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2015年3月

2015年3月30日 (月)

関東通史―中心⇔辺境(15)

十六 幕末・維新の関東

 周知のとおり、江戸幕藩体制は250年以上にわたり揺らぐことなく持続したが、19世紀半ばを過ぎると、にわかに終焉が近づいた。この「幕末」と呼ばれる体制最後の時期、関東は再び中心としての地位を失いかけたことがある。
 幕府は従来、一度も遷都することなく、江戸を首都として存続してきたが、幕末に欧米列強の開国圧力の中で体制が揺らぐと、京都の朝廷の権威にすがって体制延命を図るようになった。結果として、それまでは京都所司代を通じて中央の監視対象となってきた京都に政治的な重心が移っていく。
 最後の将軍・徳川慶喜は朝廷との連携・連絡関係を深めるため、将軍在任中は畿内に常駐し、幕臣も京都に集結させ、政権の実質的な京都移転を推進しようとしていた。これにより、政治的な中心が京都に移り、事実上の遷都の様相を呈していた。
 もし慶喜政権が続き、狙いどおり幕藩体制が延命されていたとしたら、完全な遷都が実現し、江戸幕府から「京都幕府」に転換していた可能性もあったろうが、歴史の進路はそうはならなかった。
 幕藩体制に終止符を打った維新政府は王政復古により天皇中心の政治体制を構想しており、その場合、さしあたり千年以上続いてきた王都の京都を首都として再興するのが自然なはずであった。しかし、初期の実質的な最高実力者・大久保利通は大坂遷都論を提唱し、公家勢力の反発を招いた。
 一方、江藤新平らは東日本にも「王化」を及ぼすという観点から江戸を帝都とする「東西両都」の折衷案を出し、支持を得た。この案に沿って、慶応四年7月に「江戸ヲ称シテ東京ト為スノ詔書」が発布された。これは江戸を東京と改称しつつ、天皇が東京で執務することを明確にした宣言書であった。
 この施策は京都にこだわる保守的な公家勢力を慰撫するため、形の上では「両都」論に沿っていたが、天皇が東京に移ることにおいては、事実上東京を首都と定めること―東京奠都―に等しく、結局のところ江戸がそのまま維新体制の首都として継承されたことを意味する。
 こうして明治天皇は明治元年10月に初の東京訪問(行幸)を行い、いったん京都へ帰還した後、明治二年以後は正式に東京へ移り、その後も大正、昭和、平成と三代にわたり東京が天皇の居所となっている。
 この結果、維新後の関東は江戸改め東京を首都として引き続き日本の政治経済の中心地としての位置を今日まで維持していくこととなった。これはひとまず現実的な策ではあったろうが、明治政府の中央集権化とあいまって、その後の一極集中構造の元を作ったことも否めない。

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2015年3月29日 (日)

ピアノの政治経済学(連載最終回)

note6:電子時代とピアノ③

notesピアノのゆくえ
 マルクスは、「芸術の然るべき最盛期は、決して社会の一般的発展と歩調が合っていないし、従ってまた、物質的基礎の発展、言わば社会の組織の骨組みの発展とも歩調が合わない。」とし、芸術と社会経済発展との時間的なずれを指摘している。
 実際、ピアノという楽器は基本的には18世紀の前資本主義ないし初期資本主義時代の産物であるが、見てきたように、当初はマイナー楽器としてスタートし、その後多くの技術革新を経て、ついには電子ピアノの登場を見ることになった。
 とはいえ、電子時代にあっても、ピアノの中心はなお圧倒的に伝統のアナログ式ピアノであり、一般的にはアナログ式ピアノの職業的演奏家であるピアニストは全大陸に散在し、数的には歴史上最多を数える「大競争」時代を迎えている。マルクスの芸術法則どおり、近代楽器ピアノの最盛期は、ポスト近代の時代に後れてやってきた。
 時代はグローバル資本主義であり、商業主義が西洋古典芸能であるクラシック音楽の世界でも支配的となり、ピアノは楽器とその演奏(=視聴サービス)もろとも商品としての性格を濃厚にしている。
 一方で、西洋では若者のクラシック音楽離れも見られ、従来すぐれたピアニストを輩出してきた諸国の斜陽化と引き換えに、中国をはじめとする東アジアから国際的なピアニストが生まれる新現象も見られる。
 ジャンルの面では、ピアニストの多くがいわゆるクラシックを専門とするが、従来からのジャズに加え、クラシックとポピュラーのミックスされた領域も開拓されてきており、ジャンルの多様化も見られる。
 ピアノが特殊な普及を見せた日本では、高度成長期の「ピアノブーム」―筆者もそれに巻き込まれた―はひとまず終息し、今や家庭で埃をかぶって眠りについている中古ピアノの引き取りがビジネスとして成り立つ時代に入ったが、世界のピアノ生産拠点としての位置は変わっていない。
 ピアノという大衆普及楽器としてはいささか奇妙なほど大型の楽器が今後どうなるかの明確な予測は難しいが、現時点ではこの楽器がかつてのチェンバロのように古楽器として押しのけられるとの予測は成立し難い。
 現状、ピアノに取って代わり得るような新規の鍵盤楽器の開発は見られず、もし起こるとすれば、電子ピアノが伝統ピアノを押しのけていくというピアノ内部での新旧交代現象であろう。しかし、前回も述べたような電子ピアノの音響的な限界性が完全に克服されない限り、その可能性も低い。かくして、ピアノはマルクスの如上芸術法則を確証する好個の例であり続けるだろう。(連載終了)

2015年3月27日 (金)

ハイチとリベリア(連載第20回)

七 近代リベリアの建設

E・バークレー時代
 戦間期の1930年から史上初の軍事革命が起きた1980年までの半世紀は、リベリアにとって近代化の時期であった。この間に統治した大統領は三人だけであり、比較的頻繁に大統領が交代していたそれまでとは異なる様相を見せた。
 その長い安定期のスタートを切ったのは、エドウィン・バークレー大統領であった。彼は国際連盟による奴隷労働の批判を受けて辞任に追い込まれたキング前大統領の下で10年にわたり国務長官(外相)を務めたベテランの真正ホイッグ党政治家であり、キングの「本命」的な後継者と言えた。
 バークレー政権が最初に直面した危機は、世界恐慌であった。米系資本ファイアストン社が握っていたゴムの国際価格が暴落し、政府の財政収支は著しく悪化した。32年には、リベリアはついにモラトリアムを宣言し、国際連盟の支援を受けることになった。
 しかし、続く第二次世界大戦がリベリアに回復の手がかりを与えた。枢軸国側の日本軍がゴム産地のマレー半島を占領したことで、リベリアは連合国側にとって希少なゴム産地として、戦略的重要性を増したのだった。
 戦時中の42年にはアメリカとの間で防衛協定が締結され、アメリカの援助でインフラの整備が進められた。一方、大西洋をまたいで南米につながるリベリアは北アフリカ戦線向けの戦略物資供給ルートの拠点として利用され、リベリア国内に米軍の貯蔵庫や基地が設置された。
 翌43年にはローズベルト大統領のリベリア初訪問が実現し、答礼として同年バークレーが訪米し、アフリカ首脳として初めてアメリカ議会の賓客として演壇に立つなど、バークレー政権時代にはアメリカとの結びつきが改めて緊密となり、同年以降、通貨もドルに統一された。
 バークレーは第二次大戦終結間際の44年に退任したが、彼は14年間の在任中、対米関係を軸にリベリアの独立を守り、経済を回復させた点に功績があった。その際、彼の外相としての豊富な外交経験は支えとなったであろう。
 ちなみに、バークレーはすぐれたアマチュア音楽家・詩人でもあり、リベリアの愛国歌"The Lone Star Forever."(一つ星よ永遠に)を作曲するなど、芸術家としての一面を持つ異色の大統領でもあった。

2015年3月25日 (水)

新計画経済論(連載第8回)

第2章 ソ連式計画経済

(4)政策的問題点
pencilソ連経済は、大戦をはさんでスターリン政権時代に高度経済成長を遂げた。ソ連式計画経済の全盛期は独裁者スターリンの時代であったと言ってよい。その政策的な秘訣が、徹底した重工業及び軍需産業傾斜政策であった。
 ソ連では、マルクスが『資本論』の中で資本主義の分析に用いた生産財生産に係る第一部門と消費財生産に係る第二部門という産業区分を援用して、生産財(資本財)をAグループ財、消費財をBグループ財と区分したうえ―この分類自体大雑把すぎるが―、Aグループ財の生産を最優先したのであった。これに米国に対抗する軍事大国化を目指す先軍政治的な政策が加わり、軍需産業の成長が導かれた。
pencilこうした初期の成功の秘訣が、後期になると政策的な欠陥として発現してくる。傾斜政策の中で劣位に置かれた消費財生産は大衆の暮らしにとっては最重要部門であって、経済成長に見合った生活の豊かさを実現するうえで鍵となるはずであったが、ソ連では1953年のスターリン死後にようやくテコ入れが始まった。
 しかしこうした部門でも国営企業が生産主体となったため、西側でしばしば揶揄されたように靴まで国営工場で製造されるという状態で、品質も粗悪であった。そのうえ、前節でも述べたような計画の杜撰さによる需要‐供給のアンバランスや物資横領などの腐敗によって流通が停滞・混乱し、末端の国営商店での品薄状態が恒常化する結果となり、批判的論者によって「不足の経済」と命名されるまでになった。
 結局、ソ連経済の後期になると、良質な消費財は石油危機による石油価格高騰を利用して獲得した外貨を投入し、西側資本主義諸国からの輸入品で補充するほかなくなった。
 一方、傾斜政策のゆえにソ連経済の強みでもあったはずのAグループ財に関しても、計画経済は主として量的な拡大に重点を置いていたため技術革新が進まず、老朽化した工場設備が更新されないまま使用され続ける状態であり、生産効率も悪化していった。
pencilこうした結果、総体としてソ連経済は資本主義的な過剰生産状態には陥らなかったものの、傾斜政策による産業間のアンバランスと質的革新を軽視した量的拡大政策による生産性の低下という欠陥を内蔵させることになった
 ソ連は冷戦時代、ライバルの市場経済大国・米国に追いつき、追い越すことを目指していたが、結局のところ、どうにか米国と肩を並べることができたのは、核開発と宇宙開発に象徴される軍需産業分野だけであった。

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ソ連末期のゴルバチョフ「改革」は、市場経済原理の中途半端な政策的導入により、ソ連式計画経済の構造的欠陥を増悪させ、いっそう不足の経済に拍車をかけ、体制崩壊を早める契機となった。これは、ソ連式計画経済の模倣から始めつつ、ソ連よりいち早く市場経済化を大胆に進め、事実上計画経済と決別した中国との明暗を分けたポイントでもあった。

2015年3月24日 (火)

新計画経済論(連載第7回)

第2章 ソ連式計画経済

(3)構造的問題点
pencilソ連式計画経済は失敗した経済モデルであるということは、今日の定説となっている。しかし、それはソ連体制そのものが解体・消滅したことによる結果論的な定言命題であって、実際にどのような点でなぜ失敗したかの分析は十分に行われないまま、ソ連式計画経済の対照物とみなされる市場経済の正しさが論証抜きで絶対視されているのが実情である。
たしかに、ソ連式計画経済はソ連体制が存続していた時代からすでに行き詰っていた。その原因は、逆説的ではあるが、それが真の計画経済ではなかったという点にこそあった。
pencilソ連式計画経済は、「計画経済」というよりは、前回も見たとおり、激しい内戦からの戦後復興の過程で誕生し、政府主導の「経済目標」を基本とする一種の資本主義統制経済であった。それはスターリン政権下で戦後復興が一段落し、経済開発・高度成長を目指した本格的な「五か年計画」が始動しても、本質的に変わらなかった。
 貨幣経済も存置されたままであった。従って、末端の消費財は商品として国営商店で販売されていたし、計画供給の中核となる生産財についても市場取引的な要素が残されていたのだった。
 ソ連における生産活動の中心を担った国営企業間には競争原理が働かなかったということが定説であるが、実際のところ、複雑な計画策定手続きの過程で国営企業間に利益獲得競争があり、また個別企業は事実上の独立採算制を採り、1960年代の限定的な「経済改革」の結果、その傾向は増した。
 さらに労働は賃労働を基本とし、しかも―あらゆる資本家・経営者の理想である―出来高払い制が主流であり、マルクス的な意味での剰余価値の搾取は国営企業の形態内で厳然と残されていたのであった。表見上の低失業率にもかかわらず、実際は企業内に余剰人員を抱え、「社内失業者」が膨大であった。
 要するに、ソ連式計画経済は、典型的な市場経済とは異質であるとしても、市場経済的要素が混在した国家主導の混合経済的なシステムであり、レーニンが暫定的な体制と考えていた国家資本主義が理論的に検証されることなく遷延的に発達したものだったと言える。
pencil他方で、ソ連式国家資本主義の本質は統制経済であったからこそ、統制経済に付き物の闇経済が発現した。これが外部監査システムの欠如ともあいまって国営企業幹部の腐敗を誘発し、物資横領・横流しのルートを通じた闇経済が組織犯罪的な地下経済として社会に根を張ることになった。
 それでも中央計画が精確に行われていればより持続的な成功を収めた可能性はあるが、ゴスプラン主導の計画は現場軽視ゆえに不正確な経済情報に基づく杜撰な机上プランとなったため、その理念である「物質収支」自体が不首尾に終わり、需要‐供給のアンバランスが生じがちであった。そのためソ連経済に景気循環はないという公式説明にもかかわらず、資本主義の特徴である景気循環が存在した。
pencilかくして、ソ連式計画経済は構造上の本質的な欠陥を多々抱えていたために、真の計画経済としては成功しなかった。その大元を簡単にまとめれば、本来計画経済が適応できない貨幣経済に計画経済を無理に接木しようとしたことにあったと言えよう。
 ただ、公平を期して言えば、ソ連式計画経済もその初期には低開発状態のロシアを新興工業国家へと急速に浮上させる開発経済の手法としては相当な成功を収めた事実は指摘しておかねばならない。しかし、一定まで成長した後の持続可能性には欠けていたのである。その背景には、次節で論じる政策的な問題点も寄与していた。

2015年3月22日 (日)

ピアノの政治経済学(連載第18回)

note6:電子時代とピアノ②

notes電子ピアノの可能性
 「電化革命」以後の電機の発達が、ピアノそのものを電気で動かす言わば「電機ピアノ」の発明につながることは必然であった。そうした発明の初例は、電気ピアノ(エレクトリック・ピアノ)である。
 その嚆矢の一つは、三大ピアノメーカーの一つ、ベヒシュタインがジーメンス社と共同開発した電気グランドピアノ「ネオ・ベヒシュタイン」であった。発売年代は世界大恐慌が吹き荒れた1930年代のことであり、これは時を同じくして発達し始めた大衆軽音楽用に開発された楽器であった。
 第二次大戦後、アメリカのフェンダー社やヤマハが本格的な製造に乗り出した電気ピアノの人気は大衆音楽人気とともに高まり、70年代頃に頂点を迎えたと見られる。しかし間もなく、小型化され、より携行性に富んだシンセサイザーのような電子楽器に取って代わられ、電気ピアノはポピュラーの世界でも姿を消していく。
 一方で、コンピュータ技術の高度化により、電子回路を用いた電子ピアノ(デジタル・ピアノ)が登場してきた。これも広くは「電機ピアノ」の一種であるが、伝統ピアノと同様にハンマーの仕組みを持つ「電気ピアノ」とは異なり、「電子ピアノ」は音源自体を電子回路化している点で、まさにデジタル式のピアノである。
 電子ピアノは伝統ピアノとは異なり、軽量であり、演奏データの記録再生機能を備える機種も多く、調律も不要、音量調節により近隣騒音防止も期待できるなど、実用性の高さに定評ができつつあるが、演奏会用楽器としての普及は進んでいない。これは特に西洋古典芸能である保守的なクラシック音楽の世界では、依然としてアナログ機械の権化のような伝統ピアノの需要が圧倒的に高いからである。
 音楽的にも、電子ピアノは伝統ピアノほどの豊穣な音響がないとか、変音が画一的であるとか、電子的発音に伴う欠点が指摘され、現時点では伝統ピアノを凌駕するほどの優位性はないが、他の機器と同様、日進月歩の情報技術は電子ピアノの性能をさらに高度化させていくであろう。
 電子ピアノ製造は楽器製造であると同時に電機製造でもあるので、その開発・生産には伝統的な楽器メーカー以外からの参入もあり、楽器産業の編成にも変化を及ぼしている。目下、電子ピアノの領域でも日本は世界の生産拠点である。

2015年3月19日 (木)

イラクとシリア―混迷の近代史(6)

three 独立と混乱

night独立シリア共和国
 フランスの委任統治領とされていたシリアの独立は、難航した。独立交渉自体は1934年に始まったが、フランスは自国の国益を優先し、限定的な「独立」にとどめようと画策していた。これに対し、シリア側では後に大統領となるナショナリストのハーシム・アル‐アタッシーが指導する反対・抗議運動が盛り上がった。
 フランスに進歩派の左派人民戦線政府が成立すると独立交渉が進展を見せ、36年にはフランス‐シリア独立条約が締結されるが、ナチスドイツの成立がフランスに脅威となると再び情勢が変化し、結局、フランスは同条約を批准しなかった。こうしてシリアの独立は持ち越しとなり、英国から先行独立したイラクとは明暗を分けることとなった。
 その後も植民地政策に固執するフランスは45年にはダマスカスを爆撃、独立運動を弾圧するが、国際社会の圧力もあり、戦後の46年になって、ようやくシリアは独立を果たした。イラクと異なり、フランス流の共和国としての独立であったが、独立から間もなく始まる経済成長とは裏腹に、政治的には混乱が続いた。
 まず独立直後、少数派でフランス統治時代には固有の領邦を与えられていた宗教少数派アラウィー派が自治を求めて蜂起した(同派は52年にも再蜂起)。これが鎮圧されても、49年には独立後早くも最初の軍事クーデターが発生し、クワトリ初代大統領が政権を追われた。
 この49年クーデターは早期に収拾され、独立運動の古参指導者であるアタッシーが大統領となるが、長続きせず、51年には再び軍事クーデターに見舞われ、今度はクルド系のアディブ・シシャクリ大佐―彼は過去二度のクーデターいずれにも関わっていた―が政権に就く。
 傀儡大統領を擁立した軍事政権を経て、53年の形式的な選挙で大統領に就いたシシャクリは既成政党を禁止する一方で、社会主義に傾斜した比較的進歩的な官製政党を結成して独裁統治した。
 外交的には親英米の立場を採り、西側との良好な関係を保つとともに、汎アラブ主義・反イスラエルの立場をとった。一方、隣国のハーシム家イラク王国に対しては敵対的で、イラクとの連合を志向したアタッシーらとは鋭く対立した。
 だが、シシャクリ政権も長続きはせず、54年にはもう一つの宗教少数派ドゥルーズ派の反乱に続き、シシャクリ政権下で抑圧されていた共産党やバース党など左派系政党が関与するクーデターが起き、混乱が広がる中、シシャクリは辞任・亡命に追い込まれた。この後、58年にエジプトとの国家合同(アラブ連合共和国)が成るまで、アタッシーとクワトリの短命な復帰政権が順次続く政治循環に陥った。
 このように、独立シリア共和国では軍部の政治性が独立当初から強く、クーデターが頻発する一方で、自立志向の強い宗教少数派の反乱も絡み、政情不安が際立っていたのである。

2015年3月17日 (火)

関東通史―中心⇔辺境(14)

十五 「政東経西」の近世

 今日、首都東京を中心とする関東は、日本の政治経済、そして人口の大半が集中する「一極集中」の緩和が永遠の宿題となるほど偏向した中心地となっているが、このような現象は近代以降、それも主として第二次世界大戦後のことにすぎなかった。
 江戸幕府の体制は過去の二つの幕府と比べても強大な権限を幕府が掌握し、全国の領主大名を中央で統制しつつも、完全な中央集権制には移行せず、大名領地内では自治を認め、領地の経済開発も基本的に領主に委ねる封建的な分権体制を維持したため、大藩の藩庁所在地たる城下町はそれぞれの地域の小さな「首都」であった。
 江戸開府により江戸を中心とする関東が中心地としての地位を取り戻したとはいえ、それは政治的な中心にとどまり、経済的にはなお周縁的、良くて副次的な地位に甘んじていた。経済的な中心はなおも関西にあったのだった。
 大坂の有名な通称「天下の台所」は、まさに大坂が全国の経済的な屋台骨であったことを象徴している。堺を中心に従前から商業都市として繁栄していた大坂は江戸開府以前、豊臣氏が事実上の政治的な首都として拠ったこともあり、近世日本の政治経済的な中心地として急速な発展を遂げていた。
 大坂は、政治的な面では間もなく江戸に首都の地位を譲るが、経済首都としての地位は容易に譲らなかった。諸藩も大坂に藩の経済代表部である蔵屋敷を集中的に置き、年貢米や特産品の販売などの公営商業活動を盛んに展開した。
 もっとも、幕府もこうした経済都市大坂の枢要性は十分に承知していたからこそ、大坂城に拠った豊臣氏が日本の経済を掌握して強大化し、事実上半独立勢力と化すことのないよう早期に根絶したのであろう。
 幕府は豊臣氏滅亡後間もなく、大坂を幕府直轄地として忠実な譜代大名から任命される大坂城代を派遣し、大坂の市政に当たる大坂町奉行にも中央直轄で幕府の役人を送り込む徹底した中央管理下に置いた。
 こうして経済首都大坂も江戸の行政管理下に置かれていた限りでは、江戸が経済的にも全国の中心地と言えなくもなかったのであるが、実質的に見れば、近世日本は政治首都(江戸)と経済首都(大坂)が機能的に分かれており、言わば「政東経西」の状態にあったと言うほうが正確であろう。

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2015年3月14日 (土)

イラクとシリア―混迷の近代史(5)

スンナthree 独立と混乱

night独立イラク王国
 英国がハーシム家のファイサル(1世)を擁立して1921年に樹立したイラク王国は英国の保護国としてその間接支配下に置かれたが、30年に更新された新たな英国‐イラク条約で独立が取り決められ、32年、イラク王国は正式に独立した。
 とはいえ、英国は引き続き軍事基地を維持し、石油支配権を保持したため、独立は法形式上のものにすぎず、イラクを事実上の属国として操る体制に変わりなかった。
 親英的なファイサル1世は独立の翌年に急死し、長男のガージー1世が後継者となった。彼は父王とは異なり、強固なアラブ民族主義の立場を採り、反英的な姿勢を露わにしていた。宗派的にはイラクで劣勢なスンナ派の立場を鮮明にしたため、優勢なシーア派の反発と反乱を招いた。
 そうした政治的空気の下、36年には民族主義者バクル・シドキ将軍が近代アラブ世界初の軍事クーデターで実権を掌握した。ガージーはクーデターを追認したが、シドキは翌年暗殺され、ガージー自身も39年に自動車事故で急死する。この事故には不審な点もあり、親英派勢力の謀略説も取り沙汰された。
 代わって王位に就いたのは、ガージーの息子ファイサル2世であった。彼は58年の共和革命で殺害されるまで19年間にわたって在位したため、結果的にイラク王国では最も在位期間の長い王となった。
 しかし、わずか3歳で即位したファイサル2世は叔父で摂政のアブドゥル・イラーフに実権を握られ、成人してからも政治的には無関心・無気力で、国政上の影響力はなかった。不運なことに、この弱体な王の時代、イラクは国際情勢の大きな激動に飲み込まれることになる。
 まずは第二次世界大戦をめぐり、政権内部でなおも続く親英派と民族派の対立が、民族派の枢軸国接近という形で現れ、41年には親枢軸派のクーデターが成功する。しかし、英国はこれを容赦せず、軍事介入し、アングロ‐イラク戦争の末、再び英国が戦後の47年までイラクを占領した。
 戦後のイスラエル建国に際して、イラク王国はアラブ連盟の側で第一次中東戦争に参加するが、アラブの盟主格を目指すイラクの姿勢は他のアラブ諸国との軋轢を生み、連盟内で主導権を取ることに失敗、アラブ連盟は敗戦する。 
 一方、東西冷戦が本格化する中、43年以降王太子に就任していたアブドゥル・イラーフらを中心とする王国主流派は親英米・反共を旗印とし、55年にはバグダードに本部を置く反共中東同盟・中央条約機構を結成した。
 しかし、52年のエジプト共和革命は改めて軍内民族派に刺激を与え、共産党や民族主義左派バース党も浸透する中、ハーシム家イラク王国の終焉は一気に近づいていた。

2015年3月12日 (木)

ハイチとリベリア(連載第19回)

六 ハイチ占領とその後(続き)

親米軍事政権
 米軍のハイチ占領がもたらした“成果”として最も大きいものが、軍の近代化であった。それまでのハイチ軍は19世紀初頭の独立戦争の主力となった解放黒人奴隷らの民兵組織を前身とする旧式の軍隊であったが、アメリカは占領開始後間もない1916年、独立以来のハイチ軍を解体して治安維持を主任務とするハイチ憲兵隊を創設した。
 占領末期の28年にハイチ警備隊と改称されたこの組織は、占領統治の要として米軍の訓練を受け、ハイチ最大の親米勢力に成長していく。警備隊はレスコ政権を転覆した46年のクーデターで表舞台に登場し、政治的な実力も見せつけた。
 47年、エスティメ左派政権により正式に警備隊から改称されたハイチ軍は、早速50年には名付け親の政権を転覆した。このクーデターにアメリカが直接的に関与した証拠はないが、クーデターはアメリカの国益にも沿い、その暗黙の承認があったことは間違いない。
 50年クーデターを主導したのは、46年クーデター当時と同じ三人の高級将校であったが、50年クーデター後は、その中からマグロワール大佐が台頭し、実権を握った。彼は同年の大統領選挙に立候補し、軍とムラート層の支持を背景にほとんど無競争で当選し、形式上は民政に移行した。
 マグロワール政権は反共親米の立場を採ってアメリカの歓心を買い、ハイチにアメリカからの観光客を誘致するなどリゾート開発を志向した。自らも豪奢なパーティーやイベントを主催し、さながらハイチ版鹿鳴館政治であった。内政面では、野党指導者の投獄や言論統制など実質上は軍事政権の体質を露わにした。
 マグロワールはエスティメ政権時代に閉塞したムラートの利権を復活させたため、富の集中と政府腐敗が進行する中、54年にハイチに甚大な被害をもたらした大型ハリケーンの国際救援基金の横領が発覚すると、マグロワール政権への国民的支持は失われた。
 マグロワールが前任者らと同様、大統領任期延長を画策すると、再び反政府抗議行動が広がり、56年、彼は秩序回復を軍に託して辞任・亡命に追い込まれた。ハイチ政治恒例のパターンである。
 この後、翌年までは正式大統領が選出されないまま政治混乱が続くが、この間も軍が間接直接に介在していた。特に57年には、暫定大統領に選出されたハイチの有力労組指導者ダニエル・フィニョレをクーデターによりわずか19日間で放逐した。フィニョレは共産主義者ではなかったが、アメリカからは左翼として敵視されており、このクーデターには明確なアメリカの事前承認があった。
 こうして、アメリカが育成したハイチ軍は、この後間もなく始まる30年近いデュバリエ家独裁時代をはさみ、持て余したアメリカの介入で1990年代半ばに解体されるまで、意に沿わない文民政権をたびたびクーデターで転覆する強い政治力と利権を保ち、民主主義の定着を阻害し続ける存在となった。

2015年3月11日 (水)

新計画経済論(連載第6回)

第2章 ソ連式計画経済

(2)国家計画経済
pencil内戦後の戦後復興の過程で誕生したゴスプランを中心とするソ連式計画経済の性格は、多分にして統制経済に近いものであったと言える。それはまた、同時に国家による行政主導の計画経済であった。この点で、第1章で見た協同組合連合会の共同計画を基本とするマルクスの計画経済論からは外れていたのであった。
 もっとも、レーニンは最晩年の論文の一つの中で、社会主義をもって「文明化された協同組合員の体制」とするユートピア的定義を提出し、完全な協同組合化を「文化革命」と呼んで後世に託してもいるが、それは行程も定かでない遠い将来のこととして事実上棚上げされていたのである。
pencilこうした性格の下に始動したソ連式計画経済は、レーニン早世後、後継者の椅子を射止めたスターリンの指導下で基本的な骨格が形成される。その最初の業績は、1928年に始まる第一次五か年計画であった。これ以降、経済計画の基本年単位は5年に定められ、五か年計画がソ連式計画経済の代名詞となる。
 その計画策定は、「物質収支」という元来は化学の術語で呼ばれる技法に基づいていた。化学において物質収支とは、ある化学反応の系において、単位時間にその系に投入される物質の量と系から得られる物質の量との均衡を意味するが、計画経済にあっても、ある一定期間に投入される物財の量と生産される物財の量をバランスさせる技法とされる。それによって需要と供給とを均衡させ、市場経済にありがちな両者の不均衡から生じる不安定な景気循環を防止できるというのである。
pencil実際の計画策定は、支配政党たる共産党が国家を吸収・凌駕する形で党・国家が二元行政を展開するというソ連の政治制度を反映し、極めて複雑なプロセスで行われていた。特に共産党が国家を凌駕する存在であったソ連では、まず行政機関であるゴスプランの前に、共産党指導部が経済計画の基本方針を決定したうえ、それを連邦閣僚会議(内閣に相当)で詰めたうえ、ゴスプランに送付することになる。
 ゴスプランでの具体的なプラン策定は先の物質収支を考慮した計画経済の中心を成すが、それはゴスプランを舞台にした他の経済官庁や経済専門家などの意見を交えた合意として現れた。
 だが、これで終わりではない。ゴスプランが策定した計画の範囲内で、今度は各産業界を統括する経済官庁が個別の生産目標を策定したうえで、所管する国営企業へ通達する。個別企業はそれに基づき個々の生産計画を作成し、再び所管官庁を通じてゴスプランに戻され、計画の修正案が策定される。
 そうしてまとめられた最終計画案が再び閣僚会議及び共産党指導部に送付されたうえ、最後に国会に相当する最高会議で承認され、立法化される。こうしてようやく五か年計画が施行される。
pencilざっとこのような煩雑なプロセスを経て実施されるのがソ連式計画経済であったが、見てのとおり、官僚制的なセクショナリズムと上意下達の権威主義的なシステムによった行政主導の官僚主義的計画経済であって、これが一名「行政指令経済」と呼ばれたことには十分理由があった。

2015年3月 9日 (月)

関東通史―中心⇔辺境(13)

十四 近世の関東②

 史上初めて江戸を首都に定めた幕府が過去の二つの幕府と異なっていたのは、各地の大名を封建領主として安堵し、領内自治を保障しつつ、大名の布置を中央で人事異動的に統制する形で封建制と集権制とを使い分ける巧妙さにあった。
 結果として、北は北海道から南は鹿児島まで藩の数は300近くにも及び、その数は藩の随時統廃合により一定しなかったが、幕府の根幹地関東の大名布置状況を見ると、一見ランダムだが仔細に見れば巧妙な統治戦略が見えてくる。
 まず首都である江戸が幕府直轄都市となることは当然であったが、北関東では東北との境界を成す水戸に徳川一族の親藩を置いて幕末まで固定し、仙台の伊達氏をはじめ外様の大大名がひしめき、歴史的にも反中央の気風が強い東北地方に睨みを利かせた。
 また北関東では、栃木の喜連川藩に依然名望のあった足利将軍家縁戚の喜連川氏を事実上の大名格で幕末まで固定し、御所号まで許して敬遠する形で、本来徳川氏が地縁を持たなかった関東地方の支配の正当化に利用した。
 一方、東海・西日本方面への出口となる関東南部の小田原藩には徳川氏最古参の忠実な譜代大久保氏をほぼ固定し、関東防衛の要となる箱根関所の管理運営も委ねていた。また東海・西日本方面へのもう一つの出口とも言える甲府は、当初親藩領とされ、一時柳沢氏が功績から譜代に取り立てられ、入部した時期を経て、最終的に幕府直轄領(天領)として押さえた。
 こうして直轄首都江戸を中心に、関東の北と南の辺境を最も信頼できる身内ないし古参大名で固めるか、天領とする一方、首都圏は広い範囲を直轄領として治め、当初はやはり古参家臣の関東代官伊奈氏(旗本)に世襲管理させ、お家騒動による伊奈氏改易後は関東郡代を設置した。
 その他の周辺諸藩については固定せず、転封による入替を頻繁に行なった。例えば、武蔵国中央に位置し、江戸にも近く、「小江戸」の通称もあった川越を見ると、譜代の酒井氏(雅楽頭家)に始まり、幕末の譜代松井松平氏に至るまで、譜代や親藩を中心に七家が入れ替わりで藩主を務めている。
 これは天領外の首都圏地域にあっても、転封入替を繰り返し、たとえ身内であれ特定大名の土着支配を許さず、政権の中枢が置かれる関東の支配を確保する狙いによるものと考えられる。その後の歴史を見れば、この戦略は的中したと言えるであろう。

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2015年3月 8日 (日)

ピアノの政治経済学(連載第17回)

note6:電子時代とピアノ①

notes自動ピアノの盛衰
 キーを押すことで発音する鍵盤楽器は自動化という工学的アイデアと比較的マッチしやすいため、早くから自動化が試みられてきた。資本主義時代におけるピアノの産業的成功は、「未来のピアノ」自動ピアノの発明も促進した。
 最も早い自動ピアノは19世紀半ばに出ているが、自動ピアノの開発が本格化したのは、1870年代以降のことであった。特にアメリカ合衆国の建国100周年を記念して開催された1876年のフィラデルフィア万国博覧会では多くの自動ピアノが展示され、さながら自動ピアノ元年の様相を呈した。
 自動ピアノの需要が急速に生じたのは、ピアノの大衆的普及に伴い、演奏の複製への需要も高まったことがある。まだ録音技術がなかったため、一回的な生演奏に飽き足らず、同じ演奏を複数回聴くためには、自動演奏が可能な機械を必要としたのだった。
 電化革命を経て久しい現代では、自動といえば電化製品を想起するが、電化革命前夜の自動ピアノは非電動のバネ式や空気式であった。来たる電機の発明は、自動ピアノの性能も飛躍的に向上させるはずであった。
 ところが、自動ピアノの本格的な発明と時を同じくして、蓄音機が発明される。通説的な発明史では、発明王エジソンが実用化に成功した1877年が蓄音機の発明年とされる。当初の蓄音機は非電動であったが、エジソン自身も寄与した電機の発明によって、電気蓄音機が登場し、音楽の録音・再生技術が飛躍的に進歩していく。
 こうして複製芸術の時代が開幕し、レコードという新しいメディアが商業的に普及していくと、自動ピアノの需要は急速に衰えていった。とはいえ、現代の電子時代はコンピュータ技術と結びついた新たな自動ピアノの可能性に道を開いている。
 しかし、録音・再生技術のほうもCDからウォークマン、iPodといった携帯音楽プレーヤーの発明を経て進化し続けており、複製用としての自動ピアノの需要は回復しそうにない。一方、需要のほどは未知数だが、人工知能を内蔵した自動ピアノによって人間技ではなし得ないような高難度の技巧を要する楽曲の演奏が可能となるかもしれない。

2015年3月 5日 (木)

ハイチとリベリア(連載第18回)

六 ハイチ占領とその後(続き)

左派革新政権の挫折
 米軍の占領が終了した34年から第二次世界大戦をはさんで46年の軍事クーデターまでの期間は、バンサンとレスコという二人の文民大統領による権威主義的だが比較的安定した統治が行なわれた。これは、米軍占領下で一定程度進んだインフラ整備と米軍主導で近代的に再編された軍(47年までは警備隊)の支持によるところが大きかった。
 しかし、11年の長期政権を保ったバンサンに対し、レスコはいっそう独裁的性格を増し、国家予算の独占や政敵の弾圧など権力をほしいままにした。彼がハイチでも浸透してきたマルクス主義の雑誌記者らを投獄すると、46年1月、これに反発した学生や教師、労働者らの抗議行動が全土に広がる中、レスコは辞職・亡命に追い込まれた。
 代わって軍が選挙管理のための暫定政権(軍執行委員会)を設立し、同年5月の総選挙を経て8月、国民議会によりデュマルセ・エスティメが新大統領に選出される。貧困家庭出身のエスティメは米軍占領終了後では初の黒人系大統領となり、従来のムラート主体のエリート政治への対抗軸を打ち出した。
 当時のハイチは、米軍占領下で一定の成長を見せたとはいえ、その果実は混血系ムラートの少数支配層に集中し、大多数の黒人は貧困なままであった。そのため、エスティメ政権はハイチ史上初めて社会政策を全面に打ち出し、労働組合の育成や学校制度の拡充を矢継ぎ早に進めた。財源捻出のため、ハイチ史上初めて所得税を創設した。大多数が貧困なハイチの所得税は、実質上富裕税に等しく、主な課税対象はムラート層であった。
 エスティメは元来穏健左派であったが、エスティメ政権が左派色を鮮明にして、ハイチにおけるアメリカの経済権益を象徴する米国資本スタンダード・フルーツ社の国有化を打ち出したことは政権の命取りとなった。財政難の政府には国有企業を安定的に運営する能力はなく、48年に襲った干ばつが同社の主力であるバナナ栽培にとどめの打撃を加えた。
 水面下では、政権から排除されたムラートの不満が鬱積し始めていた。かれらは軍に接近していく。他方、エスティメ政権によって形成された新黒人エリート層の間では早くも汚職が広がり始めていた。
 エスティメがハイチの過去の為政者たちと同様に、任期延長のための憲法改正に手を着けようとしたとき、政権の命運が決まった。政情不安が高まる中、1950年、軍がクーデターに決起し、エスティメは政権を追われ、これまた恒例の亡命を余儀なくされたのであった。
 かくして、ハイチ史では異色の存在となったエスティメの左派革新政権は4年で挫折した。その要因として、クーデター前年に本格化した戦後冷戦を契機とする中南米の左派政権に対するアメリカの敵視政策もあっただろう。
 ハイチの50年クーデターにはアメリカが直接に関与した証拠はないが、明確なアメリカの直接関与の下、54年に同じ中米のグアテマラで発生した同様の左派政権転覆クーデターは、ハイチのクーデターと間接的にリンクしている。

2015年3月 3日 (火)

新計画経済論(連載第5回)

第2章 ソ連式計画経済

(1)曖昧な始まり
pencil従来、歴史上本格的かつ持続的に実践された計画経済は、唯一ソ連式計画経済だけであった。そのため、計画経済と言えば、特にことわりなくともソ連式計画経済を指すと言ってよい。
pencilそれほどに有名な経済政策ではあるが、実のところ、この政策は真に「計画経済」と呼ぶに値するか疑問のある出自を持つ。ソ連式計画経済は、そもそもその始まりが曖昧であった。
 ソ連式計画経済の指令機関である国家計画委員会(Gosplan:ゴスプラン)はロシア10月革命後の内戦・干渉戦が終結した直後、1921年2月に設立された。当然ながら、この時期、ソ連経済は戦乱によって破局的状態にあった。そうした戦後復興の切り札としてレーニン政権が打ち出したのが、いわゆる新経済政策(NEP:ネップ)であった。
 「新」と銘打たれているけれども、この政策は実際のところ、時限的に資本主義を復旧させて経済力の回復に充てるという趣旨であったから、共産主義を掲げる革命政権としてはあえて逆行的な施策を取り入れるレーニン流プラグマティズムの産物であった。
 とはいえ、全面的な市場経済化がなされたのではなく、市場化は手工業や農業分野を中心とし、外交貿易、重工業、通信・交通といった基幹分野は市場経済化から除外する混合経済政策ではあった。レーニンによれば、それは市場を野放しにするのではなく、国家が資本主義をコントロールする限りで、国家資本主義と呼ぶべき特殊な経済復興体制であった。
pencilそうした戦後復興期に、一方で計画経済の主力となるゴスプランが設立されたのであったが、当初、ゴスプランは諮問機関的なものにすぎず、ソ連の構成共和国ごとの経済計画の調整と連邦共通計画の作成という限定的なものにとどまったのである。
 このような経緯を見ると、ゴスプランは、あたかも第二次世界大戦後の日本で戦後復興を推進する指令機関として設立された経済安定本部を前身とし、2001年の行政機関統廃合まで存続した経済企画庁(経企庁)に類似している。
 資本主義を採る日本の経企庁は本格的な計画経済機関となることはなく、最終的には統計・分析機関となり、その役割を終えたわけだが、ソ連の場合は国家資本主義の産物として発祥したゴスプランが国家計画機関として以後増強されていくという違いはある。
pencilしかし、ソ連式計画経済はこのように戦後復興の過程で、国家資本主義という特殊な経済政策の産物として始まったという歴史的な事実には十分留意される必要がある。

clubMEMOclub
レーニン政権が最初に打ち出した戦後復興計画はゴエルロ・プランと呼ばれた電化計画であり、その計画を担ったのは、ゴスプランではなく、ゴスプランよりも一年早く設立されたゴエルロ(GOELRO)すなわちロシア国家電化委員会であった。レーニン政権は全土電化事業を戦後復興の土台とみなしており、当初はゴスプランもゴエルロの影に隠れていた。このゴエルロ・プランが後の五か年計画の原型になったとされている。

2015年3月 2日 (月)

関東通史―中心⇔辺境(12)

十三 近世の関東①

 関ヶ原の戦いに勝利した徳川家康は、織豊両氏とは異なり、仮冒の疑い強い源氏系新田氏流世良田氏の出自を称したため、源氏長者の名義で征夷大将軍に就任し、間接的に鎌倉・室町幕府の継承者として、室町幕府滅亡以来およそ30年ぶりに幕府体制を復活させた。
 しかし当時、源氏系足利将軍宗家は事実上断絶していたものの、最後の古河公方であった足利義氏の娘・氏姫の再婚相手となっていた喜連川頼氏(小弓公方・足利義明の孫)が存命しており、封建的な血筋論からすれば、彼こそが源氏長者にふさわしかった。
 家康もそのことは意識していたと見え、頼氏が関ヶ原の戦いには参戦せず、何の戦功も挙げていないにもかかわらず、足利氏の本貫にも近い栃木の喜連川に領地を安堵し、石高では旗本級ながら実質上大名格で処遇し(喜連川藩)、徳川氏と明確な主従関係も形成せずに、「御所」号すら容認したのであった。
 こうした厚遇には、古河公方滅亡後も関東地方に依然残されていた鎌倉公方足利氏の名声を、本来は東海地方出自の徳川氏による関東中心政権の正当化に利用しようとする狙いも込められていたのであろう。
 ところで、筆者の学校時代には、「江戸は、徳川幕府が置かれるまでは、辺境の漁村にすぎなかったが、徳川幕府の積極的な開発政策により首都として発展し、今日の東京の基礎を築くに至った」というのが通説であったと記憶するが、このような見方は、現在修正されている。
 専ら徳川氏の功業を強調する江戸発展史は徳川幕府の情宣によるところが大きいと考えられるのである。実際、江戸が何もない辺境地にすぎなければ、たとえ秀吉から領地として安堵されたものだとしても、本来は織豊両氏と同様、東海地方に本拠を持つ家康が江戸を自身の幕府の首府に定めたはずはなかろう。
 前にも述べたように、江戸は幕府開祖の家康が入部する以前、江戸氏による原初的な開発と江戸氏を駆逐した太田氏による江戸築城、それを引き継いだ上杉氏、さらに後北条氏の時代を通じて、関東の物流中継地の城下町として発展しつつあった。目ざとい家康はそうした新興都市江戸の将来性に目を付けたと思われるのである。彼の先見の明は、その後、武家政権としては最長の250年以上にわたる安定した支配体制の繁栄を保障したのであった。
 ちなみに、江戸の開発に先鞭をつけた江戸氏(平氏系秩父氏流)は江戸を追われた後、当時は江戸区域外であった現世田谷区喜多見に退去し、後北条氏家臣を経て、小田原征伐後は喜多見氏に改姓して徳川氏家臣となった。時代下って5代将軍綱吉の下、時の当主・喜多見重政(養子)は綱吉の側用人として重用され、一代で譜代大名に取り立てられ、喜多見藩を立藩するも、気骨ある側近であったらしい彼はたびたび将軍の意に反する進言をしたことから、将軍の不興を買い、わずか6年で改易、追放されている。
 この江戸=喜多見氏をはじめ、秩父氏系の一族は中世以来、河越(現埼玉県川越市)の河越氏や葛西氏、豊島氏、蒲田氏など、今日でも首都圏の地名として残る江戸周辺要地にも割拠し、原初的な開発を担ってきており、江戸を本拠に定めた徳川幕府による江戸とその周辺地域の開発も、そうした先行開発の基盤の上に発展せられたものと言える。

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2015年3月 1日 (日)

ピアノの政治経済学(連載第16回)

note5:資本主義とピアノ③

notes「才能」か「階級」か
 20世紀後半期におけるピアノの産業的成功は、ピアノの大量生産・大衆的普及と、習い事としてのピアノの隆盛、その結果としての職業的ピアニストの飛躍的な増大という現象を作り出し、21世紀に至っている。
 およそ西洋音楽を志望する者の間で、ピアニストは現在でも最も人気のある進路であるが、それはクラシックかポピュラーかを問わず、熾烈な競争が待つ世界である。特に伝統的なクラシック分野では、幼少期からの英才教育と大学レベルの音楽教育に加え、多くの場合、国際的コンクールでの優勝・上位入賞が登竜門となる。
 この点、ピアノ草創期と異なり、音楽家の養成がもはや世襲制でなくなり、見かけの能力制に変化した近代以降、商業的デビューの前提となる能力的選別の役割がコンクールに委ねられるようになっているため、「神童」として幼児期にデビューを果たす一部例外を除き、コンクール歴がピアニストの重要な能力証明として確立されている。
 このことはピアニストに限らず、他の西洋音楽家にも共通しているが、一見して資金をかけた能力開発によって誰でも職業音楽家になれるかのような幻想が生じ、特に子どもの習い事に熱心な保護者はそうした錯覚にとらわれやすい。
 しかし、実のところ、音楽的才能は開発される以上に、継承されるものである。これは、言わば西洋版古典芸能である西洋クラシック音楽では、社会的な法則である。現代でも多くのすぐれた音楽家は、アマチュアを含めた音楽家の両親を持つか、少なくとも広い意味での芸術的素養を持つ両親を持っている。
 このことは、必ずしも「天才論」が想定するような遺伝因子だけで説明し切れるものではなく、やはり音楽的素養が家庭的なバックグランドを通じて親から子へと継承される性質のものであることを示している。身分制階級社会を脱した現代では音楽家はもはや身分的・家系的に継承される職業ではないけれども、ブルジョワ大衆社会の現代において音楽家は芸能中産階級を形成しており、その階級内で継承されていく職業なのである。
 こうした隠れた階級法則を意識することなく、専ら親の野心から習い事として子にピアノを強制するようなことがあるとすれば、それは子の将来に悲劇をもたらす可能性があるということに留意する必要があるだろう。階級論はもはや過去の古典である、というような幻想に惑わされるべきではないのである。

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