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2014年7月12日 (土)

私家版松平徳川実紀(連載第12回)

十二 徳川綱吉(1646年‐1709年)

 徳川綱吉は、3代将軍家光の四男で、当初は分家して館林藩主となるが、異母兄の先代将軍家綱に実子がなかったため、家綱の死の直前に養子となり、後継指名を受けた。
 綱吉は5代将軍に就任するや、まず先代の側近者を排除し、自らに忠実な側近衆で固めて将軍親政体制を作った。彼は兄の幕閣合議を尊重する政治スタイルを否定し、専制君主然とした政治スタイルへの転換を当初から構想していたのだった。
 綱吉は儒学の素養に立ったある種の合理主義者でもあった。自身、同時代の水戸藩主・徳川光圀と並んで儒学の素養が高く、自ら講義するほどの文人肌であったこともあり、幕府の基本イデオロギーとして儒学を重視した。幕府直轄の教学機関・昌平坂学問所(湯島聖堂)の開設は、その象徴であった。
 ちなみに「忠臣蔵」で有名な綱吉晩年の赤穂浪士事件では、首謀者を世の同情論を押して厳罰に処したのも、法秩序を重んじる綱吉の合理主義的な価値観の表れと見る余地がある。
 綱吉の合理主義的な一面は、財政・金融政策にも現れている。彼は就任早々、会計監査機関として勘定吟味役を新設し、財政規律の強化を図った。
 その勘定吟味役から出た荻原重秀が主導した元禄の貨幣改鋳は、先代家綱時代から悪化していた財政再建を兼ねて、貨幣国定学説に基づく信用通貨政策の先駆であった。従来はインフレーションを招いた失政とされてきたが、今日では合理的なリフレーション政策として再評価する意見も現れている。
 綱吉時代に主に上方で栄えた元禄文化は、綱吉の文教政策に刺激された面もさりながら、この元禄リフレによって生じた貨幣価値下落から商人層が積極投資に転じたことによる好景気を背景として形成された町人階級中心の文化現象と読む余地もある。
 綱吉と言えば、「悪法」として名高い生類憐みの令で知られるが、この一連の法令は当初さほど厳格には適用されていなかった。おそらく、元来の趣旨は仏教的な殺生禁止の精神に基づくイデオロギー立法だったと考えられるが、次第に形式化し、特に犬の保護に偏った運用がなされ、悪法化し、恐怖政治的な様相を呈していったものと見られる。
 善解すれば、この法令は動物愛護法の先駆とみなす余地もあり、特に犬の登録制度(御犬毛付帳制度)などは犬の鑑札制度の原型とも言えるもので、それなりの合理性が認められる政策であった。
 全般に綱吉晩年の政治が、「天和の治」として讃えられる前半の治世に比して悪政化していくのは、生母・桂昌院との母子密着関係の中で、彼女とその寵臣の僧侶・隆光の影響力が強まっていったことが関係していると考えられる。隆光は生類憐みの令にも関与したと言われる。
 隆光はまた桂昌院を動かして寺社の再建事業に公費を投じさせたことで、幕府財政の悪化も招いている。桂昌院‐隆光ラインの跋扈を許したことで、財政規律を重視した改革も挫折してしまったのだった。
 綱吉最晩年には元禄地震、宝永地震とそれに続く富士山大噴火など、いずれも江戸の大被害は免れたとはいえ、大災害に相次いで見舞われたことも、改革を頓挫させる要因となった。   
 綱吉には唯一の男子として徳松がいたが、夭折したため、跡継ぎに甥で甲府藩主の徳川綱豊(後の6代家宣)を指名し、敬愛する生母・桂昌院の死から4年後の宝永六年(1709年)に没した。

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