイチとリベリア(連載第21回)

七 近代リベリアの建設(続き)

W・タブマン時代
 1944年に退任したバークレーの後継大統領に就いたのは、71年までリベリア史上最長の27年にわたり政権を維持することになるウィリアム・タブマンであった。彼は法律家の出身で、議員や判事の経験も持つアメリコ・ライベリアンのエリートであった。
 タブマン政権は14年続いたバークレー前政権が築いた土台を利用し得る立場にあったが、タブマン政権が発足した時のリベリアは依然未開発であった。政権は「門戸開放」と呼ばれる外資の積極的導入策を経済成長の原動力に据えた。
 中でも1948年に開始した便宜置籍船制度は成功し、タブマン政権末期の68年には英国を抜き、世界最大の便宜置籍船国に浮上した(現在は第二位)。アメリカを中心とする海外投資も増大し、1950年代から60年代にかけてのリベリアは、年率平均10パーセントを超える高度経済成長を記録したのだった。
 外交面では、対米関係を基調とする親西側政策を一貫して追求したが、アフリカの独立運動にも理解を示し、アフリカ統一機構(アフリカ連合の前身)の結成を助けるなど、当時は数少なかったブラックアフリカの独立国指導者として、民族自決にも軌跡を残した。
 他方、政治参加の道が閉ざされていた先住黒人部族にも限定的に選挙権を拡大するなど、先住部族への差別解消に努めたが、アメリコ・ライベリアンの支配に変わりはなく、このことはタブマン没後の軍事革命の遠因となる。
 とはいえ、周辺の新興アフリカ諸国が独立後も政情不安や戦乱に見舞われる中、タブマン政権時代のリベリアは発展と繁栄を享受したため、タブマンは「近代リベリアの父」として賞賛されている。しかし、その政治手法は、反対派への抑圧とパトロン政治に特徴づけられる権威主義的な一種の開発独裁であった。
 このことは、建国以来、一党優位の中でもアメリカ式の民主政治がおおむね根付いていたリベリアの政治文化を変質させ、タブマン没後のリベリアが周辺アフリカ諸国に遅れて強権独裁政治を経験する契機となった可能性がある。

2015年4月 1日 (水)

格安テロ

 ドイツの格安航空会社(LCC)のパイロットが故意に航空機を墜落させ、全員死亡の結果を招いた疑いが強まっている事件は、晩期資本主義を象徴する経済事象でもある。
 そもそもあの重たい機械に何百人も乗せて空を飛ばすサービスをスーパーマーケットのように格安化し、安売り競争するということが無茶なのだが、晩期資本主義では商品価値の引き下げによる価格破壊競争が空中にまで及んでいるのだ。
 空中の価格破壊はサービス、整備、労働のどこかの手抜きで埋め合わせる必要があるが、最も手抜きしやすいのは労働関係である。今回は、心身の病歴からパイロットに適さない者を漫然と雇い続けていた。結果、パイロットによる意図的墜落という大量殺人―政治的背景がなくとも優にテロではないか―が引き起こされた。価格破壊が人的破壊行為を引き起こしたのだ。
 メディア上では論点隠しされているようだが、LCCの労働条件は高度に搾取的であり、意図的墜落はさすがに稀有の異常事件としても、パイロットの過労等による過失の墜落事故は今後もあり得るだろう。
 思うに、LCCは命より金を惜しむ人にはおすすめだが、金より命を惜しむなら、割高でも先進国大手が無難だろう(途上国大手は準格安である)。

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