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2014年7月

2014年7月31日 (木)

体験的介護保険制度批判(追記5)

 近年、フランス発の介護理念・技術として「ユマニチュード」なるものが日本にも紹介され、NHKでも取り上げられて反響を呼んだようである。これは要介護者の具体的な状態像評価に基づき、見つめる・話しかける・触れる・立つなどの介護技術から成る介護メソッドという。理念的には、その名称どおり、人間的な介護を目指すものである。
 こういう外来の理論が改めて参照されることには、やはり日本の介護現場で起きているある現象が影響しているのかもしれない。家族が入所中の施設でも若手の介護職員によく見られることだが、コミュニケーションがなく、黙々と事務的に作業する「事務員型」の人が目に付く。悪意はないのだが、「ユマニチュード」の実践家からは徹底的に矯正されるであろうような、反ユマニチュード的介護が行われているのだ。
 こういう現象の背景には、介護保険制度実施以来、介護職員の待遇悪化により短期離職が恒常化し、介護職員が経験不足の若手中心となっているという構造問題もあると思われるが、ケイタイ育ちの近時の若者全般に対人コミュニケーションを苦手とする傾向も窺える。
 といって、「ユマニチュード」が改革の即効薬になるだろうかというと、ピンと来ないところもある。この理論の根底には「人間の尊厳」の理念がある。それは結構なことだが、具体的な技術としてアイコンタクトやスキンシップが重視されている点が気になる。おそらく、これは日常生活の中でもアイコンタクトやスキンシップの習慣のある西欧の文化習慣から生まれたもので、そうした習慣が希薄な日本で下手にマニュアル化されると、かえってぎごちなく不自然になる恐れはないだろうか。
 「人間の尊厳」という理念は摂取しつつ、日本の習慣に合わせ独自のメソッドを編み出すほうが効果的であるように思える。「人間の尊厳」という理念には、要介護者を衰えた劣化人間とみなさないということが含まれている。具体的には、たとえ認知症が進み、認識力が欠如していても、あたかも普通の人と同様に接するということである。
 ともあれ、日本の介護施設は全般に、日常のケアはありきたりのことで済ませ、あとは単発の「行事」でお茶を濁すという学校運営にも似た体制が多い中で、日々の介護を人間的に丁寧に実践しようという「ユマニチュード」も参照しながら、もう一度見直すことは必要であろう。
 しかし、その程度のことでも、日本のように保険だけ官が掌握し、サービスは基本的に民間任せという構造では、すべては各施設経営者の意識の持ち方いかんにかかっているというのが、利用者にとっては心もとないところである。

2014年7月29日 (火)

概説:公用エスペラント語(連載第16回)

六 総括―公用エスペラント語の特徴

 前章まで、私的な提案にかかる公用エスペラント語の特徴を概観してきた。そこでは、簡略化ということを徹底して追求した。正統エスペラント自体、自然言語に比べ、相当に簡略化されているものの、全体としては屈折語としての性格を残しており、部分的には屈折語の中で最も簡略化が進んでいる英語以上の文法的複雑さを示すこともある。
 そうした正統エスペラント語の特性を踏まえつつ、文字・発音・文法の諸面にわたり簡略化をより徹底し、限りなく孤立語に近づけようと試みたのが公用エスペラント語である。その主要な特徴点を改めてかいつまむと、次のようである。

ⅰ文字数の少なさ

19文字(大小文字併せても38文字)に制限される。しかも、文頭や固有名詞の語頭も小文字で表記するため、大文字はほとんど使用されない。

ⅱ発音のしやすさ

特に子音の中で、不明瞭になりやすいlはrに置き換えられる。また発音しにくいfやvもそれぞれhやbに置き換えられる。

ⅲ語順に決まりがない

文成分の配列は自由で、ニュアンスの差異も認められないため、各自の母語の語順に従ってよい。

ⅳ動詞は活用変化しない

動詞は不定詞と統一活用形の区別があるのみで、人称や時制等による変化を一切しない。

 こうした正統エスペラント語からの変異に対しては、正統的なエスペランティストからの批判は避けられない。この批判は簡略化いかんにかかわりなく、変更不能と定められたエスペラント16箇条からの逸脱を許さない厳格な正統主義からのものであるから、それ以上論争の余地がない。

 こうしたエスペラント語内部からの批判とは別に、外部的な批判として、言語の簡略化自体に対する言語政策的な批判があり得る。この点で注目すべきは、英国の作家ジョージ・オーウェルが提起した問題である。
 オーウェルは有名な代表作『1984年』の中で、全体主義国家が創案した「ニュースピーク」なる新言語を戯画的に描いている。ニュースピークとは物語の舞台となった架空の全体主義国家オセアニアが創案し、国民に強制する共通語で、英語を基本にしながら品詞による変化形すら廃止し、規則性を高度化した簡略英語である。
 この新言語は体制が容認しない思考法を不可能にし、国民の思考の範囲を制限するために考案された言語とされ、自由な思考を抑圧する検閲のような外部的な思想統制ではなく、そもそも自由に思考できないようにする内発的な思想統制の道具である。
 ここには「言語の簡略化は思考の範囲を狭める」というオーウェルの信念が込められている。たしかに既存の自然言語を簡略化し、語彙や表現方法を制約することは、言論統制を超えた言語統制に等しく、それが権力的に強制されるならば、思想統制の道具となり得るだろう。
 しかし、エスペラント語のような計画言語は初めから簡略化を目指して構築された人工的言語体系であって、しかもそれは各自が母語とする自然言語との共存を前提としているのであるから、これが思想統制の道具となる可能性はないと言ってよい。

 おそらく言語の簡略化に対する最も根強いアンチテーゼは、言語学者や作家の内に流れる「複雑な言語ほど高等である」という信念(偏見)であろう。しかし実のところ、自然言語も時代が下るにつれ、それ自体の中で簡略化が進んでいることは、今日事実上世界語の位置にある英語の発展史を見れば明白である。
 言語の簡略化は、ある言語を使用する地域の範囲が拡大し、リンガ・フランカとして共通語化するにつれて発生する言語現象であり、それは言語を誰でも使いやすくするための言語汎用化の現象でもある。
 それによって文学的な修辞性が損なわれるということはあり得るが、計画言語は母語を全く異にする人間同士のコムニカード(コミュニケーション)を円滑にすることを目的としているから、修辞性よりも実用性が優先されるのである。

 以上、ここで提案した公用エスペラント語はあくまで個人的な試案にとどまるものであるから、正統エスペラント語をそのまま世界公用語として採用するという選択があっても構わないし、一から全く新しい計画言語を創り出すという意欲的な試みがあってもよい。重要なことは、人類の言語的な障壁をなくすことで世界平和が実現されることであって、計画言語はそのための手段にすぎないのである。

2014年7月27日 (日)

赤のアメリカ史(連載第16回)

五 レッドパワー運動(続き)

闘争の急進化
 従前のロビー活動的なインディアン運動がレッドパワー運動に転換されると、闘争は必然的に急進化していくこととなった。特に、占拠という形態の抗議活動が広がる。嚆矢は1969年11月のアルカトラズ島占拠闘争であった。
 これはモホーク族の活動家リチャード・オークスをリーダーとするインディアンの活動家グループがサンフランシスコ沖にある無人のアルカトラズ島を占拠し、インディアンへの土地の返還を認める部族と合衆国政府間の条約の再確認を要求して立てこもった出来事である。占拠は1年以上に及び、島には最大で数百人の活動家が参加して評議会自治を行い、一種の革命的な解放区の様相を呈した。
 これに対して、合衆国政府はかれらの要求を拒否し、71年6月、治安部隊を投入して強制排除を断行した。所期の成果は上がらなかったが、この闘争は内外で広く報道され、インディアン問題の存在を印象付ける効果を持った。
 これをきっかけとして、以後70年代半ば頃にかけて、大小様々な占拠運動が全米で繰り広げられる。占拠対象は米軍・沿岸警備隊基地からインディアン事務局ビルにまで及んだ。こうした急進的闘争のハイライトは、73年2月から3月にかけてのアメリカインディアン運動(AIM)のメンバーらによるウーンデッド・ニー占拠闘争であった。
 この闘争の引き金を引いたのは、サウスダコタ州内でインディアン住民が白人に殺害されるも、犯人の白人はいずれも軽い罪での起訴にとどめられるという人種差別的な司法処理に対する抗議であった。これに当時地元居留地の部族評議会を牛耳り、横暴な腐敗政治を行っていたリチャード・ウィルソン議長への抗議が加わった。
 活動家たちは交渉で解決できないと悟るや、ウーンデッド・ニーでの蜂起を計画した。ウーンデッド・ニーと言えば、19世紀の民族浄化戦争を事実上終結させる契機となった政府軍による虐殺事件があった象徴的な場所である。
 活動家たちは町を武装占拠し、まさに解放区として、一時は国家宣言を出すところまで急進化した。事件は全世界に報道され、南米のインディオ先住民たちからの連帯のほか、白人側からもマーロン・ブランドやジェイン・フォンダのようなリベラル派の俳優が支持を表明した。
 これに対して、政府は徹底した武力鎮圧の方針で臨み、73年5月までに制圧、占拠を解除した。鎮圧作戦でのインディアン側死者は2人であったが、多数の活動家が起訴され、闘争賛同者の不法な殺害も続いた。また闘争後も議長職に居座ったウィルソン議長による報復テロが行われ、100人以上の反ウィルソン派部族民が殺害された。
 こうしてウーンデッド・ニーは再び悲劇の場所となった。同時に、およそ一世紀前の虐殺事件がインディアン戦争を終わらせたのと同様、急進的な占拠闘争を収束させる転換点ともなった。インディアンの蜂起に対して圧倒的な物理力をもって対処する合衆国政府のやり方は、100年間変わっていなかったのだ。

cafeインディアン闘争が急進化した時期は、アフリカン解放運動の分野でも、ブラックパンサー党のような急進的な運動が隆盛となった時期と重なる。全般にアメリカ内外の社会運動が急進化した時期でもあった。インディアン運動にしてみれば、新たな形態での「インディアン戦争」の再来であったが、政府側もかつての軍の代わりに連邦捜査局(FBI)のようなより洗練された物理装置を投入して、鎮圧に出たのだった。ちなみに、当時インディアン運動が多用した占拠という闘争手段は、今日「ウォール街占拠運動」のような社会運動の中で再び活用されている。

2014年7月26日 (土)

私家版松平徳川実紀(連載第14回)

十四 徳川吉宗(1684年‐1751年)

 享保元年(1716年)に7代将軍徳川家継が夭折したことで、ついに2代将軍秀忠ラインの徳川宗家は断絶した。そのため、御三家の中で将軍位継承権を持つ尾張藩または紀州藩から後継者を出す時がきた。
 当時政権の中枢にあった甲府派の新井白石や間部詮房は御三家筆頭格の尾張藩主・徳川継友を推したが、6代将軍家宣正室の天英院が推す紀州藩主・徳川吉宗が反甲府派幕臣の支持も得て、後継に決定した。
 吉宗後継という選択は大奥の女性たちをも巻き込んだ前例のない規模の権力闘争によって決せられたことではあるが、結果的には幕藩体制の存続にとって、まさに名前のとおり吉と出た。以後、徳川宗家は今日に至るまですべて吉宗の子孫から出ているため、徳川家は吉宗を境に紀伊系に切り替わったと言ってよかった。王朝であれば、吉宗以降を実質的な「新王朝」とみなすこともできる。
 吉宗の政治は「享保の改革」と称され、江戸時代における数少ない善政として記憶されているが、彼は将軍就任前、すでに紀州藩主として改革実績があり、若くして経験豊富な統治者であった。
 将軍としての吉宗は5代将軍綱吉を崇敬し、綱吉前半期の「天和の治」を範例としたようである。実際、両者はある種の合理主義者であった点で、共通性が見られる。ただ綱吉の場合は途中で悪政に逸れてしまったが、吉宗は最後までぶれなかった点で、改革者として名を残すことになった。
 吉宗改革のプログラムは多岐にわたったが、主要点は五公五民の増税・緊縮を軸とした財政再建と公事方御定書のような法制整備にあった。これは財政規律と法秩序という現代でもよく見られる下部構造に手を着けない保守的改革プログラムの典型的なものである。悪く言えば、収奪と抑圧の強化であった。しかし、大御所時代を含め30年以上に及んだ久々の長期政権の中でこれをぶれることなく実行したことで、体制は中興を果たすことができたのだった。
 吉宗もまた非民主的な封建支配者の域を出なかったとはいえ、恣意的な独裁者ではなく、目安箱のような下からの意見汲み上げの制度化や、隠密(御庭番)を使った情報収集などフィードバックの仕組みも導入していた。また公事方御定書も従来戦国法の残酷な見せしめの伝統を引きずっていた刑罰法令を緩和し、訴訟制度を合理化しようとしたものであった。
 思想面でも、体制教義だった朱子学よりも実学重視の傾向を見せ、洋書輸入の一部解禁など、一定の進歩的な姿勢をとったため、後に老中松平定信の反動政策で覆されるまで、江戸中期にある種のルネサンスをもたらした。
 こうして、全体としてはバランスの取れた合理的な封建支配者であったことが、彼の改革者のイメージを高めたのであろう。一方で、収奪強化により農民の窮乏を招き、以後百姓一揆の頻発を招いたことは、吉宗「改革」の負の遺産となった。

2014年7月25日 (金)

概説:公用エスペラント語(連載第15回)

五 種々の構文

Ⅶ 命令法と仮定法

 基本品詞の項で述べたとおり、公用エスペラント語の動詞は活用変化しないため、正統エスペラント語に見られる命令形(-u)や仮定形(-us)の変化もない。

命令法は、主語を省いた動詞文に感嘆符!を付すか、丁寧に命令するときは、文頭にbonbore(どうか)を置く。

 例えば、ne diras !(話すな。) あるいはbonbore ne diras ! (話さないでください。)となる。

仮定法は、条件節を接続詞se(もし)で導き、動詞は主節・条件節とも活用変化しない。

 そうなると、例えば、se mi estas bi, mi ne diras.という文は、「もし、私があなただったら、話さないだろう/話さなかっただろう」のいずれなのか、文面だけでは区別がつかない。こうした場合、特に「話さなかっただろう」という過去の非現実仮定を表現したいときは、tiam(その時)といった時間相を示す副詞を添えることで実質的に表現できる。

 最後に、命令法と仮定法が組み合わさった応用文を一つ。se bi boras mardikijhi, ne manjhas inter manjhoj !(もし痩せたければ、間食するな。)

2014年7月24日 (木)

抵抗の東北史(連載第4回)

三 征服と抵抗(上)

 百済滅亡後の畿内朝廷は、新羅と同盟していた敵方の唐の制度にならった律令制国家の建設に邁進していく。それが飛鳥時代最末期の大宝律令の制定で一段落すると、中断していた東北遠征が再開される。8世紀初頭、日本海側に出羽柵が設置されたのはその出発点となった。
 同時に、畿内朝廷の東北政策にも明白な変化が現れる。すなわち、従来の共存を前提とした服属政策から、入植政策への転換である。その手始めに、714年以降、尾張や信濃などからも多数の和人を出羽柵に移入させた。こうした政策的入植民は計1300戸に及んだ。かれらは開拓民であると同時に、東北地方にも律令制国家の支配を及ぼすための先兵でもあった。
 太平洋側でも今日の仙台市太白区付近に置かれた陸奥国府を拠点に、この地域の支配を強化していた模様である。今日郡山遺跡として知られる遺跡群がその考古学的根拠とみなされる。
 養老年間になると、エミシ統制を主任務とする陸奥出羽按察使が設置される。エミシ側の反応は早かった。720年には按察使・上毛野広人が武装蜂起したエミシに殺害される事件が起きた。上毛野氏は元来今日の群馬の古墳勢力を祖とする豪族と見られ、関東最大の勢力であったが、この頃には畿内朝廷に帰順し、関東に接する東北地方の初期軍事行政で活躍していたものと見られる。
 この養老蜂起が記録に残るエミシによる初の大規模反乱事件であるが、エミシ側にしてみれば、畿内朝廷の政策転換に対する抵抗の始まりであった。事態を重く見た朝廷では東国武蔵国守の経験のあった多治比縣守〔たじひのあがたもり〕を征夷将軍に任じて、鎮圧した。
 戦場となったと見られる今日の宮城県大崎市に所在する官衙遺跡群に広範囲な焼失痕が認められることからして、エミシ側の蜂起の規模も相当なものであったようである。
 ちなみに、斉明朝期の記録はエミシに近傍の熟蝦夷(にきえみし:従順な蝦夷)、遠方の麁蝦夷(あらえみし:勇猛な蝦夷)、最遠方の都加留(つがる)の三種族を区別しているが、養老蜂起の主力は麁蝦夷だった可能性が高い。おそらく太平洋側でも支配の強化を狙い、北進を企てた朝廷軍と衝突したのだろう。
 この事件を機に、朝廷は724年、従来よりも北に新たに多賀城を建設し、ここを鎮守府兼陸奥国府として東北経営の拠点とする。
 その後、733年には日本海側の出羽柵を北へ移設し、多賀城と並ぶ東北経営の二大拠点としたうえ、737年に内陸部のエミシ拠点であった雄勝を征服し、多賀城・出羽柵をつなぐ連絡路を確保した。これにより東北の太平洋側と日本海側が結ばれ、畿内朝廷の東北支配がより面的なものとなったのである。

2014年7月22日 (火)

概説:公用エスペラント語(連載第14回)

五 種々の構文

Ⅵ 分詞の用法

 エスペラント語の分詞には、能動分詞と受動分詞があるが、それぞれの主な用法は能動分詞による分詞構文、受動分詞による受動態構文である。三で見たように、エスペラント語の分詞には継続、完了、未然の時制変化がある。
 ここまでは正統エスペラント語と共通であるが、公用エスペラント語との相違点は次のようである。

分詞構文では、主節動詞は時制変化しない。

 例えば―

enirinte en mia domon, mi haras.(自宅に入ってしまって、私は転んだ。)
enirante en mia domon, mi haras.(自宅に入りながら、私は転んだ。)
enironte en mia domon, mi haras.(自宅に入ろうとして、私は転んだ。)

 いずれの例文でも、主節動詞haras(転ぶ)は統一活用形のままである。この場合は、能動分詞の語尾(上例の-eは副詞語尾)で文全体の時制が表される。

受動態では、コピュラ動詞は時制変化しない。

 例えば―

chiero estas kobrita de nuboj.(空は雲に覆われてしまっている。) 
chiero estas kobrata de nuboj.(空は雲に覆われつつある。) 
chiero estas kobrota de nuboj.(空は雲に覆われようとしている。)

 いずれの例文でも、コピュラ動詞estasは統一活用形のままである。この場合も、受動分詞の語尾(上例で-aは形容詞語尾)で文全体の時制が表される。

2014年7月20日 (日)

赤のアメリカ史(連載第15回)

五 レッドパワー運動

インディアンの団結
 インディアン・ニューディールが戦後、トルーマン政権下の「フェアディール」における「終了」政策によって後退・反動化して以降、部族認定の取り消しが相次ぐとともに、56年にトルーマン民主党政権の政策を引き継ぐ形でアイゼンハワー共和党政権が制定したインディアン再配置法により、都市部に流入して下層民化するインディアンが増大した。
 このRelocation Actと銘打たれた新法は、一世紀前のRemoval Actとは微妙に言葉使いが違ったが、インディアンを居留地へ囲い込む代わりに、今度は居留地も追い出し都市スラムへ囲い込もうというのだった。
 居留地さえ喪失したインディアン社会は消滅の危機に瀕した。このことが、伝統的な部族対立を超え、大同団結する機運をもたらした。
 インディアンの部族横断的な団結の先駆としては、1911年にオハイオ州で結成されたアメリカインディアン協会(SIA)があった。この団体は主にインディアン寄宿学校で育成されたインディアンの中産知識階級の運動家らが結成したもので、同化主義的な観点に立ちつつ、ロビー活動を通じてインディアンの権利を擁護しようという穏健主義の団体であった。
 この団体は30年代のニューディール期には一応役割を終えて解散するが、戦時中の44年、改めてアメリカインディアン民族会議(NCIA)が設立された。これはSIAと同様、ロビー活動を通じた穏健主義の団体であるが、保留地の部族会議代表で構成され、首都ワシントンに本部を置くより強力な利益代表組織として活動した。
 こうした穏健主義の権利擁護運動は保守的な白人社会でも一定受け入れられ、ケネディ政権による「終了」政策の再転換と、それを継いだジョンソン政権下でのインディアン公民権法の制定という政策・法制面の成果につながったが、インディアン問題に無関心な一般大衆の関心を引くことはなく、保留地の貧困や都市スラム街のインディアンたちの生活は一向に改善されないなど限界にも直面していた。
 そうした中で、NCIAの穏健な活動方針と部族長老支配に満足しない若者たちを中心に61年、全米インディアン若者会議(NIYC)が結成された。かれらは権利擁護ではなく、より積極的な民族自決を求めてデモや占拠などの直接行動を手法とした。
 このような新潮流が68年、アメリカインディアン運動(AIM)の結成に結実する。今日でも全米最大級のインディアン団体として活動するこの運動体は、60年代にアメリカ黒人の間で勃興したブラックパワー運動と共振する形で、直接行動的なレッドパワー運動をリードしていくのである。

cafeアメリカインディアンは人種的にはほぼ均質的なモンゴロイドでありながら、広い大陸に分散して部族社会を形成したため、500を超える多岐の部族に分かれ、部族ごとに言語・習俗も異なっていることから、歴史的に大同団結が不得手であった。かれらは、白人侵入者とのみならず、部族同士でもしばしば戦闘し合い、そうした部族対立を白人勢力側に利用され、容易に分断支配されてきたことも、窮地に追いやられる要因であった。20世紀後半になると、ようやく部族対立が止揚され、近代的な政治・社会運動の影響も受けつつ、アメリカインディアンが一つの潜勢力として勃興してきたのである。その背後では、白人側の文化人類学的な知見の進歩も寄与していただろう。

2014年7月19日 (土)

私家版松平徳川実紀(連載第13回)

十三 徳川家宣(1662年‐1712年)/家継(1709年‐1716年)

 徳川家宣は3代将軍家光の孫で、先代将軍綱吉の甥に当たるが、綱吉に男子継承者がなかったことから、甲府藩主だった家宣が後継者に決定した。元来後継候補としては、綱吉の長女が嫁いでいた紀州徳川家の紀州藩主徳川綱教〔つなのり〕が有力であったが、綱吉より先に没したことで、お鉢が回ってきた。
 家宣が就任後最初に行ったのは、悪法化していた生類憐みの令の廃止であった。また綱吉に重用されて幕政を仕切っていた側用人柳沢吉保を辞職させ、代わって間部詮房や新井白石といった低い身分から引き上げた甲府藩の有能な重臣を呼び寄せ、政治改革に着手した。特に家宣は自身学問好きであったことから、白石のほか室鳩巣のような儒学者を積極的に起用した。
 家宣とその子で7代将軍家継の短い期間にまたがる政治改革がいわゆる正徳の治であるが、これは白石のような学者主導のものとなったため、まさに文治政治の性格が濃厚であった。しかしいささかイデオロギーに走る傾向が見られたため、「改革」の名が冠せられることは通常ない。
 例えば、経済政策面では綱吉時代の財務大臣格だった荻原重秀が追い落とされ、「金銀貨の品位低下と量目低下は公儀の威信の低下に連動する」という白石の理論に基づき、より高品質の正徳金銀が発行された。この新旧貨幣の交替は慎重に行われたとはいえ、これにより通貨供給量が減少し、デフレーションを惹起した。
 また長崎貿易による金銀の海外流出を防ぐためとして、貿易制限と国産化の増進による鎖国政策の強化も図ったが(海舶互市新例)、これも貿易そのものに否定的な儒学的発想に由来するものであった。
 こうした正徳の治は家宣が治世3年で死去し、わずか3歳の息子・家継が後継将軍に就任すると、頓挫し始める。本来、生前の家宣は自らの後継に幼少の息子ではなく、尾張藩主徳川吉通を迎える意向であったが、白石が反対した経緯があった。おそらく白石としては、幼少の将軍のほうがいっそう思い通りの改革ができるとの狙いからであろう。
 ところが、この見通しは外れた。統治者として機能しない家継の下、かえって白石らを敵視する反甲府派が巻き返しを図ってきたからである。正徳四年(1714年)に大奥の幹部女中が歌舞伎役者と会食して門限に遅れた一件がスキャンダラスにフレームアップされた江島生島事件は、反甲府派に巻き返しのチャンスとして大いに利用された。
 家継が長生していれば形勢は挽回できたかもしれないが、不運にも家継は正徳六年(1716年)、7歳を前に夭折した。江島生島事件で主導権を握った家宣正室天英院の推す紀州藩主徳川吉宗が後継将軍として迎えられると、間部詮房や新井白石は罷免され、正徳の治も終焉したのだった。

2014年7月18日 (金)

科学と事前審査

 STAP細胞をめぐる理研論文について、掲載されたネイチャー誌が撤回を認めたのに続き、論文の中心にいたO研究員の過去の博士論文についても、出身大学の調査委が不正を認定した(博士号取り消しについては否定)。
 一般に、学術論文の発表に当たっては、投稿雑誌による事前の査読や大学による学位審査が厳しく行われる。それらの査定は自然科学系ではとりわけ厳正なものとみなされている。科学論文の世界には真の意味での表現の自由は存在せず、こうした自主的な事前検閲によって科学的な正確性がコントロールされているわけだ。
 逆に言えば、科学的な正確性を保持するための事前審査の厳密さが表現の自由の制限を正当化する唯一の担保となる。O氏が関わった数々の不正が認められる諸論文が当初は問題なく審査を通っていたという事実は、そうした担保の信頼性を大きく揺るがせるだろう。
 事前審査が形骸化しているなら、表現の自由の制約は正当化できなくなる。他方で、科学の余白が恣意的な不正論文によって汚されることにもなる。国家が統制の手を伸ばしてくる前に、科学界の自浄作用に期待しよう。

外部化と名簿

 大手受験産業資本ベネッセに出入りするシステムエンジニアが職権を利用して大量の個人情報を不正に持ち出し、利益を得ていたとして逮捕された一件は、一事件を通して晩期資本主義社会のいくつかの断面を象徴してみせている。
 当初派遣社員とされた被疑者は正確には会社から業務委託を受けた委託社員であったようだが、法的名称はともあれ、被疑者には出先会社に対する忠誠心はなかった。特定管理業務の外部化という晩期資本主義で普及する低コスト経営は、こうした忠誠心を欠く出向労働者を増加させている。また被疑者の犯行動機は金銭と見られるが、SEのような専門技術職が非正規化され―専門職非正規化は非正規化政策の原点―、低賃金で十分に報われないことが、忠誠心の欠如とあいまって職務犯罪誘発要因となっている。
 より根本的には、名簿のような情報までもが商品化されている晩期資本主義の経済構造がある。今回のような大規模流出はおそらく氷山の一角で、名簿を入手した競合他社が早速宣伝活動に利用したことで発覚したにすぎない。より小規模で表面化しない情報流出は茶飯事だからこそ、名簿を利用した未知の業者からの電話・DMセールスや振込め詐欺のようなより悪質なアプローチが常態化している。
 名簿の社外流出と言われるが、管理が外部化された名簿は、すでに外部に一歩流出しているも同然である。せめて詳細な顧客情報の管理は旧慣どおり内部化しておけばリスクを軽減できよう。
 より徹底した対策は名簿の売買自体を法的に禁止することだが、それは名簿を宣伝活動に利用したい商業資本にとっては受け入れ難い規制であるから、資本の守護者たる資本主義政府としては今後もそのような徹底策には踏み込めまい。

2014年7月16日 (水)

抵抗の東北史(連載第3回)

二 共存の時代

 古墳時代後期頃に成立した南部の和人古墳勢力と北部のエミシ勢力は、おおむね衣川(北上川水系)を境界線として共存均衡していたものと考えられるが、両者の交渉関係については史料が乏しく、詳細は不明である。
 一方、7世紀までに関東を支配下に収め、朝廷として整備されてきた畿内王権はさらに北上して東北にも踏査の手を伸ばしてくる。手始めは日本海側であった。その理由として、畿内朝廷の支配力はまだ東北内陸・太平洋側には高密度に及んでいなかった一方、北陸ではすでに越国を建て、この地に築造した渟足柵や磐舟柵といった城柵を中継基地として北方へ進出しようとしたことが考えられる。
 とりわけ、正史上は斉明天皇の時代(私見は斉明天皇を正式の天皇に数えない)に越国守阿倍比羅夫が東北遠征の将として活躍した。比羅夫は658年から660年にかけての三年間で三度の北方遠征を行っており、この時期、畿内朝廷が相当集中的に東北遠征を企画していたことが窺える。
 最初の658年遠征は180艘もの大船団を率いての遠征であり、比羅夫軍は鰐田浦(秋田)廻りで津軽に到達している。この時は降伏させたエミシの首領恩荷を渟代・津軽二郡の郡領に任じ、冠位も授けた。翌年には、再び同地域に遠征し、比羅夫は一つの場所に飽田・渟代二郡、津軽郡、さらに北海道と見られる胆振鉏のエミシら総勢400人あまりを集めて饗応し禄を与えている。大規模な集団服属儀式であろう。
 三度目の遠征はエミシと対立関係にあったと見られる粛慎なる異民族(オホーツク人か)の討伐が目的であり、エミシ勢力からの救援依頼に答えた形であった。
 こうした正史上斉明期の東北遠征を見ると、奈良・平安朝期のそれとは異なり、地上軍団による征服作戦は展開されず、水軍による踏査と服属・授爵、交易が主目的であることがわかる。
 こうした遠征はまだ東北の軍事的な征服作戦ではなく、エミシとの共存関係を前提に、形式上畿内朝廷がエミシを服属させるという古墳時代的な服属支配体制の延長上で行われていたものであったと考えられる。
 このような飛鳥時代の東北遠征は、畿内朝廷が密接な関係を持った朝鮮半島国家・百済が新羅‐唐連合軍の攻撃により亡国し、百済救援軍が組織された―比羅夫も将軍として動員された―のをきっかけに長く中断される。 

2014年7月14日 (月)

概説:公用エスペラント語(連載第13回)

五 種々の構文

Ⅴ 関係構文

公用エスペラント語に関係詞は存在しない。関係句は関係記号〈〉で囲う。

 本規則は、正統エスペラント語との大きな相違点となる。正統エスペラント語の場合、英語と同様に疑問詞を転用した関係詞が存在し、しかも関係詞は先行詞の数・格(目的格)に連動して語尾変化するという英語よりも複雑な規則がある。
 例えば「私は昨日買った花々を今日恋人に贈った。」という正統エスペラント語の例文では、次のように関係詞kiuも複数形(-j)かつ目的格(-n)に変化する。

Hodiau mi donis al mia amato floroj, kiujn mi achetis hierau. 

 しかし、公用エスペラント語では関係詞は存在しないので、文意の混乱を避けるため、補助記号を用いる必要がある。上記例文を公用エスペラント語で書き換えると―

hodiau mi donas ar mia amato hroroj <mi achetas hierau>.

 関係記号〈〉でくくった箇所が「彼が昨日買った」という関係句を表す。構文的には、やはり関係詞を持たない中国語や日本語に近づくが、関係句を後置する点では相違があることに注意したい(つまり、<mi achetas hierau>hrorojとはならない)。
 ちなみに、音声に頼る話し言葉の場合は、こうした関係記号による表現ができないため、先行詞と関係句の直前(上例ではhrorojとmiの間)で一拍置く音声ルールを適用する。

先行詞に前置詞が伴う場合、前置詞は関係句の後に移動する。

 例えば、上例を変更して「昨日あなたが花々を贈った女性はどなたですか。」という文では、本来の語順ならdonas ar tiu hemo(あの女性に贈る(贈った))となる前置詞arが、次のように後置詞化される。

kiu estas tiu hemo <bi hierau donas hroroj> ar ?

2014年7月13日 (日)

赤のアメリカ史(連載第14回)

四 保護政策への転換(続き)

インディアン・ニューディール
 20世紀初頭以降の「人道主義」の仮面を着けた保護政策は、ドーズ法の破壊的効果を賞賛したセオドア・ローズベルト大統領の従弟に当たる第32代大統領フランクリン・ローズベルトのニューディール政策の下で転機を迎えた。
 1934年に制定されたインディアン再組織法がそれである。この連邦法によりドーズ法は廃止され、同化政策が転換された。部族は政治的な自治と土地の自主的な管理が認められるようになった。これは単に伝統的な部族共同体の復活にとどまらず、部族が独自の憲法を制定し、部族評議会を通じて合衆国や州政府と交渉できるようにする近代的な政治制度の導入も促進した。
 この法律はすでに個人に渡った土地の返還までは認めなかったが、合衆国政府には私有地の買収・返還権が与えられ、これによって同法施行から20年で計8000キロ平方の土地が部族に返還された。
 また州政府にインディアンの教育や医療に補助金を支出する権限を付与するジョンソン・オマリー法も、インディアン・ニューデールの一貫を成す新法であった。これは、福祉的浄化政策とは異なり、まさに福祉政策そのものであった。
 こうした合衆国とインディアン部族間のまさしくニューディール=新協約を主導したのは、ローズベルトによって任命されたインディアン事務局長ジョン・コリアーであった。彼は33年から45年までの政権期間中、一貫して局長の座にあって、新法の適用を主導した。
 白人のコリアーは近代的なソーシャルワーカーの元祖的な存在でもあり、ニューメキシコ州のインディアンの状況を知ったことをきっかけに、危機に瀕するインディアン部族社会と文化を救うため、1923年にはアメリカインディアン防衛協会を設立してドーズ法撤廃のロビー活動を展開する。それがリベラルなローズベルト政権の成立によって結実し、コリアーも政策遂行の中心者となったのである。
 このような浄化‐同化から保護への政策転換は、伝統的なアメリカでは希薄だった福祉国家的な社会思想に基づくニューディール政策の一環を成すものであって、それゆえに同政策と運命を共にするはずのものであった。
 12年続いたローズベルトの長期政権が終焉すると、同じ民主党後継のトルーマン大統領は「フェアディール」を掲げ、ニューディール政策の保守的な修正を図った。そうした中で、部族と政府の特殊な関係を「終了」させるという政策再転換が現れる。
 これはインディアンを完全な市民(労働者)として都市部へ「再配置」するという意図を伴っており、強制同化とは際どく一線を画しながらも、部族共同体の解体を再び促進する政策であった。
 この政策反動は、ニューディール期の再組織法が所詮は白人政府によるインディアン「保護」という受動的な観点からなされ、インディアンの主体的な民族自決に基づくものではなかったことの結果であった。

cafeインディアン・ニューディールの時代は、第二次世界大戦とも重なる。大戦には、多くのインディアン部族民がアメリカ兵として動員された。かれらが特に貢献したのは、コードトーカーとしての役割であった。特にナバホ族のコードトーカーが活躍した。一般にインディアン部族語は英語より複雑な文法構造を持ち、かつ外国人でこれを解する者はほとんどいなかったことから、暗号通信用語に最適であったのである。コードトーカーの存在は1968年の機密解除で明らかとなった。それから40年後の2008年、ブッシュ政権はコードトーカー認知法を制定し、存命中のコードトーカーへの顕彰を正式に法制化した。

2014年7月12日 (土)

私家版松平徳川実紀(連載第12回)

十二 徳川綱吉(1646年‐1709年)

 徳川綱吉は、3代将軍家光の四男で、当初は分家して館林藩主となるが、異母兄の先代将軍家綱に実子がなかったため、家綱の死の直前に養子となり、後継指名を受けた。
 綱吉は5代将軍に就任するや、まず先代の側近者を排除し、自らに忠実な側近衆で固めて将軍親政体制を作った。彼は兄の幕閣合議を尊重する政治スタイルを否定し、専制君主然とした政治スタイルへの転換を当初から構想していたのだった。
 綱吉は儒学の素養に立ったある種の合理主義者でもあった。自身、同時代の水戸藩主・徳川光圀と並んで儒学の素養が高く、自ら講義するほどの文人肌であったこともあり、幕府の基本イデオロギーとして儒学を重視した。幕府直轄の教学機関・昌平坂学問所(湯島聖堂)の開設は、その象徴であった。
 ちなみに「忠臣蔵」で有名な綱吉晩年の赤穂浪士事件では、首謀者を世の同情論を押して厳罰に処したのも、法秩序を重んじる綱吉の合理主義的な価値観の表れと見る余地がある。
 綱吉の合理主義的な一面は、財政・金融政策にも現れている。彼は就任早々、会計監査機関として勘定吟味役を新設し、財政規律の強化を図った。
 その勘定吟味役から出た荻原重秀が主導した元禄の貨幣改鋳は、先代家綱時代から悪化していた財政再建を兼ねて、貨幣国定学説に基づく信用通貨政策の先駆であった。従来はインフレーションを招いた失政とされてきたが、今日では合理的なリフレーション政策として再評価する意見も現れている。
 綱吉時代に主に上方で栄えた元禄文化は、綱吉の文教政策に刺激された面もさりながら、この元禄リフレによって生じた貨幣価値下落から商人層が積極投資に転じたことによる好景気を背景として形成された町人階級中心の文化現象と読む余地もある。
 綱吉と言えば、「悪法」として名高い生類憐みの令で知られるが、この一連の法令は当初さほど厳格には適用されていなかった。おそらく、元来の趣旨は仏教的な殺生禁止の精神に基づくイデオロギー立法だったと考えられるが、次第に形式化し、特に犬の保護に偏った運用がなされ、悪法化し、恐怖政治的な様相を呈していったものと見られる。
 善解すれば、この法令は動物愛護法の先駆とみなす余地もあり、特に犬の登録制度(御犬毛付帳制度)などは犬の鑑札制度の原型とも言えるもので、それなりの合理性が認められる政策であった。
 全般に綱吉晩年の政治が、「天和の治」として讃えられる前半の治世に比して悪政化していくのは、生母・桂昌院との母子密着関係の中で、彼女とその寵臣の僧侶・隆光の影響力が強まっていったことが関係していると考えられる。隆光は生類憐みの令にも関与したと言われる。
 隆光はまた桂昌院を動かして寺社の再建事業に公費を投じさせたことで、幕府財政の悪化も招いている。桂昌院‐隆光ラインの跋扈を許したことで、財政規律を重視した改革も挫折してしまったのだった。
 綱吉最晩年には元禄地震、宝永地震とそれに続く富士山大噴火など、いずれも江戸の大被害は免れたとはいえ、大災害に相次いで見舞われたことも、改革を頓挫させる要因となった。   
 綱吉には唯一の男子として徳松がいたが、夭折したため、跡継ぎに甥で甲府藩主の徳川綱豊(後の6代家宣)を指名し、敬愛する生母・桂昌院の死から4年後の宝永六年(1709年)に没した。

2014年7月10日 (木)

抵抗の東北史(連載第2回)

一 先史東北の形成

 東北地方の先史時代に関しては、主に宮城県を舞台とした在野の考古学研究家による旧石器遺跡捏造が2000年に発覚して以来、それまで当該研究家の「功績」に帰せられてきた前・中期旧石器時代の存在が白紙に戻ることとなった。この事件は東北に限らず、日本全体の先史時代の編年に影響を及ぼす痛恨の一大不祥事となっている。
 東北地方の先史時代で確実に立証できるのは縄文時代以降であるが、縄文時代の東北地方は、現在よりも温暖だったと見られ、東日本では縄文人の拠点とも言えた関東地方に次いで縄文遺跡が豊富に見られる地域である。中でも、青森市の三内丸山遺跡は縄文時代前期から中期にかけての大集落遺跡であり、本州最北端の大規模縄文遺跡となっている。
 縄文時代には人口希薄であった西日本では、大陸から稲作や金属をもたらした移住民勢力が容易に土着し、弥生文化を開始したが、これは遅れて東北地方にも伝播した。青森津軽地方の垂柳遺跡は、東北北部でも地域的には弥生時代に稲作が行われていたことを立証した遺跡である。
 古墳時代に入ると、東北地方でも大規模墳墓の築造が見られるようになるが、これは南部を中心とする地域に集中している。特に関東地方とも接する今日の福島県域から仙台平野にかけての地域である。
 この地域の古墳の特色は、前方後方墳(ないし方墳)が多いことである。中でも宮城県名取市にある飯野坂古墳群は方墳のみで構成されている。これは関東地方最大の古墳密集地帯である両毛地域と共有する特色であることから、この関東の古墳勢力と一体的か、もしくは分離勢力が北上したものと推定される。両毛地域の勢力は方墳やその積石塚構造から高句麗系移住民を祖に持つとも考えられるので、東北の古墳勢力も同系と見る余地がある。
 ただ、東北地方の古墳には畿内型とも言われる前方後円墳も少なくないことから、畿内王権の影響も及んでいたと考えられるが、関東を越えて東北地方にも畿内王権の―多分に分権的な―支配が及ぶのは、6世紀半ば以降、国造制が整備されてからのことであり、それもほぼ今日の福島県域を中心とした南部に限られている。
 東北北部はと言えば、寒冷化した古墳時代以降、弥生文化の到達しなかった北海道で続縄文文化の担い手となっていたエミシ勢力が南下・移住してきたことが窺える。これにより、今日の宮城県中部以北はエミシ勢力圏となるが、この時代のエミシ勢力は東北南部の古墳勢力とは敵対的な関係になく、むしろ交易を通じて共存関係にあったことが考古学的にも立証されている。
 かくて、先史の東北地方は、大雑把に言えば、南部の和人古墳勢力と北部のエミシ勢力の均衡的共存でもって成り立っていたと考えられる。

2014年7月 9日 (水)

抵抗の東北史(連載第1回)

前言

 2011年3月の東日本大震災で最も甚大な被害を蒙ったのが、東北地方であった。その際に被災民たちが示した不屈の忍耐強さは世界で日本人の精神性として賞賛されたが、この賛辞は実のところ、あまり正確とは言えなかった。震災の時に示されたのは、「日本人」全般の精神性というよりは、「東北人」の精神性だったとみるのが、正確である。
 現代のいたって平板な広域行政区分では六つの県から成る東北地方は、歴史的に見れば日本本州の北の辺境地帯であり、かつては西日本とは民族的・文化的にも異なる独自の地域であった。中央政権の所在は西から東、東から西、そして再び西から東へと幾度も移動したが、時代ごとに、東北人は様々なかたちで中央政権に抵抗を示した。
 千年を超える歴史的な時間をかけた中央諸政権による東北征服・統合政策によって、東北地方は現在のような姿に定着したのだったが、そこに至るまで、東北地方は中央政権にとってはまさに本土最大の抵抗拠点であった。
 だからというわけではないが、災害復興―特に生活再建―に対する現代の中央政府の取り組みも迅速・充分とは言えず、どこか渋々とした観があるのも、東北をいまだもって周縁の地とみなす視線が残されているためではないか―。仮に東日本大震災の被災中心地が東京を含む関東地方であったなら、政府はもっと大急ぎで復興を進めたに違いない。通称ではあるが、「東日本大震災」という言い方も、被災が圧倒的に東北地方に集中した事実からすると、ポイントを外したぼかし表現のように思えてくる。
 ともあれ、東北の歴史的な抵抗の精神は現代の統合された東北人にも基層的に受け継がれており、甚大な災害に直面した際の不屈の忍耐強さも、歴史的な抵抗性のかたちを変えた現れとも言える。本連載では、そうした東北地方の抵抗性に焦点を当てつつ、東北史を先史時代から始めて通史的に鳥瞰する。これは沖縄・北海道史に続く、もう一つの日本辺境史である。

2014年7月 7日 (月)

概説:公用エスペラント語(連載第12回)

五 種々の構文

Ⅳ 話法

エスペラント語の間接話法は、時制の一致を必要としない。

 英語やフランス語の間接話法に現れる時制の一致法則が存在しないことは、エスペラント語の簡便さの代表的な特徴である。ただし、この法則の意味するところは、正統エスペラント語と公用エスペラント語では異なっている。
 正統エスペラント語では、動詞の時制変化を前提に、間接話法文の主節の動詞と従属節の動詞の時制が食い違っていてもよいことを示す。例えば「私は昨日、太郎に明日来ると言った。」という例文では、次のように主節の動詞は過去形、従属節の動詞は未来形と一致しない。

Mi diris al Taro hierau, ke mi venos morgau.

 これに対して、公用エスペラント語にあっては、動詞は時制変化しないのであったから、時制の一致ということがそもそも問題とならず、動詞はすべて統一活用形-asで一貫する。上例を綴りを含めて公用エスペラント語で言い換えると、次のようになる。

mi diras ar taro hierau, ke mi benas morgau.

 ちなみに、上例を変更して、「太郎は昨日、明日私が来るのかと尋ねた。」という疑問文を導く間接話法では、疑問を表す従属節を接続詞chuで導く。時制の一致がないことは同様である。すなわち― 

taro demandas min hierau, chu mi benas morgau.

 なお、直接話法は従属節を引用符で囲んだ会話文で示す。上記二例文を参考までに直接話法で書き換えてみる。

mi diras ar taro hierau,“mi benas morgau.”

taro demandas min hierau,“bi benas morgau ?”

2014年7月 5日 (土)

赤のアメリカ史(連載第13回)

四 保護政策への転換(続き)

福祉的浄化政策
 ドーズ法のような「人道主義」の仮面をつけた民族浄化のもう一つの柱は、福祉的な浄化政策であった。中でも教育を通じたインディアンの言語民族文化の抹殺である。その中核的マシンは、インディアン寄宿学校であった。
 その第一号校は、民族浄化戦争渦中の1879年にペンシルベニア州に設立された「カーライル・インディアン工業学校」である。この学校は、民族浄化戦争にも従軍したアメリカ陸軍軍人リチャード・ヘンリー・プラットによって設立された初の連邦立インディアン寄宿学校であった。
 プラットもまたこの時代の「人道主義者」の一人であったが、彼によれば、「人類を救うためには、インディアンを殺さねばならない」。ここで言われるインディアン殺しとは、文字どおりの殺戮ではなく、インディアンの文化を根こそぎ抹殺することで、かれらを「文明化」し、有益なアメリカ国民として同化させるということであった。
 そのためには、幼少時よりインディアンの子どもたちを保留地の親元から引き離し、教育を通じてインディアンとしての民族性を剥奪し、授産する必要があるとされた。こうした思想に基づいて、連邦政府の肝いりで各地に設立された同種の寄宿学校ではインディアン語の使用とインディアンの伝統宗教が禁止され、軍隊的規律の下に、キリスト教義に基づく欧化教育が強制された。
 だが「文明化」が謳われたのとは裏腹に、寄宿学校はしばしば劣悪な衛生環境に置かれており、伝染病の校内蔓延により多数の生徒の集団死を引き起こすこともあった。
 こうした教育制度を通じた文化抹殺に加え、個人レベルでの文化抹殺として里親制度も猛威を振るった。これは白人夫婦がインディアンの子どもを乳児のうちに実親から取り上げて、白人家庭で白人として育てるというもので、白人として育てられた子どもは成長してもインディアン意識自体を持たないため、学校制度を通じた文化抹殺以上に、深刻な民族性喪失を引き起こす結果となった。
 インディアン寄宿学校は1930年代に合衆国政府のインディアン政策が浄化から保護に転換された後も形を変えて存続し、カーライル校の設立以来、10万人以上のインディアンが在籍したと推定されている。また里親制度はその弊害が批判されるようになった1978年になって、ようやくインディアン児童福祉法の下で法的な規制がかけられるようになったが、現在でも全米で同法違反事案が多発しているとされる。

cafe同化目的のインディアン学校に対抗して、インディアン文化を尊重する部族学校設立の試みもないわけではなかった。その先駆者は、自身インディアンであるサラ・ウィネマッカであった。彼女はインディアン女性として初めて英語で自伝を出版した人物であり、白人社会で教育され、半同化されたインディアンであったが、一方で晩年にはネバダ州に私立学校ピーボディ・インディアン学校を設立し、自身が属したパイユート族の文化と言語の保存を試みた。しかし、資金不足などから学校は短期間で閉鎖された。こうしたインディアン自身による部族学校の設立が本格化するのは、遠く1970年代を待たねばならなかった。

2014年7月 3日 (木)

私家版松平徳川実紀(連載第11回)

十一 徳川家綱(1641年‐1680年)

 徳川家綱は3代将軍家光の側室との間に生まれた長男であったが、比較的遅く出来た子であったため、父死去を受けて将軍に就任した時は、まだ10歳であった。幼少の身で将軍位を継承できたのは、父の代までに幕府の権力基盤が安定し、事実上王朝化していたことの表れであった。
 とはいえ、就任直後には由井正雪らが間隙を突いて倒幕クーデター(慶安の変)を企てたのに引き続いて、翌年にも浪人・別木庄左衛門らによる老中暗殺謀議(承応の変)が起きた。
 いずれも関係者の密告により謀議段階で摘発されたのは、この時代までに幕府の公安機構がかなり整備されていたことを示しているが、こうした倒幕謀議続発の背景には、先代まで幕府権力確立のために行われていた諸大名に対する改易処分の多発によって大量の浪人が生じており、そうした浪人層の不満が鬱積していたことがあった。
 これを反省し、家綱の代にはこうした強権的な大名統制策が見直されたため、家綱の時代を武断政治から文治政治への転換期ととらえることもある。ただ幕府の本質が武断主義の軍事政権であることは以後も変わりなく、祖父の2代将軍秀忠時代に始まる「法と秩序」政策が緩和されただけのことである。
 逆に言えば、家綱の時代には「法と秩序」政策の緩和を可能にするだけの幕府権力の確立が見られたということであって、それを象徴するのが、寛文四年(1664年)に全国の大名に対してその所領安堵の証明として発せられた領知朱印状と、翌五年に公家・寺社を対象とした同様の領知目録の発付であった。
 治世後半には、鎖国政策の経済的土台としての農業生産の安定のため、本百姓没落の弊害を来たす農地分割相続を制限し、宗門人別改帳のような仏教寺院を利用した住民管理制度も整備した。この時代にはまた、諸国山川掟の制定のような治水政策、商人・河村瑞賢を起用した新海運路の開拓など経済政策の発展も見られ、幕府の政策立案・遂行の能力が向上した。
 そうした政策面での発展は、幕閣から「左様せい様」とあだ名されるほど、政務を基本的に幕閣合議に委ねる姿勢を示した家綱の立憲君主然とした態度と、その結果として形成された官僚制の萌芽的な集団指導体制の成果であった。
 ちなみに、家綱個人の性格としても、流刑人の食糧を心配したという幼少時の逸話に示される温情や温厚さが伝えられており、いささか時代錯誤的な用語で言えば「リベラル」な一面も窺え、そのことが「文治政治」への転換と総括されるゆえんかもしれない。
 健康面でも父以上に病弱で、武家的ではなかった。結局、実子は生まれなかったため、末弟の館林藩主・徳川綱吉を養子に取って後継指名し、延宝八年(1680年)に38歳で死去した。

2014年7月 1日 (火)

概説:公用エスペラント語(連載第11回)

五 種々の構文

Ⅲ 名詞文

「AはBである。」を表す名詞文では、連辞としてestiを用いることを原則とするが、口語体では連辞は省略することができる。

 「・・・である」を表すエスペラント語のコピュラは英語のbe動詞に相当するesti(統一活用形estas)であるが、公用エスペラント語ではこれを省略することができる。例えば「私の名前は、太郎です。」は文語体ではmia nomo estas taro.となるが、口語体ではmia nomo taro.でよい。
 なお、「私の」という人称代名詞の所有格は、口語体では人称代名詞の後置用法で置き換え可能であったから、nomo mi taro.という言い方もできる。

不定詞を用いた名詞文で連辞を省略する場合に、述部の補語が形容詞であるときは、副詞語尾-eに変形する。

 例えば「エスペラント語を学ぶことは、有意義である。」という文は、文語体ではrerni esperanton estas signihopiena.となる。主部のrerni esperantonは不定詞の名詞的用法(英語のto+不定詞に相当)であるが、この場合に連辞estasを省略するときは、「有意義な」を意味する形容詞signihopienaを副詞形signihopieneに変形する。すなわち、rerni esperanton signihopiene.となる。
 副詞形に変形されても、品詞としては形容詞のままである。このような特例的な用法がなされるのは、エスペラント語ではesperanton signihopiena(有意義なエスペラント語(を))のように、形容詞を修飾される名詞に後置する用法も許されることから、この場合との混同を避ける必要があるためである。

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