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2015年2月

2015年2月28日 (土)

イラクとシリア―混迷の近代史(4)

two クルド人問題

 イラクとシリアの近代史を考える上で見落とせないのは、クルド人問題である。クルド人は、イラク・シリア近代史の影の主役である。元来、クルド人は非アラブ系(イラン系)のイスラーム勢力として、中世には十字軍戦争の英雄であるサラディンを輩出するなどしたが、彼が創始したアイユーブ朝も長続きしなかった。
 その後、16世紀以降のクルド人は大小無数の地方首長国に分裂して、半独立状態を保つが、統一国家を形成しないまま、19世紀にオスマン帝国(一部はイラン)に吸収されていった。オスマン帝国がイスラーム地域を包括支配する限りでは、クルド人も帝国臣民として「統一」されていたわけだが、そのオスマン帝国敗北の英仏分割統治は、クルド人居住地域を恣意的に分断する恐れがあった。

 これに対し、クルド人勢力も決起する。1919年、当時ドホーク県の知事職にあったマハムード・バルザニが反英蜂起のジハードを呼びかけたのだった。バルザニはクルド系有力部族の出身であると同時に、イラクに拠点のあったイスラーム神秘主義カーディリー教団の指導者でもあった。
 しかし、このクルド第一次蜂起に集まったのはわずか500人ほどであり、圧倒的な英軍の前に敗北、バルザニはいったん拘束された後、インドに追放された。残党はゲリラ戦で英軍を苦しめる。一方、トルコも領土回復に乗り出していた。
 こうした状況を見て、英国は22年、バルザニを呼び戻し、改めて英軍占領下の知事に任命するが、これが裏目となり、バルザニはこの機をとらえて、第二次蜂起に出る。今度は、自身を王とするクルディスタン王国の樹立を宣言し、政府や軍も発足させた。これは現イラク領であるスレイマニヤを首都とするクルド人初の近代国家となる可能性を秘めていたが、国際的に承認されないまま、24年には英国軍の反撃によりあえなく崩壊した。バルザニは山岳地帯に逃亡してなおも抵抗を続けるが、最終的には独立イラク王国と和平を結んで引退した。

 このようにして、クルド人独立への動きはたちまち英国によって武力で封じられたが、バルザニ蜂起はその後のクルド人の民族自決運動の出発点となり、そこからは後にイラクにおける最大のクルド人政党となるクルディスタン民主党創立者ムスタファ・バルザニも輩出する。
 クルド人の最大勢力は新生トルコ領域とイランに残ったが、それに次ぐ勢力が英国統治下のイラクとフランス統治下のシリアに分割編入されることになった。26年の国際連盟決定はイラクのクルド人に特別な権利を付与したが、形だけのものであった。

 ちなみに、いささか時代が飛ぶが、第二次世界大戦中の41年、ソ連軍のイラン侵攻という特殊状況で再びクルド人国家樹立の試みがイラン領内でなされる。これは当時、枢軸国のナチスドイツに接近していたイランの油田に対する英国権益の防衛と、同じく連合国側でナチスドイツと交戦していたソ連の補給線確保の利害が一致して起きたことであるが、その際に、ソ連軍の支援の下、戦後の46年にイラン北西部のマハーバードを首都にクルディスタン共和国が樹立されたのである。
 この時、ムスタファ・バルザニも共和国防衛大臣として政府に参加しているが、間もなくソ連軍が撤退すると、クルド人の分離独立を容赦しないイランが奪回に乗り出し、翌47年に共和国はわずか11か月で崩壊する。バルザニは58年のイラク帰国までソ連への亡命を余儀なくされる。

2015年2月27日 (金)

ハイチとリベリア(連載第17回)

六 ハイチ占領とその後

米軍占領下のハイチ
 米国権益の保護を口実とした1915年の米軍占領に対しては、当時アメリカとハイチ権益を争うライバルであったドイツの支援を受けた武装反乱も発生したが、米軍は海兵隊を中心とする強力な軍事力でこれを粉砕した。
 占領統治の基本は15年に締結されたハイチ‐アメリカ条約で規定され、これによると、向こう10年間にわたり、アメリカはハイチの安全保障及び経済に関する監督権を持つことになっていた。アメリカ政府代表団はハイチ政府のすべての決定に対して拒否権を留保し、海兵隊指揮官が各州行政官を務める一方で、地方政治はハイチ人の一定の自治に委ねるというもので、ハイチは保護国の状態に置かれた。
 最終的には34年まで延長される米軍占領下では、暫定を含めて計四人の大統領が就任したが、このうち最後のバンサンを除けば、当然アメリカの意を体する傀儡大統領であった。ただ、全員が弁護士や銀行家などの文民出身であり、外形上は文民政治の体裁がとられた。
 この間の占領統治は後の米軍による沖縄占領統治を思わせるものがあり、ハイチに駐在するアメリカ人はハイチ人に対し人種差別的で横暴な態度をとり、特に海兵隊員の暴力、レイプなどの犯罪行為も目立つようになっていった。それはハイチ恒例の地方農民の武装反乱を招いたが、これを米軍は武力で鎮圧した。
 22年、事態を憂慮したアメリカのハーディング政権は状況改善のため、ラッセル少将(後の海兵隊総司令官)をハイチ高等弁務官に任命した。一方、同年に就任したハイチ側のボルノ大統領は、ラッセルと協調しながら、30年まで二人三脚で財政再建やインフラ整備を通じてハイチの安定化に努めた。
 しかし、29年の世界大恐慌がアメリカのハイチ政策の転換点となる。時のフーバー政権はハイチ政策見直しを検討する委員会を立ち上げ、自由選挙の実施と米軍撤退を決定したのである。 
 その結果、12年ぶりに開かれた30年の議会で、占領統治に反対するナショナリストのバンサンが大統領に選出された。そして32年にはアメリカ側でも「善隣政策」を掲げるローズベルト政権に交代すると、33年の占領終了協定を経て、翌34年には海兵隊の撤退が完了し、19年に及んだ米軍占領統治が終了した。
 とはいえ、19年間の占領支配で蓄積されたアメリカの全般的影響力は決して消滅したわけではなく、占領終了後もハイチの政治経済の方向性を規定していくのである。

2015年2月25日 (水)

関東通史―中心⇔辺境(11)

十二 江戸開府まで

 後北条氏が関東を支配した時代は、ほぼ織豊政権の時代に相当する。この時代の特徴は幕府が存在しなかったことである。織豊両氏ともに、室町幕府の滅亡以来、権威を失っていた征夷大将軍の地位をあえて求めず、軍事力を背景に実質的な最高実力者として統治したのであった。
 そのため、この時期の日本の首都の位置はかなり曖昧であった。確かなことは織豊両氏ともに本貫は東海地方にあり、少なくとも関東を本拠に統治しようとする構想はなかったことである。中でも豊臣秀吉は関白に任官し、朝廷の政治機構に入り込む形で統治したため、大坂と京都を往来するような形で畿内を本拠にしていた。
 一方、後北条氏は小田原城を本拠に足利氏系古河公方の支配権を乗っ取り、関東支配を着実に拡大していくが、織田信長や新興の徳川家康にも対抗するだけの力はなく、二度にわたり同盟を結ぶも決裂した甲斐武田氏対策からも両者と結んで織田・徳川連合軍の甲州征伐にも協力している。
 とはいえ、信長横死の時点での後北条氏の版図は、本拠の相模を中心に西は伊豆から駿河の一部まで、東は武蔵、下総、上総北部から、上野、下野や常陸の一部にまで及ぶ総計250万石近い領域に及び、まさに関東の支配者であった。
 このまま順調に発展すれば、関東を基盤にして全国制覇もあり得る勢いであったが、西には織田氏を継いだ豊臣氏の強力な支配体制が形成されていた。後北条氏もさしあたり秀吉には家格維持と領地安堵を条件に表向き恭順の意思を示したが、時の当主・北条氏政の本心は違っていたようである。
 一方、関東を含む全国制覇を狙う秀吉も、後北条氏の関東支配をすんなり容認するつもりであったとは考え難く、両者の武力衝突は予定されていたものであった。
 1590年の有名な小田原征伐は通常、勝者の秀吉側が掲げた惣無事令違反という大義名分に立って「征伐」と呼ばれるが、実際のところは、「征服」と呼ぶにふさわしいものであった。その詳細な経緯にはなお未解明な部分も残されているが、秀吉が求めた氏政・氏直父子の上洛拒否(ないし引き延ばし)を反逆と決めつけた秀吉が軍を動員して小田原に攻め込み、後北条氏を降伏させたものであった。
 結局、氏政は切腹、氏直は助命のうえ高野山へ追放となり、後北条氏の関東支配はあっけなく終焉した。氏直は後に赦免され、一万石の小大名に封じられるも、間もなく死去した。後北条氏の領地は徳川家康に与えられ、小田原城にも徳川腹心の大久保氏が入城した。これにより、徳川氏の関東支配の基盤が築かれる。
 秀吉が朝鮮侵略の最中に道半ばで死去した後、後継者を決する関ヶ原の戦いを徳川勢が制して、江戸を本拠に幕府を開府すると、江戸が新たな日本の首都となり、ひいては江戸を中心とする関東が日本の政治経済上の中心地としての地位を鎌倉幕府滅亡以来およそ300年ぶりに回復するのである。

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2015年2月22日 (日)

ピアノの政治経済学(連載第15回)

note5:資本主義とピアノ②

notes近代日本とピアノ
 ピアノの産業的な成功を象徴する一つの好例は、近代日本におけるピアノの普及である。日本におけるピアノの産業的成功は、単に楽器自体の普及にとどまらず、ピアノの生産においても世界的な一大拠点となったことに示されている。
 周知のとおり、近世日本は長く鎖国下にあり、西洋音楽とは隔絶されていたが、日本にピアノが伝わったのは意外に早く、1823年にオランダ商館医として赴任してきたシーボルトが持参したのが第一号とされている。しかし現在でも山口の萩で保存されているこのピアノは英国製の旧式スクエアピアノで、当時は珍奇な舶来品にすぎず、近代ピアノが日本で普及するのは、他の西洋文物と同様、明治維新後となる。
 日本の場合、ピアノの普及は直接に生産から始まる。嚆矢はヤマハ創業者の山葉寅楠である。彼は元来機械修理工であったが、小学校のオルガンの修理をしたことがきっかけで、楽器製造の道に転身し、オルガン製造を経て、ピアノ製造も開始したのであった。とりわけ、山葉の弟子で養子の山葉直吉は日本初の本格的なピアノ製造技師となり、ヤマハのピアノ生産の基礎を築いた。
 教育面では日本初の国立音楽学校である東京音楽学校(現東京藝術大学音楽学部)が1887年に創立され、西洋音楽教育の拠点となった。それに伴いピアニストの養成も開始されるが、当初は一部少数のエリート教育の域にとどまっていた。
 日本におけるピアノの爆発的な普及は第二次世界大戦後のことである。これには戦後、ヤマハが生産活動を越え、幼児・児童向け音楽教室の開設を通じて教育面に進出したことも寄与しているであろう。それはピアノの内需を刺激して、生産拡大につなげる経営戦略でもあった。
 戦後の日本では、私立系音楽大学の創立も相次ぎ、その中でピアノ科は中心的な人気学科となり、多くのピアニストが育成されていった。特に高度成長期には、家計的な余裕の生まれた大衆子弟の習い事としてもピアノ人気が高まり、ピアノ教室が町に溢れるようになり、普及に拍車をかけた。
 結果、日本は非西洋圏では異例なほどピアノが普及した国として定着し、生産面でもヤマハはピアノ生産台数で世界一の楽器メーカーに躍進した。ヤマハから分かれた生産台数第二位の河合楽器と合わせると、世界の一位と二位を日本系資本が占め、伝統的に欧州系メーカーが優勢な演奏会用高級ピアノを除けば、ピアノ生産は日本が世界の拠点となっている。
 皮肉な見方をすれば、日本のピアノは、音楽的背景からではなく、日本をピアノの一大生産拠点に躍進させるという経済戦略から発展してきたとすら言えるのであり、まさに日本の資本主義的高度成長の象徴でもあったのだ。
 ちなみに、日本のピアノの特徴は「女子の習い事」として普及・定着してきたことである。前にも言及したように、リスト以降のピアノ曲は大柄な西洋人男性が演奏することを想定した高度な技巧を要するようになったため、「本場」の西洋のピアノは主に「男子の習い事」であり、伝統的に男性ピアニストが多いこととは対照的である。
 その理由を確定することは難しいが、おそらく戦前、ピアノがまだ大衆化される以前の時代にまず上流階級女子の習い事として普及していった歴史が戦後の大衆化の時代にも受け継がれ、余裕家庭の女子の間で広く普及していったことが影響していると考えられる。
 その結果、日本の有力ピアニストの多くが女性に偏るという西洋とは逆のジェンダーアンバランスが依然として続いているが、近年は日本人男性ピアニストの台頭も見られ、変化の兆しも見られる。

2015年2月21日 (土)

イラクとシリア―混迷の近代史(3)

one 英仏分割統治

 英仏は旧オスマン領土のシリア・イラク方面について、戦時中のサイクス・ピコ協定で分割統治を取り決めていたとはいえ、これはなお暫定的な秘密協定にすぎず、その具体化は第一次世界大戦終結後の1920年にイタリアのサンレモで開催されたサンレモ会議に持ち越された。
 同会議で、イラクとパレスティナは英国が押さえ、フランスがシリアとレバノンを押さえることが最終的に確認された。さらにフランスはイラク北部モスルの油田利権の25パーセントを得ることも合意された。
 サンレモ会議の合意事項は、さらに21年のカイロ会議で詰められた。ただ、モスルについては23年のトルコ革命後も新生トルコ共和国との間で領有権争いが続き、最終的に26年の国際連盟決定でイラクへの帰属が決定された。

 こうした列強主導の分割統治の策動に対しては、当然にもアラブ側の反発があった。その最初の動きはシリアに現れた。1920年、シリアのダマスカスで開催されたアラブ民族会議はアラブ反乱の指導者フサイン・イブン・アリーの三男ファイサル・イブン・フセインを君主とするシリア‐アラブ王国の樹立を宣言し、イラクについてもフサイン・イブン・アリーの次男アブドゥッラーを君主とする王国の樹立が宣言された。
 これを容認しないフランスとアラブ勢力側との間で武力衝突が起きる。このフランス‐シリア戦争は軍事力で圧倒するフランス側の勝利に終わり、シリア‐アラブ王国はわずか四か月で崩壊した。ファイサルはシリアを追放され、英国へ亡命した。このシリア‐アラブ王国は短命に終わったとはいえ、近代的なアラブ民族主義の最初の発現であった。

 同年には英国占領下のイラクでも反英大反乱が起きたため、アラブ民族主義が自国の勢力圏でも高揚することを懸念した英国は、亡命してきたファイサルを傀儡的なイラク王(ファイサル1世)に擁立する策に出た。一方、先にイラク王に推戴されていた兄のアブドゥッラーについては、委任統治領パレスティナのヨルダン川東部領域に彼を王とするトランスヨルダン王国(現ヨルダンの前身)の樹立を認めた。
 こうして成立した傀儡イラク王国を通じた英国委任統治領メソポタミアの間接支配の仕組みは、22年に締結された英国‐イラク条約で明確にされた。これによると、イラクの内政はイラク王国政府の自治に委ねるが、外交・軍事は英国が直担するというもので、保護国に近い扱いであった。条約には一部イラク人から強い反対もあったが、英国は反対派を弾圧し、24年に批准に漕ぎ着けた。
 この傀儡イラク王国時代の特筆すべき出来事は、27年のキルクーク大油田の発見であった。この発見は翌年28年のいわゆる「赤線協定」による国際的な石油利権カルテル体制の結成を経て、29年のイラク石油会社の設立につながった。
 同社は従前のトルコ石油会社から改称されたもので、英国系のアングロ‐ペルシャ石油会社(現ブリティッシュ石油)など欧米の大手石油資本が共同設立者となった多国籍独占企業体で、イラク人の権利は排除されていた。

 一方、おおむね今日のシリアとレバノンにまたがるフランス委任統治領シリアはイラクとは異なり、大レバノン邦、アラウィー邦、アレッポ邦、ダマスカス邦、ジャバル・ドゥルーズ邦の五つの領邦に細分化された。これはフランス‐シリア戦争を経験したフランスが、シリアの統合を阻むため、当時のシリア・レバノン高等弁務官アンリ・グーロー将軍の指導下で分断統治方式を採ったことによるものであった。
 このうち、アレッポ邦とダマスカス邦は24年に合併してシリア邦となり、翌年にはアレッポ邦に属したアレクサンドレッタ地区(後にトルコ編入)が特別行政区として分立したが、分断統治方針が採られたフランス委任統治領シリアでは独立後もレバノンとシリアの分離は固定されたうえ、それぞれの国でも宗派抗争や政情不安、内戦の元を作ったのである。

2015年2月19日 (木)

新計画経済論(連載第4回)

第1章 計画経済とは何か

(3)マルクスの計画経済論
pencil計画経済論というと、今日でもマルクス主義を連想させることが多いが、実際のところマルクスの経済理論の中には、本格的な計画経済論が見当たらない。彼の主著『資本論』に代表されるマルクス経済論の圧倒的中心は、資本主義経済体制の批判的解析に置かれていたからである。
pencilとはいえ、マルクスは間違いなく計画経済の支持者であった。そのことは、ごくわずかながらマルクスが残した片言から窺い知ることができる。例えば『資本論』第一巻筆頭の第一章に見える「社会的生活過程の、すなわち物質的生産過程の姿は、それが自由に社会化された人間の所産として、意識的・計画的な制御の下に置かれたとき、初めてその神秘のヴェールを脱ぐ」というひとことは、まさに計画経済の概略に言及したものである。
 もう少し具体化されたものとしては、晩年の論説『フランスの内乱』に見える「協同組合連合会が共同計画に従い全土的生産を調整し、もってかれら自身の制御下に置き、そうして資本主義的生産の宿命である不断の無政府状態と周期的な痙攣とを終息させるべきであるとするならば・・・・・それが共産主義以外の・・・・・何ものであろうか」という言述も、より明確に共産主義=計画経済に言及したものである。
pencilこの後者の言述で重要なことは、マルクスの想定していた計画経済は「協同組合連合会(の)共同計画」に基づくものだということである。この点で、ソ連式計画経済のような国家計画機関による経済計画に基づくいわゆる行政指令経済とは全く異なっている。
 元来マルクスは、共産主義社会をもって「合理的な共同計画に従って意識的に行動する、自由かつ平等な生産者たちの諸協同組合から成る一社会」と定義づけていた。マルクスはいわゆる国家廃絶論とは一線を画していたが(拙論『マルクス/レーニン小伝』第1部第4章(4)参照)、マルクスが想定する共産主義経済社会は国家行政機関が主導するものではなく、その基礎単位は協同組合企業であって、経済計画もまたそうした協同組合企業自身の自主的な「共同計画」として策定・実施される構想となるのである。
pencilそれでは、マルクス経済計画論では貨幣経済との関わりはどうとらえられていたか。これについてマルクスはいっそう明言を避けているが、やはり晩年の論文『ゴータ綱領批判』に見える「生産諸手段の共有を基礎とする協同組合的な社会の内部では、生産者たちはかれらの生産物を交換しない」という言述からして、交換経済の現代的形態である貨幣経済は予定されていないと考えられる。
pencilかくしてマルクス計画経済論の概略は非国家的かつ非貨幣経済的とまとめることができるが、それはマルクス主義を公称したソ連式の国家的かつ貨幣経済的な計画経済政策とはむしろ対立的なものだとさえ言えるであろう。

clubMEMOclub
ソ連がマルクスとレーニンをつなげて「マルクス‐レーニン主義」という体制教義を標榜していたため、ソ連の旧制はすべてマルクスに淵源があり、従って、旧ソ連の失敗はマルクス理論の失敗を意味するという三段論法的な評価が世界的に定着することとなってしまった。
しかし、国家計画委員会をはじめとするソ連の旧制はすべてレーニンとスターリンの時代に設計されたものであって、本来はマルクスと切り離して「レーニン‐スターリン主義」と呼ぶほうが正確である。計画経済を新たに構想するに当たっては、マルクスとソ連とを直結させない思考法が特に必要である。

2015年2月17日 (火)

関東通史―中心⇔辺境(10)

十一 後北条氏の関東支配

 享徳の乱後の古河公方が支配する古河府は室町幕府から事実上独立した関東地方政権と化していくが、一方で内紛と分裂に見舞われた。特に第3代古河公方・足利高基とその弟の義明が対立し、義明が1517年に千葉の小弓〔おゆみ〕城を奪取して、ここに陣取り、小弓公方を称したことで、古河公方は分裂した。
 この分裂状態は20年以上に及び、最終的に高基の息子の第4代古河公方・足利晴氏が1538年、国府台にて小弓勢を破ってようやく終結した。
 この国府台合戦で晴氏を支援し決定的な役割を果たしたのが、北条氏綱であった。彼が属したいわゆる後北条氏は本来は桓武平氏系伊勢氏で、元の領地は備中(現岡山県井原市)にあり、関東とは無縁の一族であった。
 かれらが関東に進出したきっかけは、応仁の乱の後、氏綱の父早雲が駿河守護今川氏の家臣として駿河へ下向したことにあった。東国に拠点を移した早雲はその後、後北条氏の根拠となる小田原城を地元国人領主であった大森氏から奪取して、まずは相模の支配者として定着する。
 早雲の息子・氏綱は本来北条氏とは無関係であるにもかかわらず、滅亡後も関東ではなお名望を残していた鎌倉幕府の執権北条氏と同姓に改姓し、北条氏を名乗るようになっていたのであった。氏綱は形式上は後北条氏二代目とされるが、北条氏を名乗り、主家の今川氏からも独立し、自立的な戦国大名に躍進したのは氏綱の代からであった。
 国府台合戦で古河公方が支援を要請したのも、こうした氏綱の強勢に期待してのことであったが、氏綱はこれを武蔵・房総方面への勢力圏拡大に利用することをためらわなかった。彼は論功として晴氏から非公式に関東管領の地位を得るととともに、娘を晴氏に嫁がせて、古河公方家の姻戚となった。こうして古河府に深く食い込んだ氏綱はなし崩しに古河府を操縦するようになる。
 氏綱没後、正式の関東管領である山内上杉氏との対立・衝突が続くが、最終的には対武田氏防備の必要から上杉氏との間に同盟が成立し(1569年越相同盟)、氏綱の孫にあたる氏政の時、古河府は完全に後北条氏の統制に下る。最後の第5代古河公方・足利義氏の母は氏綱の娘であり、義氏は後北条氏の傀儡も同然であった。
 長男が早世した後、義氏が後継男子を残さず死去すると、後任の公方は空席のまま古河府は事実上消滅し、後北条氏の関東支配が名実共に確立された。かくして、後北条氏が豊臣氏に滅ばされるまでの関東は、本来西国武将である桓武平氏系大名の支配下で自立するといういささかねじれた立場に置かれるのであった。

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2015年2月15日 (日)

ピアノの政治経済学(連載第14回)

note5:資本主義とピアノ①

notes産業的成功
 20世紀に入ると、ピアノはその発祥地ヨーロッパや飛び地の北アメリカを越えて、アジアを含む全大陸へ普及していく。普及の度合いでライバルと言えるのはギターであるが、ギターは中型の携帯弦楽器であるのに対し、ピアノのような携帯不能な大型鍵盤楽器が文化圏を越えてこれほど広く普及したのは稀有のことであった。
 このようなことが可能になった社会的な背景として、資本主義経済の発展がある。楽器生産は本質的に驕奢品である楽器という物の性質上、長く職人的手工業生産が続けられてきたが(現在でも)、ピアノはその技術改良の過程で機構が複雑化し、一種の機械となった―「楽器」ならぬ「楽機」―ことで、資本主義的な工場生産の対象に入ってきたのである。
 他方で、資本主義社会の進展により、ブルジョワ階級の層が厚くなると、ブルジョワ階級子弟の習い事としてのピアノの人気が高まり、ピアノに対する需要も上昇していったため、ピアノのような大型楽器が商品経済のシステムにも乗るようになった。
 同時に、資本主義は文化芸術の興行を専業とする文化産業資本という新しい分野も発展させた。19世紀末以降に確立されてきた職業的ピアニストは、もはや王侯貴族の庇護を受けるのではなく、音楽興行企業と契約することによって、大衆の面前での演奏活動を通じて報酬を得るシステムも確立されていく。
 ただし、生産や興行とは別に、ピアノ教育に関しては、前回も触れたように、国家が計画的に文化事業に投資した社会主義時代のソ連や、同様の体制を取ってその同盟国となった東欧諸国が優位性を発揮するようになる。
 冷戦期には、ソ連・東欧圏のピアニストたちの西側での演奏活動は厳しく制約されていたが、冷戦の雪解けを経ると、かれらも国家の統制的なスポンサーシップの下に日本を含む西側諸国でも興行的演奏活動を行うようになり、その実力が広く知られるようになった。
 音楽の興行化は、新たに大衆音楽というジャンルを開拓した。大衆音楽とは、各民族・部族間で継承されてきた伝統的な民俗音楽とも異なり、最初から商業的にスポンサーされた大衆向け音楽であって、言わば西欧の民俗音楽であったいわゆるクラシック音楽からは分離されて、独自に発展していく。
 演奏しやすく、単独楽器としては極めてポリフォニックな特性を備えたピアノは大衆音楽の分野にも普及し、ジャズピアニストのような新しい大衆音楽専門のピアニストを産み出し、ピアニストの多様化・分業化を押し進めた。
 このように、音楽のジャンルを越えた超域的な汎用性という点でも、ピアノはギターと肩を並べる際立った存在である。総じて、ピアノは資本主義的な工業/興行化という時代の新たな流れに最もよく適応し、産業的に成功した楽器となった。

2015年2月14日 (土)

イラクとシリア―混迷の近代史(2)

zero オスマン帝国崩壊

 イラクとシリアはイスラーム化以前はもちろん、以後も各々固有の歴史を持つが、オスマン帝国の全盛期であった16世紀から17世紀にかけて相次いでオスマン領土に編入されたことで、形式上は一つの「国」となった(地方行政区分は別)。そのため、それ以降は並行的な歴史を歩むことになる。
 そうしたイラクとシリアの近代史は、共にオスマン帝国の支配から解放された1917年をもって始まるとみなし得るが、オスマン帝国もその晩期には体制延命策として一定の近代化改革を進めていたので、その限りでは両国の近代史の始まりをもう少し早く取ることもできる。ただ、トルコを本拠地とするオスマン帝国にとって、イラクとシリアは周縁であり、近代化改革の中心地ではなかった。

 末期のオスマン帝国は図らずもヨーロッパの戦争である第一次世界大戦にドイツ側で巻き込まれ、当事国となり、敗北した。その内部的な要因の一つとして、フサイン・イブン・アリーが指導した「アラブの反乱」があった。
 現ヨルダン王室の祖でもあるフサイン・イブン・アリーは、預言者ムハンマドも属し、代々聖地メッカを含むヒジャーズ地方の宗教指導者兼統治者を世襲してきたハーシム家の当主であり、オスマン帝国からもその地位を認証されていた権威あるアラブ人指導者であった。
 しかし、末期のオスマン帝国は体制延命のため、折から高まるアラブ民族主義を抑圧していた。オスマン帝国が戦勝すれば、自らの地位も脅かされることを恐れたフサインと、アラブ人勢力を利用してオスマン帝国を分裂させることを画策していた英国の利害が一致した。

 その同床異夢の合作的産物が、1915年にフサインと英国外交官ヘンリー・マクマホンとの間で取り交わされた「フサイン‐マクマホン協定」である。これによると、英国はアラブ人勢力の反乱を支援し、オスマン帝国領内のアラブ人地域の独立を容認するとされた。
 この「協定」は国家間の正式な条約ではなく、個人的な往復書簡の形をとるに過ぎず、その法的効力は疑わしいものだったが、近代的な外交交渉に不慣れなフサインは、この協定によりイラク・シリア・サウジアラビアにまたがる包括的な「大アラブ王国」の建設が承認されたものと拡大解釈した。そしてアラブの部族勢力を結集し、連合国側の支援を得て、1916年には「独立」を勝ち取ったかに見えた。

 ところが、英国側では「大アラブ王国」の建設など認めるつもりはなく、連合国の英仏露主要三国は大戦中の1916年に「サイクス‐ピコ協定」を結び、中東の三国分割を密約していた。翌年のロシア革命後に、権力を掌握したレーニン政権によって暴露された同協定によれば、現在のイラクの大部分は英国が、イラクの北部モスルとシリア方面はフランスが支配する取り決めとなっていた。
 1917年にイラクとシリアが相次いで連合国軍によって落とされると、同地域は英仏合同の「占領敵地統治機構」によって占領されたのであった。結局、フサインは旧来の根拠地であるヒジャーズのみを支配領域とする地方的な「ヒジャーズ王国」の王に納まるにとどまった。

 それでもフサインは「アラブ人の王」を称し、最終的にオスマン帝国が共和革命により崩壊した後の1924年にはそれまでオスマン皇帝に継承されていた「カリフ」への就任を一方的に宣言したが、アラブ世界では必ずしも受け入れられず、かえって対抗勢力であるサウード家(現サウジアラビア王室)との敵対関係を強めた。
 しかし、自らカリフを称したフサインの「大アラブ王国」構想は、ある意味では同様に包括的なカリフ国家の建設を狙うとされる現代の「イスラーム国」の構想に重なるところがある。従って、かれらがほぼサイクス‐ピコ協定の線に沿っている現在のイラク・シリアの国境線を敵視し、その変更を強調・宣伝することには一定の理由があるのである。

2015年2月13日 (金)

ハイチとリベリア(連載第16回)

五 リベリア寡頭支配の確立(続き)

第一次世界大戦を越えて
 内憂外患を抱えて20世紀に入ったリベリアにとって一つの転機となるのは、時のアーサー・バークレー政権下で、後の国軍の前身となるリベリア国境警備隊が創設されたことである。これは、建国以来、初の自前の正規武装組織であった。
 とはいえ、発足当初の国境警備隊は以前から存在した民兵組織を母体とする兵員500人足らずの小規模な組織で、主要任務はまさに国境警備と国内の治安維持であった。それでも、慢性的な財政難の中、ようやく準国軍組織を創設したことで、独立国家の体裁が整い、1912年以降、アメリカも顧問の黒人将官を派遣して支援するようになった。
 そうした中、1915年には長くアメリコ・ライベリアンの支配に抵抗してきた先住クル族が英国を支持し、シエラレオーネへの併合を求める大規模な反乱を起こしたが、政府はアメリカ海軍の支援を受けて武力鎮圧した。
 対外的には、折から始まった第一次世界大戦に際し、時のハワード政権は中立を維持しようとしたが、アメリカとのつながりから、結局は連合国側に立たざるを得ず、ドイツに宣戦布告した。実は、この頃、ドイツはリベリアの重要な貿易相手国となっており、ドイツとの敵対による関税収入の途絶はリベリア財政にいっそうの打撃となった。
 戦後、リベリアは同じ黒人国家ハイチとともに国際連盟の原加盟国として参加し、晴れて国際的にも認知される国家となったが、一方で連盟からはリベリアが先住民を奴隷や底辺労働者として組織的に強制徴用していると非難されたことを契機に、時のキング大統領が辞任に追い込まれるなど、黒人が黒人を差別するというアフリカでも特異な人種差別体制が露呈することとなった。
 他方、戦後、主要産品であるゴムの国際価格の下落に直面したため、キング政権下の26年には、財政援助を見返りに、アメリカの大手ゴム資本ファイアストン社と99年間に及ぶゴム農園の貸借契約を結んだ。これは当時世界最大規模のゴム・プランテーションであった。こうして、第一次世界大戦後のリベリアでは、ハイチ同様に、アメリカ資本の支配も強まるのであった。

2015年2月11日 (水)

新計画経済論(連載第3回)

第1章 計画経済とは何か

(2)計画経済と交換経済
pencil市場経済とは市場という交換の場を中心に回っていく経済体制であるので、市場経済は交換経済である。特に現代の交換経済では、貨幣という媒介商品を手段として交換取引が連鎖的に成立していくから、市場経済は貨幣経済と実質上同義とみなしてもよい。
 ただ、理論上は経済運営が市場メカニズムによるか経済計画によるかという問題と、交換取引の媒介手段が貨幣によるかどうかという問題は別次元の問題であり、計画経済と貨幣経済を両立させることは可能とみなされている。そのため、実際、かつてのソ連式計画経済も貨幣経済下で行われていた。
pencilしかし、観念のレベルを離れて経済運営の実践問題として見たとき、貨幣交換を中心として回っていく貨幣経済と計画経済は調和しない。貨幣経済は貨幣交換の連鎖で成り立っているが、それは需要と供給の成り行きに依存しており、多分にして投機的な要素を持つ。マルクスの言葉によれば、それは「市場価格の晴雨計的変動によって知覚される商品生産者たちの無規律な恣意」によって動いていくものであるから、事前の計画によっては制御不能なものである。
 そうした貨幣経済を計画経済に適応化させようとすれば、それは公的機関、特に政府による価格統制という技術によらざるを得ない。理論上は、経済情勢と需要・供給の事前予測に基づいて公的機関が適正な価格を設定することは可能とされるが、実際のところ投機的な貨幣交換を完全に制御することは不可能であり、旧ソ連を含め、価格統制政策に成功した例がないのは必然と言える。
 してみると、計画経済は本来的に貨幣経済の外にあるとみなしてよさそうである。これを貨幣の側から考えてみると、本来アナーキーな本質を持つ貨幣経済は真の意味での経済計画とは相容れないということになる。
pencilこの理をより根本に遡って考えると、計画経済とはそもそも非交換経済であると言い切ってもよいだろう。貨幣交換か物々交換かを問わず、およそ交換をしない。それが純粋の計画経済である。少しでも交換経済の要素が残るなら、それは真の計画経済とは言えない。
 市場とはすなわち交換の場であるから非交換経済は非市場経済でもあるが、そうであってはじめて計画が必要的となる。なぜなら、非交換=非市場経済では、経済運営の規範的指針となる計画なかりせば物やサービスが円滑に生産・分配されていかないからである。
 まとめれば、純然たる計画経済はまずもって非交換経済であって、それゆえにまた非貨幣経済でもあるということになろう。そう見れば、貨幣経済下で行われていたソ連式計画経済がなぜ交換経済的要素を排除し切れず、計画経済としては規律を欠いた中途半端なものに終始したかも理解されるのである。

2015年2月10日 (火)

関東通史―中心⇔辺境(9)

十 古河公方の「独立」

 京都の室町幕府と鎌倉府が並立する「東西幕府」体制は、第4代鎌倉公方・足利持氏が幕府の権威を背景に鎌倉府をもしのぐ実力を備えるに至った関東管領・上杉氏及び室町幕府と対立・敗北し(永享の乱)、鎌倉府がいったん廃止されたことで止揚されたかに見えた。
 しかし、幕府が持氏の息子成氏〔しげうじ〕に鎌倉府の再興を許したことが裏目に出た。第5代鎌倉公方・足利成氏が1455年以降、再び上杉氏及び室町幕府と武力衝突した享徳の乱を機に、本格的な東西分裂体制へ移行する。
 成氏は、乱勃発の年に茨城の古河〔こが〕に入り、幕府軍の攻撃で本拠の鎌倉が陥落すると、そのまま古河を本拠地とし、事実上鎌倉府の機能を古河へ移転したのであった。
 享徳の乱は最終的に幕府との間に和睦が成立するまで30年近くも続く関東を舞台とした事実上の東西内戦であった。成氏は配下の忠実な関東武士団を従えてこの長期戦を耐え抜き、1483年、実質勝利に近い和睦を導いた。
 この和睦は「都鄙合体」と称され、表向きは関東の再統合を謳っていたが、成氏は鎌倉に復帰せず、乱の間に新たな基盤を固めていた古河にとどまり、実質上古河府と呼ぶべき統治機構を構築していた。以後、成氏の子孫が古河公方を継承していき、関東における事実上の独立地方政権化していく。
 現在の古河市は栃木県と埼玉県とにはさまれた人口14万人ほどの地方都市であり、一時的とはいえこの地が関東の「首都」だったとはにわかに信じ難いが、成氏がここに拠点を移したことには理由があった。
 最も大きいのは、かねてより鎌倉公方の領地である御料所が鎌倉周辺とともに、古河を中心地とする下河辺荘にあり、ここに鎌倉公方配下の有力武将らの本拠もあったことである。古河は利根川をはじめとする関東の基幹水系が集まる場所でもあり、陸上交通が未発達な時代に枢要な交通手段であった水上交通の要所であったことから、この地に鎌倉公方家が領地を有したことには、経済的な理由もあったであろう。
 ちなみに、後世日本の首都へと飛躍する江戸もこの頃、新興都市として発展を始めていた。江戸は元来、坂東平氏系秩父氏から出た江戸氏の本拠地として、開発が始まった。江戸氏もまた鎌倉公方に仕えたが、関東管領上杉氏の一族扇谷上杉家の家宰であった太田道灌に追われ、本拠地を喜多見(現東京都世田谷区)に移した。
 道灌は江戸氏居館跡に江戸城を築城するが、享徳の乱で上杉・幕府方についていた太田氏が戦略上築いたものであった。以後、江戸は関東における物流の中継地として発展し始め、1486年の道灌暗殺後も主家上杉氏が引き継いで、後の繁栄の基礎を築いていった。
 ただ、さしあたり江戸は未来に向けて発展途上の都市であり、しばらくは足利氏が根拠地とする古河が関東の「首都」として東の政治・経済・文化全般をリードする体制が続いていくであろう。

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2015年2月 8日 (日)

イラクとシリア―混迷の近代史(1)

序説

 21世紀の幕開けとなった9・11事件以後、開始された「テロとの戦い」が「「イスラーム国」との戦い」に拡大しようとしている現在、主戦場はアフガニスタンというイスラーム世界ではどちらかと言えば辺境の地からイラクとシリアというイスラームの本場に移ってきている。
 そこで、改めてこの隣接し合う両国への注目が高まっているが、問題はどこに注目するかである。表面的な宗派・民族対立といった点に注目するだけでは全く不足である。一方で、「文明の衝突」テーゼに従って、両国をキリスト教vsイスラーム教の最終決戦の戦場とみなすのは、ゲーム的発想―元となる「文明の衝突」テーゼ自体ゲーム的だが―に過ぎよう。
 現在のような事態を招いた要因は、両国がたどった近代史の中に見出される。両国の近代史はともにオスマン・トルコの長い支配から解放された1917年に始まると言ってよいが、その「解放」は中東で覇権を競い合う英仏を中心とした西欧帝国主義国の分割支配を意味する運命にあった。
 そこからさらに独立後、紆余曲折を経て現在に至るまで、ほぼ百年にわたる近代の歩みがあるが、それは混迷と呼ぶにふさわしいプロセスであった。そして今また、大きな曲がり角に来ている。今度はあろうことか、中世カリフ国家の復活を呼号する勢力によって制覇されようとしているのだ。
 対する米欧は、これまた中世の十字軍を思わせる「有志連合」を結成してカリフ国家の軍事的な壊滅を目指しているが、かれらの思考には問題地域の近代史に対する洞察が欠けている。かれらの究極的な狙いは、両国に「親米欧」の政権を建てて、自国資本の進出先として確保しようという点にあることは隠しようがない。そうした歴史無視の目先利益のみを優先させることこそ、イラクとシリアに混迷をもたらした帝国主義列強的発想と同一の思考にほかならない
 そのような旧態思考のまま、たとえ「イスラーム国」の壊滅にいったんは成功したとしても、根本的な解決とはならず、第二、第三の「イスラーム国」の出現を防げない。その意味で、「イスラーム国」とは現在米欧が相手取っている集団の固有名詞ではなく、将来の同種集団を含めた一般名詞ととらえなければならない。
 しかし、米欧が歴史を無視することには理由がある。それはひとたび歴史に立ち返れば、「歴史認識」問題に直面するからである。「歴史認識」は、東アジアでも国際的不和・緊張の要因となっているが、ここでは今のところ、口舌による非難合戦で済んでいるのに対し、中東では激しい戦火を交えることになる。
 件の「イスラーム国」は、その残虐性や狂信性ばかりが強調されるが、一つの歴史認識とそれに基づく地政学的主張を携えている点が、単なる「テロ集団」とは異なる点である。すなわち、帝国主義列強が引いた国境線を否定し、カリフが指導する新たな領域国家を作り直すというのである。
 たしかに、イラクとシリア、中でもイラクの悲劇は「国境線の悲劇」でもあるので、かれらの主張には一理ある。ただ、一説によれば、「イスラーム国」は少なくとも中東イスラーム圏全域の包括的支配を目指しているとも言われるので、そうだとすると、それはほとんど旧オスマン帝国の支配領土と一致し、オスマン帝国の復活―今度はトルコ人でなく、アラブ人主導で―に近い野望を抱いていることになる。
 そうした“帝国”構想の現実性はさておき、さしあたり「イスラーム国」が掌握しようとしているイラクとシリアの近代史を批判的に概観することは、現在の問題の解決の糸口をつかむ上で、最低限必要なことである。
 もとより、筆者は中東史の専門家ではなく、近代史の専門家ですらないので、教科書的な「解説」は本連載の目的とするところではないが、筆者の他の連載と同様、専門家的な部分思考ではとらえきれない総合的な視座を提示することは可能ではないかと考えている。

2015年2月 7日 (土)

ハイチとリベリア(連載第15回)

五 リベリア寡頭支配の確立(続き)

ホイッグ党の支配
 遅れて結党された真正ホイッグ党(以下、単にホイッグ党という)は1878年に就任したガーディナー大統領を皮切りに、以後、1980年までおよそ一世紀にわたって計12人の大統領を出し続け、事実上の一党支配体制を確立する。従って、近代リベリアはこのホイッグ支配体制下で築かれたと言える。
 ただ、ホイッグ支配の初期、すなわち19世紀末から世紀をまたいで第一次世界大戦にかけての時期におけるリベリアは内憂外患の苦境に直面する。同時期は西欧列強によるアフリカ分割競争が活発化した時期であり、その脅威はリベリアにも迫っていた。
 特に、大英帝国は西で隣接する現在のシエラレオーネへの支配地拡大を図っていた。シエラレオーネは元来、英国の解放奴隷が入植して形成したフリータウン植民地を前身とし、リベリアと似た沿革を持っていたが、英国はこのシエラレオーネ内陸部の領有を狙っていたのだ。その過程で、リベリアとの国境ガリナス地域をめぐる紛争が生じてきた。
 結局、英国はガーディナー大統領が病気辞職した後、後を継いだラッセル大統領の政権発足初期のタイミングで、ガリナス地域をシエラレオーネに併合してしまった。この問題は、次のジョンソン大統領の時、英国との条約により、リベリアが譲歩することで解決した。
 さらにジョンソン政権時代末期には南部のパルマス岬を越えた地域をフランスの象牙海岸植民地(現コートジボワール)に割譲させられるなど、領土の縮小はさらに進んだ。
 こうした困難な時期に1884年から92年まで四期大統領を務めたジョンソンは、リベリア史上初のリベリア生まれの大統領となった点で、画期的ではあった。彼は共和、ホイッグ両党の指名を受けて当選し、当選後はホイッグ支持を表明しつつ、アメリコ・ライベリアン内部に生じていた混血系(共和党支持)とアフリカ系(ホイッグ党支持)の対立関係を止揚した。その結果、ホイッグ党への収斂が生じ、以後、ホイッグ党支配が確立される。
 しかし、ジョンソン政権以降、領土の縮小が進む中、内では先住部族の反乱が勃発するなど、内憂も高まったが、当時自前の国軍を保持していなかったリベリアは、頼みのアメリカからの強力な軍事援助を得られず、20世紀初頭まで政情不安が続く。

体験的介護保険制度批判(追記6)

 厚労省が4月からの介護報酬改定で、実質では過去最大の削減率となる改悪に踏み切った。全般的なコストカット策ではあるが、中でも「目玉」とされるのは特養報酬の6%カット。新方針発表時から日頃は芸能に夢中の情報番組でも取り上げられ、サービス低下の危険が指摘されている。
 家族をどうにか特養に入れて1年の節目で、この仕打ちである。4月以降、具体的にどのような影響が出るかウォッチしていく必要があるが、無影響で済むとは思えない。状態悪化や介護事故、退所要請、最悪は施設閉鎖まであらゆる不測事態を想定しておかねばならず、施設入所で安心とはいかなくなった。
 それにしても、何故に施設介護をこれほど圧迫するのか。表向きのタテマエは「施設から在宅へ」という謳い文句であるが、しかし、今回は在宅介護報酬も含めた全般的な削減であるから、これも形式的な口実にすぎないことは明らかである。ただ、辻褄合わせのアリバイ作り的に、重度要介護者への訪問介護には報酬を上乗せし、介護ヘルパーが1日複数回訪問する「24時間定期巡回サービス」を拡充する方針も打ち出されている。
 しかし、そもそも在宅介護に適するのは軽・中度までで、重度化すれば施設介護の必要性が増すのであるから、「重度要介護者への訪問介護の充実」は概念矛盾である。どうしても強行するなら、まさに「24時間定期巡回サービス」が必須だが、地域の零細事業者が大半の訪問介護事業で、施設なら当直に当たる深夜未明まで含めた24時間訪問に動員できるほど多数のヘルパーを雇用できる業者はほとんど存在せず、まさに絵に書いた餅である。
 しかし、政府はそうしたことも重々承知している。財務省主導でのコストカットの隠された真の狙いは、「階級介護制度」の構築にあるからだ。
 現状でもすでにそうだが、介護制度をいじる高級官僚も含む富裕層―ついでに言えば、テレビで口舌上は「懸念」を示してみせる高額所得キャスターや文化人諸氏も同じく―にとっては、介護保険は必須アイテムではない。かれらの親世代も将来の自身も、自費で有料ホームに入所できる階層に属しており、かれら自身には特養報酬カットは少しも影響がないわけである。特養は、すでに低所得層向け介護施設として機能しているからである。
 特養締め付けで低所得層を安上がりの在宅介護にくくりつける一方で、富裕層は豪華施設で贅沢介護━。これが、日本の介護制度の進んでいる方向であり、介護保険制度施行15周年に当たる今回の改定作業は、その公式のスタート号砲と言える意義を持つことになるだろう。

2015年2月 6日 (金)

人間動物学

 人間の残虐性―広くは、暴力性―について考えさせられるような事件が、内外で続発している。そうしたとき、「非人間的」といった非難が巻き起こるが、その非難の前提には「人間は本来、非暴力的なものだ」という人間観があるはずである。しかし、果たしてそうか。
 逆に人間の暴力性を示す事例は、古今東西枚挙に暇がない。人間は他の動物はおろか、仲間の人間も殺す。暴力性も人間性のうちなのではないか。しかし、一方で暴力を非難する心性も普遍的なものである。そのようなアンビバレントな人間性をどう理解したらよいのか。
 従来、人間性に関する研究は動物学ではなく、哲学・倫理学、あるいは心理学のような人文学の役割とされてきた。しかし、言うまでもなく、人間も動物の一種であり、その名のとおり、チンパンジーのような類人猿と類縁関係にあることは証明されている。
 人間を一個の動物として研究すること―人間動物学―は、かなり広い科学の余白として残されている。もしも人間は“高等生物”ゆえ、動物学の対象とすべきでないという観念がその理由だとしたら、それは人間の思い上がりというものである。

2015年2月 5日 (木)

新計画経済論(連載第2回)

第1章 計画経済とは何か

(1)計画経済と市場経済
pencil計画経済について考える場合、計画経済とは何かということを初めに確定しておく必要があるが、これが実のところ容易でない。計画経済というと「社会主義」が連想されるが、計画経済と社会主義は決して同義ではない。実際、今日の中国は「社会主義市場経済」を標榜し、社会主義と市場経済を結合させようとしているし、現代の社会主義体制は程度の差はあれ、みな市場経済を志向している。
pencilまた計画経済と統制経済とが同一視されることもあるが、これも適切な把握とは言えない。統制経済はしばしば戦時には政府が戦争遂行に必要な物資を集中的に調達する目的から体制の標榜を超えて導入され、資本主義体制の枠内でも戦時統制経済を取ることが可能なことは、例えば第二次世界大戦中の日本の戦時統制経済を見てもわかる。
 ただ、計画経済では通常は政府が策定する経済計画に基づき生産と流通が規制されるため、市場経済に比べれば「統制」の要素が強くなることは否めないが、それでも統制経済と計画経済は概念上区別されなければならない。
pencil一方、市場経済は計画経済の反対語とみなされているが、両者は通常考えられているほどに対立する概念ではない。市場経済を標榜していても、政府の経済介入の権限が広汎に及ぶ場合は計画性を帯びてくるし、また市場原理によって修正された計画経済もあり得るからである。
 前者―計画的市場経済―の実例は先の社会主義市場経済である。ここでは政府の経済計画は維持されるものの、本来の計画経済ほどには規範性がなく、それは経済活動の総ガイドライン的な意義にとどまる。またある時期までの戦後日本経済は、政府の経済企画と行政指導を通じた「指導された資本主義」という性格が強かったが、これも社会主義市場経済よりはゆるやかながらも計画的市場経済の一種と言えた。
 後者の市場的計画経済の実例はあまり多くはないとは言え、旧ユーゴスラビアの「自主管理社会主義」はその例に数えられる。ここでは労働者自身が経営に携わるとされる自主管理企業間に一定の競争関係が見られた。また1960年以降の経済改革で利潤原理が一部導入された旧ソ連経済も、ユーゴよりは限定的ながら市場的計画経済の一種であった。
pencilかくして計画経済と市場経済の概念的区別も決して厳格ではないのだが、一点計画経済になくてはならない要件は規範性を持った統一的な経済計画に基づいて経済運営がなされるということである。先の計画的市場経済が市場経済であって計画経済でないのは、そこでの経済計画ないし企画は規範性を持たないからである。
 なお、そうした規範性を持った経済計画が経済活動の全般に及ぶか―包括的計画経済―、それとも基幹産業分野に限られるか―基盤的計画経済―という点は政策選択の問題となる。

2015年2月 3日 (火)

新計画経済論(連載第1回)

前言

 計画経済は、資本主義的市場経済に対するオールタナティブとして、20世紀初頭、社会主義を標榜したソヴィエト連邦によって初めて実践され、その後、ソ連の衛星諸国やその影響下諸国の間で急速に広まったが、同世紀末のソ連邦解体後、今日までにほぼ姿を消した。その意味では、計画経済は20世紀史の中の失敗に終わった一社会実験であるとも言える。
 しかし、20世紀的計画経済は、計画経済のすべてではない。20世紀的計画経済とはあくまでもソ連邦という一体制が実践した一つの計画経済―ソ連式計画経済―にすぎない。ソ連式計画経済が失敗に終わった原因については―本当に「計画経済」だったのかどうかも含め―検証が必要であるが、それだけが唯一無二の計画経済なのではない。むしろ真の計画経済はいまだ発明されていないとさえ言える。
 現時点では、市場経済があたかも唯一可能な経済体制であるかのような宣伝がなされ、世界の主流はそうした信念で固まっているように見える。だが、その一方で、市場経済は打ち続く世界規模での経済危機、国際及び国内両面での格差拡大といった内部的な矛盾に加え、地球環境の悪化という人類の生存に関わる外部的な問題も引き起こしている。
 こうした有害事象は口では慨嘆されつつも、まばゆい光である市場経済に伴う影の部分として容認されている。後者の地球環境問題に関しては待ったなしの警告を発する識者たちでも、市場経済そのものの転換には決して踏む込もうとしない。あたかも「環境的に持続可能な市場経済」が存在するかのごとくである。
 だが、目下喫緊の課題とされている地球温暖化抑制のための温室効果ガス規制にしても、市場経済は真に効果的な解決策を見出してはいない。市場経済システムを温存するためには、生産活動そのものの直接的な規制には踏み込めないからである。
 地球温暖化に限らず、資源枯渇も含めた地球環境問題全般を包括的に解決するためには、生産活動そのものを量的にも質的にもコントロール可能な計画経済システムが必要である。そういう新しい観点からの計画経済論はいまだ自覚的に提起されているとは言えない。
 景気循環に伴う経済危機や経済格差問題の解決も重要であるが、そうした問題に対しては市場経済論内部にも一応の「対策」がないではない。だが、それらも決してスムーズには実現されないだろう。そうした問題の解決のためにも、計画経済が再考されなければならない。
 計画経済にはその実際的なシステム設計や政治制度との関係など、ソ連式計画経済では解決できなかった様々な難題も立ちはだかる。とはいえ、計画経済の成功的な再構築は、言葉だけにとどまらない環境的に持続可能かつ社会的に公正な未来社会への展望を開く鍵となるであろう。

2015年2月 1日 (日)

関東通史―中心⇔辺境(8)

九 「東西幕府」の時代

 執権北条氏に乗っ取られた鎌倉幕府体制は、承久の乱での勝利により一応全国支配を確立するが、元寇という空前の「有事」対応を機に、北条得宗の独裁が強まり、御家人層の不満が募っていく。
 そうした機会をとらえ、閉塞していた朝廷勢力が14世紀に入って動き出す。後醍醐天皇という異色の闘争的な天皇を得たことで、この動きが加速していき、1333年、鎌倉幕府は打倒された。北条一族も滅亡した。
 これによって後醍醐天皇を頂点とする京都の天皇王朝が権力を奪回したため、鎌倉を首都とする関東は再び中心の地位を京都に譲ることとなった。後醍醐天皇は、関東統治のため、鎌倉将軍府を置くが、これは朝廷の関東支配機関にほかならなかった。
 しかし、周知のように、後醍醐天皇の建武新政は評判が悪く、間もなく倒幕の立役者だった足利尊氏の離反を招き、南北朝時代が始まる。尊氏の属した足利氏は源義家の孫に当たる源義康を家祖とする源氏一門であり、源氏宗家断絶後は、源氏準宗家としての家格を持つ名門であった。
 従って、源氏系足利氏当主の尊氏が北朝を擁して征夷大将軍となって開いた室町幕府の成立は、源氏勢力が再び権力を奪回した意味を持っていた。
 ただ、足利氏の本拠はその苗字のとおり、栃木の足利であったところ、尊氏がゆかりのない京都に幕府を開いたのは便宜的な理由によるもので、当初、一門の間では幕府を引き続き鎌倉に置くべしとする意見も見られた。
 両論ある中で、尊氏としては、朝廷分裂という不正常な事態下にあって、北朝をバックにつけつつ、これをコントロールするためにも、ひとまず朝廷と同じ京都に幕府を置くという現実的判断をしたものと思われる。
 そのため、尊氏は一方では鎌倉にも出先機関として鎌倉府を設置し、四男の基氏を長官たる鎌倉公方に任命した。以後、鎌倉府は基氏の子孫が世襲統治したため、建武の新政下の鎌倉将軍府とは異なり、初期から独立の気風が強く、実質上「東西幕府」のような様相を呈した。
 このような東西二分体制は、15世紀に入るといっそう顕著となり、鎌倉府は独自に関東武士らと主従関係を結ぶようにすらなった。こうして、室町幕府下の関東はなし崩しに独立性を取り戻していく。

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