« 言語発展論(連載第16回) | トップページ | ハイチとリベリア(連載第9回) »

2014年11月30日 (日)

関東通史―中心⇔辺境(2)

三 「東国」の征服

 日本書紀では景行天皇紀の日本武尊の東征物語として関東への畿内王権の勢力拡張の様子が説話的に描かれているが、史実としての関東征服は6世紀から本格化するものと見られる。最大の征服目標は北関東の毛野国であった。
 おそらく6世紀半ば過ぎ頃、大氏族の毛野氏が征服され、上毛野氏と下毛野氏に分割されたものと見られる。日本書紀ではその間の事情について特に記されていないため、両毛野氏の分岐は大氏族にありがちな内紛による分裂の可能性もあるが、どちらにせよ毛野氏の畿内王権への服属は関東全体の畿内への吸収を早めたであろうことは間違いない。
 以後、関東では畿内王権による直轄領(機関)屯倉の設置が相次ぎ、支配密度も高まっていく。この点で注目されるのが埼玉県下最大規模の古墳群として知られる埼玉(さきたま)古墳群である。同古墳群に属する稲荷山古墳から5、6世紀頃の貴重な文字史料としても知られる銘文の刻まれた鉄剣が発見された。
 鉄剣にも記された同古墳の主ヲワケ臣なる人物の素性については諸説あるが、拙見は欽明天皇時代に中央から派遣された屯倉の管理者的な人物(地方長官)とみなしている(詳しくは拙稿参照。なお、鉄剣の意味等については別拙稿参照)。 
 ちなみに、埼玉は武蔵国の中心地でもあり、とりわけ150基以上の古墳が集中する行田市付近には北関東の毛野氏に匹敵するような大氏族が拠っていた可能性はある。ただし、畿内型の際立った大型古墳を擁して突如出現し、かつては数十もの陪塚が存在したという埼玉古墳群自体は、比較的短期間この地にあった豪族勢力の墓地であった可能性が高いと思われる。
 畿内王権の支配が広域化するにつれ、中央派遣の官人に直轄統治させることには限界が生じ、服属させた現地豪族に地方行政を委ねる国造制が導入され、ある種の地方分権体制が確立された。関東にも无邪志(武蔵)国造を筆頭に、北関東から房総を含む南関東まで20を超える国造が任命されている。
 もっとも、例えば无邪志国造などは出雲国造と同祖とされ、出雲系の官人であった可能性もあり、重要拠点にはなお中央派遣の官人を配置して、要所を締める政策を採った可能性は十分に認められる。
 しかし、このような国造分権体制は国造同士をライバル関係に置いて潰し合いをさせる点では有効であった。特に広大な関東は20以上の国造が割拠する所となり、日本書紀でも安閑天皇紀に説話風に記されてい武蔵国造の乱のように、国造の地位をめぐる地方豪族同士の紛争に畿内王権が介入し、支配権を強めるような戦略も採られたものと見られる。
 そのようにして、関東は畿内王権の支配下に編入されていくが、分権割拠体制の弱点として、支配密度にはなお限界が否めないことがあった。地方反乱や面従腹背の半独立状態が生じる恐れは常にあり、距離的にも畿内から隔たった関東は7世紀のいわゆる「大化の改新」の頃まではなお一定の自立性を保持していた。

前回記事を読む

« 言語発展論(連載第16回) | トップページ | ハイチとリベリア(連載第9回) »

〆関東通史―中心⇔辺境」カテゴリの記事

2018年10月
  1 2 3 4 5 6
7 8 9 10 11 12 13
14 15 16 17 18 19 20
21 22 23 24 25 26 27
28 29 30 31