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2014年12月

2014年12月31日 (水)

静かで不穏な年末

 この一年、経済的な面では特に破局的な出来事もなく終わろうとしているが、石油安やロシアの通貨急落など、静けさの中に不穏さも含む情勢の年末となっている。株価乱高下も見られ、年初の暴落予測もある。
 短期的な予測は様々あるだろうが、長期的には晩期資本主義の特徴がますます色濃くなってきている徴候である。政治的には「アベノミクス」の継続が決まった日本でも、格差拡大や貧困は歯止められず、大衆の景気回復の実感はないままであるが、これも典型的に晩期資本主義である。
 今年、過去最大の被害額を更新した「振り込め詐欺」は、世代間格差も広がる中、無産青年層が有産老年層に仕掛ける日本における現代的な形態の「プロレタリア闘争」となりつつある。もちろん、最も悪質でルンプロ的な形においてであるが。
 格差是正論も虚しく、このような大きな流れは来年も不変と見てよい。晩期資本主義の痛みへの現在的な備えと、来たる未来への展望とを持ち合わせるのはなかなか難しいことではあるが、諦めずに追求するに値する営為であると確信している。

2014年12月29日 (月)

ピアノの政治経済学(連載第10回)

note3:ロマン派の花形楽器③

notesモダンピアノの完成
 モダンピアノの基礎となる19世紀の技術革新の多くはフランス発であったが、その後の展開においてピアノ生産の中心となったのはドイツとアメリカであった。その嚆矢は、今日でもその製品が演奏会用高級ピアノとして使用されているスタインウェイ社の設立である。
 同社は元来、ドイツ人の家具職人であったハインリヒ・シュタインヴェークが1836年以降、ピアノ職人に転じて始めた工房に由来する。彼は1848年、フランスの2月革命に端を発するブルジョワ革命―「諸国民の春」―の余波がドイツにも及び、政情不安が高まったことを機に、家族とともにアメリカへ移住した。
 そうして移住後に名前をアメリカ風にスタインウェイと改名して1853年にニューヨークで設立したのが、スタインウェイ・アンド・サンズ社である。これを機に、新たなピアノ生産拠点としてアメリカが浮上してくるのである。
 スタインウェイは独学のピアノ職人が創業したメーカーでありながら、否、それゆえにと言うべきか、従来のピアノの設計思想の常識を破る革新をもたらした。ヨーロッパの常識では、ピアノは一昔前のチェンバロの延長として、王侯貴族のサロンのような場所やせいぜい小さなホールでの演奏を想定して設計されていたが、初めからブルジョワの国であったアメリカでは今日のコンサート会場の原型とも言える大勢を収容する大ホールでの大衆的な音楽会での演奏を想定する必要があった。
 そのために、スタインウェイのピアノは音響効果の悪い大ホールでの演奏にも耐え得るように、科学的な音響工学を取り入れ、胴部分を分厚く設計するなど、多様な共鳴性に配慮されたピアノであった。こうしたスタインウェイの新基軸は、ブルジョワ革命以後のヨーロッパでも音楽の大衆化が進むにつれ、浸透していった。
 スタインウェイ社は創業者スタインウェイの死後、生産拠点を故国ドイツのハンブルグに移したため、再びピアノ生産の中心はドイツへ帰っていく。ドイツでは他にも、1850年代にベルリンでベヒシュタイン社が設立され、隣接するオーストリアのベーゼンドルファーと並び、ドイツ語圏三大ピアノメーカーが出揃う。
 このようにして、19世紀末には現在のようなモダンピアノが完成を見る。時は資本主義の時代の本格的な始まりであり、商品としてのピアノ生産が開始されるとともに、ピアノ演奏で報酬を得て生活する職業的ピアニストというカテゴリーも誕生してくる。

2014年12月27日 (土)

アイスランド―先取未来国家(連載最終回)

⑩ 国際関係

 アイスランドは、10世紀の建国の後、13世紀以降はノルウェー、続いてデンマークの植民地支配下に置かれるという小国にありがちな運命をたどった。19世紀に独立運動が起きたが、完全な独立の達成は1944年のことだった。
 そうした経緯からも、アイスランドは特に独立性への信念が強い。そのため、その名も独立党という保守系政党がほぼ一貫して政権の中心を担ってきた。独立党政権の外交政策の柱はまさに独立保持にある。
 ただし、軍隊を持たないため、永世中立政策は採らず、国際連合にいち早く加盟するとともに、北大西洋条約機構(NATO)にも加盟し、冷戦時代は防衛委託を兼ねて米軍基地を提供してきた。
 従って、地理的な関係上、北欧の一員として北欧理事会に参加しつつも、地政学上は大西洋を越えて北米と連絡し、広い意味では北米に包含されるような位置にあった。
 一方で、欧州連合(EU)には懐疑的であり、非加盟を貫いてきた。そうした独立志向が変化するのは、2008年の金融破綻の時であった。この時、自国通貨であるアイスランド・クローナは暴落し、アイスランドは国際支援を必要としたが、EU未加盟が壁となり、孤立した。
 そこで、「キッチン用具革命」の最中に誕生した左派政権はEU加盟を外交政策の柱に掲げ、加盟申請に踏み切った。しかし、2010年以降加盟交渉に入ったものの、連立政権に参加した緑左派運動は加盟反対だった。13年総選挙では再び加盟反対の独立党が政権に復帰し、交渉は頓挫している。独立党政権は前政権が公約していたEU加盟是非を問う国民投票にかけることなく、加盟申請の撤回を示唆しており、現時点では加盟の道は遠ざかっている。
 このように、アイスランドの国際関係は依然として独立を重要な柱として成り立っており、国家の枠組みを超えた連合への加盟には否定的なバネが働きやすい。こうした点では、アイスランドは国民国家の枠組みへのこだわりが他国にもまして強く、未来先取り的でなく、古い枠組みになお執着しているとも言える。
 そのため、「未来先取国家」の副題のもとに紹介するには適さないかもしれないが、そこには数百年にわたり植民地支配下に置かれ続けた苦い歴史への反省があるだろう。一方で、先祖の地であるノルウェーへの統合を望む声も聞かれるなど、小国の独立保持には揺らぎも見えている。その限りでは、国民国家の未来が垣間見える。

fuji国民国家へのこだわりの強さという点では、やはり日本とも共通項を見い出せるアイスランドだが、外国からの移民の受入れには意外に積極的で、人口の10パーセントを移民が占めており、同1パーセントの日本とは対照的である。アイスランドの国際関係においては独立がキーワードであるが、孤立・鎖国政策とは無縁である。独立を保持しつつ、開かれた島国たらんとしているようである。

2014年12月24日 (水)

関東通史―中心⇔辺境(4)

五 東国の自立化

 律令体制下の関東は、駅伝制のような古代的交通手段の発達により、それ以前に比べれば中央の統制が及ぶようになった。平安時代に入ると、関東八国のうち、常陸国、上総国、上野国の三国は親王任国となり、親王が遙任ながら国司に任命される枢要地域となった。
 ただ、平安中期以降、公地公民を理念とする律令制収奪体制はほころびを見せ始め、次第に前封建制的な様相を呈するようになる。国司は親王に限らず、遙任が多くなり、在地管理者層(開発領主)による土地私有制が発達していく。
 こうした開発領主層は相互に対立することも多く、しばしば武力紛争に及ぶこともあった。有力者は常時武装するようになり、一部は後の武士の前身を成した。
 中央から地理的にも遠い関東はこうした律令制解体の象徴となった。再び、関東は中央からの自立化傾向を見せ始める。まだ関東が中心としての座を畿内から奪還するのは遠い先であったが、その前哨戦となる大事件が10世紀前半に発生する。平将門の乱である。
 平将門は臣籍降下された皇族一門桓武平氏の一員であるとともに、関東に土着し、後世武家として大勢力を築く坂東平氏の初期の実力者でもあった。彼は下総国を本拠とした父・良文の下、関東に生まれ、成長してから一時出仕した中央では地位に恵まれず、帰郷した。
 彼が首謀して起こした反乱の経緯についてはすでに多くの叙述があるため、割愛するが、ともあれ彼が「新皇」を名乗り、関東を「独立」させようとしたことは、天皇王朝にとっては衝撃であり、看過することのできない大逆であった。
 朝廷では直ちに討伐軍を組織し、派兵した。この時に活躍したのが、藤原氏一門でありながら、やはり関東に本拠を持った藤原秀郷である。秀郷の出自に関しては藤原氏仮冒説もあるが、藤原氏系としても関東に土着した傍流の出であることは間違いない。
 共に中央の皇族・貴族の末裔である二人の関東人の武将が関東を舞台に激突し、将門は敗北した。彼の関東独立の野望は虚しく潰えたとはいえ、将門は関東における伝説的英雄となった。彼は出自からしても民衆の代表者などではなかったが、周縁の地として中央の収奪対象とされてきた関東の民衆にとって、中央に楯突いて壮絶な死を遂げた将門は英雄に映ったであろう。
 反乱自体は比較的短期に平定されたが、事件の歴史的な余波は大きかった。将門も属した坂東平氏と後に多くの関東武士団の母体ともなる藤原秀郷一門は、後に関東を拠点とする武家時代を用意する基盤となる。将門の野望は時期尚早ではあったが、空想ではなかったのである。

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2014年12月21日 (日)

STAPは疑似科学か

 今年の科学ニュースを最も騒がせたSTAP細胞問題は、結局「存在せず」で幕を下ろすことになりそうである。再現できたが、その確率が極めて低いというのでなく、実験者本人が試行しても何ら再現性なしというのは深刻すぎる。それは、初めから捏造だった可能性が高いことを意味するからだ。
 特許競争も絡み、成果を焦るあまりに捏造に走ったのだとしたら、科学の余白ならぬ全くの空白だったことになる。個人論文でなく、一度は日米の有力研究者が名を連ねた国際論文として発表されたからには、科学史に残る大捏造事件である。
 ただ、門外漢にとってなお気になるのは、STAP細胞なるものは生物学の理論上あり得ないものなのか、それとも理論上はあり得るが、実験室で作成する技術がいまだ開発されていないのか、という点である。そもそも生物学上あり得ない荒唐無稽なものなら、STAP細胞は科学の衣を着た共同幻想、ある種の疑似科学だったことになる。
 今のところ、この点について明言する専門家を見ないのだが、これは科学の本質に関わる重要問題ではないだろうか。生物学は物理学のように理論と実験が分化していないため、理論的な予言はしにくいことは理解できるが、無駄な実験を続けないためにも、理論的予言が必要ではないか。

2014年12月18日 (木)

アイスランド―先取未来国家(連載第10回)

nine 政治制度

 アイスランドの公式建国年は西暦930年とされるが、これは世界最古の議会制度(アルシング)が発足した年とされる。ただ、議会といっても、近代的な意味での議会ではなく、あくまでも氏族制を前提とした古代ゲルマン民族共通の民会制度の発展形態にすぎなかった。
 とはいえ、アイスランドは主としてノルウェーバイキングを主体とする入植者が形成した島国であり、建国以来君主や貴族を持たず、市民的共和制の伝統を貫いてきた(デンマーク統治時代はデンマーク王制に服した)数少ない国の一つである。
 長いデンマークの植民地支配から解放された1944年以降は、大統領共和制の基本を維持してきた。ただ、大統領は直接選挙で選ばれながら、原則として象徴的な存在にとどまり、政治の実権は内閣を率いる首相にあるため、実質上は欧州によく見られる議院内閣制とも言える。
 ただ、大統領には立法拒否権を行使し、国民投票に付する権限が付与されており、重要な局面でこの伝家の宝刀を抜くことがある。2008年の金融破綻に際しては、銀行救済法案に対してグリムソン大統領が拒否権を行使し、国民投票にかけたことで、「キッチン用具革命」に拍車をかけた。
 現時点で五期目の長期在任となっているグリムソン大統領は二期目に史上初めて大統領拒否権を行使して物議を醸した人物でもあったが、直接選挙制の大統領に拒否権のような消極的な牽制権を付与する制度はそれなりにバランスの取れた民主制度とも言える。
 ただ、アイスランドの政党地図は北欧の中では最も保守的である。実際、「革命」までは保守政党である独立党を中心とする保守連立政権(時に保革大連立)がほぼ続いてきた。北欧を特徴づける社会民主主義政党は相対的に弱く、社民主義政党中心の左派政権は先の「革命」の時に初めて成立したが、次の選挙では再び保守系政権に戻った。*ただし、農民系保守政党・進歩党が躍進した。
 建国の経緯から平等性の高いアイスランドでは貧富格差も小さく、階級対立がほとんど見られなかったことから、左右のイデオロギー対立はなく、保守政党もリベラルで、社民主義とも重なり合う。そのため、アイスランドは多党制ながら、柔軟な政策本位の政治を可能としている。このことは、未来の政党なき民主主義のほのかな予示と言えるかもしれない。

fuji共和制の経験のない日本と古代の建国以来共和制のアイスランドの政治的な相違は大きいとはいえ、保守優位の議院内閣制という限りでは、日本政治とも意外な共通項のあるアイスランド政治であるが、保守の中身は相当に異なっている。日本保守はますます右傾化し、欧州なら単なる保守の一線を越えて極右に分類されかねない地点まで来ている。表面上似ていても、行く先はかなり違ったものとなるはずである。

2014年12月15日 (月)

ハイチとリベリア(連載第10回)

三 リベリア建国(続き)

建国初期の成功
 1847年に独立したリベリアは、ハイチとは異なり、アメリカ憲法に倣った憲法を備え、首都もアメリカの第5代モンロー大統領にちなみ、モンロビアと名づけられるほど、アメリカとの結びつきが強かったが、それはリベリアの建国初期をアメリカ的な民主政治の国として出発させることにもなった。
 独立に際して初代大統領に就いたのは、支配層アメリコ・ライベリアンの貿易商人の出身であるジョセフ・ジェンキンス・ロバーツであった。アメリカのバージニア州で白人農園主とムラートの母との間に生まれた彼は初めから解放身分の生まれであり、血統的にも黒人の血は希薄で、準白人と言うべき人物であった。
 若い頃にアメリカ植民協会の募集に応じてリベリアへ移住したロバーツは兄弟とともに貿易商として成功し、財を成した。政界入りのきっかけは、1839年にアメリカ植民協会によりリベリア植民地副知事、続いて初の黒人知事に任命されたことである。ロバーツはこうした植民地行政の経験をもとに、1847年の第一回大統領選挙で当選し、初代大統領に就いたのだった。ほぼ予定されていたコースである。
 就任当初のロバーツは内と外に大きな課題を抱えていた。内の問題としてリベリアの大多数を占める先住黒人部族との関係があった。ロバーツはかつて植民地の安全保障を担当する高等保安官として民兵を組織して領域拡大に寄与した経験があったが、大統領としては当初共和国に参加せず、独立国を形成したメリーランド植民地と共同して先住民勢力を軍事的に制圧する一方、外交的な手法も使って先住民を共和国へ統合する努力を続けた。
 外の課題は、英国をはじめとする植民地主義の西欧列強との関係であった。彼はまず最も脅威となる英国を直接訪問し、時のビクトリア女王と謁見していち早く英国からの承認をとりつけることに成功した。これをきっかけにフランスや、海を越えてブラジルやハイチからの承認も得るなど、ロバーツ外交は成功を収めた。
 ロバーツのこうした卓越した外交手腕により、リベリアは建国当初の困難な時期を乗り切った。貿易商の経験も生かして貿易の振興に努めたほか、学校の設立など教育の充実にも力を入れた。かくして、リベリアの船出は混乱の続いたハイチとは好対照のものとなった。
 ロバーツは1855年の大統領選挙ではコンビを組んでいたベンソン副大統領に敗れ、翌年退任するが、1870年代にもう一度大統領に返り咲くなど、建国の父として現在でも記憶されている。とはいえ、ロバーツに始まるアメリコ・ライベリアンの寡頭制支配は、その後100年以上にわたって続いていくのである。

2014年12月12日 (金)

関東通史―中心⇔辺境(3)

四 東国支配の完成

 7世紀までに、関東は国造制を通じて畿内王権の支配に組み込まれたとはいえ、交通・通信網が決定的に不備な時代、その支配はなお脆弱であった。
 状況が変わるのは、7世紀半ばの大化の改新以降のことである。この政変をきっかけに畿内王権は、およそ半世紀をかけて超越的な君主たる天皇を頂点とする律令制の建設へ向かうこととなった。
 律令国家建設のプロジェクトは、単に法令の整備にとどまらず、地方行政組織の刷新も含まれていた。大化の改新直後の地方制度大改正で、国造制が事実上解体され、評(こおり)制が導入された。各評には、評督・助督という二人の行政官を置き、在地豪族を任命して、ツートップ体制で中央への忠誠競争をさせるようにした。
 このような制度改正は従来の国造という人中心の地方支配から評という行政単位を基礎とする支配に変革され、中央集権が強まったことを意味している。
 大化の改新の首謀者の一人でもあった天智天皇の治世になると、百済存亡をめぐって戦った唐に対する防衛政策として、古代徴兵制である防人の制度が創設され、関東は兵士の給源となった。『万葉集』には防人の悲哀を主題とした歌が多数収録されているが、そこでは東国特有の方言も使われ、飛鳥時代に至っても言語的にはなお畿内との差異が大きかったことを窺わせている。
 経済的には関東は全般に未開発かつ人口希薄であり、天皇王朝は西日本からの移住や百済滅亡後に亡命してきた百済人王族・貴族らの移住も奨励し、開発に当たらせた。関東に少なくない高麗、狛江など朝鮮半島由来の地名の少なくとも一部は、そうした渡来人移住政策の痕跡と考えられる。
 律令国家建設の集大成となった8世紀初頭の大宝律令で国郡里制が敷かれ、全国的に国司の配置が展開されたことで、天皇王朝の関東支配も完成に達する。旧豪族らは国司の下でより狭い地域を管轄する郡司に格下げとなった。
 律令制下の関東は、相模国、武蔵国、下総国、上総国、安房国、常陸国、上野国、下野国の八つの令制国に分けられるとともに、広域地方行政区分である五畿七道の制度も整備された。この区分は畿内を出発点とする道を基準とした地方区分であるため、関東地方が含まれる道は今もその名が残る太平洋岸の東海道と内陸の東山道である。
 これに伴い、東海道の伊勢国の鈴鹿関、東山道の美濃国の不破関、北陸道の越前国の愛発〔あらち〕関の三関から東の地域を広く「関東」と称する通称的地理的概念が生じた。
 こうした五畿七道を物理的に支える律令制的な交通システムである駅伝制の整備により、関東も畿内と直結され、以前に比べれば辺境ではなくなったとはいえ、しばしば流刑地にも利用されるなど、関東はなお周縁の地であった。

前回記事を読む

2014年12月10日 (水)

言語発展論(連載最終回)

第2部 英語発展史

八 「計画英語」の可能性

 前回まで、北ヨーロッパのマイナーなゲルマン系部族語にすぎなかった英語が、事実上の世界語として地球全域に広がるまでの発展過程を大づかみで見てきた。しかし、本連載本来の目的は計画言語の可能性を探ることにあった。
 現在、紛れもなく英語が事実上の世界語として世界制覇している言語現実を直視するなら、新たな計画言語の創案に取り組むよりも、英語そのものをより普遍性の高い世界語に創り直すこと―言わば計画英語―のほうが現実的ではないかとの発想もあり得るところである。そこで、最後にこの問題を検討して締めくくりとしたい。
 実は、そのような計画英語に近い先行的な試みは、すでに存在する。第1部でも紹介したベーシック・イングリッシュがそれである。ただ、この試みは使用単語の数を制限することで、英語を簡明なものにするという言語簡略化の構想であるので、厳密な意味では計画英語ではない。
 このような言語簡略化に対しては、真の英語を使いこなす層と簡略英語しか使えない層とに言語階層化が生じるということが懸念されているが、そうした問題は、例えば簡略英語を国連公用語に指定するといった国際言語政策によって克服できる。
 より本質的な問題は、単語を量的に制限すると、かえって言語運用が困難になることである。逆説的であるが、特定の単語の使用を制限して他の単語の組み合わせによる言い換えを要求されるほうがよほど言語的習熟を要することなのである。
 そこで、計画英語といった場合、単語数の制限ではなく、むしろ現代英語の最大の難点である綴りと発音の不一致の是正をまず考えることである。
 例えば、「知る」を意味する初歩的単語knowにしても頭文字は発音されない黙字であるが、こうした黙字を排除して、nowと綴る。ところが、これだと「今」を意味する副詞のnow[nάʊ]と重なってしまう。これはowという同じスペルを二種類に発音するという混乱から来るものであるので、副詞のnowを発音記号に近いスペルnawに代えることも一考に値する。もっとも、awはawfulのように「オー」と発音されるので、このような長母音は発音記号にならってo:fulと綴るなどの新たな工夫も必要であろう。
 こうした綴りと発音の合一化にとどまらず、文法的にも不規則変化動詞を廃して、例えばknowの過去形はknewではなく、原則どおりknowed(頭の黙字を廃するなら、nowed)とするというように規則変化で統一する簡略化を進めることで、規則性に富んだ計画英語を創案し直せる可能性は開かれる。
 もしこのような計画英語プロジェクトが成功すれば、征服言語としての現代英語から計画言語としての未来英語への変革という英語発展史を画する新たな段階を迎えることになるだろう。

2014年12月 7日 (日)

アイスランド―先取未来国家(連載第9回)

eight 福祉政策

 北欧と聞けば、日本では福祉国家のイメージがまず浮かぶ。そのイメージは間違いではないが、北欧5か国の中でも孤島であるアイスランドは他の4か国とはやや違っている。
 たしかに、アイスランドも小さいながら北欧型福祉国家であり、20世紀半ばにようやくデンマークから独立して以降、その基本構造は政府が税を財源に広範囲にわたり公的に社会サービスを提供するいわゆる北欧モデルを踏襲していた。
 とはいえ、一般的な北欧諸国とは異なり、島国のアイスランドでは家族や近隣ネットワークを通じた私的扶助のシステムが機能してきた。そのため、福祉国家とはいえ、最盛期のスウェーデン福祉国家のように大規模な公的支出に支えられた社会保障制度は構築されず、北欧の中では相対的に最も公費負担率の低い国であり続けた。
 こうした構造は、元来、他の北欧諸国と異なり社会民主主義政党が弱く、保守系優位であったことも手伝い、新自由主義の影響を受け入れやすかった。90年代半ば以降、保守政権の下で福祉政策の見直しが集中的になされた。福祉国家は解体こそされなかったが、社会サービスへの公的支出は削減され、民営化も進められた。結果として、理論的な北欧モデルからはみ出す独自のアイスランド・モデルと呼ぶべきものが形成された。
 しかし、2008年の大不況最中での「キッチン用具革命」の結果、史上初めて社民党主導の左派連立政権が成立したことで、流れが変わった。金融破綻は徳政令や銀行の責任追及に向かわせ、市場偏重・社会サービス削減とは別の道が目指された。政権は危機を逆手に福祉国家の再構築を試みたのだった。
 しかし、次の選挙で、有権者は再び保守系政権を呼び戻した。これによって、「革命」も一段落し、元のアイスランド・モデルに復帰していこうとしているかのようである。亡国寸前まで追い込まれた金融破綻を乗り切った後のアイスランド・モデルの行方はまだ明確ではない。

fujiアイスランドは日本よりははるかに福祉国家的であるが、私的扶助の気風も強く、公的支出が限定的である点では共通項もある。しかし島国とはいえ、「大国」日本では私的扶助の絆も弱まるばかり。そこへ財政再建のための支出削減・増税が加わり、生活破綻の予感も迫る。アイスランドの将来もなお不透明で、金融破綻以降貧困率は上昇している。一方、マクロ的にはEU平均を超えるV字回復傾向も見られる。「アベノミクス」との対比で、アイスランド・モデルの行方を見ていくことには意義があるだろう。

2014年12月 4日 (木)

ハイチとリベリア(連載第9回)

三 リベリア建国(続き)

リベリア建国
 アメリカからのリベリア植民は、当初アメリカ植民協会主導で行われたが、その後も、メリーランド州をはじめ、州レベルでの植民協会が出来始め、続々と植民地が形成されていく。
 こうして次第に拡張されていったリベリア植民地では、建国後のリベリアの歴史を大きく規定してきた社会階層が成立する。まず最上層に位置するのは、アメリコ・ライベリアンと称されるアメリカからの黒人移民であった。 
 かれらは元奴隷とはいえ、アメリカという「文明社会」からの移住民であって、植民地にあってもアメリカ式生活を維持し、英語を母語とした。現地では貴族こそ名乗らなかったものの、ミスターと呼ばせる旦那衆であり、同じ黒人ながら現地先住民に対しては優越的態度で臨んだ。
 一方、アメリコ・ライベリアンに従属させられたのは、現地の先住黒人部族であった。リベリアには今日でも多数の部族が存在するように、統一的な国家はなく、部族割拠状態であった。それが入植を容易にした要因でもあったが、何の摩擦もなかったわけではなく、現地部族は時に抵抗し、武力衝突に発展することもあった。しかし武力で勝る植民地側が圧倒し、領地を拡大して先住部族を支配下に置いた。
 両者の中間には西インド諸島出身の解放黒人奴隷もいたが、おおむね少数のアメリコ・ライベリアンが多数の先住部族を支配する非対称な社会構造が早くから確立された。
 さすがに先住部族を奴隷化することはなかったが、「ミスター」のアメリコ・ライベリアンと先住部族との関係は主人と従者のような関係に近かった。言わば、アメリコ・ライベリアンたちは、白人がアメリカで作り上げたのと同様の社会をリベリアに作ろうとしていたのだ。
 しかし、リベリア植民地支配層及び植民協会が恐れていたのは、現地部族の抵抗以上に英国の出方であった。英国は北で隣接するシエラレオーネを植民地としており、南下してリベリアの併合・領有を図るのではないかとの懸念があったのだ。そこへ、リベリアの植民地財政を支えてきた植民協会の財政逼迫という経済的な懸念も加わった。
 こうした懸念をも背景にリベリア植民地は次第に自治権を拡大し、1839年には複数の植民地が統合され、リベリア連合が成立していたが、1847年に至って、リベリア共和国として正式に独立する運びとなった。
 かくして、英国など西欧列強によって植民地化されていった周辺地域とは全く異なる経緯で100年以上早く独立したのがリベリアである。解放黒人奴隷が主体となって建国した共和国としては、ハイチに続いて二つ目であった。

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