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2014年11月

2014年11月30日 (日)

関東通史―中心⇔辺境(2)

三 「東国」の征服

 日本書紀では景行天皇紀の日本武尊の東征物語として関東への畿内王権の勢力拡張の様子が説話的に描かれているが、史実としての関東征服は6世紀から本格化するものと見られる。最大の征服目標は北関東の毛野国であった。
 おそらく6世紀半ば過ぎ頃、大氏族の毛野氏が征服され、上毛野氏と下毛野氏に分割されたものと見られる。日本書紀ではその間の事情について特に記されていないため、両毛野氏の分岐は大氏族にありがちな内紛による分裂の可能性もあるが、どちらにせよ毛野氏の畿内王権への服属は関東全体の畿内への吸収を早めたであろうことは間違いない。
 以後、関東では畿内王権による直轄領(機関)屯倉の設置が相次ぎ、支配密度も高まっていく。この点で注目されるのが埼玉県下最大規模の古墳群として知られる埼玉(さきたま)古墳群である。同古墳群に属する稲荷山古墳から5、6世紀頃の貴重な文字史料としても知られる銘文の刻まれた鉄剣が発見された。
 鉄剣にも記された同古墳の主ヲワケ臣なる人物の素性については諸説あるが、拙見は欽明天皇時代に中央から派遣された屯倉の管理者的な人物(地方長官)とみなしている(詳しくは拙稿参照。なお、鉄剣の意味等については別拙稿参照)。 
 ちなみに、埼玉は武蔵国の中心地でもあり、とりわけ150基以上の古墳が集中する行田市付近には北関東の毛野氏に匹敵するような大氏族が拠っていた可能性はある。ただし、畿内型の際立った大型古墳を擁して突如出現し、かつては数十もの陪塚が存在したという埼玉古墳群自体は、比較的短期間この地にあった豪族勢力の墓地であった可能性が高いと思われる。
 畿内王権の支配が広域化するにつれ、中央派遣の官人に直轄統治させることには限界が生じ、服属させた現地豪族に地方行政を委ねる国造制が導入され、ある種の地方分権体制が確立された。関東にも无邪志(武蔵)国造を筆頭に、北関東から房総を含む南関東まで20を超える国造が任命されている。
 もっとも、例えば无邪志国造などは出雲国造と同祖とされ、出雲系の官人であった可能性もあり、重要拠点にはなお中央派遣の官人を配置して、要所を締める政策を採った可能性は十分に認められる。
 しかし、このような国造分権体制は国造同士をライバル関係に置いて潰し合いをさせる点では有効であった。特に広大な関東は20以上の国造が割拠する所となり、日本書紀でも安閑天皇紀に説話風に記されてい武蔵国造の乱のように、国造の地位をめぐる地方豪族同士の紛争に畿内王権が介入し、支配権を強めるような戦略も採られたものと見られる。
 そのようにして、関東は畿内王権の支配下に編入されていくが、分権割拠体制の弱点として、支配密度にはなお限界が否めないことがあった。地方反乱や面従腹背の半独立状態が生じる恐れは常にあり、距離的にも畿内から隔たった関東は7世紀のいわゆる「大化の改新」の頃まではなお一定の自立性を保持していた。

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2014年11月26日 (水)

言語発展論(連載第16回)

第2部 英語発展史

七 征服言語:現代英語

 17世紀に入ると、近世英語は次第に現代の学習者が目にする近代英語としての体裁を整え始める。近世英語は主にシェークスピアのような文学者や文筆家個人に支えられた言わばパロールの積み重ねで発展したが、科学の時代に入った18世紀以降は言語学の発達により、言語体系としてラングの整備が進んだ。
 その契機となったのは、英語辞書の編纂である。最初期の英語辞書として、後世にも強い影響力を持ったのは、ハノーバー朝時代の1755年にサミュエル・ジョンソンが独力で編纂したその名も『英語辞典』である。ジョンソンは詩も書く多彩な文筆家であったが、古典に通じた文献学者でもあった。そのため、『辞書』は語学辞書というよりは皮肉な警句家としても知られたジョンソン自身のウィットに富む短文解説付きの百科事典的な書物となった。
 本格的な語学辞書は海を越えた米国で、建国の父の一人でもあるノア・ウェブスターが1828年に完成させた『アメリカ英語辞典』が嚆矢であった。英国でも遅れて1857年から『オックスフォード英語辞典』の編纂事業が始められた。
 今日でも最も権威あるオックスフォード辞典の編纂は、英国初の言語研究学会であった「文献学会」による学術的な集団プロジェクトであり、辞書を共同で編纂する事業としての嚆矢ともなった。このプロジェクトは「歴史的諸原理に基づく新英語辞典」と名づけられていたとおり、世代を超えたものとなり、分冊第一巻が世に出たのは1880年代のことであった。
 時は大英帝国の全盛期、英国はまさに七つの海を支配し、その植民地や保護領は文字どおり地球全域に及んでいた。辞書によって体系化された「本場」の英語は、英国の支配領域でも公用語として強制され、それぞれ発音や表現の転訛を伴いつつ、現地に根付いていった。征服言語としての英語史の始まりである。もっとも、より地域限定的にはイングランドに征服された本来ケルト語系のスコットランドやアイルランドで英語の征服言語化が始まっていた。
 同時に、ウェブスター辞典に始まる標準米国英語との綴りや発音、表現の差異も明確になっていく。今日でこそグローバルなスタンダード英語となっているのは米国英語であるが、これは20世紀以降、英米の覇権交代により米国が世界を支配するに至って生じた最も新しい征服言語としての英語の姿である。
 特に冷戦終結後は米国中心のグローバル資本主義の広がりによって、交渉言語・国際商業語としての英語の爆発的普及現象が見られる。このグローバル英語はもはや必ずしも米国英語そのものではないが、英語学習書は米国英語を標準とすることが多く、事実上は米国英語が世界を席巻している。

2014年11月24日 (月)

ハイチとリベリア(連載第8回)

三 リベリア建国

アメリカ植民協会
 胡椒類似の香辛料の産地であることから、西洋の航海者によって「胡椒海岸」と名づけられた西アフリカ沿岸のリベリアの建国は、アメリカの奴隷制を抜きには語ることができない。ラテン語で自由を意味するリベルに由来するリベリアという国名自体、黒人解放奴隷によって建てられた歴史が刻まれている。
 最初にリベリア植民地が建設される契機となったのは、まだアメリカ独立自体からも間もない1816年に設立されたアメリカ植民協会である。この協会は、その紛らわしい名称にもかかわらず、アメリカ国内の黒人奴隷を解放し、アフリカの故地に「帰還」させるという壮大な計画を実現するために設立された。
 当時はまだ奴隷解放は時期尚早であった一方で、反奴隷制の人道主義的な思潮も生まれており、ある種の妥協策として、黒人奴隷の一部を解放してアフリカへ「還す」という方策が思いつかれたのだった。黒人を国外に移すという構想は、啓蒙思想家でもあった第三代ジェファーソン大統領がつとに提唱していたところでもあった。
 協会は白人の奴隷所有者層が中心となって設立され、さしあたりは「帰還」希望者を募集し、協会の費用でアフリカへ逆植民するという計画だった。
 1820年には90人近い解放奴隷の移民を乗せた第一回の植民船エリザべス号がニューヨークを出航した。最初に到着した場所はリベリアの隣りのシエラレオーネであったが、慣れない熱帯風土の中でたちまち伝染病が蔓延し、多数が死亡した。
 続いて、翌年には二号船も到着・合流し、生き残りの移民とともにとりあえず初期植民者が出揃う。かれらはシエラレオーネより南の今日のリベリアに向かい、地元部族から半ば脅しで土地を売らせ、最初の植民地ケープメスラドを建設したのである。当初の植民地は狭隘な岬にすぎなかったが、1824年までに領域を拡張して、後にリベリア共和国の原型となるリベリア植民地が形成された。
 しかし、こうした事実上の黒人追放計画に対し、黒人層の反応はおおむね否定的であった。それもそのはずで、すでに大半のアメリカ黒人はアメリカ生まれとなっており、アフリカは先祖の地であれ、「帰還」したいような場所ではなかったのだ。
 そのため、よりアメリカに近い代替地として、黒人解放奴隷がフランスからの独立革命によって建国して間もないハイチに着目され、ハイチ政権との合意によりハイチ移民の計画も実行されたが、これもハイチの貧困や言語慣習の違いなどから失敗したことは前述した。
 いずれにせよ、こうして国民の大半が西アフリカにルーツを持つハイチとアメリカから「帰還」した黒人が建国したリベリアとはその建国前後にアメリカ植民協会―実質上の黒人追放団体―を通じて、いっとき交差する歴史を持ったのであった。

2014年11月23日 (日)

ピアノの政治経済学(連載第9回)

note3:ロマン派の花形楽器②

notes「ピアノの革命家」登場
 ピアノを演奏技術的な面でも革命的に変えたのは、従来西洋音楽世界では辺境の地であった東欧のポーランドに現れたフレデリック・ショパンであった。彼は民族的にはポーランド人ではなく、フランス人の移民二世であったが、ポーランドで音楽教育を受け、後年父祖の地フランスに移ってからも熱烈なポーランド愛国者であり続けた。
 ショパンは、自身「神童」と評されたピアニストとしてスタートし、まだ作曲と演奏の分業体制が確立されていなかった時代には当然のように、作曲活動も開始した。
 しかし、ショパンの作曲活動はほとんどすべてがピアノ独奏曲に集中するという極端な偏りを見せた。作曲の世界では管弦楽曲が花形で、ピアノ独奏曲は「余興」に近く、ほとんど関心を示さない作曲家も少なくないなか、作品の大半がピアノ独奏曲であるショパンは、作曲界ではマージナルな存在である。
 その作風はロマン派風味濃厚な叙情性に満ちていながら、様式的にはなおドイツ古典派に近く、前期ロマン派の保守性を示してもいるが、自身も早熟の傑出したピアニストであった彼は演奏技術面でも一段と華麗で高度な技巧を要する作品を多く送り出し、後のロマン派作曲家にも多大の影響を与えた。その点では、「ピアノの詩人」と称されるショパンは、「ピアノの革命家」でもあった。 
 しかし、初めにも述べたように、ショパンは政治的な面では愛国者であり、たしかにナショナリズムと結びついたロマン派の一員なのであった。同時に、カトリック保守的な面もあり、そのことはマルクスやバクーニンとも交流を持った革命的フェミニストの恋人ジョルジュ・サンドとの決別の一因ともなった。
 ショパンの登場時期は、ピアノの生産拠点に変化が現れた時代にも当たった。ピアノの技術開発の中心は、ダブル・エスケープメント・アクションの開発者エラールを輩出したフランスに移っていた。フランスでは従来の革製よりダイナミズムが増すフェルトハンマーや音の持続性を高めるソステヌート・ペダルなどの新技術の開発も続いた。
 そうした技術開発を経て楽器としての機能がいっそう増強され、ほぼ今日のピアノに近づいた時代にショパンが現れ、技術開発を主導したフランスのパリを拠点に音楽的な面でもピアノを革新したのは、まことにタイムリーなことであった。

2014年11月22日 (土)

関東通史―中心⇔辺境(1)

二 辺境関東の諸王国

 弥生時代以後の関東は、農耕後進地として、縄文時代に保っていた中心地としての地位を当初は大陸に近い北九州を先進地とする西日本に譲ることとなった。
 通説によると、3世紀から4世紀にかけて、畿内に大型墳丘墓を特徴とする強力な王権が成立し、この王権が放射状に支配圏を広げて、後の天皇王朝につながる統一王国を形成したとされる。その過程で、畿内王権の支配は関東にも及ぶようになり、関東でも畿内型と言われる前方後円墳の造営が始まる。
 とはいえ、関東が畿内に完全に服したわけではなく、古墳時代の関東には今日の群馬・栃木にかけての地域を支配した独自の王権の存在が確認される。
 今日、毛野国とも呼ばれるこの関東王権の実態についてはなお議論があるが、関東では最大の古墳密集地である群馬の古墳は畿内と完全に一致しているわけではなく、高句麗的な方墳や積石塚のものも含まれ、高句麗からの渡来勢力の影響を排除できない。この王権の王家であったと見られる毛野氏は後に群馬側の上毛野氏と栃木側の下毛野氏に分立するが、その遠祖は渡来系であった可能性も十分に認められる。
 毛野国の古墳には、東日本最大級にして、全国でも有数の墳丘長200メートル超のものもあり、これを通説のように畿内王権の支配の証しとみなすのは、畿内中心史観のなせるわざである。仮に畿内の「支配」が及んでいたにせよ、その支配密度はまだ高くなく、この勢力が明らかに畿内王権に服するようになるのは、6世紀半ばの欽明朝以降のことであると解するのが私見である(詳しくは拙稿参照)。
 関東地方の王国は毛野国に限らず、古墳の分布上は千葉にもやはり方墳を豊富に含む幾つかの古墳群が認められる。古代には、関東平野東部まで内海の香取海が湾入していたから、千葉の諸勢力と毛野国とは同海を通じて交流していた可能性がある。あるいは、それらは元来同祖勢力であったのかもしれない。
 5世紀後半に中国南朝宋に朝貢した倭王武が中国史書『宋書』倭国伝で引用された上表文中で、武王の祖先は「東は毛人を征すること五十五か国」などと上申しているのは、箔付けの政治的な誇張を含むとしても、広大な関東には大小複数の王国が割拠していたとしても、不思議はない。
 ところで、上記上表文で注目されるのは「毛人」という語である。毛野氏という氏族名もここに由来する可能性があるが、『日本書紀』の日本武尊の東征説話では、より中国風に「東夷」という語でも表現されている関東人たちは、何者だったのだろうか。
 おそらく畿内の人間よりも毛深いため、毛人というような語が造られたとも考えられるが、そうだとすると、この地域の一般住民や兵士はなお縄文系の要素を残した種族であったかもしれない。しかし、古墳に納まった支配層は発掘された人骨などからも、大陸型の形質を持つため、渡来系の血を引く種族であったと推察される。つまり、被支配層の多数派とは民族系統を異にする少数支配層であった。
 しかし、これら関東の諸王国は決して東の蛮国などではなく、畿内に匹敵するだけの文化的水準を備えていたことは、古墳の造営技術や副葬品からも読み取れることである。

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2014年11月20日 (木)

言語発展論(連載第15回)

第2部 英語発展史

六 英語の復権Ⅱ;近世英語

 ばら戦争中の1476年にウィリアム・キャクストンが英国初の印刷所を設立し、英語本の出版を多く手がけた。チョーサーの『カンタベリー物語』を世に出したのも、キャクストンであった。
 キャクストン自身の本業は印刷業者であったが、文筆の分業化が進んでいなかった時代、自身で翻訳も手がけるなど、文筆にも踏み込んたことで、キャクストンはまだ不統一だった英語の正書法の確立にも寄与している。
 15世紀末にばら戦争が終結し、新たにチューダー朝が成立した時には、英語は公用語の地位を回復していた。チューダー朝はウェールズ系であったが、ウェールズはすでにイングランド領となって久しく、ケルト系のウェールズ語が公用語とされることはなかった。英語はこの王朝と続くスコットランド系のスチュアート朝のもとで英国の揺るぎない公用語として定着していく。
 チューダー朝期の英語の集大成は、有名なシェークスピアの作品に認められる。彼は学者ではなかったが、文学者として彼の使用した英語や英語表現は未確立だった近世英語のスタンダードとして模倣されるようにもなり、結果として近世英語の発展に寄与している。
 続いて近世英語の確立に大きく貢献した著作物として、シェークスピア最晩年の1611年に時のスチュアート朝開祖ジェームズ1世の命で編纂・刊行された欽定英訳聖書が知られる。英訳聖書はすでにキャクストンの出版物の中で断片的には見られたが、公式の全訳版は欽定聖書が初めてのものであり、これは宗教政策を通じて正統的な英語が定められたに等しい意義を持つ出来事であった。
 17世紀のスチュアート朝の英語の代表作は、ルネサンス叙事詩として名高いジョン・ミルトンの『失楽園』である。ミルトンはまた清教徒革命時代の共和派文士として、政治的な論説も発表し、近世英語の散文の発展にも寄与した。
 17世紀までには現代英語の直接的な祖となる近世英語が確立される。この時期以降の英語はそれ以前の英語とは大きく変化し、中でも母音の音価が大きく変遷したいわゆる大母音推移は英語に革命的な変化をもたらした。
 これによって、それまでゲルマン系言語として綴りと発音がほぼ対応していた英語に、綴りと発音の広範囲な不一致が発生するようになった。この特徴は現代英語に引き継がれ、しばしば学習者を悩ますところとなっている。また中世英語以来、フランス語系の語彙も継承・定着したため、フランス語式の綴りや発音も混入し、英語体系をいっそう複雑なものにした。
 もっとも、英語史上「初期近世英語」とも呼ばれるこの時代にはまだ学問としての言語学が確立されておらず、辞書や文法書によって国語としての英語の整備が行なわれるには、スチュアート朝を超え、ドイツ系のハノーバー朝が成立した18世紀以降の科学の時代を待つ必要があった。

2014年11月16日 (日)

ピアノの政治経済学(連載第8回)

note3:ロマン派の花形楽器①

notesピアノが主役に
 ベートーベンはピアノの技術革新の過渡的な時代に出て、従来の古典作品とは異なる重厚なピアノ音楽を世に出し、次の時代につなぐ役割を果たした。次の時代とは、いわゆるロマン派の時代である。
 ロマン派は、まさにロマンティックな叙情性を追求する19世紀の新しい音楽潮流であったが、共鳴性と持続性が確保され、交響性の増した19世紀の改良ピアノは、ロマン派的な音楽言語には最適の楽器に仕上がっていた。そうしたロマン派最初期の重要なピアノ音楽家としてはオーストリア人のシューベルトとドイツ人のメンデルスゾーンがいる。
 このうち先輩格に当たるシューベルトは歌曲で最も有名であるが、短い生涯の間に未完を含め21曲のピアノソナタを作曲するなど、ピアノ作品でも足跡を残した。メンデルスゾーンはシューベルトほど多くのピアノ作品を残さなかったが、発表当時非常な人気を呼んだ小品集『無言歌集』はまさに歌曲のような叙情性をたたえたピアノ作品として、ロマン派音楽の先駆けとなった。
 ただ、シューベルトは最も初期のロマン派音楽家であったがゆえに、形式や作風の面ではなお古典派の強い影響を残しており、メンデルスゾーンもまた保守的な作風であったため、いすれも厳密には前ロマン派と言うべき位置にあった。
 ピアノがロマン派音楽の主役として一躍躍り出るのは、奇しくもともに1810年生まれのドイツ人シューマンとフランス系ポーランド人ショパンの二人の登場を待ってからである。このうち、後者のショパンはその全作品の大半がピアノ曲という歴史に残る作曲家の中でも異例なほどピアノに傾斜しており、自身ピアニストとしてもピアノという楽器に及ぼした影響には格別のものがあるので、稿を改めて独立に見るとして、シューマンの貢献にも大きなものがあった。
 後には管弦楽作品を含む総合的な作曲家となるシューマンも初期にはピアノ曲の作曲家としてスタートし、作品番号順に最初の23の作品はすべてピアノ独奏曲であった。彼はそれまでのピアノ作品と異なり、表題と物語性を持った新しいジャンルを開拓し、まさに改良ピアノの特性を生かした交響的な作風の作品が多い。
 ちなみにシューマンの妻クララはピアニストにして自身作曲家でもあったが、女性作曲家への偏見も手伝って作曲家としては成功せず、ほぼ演奏活動に専従するようになったため、結果として、19世紀末以降に確立される職業的ピアニストの先駆けともなった。
 最後にもう一人、特筆すべき人物が、ベートーベンの弟子でもあったチェコ系オーストリア人のツェルニーである。彼も当初はピアニストであったが、演奏活動を早くに退き、今日でもピアノ学習上の定番となっている膨大な数の実用的な練習曲集を作曲し、ピアノ学習者の便宜を図ったことで、ピアノの学習メソッドの確立に多大の貢献をした。
 かくして、ピアノは19世紀の西洋音楽を代表する楽器としての地位を上昇させていくが、それはロマン派が政治的な土壌とした国粋的なナショナリズムとの危険な結びつきをも伴っていた。

2014年11月15日 (土)

ハイチとリベリア(連載第7回)

二 初期ハイチの激動(続き)

フォースタン帝国
 25年に及んだボワイエ独裁体制を倒したのは、ほぼ無名の軍人リヴィエール‐エラールであった。彼は43年4月に新大統領就任を宣言したが、この政治混乱の隙をつく形で、ボワイエ政権が併合していた東部の旧スペイン領が反乱を起こした。
 リヴィエール=エラール大統領は直ちに鎮圧を図るが、敗退し、東部は改めてドミニカ共和国として独立を果たした。これは新大統領にとっては大きな政治的失点となり、リヴィエール‐エラールは政治的基盤を固めることができないまま、44年5月、クーデターにより追放され、国外に亡命した。
 その後、二代にわたり暫定的な大統領を経て登場してきたのは、独立革命以来の古参軍人であるフォースタン‐エリ・スールークであった。彼は南部共和国のペション政権の時代から一貫して国軍畑を歩み、ハイチのキャリア職業軍人の第一世代とも言える人物であった。
 47年の大統領就任前は大統領親衛隊最高司令官の要職にあり、すでに65歳の高齢であったため、当初は暫定政権と思われたが、彼は49年、かつてのデサリーヌに倣いフォースタン1世を称して皇帝に即位した。ここに第二帝政が樹立される。
 フォースタンはムラートの奴隷を母に持ち、従前のムラート支配体制の継承者のはずであったが、皇帝に即位すると、ムラートよりも黒人の忠臣を登用し、黒人貴族制度を創設するなど、社会構造にも手を加えようとした。そのために秘密警察と私兵集団を組織し、政敵を徹底的に排除した。
 対外的には、混乱期に独立した東部ドミニカ共和国の奪還を最大目標に置き、執拗にドミニカ侵攻作戦を繰り返したが、ことごとく失敗に終わった。これはリヴィエール‐エラール政権の轍を踏む結果となり、フォースタン帝国は59年、ムラートの軍人ファーブル・ジェフラール将軍に指揮されたクーデターにより崩壊した。こうして第二帝政もまた一代限りで終焉し、以後ハイチではムラート主導の共和制が定着する。
 フォースタン帝国は10年余りの命脈であったが、フォースタン時代に中央集権体制が固まり、かつ秘密警察と私兵集団というその後のハイチ政治に継承されていく人権抑圧的な政治マシンが導入されたのも、この時代であった。また前の政権とともに、その終わり方は軍事クーデターで頻繁に政権が交代するパターンの先例をも確立することとなった。

2014年11月14日 (金)

「未知子」考

 またも大学病院で、不審な術後死事件である(群馬大附属病院)。術中死と異なり、術後死は因果関係の証明が難しく、うやむやにされやすい。未だ表に出ないケースがどれだけあることか。そういう中、テレビ朝日の連続医療ドラマ『ドクターX ~外科医·大門未知子~』が好調のようである。
 観ている方はご存知のとおり、「失敗しない」と豪語する主人公のフリー女性外科医・大門未知子(米倉涼子)は毎回派遣先病院の権威たちと激突しながらも、名前のとおり未知の難手術にチャレンジし、快刀乱麻のごとく切りまくり、ことごとく成功させる大活躍を見せる。このドラマのどこに惹かれるのかよくわからないが、やはり未知子の痛快なまでのメスさばきか。
 しかし、現実にはあり得ないほどの超難度手術なのに、ろくに倫理審査もインフォームドコンセントもしない。たとえ失敗しなくても、現代医療では容認できない専断的医療行為のオンパレードである。なのに批判されることなく人気シリーズとなっているのは、やはり日本社会に広がる医療信仰、特に外科医を神聖視する外科至上主義の故だろうか。
 医学は果たして科学なのか、という問いを向けても医学界には非礼にならないほど、医学には科学の余白が多い。手術の効果や経過についてもまさしく未知のことは多く、快刀乱麻はあり得ないし、あってもならない。患者の側も医学、特に悪い部分を切除するという一見わかりやすい外科療法を徒に神聖視しない態度が必要ではないかと思う。

2014年11月13日 (木)

アイスランド―先取未来国家(連載第8回)

seven 財政経済

 アイスランドは元来は漁業を主軸とする一次産業国であったが、次第に第三次産業の発達により、小さいながらも欧州有数の経済先進国にのし上がる。1990年代以降は小国にありがちな金融立国を目指して邁進していた。それは成功していたように見えた、2008年の世界大不況までは。 
 国の経済財政を奈落の底に突き落とした大不況の当時、アイスランドは金融・不動産のような投機的分野がGDPの四分の一近くを占める偏向した状況に達していた。
 そうした中、08年9月、大手グリトニル銀行の経営破綻を契機に、他の大手銀行も連鎖的に次々と経営破綻した。デフォルト総額は850億ドル(当時の円換算で約7兆円)だが、GDPが126億ドル(08年当時)規模の国にとっては十分な巨額であった。非常事態を宣言した政府は直ちに破綻行を国有化したうえ、公的資金を投入して救済を図った。
 ここまでは危機管理の虎の巻どおりであるが、違ったのはその先だった。銀行救済優先の危機対応に民衆が強く反発し、大規模な抗議デモを起こしたのだ。しかし銃を向けるのではなく、キッチン用品などを投げつけるという生活感覚溢れる抗議行動を採った。歴史上革命が起きたことのない国柄で、国民は従順と見られていただけに、政府は恐慌を来たした。
 市民の要求は政権交代とともに、制憲会議の招集と憲法改正案の策定にまで行き着いたため、この出来事はそのユニークな抗議手法にちなんで「キッチン用具革命」と名づけられた。不況に絡んで一種の民衆革命が起きたのは、世界でもアイスランドだけであった。
 こうした下からの突き上げの結果として、銀行の大規模な債権放棄(一種の徳政令)と経営破綻を起こした大手銀行幹部から破綻当時の首相の刑事責任の追及という他国では見られなかった市場より生活者重視の危機対応策が実現したのであった。また、男性中心の銀行経営の偏向性も問題視され、女性頭取の抜擢などジェンダー平等的な改革策に及んだのも、かねてより高度なジェンダー政策を持つアイスランドらしさであった。
 このような一見反市場的とも言える危機管理は、経済的にも合理性が証明されている。大不況から6年を経た現時点で、アイスランドの景気回復は順調であり、長期不況に陥っているEU平均を上回る回復ぶりを見せている。こうしたV字回復を後押ししたのは、皮肉にも経済危機で自国通貨アイスランド・クローナが暴落した影響で輸出が大幅に伸びたことであったが、民主的な危機対応で生活者を救済したことも功を奏している。
 こうして産業の乏しいアイスランドは安易な金融資本主義の道に走り、金融破綻による亡国の瀬戸際まで行ったが、それを救ったのは民衆であり、かつ民衆の要求に敏感に反応し、迅速に行動した政府の民主的な姿勢であった。

fuji民衆革命が起きたことのないアイスランドの歴史は、日本とも共通していたが、アイスランドでは亡国の危機の最中で、初めて革命的な市民蜂起が起きた。それはまさに現在的な危機であったがゆえであろう。同じく危機に見舞われた日本では、08年末の「派遣村」止まりであった。危機の規模と影響範囲の相違もあるが、長期的な財政破綻危機を抱える日本では、果たして下からの突き上げは起こるのだろうか。それとも、危機の最中にあっても、国民は唯々諾々と政府に従うばかりであろうか。

2014年11月11日 (火)

言語発展論(連載第14回)

第2部 英語発展史

五 英語の復権Ⅰ;中世英語

 英語の雌伏期にあっても、フランス語を話す王侯貴族階級は少数派であり、英語は大多数を占める非支配層庶民の言語として生き続けていた。しかし、プランタジネット朝の圧政に対する抵抗がこうした支配層と非支配層の階級的言語分断状況に変化をもたらす。
 1258年、時の国王ヘンリー3世に反抗し、封建制の枠内での民主化を求めた諸侯の共同文書「オックスフォード条例」がラテン語、フランス語とともに英語でも記述されたのは、その象徴であった。
 続いて14世紀に入ると、英文学の発達が見られる。その嚆矢は宮廷官僚でもあったジェフリー・チョーサーである。「英文学の父」とも称されるチョーサーは、その代表作『カンタベリー物語』の中で初めて英語で本格的な物語を綴り、その後の文章語としての英語の復権に大きな影響を及ぼした点では、英文学にどとまらない「英語の父」と言うべき存在であった。
 フランス語から英語への公用語の切り替えが公式にはいつ行なわれたかについて、明確とは言えないが、議会その他公式の場での答弁を英語で行なうべきことを定めた1362年の「英語答弁法」―記録は当時の欧州共通文語体であったラテン語によった―は、英語が事実上公用語として復権する重要な契機となった。15世紀のヘンリー6世の時代には、英語が宮廷でも公用語化している。
 14世紀から15世紀半ばにかけて繰り広げられたフランスとの百年戦争は英国支配層の間にも反仏ナショナリズムの感情を強め、フランス系支配層の英語使用慣習を決定づける大きな要因となったと考えられる。
 この頃には、ノルマン・フランス系の上流階級も英国に土着し、アングロサクソン人との通婚・混血が高度に進んでいたことも、このような言語転換を後押ししただろう。しかも、英国の中世を終わらせた15世紀後半の内戦(ばら戦争)は、ノルマン・フランス系貴族の多くを没落・断絶させた。
 ただ、一般に「中英語」と呼ばれる中世時代の英語はまだ正書法が確立されず、方言差による揺れも大きいため、中英語として明確にくくれるほどの統一性を持っていないが、さしあたりは王都ロンドン周辺の方言を基盤とした東部英語が標準語の地位を獲得していく。
 この復権期の時代、英語はフランス語から多くの借用語を取り入れ語彙のフランス化が大規模に生じたほか、ゲルマン語系の複雑な語尾変化の多くを喪失し、屈折語としての性格が希薄になり、次第に孤立語に接近した最小限屈折語としての近代英語の顔が現れ始める。そうした点では、中世は英語にとっても一大転換期であったと言える。

2014年11月 9日 (日)

ハイチとリベリア(連載第6回)

二 初期ハイチの激動(続き)

ボワイエ独裁時代
 ペションの南部共和国を継承したボワイエ大統領は、崩壊した北部王国を併合し、ハイチ再統一を果たしたのに続き、1821年にイスパニョーラ島東部のスペイン領サントドミンゴがスペインから独立すると、すかさず侵攻・併合し、以後イスパニョーラ島全島を支配下に置く。
 こうして国内的には強力な基盤を築いたボワイエ政権が最初に直面したのが、いまだ独立を承認せず、反攻の機を窺うフランスとの交渉であった。ボワイエは25年、フランス海軍の威嚇の中、フランスとの合意をとりつけたものの、それは独立承認と引き換えにハイチ側が高額な賠償金を支払うという不公正なものであった。粘り強い交渉の結果、賠償金の減額が認められたが、弱小な農業国ハイチにとっては十分打撃となる負担であった。
 統治者としてのボワイエはペションの政策の継承者であり、民主主義には関心を示さず、自らも属したムラートの支配を確立し、準封建的な農業政策を採った。黒人慰撫策として、土地分配政策も導入し、小作農の創設も推進したが、貧困は克服できず、その後のハイチを特徴づけるムラートと黒人の階級格差構造がボワイエ時代に形づくられた。
 ボワイエ時代の出来事の中で、本連載のもう一つの焦点であるリベリアと交差するのは、アメリカの解放黒人奴隷をアフリカへ帰還させる運動を展開していたアメリカ植民協会の要請に応じ、アメリカ黒人の移民受け入れを企画したことである。
 同協会は元来、アフリカ西海岸に黒人入植地を開拓していたが―その一つが後のリベリアとなる―、この頃にはほとんどのアメリカ黒人がアメリカ生まれとなっており、当然ながらアフリカへの「帰還」を望まなかったのだ。そこでより近隣の代替地として、フランスの解放黒人奴隷が建国したハイチに着眼されたのは、自然であった。
 ボワイエはこの計画に乗り、24年、およそ6000人のアメリカ黒人をハイチに受け入れた。しかし、独立を果たしたものの賠償金負担がのしかかる貧困国のうえに、フランス語圏に属するハイチでアメリカ黒人が生活するのは困難を極めた。結局、この壮大なハイチ移民計画は失敗に終わり、多くの移住者が短期間でアメリカへ帰国していった。
 安定していたボワイエ政権も、末期になると、農業生産力を上げるための奴隷制復活や圧政に対する農民の反感が強まり、ついに43年、軍人のシャルル・リヴィエール‐エラールに率いられたクーデターでボワイエ政権は崩壊、ボワイエは海外亡命に追い込まれた。
 かくして、25年に及んだボワイエ政権は終焉したが、政治混乱に満ちたハイチ史全体の中でもボワイエ時代は―20世紀後半に親子二代で30年近く独裁支配したデュバリエ父子時代を除けば―、異例の長期政権であると同時に、ハイチ史上最大領土を支配した最盛期でもあった。

2014年11月 6日 (木)

関東通史―中心⇔辺境(序)

一 先史関東の変遷

 関東地方は、周知のとおり首都東京を中核とする現代日本の政治経済の中心地として定着しているが、歴史的には中心と辺境の地位を幾度となく交替した末に、現在の地位にたどりついている。こうした関東の中心⇔辺境の交替は、歴史時代に入る前の先史時代に始まっている。
 そもそも長く続いた狩猟採集民の縄文時代には、東日本に気候的・環境的優位性があったため、縄文人たちは東日本、わけても南関東に集住するようになった。その結果、南関東に大規模な縄文集落が形成され、まさに今日のように高い人口密度を記録していた。特に貝塚の多くが南関東、特に千葉の東京湾岸に集中していることに照らすと、湾岸千葉は縄文時代の「首都」と言えそうな地域であったかもしれない。
 縄文時代はおおむね一万年にわたって続くから、先史関東が日本の中心地であった時代も極めて長きにわたったことになり、その後、今度は千年以上にわたって中心地の座を西日本に譲ることが不思議なほどであるが、その地位交替は民族構成と経済的土台の変革のゆえであった。
 縄文人は現代日本人とはほぼ別種といってよい―その遺伝子は程度の差はあれ受け継がれているが―南方出自の古いモンゴロイド種族と見られており、遺伝子構造的にはアイヌ民族と近似する狩猟採集民族であった。近年の研究によると、縄文人も単一集団ではなく、北方系も含めた複数系統に分かれていた可能性も指摘される。
 ところが、通説によれば紀元前300年頃(近年の年代測定により、紀元前900年前後まで遡及するとの説が提起されている)に、朝鮮半島から中国江南地方にまたがる大陸文化圏から西日本に移住してきた農耕民集団の東進により、縄文人が順次征服もしくは同化されていき、農耕が関東にも到達する。
 しかし、当時の原始的灌漑技術では、関東平野での農地開拓には限界があり、関東地方への農耕の普及は遅れた。関東での初期農耕は相模平野など、農耕が比較的早くに伝播された東海地方に連なる地域に限定されていた。
 こうして、農耕民の弥生時代が到来すると、関東は長く続いた中心地としての地位を西日本に譲り、農耕社会の確立期まで長く辺境地に甘んずることになる。
 この時期の関東地方の住民がどのような民族であったのかは詳らかでないが、後の史書で毛人、東夷などと蛮族視されるのは、関東地方を征服対象とみなす畿内王権の政治的な意図に基づく蔑称であり、実際には大陸型弥生人の進出により、弥生人化(少なくとも混血化)が進んでいたと見られる。ただ、農耕の伝播が最も遅れた北関東においては、なお縄文人の系譜を引く狩猟採集民が生き延びていた可能性はあるだろう。

元の木阿弥経済

 米国中間選挙で、“資本の味方”共和党が上下両院を制し、オバマ政権を完全レームダックに追い込んだことに早速市場は好感した。政治的には、優柔・半端なオバマ政権に有権者がトドメを刺した形であるが、これで元の木阿弥に戻る準備も整った。
 世界大不況から6年を経て、表面上米国経済が復調したことで、米国の下部構造が本格的に再起動し、大不況の後始末に登場するも、今やお荷物と化したオバマ上部構造を機能停止に追い込んだわけである。これで、金融危機再発防止のための規制改革も潰えるだろう。すでにサブプライムのような投機熱は戻りつつあり、米国発金融危機・大不況の再発も想定しておいて損はない。
 資本主義総体としてみれば、こうした無反省な元の木阿弥経済は経済危機を再発・続発させ、資本主義の体力を自ら奪っていくことで、命を縮める不養生のようなものである。欧州の慢性不況と合わせ、長期展望としては、そろそろ資本主義の終わりが薄っすら見えてくるかもしれない。

2014年11月 3日 (月)

アイスランド―先取未来国家(連載第7回)

six 情報政策

 アイスランドの政策で先進的なものの一つに、情報政策がある。アイスランドは2013年度調査でインターネット普及率が世界トップで、ほぼ100パーセントに近く、電子納税やネットバンキングの普及も極めて進んでいる。
 こうした高度情報社会は自然にそうなったのではなく、政府の意識的な施策の結果である。そうした情報政策の中では、特に「Opportunity(機会)」「Responsiblity(責任)」「Security(安全)」「Quality of Life(生活の質)」の四つが基礎理念として掲げられている。
 中でも、最初の「Opportunity(機会)」とは、個人や企業がITを活用することで知識や交流を深め、いつでもどこでもビジネスをできるようにするという考えで、具体的には電子政府の推進、データの保護、メタデータの登録などについての検討や既存の法律や規制、申請手続きなどの面でインターネット活用ビジネスの障害を除去し、雇用機会を増やすことを政府の責任で主導することを意味する。
 これに関連して、アイスランドは、いわゆるビッグデータを医療に活用することを可能にする「保険医療分野データベース法」や「バイオバンク法」といった施策を世界に先駆けて導入したことでも注目されている。こうした施策をめぐっては当然にも、プライバシー保護や医療データの商業利用などの観点から多くの議論があるにもかかわらず、早期導入に至ったのは、アイスランドの技術に対する関心の高さの表れである。
 そのことは教育面にも現れており、アイスランドでは義務教育段階からプログラミングやパソコンを活用した映像製作など高度な情報教育が取り入れられている。これは先の四つの理念のうち、二番目の「Responsiblity(責任)」に関わり、誰でもインターネットにアクセスできるようにするという観点から、学校や図書館にwi-fiを含む多数のインターネット端末を常備するほか、視覚障碍者や色覚障碍者の利用にも配慮することが目指されているのである。
 一方で、超IT化社会で起こりがちな子どものネット漬けにも配慮し、特にネットゲームが子どもに及ぼす影響に関する調査にも政府が責任を持つとされている。
 こうした先進的な情報政策の目的は、技術大国ぶりを世界に誇示するためではなく、先の四理念の四つ目「Quality of Life(生活の質)」に置かれていることがアイスランドらしさ―広くは北欧らしさ―であり、要するに教育や文化、医療などの社会サービス分野にITを活用して生活の質を高め、より豊かな社会を実現することが究極の目的とされているのである。

fuji日本も技術大国のはずであるが、それは主としてアナログ技術のことで、デジタル技術に関しては後追い状態になっているのではないか。インターネット普及率ですら、いまだトップ10にも入っていない状況であり、学校でのIT教育も遅れている。しかしアイスランドとの違いは技術力の差とは考えられず、政策力の差としか考えられない。日本ではあらゆる施策が「国を豊かにする」という国力増強に傾きがちであるのに対し、アイスランドの場合は、本文でも見たように、「生活の質を高める」ことに置かれる。この違いは、「政策の質」にも影響してくるに違いない。

2014年11月 1日 (土)

言語発展論(連載第13回)

第2部 英語発展史

四 英語の長い雌伏期

 1066年の「ノルマン人の征服」により、ノルマン朝が開かれ、王家をはじめ新たな支配層が使用するノルマン・フレンチがイングランドの公用語になると、英語は庶民の言語として口語の地位に格下げされた。
 新公用語のノルマン・フレンチとは、フランス語のノルマンディー方言であるが、ノルマンディー公家をはじめとする支配層が北欧のデーン人バイキング出自であったため、北欧語に起源を持つ語彙を多く含む独自の方言であった。
 とはいえ、元来バイキングに祖を持つ支配層は少数派であり、公国民の大多数はフランス人であったから、ノルマン・フレンチはロマンス諸語に属するまさにフランス語であり、北欧語本来のゲルマン諸語としての基本構造は失っていた。
 「ノルマン人の征服」当時の古英語はまだゲルマン諸語としての基本構造を濃厚に残しており、ロマンス語系のノルマン・フレンチとは構造的に相容れなかったため、英語は公用語の地位をいったん追われたのであるが、ノルマン・フレンチが公用語となったことで、アングロ・サクソン系の貴族や一部有力町人階級にもこの言語が普及した。
 それによって、アングロ・フレンチ(またはアングロ・ノルマン)と呼ばれるイングランド固有のフランス語が形成され、これが15世紀頃まで公用語・公式文章語として定着していく。
 一方、英語にも、大きな変容が生じた。語彙に関してアングロ・フレンチの影響を強く受け、ゲルマン語起源の単語がフランス語系の単語に置き換わった。特に法律・行政用語やその他の抽象概念を示す単語の多くは、現代英語でもフランス語系のものが使われている。
 ただ、文法構造的な面ではアングロ・フレンチの影響を大きく蒙らなかったのは、支配層の公用語と庶民層の口語の住み分けが厳格に行なわれていたためと考えられる。それだけ、ノルマン朝は権威主義的な征服王朝としての性格が強かったことの反映である。
 ノルマン朝は11世紀に入ってプランタジネット朝に取って代わるが、プランタジネット朝の王家はフランス北西部アンジューに所領を持ったまさしくフランス貴族であったため、これ以降イングランド王家は完全なフランス系となり、これに伴い、アングロ・フレンチもフランス本国のフランス語と近似したものとなった。
 英語が再び公用語として復権してくるのは、このプランタジネット朝の末期であり、この間、英語は数世紀にわたり新装復権を待つ雌伏期にあった。

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