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2015年1月

2015年1月29日 (木)

ハイチとリベリア(連載第14回)

五 リベリア寡頭支配の確立

初期政党政治
 リベリアは、アメリカからの黒人移民―アメリコ・ライベリアン―が建国の主体勢力となった歴史から、アメリカ流の立憲政治が当初から導入された。そうした経緯のため、リベリアは1980年になるまで、ハイチ政治では恒例となった軍事クーデターを経験することはなかった。
 初代ロバーツ大統領は第一次政権当時は政党に属しなかったが、建国翌年の1848年に結党されたリベリア最初の政党である共和党を支持し、72年から76年までの二度目の任期は共和党系大統領として務めている。
 共和党はその名称どおり、共和的な政策を採り、最初の明確な同党系大統領となった第3代ワーナー大統領と次の第4代ペイン大統領の時代には先住黒人部族との融和と社会的統合に尽くした。 
 これに対して、やや遅れて1869年に結党されたのが、真正ホイッグ党であった。この党もアメリコ・ライベリアンの党であったが、入会資格をアメリコ・ライベリアンに限定するフリーメーソン系の結社であるリベリア・メーソン団と連携し、より排他的な政党として成長していった。
 最初のホイッグ系大統領は、1870年に就任した第5代ロア大統領であった。ロア政権当時のリベリアは財政難とコーヒーや砂糖などの主要農産品の国際競争での敗北という財政経済問題を抱える一方、未発達だった社会的インフラ整備のために、英国の銀行から多額の借財をし、デフォルトに陥った。
 こうした国難を乗り切るべく、議会を無視し、非立憲的な手法で任期延長を図ったロアは罷免されたうえ、暗殺された。在任一年余りであった。後任にはスミス副大統領が昇格するも、72年の大統領選挙では再びロバーツが共和党系大統領として返り咲いた。
 こうして、建国初期のリベリアでは共にアメリコ・ライベリアン系である共和党と真正ホイッグ党による一種の二大政党政治が形成されかけてはいたが、共和党はロバーツが76年に死去すると、急速に弱体化し、消滅した。アメリコ・ライベリアン系とはいえ、先住民の統合にも配慮した同党の消滅は、その後のリベリア政治に重大な影を落としたであろう。

2015年1月26日 (月)

ピアノの政治経済学(連載第13回)

note4:ピアニストの誕生③

notes職業的ピアニストの誕生
 職業的ピアニストという場合、広く取ればピアノ演奏で反復継続的に対価を得ている者全般が含まれるため、古典時代の作曲家のように自作自演を常態とした人々も包含される。しかし、ここではピアノ演奏を専業とするピアニストという意味に限定すると、そうした専業ピアニストの誕生は、20世紀を待つ必要があった。
 その背景として、19世紀後半から作曲と演奏の分業化が見られ始めていた。特に19世紀後半以降の後期ロマン派は音楽の商業的興行化の潮流に伴い、より専門的で大がかりな管弦楽やオペラに中心を移したため、前期ロマン派で主役だったピアノの地位が低下したように見えた。
 このことはしかし、ピアノという楽器の凋落を意味したわけではなく、むしろピアノ演奏が作曲から切り離されて独立の専門的な芸術行為として確立される道を切り開いたのであった。
 それは、19世紀後半以降、音楽的英才教育を専門とする音楽院の創立が東西のヨーロッパ各国で相次いだことによって、技術的にも促進された。音楽院のピアノ科は多くの学生を集め、創立当初から人気の部門であった。
 そうした専門英才教育によって職業的ピア二ストの一大生産地となっていくのは、西ヨーロッパ以上に東ヨーロッパであった。特にロシアである。ロシアでは、19世紀後半に共にピアニストであったアントンとニコライのルビンシテイン兄弟がそれぞれ創立したサンクトペテルブルグとモスクワの両音楽院が二大音楽院として、19世紀末以降、現代に至るまで多くのピアニストを輩出するようになる。
 そのモスクワ音楽院の初期の卒業生であり、リスト最晩年の弟子でもあったアレクサンドル・ジロティはロシア革命後間もなくロシアを去ってアメリカに渡り、ジュリアード音楽院で指導したため、西欧音楽の後進地だったアメリカにリスト流演奏技術とロシアン・ピアニズムの双方を伝授する結果となった。
 20世紀に入ると、資本主義の発達により音楽の興行化が確立されると同時に、録音技術の開発により、演奏専業のピアニストが増えていく。一方、ロシア革命後のロシアでは、社会主義の文化的な優位性を宣伝する目的からも、音楽教育は重要な国家事業とされ、国立の音楽院を通じた職業的ピアニストの育成にも注力された。
 このようにして誕生した近代的ピアニストは、少数の例外者を除き、もはや作曲には従事せず、他人が作曲した楽曲の演奏に専従し、程度の差はあれ、作曲者とは独立した自身の解釈に基づいて演奏することが許される演奏芸術家として、地歩を築いていく。

2015年1月23日 (金)

関東通史―中心⇔辺境(7)

八 鎌倉幕府の成立

 源平合戦を制した源頼朝が開いた鎌倉幕府の成立年は、筆者の学校時代には1192年とされ、「いいくにつくろう」という語呂合わせで記憶することが慣例となっていたものだが、近年はそれより早い1185年を成立年とする説が通説化しつつある。
 その理由として、1192年は頼朝が征夷大将軍に任命された年度であるが、それは形式的なことで、幕府の初期の機構は実質上1185年までに出揃っていたため、同年をもって幕府成立年とすべきだという。
 実際のところ、頼朝の政権は彼が倒した平氏政権のように、既存の律令制機構をクーデターで乗っ取るのではなく、関東に全く新しい体制を構築する革命政権のようなものであったため、統治機構も政権掌握後時間をかけて整備されていったものであり、明確な成立年度を確定することは本来困難である。
 いずれにせよ、源氏政権はそれまでの天皇中心の王朝貴族政治から武家が政治を主導する新しい体制であった。その権力中枢も、頼義以来源氏の根拠地となった鎌倉を首都とする関東に置かれたが、このことは、長い歴史的なスパンで見れば、関東が縄文時代以来(!)、再び日本の中心としての地位を奪還したことを意味する。
 とはいえ、発足当初の源氏政権は関東に偏った地方政権の域を出ておらず、頼朝を征夷大将軍に任命した朝廷としても、頼朝に全権を移譲するつもりなどなかった。こうした朝廷と幕府のせめぎ合いが武力衝突に発展した承久の乱までは、幕府が支配する関東と依然朝廷が支配権を残す関西に分裂していたと言ってもよかった。
 一方、幕府の側でも頼朝の死後、側近で舅でもあった北条時政が執権として実権を握った。息子の義時の代には北条氏が世襲する執権が幕府の実質的な最高実力者となり、三代将軍実朝暗殺で源氏宗家が早くも断絶したことから、以後の鎌倉幕府は形だけの摂家・宮将軍を操る北条氏のものとなる。
 前回指摘したとおり、北条氏が公称どおりに平氏系だとすれば、平氏が今度は関東で再び政権を掌握したに等しいことになるが、北条氏の出自は不確かである。しかし、鎌倉幕府の成立には、坂東八平氏のような平氏系氏族が貢献しており、北条氏被官(御内人)となった諸氏にも平氏系が多く含まれていた。
 北条氏主導の鎌倉幕府は、承久の乱に勝利すると、朝廷を統制下に置き、全国的な支配力を確立した。厳密には、関東が中心としての地位を奪還したのは、この時以降と言える。しかし、西の朝廷も失地挽回の意志と能力をまだ完全に失ったわけではなく、北条氏独裁が強まる中で、倒幕の機運も生まれ始めるのであった。

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2015年1月21日 (水)

ハイチとリベリア(連載第13回)

四 ハイチの成長(続き)

混乱から占領へ
 1908年にアレクシ政権が崩壊した後、後継大統領となったのは、反乱を主導したアントワーヌ・シモン将軍であった。シモン大統領は当初、政治的和解を進めて政権を安定させるとともに、鉄道や道路などの交通インフラ整備と砂糖やバナナ産業の振興のため、アメリカ企業を誘致した。
 こうしたアメリカ資本との結びつきは、圧迫を受けた地主や小農らの反発を招き、ハイチ政治の恒例となった武装反乱を引き起こした。混乱の中、1911年、アレクシ政権の閣僚だった実業家出身のルコントが反乱軍を率いて決起、シモン大統領を追放し、自ら大統領に就任した。
 事実上のクーデターで政権に就いたとはいえ、シモン・サム以来の文民大統領となったルコントは有能さを発揮し、道路整備や電話網の導入、軍縮などを矢継ぎ早に実施したが、それ以上にルコント政権が名を残したのは、当時増加し始めていた中東(主にレバノン)からの移民の制限や商業活動の制限などの差別的政策であった。
 ところが、1912年、ルコント大統領は官邸で発生した謎の爆発事件により、急死した。原因は不明であり、暗殺説もあるが、解明されていない。ともあれ、ルコント死後のハイチ政治は大統領がめまぐるしく交代する混乱に陥った。
 そうした中で、存在感を増してきたアメリカの介入が強まる。アメリカはすでに1912年に設立されたベンチャー企業のハイチ・アメリカ砂糖会社を通じて、ハイチ経済を掌握し始めていた。
 実際のところ、当時のハイチにはドイツ帝国が触手を伸ばしており、ハイチ国内にもドイツ人の小さなコミュニティーが形成されていた。ドイツ人は少数とはいえ、国際貿易を掌握し、国内の反乱やクーデターの資金援助者とすらなっていた。第一次世界大戦が勃発すると、新興帝国主義国同士としてのライバル関係に決着をつける時が来た。
 1915年、アメリカとの結びつきをいっそう強めていた時のギョーム・サム大統領―シモン・サムの従弟―が反乱を鎮圧し、ムラートのエリートを含む反体制派の虐殺を断行したことへの報復として、暴徒によって殺害された事件を機に、アメリカのウィルソン政権は自国権益の保護を掲げて海兵隊を侵攻させ、ハイチを占領したのである。
 このようにアメリカが“裏庭”とみなす中米での権益擁護のため、アメリカが軍事介入するというパターンは20世紀を通じて繰り返されるが、1915年のハイチ侵攻はその重要な先例となったのである。

2015年1月18日 (日)

ピアノの政治経済学(連載第12回)

note4:ピアニストの誕生

notesピアノの魔術師
 職業的ピアニストの誕生に大きく寄与したのは、ハンガリー生まれのフランツ・リストであった。彼は、その名前からも明白なドイツ系ハンガリー人であり、11歳以降は故国を離れ、オーストリアやドイツを拠点に活動したため、実質はドイツ人と言ってよかった。
 リストは10歳になる前にピアニストとしてデビューしたいわゆる「神童」であったが、彼の特徴は「ピアノの魔術師」とまで評されるほどの並外れた超絶技巧にあった。その演奏は同時代の名手であったショパンやクララ・シューマンからも感嘆されるほどであった。
 リストは長じてから作曲活動も開始したが、これは彼の時代、依然として作曲家による自作自演の慣習が残っていたことからして、自然な流れであった。リストはショパンとは異なり、管弦楽曲も手がけたが、自身が技巧派のピアニストであったため、自ら演奏することを念頭に置いた技巧的なピアノ曲が作曲活動の中心にあった。
 その典型例が、ショパンの練習曲集と並び、今日でも上級者向けの課題曲として世界中で使用されている全12曲の『超絶技巧練習曲』である。それ以外にも彼はいくつもの練習曲集を書いているが、いずれも高度な技巧を要する難曲として知られるものばかりである。
 リストはショパンが開拓した新しいピアノ音楽と演奏技術をさらに発展させ、今日的なピアニズムの土台を築いた人物でもあった。ある意味では、リストという異次元の演奏技術を持つ作曲家ピアニストが出現したことで、彼以降のピアニストにもリスト並みの高度な演奏技術が要求されるようになり、ピアノ学習者にとっての壁が極めて高くなったとさえ言える。
 同時に、リストの演奏技術は1オクターブを越える和音を楽々演奏できたと言われるリストのような手の大きいヨーロッパ人男性を前提としたものであったため、女性には身体条件的に不利な面が生じ、―後に述べるように、近現代日本の「常識」に反して―ピアノを男性中心的な楽器に仕立てていく結果ともなった。
 前述したとおり、リストは依然として伝統的な作曲家ピアニストであったが、ショパンよりも演奏活動を数多くこなし、今日的なコンサート・ピアニストに近い存在であった。
 彼はまたピアノ指導にも熱心で、早熟ゆえに15歳から早くも他人の指導を始め、生涯を通じて多国籍の弟子を数多く育成した。彼の弟子たちが各国でリスト流の指導法によりさらに孫弟子を育成していったことで、リスト流演奏技術が彼の作品とともにヨーロッパの主要国に拡散していった。
 このような「リスト・スクール」の形成は、世紀をまたいで20世紀以降、演奏の対価で生活していけるだけの高い演奏技術を備えた職業的ピアニストというカテゴリーが確立されるうえで重要な核ともなったのであった。

2015年1月16日 (金)

関東通史―中心⇔辺境(6)

七 源氏の台頭

 後に関東で武家政権を開く源氏は本来、関西の河内に本拠を持った臣籍降下軍事貴族集団(河内源氏)であり、関東で勢力を持ったのは、むしろ平氏系の集団であった。その体制が変容する最初の契機となったのは、平将門の乱からおよそ100年後の1028年に起きた平忠常の乱であった。
 母方から将門の孫に当たる忠常は房総平氏の祖と目される人物であり、上総、下総から常陸にかけて強大な勢力を張っていたが、何らかの利害対立から国府を襲撃する挙に出て、祖父と同様に朝廷と全面対決することになった。
 この時、当初追討使として朝廷側の討伐軍を指揮したのは、同じ平氏系で鎌倉を本拠とした平直方であったが、忠常の頑強な抵抗を前に苦戦したため解任され、代わって甲斐守源頼信が後任となった。頼信は河内源氏の祖と目される武将であった。
 頼信は戦わずして忠常を投降させ、乱を平定した。すでに挙兵から三年を経過し、忠常の反乱軍が消耗していた事情はあれ、頼信の名声は高まり、何よりも平直方が頼信の子・頼義を娘婿に迎え、本拠の鎌倉を安堵したことは、源氏にとっては、後の関東支配の礎石となった。
 頼義の子が後の鎌倉将軍家の直接的な祖として有名になる源義家であり、義家の曾孫に当たるのが鎌倉幕府を開く頼朝である。この間には浮沈があり、義家没後の河内源氏は当主の不行蹟・不祥事などが重なり、京都では閉塞していた。そのため頼朝の父・義朝は下向した東国で支持基盤を固めた。結果、義朝は保元の乱では軍功を上げて源氏を一時再興したものの、平治の乱で敗死し、実権を掌握した平氏に押さえ込まれることとなった。
 頼朝は平治の乱の際に捕らえられるが、辛くも死罪を免れ、伊豆への流刑処分となり、在庁官人の豪族・北条時政が頼朝の看守役を担った。ここで頼朝が時政の娘・政子と婚姻し、北条氏が源氏の姻戚となったことで、源氏最側近として台頭していくのはよく知られた話である。
 北条氏は平直方の子孫を称したため、公称どおりであれば、平氏一族が源氏に寝返ったことになるが、時政以前の系譜は不詳であり、直方流は仮冒の疑いが強い。ただ、当初は頼朝の看守役を任せられたことからも、平氏支持者であったことは確かであろう。
 ともあれ、京都で権勢を誇った平氏にとっては、有能な頼朝を処刑せず、流刑にとどめたこと以上に、同族の坂東平氏の統制に意を用いなかったことが禍根となった。すでに源氏支持者となっていたかれらは頼朝の挙兵に当たり、こぞって源氏に協力したからである。

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2015年1月14日 (水)

ハイチとリベリア(連載第12回)

四 ハイチの成長(続き)

中間安定期
 ハイチ史上初の長期民政を維持したサロモン大統領が反乱の中、1888年に政権を追われた後、再び政治的混乱に陥るかに思われたが、いくつかの暫定政権を経て89年に大統領に就任したイポリトからシモン・サムまでのハイチは中間安定期を経験した。
 実質上サロモンの後継者となったイポリトの政権では愛人のヴィクトワール・ジャン‐バティスト―彼女は次の大統領となるシモン・サムの元愛人でもあった―が政治的な影響力を持ったとも言われるが、イポリト大統領は軍出身ながらサロモン失墜後の混乱を防ぎ、七年間の安定した政権を維持した。
 次いでサロモン以来の文民大統領となったシモン・サムはサロモン政権や前任のイポリト政権でも閣僚を務めたベテランであり、大衆的な人気も備えていた。
 シモン・サム政権は、サロモン民政の復刻的な性格を持っていた。政権はサロモン時代以来のインフラ整備をさらに進め、新たな鉄道の敷設や、司法制度の近代化などを推進した。外交面では旧宗主国フランスとの間で互恵条約を締結するなどの成果も上げた。
 世紀をまたいだ1902年、シモン・サムが議会の手違いで実際の任期より早く退任すると、再び反乱が起きたが、これを収拾した軍長老で、サロモン政権時代には反大統領派として投獄経験もある82歳という高齢のアレクシ将軍が武力と米国の支援を背景に大統領に就いた。
 こうした経歴から、アレクシ政権は反サロモン的である同時に、アメリカの支援を受けたことで、米国権益を擁護する親米政権でもあった。このことはハイチへのアメリカの干渉の契機となり、将来内政の混乱に乗じて米軍に占領される伏線ともなったであろう。
 アレクシ政権時代は多くの反乱に見舞われながら、アレクシは自身に忠実な軍部を基盤に六年間政権を維持した。しかし1908年、すでに90歳に近いアレクシが長期執権を狙って「終身大統領」を宣言した時、政権の命脈は尽きた。
 新たな反乱が発生し、南部では飢餓が食糧暴動を引き起こす中、シモン・サム大統領の軍事補佐官を務めた経験もあるアントワーヌ・シモン将軍が率いる反乱の最中、アレクシは政権放棄・亡命に追い込まれたのであった。

2015年1月12日 (月)

ピアノの政治経済学(連載第11回)

note4:ピアニストの誕生①

notes作曲家ピアニスト
 今日、ピアニストというと、大きくクラシック系とジャズを含めたポピュラー系とに分かれ、全世界に無数に存在するが、このようにピアノ演奏を職業とし、演奏の対価で生活する職業ピアニストというカテゴリーが誕生したのは、そう古い話ではない。
 自ら作曲せず、専ら他人が作曲した楽曲の演奏を専門とする純粋の演奏家ピアニストが誕生したのはせいぜい19世紀末以降のことで、アジアを含めた全大陸にピアニストが誕生するのは、第二次世界大戦後のことと言ってよい。
 専業ピアニストが誕生する以前とは言えば、作曲家自身が自作自演するのが慣例であった。モダンピアノ以前の時代ではあるが、モーツァルトやベートーベンはそうした作曲家ピアニストの代表的存在であった。作曲家自身が演奏家でもあったことから、この時代のピアノ演奏では即興演奏が常識であり、モーツァルトやベートーベンもそうした即興演奏の名手として知られていた。
 ロマン派の時代に入っても、作曲家ピアニストが自作自演する慣習はしばらくの間続いていた。ピアノの世界に革命を起こしたショパンのような人にしても、まだ作曲家ピアニストの範疇にとどまっていた。実際、彼は当代最高のピアニストと言われながら、生涯を通じて公開演奏会を開いたのは30回に満たないとされるのも、まだ専業ピアニストというものが確立されていなかった時代を反映している(個人的にも公開演奏を好まなかったと言われる)。
 変化が起きるのは、19世紀中頃である。シューマンの妻でもあったクララ・シューマンは本来は作曲家でもあったが、おそらくは女性作曲家という存在への偏見から作曲家としての道は断念し、ピアノ演奏に徹した。その結果として、ほぼ演奏だけで生活する―著名作曲家である夫の収入にも支えられていたとはいえ―専業ピアニストの先駆けとなったのだった。
 クララはショパンからも自身の技巧的な練習曲集を正確に演奏できる唯一のドイツ人女性と称賛されるなど、ショパン以降の高度化したピアノ演奏にも耐え得る技巧を備えた近代的ピアニスト(ヴィルトゥオーゾ)の先駆けでもあった。
 とはいえ、クララのような存在は当時まだ例外的であり、その演奏も作曲者―とりわけ自身の夫―の代わりに演奏するという代行業的な性格の強いものであり、ピアノ演奏がそれ自体固有の芸術的行為となる時代はまだ先のことであった。

2015年1月11日 (日)

権利としての不登校

 昨年発表された2013年度のデータによると、全国の不登校の小中学生は6年ぶり増加に転じて約12万人という。ただ、これは文字どおりに不登校の児童生徒数であるから、不登校予備軍的な「学校被ストレス者」は含まれていない。
 筆者の学齢期には不登校児はまずいなかった。学校は絶対的に登校すべきものであり、理由のいかんを問わず不登校は怠慢とみなされていたからだ。その後、不登校が全国に広がり、現在では、教育当局も渋々ながら不登校を黙認せざるを得なくなっている。それでも、当局は不登校減少策という発想をやめてはいない。
 おそらく、その根底には「教育の義務」という憲法にも定められた原理原則を固守しようとする官僚的形式的発想があるのだろう。しかし学校環境が子どもに与えるストレスの大きさを考えれば、「教育の義務」を形式的にとらえることはできない。ストレスからの解放策として、不登校をある種の超法規的な避難権―学校からの避難―として承認するべきである。
 従って、不登校減少策という発想もやめるべきである。教育の義務の履行は、学校という制度だけを通して行われるものではなく、複数の教育のルートがあってよいし、もっと言えば、学校という一種の強制収容的な制度が教育の場として真にベストなのかどうかは、根源的な疑問に付してもよいほどなのである。

2015年1月10日 (土)

テスト攻撃

 過去を振り返って痛切に思うことの一つは、学校体験によい記憶がないということである。いわゆる不登校になったことこそないが―当時、不登校には社会の理解がほとんどなかった―、学校はストレスの多い場所であった。今となっても二度と学校には戻りたい気がしない。
 そんなわけで、教育について語ろうとすると、つい辛辣な雑言となってしまうので、あまり語らないようにしてきたが、近時の状況には我慢ならず、黙っていられない思いが募ってきた。状況がよりよくなるどころか、その反対に改悪に改悪が重ねられているように見えるからだ。
 特に、テスト攻撃はすさまじい。かつて教員労組が反対して裁判沙汰にもなり、中止されていた全国学力テストが再開され、大手を振るって定着していることに加え、報道によれば、中教審は「高(校)大(学)接続」を掲げ、高校に「高等学校基礎学力テスト」を新たに導入し、高校二年以降、年二回実施するとの方針を示したという。そのうえに大学入学者選抜については、現行の入試センター試験を「大学入学希望者学力評価テスト」(これも年複数回実施)に看板をすげ変えて、続けるのだという。
 少子化により、未来社会の担い手たる子供たちの希少価値が高まり、我々の世代以上に一人一人の才覚を発見し、すくいとっていくべき時に、テスト攻撃による選別・切捨てをいっそう強化しようという支配層のやり方は、未来を破壊すること以外のなにものでもない。

2015年1月 6日 (火)

関東通史―中心⇔辺境(5)

六 関東武士団の形成

 平安朝を揺るがせた平将門の乱が起きた10世紀前半から源氏が関東に武家政権を樹立する12世紀末までには、200年以上のギャップがある。しかし当然ながら、平安貴族制社会から突如武家支配が生まれたのではなく、この二世紀以上の間に、関東では重要な社会変動が起きていた。
 将門の乱が鎮圧されても、坂東平氏全体が崩壊したわけではなかった。特に将門の叔父に当たる平良文を祖とする一族からは「坂東八平氏」と呼ばれる諸族が関東一円に分立し、前武家的な軍事貴族に成長していった。中でも古来の銅産地・秩父を拠点とした秩父氏は前九年の役及び後三年の役で功績を上げて源氏に認められ、武蔵国在庁官人の頂点に就き、武蔵武士団の統率者となった。
 武蔵国は馬の産地でもあり、多くの牧を擁し、牧の在地管理人層の中から武装・騎乗する武士団が発生していったと見られる。かれらは、後世「武蔵七党」と称される婚姻関係で結ばれたいくつかの中小武士団を形成するようになるが、その上部に秩父氏(秩父党とも)のような軍事貴族が統率者として位置し、戦時動員をかける仕組みが出来上がっていく。
 「武蔵七党」は正確に七つの氏族から成るわけではないが、特に武蔵国北部(現埼玉県本庄市・児玉郡)を本拠とした児玉党を最大とし、横山党、猪俣党、村山党、野与党、丹党、西党の七党が代表的な武士団である。
 秩父氏―嫡流は河越(川越)に拠点を移し、河越氏を名乗る―は自然の要害である秩父に源流を持つ入間川(荒川)から東京湾岸に至る川筋を領域的に支配し、強大な勢力を築いたのに対し、平良文の孫に当たる平忠常を祖とする一族は坂東平氏本来の地盤である房総半島を支配し、上総氏や千葉氏など「房総平氏」と呼ばれる諸族を出した。
 こうして関東武士団の上部組織を形成した坂東平氏は、間もなく王都の京都で政治の実権を握る伊勢平氏とも同族であるが、皮肉にも、伊勢平氏と対立することになるもう一つの臣籍降下軍事貴族集団・源氏の支持者として、その配下に組み込まれていくのであった。

前回記事を読む

2015年1月 4日 (日)

ハイチとリベリア(連載第11回)

四 ハイチの成長

立憲政治の導入
 1859年にフォースタン帝国を打倒したジェフラール将軍のクーデターの成功は、ジェフラール将軍も属した混血ムラートが再びハイチの支配権を取り戻したことを意味した。大統領に就任したジェフラールは数度のクーデターに見舞われながら、67年まで政権を保持した。
 彼の最大の功績はローマ法王庁と和解し、カトリック教会の支援で特に教育制度を充実させたことである。また軍事政権ながら、立憲政治の導入を目指し、民主的な憲法の制定も主導した。しかし、彼の政権は安定せず、67年には新たなクーデターによりジェフラールは亡命に追い込まれる。
 その後、短命政権をはさんで69年に就任したサジェ大統領はやはり軍出身ながら史上初めて大統領の全任期を務めて任意に退任した大統領となった。続いて大統領に就いたドマング大統領も同じく軍出身ながら長く続いてきた隣国ドミニカ共和国との国境紛争を解決するとともに、74年には新たな憲法を制定し、立憲政治の土台を築いた。
 このような民主的改革の試みは、79年から88年まで10年近くに及んだリシウス・サロモン大統領の民政の登場を用意した。サロモン大統領はムラートではなく、南部の黒人有力者の出であり、ムラートが排除されたフォースタン帝国時代に財務大臣に起用されて、貿易の国家独占体制を構築するなどの辣腕を振るった。しかし、フォースタン帝国崩壊により海外亡命に追い込まれていた。
 転機はすでに60歳を越えていた79年のこと、この年、帰国が許されたサロモンは多数派の支持を得て大統領に就任した。欧州での亡命生活からハイチ近代化の必要性を痛感していた彼は、就任早々から矢継ぎ早に国立銀行の設置や郵便制度の創設、教育制度の充実、軍の再編・近代化などの諸改革に取り組んでいった。
 ボワイエ時代に負った独立承認の代償としてのフランスへの賠償金返済は完了しなかったものの、サロモン時代には、砂糖を中心にハイチ経済は成長軌道に乗り始めた。こうして今日でも近代化の父として記憶されるサロモンであるが、ムラートは政権発足直後から巻き返しを狙っていた。
 数々の陰謀をくぐり抜けてきたサロモンであるが、憲法を都合よく書き換えて86年に任期七年で大統領に再選を果たすと、反乱は大規模になるとともにインフレにも見舞われる中、88年、ついにサロモンは辞任・亡命に追い込まれた。こうしてハイチ史上初の本格的な民政は9年で終焉した。

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