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2014年8月

2014年8月31日 (日)

ピアノの政治経済学(連載第4回)

note1:メディチ家とピアノ③

notesピアノの不遇時代
 画期的なものほど、初めは理解されない。この法則は、クリストフォリによって発明されたピアノ―アルピチェンバロ―に関しても例外ではなかった。
 時代はまだバロック期であり、弦鳴型鍵盤楽器としてはバロック的な装飾性にマッチしたチェンバロが圧倒的に人気楽器だったため、音色が柔らかで、初期には音量も十分でなかったピアノは魅力に乏しかったようである。1730年代にドイツで製作されたピアノを見せられたドイツバロック音楽の大家バッハは高音部の弱さを指摘し、高い評価を与えなかった。
 バッハは後に改良されたピアノに対しては改めて好評価を与えたとされるが、ピアノのための作品を作曲することはなかった。今日でこそバッハ作品はピアノ学習上の定番課題として生徒に与えられるが、それらは本来チェンバロ用に書かれた作品であって、進歩した現代ピアノで演奏しても、バロック調のきらびやかな装飾音をピアノで完全に表現することはできない。その意味では、バッハをはじめとするバロック作品をピアノで演奏するのは、作曲者が想定した楽器を変更する編曲に近いことである。
 ピアノが当初普及しなかったことには、そうした音楽的な理由のほかに、機構の複雑さから製作費がかかり、楽器の値段が高価になるという経済的な理由も―この点は今日でも不変であるが―、関わっていた。
 クリストフォリにとって不運だったのは1713年、パトロンであったメディチ家のフェルディナンド大公子が世を去ったことだった。父で時のトスカーナ大公コジモ3世は健在であったが、彼は息子のように音楽に理解のあるパトロンではなく、その後を継いだフェルディナンドの弟ジャン・ガストーネ―最後のトスカーナ大公―もまた然りであった。
 それでも、クリストフォリは引き続きメディチ家の楽器職人・管理人の仕事を続け、ピアノの製作も継続したようだが、メディチ家終末期の凋落は著しく、給与だけでは足りず、楽器を売って生活するようになったようである。しかし、その結果、当初は資金のあるスペインやポルトガルの王室がピアノの購入者となり、ピアノの海外普及に一役買ったのは皮肉であった。
 おそらく最初の「ピアニスト」と言えるのは、イタリアバロック音楽の作曲家ドメニコ・スカルラッティの弟子でスペイン王妃バルバラ・デ・ブラガンサであったかもしれない。彼女は当時優れた鍵盤楽器奏者でもあり、数台のピアノを所有していた。ただ、彼女のために作曲された500曲を超えるスカルラッティの「ソナタ」もまた本来チェンバロ用であった。
 クリストフォリ自身は晩年までピアノ製作を続け、ジャン・ガストーネに先立ち1731年に没した。75歳まで長生したわりにその名声は残らず、19世紀に再発見されるまで、欧州でも彼がピアノの発明者であることは忘却されていた。

2014年8月30日 (土)

アイスランド―先取未来国家(連載第1回)

 もし移住するとしたら、移住先としてどこがよいか。その答えは―「移住するつもりはない」という答えを含め―人により様々であろうが、筆者は、目下アイスランドという北欧の小国に注目している。なぜ、アイスランドか。それはプラス・マイナス両面を総合して、未来を最も先取りしている国という判断に達したからである。
 ここで言う未来とは、漠然とした遠い将来という意味ではなく、資本主義を超えた未来のことであり、場合により地球自体が壊滅するかもしれぬ可能性をも秘めた未来である。つまり、そうした遠未来の「国」としてのモデル条件を満たしているのはアイスランドであるという結論に到達したのである。
 その判断基準としては、環境的持続可能性、平和への寄与、政治的民主性、社会的公正、人間の福祉が主要なファクターとなる。それらが完璧な国は残念ながら世界に皆無であるが、アイスランドはこれらのファクターで総合的に最高評価を得られる国である。本連載は、そうしたアイスランドの地政学的な分析研究のささやかな試みである。
 アイスランドは人口30万人ほどの小国であり、大国意識の強い日本では高い関心を持たれる国ではないため、一般に入手可能な資料は限られており、本来なら現地に住んで発信すべき連載ではあるが、あえて遠い日本からの限界の多い発信を試みてみようと思う。
 なお、筆者はすでに別ブログにて、おおむね人口100万人以下の世界47か国の地政学的事情を簡潔に通覧する連載を終えているが(『世界小国通覧』)、その一環として取り上げたアイスランドの項目をここに再掲し、本連載の序論に代えてみたい。

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(ア)概況
930年、バイキングによって建国されたが、ノルウェー、次いでデンマークの支配を受けた後、1944年にデンマークから独立。EU未加盟。

(イ)地理的特質
北欧の北大西洋上に位置し、沿岸には多数のフィヨルドがあり、地上に海嶺の裂け目が見られる特徴的な火山島嶼。歴史上たびたび活火山の噴火に見舞われている。緯度上は寒冷な北極圏に迫るが、メキシコ湾から流入する暖流の影響で、周辺諸国よりは温暖な気候である。

(ウ)経済社会状況
伝統的には捕鯨を含む漁業が主産業であるが、1980年代以降、金融サービス分野を軸とした金融立国として成長した。リーマンショック後の2008年大不況で経済破綻の危機に陥ったが、その後は回復。一人当たりGDP基準では日本と同程度の水準にある。再生可能エネルギーを軸とする環境的に持続可能なエネルギー政策の先進国でもある。

(エ)政治制度
議会制民主主義と大統領共和制の二元民主制を採る。直接選挙で選ばれる大統領はほぼ象徴的な存在で、政治的な実権は首相にあるが、議会が可決した法案に拒否権を発動し、国民投票に付する権限が留保されている。軍隊を保有せず、2006年には防衛協定に基づき駐留していた米軍も撤退した。

(オ)トピック:非武装安全保障
アイスランドは軍隊を保有しない国の代表格として、中米コスタリカと並んでよく引き合いに出される。しかし、実際上コスタリカが準軍事的な武装部隊を保有しているのに対し、冷戦時代の産物である駐留米軍が撤退した後のアイスランドは、非武装による安全保障をより徹底して追求している。現在アイスランドの防衛は、軽武装の沿岸警備隊が主に担っている。また警察官や沿岸警備隊員などの文民治安要員から成る危機対応部隊を擁し、国際平和維持活動にも参加するなど、アイスランドは軍隊とは別の手段による安全保障政策の実験場でもある。

2014年8月29日 (金)

私家版松平徳川実紀(連載第21回)

二十三 徳川家茂(1846年‐1866年)

 先代13代家定は病弱で実子もなかったため、存命中から後継者をめぐり派閥抗争が勃発していた。それは家定まで三代続けて将軍を出した一橋家の徳川慶喜を推す慶喜実父の水戸藩主・徳川斉昭ら一橋派と、紀州藩主・徳川家茂〔いえもち〕を推す大老・井伊直弼ら南紀派の間で争われた。この争いの背後には、開国派の南紀派に対して、攘夷派主体の一橋派という外交政策をめぐる対立があった。
 両派は共に紀州系という大枠では同門であったが、封建的な血統論から先代の従弟に当たる家茂を強く推した南紀派が勝利し、家茂が家定の養子となる形で、後継に決定した。この際、井伊主導で一橋派を弾圧する安政の大獄を起こしたことは、後に井伊自身も命を落とす禍根となった。
 こうして一橋家の支配はひとまず終焉して、再び吉宗以来の紀州藩本家筋に原点回帰する形となったが、家茂はこの時まだ12歳の少年であり、開国直後の難局に当たるには幼すぎたため、政治の実権は桜田門外の変で井伊が暗殺されるまでは井伊に握られ、その後は将軍後見職に就いた一橋慶喜に握られた。
 その慶喜実権体制の下で、幕府延命の切り札として実現されたのが、公武合体という壮大な政略婚であった。家茂の正室として、家茂と同年の和宮親子〔ちかこ〕内親王が招聘された。この婚姻は封建的身分秩序からすれば、皇族出身の妻が格上の「逆玉婚」であり、家茂も和宮に対しては低姿勢で何かと気を使ったため、彼は将軍というより「和宮の夫」のような立場となっていた。
 このように家茂は公私にわたり制約された立場を強いられたが、本人はそうした自身の限定的な役割をよく心得ていたようで、成人しても増長することはなかった。しかし慶応元年(1865年)、朝廷の攘夷方針に反して兵庫開港を強行した時の老中・阿部正外〔まさと〕と松前崇広〔たかひろ〕が朝廷から処罰されると、時の孝明天皇に将軍辞職の意向を突きつけて、以後幕府人事への朝廷の不干渉を約束させるなど気骨も示した。
 しかし彼も先代同様病弱だったと見え、実子は生まれず、慶応二年(1866年)、第二次長州征伐に親征の途上、大坂城で急逝した。20歳であった。
 結局、家茂は政略で年少にして将軍となり、皇族との政略婚を強いられ、その生涯を政略によって左右された。彼が長生していればどうなったかわからないが、幕藩体制の存亡がかかった危機の指導者としては先代家定同様、弱体であった。

二十四 和宮親子(1846年‐1877年)

 和宮親子は、明治天皇の祖父に当たる仁孝天皇の第八皇女であったが、上述のように公武合体政略の結果、本人の意思に反して将軍家に降嫁する運命となった。
 封建身分秩序のもとでは、属する身分によって生活様式も全く異なったことから、皇室側は和宮降嫁に当たり、御所の生活流儀を維持するよう幕府に申し入れていたが、遵守されず、和宮は慣れない武家の生活や大奥での人間関係、特に先代家定の継室で義理の姑に当たる天璋院の嫌がらせに苦しんだようである。それでも、夫の将軍家茂は和宮に気を使い、丁重に扱ったことで、夫婦仲は良好であったとされることが救いであった。
 しかしその家茂とも3年ほどで死別し、和宮は江戸城に取り残されることになる。しかし、彼女はむしろ家茂の死後、政治的にも重要な役割を果たすようになる。まず、またも持ち上がった将軍後継問題に関して、家茂が死の間際に遺言した田安家の亀之助後継を幼少を理由に退け、幕閣の多くが推していた一橋慶喜後継を支持して実現させた。
 その後も、和宮は江戸にとどまり、大政奉還から戊辰戦争、江戸城無血開城に至る動乱の中、幕府と朝廷の仲介者として平和的な役割を果たしている。特に王政復古後は将軍不在となる中、事実上徳川家の代表者として、かつて嫌がらせを受けた天璋院とも協力しながら、慶喜助命や徳川家の存続のために奔走するなど、仲介的な役割を果たしたのであった。
 彼女は明治維新後、一度帰京を果たしたが、間もなく新都・東京に戻り、徳川一門の大御所的存在として余生を送っていたところ、持病の脚気が悪化し、明治十年(1877年)に31歳で没した。
 彼女も亡夫・家茂同様、生涯を幕末の政略に左右されたが、そういう運命に耐えて、動乱の時期に皇族出身の将軍正室という前例のない役割を果たすべく努力した。
 政治的には朝廷の方針に従い一貫して攘夷派であったが、明治維新の体制移行に伴う流血が必要以上に拡大しなかったことには、和宮の果たした平和的仲介者としての貢献もあったと考えられる。

2014年8月28日 (木)

抵抗の東北史(連載第9回)

八 中世東北の抵抗

 奥州藤原氏が源氏によって滅ぼされ、東北も鎌倉幕府の支配下に入ると、この地方にも源氏配下の東国武士が地頭職に任ぜられて赴任してきた。特に幕府の実権が執権北条氏に掌握されてからは、北条氏所領が増加し、北条氏被官から有力者が現れる。中でも安藤氏である。
 安藤氏は2代執権・北条義時が陸奥守を兼任した際に、安藤五郎(または太郎)を「蝦夷代官」に任命したことを契機に奥州で同職を世襲する有力豪族に成長した一族である。蝦夷代官職の詳細はよくわかっていないが、その名称及び安藤氏の活動からすると、東北北部の旧エミシ領域の封建支配とともに、エミシがなお割拠していた北海道方面の踏査・渉外も委ねられた代官職と見られる。
 後に、安東氏→秋田氏と改姓し、最終的には主家・北条氏を越えて戦国大名・近世大名として幕末まで生き延びていく安藤氏は自ら安倍氏後裔を称したため、その真偽はともあれ、出自については奥州の土豪とする説が強い。しかし、北条氏被官として突如東北に出現した経緯からすると、本来は東国武士の出自と見たほうが自然である。
 史書ではないが、平安末期から鎌倉初期に編纂された仏教説話集『地蔵菩薩霊験記』に、武芸で名声を得た安藤五郎なる鎌倉武士が公命により蝦夷地に赴任し、夷敵を滅ぼし、貢納させたとあることから、同時代の民間にあっては安藤氏は鎌倉武士とみなされていたようである。
 この点で、通説とはなっていないが、駿河国北安東庄出身の北条氏被官で義時側近でもあった安東(安藤)忠家との系譜関係が注目される。この平姓安東氏自体の系譜も明確でないが、本貫地は安倍郡に属したことも、東北安藤氏の安倍氏の名乗りとの関係で意味深長である。ただ、東北安藤氏が奥州安倍氏の後裔を称したのは、滅亡から150年以上を経ても当地になお残る旧安倍氏の伝説的な威光を借りることが、支配上なお有効だったからとも考えられる。
 出自はどうであれ、安藤氏は東北に土着し、津軽の十三湊を拠点に道南地方との交易も掌握しつつ、広大な領域を統治し、元寇後の幕府権力の衰えとともに自立性を高めていくが、その象徴が1320年代に起きた安藤氏の乱である。
 この乱の直接的な契機は、時の蝦夷代官安藤季長とその従兄弟の季久の間での内紛にあったが、これに幕府・北条得宗家が介入し、蝦夷代官職を季長から季久にすげ替えた。これが裏目となり、不服の季長が幕府・得宗家に反抗し、内戦となった。幕府は間もなく季長を捕縛するが、季長派郎党の抵抗は続き、幕府は大軍を送って1328年にようやく鎮圧、講和となった。
 この乱の背景には、罷免された蝦夷代官季長が「蝦夷の乱」に適切に対処し切れなかったことがあるとされるが、混血系の新東北人が台頭してきた平安末期以降の東北地方に純粋の「蝦夷」(エミシ)はもはや残っておらず、ここで言う「蝦夷の乱」とは新東北人の中でも比較的旧エミシの血を濃く引く被支配層に属した者たちが、安藤氏の収奪に対して起こした一揆的反乱を意味するものであろう。
 ともあれ、御内人に背かれ、鎮圧に手間取った安藤氏の乱は鎌倉幕府の凋落を加速する要因ともなり、実際、幕府は乱の鎮定からわずか5年後には滅亡するのである。
 一方、自立勢力としての性格を強めていた安藤氏は幕府滅亡と運命を共にすることなく、津軽を拠点とし続ける下国家と秋田に移住した上国家の二家に分立しながらも、南北朝時代を生き延びていく。

2014年8月26日 (火)

言語発展論(連載第4回)

第1部 通則的概観

三 文明言語の発達

 祖先言語から多様な民族言語が派生していく中で、いくつかの言語において革命的な変化が現れた。それは文字という新たな言語ツールの発明である。言語は原初的な形では音声による口語であり、現在でもその本質は不変であるが、音声言語を文字に書き表すという方法は、それ自体社会の革命的な変化を物語っている。
 文字を発祥させた契機はそれぞれの民族言語によって異なるが、何らかの記録の必要が切実に生じてきたということである。記録は人間の記憶の限界を補い、一定の社会的な行為を正確かつ反復継続的に執り行ううえで必須の手段である。そうした中で、文字というツールが生まれる。
 こうした文字言語化はすべての民族言語において同時発生したわけでなく、実際のところ文字の発祥にはかなりの時間差があり、今日でもなお文字を持たない言語もある。最初期に文字体系を発明した言語保持者がいわゆる古代文明を開花させた。よって、そうした文字体系を整備した民族言語は文明言語となった。
 原初の文字は例外なく絵文字であったが、これは単語を表す最も原始的な書記法である。しかし、絵文字は図像的なわかりやすさの反面、迅速かつ正確な書記に限界があるため、次第に非図像的な記号文字へと転回する。この点、漢字は図像性を残しながら記号文字化された例外的な文字である。興味深いことに、コンピュータの時代に再び絵文字が復活しているのは、文明の原点回帰現象かもしれない。
 文字体系を備えた文明言語の第一号はメソポタミアのシュメール語であるとされるが、ほぼ同時期にエジプト語も文字体系を生んだため、両言語を最初期の二大文明言語とみなしてよいだろう。ただし、両言語の系統は全く異なり、膠着語の特徴を持つシュメール語はこれまでのところ近縁言語を見出せない絶滅した孤立言語であるが、屈折語の特徴を持つエジプト語はアフロ‐アジア語族に属する一派を成し、エジプトがアラブ化された現在でもコプト派キリスト教の典礼言語に姿を変えて継承されている。
 文字体系は当初極めて複雑で統一性にも欠けていたが、文明言語として汎用化されるにつれて、簡略化が起こる。中でも、エジプト語のヒエログリフは中王国時代に文字数の制限や綴りの統一などの大改革がなされ、今日でもアラビア語表記などに見られる子音のみで表記するアブジャドの原型も生み出した。またいわゆるデモティック体は文字体系自体を簡略化したもので、最終的にはこれがエジプト語の標準書体となった。
 文明圏が生み出した文字体系は周辺の民族言語にも借用されるようになり、それぞれの民族言語の文明言語化を促進していく。それにつれて小文明圏が各地に形成され、文明圏間での商取引の拡大とともに、領土的攻防も繰り広げられていくが、商取引の契約や戦争の講和などでも文明言語は大いに役立ったことである。

2014年8月25日 (月)

ギャンブル格差

 政府がカジノ合法化を目指していることに関して、議論が起きている。批判派は日本人のギャンブル依存率の高さを挙げて反論材料としている。ただ、ギャンブルに関しても、資本主義経済を前提する限り社会階層との関わりを無視できない。
 日本人のギャンブル依存率の高さは、おそらく競馬に代表される公営賭博とパチンコの大衆的普及によるところが大きい。従来の日本では、賭博を原則的に禁止しつつ、競馬やパチンコなどは解禁し、過酷な労働条件の埋め合わせに大衆的な射倖を合法的に提供する「飴玉政策」を実践してきたが、飴玉が甘過ぎて依存症も生んできた。
 しかし、現在問題となっているカジノは高級ギャンブルであり、その常連階層は富裕層が中心である。カジノ解禁策は大衆射倖政策とは異なり、海外観光客誘致とセットで富裕層向けギャンブルを解禁し、ギャンブルの階層格差をはっきりさせる新しい施策である。経済格差を明瞭にするという点では、これも晩期資本主義の特徴を示している。
 (もっとも、大衆向けカジノの開設を広く認めるなら、飴玉が一つ増えることになり、批判派が懸念するとおり、ギャンブル依存者をいっそう増やすことになるだろう。)

2014年8月23日 (土)

ピアノの政治経済学(連載第3回)

note1:メディチ家とピアノ②

notesピアノの画期性
 クリストフォリはメディチ家のフェルディナンド大公子の全面的なバックアップでピアノ開発を進めていたが、この新しい楽器をいつどのようにして構想したのかはわからない。ただ、彼はピアノの第一号器を製作する前に、少なくとも二種類の新型鍵盤楽器を製作している。
 それはいずれもスピネットと呼ばれる小型のチェンバロであったが、一つは従来のスピネットよりも大型で響きの大きなもの、もう一つはピアノに似ていなくもない楕円形をした特徴的なスピネットであった。これらがピアノの直接の祖になるわけではないが、チェンバロ製作者でもあったクリストフォリとしてはチェンバロを凌駕するような新楽器の開発を目指していたことは間違いない。
 彼が1700年の少し前に完成させたピアノ第一号器は、同年のメディチ家所蔵楽器目録に記載されたところによると「アルピチェンバロ」と名づけられており、当初はチェンバロの新版とみなされていたようであるが、アルピ(ハープ)という形容には、ハープのような滑らかな音色というニュアンスも込められていると考えられる。実際、その音響的特質は「優しく、かつ大きく響く」とも記述されており、チェンバロに比べて音が柔らかで、音量も大きい楽器とみなされていた。
 物理的に見たピアノの特性は、当時代表的な弦鳴型鍵盤楽器であったチェンバロとクラヴィコードの欠点を止揚的に克服した点にある。すなわちチェンバロは弦をプレクトラムではじくことである程度の音量を確保できるものの、強弱はストップの切り替えによって辛うじて機械的に調節できるだけであり、演奏者のタッチでは強弱の陰影がつけにくいのに対し、クラヴィコードは演奏者が鍵盤上のタッチにより強弱をつけられるものの、弦をタンジェントで突き上げるだけの単純な発音機構で、十分な音量を確保できなかった。
 クリストフォリのピアノは演奏者が鍵盤のキーを指で押すことで連動的にハンマーが弦を叩くが、弦と接触し続けないようにするというてこの原理を応用した巧みな機構(アクション)を作り出した点に画期性があったのだった。
 これによって、ピアノは発音しやすく―それこそ猫が鍵盤上を歩いても音が出る―、かつ演奏者のタッチによって明瞭に強弱をつけられるようになり―そのため、正式名称がイタリア語で弱(ピアノ)と強(フォルテ)を併せた「ピアノフォルテ」となった―、気鳴型のパイプオルガンにはかなわないものの、単体楽器としては異例の交響性が得られるようになった。
 クリストフォリのオリジナルピアノは基本的な機構の点では現代ピアノとほぼ同じものを備えていたほど完成度が高かったが、弦が細めで、金属フレームも使用されていないため、音量は現代ピアノより弱く、「アルピチェンバロ」という原名のとおり、音質はまだチェンバロに近いものであった。それゆえ、普及するまでには乗り越えるべき壁があった。

2014年8月21日 (木)

私家版松平徳川実紀(連載第20回)

二十二 徳川家慶(1793年‐1853年)/家定(1824年‐1858年)

 家慶は11代将軍家斉の次男であったが、兄が夭折したため、将軍後継者となった。ただ、最初の4年は父の家斉が大御所として君臨したため、傀儡の状態であった。父が死去するや、腐敗した父の側近グループを追放し、老中首座ながら冷遇されていた水野忠邦に実権を与え、改革に着手させる気概を示した。これが江戸時代三大改革の一つに数えられる「天保の改革」である。
 しかし、天保の改革の基本線は松平定信の寛政の改革の復刻であり、寛政の「改革」同様、「改革」というより「反動」であった。従って、またも統制と緊縮であった。特に風紀取締りは寛政期より徹底し、出版統制にとどまらず、芝居小屋の郊外移転、寄席の閉鎖から歌舞伎の抑圧にまで及び、庶民の数少ない娯楽を奪うことになった。
 ただ、軍事政策に関しては新規の政策として、排外的な外国船打払令を薪水給与令に転換し、外国船にも燃料・食糧の援助を行うこととした。これは間もなく始まろうとしていた開国政策を予感させる初めの一歩であった。
 一方で、西洋式砲術を導入し、近代的な軍制整備を目指すなど、それまであまり意識されていなかった国防政策にも踏み込んだ。
 しかし、その延長で江戸・大坂二大都市の防衛を目的に、周辺大名・旗本の領地を召し上げ、幕府直轄地化を図る上知令は、水野の政治生命を縮めることとなった。封建制を解体することなく成り立っていた幕藩体制の根幹を揺るがすこの施策は、当然にも上知対象となる領主らの反発を招いたのだ。そのため、事態を重く見た家慶の判断で上知令は撤回、水野も罷免され、天保反動はわずか2年ほどで挫折したのであった。
 ただ、家慶は水野に未練があったようで、早くも翌年には口実をもうけて彼を老中首座に呼び戻しているが、この人事には幕閣から強い異論があり、復帰後の水野は欠勤がちでほとんど仕事をしないまま、1年あまりで罷免、今度は旧側近らの汚職問題に連座して減封・転封の懲罰処分まで受けて追放された。
 家慶時代最大の危機は嘉永六年(1853年)の黒船来航であったが、家慶はこの問題の処理をめぐって幕閣が揺れる中、病没してしまう。
 この一大事の時に後を継いだのは、計27人もいた家慶の子どもたちの中で唯一成人まで存命した四男の家定であった。父家慶は家定の無力を深く懸念していたが、その懸念はすぐに的中した。家定には何らかの先天性障碍があった可能性もあるが、定かではない。ともかく、彼は夭折した7代家継を別とすれば歴代将軍の中でも最も暗愚であり、得意なことと言えば菓子作りぐらいであった。
 この時期の幕閣は先代から引き継いだ老中首座・阿部正弘を中心とする集団指導であったが、外交的な難局に当たり家定のような不適格者がトップに座ったのは、封建的な世襲政治の最大の弱点であった。
 結局、日本が米・英・仏・露・蘭の欧米列強五か国と立て続けに不平等条約を結ばされたのも、弱体な家定治下のことであった。そして、家定自身、この安政五年(1858年)の五か国条約を置き土産として、同年に病没したのである。

2014年8月20日 (水)

抵抗の東北史(連載第8回)

七 新東北人の形成と抵抗(下) 

 奥州安倍氏の没落後、その支配を継承して東北随一の豪族となったのは出羽清原氏であった。清原氏は安倍氏のように徒に朝廷に反抗的となることは避け、むしろ朝廷に従いつつ、源氏のような武士団としての成長を目論んだ。
 特に前九年の役で功績を上げた清原武則の孫に当たる真衡〔さねひら〕は自らの棟梁の権限を強化し、独断で常陸平氏系の岩城氏から養嗣子を迎え、これに源氏系の妻を娶らせるなど、源平両氏と縁戚関係を築き、権勢を強めた。しかし、こうした真衡の独断専行は一族の内紛を引き起こし、内戦にまで発展するが、彼はその最中の1083年、急死する。
 この清原騒動に介入してきたのが、折りしも陸奥守として赴任してきた源義家であった。彼は前九年の役の際の鎮守府将軍・源頼義の息子である。朝廷の命によらず独断で清原騒動に介入した義家の意図は、前九年の役で父の頼義が狙った陸奥守再任を果たせなかった無念を晴らし、この地での源氏の勢力を拡大することにあったと思われる。
 義家は当初は平和的な調停により、真衡の遺領を内紛の重要な当事者でもあった真衡の二人の異母弟・清衡と家衡に分割相続させたが、このことが裏目に出て、今度は両人の間で内戦となった。この内戦は家衡が清衡に仕掛けて始まった。
 実は清衡は前九年の役に際して安倍氏側について処刑された藤原経清〔つねきよ〕の遺児であり、彼を連れて真衡・家衡兄弟の実父・武貞と再婚した経清未亡人の連れ子であった。そんな清衡は源氏にとっては仇敵のはずであったが、自分の調停を反故にした家衡に怒った義家は清衡側に加担して家衡を破り、一連の清原騒動は終結した。
 このいわゆる後三年の役は朝廷から「私戦」とみなされ、義家は恩賞なしのうえ、陸奥守も罷免されてしまう。その結果、義家に助けられて勝利した清衡が新たな奥州の支配者となるが、彼こそが奥州藤原氏の実質的な初代・藤原清衡である。彼が藤原の姓を本家の藤原摂関家から許されたのは、実父の経清が平将門を討った名将・藤原秀郷の末裔と目されたからである。
 経清はおそらく多賀城の官人出身で、安倍頼時の娘を妻に迎え、安倍氏に仕えるようになっていた。彼の死後、未亡人は幼い息子・清衡を連れて前九年の立役者・清原武則の息子・武貞と再婚したのであった。
 この政略的な再婚の結果、奥州藤原氏は新東北人の豪族である安倍・清原両氏を止揚的に継承する存在となり得たのである。清衡は有名な平泉に豪華な政治・文化都市を造営して、奥州藤原氏の長くはない繁栄の基礎を築いた。
 奥州藤原氏は清原氏とは異なり、武士団として歩もうとはせず、摂関家縁者として摂関家との結びつきを深め、中央と直結しようとする一方で、自ら「東夷の遠酋」「俘囚の上頭」などといささか自虐的とも取れる名乗りをしたが、これは実際にかれらがエミシの首領であったというのではなく、当時の東北では半ば伝説化していた俘囚の首領を名乗ることが東北支配を固めるうえではなお有効であったことを示すものであろう。
 ちなみに、奥州藤原氏四代のミイラの形質的調査によると、かれらは京都人型とされているが、これは藤原氏系であれば当然のことである。ただ、清衡の母方から奥州安倍氏の血を引いているため、新東北人の安倍氏に俘囚エミシの血が入っていた限度で、奥州藤原氏もエミシの遺伝子を部分的に継承していた可能性はあるが、それは形質的に発現するほどではなかったのであろう。
 奥州藤原氏は王朝政治の枠内で武家政権を樹立した平氏政権の時代は生き延び、むしろこの時代に重なる清衡の孫・秀衡の時代に全盛期を迎えるが、王朝政治を超克しようとした源氏の時代が到来すると、にわかに終焉した。
 秀衡は平氏打倒後、奥州藤原氏を配下に置こうと迫る源頼朝に対して超然的な態度を取ったうえ、兄・頼朝の追及を逃れてきた義経をかねて手元で養育した好からかくまって、頼朝との対立を決定的にした。
 その最中に病死した秀衡を継いだ嫡子の泰衡は父の遺言を無視して義経を攻めて自害に追い込み、頼朝に恭順の意を示すが、狡猾な頼朝は逆に許可なく保護下の義経を討ったとして泰衡討伐を命じ、奥州合戦に突入する。結局、泰衡は逃亡先で家臣の裏切りにあって殺害され、奥州藤原氏は四代で滅亡した。
 直後に、泰衡の家臣であった大河兼任〔おおかわかねとう〕が主君のあだ討ちを名目に藤原氏残党を率いて大規模な反乱を起こすが、これも間もなく鎮圧され、以後の奥州はしばらく鎌倉幕府の軍政下に置かれる。

2014年8月19日 (火)

言語発展論(連載第3回)

第1部 通則的概観

二 祖先言語から民族言語へ

 語彙言語を持った人類がホモ・サピエンスに限られるかどうかはわからないが、アフリカに誕生したホモ・サピエンスの一団がアフリカを出て、各地へ拡散していった際に、言語も携えていったことは間違いない。その出アフリカ行程の詳細は人類学の課題であるが、ホモ・サピエンスは極めて環境適応力の高い種であり、地球上の広い範囲に拡散して、それぞれの環境に適応・定着していく。
 その過程で、今日の言語的多様化につながる言語分化が生じたと考えられる。ホモ・サピエンスは種として単一であり、遺伝学は人類共通の祖集団の同定を可能にしているが、言語に関しては、世界中の言語の共通祖語となるような単一の言語―世界祖語―の再構築には成功していない。そのため原始言語はすでに絶滅し、現存言語には継承されていないと考えられている。ただし、前回指摘したとおり、アフリカのコイサン語族は一部原始言語の特徴を継承している可能性がある。
 このことから、自然言語は地域的な離隔によって独自に分化する性質が強いということが知られる。一つの自然言語もさらに地域ごとに方言分化し、場合によっては方言同士で通約可能性がなくなることも珍しくないことは、そうした言語の分化性を裏書きする。
 現在、世界の自然言語は通常複数の近縁言語を包括するグループ―語族―に分類されているが、これら語族の共通祖語と想定される言語の分化は、その時期の遅速はあれ、出アフリカし、世界に拡散したホモ・サピエンスがそれぞれの定着先で改めて形成した祖先言語の分布に対応しているものと考えられる。
 とはいえ、こうした語族の数自体が数十に上り、詳細な分類法によってはさらに増大するというように、祖先言語の段階ですでに自然言語は多様に分化していたと見られる。
 この段階では文字の発明はまだ遠い未来のことであり、言語は口語としてしか存在しなかったが、この祖先言語形成の段階になると、それぞれに固有の語彙と文法組織が整備され、表現法の幅が広がる一方で、音声的には音素言語であった原始言語よりも簡素化され、発音しやすいものになっていたであろう。コイサン語族はなお複雑な音素体系を保持する。
 やがて人口増と民族的分化によって、祖先言語から今日の語族に属する多数の民族言語が派生していく。民族言語は言わば祖先言語の「方言」に相当するものであり、地理的離隔と相互非接触の期間によっては同一の語族に属する民族言語同士でも通約不能なほど語彙的な変異が顕著になっていく。
 ちなみに、今日の比較言語学で孤立言語と目される言語は、単一の言語で一つの語族を構成している言語にほかならず、それは話者の民族的なまとまりが比較的よく保たれ、祖先言語から多数の民族言語が派生しないまま、発達した言語である。
 この点で、しばしば孤立言語の例として挙げられる日本語については、縄文時代までと弥生時代以降とで大きな断絶があると考えられる。縄文語の詳細は史料に欠け、不明であるが、長期にわたる列島での孤立から、相当独自な孤立言語を形成していた可能性が高い。
 その後、弥生時代から古墳時代にかけて、朝鮮半島(特に加耶・百済)からの民族移動以後に形成された古日本語は、朝鮮諸語の中でも朝鮮半島ではすでに絶滅した加耶語及び百済語をベースに形成された派生言語に分類されるものと推定される。
 そういう仮説に立てば、同じくしばしば孤立言語に分類される朝鮮語と併せて、「朝鮮‐日本語族」というまとまりを想定することもできるように思われるが、もとより通説的な見解とはなっていない。

2014年8月17日 (日)

ピアノの政治経済学(連載第2回)

note1:メディチ家とピアノ①

notes発明者クリストフォリ 
 ピアノはイタリア語ピアノフォルテの略語である。ここからも明確なように、ピアノはバイオリンと同様、イタリア生まれの楽器である。北イタリアは初期資本主義発祥地でもあるが、ルネサンス期末の16世紀頃から手工業的な楽器生産が盛んになり、初めはバイオリンのような弦楽器生産の中心地として、17世紀以降、今日まで伝わるバイオリン製作の名匠が続出する。
 そうした北イタリアの風土の中で、一人の個性的な発明者が現れる。その名をバルトロメオ・クリストフォリという。彼の前半生はほとんど知られていないが、必ずしも正確でない記録によれば、クレモナの著名なバイオリン製作者ニコロ・アマーティの工房での見習いが彼の楽器製作者としてのスタートだったようである。
 もっとも、記録とクリストフォリの年齢が合致しないことから同姓同名の別人説もあり、確かなことはわからない。しかし、実際にクリストフォリがバイオリン製作からキャリアをスタートしたとしても不思議はないほど、当時の北イタリアはバイオリン製作の中心地であった。そうでないとしたら、ピアノ発明前の代表的な鍵盤楽器であったチェンバロの製作者としてスタートした可能性が高い。当時北イタリアはチェンバロ製作も盛んで、彼自身もチェンバロを自作しているからである。
 クリストフォリがいつ頃から新しい鍵盤楽器の製作を企画し始めたのか不明であるが、ピアノ製作者としてのクリストフォリの活動が確実に明らかとなるのは、フィレンツェの支配者メディチ家の大公子フェルディナンド・デ・メディチに雇われてからである。フェルディナンドは熱烈な音楽ファンをもって知られ、多くの音楽家のパトロンとなっていた。そうしたパトロニッジの中に、クリストフォリも含まれていたのである。
 当時のフィレンツェはコジモ3世の時代であったが、すでに衰退の色が濃くなっていた。父コジモと同様、フェルディナンドも政治的な関心が薄く、専ら好きな音楽道楽に浸っていたのだった。
 しかし、クリストフォリのような野心的な楽器製作者にとって、音楽愛好家という以上に楽器収集に凝っていた「楽器オタク」的なフェルディナンドは最高のパトロンであった。記録上は1688年からフェルディナンドに雇用されたクリストフォリは、世紀の変わり目1700年の少し前にピアノの第一号器を完成させたようである。

2014年8月16日 (土)

私家版松平徳川実紀(連載第19回)

二十 徳川治済(1751年‐1827年)

 徳川治済〔はるさだ〕は、御三卿の一つである一橋家の家祖・徳川宗尹の四男であったが、二人の兄が相次いで福井藩主家の養子となり、福井藩主に転出したことから、一橋家の2代目当主となった。
 趣味道楽の世界に遊んだ父とは異なり、治済は政治的な野心家であった。しかし彼の若年期は田沼氏の全盛期であり、田沼の親族が一橋家の家政にも関わるなど、田沼一族に支配されていた。そうした中で、治済は当初田沼と結び、御三卿ライバル家の田安家を出し抜くため、田安家当主候補だった定信の白河藩主家との養子縁組をセットし、後に定信が養子縁組解消を願い出た時にも、これを阻止した。ために、田安家は長く、当主不在のままに置かれた。結果、彼の一橋家が御三卿の中核となる。
 治済は10代将軍家治の死に際して、自身でなく、年少の長男・家斉〔いえなり〕を将軍に据えることに成功した。そして田沼の権勢が衰えたのを見ると、一転反田沼派に寝返り、田沼追放と田沼派粛清を裏で仕掛けた。おそらく、白河藩主家に追い落とした松平定信の反田沼感情の強さを見込んで老中首座に迎えたのも治済の計略であった。
 こうして、治済は自ら将軍に就任しないまま、将軍実父として将軍を背後から操る闇将軍となった。彼は1827年まで存命したから、大御所時代を含めて歴代最長の54年に及んだ家斉の治世のうち40年間に関与している。長い家斉の治世はしばしばまとめて「大御所時代」と呼ばれるが、この間の真の大御所は治済であったと言ってもよい。
 実際、当初治済は年少の家斉を動かして大御所の称号を得ようとしたことがあった。ところが、当時朝廷でも時の光格天皇が皇位に就いたことのない実父に太上天皇(上皇)の称号を付与しようとしたことに老中・松平定信が異を唱えて介入、結局撤回させた一件(尊号一件)があり、この対処方針との均衡上、将軍経験のない治済の大御所待遇も見合わせざるを得なくなった。このことで、治済は定信に反感を抱くようになり、今度は家斉を動かして定信追放を仕組んだと見られる。
 以後、治済は朝廷の官位では従一位・准大臣まで昇進するが、幕府では無役のまま闇将軍として幕政に関与し続けることになる。その間、治済は別の実子を田安家の当主に送り込んだほか、孫二人を相次いで御三家の尾張藩・紀州藩に養嗣子として送り込むことにも成功し、幕末にかけて一橋家が将軍家を含め、徳川一門の中心家系となる基盤を築いた。

二十一 徳川家斉(1773年‐1841年)

 徳川家斉〔いえなり〕は先代家治の世子・家基が夭折したのを受け、田沼や実父・治済の後継工作により家治の養子となり、次期将軍に決定された。そして先代死去を受け、天明七年(1787年)、若干13歳で11代将軍に就く。
 そのため、当初は老中首座・松平定信や実父・治済に実権を握られていた。定信の失墜後も、定信路線を継承した老中首座・松平信明〔のぶあきら〕ら寛政の遺老が集団指導した。信明が文化十四年(1817年)に没した後、家斉親政が開始されたとも言われるが、実際のところは、まだ存命中の実父・治済が背後で隠然たる権力を保持していたと考えられる。こうした二重権力状態は、治済が死去する文政十年(1827年)まで続いた。
 しかし治済‐家斉父子に政治的定見というものはなかったようで、松平信明の死後は、一転して旧田沼派人脈の側用人・水野忠成〔ただあきら〕を老中首座に起用して、寛政の反動政治を覆す。これはイデオロギー的な観点からの政策転換ではなく、単に家斉の贅沢志向を支える放漫財政を執行するのに水野派の利用価値が高いと見たからにすぎなかった。
 実際、金権政治が復活し、田沼時代以上とも言われる政治腐敗が進んだ。忠成も田沼のような「政策マン」ではなく、政策的な面でめぼしい実績はほとんどない。特に通商外交面では、開国的な思想を持った田沼とは異なり、異国船打払令のような排外一辺倒政策を採るなど、田沼政治とはかけ離れていた。放漫財政維持のため苦し紛れに実施した貨幣改鋳・大量発行も物価の騰貴を惹起しただけであった。一方で大量消費傾向が市中にも浸透し、文化統制の緩和も手伝って華美な化政文化が花咲くことにもなった。
 しかし天保五年(1834年)、忠成が死去すると、一挙に問題が噴出する。天保期に相次いだ大塩平八郎の乱や生田万の乱は首謀者の個人的な蜂起にすぎず、まだ討幕運動の域には達していなかったが、幕府の威信の揺らぎを象徴した。また19世紀末から活発化していた西洋列強の来航に対しても場当たり的な排斥以上の対処ができず、対外的にも鎖国政策の行き詰まりが露呈していた。
 後に「天保の改革」を主導する水野忠邦は同族に当たる忠成の死後、後任の座に就いていたが、当時はまだ忠成派の将軍側近に主導権を握られていた。忠邦が改革に着手できたのは、天保十二年(1841年)、長い家斉の治世がようやく終焉してからであった。

2014年8月15日 (金)

私家版松平徳川実紀(連載第18回)

九 松平定信(1759年‐1829年)

 10代将軍家治死去から間を置かずに田沼意次が追放されると、入れ替わりの形で翌年、老中首座・将軍補佐として新たな幕政指導者となったのが、松平定信であった。
 彼は当時、白河藩主であったが、元来は田安徳川家家祖・徳川宗武の七男で、8代将軍吉宗の孫に当たる。そのため、理論上は将軍継承権者の一人であったが、定信は年少の時に授姓松平氏である久松松平氏系白河藩主の養子となっており、田安家当主の兄が早世した際にも、呼び戻されることはなかった。
 定信は兄が死去した時に田安家復帰を狙って一度養子縁組解消を願い出るが、幕府は許可しなかった。田安家に戻っていれば、将軍世子家基が夭折した際に将軍候補となる可能性もあっただけに、定信は当時幕政を主導していた田沼意次が自らの田安家復帰を阻止したものとみなして、個人的にも田沼を敵視するようになったようである。
 結局、定信は既定どおり白河藩主に就任し、地方政治からスタートする。老中就任前の藩主時代には天明の大飢饉に際して飢餓対策で手腕を発揮しており、若くして行政的な力量を見せていた。
 定信のような将軍直系者が譜代大名からの登用を慣例とする老中に就任することは異例であったが、法的にはすでに徳川家を離れ譜代大名に転出していたので、老中の形式的な資格要件は満たしていたし、力量的にも老中には適格とみなされた。
 年少の11代将軍家斉の下、定信が事実上の幕府最高執権者として主導した政治は後世「寛政の改革」と称され、江戸時代三大改革の一つに数えられるが、実際のところ、定信の「改革」とは脱田沼政治ということにほぼ尽きる。定信は個人的な怨恨とは別に、イデオロギー的にも「田沼イズム」には批判的であったらしく、田沼時代の政策を覆すことに注力した。
 定信はイデオロギー的には朱子学を奉ずる保守主義者であり、そのキーワードは「統制」である。従って、彼が最も力を入れたのは思想・言論統制の強化であった。吉宗時代以来、低調になっていた体制教義・朱子学の再興を図った寛政異学の禁はその発露である。
 経済的には田沼流の重商主義を排し、帰農令による農村の再建を図った。また人足寄場で無宿人や浮浪人に授産したのは労働政策の萌芽とも言えるが、定信にとってはこれも治安統制の意味合いが強かった。
 一方、飢饉対策が政治の出発点であった定信は七分積金の制度を創設し、江戸の公共設備の修繕などに支出させたが、これは公共投資の萌芽とも言える新規制度で、以後幕末まで厳格に運用され、明治維新後の東京に引き継がれ、インフラ整備に転用された。
 こうした統制的な定信の政治は「改革」というよりは反動であり、彼の官僚的な性格とともに、幕府でも市中でも不人気であった。定信は寛政五年(1793年)、突如辞職を命じられ、幕府を去った。定信失墜の直接のきっかけは政治路線のゆえではなく、次の項で触れる朝幕関係を揺るがす一件(尊号一件)の対処方針をめぐって将軍家の不興を買ったことによると見られるが、彼の不人気も早期の失墜を後押しした。
 こうして定信による「寛政の反動」は六年ほどで終わり、定信自身は二度と幕政に復帰することはなかったが、定信の敷いた基本路線は「寛政の遺老」と呼ばれた定信側近グループによって継承され、19世紀に入り旧田沼派が復権した一時期を除き、幕末までおおむね幕政の既定路線として定着するのである。

2014年8月14日 (木)

抵抗の東北史(連載第7回)

六 新東北人の形成と抵抗(上)

 9世紀後半期の俘囚反乱が収束すると、一世紀以上、東北地方では平穏が保たれる。この間、平安朝による民族浄化政策の結果として入植和人と俘囚エミシの通婚・混血が進み、新しい東北人が形成されていった。こうした「新東北人」は部分的にはエミシの血を引きながらも、すでに文化的にも形質的にも和人化されていたと考えられる。
 平安朝末期、藤原氏が支配する朝廷の権勢が陰り、武士階級が台頭してくると、新東北人の中からも、奥州安倍氏と出羽清原氏という二つの有力な武家が現れる。この二代家系は、東北の太平洋側と日本海側という旧東北エミシの二大拠点に対応して台頭している。
 両家はともに安倍氏・清原氏という中央貴族と同姓を名乗っていながらしばしば俘囚の頭目を称したことから、俘囚エミシの末裔とみなす見解もあるが、実際のところは、上述したような新東北人の有力武門―もしくは中間的な軍事貴族―と見るべきものであろう。
 中央貴族の氏族名を名乗ったのは権威づけのための仮冒とみる余地もあるが、奥州では9世紀後半、阿部比羅夫の末裔でもある安倍比高〔なみたか〕が陸奥守・鎮守府将軍を務めたことがあり、彼が現地で残した庶流が在地豪族化して安倍氏を名乗るようになったとも推察でき、傍系とはいえ中央貴族安倍氏の流れであった可能性も十分認められる。
 出羽清原氏についてはかねてより中央貴族で歌人でもあった清原深養父〔ふかやぶ〕の子孫とする系図も残されており、清原氏系とする説が有力であった。ただ、同じ清原氏系でも878年に秋田で起きた俘囚反乱・元慶〔がんぎょう〕の乱の際に鎮圧に当たり、乱後は秋田城司として俘囚の管理を担った清原令望〔よしもち〕を祖とするという説のほうが、確証はないもののより真実味がある。
 いずれにせよ、安倍・清原両氏は朝廷の権勢が陰り始めた11世紀半ばに半独立状態の豪族として台頭してくる。そうした半独立の権勢を示す狙いから、後に両家を継承した奥州藤原氏がそうしたように、あえて自ら俘囚長とか俘囚主を称した可能性はあろう。
 特に安倍氏は記録上安倍頼良(頼時)の代で急速に勢力を拡大し、奥六郡を中心に、今日の青森県東部から宮城県南部にまたがる広大な領域を支配下に収めた。ついには、朝廷への貢租を懈怠するまでになり、朝廷から敵視された。
 1051年から10年以上にわたって続いた内戦―いわゆる前九年の役―は、こうした安倍氏と朝廷との衝突の結果であった。安倍氏は鎮守府将軍として派遣された源氏二代目棟梁・源頼義と当初良好な関係を築いたが、東北地方で地盤を築くべく陸奥守再任を企てた頼義の挑発に乗る形で戦争に突入した。
 戦死した頼時を継いだ息子の貞任〔さだとう〕を相手に頼義は当初苦戦したが、出羽清原氏の援軍を頼んでようやく安倍氏を滅ぼした。こうして安倍氏の権勢は事実上二代で終わった。代わって、軍功のあった清原氏が奥六郡の旧安倍氏所領も併合して東北最大の在地豪族となり、源平両氏と縁戚関係を結びつつ、後三年の役で滅ぼされるまで権勢を張ることになる。
 ちなみに、この時代に至っても津軽半島や下北半島など東北最北地にはエミシ残党―少なくともそれを自称する勢力―が残っていたらしく、1070年には桓武天皇を意識する時の後三条天皇の征夷完遂政策の一環として、清原氏の軍勢を主力とする朝廷軍が遠征を行っている。
 一方、安倍宗家は滅んだが、頼時の三男・宗任〔むねとう〕は伊予、次いで筑前(大島)に流罪となり、さらにその子孫から九州の海賊・松浦党を構成する武士団が派生している。その一派のうち平氏側について治承・寿永の乱で現在の山口県長門に流罪となり、現地に土着した一族の末裔が第90代及び96代内閣総理大臣・安倍晋三とされる。

2014年8月13日 (水)

言語発展論(連載第2回)

第1部 通則的概観

一 原始言語の発祥

 人類は言葉の集積を要素とする言語―語彙言語―を持つ唯一の生物であるとするのが通説であるが、人類言語の起源や現生人類の原始言語の概要については明確な史料もなく、皆目わかっていない。これはおそらく永遠に解けない謎である。
 ただ、人類に最も近い類人猿の言語的なコミュニケーションはある程度、人類言語の起源を推測するに役立つであろう。おそらくそれは簡単な音声的コミュニケーションから始まった。この段階ではまだ言葉という記号表象は獲得されておらず、ジェスチャーの助けを借りつつ、音声の規則的な変化で意思疎通をする段階―音素言語―にとどまったであろう。
 しかし集団での狩猟生活が、より複雑な意思疎通を必要とするようになる。その結果、ある物を表象する共通の標識が形成され、それが最初の言葉となる。それは音声化された記号である。
 表象記号の中でも最も初歩的かつ膨大なのは名詞であるが、それは音や状態を写実的に表象する擬音語や擬態語に始まる。これはある意味では形容詞に近く、形容名詞とも呼ぶべきものである。しかし、擬音語・擬態語の表現限界から、次第により記号的な名詞が、またより抽象度の高い形容の必要から形容詞が分岐していく。さらに集団生活が複雑化するにつれ、人や物の動きを表象する動詞が形成される。
 名詞と形容詞、動詞の基本三品詞が揃えばそれだけでもかなり高度な意思疎通が可能となることは、発達した完成言語においても非ネイティブな言語使用者による不完全な言語運用、すなわちいわゆるブロークン言語を見ればわかる。品詞間をつなぐ助詞や前置詞、あるいはより高度な修飾語である副詞、文と文をつなぐ接続詞のような応用品詞が発達するのはずっと遅れる。
 語彙言語を持つ人類が現生人類に限られるか、他の近縁種にもあったかについても今となってはわからないが、アフリカで誕生した現生人類の祖集団が原始言語を発達させたことは間違いない。しかし、この原始言語も絶滅している。
 ただ、現存人類の中では最も古い遺伝子型を持ち、初期のホモ・サピエンスの特徴を相当程度継承していると推定されるアフリカ南部の先住民コイサン人の母語コイサン諸語に属する諸言語は、原始言語の特徴を一定受け継いでいる可能性がある。
 このコイサン諸語はアフリカ大陸でも使用者が最も少ない最少数派の語族であるが、その代表的な特徴は呼気を用いない独特の吸着音を含め、複雑かつ膨大な音素の体系を有することである。これを見ると、原始言語は語彙言語が発達する以前の音素言語の特徴を残していたのかもしれない。
 すると、初期ホモ・サピエンスの原始言語は語彙が限られ、文法構造も単純な統語規則にとどまった反面で、音声的には現代人が習得不能なほどに複雑なものであったと推定される。

言語発展論(連載第1回)

小序

 先に、筆者は拙論『概説:公用エスペラント語』において、計画言語としてのエスペラント語を世界公用語としてより簡略化し、普及させるための一つの試みを展開したところであるが、エスペラント語に代表されるような計画言語は、自然言語を特権視する言語学的固定観念に阻まれて、なかなか世界に浸透してこなかった。
 現時点では、好むと好まざるとにかかわらず、英語が事実上の世界語の位置にあるが、それはゲルマン系の一自然言語として発祥した英語を公用語とする英米の相次ぐ世界制覇を通じて、世界に伝播した結果であった。
 しかし、英語自体がそうであるように、言語はその発展・普及に従ってその本来の特徴を失い、次第に簡略化され、計画言語に近い性質を持つものに変容していく。グローバルな現代英語は、そうした自然言語から計画言語への過渡的段階にある中間架橋的な言語とも言える。その延長上に、エスペラント語のように初めから計画的に創案された計画言語がある。
 その意味で、現代英語は計画言語ではないが、後天的にも習得しやすいグローバルなリンガ・フランカとなっている。そうした経緯を考慮することなく、日本のような非英語圏で、いたずらに英語の早幼児教育を推進するのは疑問であり、単なる教養にとどまらない国際コミュニケーションを念頭に置いた言語教育では、計画言語の存在も無視すべきでない。
 本連載第1部は、そうした自然言語から計画言語への流れを俯瞰したうえ、世界公用語としての計画言語の必然性を根拠づけ、『概説:公用エスペラント語』の内容を補強することを目的とする。さらに第2部では、現在事実上世界公用語の地位にある英語の発展史を追うことによって、英語が現在のような姿と地位を得た過程を明らかにし、英語の未来について考察する。

2014年8月12日 (火)

日航機事故の余白

 現時点でも単独機の航空機事故としては史上最多の犠牲者を出した1985年の日航機墜落事故から三十年目ということで、特番も組まれ、流出したボイスレコーダー(録音テープ)の最新装置による解析などの新展開もあるようだが、事故原因に関する政府の公式見解を批判的に再検証しようという動きは鈍い。
 「金属疲労による圧力隔壁の損壊から生じた垂直尾翼の破損・油圧喪失」という筋書きはかねてより航空工学的な観点からの疑問や説明と矛盾する生存者証言などが明らかにされ、異論も多い。
 特に垂直尾翼の大規模な破損原因については、外力の負荷を指摘する異論があり、何らかの飛翔体の衝突の可能性も取り沙汰されてきた。当時現場海域で試験運用中だった海上自衛隊の無人機または小型ミサイルの衝突など自衛隊の関与を指摘する民間説もあり、問題の垂直尾翼の大半が未発見のままであることや、救助初動が不自然に遅れた事実と合わせ、事故の真相はクリアに解明し切れているとは言い難い。
 当時の事故調査は政府主導で中立性に欠け、制度的にも技術的にも旧式で不十分だったことに鑑みて、少なくとも事故原因の科学的な再検証をすべき時期に来ているだろう。空前の事故には解明を待たれる科学の余白が残されている―たとえ、そこから「不都合な真実」が現れ出てしまったとしても。

[追記]
12日放送のフジテレビ特番は、アメリカの一研究者に依頼したボイスレコーダー(録音テープ)の最新技術による解析から、衝撃音は事故調報告書と違い三回あったとし、その音声解析に基づき結論的には報告書の妥当性を補強するという内容であった。しかし、そうした解析に振り向けた放送時間はわずかで、大半を遺族感情に焦点を当てた再現ドラマやインタビューに終始するというよくある構成―まさに当時の本件事故報道が嚆矢だった―であり、科学報道には程遠い不満の残る内容であった。

2014年8月11日 (月)

赤のアメリカ史(連載最終回)

跋 レッドパワー以後

運動の多様化
 1970年代半ば以降、レッドパワー運動が収束すると、インディアン運動も新たな多様化の時代に入る。その嚆矢となったのは78年、インディアン事務局による一方的な土地開発への抗議として、数百人のインディアンや支援の白人らがかつて占拠運動の地となったアルカトラズ島からワシントンまで行進した「ロンゲスト・ウォーク」である。
 近年は、地元インディアン部族の意向を無視した開発計画や地下核実験に対する差し止め訴訟、実態に合わないインディアン像をあしらったインディアン・マスコットの使用中止運動など、様々な課題ごとの文化的・非暴力主義的な運動が展開されていくようになる。
 これらの運動は、かつての急進的な占拠運動に比べると穏健化されており、インパクトは限定的であるが、70年代以降、民族自治がまがりなりにも認められるようになった情勢変化を反映して、インディアンの地位のいっそうの向上を目指す新しい形態の運動である。

「感謝」と「謝罪」
 白人の側にも、遅ればせながら意識の変化は見られる。中でも象徴的な出来事は88年、当時のレーガン共和党政権下の連邦議会による「合州国憲法成立に対するイロコイ部族連合の貢献を認め、憲法で定められたインディアン諸部族と合州国との政府間関係を追認する両院共同決議」である。
 これは18世紀の憲法制定過程でイロコイ部族連合の政治制度が参酌されたとの説に立って、その貢献に謝意を述べるとともに、インディアン諸部族の部族自治を改めて確認する内容の決議であり、ニクソン政権以来の合衆国としてのインディアン政策の基本指針を中間総括したものとして重要である。
 しかし、「感謝」はあっても過去の民族絶滅・浄化政策に対する謝罪はなかったところ、クリントン民主党政権下の2000年になって、当時のインディアン事務局副局長による「謝罪」が初めて行われた。しかし、これは一行政機関のナンバー2―しかも、彼自身インディアン部族出身―による局所的な謝罪声明にすぎず、合衆国の国家意思として示されたものではなく、真の謝罪とは言い難い。

現状と展望
 民族自決が理念としては定着したとはいえ、永年にわたる民族浄化・部族解体政策の影響は大きく、現在インディアン人口は300万人弱、人口の1パーセント前後という極少数派にすぎない。
 多くの居留地は貧しく、スラム化している。失業率や自殺率とも全米平均をはるかに上回り、白人から摂取した飲酒習慣が広がって以来、アルコール依存に陥る傾向も強い。合衆国においてインディアンは不可視の最貧困層を形成している。
 部族の経済的自立手段は観光やそれと結びついた賭博となり、商業的モノカルチャーも生じている。こうした経済的不公正がインディアン問題の新たな課題である。

cafe87年には、強制移住を象徴するチェロキー族の「涙の旅路」をたどる「涙の道国立歴史街道」が指定された。これは歴史的な意義を持つルートを記念して連邦法で指定される「国立歴史街道」制度の一環であり、その第一号指定はまさにインディアン絶滅政策の根拠となった「マニフェスト・デスティニー」に沿って西部白人開拓者がたどったルートであった。このように、インディアンの涙の道が白人開拓者の道―インディアンにとっては侵略の道―と同列に扱われているところに、本質的には放棄されていないアメリカの白人中心史観が顔をのぞかせている。このような歴史観が克服された時、新たなアメリカの歴史が拓かれるだろう。

2014年8月10日 (日)

ピアノの政治経済学(連載第1回)

note 

 代表的な鍵盤楽器であるピアノは現在、楽器全体の王者のような位置にあり、おそらく世界中で最も学習者・演奏者の多い楽器である。鍵盤楽器自体、すぐれて西洋的な楽器であるが、ピアノもまた西洋で発明され、20世紀を通じて世界に普及し、普遍的な楽器となった。その点では、ピアノも普遍化した西洋文化の所産の一つである。
 それにしても、この楽器はいったいなぜこれほどまで普遍化し、それこそ猫も杓子もピアノを弾くようになったのか。このことは、かつてやはり猫・杓子の一人としてこの楽器に惹かれ、そして当然と言うべきか挫折した経験を持つ者として、解明が待たれる疑問となっている。
 ピアノを単に技術的のみならず、その誕生から歴史的に捉え直してみると、そこにはやはり政治経済学的な基礎があることが見えてくる。ピアノのような楽器も、文化政策・経済政策と結びついた一つの生産物・商品であるからには、当然であろう。ここで、音楽世界を去った後に筆者が専攻した一見何の脈略もない政治経済学とのつながりが見出されることになる。これが本小連載のタイトルでもある「ピアノの政治経済学」である。
 もっと視野を拡張して「音楽の政治経済学」といった未開拓のテーマも魅力的ではあるが、今そこまで風呂敷を広げるだけの見識は筆者になく、さしあたり筆者にとって馴染みのあるピアノを通した論しか展開することができない。
 いずれにせよ、音楽と政治経済の関わりは、大学の音楽学部でも社会科学系学部でも研究されることのない学問的な隙間となっているため、このような議論を大学外から発信することにも、いくらかの意義はあるものと思う。二次的には、この論を通じて、自らの挫折の構造要因や社会的意味を明らかにするという目的も存するのであるが、これはあくまでも私的な目的にすぎない。

※予定構成

一 メディチ家とピアノ
二 古楽器との競争
三 前期ロマン派の主役
四 作曲家ピアニスト
五 職業的ピアニスト
六 資本主義とピアノ
七 電子時代とピアノ

2014年8月 9日 (土)

私家版松平徳川実紀(連載第17回)

十八 徳川家治(1737年‐1786年)

 徳川家治は父の9代将軍家重が重度の障碍者であったのとは対照的に、幼少時から聡明とうたわれ、祖父の8代将軍吉宗の期待が高かった。吉宗が家重後継に固執したのは、孫の家治への期待からという説もあるほど祖父の寵愛を受けた。
 しかし、将軍就任後の家治は祖父の期待を裏切り、国政を幕閣に委ね、自らは趣味道楽の世界に没頭するようになった。それでも父家重の遺言に従い、怜悧な田沼意次を側用人、次いで老中に起用して長く重用したため、国政に支障が出ることはなかった。
 こうした家治の政治姿勢のゆえに、田沼は存分に采配を振るうことができ、家治時代は田沼時代とほぼイコールであった。その田沼は、江戸開府から150年以上を過ぎた時期にあって、時代の転換点をその鋭い政治的嗅覚で感じ取っていた。すなわち、従来の自足型重農主義収奪政策の行き詰まりである。
 そこで、田沼は幕府の経済政策を重商主義的な殖産興業の方向へ誘導していく。その具体化が株仲間の奨励や専売制の導入である。また鎖国の核心である貿易統制を緩和して、長崎貿易の拡大を促した。さらに蝦夷地の経済開発も進め、実現はしなかったもののロシア貿易をも構想していた。思想面でも吉宗時代からの蘭学をいっそう奨励し、西洋文明の摂取にも積極的であった。
 このように田沼時代は、幕末期を除けば江戸時代を通じて最も革新的な時期であり、その政策は「改革」と呼ぶにふさわしいものであったが、基本的に重農主義と思想統制を軸とした保守的な幕藩体制にあっては異端的な性格が強かったため、保守派からの風当たりも強かった。
 後世、田沼が政治腐敗の象徴のようにみなされたのも、現物経済の限界を認識していた田沼が、貨幣経済の拡大を企図して、商人資本の成長を促進する中で、カネ万能主義的な風潮が広まり、おそらく自らも不正蓄財をしていたことが、反田沼派による田沼追放後の「脱田沼化」プロパガンダとして宣伝されたことに由来するものであろう。
 そういう田沼を家治は辛抱強く起用し続けたが、将軍世子の家基は田沼の政治に批判的な言動をしていた。家基は父と同様、幼少時から聡明をもって知られ、次期将軍の座はほぼ確実であったが、安永八年(1779年)に16歳で急死する。それは鷹狩りの帰りに立ち寄った寺で突然体調不良を訴え、三日後には死亡するという不審なもので、毒殺説も根強い。その言動からして、家基が将来将軍に就けば田沼が追放される公算は高く、田沼本人ではないとしても、親田沼派が家基排除を狙っても不思議はない情勢であった。
 家基の急死から五年後の天明四年(1784年)、今度は田沼と父子二人三脚で政策を遂行してきた若年寄の息子意知が江戸城中で旗本佐野政言〔まさこと〕に突然斬りつけられたことがもとで死亡する事件が起きる。この事件は政言の「乱心」として処理されたが、真相は解明されておらず、家基急死と合わせ、家治晩年期の政治には暗部が多い。
 家治は、安永八年、世子の家基に続いて田沼と並ぶ側近の老中首座・松平武元〔たけちか〕をも失った頃からますます無気力となり、7年後、自らも死去した。
 一方、田沼も息子意知暗殺の後、権勢が衰え始め、家治死去の直後に老中を罷免されたうえ、蟄居、財産没収などの厳罰を科せられた。こうした迅速な田沼排除のプロセスを見ると、家治の死に前後してすでに田沼派は失墜していたものと見られる。以後、松平定信ら反田沼派の反動「改革」が始動していく。

2014年8月 8日 (金)

抵抗の東北史(連載第6回)

五 民族浄化と俘囚の反乱

 坂上田村麻呂が率いた平安朝によるエミシ掃討作戦が終了し、障害要因が除去されると、朝廷は東北入植政策を本格化させる。それは、強制移住と同化という二つの手段を通じて行われた。
 強制移住は和人の代替的入植と引き換えに、エミシを集団で全国に強制的に移配する策であり、東北を和人化するうえでの中心政策であった。移配先でも、騎乗・騎射にすぐれた勇猛な俘囚エミシは朝廷にとって兵士の給源であり、国衙軍制の中で臨時徴兵員として徴用された。また柄頭が蕨の若芽様の渦巻き状であることから蕨手刀と呼ばれたエミシ特産の刀は、やがて興隆する武士が使用する日本刀の原型となったとされ、武具史上も俘囚エミシは和人に影響を及ぼしている。
 とはいえ、移配先は遠く九州を含むエミシ社会とは生活習慣も言葉も違う未知の土地であった。移配俘囚は一般公民と区別され、租税は免除、自立できるまで現地国衙から糧食を供給させる生活保護政策が採られたが、元来狩猟民であるエミシが縁もゆかりもない土地で定住農民として自立するのは難しく、生活保護からの脱却は無理であった。生活環境の違いから健康を害し、命を落とすエミシも跡を絶たなかったと見られる。
 こうした中で、移配俘囚らが待遇改善を求めて武装蜂起する俘囚反乱が全国各地で相次ぐようになった。特に883年に上総で起きた俘囚反乱は大規模で、朝廷は自力で対処し切れず、上総国司に追捕権を付与せざるを得なかった。かくして強制移住政策は治安上も合理的ではなくなってきたことから、朝廷は897年以降、移配俘囚を奥羽へ送還する政策転換に踏み切る。
 一方、一部の従順なエミシは移配されず、奥羽の原住地で俘囚化されたが、やはり俘囚は租庸調を免除され、国衙から糧食提供を受けた。それでも上総俘囚反乱と同じ元慶年間の878年には、出羽国俘囚による大規模な反乱が起きている。
 とはいえ、東北の族長級有力俘囚エミシは和人との交易で財を築き、血統的にも人口上多数派となりつつあった入植和人との通婚により混血が進んだ。皮肉にも原住俘囚のほうが移配俘囚より同化が進み、エミシとしての民族性を次第に喪失していったのであった。
 こうした強制移住と同化という民族浄化政策は、遠く19世紀にアメリカ合衆国が先住インディアン諸部族に対して実行した民族浄化政策と驚くほどよく似ている。エミシ俘囚化政策は、日本の平安朝がアメリカ政府より千年先駆けて行った民族浄化政策の先例であった。

2014年8月 6日 (水)

概説:公用エスペラント語(目次)

本連載は終了致しました。下記目次(リンク)より全記事をご覧いただけます。

総説 ページ1

一 文字体系 ページ2

二 発音法則 ページ3

三 基本品詞  

Ⅰ 名詞 ページ4
Ⅱ 冠詞
Ⅲ 人称代名詞 ページ5
Ⅳ 動詞 ページ6
Ⅴ 形容詞・副詞 ページ7
Ⅵ 前置詞/相関詞 ページ8

四 接辞 ページ9

五 種々の構文 

Ⅰ 語順 ページ10
Ⅱ 疑問文
Ⅲ 名詞文 ページ11
Ⅳ 話法 ページ12
Ⅴ 関係構文 ページ13
Ⅵ 分詞の用法 ページ14
Ⅶ 命令法と仮定法 ページ15

六 総括
 ―公用エスペラント語の特徴 ページ16

七 付録
 
―正統/公用エスペラント語の対照例 ページ17

概説:公用エスペラント語(連載最終回)

七 付録―正統/公用エスペラント語の対照例

 最後に、正統エスペラント語と公用エスペラント語の相違点を生きた文章を題材に浮き彫りにしてみたい。題材に使用するのは、エスペラント語創案者ザメンホフ自身がエスペラント語の固有性について述べた文章である。
 ユダヤ系であったザメンホフ自身は一族の民族的な出自に関わるヘブライ語を含む多数の言語に通じていたが、生まれは当時帝政ロシアに属したポーランドであり、ロシア語を母語とし、ポーランド語を第二言語とするというように、スラブ語使用者であったため、彼が創案した国際語エスペラント語もスラブ的であり、スラブ語圏の学習者に有利にできており、世界語としての中立性を欠くのではないかとの疑念を抱かれていた。そうした疑念への反駁が、この題材文の趣旨である。
 以下、抜粋した段落ごとに正統エスペラント語と公用エスペラント語を対照して記述してみる。

[正統]

...Estas vero, ke slavoj ofte posedas en Esperanto pli bonan stilon, ol germanoj au romanoj; sed tio chi venas ne de tio, ke la stilo en Esperanto estas slava, sed nur de tio, ke la slavaj lingvoj havas vortordon pli simplan kaj sekve ankau pli proksiman al la vortordon en Esperanto. La vera stilo Esperanta estas nek slava, nek germana, nek romana, ghi estas―au almenau devas esti―nur stilo simpla kaj logika.

[公用]

...estas bero, ke sraboj ohte posedas en esperanto pri bona stiron, or germanoj au romanoj; sed tio chi benas ne de tio, ke stiro en esperanto estas sraba, sed nur de tio, ke sraba ringboj habas bortordon pri simpra kaj sekbe ankau pri proksima ar bortordon en esperanto. bera stiro esperanta estas nek sraba, nek germana, nek romana, jhi estas ―au armenau debas esti―nur stiro simpra kaj rogika.

*****

[正統]

La stilo Esperanta ne imitis blinde la stilojn de aliaj lingvoj, sed havas sian karakteron tute specialan kaj memstaran, kiu ellaborighis en la dauro de longa praktika uzado de la lingvo kaj pensado en tiu chi lingvo antau ol la lingvo estis publikigita. Se iu slavo ne havas ankorau sufiche da spero en la lingvo kaj volos traduki en Esperanton lauvorte el sia nacia lingvo, lia stilo estos tiel same malbona kaj sensenca, kiel la Esperanta stilo de nesperta romano au germano.

[公用]

stiro esperanta ne imitas brinde stirojn de aria ringboj, sed habas sian tute speciara kaj memstara karakteron <erraborijhas en dauro de ronga praktika uzado de tiu chi ringbo kaj pensado en jhi antau or jhi estas pubrikigita>. se iu srabo ne habas ankorau suhiche da spero en tiu chi ringbo kaj boras traduki en esperanto rauborte er sia nacia ringbo, jhia stiro estas tier same marbona kaj sensenca, kier esperanta stiro de nesperta romano au germano.

参考までに、以下日本語訳を付す。

・・・スラブ語使用者がしばしばゲルマン語使用者やロマンス語使用者よりよいエスペラント語の文体を持っているというのは、真実である。しかし、このことはエスペラント語の文体がスラブ的だということに由来するのではなく、ただスラブ語がより簡素で、従ってまたエスペラント語とも近い語順を持っているということだけに由来するのである。真のエスペラント語文体はスラブ語的でもなく、ゲルマン語的でもなく、ロマンス語的でもなく、それは―少なくともそうあるべきである―、ひとえに簡素かつ論理的な文体なのである。

*****

エスペラント語の文体は、諸外国語の文体をやみくもに模倣したものではなく、この言語の長年の実用の継続とそれが発表される以前からのこの言語による思考とを通じて洗練された、それ自身の全く特殊かつ独自の特質を持っているのである。もしもあるスラブ語使用者がこの言語による十分な経験をまだ持っておらず、自身の民族語から逐語的にエスペラント語に訳そうとするなら、その文体は未経験なロマンス語使用者かゲルマン語使用者のエスペラント語文体と同様に出来が悪く、無意味なものとなるであろう。

2014年8月 4日 (月)

赤のアメリカ史(連載第17回)

五 レッドパワー運動(続き

民族自決政策へ
 レッドパワー運動の急進化は直接的な成果を挙げることなく、1973年のウーンデッド・ニー占拠事件を機に退潮していくが、直接行動は間接的には司法や行政を動かしていく。
 72年、合衆国最高裁判所は「ブライアン対イタスカ郡」事件で、インディアンの部族自治を明確に認める判決を出した。この事件は、ミネソタ州のインディアン居留地に住むオジブワ族のブライアン夫妻が購入した移動式住居に対する郡の課税の取り消しを求めた裁判であった。最高裁は、インディアン居留地に居住するインディアンの財産に対し、連邦議会の授権なしに州が課税する権限はないと判断したのである。
 本来、合衆国憲法第1条第8項の「通商条項」に基づき、連邦議会の授権なしに州が保留地のインディアン部族やインディアン個人の財産に課税することはできないというのが通説的な見解であったところ、最高裁はこの見解を改めて明示することで、インディアン部族の自治権を承認したのである。
 レッドパワー運動が急進化したこの時期の政権の主は共和党のニクソン大統領であり、「ブライアン」判決当時の最高裁長官ウォレン・バーガーを送り込んだのも、ニクソンであった。ニクソンは保守主義者ではあったが、教条的ではなく、現実的な保守主義者であったことが、インディアン政策でもプラスに働いた。
 ニクソン政権は、ウーンデッド・ニー事件では妥協せず武力鎮圧方針を採ったが、実力闘争にはこうした武断的手法で応じる一方で、部族解体につながる「終了」政策を「終了」させ、部族の復活と民族自決を認める宥和姿勢をも示した。これにより、1950年代から60年代にかけて100以上の部族が絶滅宣言を受けてきた流れに一応の歯止めがかかることになった。
 ニクソンはインディアンの民族自決政策を明確に打ち出した最初の大統領となり、この政策はニクソンがいわゆるウォーターゲート事件で失墜した後、再び揺り戻しに直面しても、基本的には今日まで40年間、合衆国のインディアン政策の基本路線として定着している。
 ただ、ニクソンの「自決」政策は対外政策で彼がアメリカの同盟国に適用した「自立」政策と軌を一にしており、当時財政経済危機に直面していた合衆国の負担を軽減するという現実主義的な動機からのものであったし、現在のインディアン政策においてもそのような動機は変わっていない。ゆえに、言葉の真の意味での民族主権が確立されたとは言えない。

cafe「ブライアン」判決は意外なところで効果を発揮した。インディアンの賭博産業である。元来不毛な居留地にあって州に介入されない部族自治権の範囲内で経営できる産業は、賭博のような娯楽産業くらいしかないため、カジノをはじめとする賭博場設立の動きが全米のインディアン部族に広がり、今や500施設近くにのぼるという。賭博を唯一の収入源とする部族も多い。こうした賭博依存経済は、インディアン部族の経済的な自立が不十分なことを物語っている。レッドパワーの成果が賭博場だったとすれば、少々複雑である。

2014年8月 2日 (土)

私家版松平徳川実紀(連載第16回)

十六 徳川宗武(1716年‐1771年)

 徳川宗武は8代将軍吉宗の次男で、9代家重の異母弟に当たる。家重の項で述べたとおり、家重には重度の障碍があったことから、当初は宗武後継を主張する勢力も強かった。ことに吉宗時代の老中・松平乗邑〔のりさと〕は宗武派の急先鋒であった。しかし、結局吉宗の意向で、家重後継が決まる。
 宗武はその後も将軍位に未練を残したらしく、家重の欠点を列挙する奏上に出たため、大御所に退いていた父吉宗から不忠の疑念を抱かれ、3年間登城禁止処分を受けるなど、疎んじられた。宗武派だった松平乗邑もすでに罷免されており、宗武は後継者争いに敗れたのであった。
 幼少時から英才とうたわれた宗武は自身将軍職にふさわしいという強い自負の念を抱いていたようだが、実際のところ彼が才覚を発揮したのは学芸の分野であり、後継者争いに敗れてからは、政治から距離を置き、学者・歌人として活動した。特に学者としては、当時勃興していた国学に傾倒し、賀茂真淵を和学御用掛に招聘したほか、自らも何冊かの古典注釈書を発表したほどであった。歌人としても自身の歌集や歌論書も発表している。
 家系的には紀州系「御三卿」の一つ田安徳川家の祖となった。しかし、田安家は結局、一人も将軍を輩出することなく、血統的にも中途断絶した後、御三卿の一つである一橋家の養子によって再興・存続するという変則的な経緯をたどることとなった。とはいえ、この家系は明治維新後、新政府の方針により宗家を継ぎ、近代徳川家の中心家系として今日まで存続している。

十七 徳川宗尹(1721年‐1765年)

 徳川宗尹〔むねただ〕は8代将軍吉宗の四男かつ9代家重の異母弟にして、一橋家の家祖である。二人の兄が存命する限り、自身に将軍位継承の可能性はほぼ存在しなかったが、吉宗後継問題に際しては、親しくしていたらしい次兄の宗武を推していたようで、父からは宗武と同罪として疎んじられた。
 しかし、宗尹に始まる一橋家は御三卿の中で唯一将軍を輩出し、幕末になると実質上宗家の地位に就く。さらに上述の田安家や9代将軍家重の次男重好を家祖とする御三卿・清水徳川家も実質的に継承する形で、徳川家全体を独占するようになった。
 このように後代の一橋家が隆盛を誇ったわりに、家祖宗尹は影が薄く、その事績はほとんど伝わらない。将軍後継問題に際して次兄を支持したほかは政治的関心に乏しかったようで、宗武のように学芸にいそしむでもなく、専ら鷹狩りや陶芸、染色、製菓などの趣味道楽の世界に遊び暮らした人であった。

私家版松平徳川実紀(連載第15回)

十五 徳川家重(1712年‐1761年)

 徳川家重は、先代8代将軍吉宗の長男として生まれたが、おそらくは小児麻痺による障碍のために言語が不明瞭であった。そのため、健常者だった弟の宗武を後継に推す声が強く、後継者問題が発生した。この問題は長期政権を保持した吉宗の強い意向を背景に、結局既定路線どおり家重後継で決着を見たが、後々まで微妙な尾を引いた。
 こうして、家重は先天性障碍を持つおそらく日本史上唯一の為政者となった。障碍者の社会参加が叫ばれる現代ですら実現していないことが、障碍に対する迷信的な偏見の強かった封建時代に実現したことは、ある意味で奇跡であった。これは能力より長幼の序を優先する吉宗の教条的な封建思想によるものと見ることもできるが、当時の記録によると、家重の障碍は専ら構音にあり、知能に関しては問題がなかったと見られることから、側近の補佐を受ければ将軍職は十分こなせるという吉宗の判断もあったかもしれない。
 幸いにも、吉宗は比較的長命で、最初の6年は譲位した吉宗が大御所として実権を保持し、基礎固めをした。吉宗没後は、家重の幼少時から仕え、その不明瞭な言葉を唯一解することができたとされる大岡忠光や紀州藩系の田沼意次といった旗本身分の側近者を大名に取り立てて補佐させることで、比較的平穏な政権運営が可能となった。
 政策的には父の享保の改革の継承が既定路線であり、勘定吟味役の陣容を拡充し、会計検査体制を整備するなど、財政規律の維持が引き続き図られた。一方では豊作を背景に、酒造統制を緩和する経済自由化にも踏み込んだ。
 しかし、吉宗「改革」の負の遺産として家重時代には百姓一揆が頻発し、治安面での後退が見られた。その最も大規模なものとして、金森氏が藩主を務める美濃の郡上〔ぐじょう〕藩で宝暦年間に起きた郡上一揆がある。この一件は、直接には藩の苛烈な増税策が引き起こした一揆であったが、享保の改革の目玉であった増税は地方藩にも波及していたのであった。
 このような地方一揆に中央の幕府が司法介入することは通常ないが、この時は一揆が大規模化し、革命的な様相を呈したうえ、一揆側による目安箱への提訴という事態に発展したため、幕府が審理に乗り出すことになったのだった。
 その際、家重が幕府高官の郡上藩悪政への関与を疑い、正式捜査を命じたことから、事は拡大し、田沼意次が主導する評定所による捜査・審理の結果、老中を含む幕閣の関与が認定され、大量処分された。同時に一揆勢も処断されるとともに、郡上藩主金森家は改易となった。
 この一揆は、こうした幕府高官の大量処分にも及ぶ家重治下で最大の事件となったのだが、これは田沼が家重を巻き込んで幕府中枢に仕掛けた粛清と読む余地もある。実際、この事件で大活躍した田沼は、連座する形で改易された遠江国相良藩主本多氏に代わって相良藩主におさまり、以後幕府最有力者への道を歩む。
 また家重時代は、イデオロギー的な面でも、時の桃園天皇に尊王論を進講させた公家グループを関白の告発に基づき京都所司代を通じて審理・処断した宝暦事件のように、再び武断主義への揺り戻しのような傾向を示した。
 こうした厳正な政権運営を見ると、家重は一般に流布されてきたような暗愚のイメージとは裏腹に、側近者を通じて自ら指揮を執る一面も認められ、たしかに知能面では問題がなかったことが窺えるのである。
 家重は通訳代わりの大岡忠光が没すると、自らも隠居して息子の家治に譲位し、大御所となって間もなく没した。家治への遺言は田沼の継続起用であった。ここから毀誉褒貶著しい「田沼時代」が本格的に始まる。

2014年8月 1日 (金)

抵抗の東北史(連載第5回)

四 征服と抵抗(下)

 多賀城築城の後、しばらくは朝廷軍とエミシ勢力の大規模な衝突は記録されていないが、朝廷による入植政策とそれに対するエミシの抵抗戦はなお断続的に続いていたものと見られる。 
 そうした中、780年に転機となる大規模なエミシの蜂起が再発した。これは陸奥国の伊治呰麻呂〔これはりのあざまろ〕というエミシの軍事指導者が中心になって起こした事件であった。呰麻呂は当時、朝廷の官位を持ち、伊治郡(後の栗原郡)の大領の地位にある人物であった。彼は俘囚(夷俘)だったとされるが、この時代にはまだ帰順したエミシを俘囚として再編する政策は本格化しておらず、おそらく彼は自発的に朝廷に帰順し、官位と地方官の地位を保障されたエミシであったと考えられる。
 呰麻呂は朝廷の先兵として、自ら出羽国におけるエミシ征服作戦を買って出て成果を上げ、朝廷からも報賞として官位を授与されたのだった。そんな彼が突然蜂起したのは、当時牡鹿〔おしか〕郡大領だった道嶋大盾がエミシ出自の呰麻呂を蔑視する態度を隠さなかったことへの個人的な恨みからであったとされる。
 彼は、根拠地の伊治城を陸奥国按察使・紀広純が訪問した時をとらえ、配下のエミシを率いて蜂起し、大盾を殺害、続いて呰麻呂に信頼を寄せていたとされる広純まで殺害した。呰麻呂はさらに軍を進めて、ついに多賀城を落とし、城は焼失した(後に再建)。
 東北経営の拠点であった多賀城を落とされたことで、この件はただの反乱では済まなくなった。養老蜂起以来60年ぶりの按察使暗殺に直面した朝廷は直ちに鎮圧軍を派遣するも、今回は成果が上がらず、戦線は拡大した。この後、呰麻呂の動静は記録から消えるが、捕縛処刑の記事も見えないことからすると、彼はしばらく根拠地で解放区的な支配を維持したとも考えられる。
 呰麻呂に続いてエミシの軍事指導者となるのは、より有名なアテルイである。彼の名の初見は、呰麻呂蜂起から9年後の789年のことである。この年、アテルイは現在の奥州市水沢の巣伏〔すぶし〕の戦いで征東将軍・紀古佐美〔きのこさみ〕の軍勢を大敗させ、名を馳せた。
 この頃、朝廷の長は平安朝創始者・桓武天皇であったが、桓武は東北征服作戦に特に注力していた。紀古佐美の軍勢も桓武の厳命でエミシ軍を奥州まで深く追撃したところをアテルイに迎撃されたのであった。この後、体制を立て直すべく、朝廷は新たに征夷大将軍の臨時職を新設する。797年、その第二代に任命されたのが、有名な坂上田村麻呂であった。
 すでに前年以来按察使・陸奥守・鎮守将軍を兼任し、軍事作戦と東北経営の全権を委任されていた田村麻呂は優勢に作戦を進め、802年にはアテルイとその協力者モレの二人を降伏させた。同年、多賀城より北方の奥州に胆沢城を築城し、新たな東北経営の拠点とした。二人を平安京へ連行した田村麻呂は助命を進言するが、朝廷高官らの反対により、二人は処刑された。
 胆沢城は従来、『日本書紀』にも「日高見国」の名が見えるほど、エミシの独立した部族制社会が強力に維持されていた北上川流域の奥六郡にも支配を及ぼすうえで重要な拠点となったものと見られる。
 これ以降、エミシによる大規模な蜂起は見られなくなるとともに、強制移住を伴う朝廷によるエミシ俘囚化政策が本格化していく。これは軍事的征服から民族浄化への政策転換であった。

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