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2014年9月

2014年9月26日 (金)

抵抗の東北史(連載第12回)

十一 近世東北の収斂

 豊臣秀吉の死後、関ヶ原の戦いを経て、江戸時代に入ると、改めて幕府主導での東北再編が行なわれる。まず豊臣政権では冷遇され、減移封処分を受けて押さえ込まれていた伊達氏(政宗)は、関ヶ原の戦いでは東軍に付き、徳川家康の評価を得た。
 しかし1600年、秀吉の奥州処分で没落した武将が起こした岩崎一揆を背後から扇動した疑いが持たれ、結局幕府から安堵された所領は絶頂期の旧領には届かなかったが、それでも全国有数の60万石余りの国持外様大名として遇され、仙台を新たな居城とした。
 政宗を国際的にも有名にしたのは、何と言っても慶長遣欧使節団の派遣であった。この遣使の真の目的については諸説あり、スペインと結んで倒幕を図る底意があったという陰謀説まで存在するが、家康の許可を得ての遣使であり、倒幕はいささか飛躍であろう。ただ、誇り高い野心家であった政宗としては、幕府とは別途、藩独自に外国と外交通商関係を結ぶ考えがあったとしてもおかしくはない。
 しかし、次第に幕府が鎖国政策に傾斜していくにつれ、こうした独自外交も制約されていった。結局、彼の子孫たちは幕府に忠誠を尽くし、仙台藩は以後、伊達氏で固定され、明治維新まで存続する。
 他方、陸奥の強豪南部氏も関ヶ原の戦いでは東軍に付き、岩崎一揆の鎮圧でも功績を上げた。南部氏は分家が多いが、三戸に根拠を置く三戸南部氏が盛岡藩を安堵され、これも明治維新まで存続した。また北端の弘前は南部氏から離反・自立した津軽氏が幕末まで治めた。
 会津は秀吉の信任の厚かった上杉景勝の所領となっていたが、景勝は家康の会津征伐の対象となった末、関ヶ原の戦いで家康に降伏した。最終的には謝罪・赦免が認められ、山形の米沢へ減移封された。以後、米沢藩も上杉氏で幕末まで固定される。
 入れ替わりで会津は蒲生氏や加藤氏の短い入部を経て、2代将軍秀忠の庶子・保科正之を藩祖とする「御家門」である会津松平家の所領となり、幕末まで固定される。
 日本海側では、上述のとおり、米沢に上杉氏が入部する一方で、山形は戦国時代から本拠を置いた最上氏が会津征伐で功績を上げ、いったんは伊達氏に次ぐ大大名の山形藩主として安堵されたが、間もなく熾烈なお家騒動(最上騒動)が武家諸法度違反に問われ、近江大森藩に減移封処分となった。
 その後の山形藩は異動の激しい藩となり、藩主家は固定されなかった。また最上氏改易に伴い、庄内地方には徳川家直参の酒井氏が入部し、譜代藩の庄内藩を立て、幕末まで存続した。
 他方、秋田を本拠としていた秋田氏(旧安東氏)は関ヶ原の戦いでは東軍に付いたが、秋田氏が西軍と通じているという最上氏の讒言をある程度は考慮したらしい家康の命令でいったん常陸宍戸藩に移封された後、福島の狭隘な三春藩に移され、地縁のないこの地で幕末を迎える。代わって秋田には、関ヶ原では中立の立場をとった常陸の強豪佐竹氏が入部し、久保田藩として幕末まで存続する。
 こうして17世紀半ば頃までには、大藩の外様伊達氏を南の御家門会津松平氏と西の譜代酒井氏が囲むような布置で東北地方の主要な領主が定まり、東北も幕藩体制の中に収斂していく。東北地方の主要領主が固定されたのは幕府が歴史的に抵抗・反乱の多かった東北地方の支配の安定に相当神経を使っていたことを示唆するものと言えよう。

2014年9月24日 (水)

言語発展論(連載第8回)

第1部 通則的概観

七 計画言語の隆盛と停滞

 エスペラントの成功は、計画言語のエスペラントへの一本化ではなく、むしろ競合する計画言語の隆盛を生み出すきっかけとなった。エスペラント創案の直後にも、エスペラントの改造版となるイドという派生言語が早くも出されている。
 また当時、誤解に基づいて共産主義者の言語とみなす向きもあったエスペラントに対抗して、エストニア人の教育者フォン・ヴァールが親西欧的な計画言語として、オクツィデンタルを創案した。一方、ほとんどが言語学の門外漢によって創案されてきた計画言語には珍しく、デンマークの言語学者イェスペルセンによって創案されたノヴィアルも続いた。
 これらの計画言語はいずれもいかなる特定の民族言語にも影響されていない中立的なオリジナル言語として創案されたものであるが、特定の民族言語を簡略化する形の計画言語の提案もなされた。その先駆は1916年に発表された簡略ドイツ語ヴェーデであると言われるが、もっと有名になったのは1930年に英国の心理学者・言語学者チャールズ・オグデンらによって創案された簡略英語ベーシック・イングリッシュ(略してベーシック)である。
 これは、単純に英単語の語彙を原則850語に制限し、追加しても総計1500語で表現し切るというもので、実態としては計画言語というより、まさに簡略言語と呼んだほうがふさわしいものである。創案者によれば、エスペラント習得に要する標準時間7か月に対し、ベーシックは7週間で可能とうたわれている。
 計画言語は他にもあるが、今日まで残る代表的な計画言語が提案されたのはおおむね第二次世界大戦前であって、戦後は停滞が続く。特に、戦後の世界秩序を形作る平和保証体制である国際連合の公用語に計画言語が一つも採用されなかったことは、計画言語運動の停滞を助長したであろう。
 計画言語が普及しなかった要因として、しばしば怨嗟のように挙げられるのは、言語学界の無理解である。たしかに言語を絶対アプリオリなものとみなし、発達過程で自然に習得される自然言語以外は正規の言語として認めず、計画言語に無関心な言語学者はいまだに少なくないようである。
 より政治的な要因として、第二次大戦終結の頃にはすでに英米の覇権により征服言語としての英語が事実上の世界語として普及し始めていたという状況に加え、如上のように計画言語が競合的に林立し、それぞれ支持者の団体を形成するようになったため、単一の計画言語を国連公用語に指定することが困難になったこともあろうが、計画言語に内在する要因も考えなくてはならない。
 それは代表的な計画言語すべてが東欧を含む欧州で創案され、言語学的中立性を標榜しながらも、語彙や文法構造の点では、どう見ても欧州の印欧語族系言語の影響を受けている事実は否定できないことである。とすると、学習上、非印欧語族系や印欧語族系でもインド系・イラン系の言語を母語とする者にとって、既存計画言語の習得は必ずしも容易とは言えないことになる。
 この内在的な要因はしばしば各計画言語の支持者・推奨者によって軽視されているが、想像以上に計画言語の停滞をもたらしていると見るべきであり、そこから新世代の計画言語の創案という新たな視野が開けてくるだろう。

2014年9月23日 (火)

ホワイト企業はない

 「ブラック企業」という言葉が定着しているが、実のところ資本制企業にブラックとホワイトの違いはない。ブラックの中にグレードの差があるだけである。明白に労働法に違反するような最悪グレードの企業が実名で告発される「ブラック」であるが、その下にはよりグレードの低いブラック企業が山ほどあるという構造である。
 資本制企業が労働搾取で維持されていくことは鉄則であるから、変更のしようがない。搾取をやめるということは、資本主義をやめることとイコールである。ただ、搾取をいくらかでも緩和する抑制法規として、労働法の仕組みがある。
 その点、日本の労働法執行状況はとうてい先進国のレベルには達していない。先般最悪グレードのブラック企業とたたかう若年労働者を取り上げたあるテレビ番組で一番驚かされたのは、労働法の精神を真っ向否定するような新人研修“マニュアル”に目を通した弁護士の「これだけでは法律違反ではない」というコメントであった。
 そのような“マニュアル”―というより洗脳書―のような資料を作って、近時の素直過ぎる若者を洗脳するかのような“研修”を実施すること自体は労働法違反にならないとしたら、いくら個別的な訴訟を起こしても根本問題は解決しない。
 だが、根本から解決する気が政府にもない。件の企業も厚労省から「若者応援企業」(一定の労務管理の体制が整備されており、若者(35歳未満)を採用·育成するためハローワークに求人を提出し、通常の求人情報よりも詳細な企業情報·採用情報を公表する中小·中堅企業)の標榜を許されているありさまである。
 残念ながら、労働ビッグバンでいっそうの労働規制の緩和が進められる晩期資本主義の下では、ブラック・グレードの高い悪質企業が増えることはあっても減ることはないだろう。資本家・経営者たちは枕を高くして眠れるはずだ。 

2014年9月20日 (土)

アイスランド―先取未来国家(連載第4回)

three 平和政策

 アイスランドには、軍隊組織が存在しない。軍隊を保有しない国はアイスランド以外にも存在するが、多くは比較的新設の小国であり、アイスランドのように1000年以上の歴史を持つ古い国で、一度も軍隊を保有したことがない国は極めて稀である。
 ただ、アイスランドのような小国では、自国に固有の軍隊を持たないが、協定に基づいて大国に防衛を委託している場合が少なくない。
 実際、アイスランドは北大西洋条約機構(NATO)の原加盟国であり、冷戦時代には大西洋をはさんで欧州と北米をつなぐような位置にあるアイスランドに着目したアメリカがアイスランド防衛隊の基地を置き、対ソ連牽制を兼ねてアイスランド防衛を担っていた。
 冷戦終結後も、アイスランドはEUに加盟せず、NATO加盟国であり続けたため、地理的には北欧に位置しながら、地政学上は北米に包摂されるような外交安保政策を継続した。
 しかし、アイスランド米軍基地はまさしく冷戦の産物そのものであったため、冷戦終結後、アメリカ側の戦力再編計画で廃止が決まったのであった。アイスランド政府は存続交渉を続けたが、アメリカ側の意思は固く、2006年に基地は完全撤収した。
 このように、アイスランドの米軍基地撤収はアメリカ側の政策変更により実現されたことで、アイスランド側から追い出したわけではないという点には留意する必要があるだろう。アイスランドが本来想定する防衛政策は、アメリカに防衛を委託するというものであって、その限りでは絶対的平和主義に立っているのではない。ただ、米軍基地撤収を受けて、固有の軍隊を設立するという方向に赴かなかったのは、軍隊を保有しないというアイスランドの平和政策にぶれがなかったことを示している。
 ともあれ、米軍基地撤収の結果、アイスランドは丸腰の状態となった。しかし決して安全保障を無視しているわけではなく、沿岸警備隊所管のアイスランド防空システムと呼ばれるレーダーによる領空監視活動や、小規模な諜報活動は展開している。また引き続きNATO加盟国としてNATOによるアイスランド領空警戒活動という巡回防衛システムも運用されている。一方では、警察や沿岸警備隊などの文民警察要員を中心としたアイスランド危機対応部隊を組織し、各地の紛争地域に派遣するなど、平和維持活動への参加も積極的に行なっている。
 このように、アイスランドはアメリカ軍撤収の結果としてではあるが、軍隊によらない非軍事的な安全保障政策の小さな実験場となっているのである。ちなみにこれも結果的ではあるが、公的部門では二酸化炭素排出量が最も多い軍隊を保有しないことで、環境的持続可能性をも高めている。

fuji軍隊不保持政策が徹底しているアイスランドだが、意外にも、いわゆる平和憲法は存在しない。従って、憲法上は軍隊を創設しても問題ない。一方、日本は軍隊の不保持を明言する平和憲法を持ちながら、なし崩しの「解釈改憲」により事実上の軍隊保持が既成化している。しかし本格的な再軍備には改憲手続きが必要となる。このような一見不可解なねじれ関係は、両国の歴史と安全保障環境の違いがもたらしている。

2014年9月19日 (金)

抵抗の東北史(連載第11回)

十 戦国時代の東北

 南北朝統一後の室町幕府は東北支配を鎌倉府に委ねたが、鎌倉府が次第に自立化していく中で、東北支配も幕府と鎌倉府とに分裂し、東北支配は混乱していた。その結果、東北地方では早くから有力武将が半自立的に割拠する結果となり、他地域に先駆けて戦国時代に片足を踏み入れていたとも言える。
 応仁の乱を経て、全国的にも戦国時代が到来すると、東北では陸奥の南部氏や二家統合を果たした秋田の安東氏(天正期以降、秋田氏に改姓)のほか、会津の蘆名氏、伊達郡の伊達氏、山形の最上氏などが割拠する。
 このうち、戦国時代に急速に勢力を拡大し、奥州統一の野望を露わにするのが伊達氏であった。伊達氏は元来、常陸に発祥し、通説によれば家祖である常陸入道念西が源頼朝の奥州合戦で功績を上げて陸奥国伊達郡を安堵され、伊達朝宗(ともむね)を名乗ったことを始まりとする古い武門であった。家系上は藤原北家流を公称したが、確証はなく、常陸に土着した常陸平氏系とする説や在地豪族説もあり、出自は不詳である。たとえ藤原氏系だとしても、土豪化した地方の傍流にすぎないことはたしかである。
 伊達氏は南北朝時代は南朝方に付くも、やがて北朝に帰順し、以後も幕府と鎌倉府の対立の中で京都扶持衆として幕府を支えた。16世紀初頭以降、近隣諸侯と姻戚関係を結んで影響力を強め、東北随一の戦国大名に成長するが、16世紀半ばのお家騒動に端を発した内乱(天文の乱)でいったんは勢力を後退させる。
 この苦境を立て直したのが、あまりに有名な17代当主伊達政宗である。彼は単なる中興にとどまらず、攻撃的な領域拡張作戦を展開し、南の蘆名氏をも滅ぼして、最大領域を支配下に収めた。
 しかし、時は豊臣秀吉の天下であり、秀吉政権は九州地方に続き、1587年には関東・東北にも合戦を禁ずる惣無事令を発令していた。政宗はこれに違反して蘆名氏を討つ結果となったため、秀吉の不興を買い、1590年のいわゆる奥州仕置では大幅な減封処分を受けたうえ、領地替えとなった。一方で、南部氏や秋田氏、最上氏らは所領安堵となり、命運が分かれた。
 しかし、これで無事落着とはならず、東北地方特有の抵抗の精神が発揮される。仕置の結果改易処分となった葛西・大崎両氏の残党が中心となって起こした―背後には伊達政宗がいたと見られている―葛西大崎一揆をはじめ、国人衆や百姓による一揆も続発する。また1591年に秀吉政権が6万の大軍を投入することとなった九戸政実〔くのへまさざね〕の乱の実態は南部氏の家中騒動であったが、まとまりを欠く南部氏は自力で対処できず、秀吉に討伐を要請し、再仕置軍の派兵となったのであった。
 この再仕置をもってようやく東北地方は平定され、秀吉政権による全国統一が完成した。一方、秀吉に臣従し、合戦が止む中で、東北諸大名らも家臣団の再編など統制強化に努め、次第に近世大名としての体制を整備していくのであった。

2014年9月18日 (木)

言語発展論(連載第7回)

第1部 通則的概観

六 計画言語の登場

 文明言語の発展態の一つである交渉言語は元来民族言語としての出自を持ちながら、多民族間での商取引を中心とする交渉事に供用されたことから、実用性を備えた簡明な言語として整備されていく傾向を持つ。その整備の過程では人為的な手が加わることも少なくないが、そのベースは自然言語としての民族言語にあるので、まだ完全な意味での計画言語ではない。
 自然言語出自の交渉言語に対して、始めから人為的に創案される言語を計画言語と呼ぶ。この点、自然言語に対照される人工性を強調するなら、人工言語と呼んでもよいが、人工言語と言うとコンピュータのプログラミング言語のように人間同士のコミュニケーションに供用されない形式言語をも含み得ることから、ここでは人間同士のコミュニケーションに供用される言語に限定する意味でも、計画言語と称する。
 こうした意味での計画言語が登場するのは、19世紀以降のことにすぎない。現在知られる限り、世界初の計画言語は、フランス人ジャン・フランソワ・シュドルが19世紀初頭に創案した「ソルレソル」であると言われている。
 この言語がその後に登場した数々の計画言語と大きく異なる特徴は、文字体系を廃する代わりに、それぞれ特定の色と図形を割り振られた七つの音階を使用し、発話に際しては歌唱、楽器演奏、あるいは図形のジェスチャーなどの方法を用い、記述も音名で行なうというものであった。
 このように音声言語としての特徴を前面に出したのは、創案者シュドル自身音楽家でもあったことが深く影響しているが、その政策的な目的として、視覚障碍者や聴覚障碍者でも対等にコミュニケーションが取れるようにするというバリアフリー的な発想を取り入れたためであった。
 このようなソルレソルは、計画言語でありながらアプリオリであるというユニークな特徴を持ち、言語発展史的には音声言語であった原始言語への原点回帰という形をとりつつ―実際、シュドルがソルレソルをまとめた著書のタイトルは「普遍的音楽言語」であった―、障碍者のコミュニケーションをも視野に入れるというその後の計画言語よりも進歩的な一面を持つ言語であった。
 このように、ある意味ではその後の計画言語以上にラディカルと言えたソルレソルは簡明さの反面、事物のカテゴリー化が困難であるという限界もあり、一部フランス知識人の関心を引いたものの、結局普及することはなかった(ただし、今日でも愛好者の小さなサークルは存在している)。
 より体系的でアポステリオリな計画言語の様々な試みが登場するのは、19世紀末以後のことであった。先陣を切ったのは、1879年から翌年にかけてドイツ人神父ヨハン・マルティン・シュライヤーが創案した「ヴォラピューク」であった。この言語は特定の民族言語からの影響を排除した中立的な国際言語として創案された先駆的な試みであり、短期間のうちに支持者を得て、普及し始めた。
 とはいえ、当時大英帝国の世界支配の中で英語の使用がグローバルに広がっていた現実に合わせ、単語の多くを英単語の変形として創案したため、言語系統的には英語に近いと言える面もあった。他方で、発音にはドイツ語的な特徴が認められ、文法上もドイツ語的に四つの格変化を持ち、動詞の人称変化もあるなど、創案者の母語であるドイツ語からの影響を排除し切れていなかった。
 不運にも、ヴォラピューク創案の直後にユダヤ系ポーランド人の医師ルドヴィコ・ザメンホフが創案した「エスペラント」はより言語学的な中立性が高く、文法構造もより簡明であったため、エスペラントに押される形でヴォラピュークは衰退していった。
 エスペラント以後も様々な計画言語の創案は続くが、エスペラントは計画言語としてこれまでのところ最も大きな成功を収め、急速に世界に普及していったため、以後の計画言語はエスペラントを軸に動いていくことになった。

2014年9月17日 (水)

西洋音楽の演劇性

 西洋音楽の特徴をひとことで言えば、演劇的なダイナミズムということに尽きる。これはクラシックかポピュラーかを問わない(というより、西洋ではポピュラーもクラシックの遠縁である)。そのせいで、西洋の西洋音楽家たち(指揮者を含む)は時に過剰と思えるくらいにオーバーアクションのパフォーマンスを見せる。
  ところが、これがひとたび日本に上陸すると、とたんにおとなしいものになってしまう。最近の日本人西洋音楽家の技術的な向上は著しいと思うが、今一つ何かが足りないと思うのは―おそらく日本人の演奏に接する西洋人の感想もそうだろう―、演劇性である。
 おそらく、日本の雅楽の伝統がどこかで影響しているのかもしれない。雅楽はその名のとおり、みやびやかで、動的な演劇性には乏しいが、はにかむように控えめな静寂の中で優美に響かせる音楽である。日本人の音楽パフォーマンスはどうしても雅楽的になりやすい。これは、音楽というものが文化的土壌に制約されることからして、避けられないことなのだろう。
 ただ、日本人西洋音楽家が国内市場にどとまるのでなく、西洋市場でも高い評価を得たいという野心を持つなら、雅楽的伝統からは離れ、もっと踊るような、あるいは科白をしゃべるようなダイナミックな演奏が必要ではあるだろう。その点では、ポピュラー系のほうに分があるかもしれない。

2014年9月15日 (月)

ピアノの政治経済学(連載第5回)

note2:ピアノ時代の到来①

notes技術革新の進展
 メディチ家の楽器職人であったイタリア人クリストフォリが発明した新楽器ピアノは、チェンバロ優勢だった彼の生前バロック期にはまだ普及することなく、その死後、彼の名もすみやかに忘れられた。
 しかし、ドイツ語圏でピアノに関心を持つ楽器職人が現れた。その嚆矢は、芸術のパトロンとして知られたザクセン選帝侯フリードリヒ・アウグスト1世の宮廷職人だったゴットフリート・ジルバーマンである。
 彼は本来オルガン製作者であったが、1730年代から試行的にピアノ製作も手がけるようになった。バッハが当初低評価したのも、このジルバーマン作のピアノであった。彼はその後改良版ピアノを製作し―実は、それこそが本来のクリストフォリ版に忠実なピアノだったともいう―、改めてバッハから一定の評価を得ることができた。
 ジルバーマンのピアノはほぼクリストフォリの模倣であったが、全弦のダンパーを一斉に弦から離脱させることで音を持続・増幅させるハンドストップの仕組み(現代ピアノの右ペダルに相当)を付け加えたことは、唯一の新基軸であった。
 ジルバーマン自身はピアノ製作を本格的には行なわなかったが、彼の孫弟子に当たるヨハン・アンドレアス・シュタインはピアノ専門職人となった。彼は1751年、アウグスブルクにピアノ製造工房を構え、本格的なピアノ製造に着手するが、彼の最大の功績は「跳ね上げ式」というクリストフォリの発明よりも単純な打鍵構造の発明にあった。これにより、奏者はより打鍵しやすくなり、軽快なタッチで演奏できるようになったと評される。
 バッハのピアノ批判にはタッチが重たいというものもあったが、この批判がシュタインの改良で回避されることになった。後にウィーンに伝わり、ウィーンで盛んに製作されたことから、「ウィーン・アクション」と名づけられるシュタイン版ピアノは、やがてアントン・ワルターという名匠の下でさらに改良され、当時の標準ピアノとなる。
 ただ、楽器の物理的な構造がいかに革新されても、その楽器のために作曲された楽曲がなければただの飾り物にすぎない。肝心なピアノ曲を提供する作曲家はなかなか現れなかった。最初のピアノ曲と目されているのは、クリストフォリの死の翌年にイタリアの作曲家ロドヴィコ・ジュスティーニが発表した「ツィンバロ·ディ·ピアノのためのソナタ」(全12曲)である。
 今日ではほとんど演奏される機会のない曲であるが、後代のピアノソナタのような緩急楽章を持ち、曲調的にも古典派を先取りするような性格があり、ピアノという楽器がやがて来たる古典派時代の花形となることを予兆させるが、この曲が当時、話題を呼ぶことはなかったようである。
 実際、イタリアは間もなくバロックを脱した前古典派音楽の中心地となるが、ピアノの普及と古楽器チェンバロの衰退を決定づけるには、18世紀半ば以降ピアノ製作の一大中心地となるウィーンで花開く古典派の時代を待つ必要があった。

2014年9月13日 (土)

アイスランド―先取未来国家(連載第3回)

two 環境政策

 アイスランドは人口わずか30万人余りの島国であるが、政策の面では単に「先進的」にとどまらず、「先端的」と呼ぶべき未来先取り的な特色がある。中でも、エネルギー政策を軸とする環境政策である。
 アイスランドの一次エネルギー供給は、その85パーセントを地熱と水力の再生可能エネルギーで―発電に関しては、100パーセント―カバーしている。化石燃料の比率は残余の15パーセントにすぎない。
 特に地熱はアイスランド名物とも言えるもので、一次エネルギー源の65パーセントをカバーする。発電に関しては、水力の75パーセントに比して、地熱は25パーセントにすぎないが、寒冷地に必須の家庭用暖房に関する限り、90パーセントを地熱発電でカバーしている。
 このように地熱の割合が高いのは、アイスランド特有の地理的条件による。前回指摘したように、アイスランドは火山国であり、全国に多数の間欠泉・温泉が点在する「温泉大国」でもあり、地熱活動は極めて活発である。こうしたことから、地熱の活用は必然であり、未開発の地熱源がまだ数多く存在すると見られている。
 一方、アイスランド政府は、2050年までに脱石油・水素社会に転換する長期計画を持っている。その準備活動として、「生態学的都市交通システム」(ECTOS)の実験プロジェクトとして、水素燃料電池バスの導入や、水素燃料スタンドの建設などが進められているところである。
 こうした先端的なエネルギー政策の結果、火力発電も原子力発電も行なわないアイスランドは一人当たりのグリーン・エネルギー産出量が世界最大であり、なおかつ一人当たりの発電量も最大級という環境と電力の両立を可能にしている。
 ちなみに、鉄道がないアイスランドでは自動車が主要な陸上移動手段となり、1000人当たり自動車保有台数ではアメリカ並みの自動車王国であるわりに、未舗装道路が多く残されている。これは未開発による放置ではなく、むしろ現生的自然を残すための意図的な「非開発」の結果である。
 しかし、こうした環境先端国アイスランドにも、一つ痛恨の環境破壊がある。それは、前回も指摘した乱伐による森林破壊である。古い記録によると、アイスランド本島は最盛時30ないし40パーセントが森林に覆われていたと見られているが、現在の森林面積は国土の0.3パーセントにまで縮減している。目下、植林による森林復活の努力がなされているが、成果は途上である。
 一方、島国として漁業を主産業としてきたアイスランドは、漁業資源の持続可能性を考慮し、漁獲枠を計画的に設定する「譲渡可能個別割当制」(ITQ)を導入しつつ、水産会社には漁獲枠使用税を課す策で、生物多様性と水産業の両立を図っている。

fuji環境政策面でアイスランドが唯一後ろ向きなのは捕鯨。捕鯨国としては、日本とも「盟友」関係にある。ただ、日本と同様、鯨食文化があるとされるアイスランドでも昨年 IFAW(国際動物福祉基金)が実施した世論調査によると、鯨肉を定期的に食べるアイスランド人は3パーセントしかいないことが判明、文化論的な捕鯨賛成論は根拠を失いつつある。

2014年9月12日 (金)

私家版松平徳川実紀(連載最終回)

二十七 徳川家達(1863年‐1940年)

 通常の徳川史は最後の将軍15代慶喜をもって閉じられるが、明治維新後、華族(公爵)の身分を与えられて存続した近代徳川家の祖と言うべき人物として徳川家達〔いえさと〕を無視するのは正当でない。
 家達が出た田安家は将軍を出す御三卿の一つであったが、一橋家支配の中で実際に将軍を輩出することはなかった。家達の父は14代将軍家茂の将軍後見職を務めたこともあり、家茂は死去の際、遺言で家達を後継指名したが、幼年のため幕閣や将軍未亡人和宮の反対を受け、一橋家の慶喜が将軍に就いた経緯があった。
 しかし、明治維新後、「朝敵」とされた慶喜が徳川宗家当主の座を降ろされ、謹慎の身となったことから、当時まだ5歳にもならない田安家当主家達が形式上は慶喜の養子に入り、徳川宗家当主に就くこととなった。皮肉にも、徳川幕藩体制が終焉して初めて田安家の時代が到来したのであった。
 とはいえ、もはや将軍ではなく、家達最初の仕事は根拠地の静岡藩知事という地方長官職であったが、それも廃藩置県で間もなく免官となり、東京へ移った。以後は英国留学など明治期の華族子弟としての英才教育を施された。
 帰国後は、明治二十三年(1890年)から貴族院議員となり、近代政治に参与する。同三十六年(1903年)に貴族院議長に勅任されると、昭和八年(1933年)に任期途中で辞職するまで、歴代最長の五期連続三十年近くにわたり貴族院議長を務め、明治から大正を経て昭和前期に至る日本の議会政治の一翼を担った。
 この間、大正三年(1914年)には、当時の山本権兵衛内閣がシーメンス疑獄事件の発覚により総辞職に追い込まれた後、人心一新のため天皇から組閣の命を受けたこともあった。受けていれば、徳川家当主が約半世紀ぶりに政治のトップに就く形になったはずであったが、この時は徳川一門の強い反対を受け、辞退した。
 貴族院議長は名誉職的存在であるため、家達が直接に政治を主導するような場面はなかったが、第一次大戦後、1921‐22年のワシントン軍縮会議では首席全権代表の一人として交渉に参加した。この会議で日本は海軍主力艦保有比率を英米の6割に切り下げられたことから、「軟弱外交」の批判も浴びたが、これとて実質的な交渉責任者は海軍大臣であり、貴族院議長の家達は権威づけ的な意味合いで参与したのにすぎないので、批判はとばっちりではあった。
 家達は貴族院議長のかたわら、恩賜財団済生会会長や日本赤十字社社長などの官製厚生事業のほか、大日本蹴球協会(現日本サッカー協会)名誉会長や、戦争のため幻に終わった1940年東京五輪招致成功後の大会組織委員会委員長など国家体育事業にも関与した。
 ちなみに、家達は両性愛者であったようで、妻子を持つ一方で、男性とも性関係を持ち、セクハラ騒ぎを起こすなど、一門が眉をひそめる無軌道な一面もあった。先祖の将軍たちの中にも両性愛者がいたが、武家の「衆道」が特権慣習的に許されていた時代とは異なり、「不祥事」とみなされてしまうのも、近代徳川家ならではの悲哀だったかもしれない。
 ともあれ、家達以降の近代徳川宗家は第二次大戦後、貴族制度廃止により一般公民化されても田安系で継続している(現当主恒孝〔つねなり〕氏は母方を通じて家達の曾孫に当たる会津松平系の養子)。

2014年9月 9日 (火)

言語発展論(連載第6回)

第1部 通則的概観

五 征服言語と交渉言語(2)

 文明言語の中でも軍事的征服に伴って強制的に広がった征服言語は征服地での商取引でも使用されるようになり、交渉言語を兼ねることが多いため、征服言語と交渉言語の境界は明確でないが、交渉言語プロパーで発達した言語の最初期の代表例はアラム語と考えられる。
 アラム語はユーフラテス河上流付近に発祥し、後にシリアを拠点にいくつかの都市国家を営んだアラム人の民族言語で、セム語派に属する。アラム人は軍事的な制服よりも、ラクダによる隊商貿易で繁栄した商業民族であったから、アラム語も国際商業言語としてかれらの商圏一帯に拡散していった。
 特に同系言語であるフェニキア語の文字を転用して作られたアラム語のわかりやすい文字体系は広く普及し、アラビア文字やヘブライ文字など、中東系の代表的な文字はすべてアラム文字から派生した。それはまた遠く中央アジアや南アジアにも伝わって、モンゴル文字やインド系のブラーフミー文字の祖ともなった。
 他方、より新しい代表的な交渉言語としては、東アフリカ地域で広く普及しているスワヒリ語がある。スワヒリ語はサブサハラ地域で広く使用されるバンツー系言語を基礎に、アラビア語やペルシャ語からの借用語を含む混交性の強い言語であるが、元来東アフリカ地域で多岐に分かれていた部族言語の最大公約数的な言語として形成され、交易上のリンガ・フランカとして整備されていったものである。その整備の過程では、標準スワヒリ語を制定するための委員会が設置され、正書法が定められるという人為的な手が加わった。
 類似の発達を遂げた交渉言語に、インドネシア語・マレーシア語―両言語はほぼ同一言語の方言関係にあるため、やや不正確ながら「マレー語」と総称する―がある。マレー語も元来、多数のオーストロネシア語族系民族がひしめくマラッカ海峡周辺の交易上のリンガ・フランカであった一方言を国語として整備したものである。
 これら交渉言語は商取引で使用されただけに、発音や文法も簡略化され、習得しやすい特徴がある。特にスワヒリ語やマレー語は接辞を多用して単語を派生的に作り出すことができる膠着語の性質を持つが、なかでもマレー語は動詞が活用変化せず、かつ助詞のような膠着システムもない孤立語的な特徴を備えた簡明な言語であって、簡明さを命とする計画言語を考えるうえでも大いに参考になる。
 交渉言語は自然言語としての民族言語をベースとするものであるが、スワヒリ語やマレー語に見られるように、その体系的な整備の過程で人為的な手が加わることが多い点では、計画言語に近い要素を持つ。ある意味で、計画言語とは初めから人為的に交渉言語として作り出された言語であって、交渉言語は自然言語と計画言語の間をつなぐような発展段階にある言語であるとも言える。

2014年9月 7日 (日)

アイスランド―先取未来国家(連載第2回)

one 自然環境

 アイスランドと言えば、まず第一に原生の自然が注目される。しかし、海外の自然を取材する日本のテレビ番組でもアイスランドはめったに取り上げられず、最近では作家の椎名誠を旅人とするフジテレビの旅番組シリーズ『椎名誠のでっかい旅!』の最終編(2014年6月27日放送)でアイスランドが大きく紹介された程度である。
 この番組の副題「地球最大の火山島アイスランドの謎に迫る」にもあるとおり、アイスランドは典型的な火山島である。しかも、火山活動は極めて活発で、30もの火山系(活火山数では200超)を数える。最近も今年8月末に南東部のバルダルブンガ火山が噴火し、警戒された。このような活発な火山活動はアイスランドが大西洋中央海嶺とアイスランドホットスポットと呼ばれるマグマ上昇点の真上に位置するという特殊な地形のせいだという。
 海嶺は常に拡張活動を継続しており、日々新たな大地が形成されているため、大地が引き裂かれる形でギャオと呼ばれる避け目を生じさせる。こうしたことから、アイスランドは地球の活動が地球上で最も活発であり、地球が生きた惑星であることを視覚的に実感できる場所なのである。
 一方で、アイスランドは氷河とフィヨルドの島でもあり、国土の約10パーセントは氷河で覆われ、沿岸には多数のフィヨルドが見られる。このような火山と氷河の結びつきは、噴火に伴い氷河の溶解・洪水を引き起こし、多重災害のリスクを高める危険な組み合わせでもある。
 アイスランド本島内陸部は溶岩砂漠と荒野に覆われ、荒涼とした無人地帯である。かつては樺林が相当に広がっていたが、乱伐によりごく一部を残してほぼ喪失したため、荒涼さを倍化させている。農業適地は少なく、牧畜は成り立つが、農業は主産業たり得ない。
 このようにアイスランドは新しく活動的な火山島であるがゆえに、厳しい自然環境にある。特に火山の噴火は最悪、亡国にもつながる。実際、18世紀に発生した南部のラキ火山及びグリムスヴォトン火山の連続大噴火は家畜の大量死と飢餓により国民の四分の一が犠牲となる歴史的な大災害として記憶されている。
 現代アイスランドは小さいながらも北欧型福祉国家の一つであり、前出番組でインタビューされたアイスランド人も「医療・福祉・教育などの面では全く不安はないが、災害だけが唯一の不安」と述べていたのは、平均的アイスランド人の意識を代弁するものであろう。
 連載初回でアイスランドは持続可能性では最高レベルと指摘したが、同時に災害による亡国可能性も秘めている。しかし、災害による亡国は今や世界中どこでも起こり得る事態であり、そうした破局的な意味でも、アイスランドは未来を先取りする国だと言えるのである。

fuji地震活動が活発な日本でも生きた地球の活動を体感できるが、地面の下は見えないので、地球が惑星であるという実感はなかなか湧かない。その点、アイスランドでは全国どこでも惑星地球の活動を風景として目にすることができる。

2014年9月 6日 (土)

私家版松平徳川実紀(連載第23回)

二十六 徳川慶喜(1837年‐1913年)

 徳川慶喜は本来は水戸徳川家の当主・徳川斉昭の七男として生まれたが、12代将軍家慶の命により一橋家の養嗣子となり、一橋家当主を継いだ。英明の評判の高かった慶喜は最終的に将軍に就任する以前、二度将軍候補に挙がったことがある。
 一度目は家慶が将軍不適格の息子家定に代えて慶喜を次期将軍とする構想を非公式に内示した時であった、これは幕閣の反対により立ち消えとなった。二度目は13代将軍家定の治世末期であり、この時は明確に斉昭ら一橋派から将軍に推挙されたが、紀州藩主家茂を推す南紀派に押し切られた。この後、実権を握った大老井伊直弼主導の政権では、安政の大獄に連座して隠居謹慎処分を科せられ、政治的発言力を封じられた。
 しかし、井伊暗殺後、一橋派が復権すると、将軍後見職に送り込まれ、年少の14代将軍家茂の下、実質的な摂政として実権を掌握した。そして政事総裁職に就任した福井藩主松平慶永(春嶽)との二頭体制で公武合体期の国政を主導する。
 しかし、間もなく朝廷への恭順姿勢の強い慶喜と朝廷との距離を保とうとする慶永の相違が表面化し、慶永は辞職する。慶喜は攘夷を主張する朝廷に従って横浜港閉港方針を固め、朝廷との密着を強めた。元治元年(1864年)に将軍後見職を辞し、後の近衛師団長に相当する禁裏御守衛総督に就いた慶喜は、尊皇攘夷派筆頭の長州藩征伐に専心する。
 そうした中、第二次長州征伐渦中の慶応二年(1866年)に将軍家茂が急逝すると、幕閣と将軍未亡人和宮の推挙を受け、15代将軍に就任する。再び将軍職が一橋系に復帰した形となったが、前述のとおり、血統上慶喜は御三家ながら将軍を出さない「副将軍」格の水戸徳川家の出身であったことから、実家の水戸家の反対を受け、自身も当初は将軍就任を固辞していた。しかし、終末期の幕府は人材も払底しており、慶喜以外の有力候補者は見当たらなかった。
 こうして三度目の正直で将軍に就任した慶喜は畿内に常駐し、事実上朝廷の首相のような立場で国政に当たった。彼の将軍在位は1年ほどであったが、この間、慶喜はフランスの援助で近代軍備を整備したほか、大規模な行財政改革にも着手するなど、幕藩体制の枠内で近代的な改革にも踏み込んだ。これは「慶応の改革」とも呼ばれるが、従来の保守反動的な「改革」とは異なり、実質的な改革プログラムを含んでいた。
 しかし、こうした限定改革ではもはや薩長の討幕運動を抑止し切れないことを見て取った慶喜は、慶応三年(1867年)、大政奉還を決定する。このことは、法的には徳川幕藩体制にとどまらず、鎌倉幕府開府以来700年近くにわたって続いてきた武家政権の終焉を意味した。ただ、慶喜は新たに自らを議長とする諸侯会議を設置し、内閣制に準じた形で徳川実権体制を残すことを画策していたようだが、これを阻止するため薩長が先制的に王政復古クーデターを起こし、慶喜を政権から排除した。
 この政変を契機として始まる戊辰戦争にも敗れた慶喜は、慶応四年(1868年)、江戸城無血開城とともに謹慎処分となり、実家の水戸を経て、徳川家本拠の駿府に落ち着いた。戊辰戦争では朝敵と名指された慶喜の助命と徳川家存続が許されたことには、皇族出身の和宮の仲介もあった。こうして徳川家自体の存続は認められたが、慶喜は宗家当主の地位からは降ろされ、田安家の徳川家達(いえさと)が新たな宗家当主とされた。 
 しかし明治二年(1869年)には早くも謹慎解除となり、引き続き駿府で隠居生活を送っていたところ、明治後半期になると東京へ移ることが許された。明治三十年(1902年)には宗家とは別途徳川慶喜公爵家の創設が認められ、貴族院議員として近代政治にも参与した。
 明治を越え、大正二年(1913年)まで長生した慶喜は将軍経験者で唯一20世紀を生きた人物であった。前近代に生まれ、近代にも適応して生き延びた慶喜は時代の変化を読み取る力はあったが、動乱期の指導者として強力とは言えなかった。反面、幕藩体制、ひいては封建的武家支配に幕を引く人物としてはふさわしかったのかもしれない。

私家版松平徳川実紀(連載第22回)

二十五 松平容保(1836年‐1893年)

 松平容保〔かたもり〕は、元来尾張藩支藩の美濃高須藩主の六男として生まれたが、かつて2代将軍秀忠の庶子保科正之が興した会津松平家の養嗣子となり、会津藩主を継いだ。血統上は水戸徳川家から高須藩主家を養子として継いだ祖父を通じて水戸家の流れを汲み、同志的存在であった最後の将軍徳川慶喜とも同系に当たる。
 容保が国政に登場するのは、慶喜と同様、桜田門外の変後の政権交代により、文久二年(1862年)に新設された京都守護職に就任した時である。当初はすでに多くの警護職を引き受け、逼迫していた藩財政を考慮し、固辞したものの、政事総裁職の松平春嶽の説得を受けて受諾した経緯があった。
 就任後の容保はさっそく上洛し、京都の警備任務を着実にこなして孝明天皇の信任を得た。この頃から忠実な佐幕派として将軍後見職慶喜らが主導する公武合体政策を支持し、尊皇攘夷派の取り締まりに厳しく当たった。特に慶喜が将軍後見職を辞し、禁裏御守衛総督に就くと、慶喜や実弟の京都所司代松平定敬〔さだあき〕と協力して京都を固め、長州藩排除に専心した。特に文久三年に長州藩を京都から放逐する政変を主導したことで、天皇の信頼を増した。
 慶喜が15代将軍に就くと、引き続き京都守護職として慶喜政権を支えるも、大政奉還後の王政復古クーデターで京都守護職が廃されると、表向きは新政府に恭順の意を示して会津へ帰国し、隠居・謹慎生活に入った。
 しかし、容保をいっそう有名にしたのは、隠居後、新政府に刃向かった会津戦争であった。新政府は容保を佐幕派首領とみなし、謹慎中の容保追討を東北諸藩に命じる。これに対して、会津藩に同情的な東北諸藩は奥羽列藩同盟を結成して会津藩赦免嘆願行動を起こすが、新政府・容保双方の強硬姿勢の前に赦免嘆願は実らなかった。
 東北・北越諸藩が奥羽越列藩同盟を結成すると、容保は側近の諫言を押し切って新政府との全面戦争に打って出た。こうして一連の戊辰戦争の中でも最も凄惨を極めた会津戦争が勃発する。しかし、当初から戦力において圧倒的に不利な会津藩に勝ち目はなく、戦況は新政府軍有利に展開、最後は決死の若松城篭城作戦も実らず、2500人を越す犠牲を出して全面降伏となった。
 にもかかわらず、戦後処理は無謀な戦争を主導した容保は薩長の計らいで死罪を免れ、家老一人が死罪となるという封建的なものであった。新政府としては、容保死罪によりなお徹底抗戦を主張していた強硬派残党が蜂起することを恐れたものと思われる。
 戦後は蟄居の身となった容保であるが、間もなく赦され、旧佐幕派にふさわしく日光東照宮宮司として余生を送り、明治二十六年(1893年)に東京で病没した。結局、容保は最後まで徹頭徹尾、主君に奉仕するまさに日本型の封建武士なのであった。
 なお、明治維新後の近代徳川宗家の現当主(養子)徳川恒孝〔つねなり〕氏は容保の六男の孫(容保の曾孫)に当たり、分家を介してながら、近代徳川宗家に容保の血統が流れることになった。

2014年9月 5日 (金)

抵抗の東北史(連載第10回)

九 中世東北の再編

 蝦夷代官職として鎌倉時代に台頭し、津軽を拠点に土着した安藤氏は幕府滅亡後も南北朝動乱期を生き延びていくが、この頃から本来の拠点にある津軽にとどまった家系(下国家)と、日本海側秋田に移住した家系(上国家)とに分岐する。
 この分立がどのような経緯で生じたのか詳細は不明であるが、大きなお家騒動は記録されていないため、政策的な分家であった可能性が高い。この点、鎌倉時代中期に男鹿半島に北条氏所領が拡大されたことに伴い、蝦夷代官安藤氏の管轄区域がこの地にも及ぶようになり、日本海側の統治を担う分家が生じたとも考えられる。
 いずれにせよ、下国・上国両家は戦国期に統合されるまで、大きな内紛もなく平和的な分立体制を維持していくが、室町幕府発足後も、半自立的な勢力として繁栄したのは、下国家のほうであった。十三湊は港湾都市として整備され、北海道の渡党やエゾと呼ばれるようになった北海道先住民との交易の中心地として栄えた。遺跡出土品からは中国・朝鮮との貿易の形跡もある。
 考古学的な調査によると、十三湊は14世紀中頃から15世紀前半頃にかけて最盛期を迎え、以降衰退するとされることから、下国安藤氏の全盛期もその時期とみなされる。全盛期の安藤氏は自ら蝦夷の末裔を称した安倍氏とは異なり、もはや俘囚の長ならず、「奥州十三湊日之本将軍」を名乗った。
 下国安藤氏が15世紀前半に衰退した最大の理由は、青森の三戸を本拠とする南部氏が北に勢力を伸ばし、安藤氏を圧迫するようになったことである。南部氏は系譜不詳の安藤氏とは異なり、甲斐源氏出身の南部光行を家祖とし、明確に源氏系譜をたどれる名門であり、奥州藤原氏を打倒した奥州合戦での功績から奥州に所領を与えられた光行の子孫が土着して形成された。
 南部氏に追われた安藤氏は、かねてより交易を通じて勢力圏としていた道南にいったん逃れた後も、津軽奪還を試みるが、1453年に時の当主・安藤義季が南部軍に敗れ戦死して、下国家直系は断絶する。
 その後は義季の又従兄弟に当たる政季が継ぐ。彼は1456年、上国家の招きを受け、秋田の檜山に移住するに際し、道南の渡党を糾合し、三人の守護職を置いた。そして、檜山を拠点に下国家を再興した(檜山安東氏)。この家門再興に前後して、安藤氏は安東氏に改字したと見られる。檜山安東氏は次第に比内・阿仁地方まで勢力を広げ、出羽北部から道南を支配領域とする豪族に成長する。
 一方、下国家を救済した上国家は湊安東氏として京都扶持衆に名を連ね、自立気風の強い檜山安東氏とは異なり、室町幕府と密接な関わりを持っていたが、その事績はあまり明らかでない。
 こうして、出羽は檜山安東氏と湊安東氏として再編された安東二家が並立する体制となり、一方、津軽・青森地方では安藤氏を駆逐した前出の南部氏が強盛化し、次第に自立的な戦国大名に成長していく。

2014年9月 4日 (木)

言語発展論(連載第5回)

第1部 通則的概観

四 征服言語と交渉言語(1)

 文字体系を備えた文明言語は一民族言語を超えて、周辺民族間の共通語としても広がっていくが、その広がり方には軍事的な征服に伴う強制的な態様と、主として商取引を通じた任意的な態様とがある。
 前者の強制的な広がりを持つ言語―征服言語―の最も初期のものは、アッカド語であったと考えられる。アッカド語はメソポタミアでシュメール語がシュメール人と共に消滅した後を受けて地域の国際共通語の地位に就いた最も古いセム語系言語であるが、この言語は征服国家アッカド帝国の樹立とともに周辺地域に広がった。
 文字体系はシュメール語の楔形文字を借用し、語彙にもシュメール語からの借用語が多いというように、アッカド語はシュメール語の影響下に整備された言語であるが、シュメール語とは異なりアラビア語など他のセム語派系言語と同様、屈折語の特徴を持っていた。
 征服言語としてより持続的な成功を収めたのは、ラテン語であった。印欧語族の代表指標的言語でもあるラテン語は言うまでもなく、ローマ帝国の公用語としてその支配地域全体に広がった言語であるが、これは一時欧州全域で共通語となり、またそこからローマの膝元イタリア語をはじめ、フランス語やスペイン語など地域ごとに口語化された多数の派生語(ロマンス諸語)を新たな民族言語として生み出していった。
 征服言語としてはそれまでにない広域に広がったラテン語の時代が過ぎると、新たな征服言語として英語が台頭する。英語も印欧語族ゲルマン語派に属するが、元をただせばゲルマン語派の中でもマイナーなアングル族・サクソン族・ジュート族を話者とする小民族言語(言語群)であったが、かれらのブリテン島征服に発祥する大英帝国、続いてそこから独立したアメリカ合衆国の世界支配に伴い、文字どおり全世界に広がった。
 以上の代表的な征服言語はいずれも広域的に広がった大征服言語であるが、より狭い領域を征服した民族の言語が征服言語として強制されるようになるケースもある。こうした言語―小征服言語―は、やがて国民国家の成立とともに国語として法的にも強制されるようになっていく。日本語もそうした小征服言語の一つと言える。
 他方、征服言語が被征服民族によって変形・混交され、クレオール言語として確立されていく場合もある。このようなクレオール言語化は特に英語やフランス語に多いが、クレオール言語が憲法上も明記された国語として定着した例として、中米のハイチ語(フランス語系クレオール)がある。
 征服言語は同時に商取引を中心とした交渉事にも使用される交渉言語を兼ねていることが多いが、交渉言語プロパーで発達した言語もある。これら交渉言語については、本連載の重要な主題でもある計画言語との関連で固有の問題を含むので、稿を改めて論じる。

2014年9月 3日 (水)

科学的心配と迷信的心配

 デング熱の感染拡大が懸念されているが、政府は冷静さを呼びかけている。しかし、原発事故時と同様、眼前に心配事があるのに冷静さを呼びかけるのは社会心理的に逆効果で、むしろ何かを隠しているかのような不信感を強めるだけである。
 デング熱は人対人感染はしないから心配ないと政府は言いたいようだが、感染者から吸血した蚊を媒介して間接的に感染が拡大する可能性はある以上、大衆の心配には理由がある。放射線が「伝染」するというような心配は迷信的心配であり、除去する必要があるが、科学的に正当な心配には配慮する必要がある。
 むしろ迅速な検査体制と対応する医療機関の整備を通じて安心を呼びかけるほうが効果的だ。ところが従来、熱帯病は外国の話という意識が強いため、日本では即応体制が不十分である。
 目下アフリカで猛威を振るうエボラ出血熱についても日本では上陸・感染拡大はあり得ないと情宣されるが、アフリカ帰りの人が持ち込む可能性を否定できない。ところが、こうした高危険度のウィルスを扱う国内の精密検査機関は存在していながら稼動していないという。
 理由とされるのは地元住民の反対。おそらくウィルス流出の危険を心配するのだろうが、厳重管理下のウィルスが流出する危険は低く、これは科学的心配とは言えない。住民の心配を除去して、稼動させるべきだろう。もっとも、二つある検査機関の一つが「理研」施設というのは、時節柄ひっかかるが・・・。

2014年9月 1日 (月)

本能を呼び覚ませ

 今夏も多くの台風被害に見舞われた。例年9月1日には年中行事的に防災訓練が繰り返されるが、防災訓練がどの程度実際の災害で役立っているかの検証はほとんど行なわれていない。実際のところ、災害で生死を分けるのは各自の予知本能のようなものではないか。
 「人間とは本能の壊れた動物である」という定義もあるが、果たしてそうか。むしろ本能は眠らされているだけではないか。災害時に本能を眠らす要因となるのは、予報である。
 しかし3・11をはじめ、多くの災害で予報は外れている。これは気象庁の無能のせいではなく、そもそも科学は自然現象を正確に予知することはできないからである。気象学は気象の事後分析は得意だが、事前予知は苦手である。
 予知はむしろ人間のアプリオリな本能に属することで、平素と異なる異常な音とか臭い、地面の振動、空の色などから直感的に大規模災害の発生を予知することは不可能でない。大災害で生き延びたければ、予報に頼らず、本能を呼び覚ませ。

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