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2014年6月 8日 (日)

赤のアメリカ史(連載第8回)

二 白人侵奪国家の樹立(続き)

米英戦争と侵奪の拡大
 北西インディアン戦争に敗れたグリーンビル条約の後、北西部のインディアン勢力は10年近く閉塞していた。しかし1801年、後に合衆国大統領となるウィリアム・ハリソンが北西部で初の自治領域インディアナ準州の知事に就任すると、彼は強硬な土地拡張政策によってインディアンの土地を次々と紙切れ一枚の「契約書」で買い占めていった。
 こうした新たな状況下で、グリーンビル条約に署名しなかったショーニー族出身のテカムセら新世代のインディアン戦士は改めて白人の合衆国に対する闘いに挑む。テカムセは当初、ハリソン知事との直談判を試みるも失敗に終わると南部に赴き、この地のインディアン諸部族の同盟を募ったが、応じたのはクリーク族だけであった。この間、ハリソンも開戦準備を整え、11年、インディアナ州で両者の激突となった。
 このティッペカヌーの戦いでは、白人側にインディアン側を上回る戦死者を出したものの、インディアン側も戦力不足のため、結局、白人側が勝利する形となった。テカムセらはカナダに逃走し、その地のイギリス軍と同盟関係を結んだ。
 当時、欧州ではナポレオン戦争の只中にあり、イギリスはフランスとともに、中立を宣言したアメリカに対し海上封鎖で圧力をかけていたため、アメリカ経済は打撃を受けていた。そのうえ、敗走したインディアン勢力を庇護して、合衆国への緩衝地帯の設定をもくろむイギリスが結ぶ事態となり、アメリカの反英感情は沸騰点に達した。その結果、時のマディソン大統領は再び対英戦争に打って出た(米英戦争)。
 この戦争は、独立戦争と同様、またしても互いにインディアンを味方につけての戦争であった。戦線は全米からカナダにまで拡大し、大きく五大湖・カナダ戦線、大西洋戦線、南部諸州戦線に分かれた。五大湖・カナダ戦線では再びハリソンとテカムセが対戦したが、13年、アッパー・カナダのテムズの戦いでテカムセは戦死を遂げた。
 インディアン戦争としての性格が最も濃厚だったのは、南部諸州戦線であった。ここでは、かつてテカムセの薫陶を受けたクリーク族が蜂起した。この時、白人側部隊を指揮して戦果を上げたのが、やはり後に大統領となるテネシー民兵隊を率いたアンドリュー・ジャクソン大佐であった。彼は徹底した虐殺作戦によって白人の間で名を馳せた。
 結局、南部戦線でも白人側が勝利を収め、14年のジャクソン砦条約により、クリーク族はその土地の大半を割譲させられたのだった。米英戦争全体も、同年のガン条約をもって講和となった。
 米英戦争の結果、インディアンの土地の侵奪は南部でも進み、絶滅作戦によって多くの部族が離散・消滅していった。しかし、南部のインディアン諸部族の闘いはなお続くのである。合衆国にとっても、従来のもぐら叩きのようなインディアン戦争とは別の政策を検討すべき時期に来ていた。

米英戦争は白人の合衆国にとっては真の独立を画する戦争であった。真の独立とは、旧宗主国イギリスの干渉を排し、インディアン勢力の脅威を減じたことを意味する。そしてこの戦争の「英雄」からは、二人の大統領が誕生した。一人は南部諸州戦争で活躍した第7代ジャクソン大統領、もう一人は五大湖・カナダ戦線で活躍した第9代ハリソン大統領である。米英戦争以後の19世紀アメリカ史は全般にインディアンの民族浄化に費やされる時代となるが、ジャクソンとハリソンの二人は、そうした時代の幕開けを象徴する人物であった。ちなみに、1840年に選出され、翌年在任1か月で病死したハリソン大統領以後、20年刻みで選出された米大統領に不幸が訪れる現象はハリソン部隊に殺されたインディアン戦士テカムセにちなみ、「テカムセの呪い」と呼ばれる。

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