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2015年2月17日 (火)

関東通史―中心⇔辺境(10)

十一 後北条氏の関東支配

 享徳の乱後の古河公方が支配する古河府は室町幕府から事実上独立した関東地方政権と化していくが、一方で内紛と分裂に見舞われた。特に第3代古河公方・足利高基とその弟の義明が対立し、義明が1517年に千葉の小弓〔おゆみ〕城を奪取して、ここに陣取り、小弓公方を称したことで、古河公方は分裂した。
 この分裂状態は20年以上に及び、最終的に高基の息子の第4代古河公方・足利晴氏が1538年、国府台にて小弓勢を破ってようやく終結した。
 この国府台合戦で晴氏を支援し決定的な役割を果たしたのが、北条氏綱であった。彼が属したいわゆる後北条氏は本来は桓武平氏系伊勢氏で、元の領地は備中(現岡山県井原市)にあり、関東とは無縁の一族であった。
 かれらが関東に進出したきっかけは、応仁の乱の後、氏綱の父早雲が駿河守護今川氏の家臣として駿河へ下向したことにあった。東国に拠点を移した早雲はその後、後北条氏の根拠となる小田原城を地元国人領主であった大森氏から奪取して、まずは相模の支配者として定着する。
 早雲の息子・氏綱は本来北条氏とは無関係であるにもかかわらず、滅亡後も関東ではなお名望を残していた鎌倉幕府の執権北条氏と同姓に改姓し、北条氏を名乗るようになっていたのであった。氏綱は形式上は後北条氏二代目とされるが、北条氏を名乗り、主家の今川氏からも独立し、自立的な戦国大名に躍進したのは氏綱の代からであった。
 国府台合戦で古河公方が支援を要請したのも、こうした氏綱の強勢に期待してのことであったが、氏綱はこれを武蔵・房総方面への勢力圏拡大に利用することをためらわなかった。彼は論功として晴氏から非公式に関東管領の地位を得るととともに、娘を晴氏に嫁がせて、古河公方家の姻戚となった。こうして古河府に深く食い込んだ氏綱はなし崩しに古河府を操縦するようになる。
 氏綱没後、正式の関東管領である山内上杉氏との対立・衝突が続くが、最終的には対武田氏防備の必要から上杉氏との間に同盟が成立し(1569年越相同盟)、氏綱の孫にあたる氏政の時、古河府は完全に後北条氏の統制に下る。最後の第5代古河公方・足利義氏の母は氏綱の娘であり、義氏は後北条氏の傀儡も同然であった。
 長男が早世した後、義氏が後継男子を残さず死去すると、後任の公方は空席のまま古河府は事実上消滅し、後北条氏の関東支配が名実共に確立された。かくして、後北条氏が豊臣氏に滅ばされるまでの関東は、本来西国武将である桓武平氏系大名の支配下で自立するといういささかねじれた立場に置かれるのであった。

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