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2014年10月

2014年10月30日 (木)

ハイチとリベリア(連載第5回)

二 初期ハイチの激動

建国と混乱
 1804年、解放軍を率いたデサリーヌはハイチ独立を宣言したものの、彼が樹立したのは、敵方のナポレオンを真似た帝政であった。彼は自らジャック1世を称し、皇帝に即位したのだった。奴隷から皇帝への華麗な転身であったが、長くは続かなかった。
 ジャック1世は自治政府時代のルーヴェルチュールと異なり、寛容さに欠け、白人の殺戮・追放、土地没収といった報復政治を展開する一方、黒人を過酷な農業労働に動員した。こうした初代皇帝の暴政に不満を持った黒人主体の北部の実力者アンリ・クリストフとムラート主体の南部の実力者アレクサンドル・ペションは06年、謀略によりジャック1世を暗殺した。
 こうして「建国の父」デサリーヌ改めジャック1世の支配―第一帝政―は、あっけなく2年余りで終焉した。しかし、同時にハイチは南北で分裂した。北部では当初クリストフが共和制を採ったため、これが事実上世界初の黒人共和国かつラテンアメリカ初の共和国とみなされることもあるが、彼はデサリーヌにならって11年に王制移行を宣言し、アンリ1世を称し、自ら国王に即位した。
 クリストフは自己の権勢を象徴する建造物の造営に血道をあげ、その名残は今日世界遺産に指定されているサン‐スーシ城やシタデル・ラフェリエール城塞などの巨大建造物に見られる。しかし当然にもこうした国費の浪費は国民の反発を招き、政情は不安定であった。精神的にも不安定化したクリストフは20年、自ら命を絶った。続いて王太子も殺害され、クリストフの王国は一代で崩壊した。
 そのクリストフ王国のライバルは、南部のペション治下の共和国であった。フランス人の父を持つムラートのペションはルーヴェルチュールに近い立場を採り、共和制の擁護者をもって任じ、クリストフに対抗した。ペションは農地解放により白人プランテーションの解体と土地の再分配を行なった。また、ベネズエラの独立運動指導者シモン・ボリバルを庇護し、援助を与えるなど、ラテンアメリカ解放にも足跡を残している。
 しかし、当初は民主主義者であった彼もまた独裁の誘惑には勝てず、16年に終身大統領を宣言すると、18年には議会を停止して独裁権を掌握するが、同年、黄熱病のため急死した。
 南部共和国ではペションから後継指名を受けていた同じくムラートの将軍ジャン・ピエール・ボワイエが二代大統領に就任、ボワイエはクリストフ自殺で崩壊した北部王国を併合し、ハイチ再統一に成功した。以後、43年にクーデターで政権を追われるまで、20年以上に及ぶ独裁体制を敷く。
 こうして、西半球に新たな秩序を作り出す契機となった独立国家ハイチの出発点は、混乱に満ちたものとなった。その原因として、ハイチ革命の原動力であった勢力が黒人と混血ムラートの二派に分かれており、これがデサリーヌ暗殺後の南北分裂の要因ともなったことがある。

2014年10月28日 (火)

エボラは怖いか

 エボラ出血熱の疑いある外国人が日本に入国し、パニックになりかけたが、結果はとりあえず陰性とのことで、おさまったようである。意外だったのは、「科学大国」アメリカで少数の医療従事者がエボラに感染しただけで、パニック現象が起きたことである。ここには、政府のアナウンスの問題があるように思われる。
 エボラが恐れられるのは、致死率が高いのに特効薬がないためであろうが、一方で、空気感染しないと考えられるため(飛沫感染はあり)、空気感染の可能性も否定できない強毒性新型インフルエンザよりもたちは良いとさえ言える感染症である。
 また感染元の西アフリカでも収束に成功した国が出ており、リベリアで感染・死亡者が多いのは(最多は隣国シエラレオーネ)、別連載でも触れたように、リベリアが目下、内戦からの国家再建途上にあり、医療・保健体制が未整備な状況にあることが大きいと見られる。逆に、医療・保健体制が整備されている国では、十分予防・治療可能な感染症だいうことでもある。
 このようなエボラの「長所」を十分に情宣せず、致死性ばかりを強調すると、パニックが起きやすい。そのうえで、西アフリカで患者に接触した医療従事者については、潜伏期間の間、自宅待機と定期検査を義務づけるといった監視体制はパニック抑止のためにも必要であろう。
 日本の場合、先月記事でも触れたが、エボラの精密検査を可能とするバイオセイフティー4レベルの施設が存在しながら住民の反対で未稼働状態にあることが懸念される。恒久稼動しなくとも、流行時だけの時限的な形でも稼動させるべきである。

[追記1]
リベリア政府は2015年5月、エボラ出血熱の流行終息宣言を発した。

[追記2]
2015年8月、東京都武蔵村山市の国立感染症研究所村山庁舎をレベル4施設として稼働することで(将来的な移転見込み)、市と厚労省が合意に達した。住民の不安を解消するためにも、必要十分な情報開示が要請される。

2014年10月27日 (月)

親と子

 イギリスで一生にどれだけの日数を親と過ごせるかを割り出すことができるサイトが登場して、話題を呼んでいるそうである。こういうサイトができるのも、ヒトという動物は本質的に親離れ・子離れをしない不思議な動物だからであろう。
 たいていの動物は、子が生まれた時、親はすでに死んでいるか、子育てする動物でも子が一定まで成長すれば、力づくでも独り立ちさせて、親子関係を断絶する。ヒトだけがこうした動物界の法則に反して、一生親子関係が続く。進化の過程で何が起きてそうなったのかわからないが、このような例外は果たしてよいことなのだろうか。
 “成獣”になっても親子関係が続くことで、“成獣”同士の親子関係というしばしば殺しにまで発展する葛藤を生じさせる困難な関係性が継続されることになる。年々深刻さを増す振り込め詐欺なども、成人親子の金銭面での密着関係が犯罪に悪用されている事例である。もし子育て期を終えた親子は断絶することがヒトでも鉄則なら、振り込め詐欺など起こり得ないだろう。
 とすると、ヒトの場合でも、子育て期を終えたら、親子は断絶しないまでも、他人同士という関係を徹底し、金銭面の面倒までは見ないことを鉄則にすれば、少なくとも振り込め詐欺のような異常な事象は激減するはずである。

2014年10月26日 (日)

ピアノの政治経済学(連載第7回)

note2:ピアノ時代の到来③

notes産業革命とピアノ
 モーツァルトが活躍した18世紀末は、イギリスで産業革命が起きた時期と重なる。産業革命はピアノ製作にも、いっそうの技術革新と量産体制という質量両面での大きな変化をもたらした。
 そうした変化の中心となったのは、やはりイギリスである。前回も挙げたブロードウッド・アンド・サンズ社(以下、ブロードウッド社という)が、そのリーダーとなる。同社は重厚な響きを持つイギリス式ピアノの中心を担っていたが、改良を重ねて、最大6オクターブの大型ピアノを世に出した。
 ハイドンが晩年に接したのはこのような大型化したピアノであり、ハイドンの弟子で、モーツァルトに続き西欧音楽界の巨匠となるベートーベンはブロードウッド社製ピアノを愛用し、大型ピアノを想定したピアノ作品を残した。
 この新星ベートーベンは、19世紀以降におけるピアノ全盛期の到来に決定的な寄与をした。彼は難聴になった中期以降は作曲活動に専念するようになるが、初期には即興演奏―古典期には、ピアニストに求められた能力であった―を得意とするピアニストとして名声を博しており、全32曲のピアノソナタや5曲のピアノ協奏曲など、ピアノ作品でも大きな足跡を残している。
 音楽史の通説によれば、ベートーベンも古典派の代表的作曲家とみなされており、実際、様式面ではさほど革新的ではなかったが、オーケストラ作品よりも自由に作れるピアノ作品は後期になるにつれ、次の世代であるロマン派の前兆と思しき叙情的な作風のものが増加し、モーツァルトのような古典派作品とは異質である。
 またベートーベンの音楽家としてのあり方も、産業革命と並行した市民革命後のブルジョワ社会にふさわしく、彼は音楽の伝統的な受け手であった王侯貴族だけでなく、新しく勃興したブルジョワ階級に向けて音楽を発信した最初の世代であった。一般大衆を消費者とする音楽市場の形成はなお未来のことであり、ベートーベンを「大衆音楽家」と呼ぶのは時代錯誤であるが、彼の作品は初期ブルジョワ社会の枠内では「ポピュラー音楽」に近い性格も持っていた。
 こうした西欧ブルジョワ社会の形成と発展の中で、ピアノという鍵盤楽器もポピュラーなものとなり、バロック以来の古楽器チェンバロを駆逐していったのである。
 ピアノの重厚長大化は、ベートーベン晩年の1820年代からいっそう進む。この頃には、フランスのパリがピアノ製作の新たな拠点として台頭してきた。パリでは名匠セバスチャン・エラールが今日のグランドピアノにも受け継がれるダブル・エスケープメント・アクションを開発した。このアクションは早いパッセージの奏法に適しており、ロマン派以降の超絶技巧を要求される高度なピアノ作品の登場につながる。
 また鋳造技術の革新から、鉄製フレームの導入も可能となり、音の共鳴性と持続性の高さが確保され、ピアノの交響的性格が強化された。すでにベートーベンの後期ピアノ作品には、そうした改良ピアノの交響的な性格を生かした重厚なものが見られる。

2014年10月23日 (木)

言語発展論(連載第12回)

第2部 英語発展史

三 古英語の発達と途絶

 9世紀までにアングロサクソン諸王国の共通語として、中心国ウェセックス王国の公用語であったウェセックス方言をベースとした古英語が成立するが、その頃よりブリテン島は深刻な外患にさらされる。遅れて民族移動を始めたゲルマン系北欧バイキングのブリテン島来襲の波が押し寄せるのである。
 バイキングにはその根拠地によりいくつか系統があったが、ブリテン島に来襲したのはデーン人と呼ばれ、主にデンマーク方面に根拠を置くバイキングであった。ということは、アングロサクソン人らとも原郷は近いことになる。
 実際、デーン人の言語はゲルマン語派に属し、元来古英語とも共通の要素を持っていたが、語彙には違いもあった。軍事的に優れていたデーン人勢力はアングロサクソン諸王国の防衛力の弱さに付け込み、各地を寇略するが、やがてウェセックスのアルフレッド大王時代に和議を結び、イングランド東部地方に自治区を設定して定住した。
 このいわゆるデーンロー地域では、デーン人の慣習と言語が保持されたが、かれらの言語は英語にも文法性や名詞の格変化の喪失や語彙の面で大きな影響を及ぼした。古ノルド語起源の英単語は三人称代名詞を含む基礎的単語にも及び、二千を数えると見られる。これほど広範囲に古ノルド語が取り込まれたということは、それだけデーン人の支配が日常にも及んでいたことを意味する。
 防衛力増強に努めた有能な統治者にして、『アングロサクソン年代記』をはじめとする多くの古英語文献の編纂にも尽力したアルフレッド大王の死後、アングロサクソン王国は再び弱体化し、11世紀になると、デーン人のクヌート大王が北欧とイングランドを統合した北海帝国を築く。ここに至って、イングランドはまさにデーン人の国となる。
 もし北海帝国が永続化していれば、英語に代わり、古ノルド語が完全に公用語となっていたかもしれないが、このクヌートというカリスマ的指導者に依存していた帝国は大王の死後、7年にして崩壊した。
 ここで再びアングロサクソン王国が復活を見るが、相変わらず弱体であり、今度はやはり同じデーン人バイキングがフランス北西部に定住・授封して形成していたノルマンディー公国から付け狙われた。
 1066年、アングロサクソン王国の王位継承をめぐる争いに介入する形で、ノルマンディー公国がイングランドを侵攻・占領し、ノルマンディー公ギョームがイングランド王ウィリアム1世として即位してノルマン朝を開くに至り、アングロサクソン王国は滅亡した。
 このいわゆる「ノルマン人の征服」は言語面でも革命的な変化を来たし、以後、ノルマン朝イングランドの公用語はノルマンディー公国の公用語であったノルマン・フレンチと呼ばれるフランス語の方言に取って代えられてしまうのである。

2014年10月21日 (火)

ハイチとリベリア(連載第4回)

一 ハイチ独立革命(続き)

独立戦争と勝利
 1790年のムラートの反乱は短期で鎮圧されたが、フランスにとって想定外だったのは、翌年、引き続いて奴隷の大反乱が起きたことであった。一人のブードゥー教司祭の扇動により、全土的な奴隷反乱が発生したのだった。この反乱の中で、数千人の白人が虐殺され、白人経営の農園が焼打ち・略奪にあった。
 事態収拾の必要を痛感したフランス本国は92年の議会による人種平等決議に基づき、93年8月、サン‐ドマング植民地での奴隷制度廃止を決定した。ここで奴隷反乱はひとまず収束する。
 フランス植民地の枠内で黒人自治政府が成立した。その指導者となったのは、奴隷出身のトゥーサン・ルーヴェルチュールであった。彼は初期の革命指導者の中では最も良識的であり、反乱を収拾して秩序を回復し、一定期間自治政府を効果的に指導した。フランス革命戦争に反革命派として介入してきたイギリスやスペインともわたりあい、イギリスや独立間もないアメリカと貿易協定を締結した。
 ルーヴェルチュールは1801年にはイスパニョーラ島東部を占めるスペイン領サントドミンゴにも侵攻・占領、イスパニョーラ島全島を支配下に置き、憲法を発布し、終身総督として独裁体制を固める構えも見せた。
 この頃、フランス本国では革命が反動化し、ナポレオンが独裁者として立ち現れていた。ルーヴェルチュールは当初ナポレオンに忠誠を見せたが、サン‐ドマングの権益に目を付けたナポレオンはルーヴェルチュール排除を狙って02年に派兵、ルーヴェルチュールを逮捕してフランス本国に連行した。ルーヴェルチュールは03年、収容先の要塞で病死した。
 こうしてサン‐ドマングは再びフランス本国の直轄下に置かれるが、フランスが奴隷制復活を目論んでいることが発覚したことで、再び反乱が起きる。新たな指導者はやはり奴隷出身のジャン‐ジャック・デサリーヌであった。
 デサリーヌは、91年の奴隷反乱に参加した古参の革命戦士としてルーヴェルチュールの知遇を得て、彼の軍隊の将官になったが、ナポレオン軍侵攻時には裏切ってフランス側に付いた。しかし、間もなく再び反仏に転じたのだった。
 デサリーヌは黄熱病の流行に苦しむフランス軍を相手に効果的に戦った。一方、フランスは03年5月にアミアンの和約を破棄して宣戦布告したイギリスによる海上封鎖にあって苦境に陥っていた。以後、フランスがいわゆるナポレオン戦争に突入していく中、フランスは西半球植民地の防衛に執着してはいられなくなった。
 03年11月、独立戦争最後の戦いとなるヴェルティエールの戦闘でデサリーヌ軍は勝利した。翌04年1月1日、デサリーヌは北部の町ゴナイーヴで、すでに絶滅して久しい先住民タイノ族の言葉で「高い山の地」を意味するハイチを国名とし、独立を正式に宣言した。西半球ではアメリカ合衆国に次いで二番目の独立国家であり、かつ黒人解放奴隷による初の独立国家であった。

2014年10月18日 (土)

抵抗の東北史(連載最終回)

十三 近代東北の忍耐

 明治維新後の東北は、江戸幕藩体制から解放され、形の上では大日本帝国の近代的中央集権体制の中に組み込まれていき、もはや抵抗の地ではなくなった。
 幕藩体制時代の東北諸藩は、当時の農業技術では十分な生産力が確保できない寒冷地で財政を維持するため、苛烈な収奪をしがちであった一方、商業の発達も十分でなかったことから、東北地方の開発は遅れていた。幕府は藩領地の経営を基本的に藩に委任することが基本であったから、自ら東北開発に注力することはなかった。
 後を引き継いだ明治政府は中央集権制を活用して東北開発に乗り出すことも可能であったが、戊辰戦争時の東北の集団的抵抗の遺恨は長く尾を引き、薩長主導の明治政府から旧東北諸藩は排除されていたため、明治政府の東北政策もまた決して積極的なものとは言えなかった。
 それでも、1878年にはいわゆる「土木七大プロジェクト」の一環として、大動脈関東につながる東北地方の水運網整備に乗り出している。鉄道網も当初は私鉄であったが、1891年までに東北最大の幹線となる東北本線が青森まで全通している。また八幡製鉄所より早い1880年には釜石製鉄所が設立され(後に民間払い下げ)、1907年には東京、京都に次ぐ日本で三番目の帝国大学として東北帝国大学(現東北大学)が開学されるなど、産学面での投資もそれなりに行なわれた。
 とはいえ、本州でも辺境地としての従属的性格は残され、東北地方に殖産興業政策の恩恵はなかなか及ばず、むしろ関東方面への出稼ぎ労働者の供給源となる傾向が明治期から現れた。
 稲作に関しては、品種改良の努力によって、明治以降、東北での生産力が向上し、有数の米所に成長していくが、常に冷害との戦いであり、昭和に入っても1931年の大冷害を機に、「最後の飢饉」とも言われる東北昭和大飢饉に見舞われた。その余波が続く中、1933年には死者・行方不明者3000人以上を出す昭和三陸地震・津波が追い打ちをかけた。
 帝国が満州侵略作戦により傀儡国家・満州国を立てると、従来型の内地出稼ぎではなく、新天地を求めて満州へ移民・入植する人も増加した。
 戦後になると、農地解放は東北でも寄生地主制度を解体し、遅ればせながら中央政府による東北工業化のプロジェクトも動き出すが、東北の従属経済化傾向は本質的には是正されず、関東地方の経済発展には遅れをとった。またも東北は関東方面への出稼ぎ労働者の供給源となった。出稼ぎ移住者の増加で人口減にも直面し、過疎化が進んだ。
 高度成長が一段落した後、第三次産業の発達により、東北もようやく自立的な発展を見せ始めていた中、2011年3月の東日本大震災における甚大な津波災害は、東北太平洋沿岸部に大規模な人的損失を伴う壊滅的打撃をもたらした。
 震災からの復興が東北被災地の新たな長期課題となったが、生活再建への中央政府の取り組みは被災民を満足させるレベルに達しておらず、相変わらず東北軽視の傾向が見え隠れしている。中でも、関東地方の巨大な電力需要をまかなっていた福島第一原子力発電所の被災事故の影響を被った福島県を中心に、東北は復興遅延による人口流出という新たな危機に直面しているが、現代の東北人は抵抗ではなく、忍耐によって困難を克服しようとしているかのようである。
 かつて多くの内戦や反乱の動力となった東北的な抵抗の精神は、近代以降にあっては忍耐という無言の抵抗に形を変えて受け継がれていると言えるかもしれない。

2014年10月16日 (木)

言語発展論(連載第11回)

第2部 英語発展史

二 古英語の成立

 英語は、英国で発祥・発達した一個の民族言語ではあるが、元来一つの民族の言語ではなかった。それはローマ帝国の支配が終わった5世紀半ば頃、ゲルマン民族大移動の一環として、今日の英国本土を成すグレートブリテン島(以下、単にブリテン島という)に移住してきたゲルマン系諸民族の言語をベースとしたある種のリンガ・フランカとして形成された。
 このゲルマン系移住民は、今日「アングロサクソン」とひとくくりにされるが、アングル族とサクソン族は本来別民族であり、アングル族は現在のユトランド半島南部で現在はドイツ領に属するアンゲルン半島を原郷とする小民族であった。サクソン族は元来やはりユトランド半島南部ホルシュタイン地方に発祥したと推定されるが、一部がブリテン島に移住、残余は後に北ドイツに展開してザクセン公国を建てた。
 それ以外に、第三の勢力としてユトランド半島の名の由来でもあるジュート人も加わったが、かれらは少数勢力であり、次第にアングル族やサクソン族に同化していった。
 このように、原初英語の素をブリテン島に持ち込んだゲルマン系諸民族は当初、部族ごとに地域王権を形成し(七王国時代)、しのぎをけずった。その結果、今日ノーサンブリア、マーシア、ケント、ウェセックスの四つに分類される原初英語の方言群が形成される。
 この中から、やがてサクソン人の王国であったウェセックス王国を中心とする統合が進んだため、統一的な初期英語―古英語―は、このウェセックス王国の言語であったウェセックス方言が他方言を包摂しつつ、リンガ・フランカとして共通語化されたと考えられるのである。ということは、古英語の中核はサクソン部族語ということになる。
 ただ、アングル、サクソン、ジュートの三民族はいずれもユトランド半島に発祥した民族であるだけに、それぞれの部族語は元来近似していたとも考えられ、共通語を作り出すことにさほど困難はなかったかもしれない。
 古英語段階の英語はまだゲルマン語としての性格が濃厚に残されていたため、語彙や文法構造上は現代英語よりもはるかにドイツ語に近似しており、現代英語の話者は別途学習しなければ理解し、発音することもできないものである。
 ところで、現代英語は日本語由来を含む借用語の多さが一つの特徴であり、このように他言語の語彙をオープンに取り込む「雑食性」は英語を世界的に普及させた大きな要因となっているが、古英語成立段階での他言語借用はまだ限られており、大陸ヨーロッパのリンガ・フランカであったラテン語由来のものが中心であった。
 ちなみに、ゲルマン系民族が移住する以前にブリテン島に先住していたケルト系民族のケルト語からの借用語は少ないというのが通説であり、そうだとすると、先住ケルト人はスコットランドやウェールズを除いて民族浄化されたことが窺える。ただし、近時は古英語へのケルト系言語の影響関係を指摘する見解も台頭している。
 こうして9世紀までに成立した古英語は、その後、9世紀から11世紀にかけてブリテン島を断続的に寇略する北欧バイキングによって言語学的にも変容を加えられつつ、さらに発達を遂げていくことになる。

2014年10月13日 (月)

アイスランド―先取未来国家(連載第6回)

five 教育政策

 アイスランドも小さいながら北欧型福祉国家―世界最小福祉国家―であるが、アイスランドの福祉国家は、どちらかと言えば狭義の福祉政策よりも教育政策のほうに特色がある。アイスランドが教育に力を入れることには、人口30万人余りと大国なら地方小都市レベルの小国ゆえ、限りある国民を育成して、自己完結的な独立国家として運営していかなくてはならない事情がある。
 アイスランドも西欧型近代教育制度を持ち、義務教育→高校教育→大学教育という基本的な教育枠組みは日本と大差ないが、一連の学校制度はほぼすべてが国公立であり、授業料は無料である(ただし、高校と大学には入学金に相当する登録料あり)。
 高校と大学に入学するための選抜試験は存在せず、それぞれ義務教育修了資格及び高校教育修了資格があれば、自動的に進学可能となっている。この点は他の北欧諸国でも同様であるが、高校から大学へ直行することなく、モラトリアム期間をおいて大学へ進学することが可能である。
 義務教育は10年一貫制で、日本のように小学校と中学校の区別はない。義務教育で追求される理念は、暗記中心の知識詰め込みではなく、日常生活の中から問題を自ら発見し、創造性を涵養することに置かれる。そのために、定型的な教科教育以上に日本の技術家庭科と美術を併せたような「工芸」が重視されている。また政府機関などが共催する生徒向けの全国発明コンペが開催され、入賞した生徒のアイデアをもとに、プロのアーティストや技術者とともに作品に仕上げられる。
 IT教育にも力を入れており、パソコンの基本から、パソコンを使った作品制作まで、ここでも知識や操作法ばかりでなく、創造性の涵養が重視されている。
 言語教育に関しては、古来使用されてきたゲルマン系民族言語アイスランド語が教育されることはもちろんであるが、アイスランド語はほぼ国内限定の古風なローカル言語であることから、生徒に国際性を身につけさせるため、義務教育段階から旧宗主国デンマークの公用語であるデンマーク語と英語が教育され、高校ではもう一つ外国語を選択しなければならないなど、多言語教育に力を入れている。
 4年制の高校は、普通高校と工業高校、両者を併せた総合高校、商業高校と進路に合わせて系統が分かれる点では日本の制度と似ているが、すべての学校で修了試験がある。普通高校の場合は、それが大学入学資格となる。
 大学教育は原則3年と短いが、医学部・法学部など高度専門職養成に特化した学部では1年次修了時に選抜試験が行なわれる。ただ、小国ゆえに大学教育の充実度には限界もあり、特に大学院レベルでは英米など大国への海外留学者も多い。
 障碍者教育では、隔離でなく包摂が理念となっており、「みんなのための学校」を目指し、知的障碍者向けの特別学校を除けば、軽度障碍者や身体障碍者は普通教育の中に吸収されるようになっている。これもひとりひとりを尊重する小国ならではのことであろう。

fuji人口30万人というと、筆者の地元市より少し大きい程度で、それを地方自治体でなく、自己完結的な独立国家として運営していくためには、限りある国民の創造性を引き出す教育が不可欠の鍵となる。その結果が、ユニークな教育政策である。1億超の人口を抱え、経済大国維持のため「人材」の画一的量産を続けてきた日本の教育政策とは異質である。しかし、未来性を考えた場合、どちらに分があるだろうか。

2014年10月11日 (土)

ハイチとリベリア(連載第3回)

一 ハイチ独立革命(続き)

革命前夜
 ハイチの原型である仏領サン‐ドマング植民地は18世紀後半になると、カリブ海域に連行されていた黒人奴隷のおよそ半分を擁して、世界の砂糖の4割を生産する最大級のプランテーション植民地へと成長していた。
 少数の富裕な白人農園主層が多数の黒人奴隷を所有・使役する人種差別構造の中で、最初に白人に対する抵抗運動を始めたのは、山岳地帯に拠点を置くマウォンと呼ばれた逃亡奴隷たちであった。中でも、1750年代のマウォン指導者にしてブードゥー教司祭でもあったと言われるフランソワ・マッカンダルは、マウォンの武装集団を組織して、白人の飲料水への毒物混入と農園襲撃というテロ的手法で多くの白人を殺害し、白人社会を震撼させたが、1758年に当局によって捕らえられ、火あぶりの刑に処せられた。
 マッカンダルは半ば伝説化され、以後も残党勢力の散発的なテロ行動は続くが、このような初期の抵抗運動は明確な独立の理念を持たず、白人支配層との交渉によって奴隷の待遇を改善する戦略も欠くゲリラ的行動にすぎなかった。
 転機となったのは1789年、フランス本国に勃発した革命であった。革命の象徴的な所産である「人権宣言」には、全市民の法の下の平等というまさに革命的な理念が謳われていた。これを文字どおりにとれば、黒人奴隷は認められないはずであった。だが、当時の西欧の社会意識では、奴隷は「市民」の概念に含まれていなかった。よって、人権宣言は奴隷植民地サン‐ドマングには及ばないのであった。
 しかし、当時のサン‐ドマングでは混血の解放奴隷ムラートが増加し、中間層を形成するようになっていた。そうした中で、ムラートのジュリアン・レイモンとヴァンサン・オジェの二人は人権宣言の植民地への適用を主張し、少なくともムラートの参政権を要求する運動をまずフランス本国で開始した。
 しかし、フランス革命政権はこうした要求を受容するほどに革新的ではなく、まして植民地当局はそうであった。そこで、オジェは1790年、北部の中心地カパイシャンで武装蜂起した。しかし、反乱軍は圧倒的なフランス軍に追われ、スペイン領側のサント・ドミンゴに逃走した後、スペインに投降、そのままフランス側に送還され、翌年初頭、オジェは残酷に報復処刑された。
 このムラートの反乱は短期で鎮圧されたものの、まさにオジェ処刑の年、10年以上に及ぶ長い独立戦争の導火線となる大規模な奴隷とムラートの反乱が勃発するのである。

2014年10月 9日 (木)

抵抗の東北史(連載第13回)

十二 東北最後の抵抗

 江戸全盛期の東北は、他の地方と同様、幕藩体制の中で平穏が保たれ、もはや大きな抵抗の地ではなくなった。しかし、天明、天保と二つの大飢饉では多数の犠牲を出し、百姓一揆の頻度は高かった。
 特に南部氏の盛岡藩は冷害が多い上に、最重要の換金作物であった米作に偏向したモノカルチャー型農政のゆえに、飢饉に弱く、全国でも最大の百姓一揆多発藩となった。
 一般的に、東北地方は米作不適地も多い中、諸藩主は他の地方と同様、米作に収奪基盤を置く農耕封建領主であったから、東北では百姓一揆が多発する傾向にあった。こうした傾向にはまた、東北地方のバックボーンである抵抗性が少なからず関与していたかもしれない。
 東北地方の抵抗性が最後にまとまった形で表出されたのは、幕末から明治維新にかけての戊辰戦争の時であった。戊辰戦争には様々な局面があったが、中でも最大級のものが旧東北・北越諸藩で構成する奥羽越列藩同盟による抵抗戦争であった。
 中心となったのは、幕末に佐幕派の中心にいた「御家門」の会津藩と江戸市中取締の任にあった譜代藩の庄内藩である。両藩は1868年4月に同盟を結成し、当初は最大朝敵とされた会津、庄内両藩の赦免要求を中心に動いた。
 しかし、会津藩の謝罪拒否姿勢や維新政府軍参謀・世良修蔵の暗殺により、情勢は開戦に傾き、5月には奥羽列藩同盟、続いて北越6藩を加え、奥羽越31藩で構成する奥羽越列藩同盟が結成される。
 同盟は維新政府に楯突いて仙台に逃亡してきていた皇族の北白川宮能久〔きたしらかわのみやよしひさ〕親王を盟主に迎え、総裁には仙台藩主伊達慶邦〔よしくに〕、米沢藩主上杉斉憲〔なりのり〕が共同で就いた。
 これは軍事同盟を越え、事実上対抗政権の樹立に等しいことであり、実際、同盟は一定の政府機構を整備していた。親王は君主的に振舞い、この時期、外国からは「二人の帝」が並立しているとみなされていた。こうなると、もはや維新政府との激突は避けられなかった。
 かくして、東北戦争が開始される。東北戦争は戊辰戦争の中でも熾烈なハイライトであり、特に抵抗の中心となった会津では数千人の死者を出す激戦となった。
 しかし圧倒的に多くの旧藩が新政府軍側に付く中、同盟側に勝ち目はなく、旧安東氏の流れを汲む小藩の三春藩が最初に脱落・降伏したのを機に、同盟諸藩の降伏が続き、68年9月末までに同盟軍は瓦解、戦争は長期化することなく終結した。
 戦後処理として幕藩体制時代の封建的な国制は解体され、廃藩置県を経て現行東北6県体制に収斂された。以後の東北は、表面上は他の地方と変わらない本州北部の一地方として、近代日本の中央集権体制の中に組み込まれていくのである。

2014年10月 7日 (火)

言語発展論(連載第10回)

第2部 英語発展史

一 英語発展史の意義

 第1部では、原始言語から始まって、計画言語の創案に至るまでの人類言語の発展一般を概観し、計画言語の必然性を検証してみたが、第2部では、現時点で事実上の世界公用語の地位にある英語の発展過程を個別的に追っていく。
 英語はその名のとおり、元来は英国で発達した自然言語にして民族言語であるが、そのような一言語がこれほど爆発的に広い範囲で通用するようになったのは―英語ビッグバン?―、一つの事件である。それは偶然とか、個人の趣味では説明できず、英語の内在的な性質や英国ないし英国を継いだ米国の歴史とも密接に関連している。
 しかし、英語は他言語より明晰で、学習しやすいとは言えない言語である。日本では、「日本語の曖昧さ」と対比して、「英語の明晰さ」が強調されることがよくあるが、このような対照には疑問がある。実際、正確な文法に基づいて明晰に記述された日本語文と英語文を比較してさほど差があるとは思えないし、私見ではむしろ英語にこそ曖昧な婉曲表現が多く、正確かつ明晰に記述された日本語文のほうが、英語文よりも明確さでは勝るようにさえ思える。逆に、不正確で曖昧に記述された日本語文ほどわかりにくいものはないこともたしかである。
 詳細は本文で述べるが、英語は、その成り立ちからして複数言語の混成言語であり、そこへ外来のフランス語の一方言が流入し、一時英国公用語の地位を奪われた後、再び公用語として新装復権し、現代英語に成長していったというかなり特異な歴史を持つ混交性の強い特殊な言語である。
 このような複雑言語は、本来世界公用語の地位にふさわしいとは言えず、英語が事実上世界公用語であるのは暫定的な現象であって、決して自明の永続性を持つ現象ではない。
 しかし、近年は「グローバル化」のかけ声のもと、米国中心の資本主義の世界化の流れの中で、英語習得の必然性が説かれ、日本でも英語教育の早期化や、社内公用語化などの動きが活発になっている。このような風潮は、英語の歴史や本質を無視した現状適応的な発想によるものであり、決して理にかなったものではない。
 ただ、第2部では消極的な「英語帝国主義」批判論に終始することなく、英語の発展過程を追う中で、なぜ英語が現在のような姿と地位とを獲得したのか、また英語をベースとした計画言語の可能性はあるのか、といった通常はあまり論議されない問題に焦点を当てていくことにする。

2014年10月 5日 (日)

ピアノの政治経済学(連載第6回)

note2:ピアノ時代の到来②

notesウィーン古典派とピアノ
 18世紀後半になると、オーストリアのウィーンがピアノ製作の中心地となった。シュタインの跳ね上げ式を継承して「ウィーン・アクション」と呼ばれたウィーン式ピアノはタッチが軽快で、音の減衰が早い特徴を持っており、初期古典派の軽快な曲調の音楽には適していた。
 そうしたウィーン式ピアノの特徴を生かし切った作品を本格的に作曲したのが、モーツァルトであった。しかし、それ以前に、ピアノの特性に注目してピアノのための作品を本格的に作曲し始めたのは、前期のモーツァルトにも影響を及ぼしたと言われるヨハン・クリスティアン・バッハであった。
 彼はその名のとおり、バロック大家ヨハン・セバスティアン・バッハの息子の一人(末男)であり、ロンドンを拠点に活動していた。彼は父親とは違って、バロックより単純明快で旋律的なギャラント様式の作風を確立したが、このような様式は新興楽器ピアノともマッチする一面があった。
 ロンドンを訪問した神童モーツァルトを膝に乗せてピアノを連弾したとの逸話も残るヨハン・クリスティアンの影響下に生まれたのが、モーツァルトの多数のピアノ曲である。全18曲のピアノソナタと全27曲のピアノ協奏曲のほかにも、多数のピアノ小品を残したモーツァルトこそは、最初の本格的なピアノ作曲家であり、未だマイナー楽器だったピアノの急速な普及にも貢献した。
 またモーツァルトは自身すぐれたピアノ演奏家でもあり、ピアニストという職業カテゴリーを生み出した先駆者でもあった。彼はバロック時代の作曲家や父親のような宮廷楽師ではなく、王侯貴族を聴衆としながらもフリーの職業音楽家として生きた最初の一人でもあり、そこからピアニストという新職業も生まれたのである。
 もう一人、ピアノの普及に貢献したのは、モーツァルトより年長の作曲家ハイドンである。管弦楽曲を得意としたハイドンは「交響曲の父」とも称され、やはりモーツァルトに大きな影響を及ぼしたが、ハイドンはまた60曲を越すピアノソナタを作曲し、ピアノ作品でも足跡を残している。
 ハイドンの長い作曲生活の前半期はまだチェンバロ隆盛時代であったが、モーツァルトの活動期とも重なる後半期になると、ピアノが普及し始めており、ハイドンはそうしたチェンバロからピアノへの変遷期を生きた作曲家であった。そのピアノ作品もハイドン自身、どちらで演奏してもよいと緩やかに認識していたようである。
 ただ、ハイドンのピアノソナタはモーツァルトのそれとは曲調が異なり、後のベートーベンにつながるような要素も見られ、ベートーベン以降の重厚さを増したピアノ作品の先駆けのような一面を持つ。
 ハイドンは晩年にイギリス製のピアノを知ったようであるが、イギリスは「イングリッシュ・グランド・アクション」と呼ばれる「ウィーン・アクション」より重厚な響きを持つ突き上げ式のピアノ製作の中心地となっており、特に足で操作するペダルを発明したピアノ職人ジョン・ブロードウッドが創始したブロードウッド・アンド・サンズ社製のピアノはベートーベンも所蔵・愛用したとされ、19世紀以降、ピアノのさらなる技術革新に寄与した。 

2014年10月 4日 (土)

ハイチとリベリア(連載第2回)

一 ハイチ独立革命

サン‐ドマング植民地
 現在、ハイチ共和国が西側三分の一を占めるカリブ海の島イスパニョーラ島は、その名のとおり、元は全島がスペイン領であり、スペインが当初は先住民タイノ族を、かれらが絶滅すると西アフリカ方面から連行した黒人奴隷を使役して金鉱開発を進めていたが、16世紀以降、スペイン本国の関心は次第にメキシコや南米に移っていった。
 17世紀初頭、スペインがイスパニョーラ島植民者を東部のサントドミンゴ付近に集住させると、西部はフランスやイギリスの海賊が来襲するところとなり、荒廃したが、そうした中、フランスが間隙を突いてイスパニョーラ島西部の領有を宣言、1670年に最初の植民地を築いた。
 スペインも事実上これを追認し、1697年の条約で、イスパニョーラ島西部三分の一ほどがフランス植民地として正式に承認され、サン‐ドマングと命名された。東部三分の二は半ば打ち捨てられながらも、引き続きスペイン領サントドミンゴとして存続し、これが後に今日のドミニカ共和国として独立する。
 こうしてイスパニョーラ島は、東西をスペインとフランスが分け合うという異例の分割植民地となった。仏領サン‐ドマングは狭隘でありながら、フランス人植民者は北部海岸を拠点に、西アフリカから強制連行した黒人奴隷を使役して、砂糖、コーヒー、タバコ、カカオなどの多角的なプランテーション農園を効率的に営んだ。
 結果、18世紀になると、サン‐ドマングはフランス植民地中でも最も豊かになり、七年戦争後には、ヨーロッパで消費される砂糖やコーヒーの半分前後を供給する一大生産地に成長した。
 プランテーション経営の労働を担ったのは西アフリカ方面から強制連行された黒人奴隷であったから、サン‐ドマングは大西洋奴隷貿易の中心的な「輸出先」でもあった。推計で80万人近い黒人が奴隷として送り込まれたと見られている。
 こうした強制的な人口移動の結果、サン‐ドマングには奴隷の中心的な給源となっていたダホメー王国(現在のベナン)のフォン族の伝統的信仰がサン‐ドマングでフランス植民者が強制するカトリックと習合して形成されたヴードゥー教のような独自の民俗宗教が誕生し、特に過酷な労働環境を逃れ、山岳地帯に潜伏した逃亡奴隷たちの精神的な支えともなった。
 また言語的にも、西アフリカの言語とフランス語とが混合して、クレオール化し、現在のハイチ語が形成されていくなど、常時奴隷の移入が行なわれたことから、同様の植民地が広がっていたカリブ海諸島の中でも、サン‐ドマングはとりわけクレオール文化が強い独特の植民地となっていった。
 サン‐ドマングの支配構造は、少数の白人植民者が多数の黒人奴隷を所有・使役するという典型的に人種差別的な階級構造であったが、やがて両階級の中間に白人と黒人の混血で、肌の色が薄い自由有色人(ムラート)が形成された。かれらの多くは金銭を支払って解放された奴隷であり、次第に自ら奴隷を所有する中小農園主に成り上がり、ハイチ独立後には支配階級に昇るのである。

2014年10月 3日 (金)

アイスランド―先取未来国家(連載第5回)

four ジェンダー政策

 アイスランドは、国際的な経済団体「世界経済フォーラム」が2006年度から毎年発表する「ジェンダー格差指数」―経済・教育・政治・健康の4分野で、計14の変数を用いて、両性間の平等性を算出したデータ(以下、単にジェンダー指数という)―のランキングで、2009年から5年連続で首位につけている。
 ジェンダー指数ランキングでは例年北欧諸国が上位をほぼ独占しており、北欧地域全般が世界で最も両性間平等性の高い地域となっているが、中でもアイスランドが際立っている。
 このような高い平等性は、自然にそうなったわけではなく、政策的に積み重ねられたジェンダー政策の賜物である。元来、アイスランドは小さな島国で、北欧の中では保守的な風土の国であり、特段ジェンダー平等性が高い国とは言えなかった。風向きが変わり始めたのは、1980年に当時世界で初めて女性のヴィグディス・フィンボガドッティルが民選大統領となってからであった。
 アイスランド大統領は儀礼的な存在であるため、女性大統領主導でジェンダー平等政策が進められたわけではないが、いきなり国のトップに女性が就いたことは、ジェンダー平等にとって大きな追い風となった。
 以後のアイスランドでは、男性にも開かれ、80パーセントの給与保障付きの充実した育児休暇制度や託児所の整備により、2パーセント台の出生率を維持しながら、高い女性の就業率を確保している。また両性の幹部職割合を法的に均等化するクォータ制度の導入により、大手企業の女性役員割合も4割近くまで上昇している。
 一方で、アイスランドは児童保護の国際NGO「セーブ・ザ・チルドレン」が毎年発表する「母親指数」―母親となるのに最適環境が整備されているかを示す指標―でも、例年上位につけ、世界でも最も育児のしやすい環境となっている。そのためか、アイスランドの出生率は欧州でもトップクラスの2.0前後を保持している。
 国会の女性議員割合ではアイスランドでもかねてより北欧で標準的な4割前後をキープしてきたが、実質的な政治指導者である首相に女性を出したことがなかったところ、2010年に初めて女性のヨハンナ・シグルザルドッティル首相を出した。シグルザルドッティル政権下では、ジェンダー平等政策がいっそう進み、ストリップ劇場の非合法化など、文化的な面での急進的なフェミニスト政策にも及んだ。
 さらに狭義のジェンダー政策にとどまらず、2010年には同性婚を合法化するなど、性的指向性(セクシュアリティー)の平等にも及んでおり、実際、シグルザルドッティル首相自身レズビアン(またはバイセクシュアル)であり、世界で初めて同性婚をした国家指導者となった。

fuji小国アイスランドのGDP規模は世界123位(2012年国連統計)で、前後にはアフリカ諸国が並ぶ。一方、日本は4位以下を大きく引き離して世界第3位が近年の定位置だが、ジェンダー指数では105位(2013年度)、母親指数でも31位(同年度)と、誇れる数字ではない。まして、同性婚など議論の俎上に乗ることもない。経済の規模の拡大をひたすら追求する国と、社会経済の公正さを追求する国の差がくっきりと浮かび上がる。

2014年10月 2日 (木)

ハイチとリベリア(連載第1回)

序文

 ちょうど本連載の準備中に、西アフリカのリベリアにおける危険伝染病エボラ出血熱の感染拡大というニュースが世界を駆け巡った。そのため、不幸な形ではあるが、この地味な小国の名が世界に知られるようになった。本連載は、このリベリアとともに、同じ西アフリカ地域から強制連行されたアフリカ人奴隷の子孫を主要国民とするカリブ海の小国ハイチを並行的に取り上げ、その歴史と現在を概観することを目的とする。
 大西洋を隔てて遠く離れたこの両国を並行的に取り上げるのは、両国には歴史的‐現在的な共通項があるからである。簡単に言えば、両国はともに黒人解放奴隷によって華々しく建国された国であるが、結末はともに破綻国家の状態に陥ったことである。
 すなわち両国は19世紀前半、それぞれフランス(ハイチ)、アメリカ(リベリア)の黒人解放奴隷が主体となって建国された最も古い近代的黒人国家である。建国年では、フランスから1804年に独立したハイチが先行し、アメリカから帰還した解放奴隷グループが入植したリベリアの建国は半世紀近く遅れ、1847年のことであった。
 以来、ハイチは内乱やアメリカによる占領、独裁、クーデターと波乱の歴史を歩み、とどめを刺すかのように、2010年には死者30万人とも言われる大震災に見舞われ、国家は事実上破綻状態となり、現在再建途上である。
 他方、リベリアはアフリカ大陸全土が19世紀末以降、次々と西欧列強の植民地支配下に置かれる中、唯一独立を保持したことを誇りとするが、20世紀末以降になると、独裁と凄惨な内戦を経験し、こちらも国家破綻状態となり、ようやく再建事業が動き出した矢先のエボラ禍であった。
 メディア上ではこうした歴史的な経緯を抜きに、ただ貧しい他国の惨事として報道されることが常であるが、そのような表面的な理解を超えて、この特異な歴史を持つ二つの黒人解放奴隷国家の歴史を辿ることで、現在が理解でき、また国家という政治的枠組みの限界性も見えてくるであろう。
 本連載は、そのような視座から、ハイチとリベリアというメインストリームの論壇ではまず主題として取り上げられることがなく、日本では関心を寄せるひとも極めて少ないであろう二つの国について、歴史を踏まえた分析を加えていこうと思う。それを通じて、日本ではいまだ絶対的に信奉されている国家なるものの意義を突き放してとらえるためのよすがとしたい。

danger 国名表記について
本連載で扱う二つの国の国名は、それぞれ「アイティ」「ライベリア」とするのが本来の発音に最も近いが、違和感を持たせないため、ここでは日本語として定着した誤表記を踏襲することとする。ただ、このような慣用は、個人名を誤表記するのと同様、本来は当該国民に対する非礼と言ってよいものであり、日本語での国名表記について権威を持つ外務省においても再考すべき点である。

2014年10月 1日 (水)

言語発展論(連載第9回)

第1部 通則的概観

八 新世代の計画言語

 これまでエスペラントをはじめとする様々な計画言語が創案されてきたが、いずれも想定されたほどには普及しておらず、計画言語としては最も多くの学習者・話者を擁するエスペラントにしても、支持者・愛好者の間だけで学習され、普及しているにとどまるのが現状である。そうした意味では、計画言語はいまだ停滞の時代を脱しているとは言えない。
 その内在的な要因としては、前回も指摘したように、言語学的中立性をうたう主要な計画言語がいずれも事実上は欧州の印欧語族系言語の影響を受けている事実があった。
 より根本的には、従来の計画言語は音声言語として創案された「ソルレソル」を除けば、ほとんどが自然言語を範とするアポステリオリ言語であったが、そうした中で、日本の在野思想家岡本普意識(ふいしき)が1960年に発表した「ボアーボム」は、アプリオリ計画言語の比較的新しい例である。
 この言語は文字体系上はラテン文字を使用するが、語彙や文法組織に関しては独自に創案されており、従来の計画言語とは次元を異にするものであったが、発表の場が日本国内であったことや、発表からわずか3年で創案者が没したことなどから、普及のための運動を組織することができないまま、埋もれてしまった。
 一方、自然言語とは異なった論理構造を持つアプリオリな計画言語として、1987年に暫定発表され、2002年から実用段階に入った「ロジバン」が注目される。
 この言語は、元来「人は体得した言語によってその思考形態が左右される」という言語学仮説(サピア‐ウォーフ仮説)の検証のために開発され、人間同士のコミュニケーションの手段となる交渉言語として普及させることを目的としない実験言語である「ログラン」を基礎に、交渉言語としても使用できるように改良を加えたものである。
 そうした創案の経緯から、ロジバンの語源は特定の語族に偏らず、アジア系の言語を含めた広範な語族からアルゴリズムによって採取されていることや、文字体系の指定がなく、どの既存文字でも表記可能とされていることなど、言語学的中立性の高さが特色である。
 文法的には、自然言語に見られる曖昧さを排除した述語論理を軸とし、屈折や単複区別、格変化の排除など簡単明瞭な規則性を旨としているため、プログラミング言語としての互換可能性も秘めているとされる。ある意味で、ロジバンは中国語に代表されるような孤立語的特徴を極限まで凝縮しようとする言語計画の試みとも言える。
 さらに、言語の創案・開発が従来の計画言語のように一個人でなく、言語学者やプログラマーらをメンバーとする研究者グループによって集団的に行なわれている点も、際立っている。
 このように、従来の計画言語とは大きく異なる特徴を持つロジバンであるが、それだけに学習に当たっては、既存自然言語の知識体系の応用ではクリアできない認識が必要であり―プログラミング言語の学習に近い―、独自の学習メソッドの開発など、普及に当たって克服すべき点も残されている。
 また、トリビアなことではあるが、ロジバンといういかにも人工的な言語名も普及に当たって意外な障害となる可能性がある。この点、エスペラント=希望する人という計画言語の中でも最も詩的な名称は、エスペラントの普及にも一役買ったのではないかと想定される。
 とはいえ、ロジバンはコンピュータ時代における新世代の計画言語として、今後の発展が注目されるところである。一方で、エスペラントを初めとする既存計画言語の側でも、普及の停滞状況を克服するための再検証・改訂作業も辞すべきではないであろう。計画言語は、そうした人為的な改訂可能性にも開かれていることが自然言語との根本的な差異だからである。

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