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2014年6月

2014年6月29日 (日)

赤のアメリカ史(連載第12回)

四 保護政策への転換

「ドーズ法」の時代
 19世紀の民族浄化作戦も完了に近づくと、キリスト教的な「人道主義」の観点から、インディアンを「保護」しようとする潮流も生じ始めた。その基本的な考え方は、インディアンを小土地所有農民化することで、自給自足させようというにあった。このような思想には、「人道主義」の白人知識人のほかに、「文明化」の結果として生まれ始めていた一部インディアン知識人も加わっていた。
 そうした「人道主義」の上院議員ヘンリー・ドーズによって提案されたいわゆる「ドーズ法」は、新たな潮流の集大成となった。この法律では、従来のインディアン保留地を部族の共有地ではなく、インディアン個人の所有地に分割した上で割り当てることが目指されたのである。
 その当初の仕組みは、インディアン割当地を25年の期限付きで合衆国インディアン事務局に信託的に保留したうえ、譲渡・賃貸の自由を制限するというものであった。この割当地を除く土地は「余剰地」として国有地化された。
 実質的な保留地解体につながるこの法政策は、西部開拓の拡大と南北戦争後の黒人奴隷解放によって土地不足に陥っていた時節柄、保留地そのものを障害とみなす勢力にとっても、好都合なものとして歓迎されたのであった。
 これに対して、いわゆる「文明化五部族」など主要なインディアン勢力は反対したが、かれらも、93年に設置された「ドーズ委員会」によって、この法政策に組み込まれていった。
 結果は、表向きの「保護」とは裏腹のインディアン部族社会の解体であった。インディアンは保留地に囲い込まれても、誰の者にも属しないと観念された土地での部族共同生活を保持していたが、ドーズ法はこれを解体し、土地を個人化してしまったのであった。これによって共同体的絆は絶たれ、白人的な核家族化の傾向が生じていった。
 そのうえに、ドーズ法の下で割り当てられたインディアン所有地も、譲渡・賃貸制限が形骸化していくにつれ、売買契約観念の薄いインディアンの無知に付け込んだ白人不動産業者によって買い占められていき、インディアンは割当地さえも喪失していく。
 1901年に第26代大統領に就任したセオドア・ローズベルト大統領は、最初の年次教書の中で、ドーズ法を「先住民の集団を解体させる巨大なエンジン」と総括し、賞賛したが、この言葉には「ドーズ法」の真の効果が集約されている。

cafeインディアン部族社会は伝統的に母系制であり、部族共同体において女性は政治的・社会的にも重要な役割を担った。しかし、ドーズ法は図らずしてこうした社会編成をも解体させ、当時のアメリカ白人社会にも浸透していた英国ヴィクトリア朝的な男女性別役割論に基づく核家族モデルをインディアン社会に注入した。これによって、世帯主である男性は農耕に従事し、女性は家庭で主婦として家事を担うということが理想とされ、女性の地位は従属的なものとなった。このような社会編成の根底からの改変は、今日に至るまでインディアン社会に禍根を残している。

2014年6月27日 (金)

私家版松平徳川実紀(連載第10回)

十 徳川家光(1604年‐1651年)

 徳川家光は前将軍・秀忠の次男であったが、兄が夭折したため、事実上は長男格であった。家光の30年近い治世前半は父・秀忠が大御所として後見した。父が寛永九年(1632年)に死去して以降は、単独統治者として実権を掌握した。
 単独統治者として最初に直面した危機は、寛永十四年(1637年)に勃発したキリスト教徒の反乱・島原の乱であった。これは幕府にとっては豊臣氏を滅ぼした大坂の陣以来の実戦経験であった。これに対し、幕府は10万人を超える兵員を動員して、翌年鎮圧した。
 家光がその創始者として記憶される「鎖国」という政策は、こうした体制を揺るがしかねないキリスト教の浸透を排除することで、幕府の支配力を強化し、対外的な独立性を保持しつつ、貿易利益を幕府が掌握するという体制護持・安全保障政策であった。それを可能とした土台は、自給自足が成立する農業生産力である。
 そのため、島原の乱の後、寛永十七年(1640年)から3年間続いた寛永の大飢饉は鎖国政策にとって最初の大きな試練であったが、幕府は農業・商業統制策と田畑の売買禁止策でこの危機を乗り切った。
 家光はこうしたいくつかの危機を通じて、幕府の文武の組織機構を整備・完成させていくのであるが、このことに関して家光個人の手腕がどの程度寄与したかについては慎重に見なければならない。前半期は父の大御所政治であったし、親政を開始した後も松平信綱、柳生宗矩〔むねのり〕、春日局〔かすがのつぼね〕といった有能な側近者に恵まれていた。
 ここで異彩を放つのは、家光の乳母であった春日局である。彼女は関ヶ原の戦いの功労者・稲葉正成の後妻から家光の乳母に抜擢され、家光の成人後も江戸城に残留し、大奥制度の整備に尽くした。しかし、彼女は大奥を越えて政務にも相当な影響力を持ち、老中を上回るとさえ言われた権勢を張るに至る。
 家光が将軍に就く前、父母が家光を嫌い、弟の忠長(後に改易)を溺愛するのを見て自殺を図った家光を春日局が止め、駿府にいた家康に家光後継を決定するよう直訴したとの逸話が残されているのも、家光の将軍就任に当たって彼女の尽力があったことの反映であろう。
 男尊女卑が徹底した近世封建時代にあって、将軍の妻でもない女性がこれほど政治的な影響力を持った例はなく、この時代において政治家と呼び得る地位にあった唯一の女性であった。  
 家光は生来病弱であったと言われるが、春日局の尽力もあり、側室との間の男子に恵まれ、二人の息子と孫が相次いで将軍に就いている。長生はせず、慶安四年(1651年)に46歳で没するが、将軍在位は28年に及んだ。

2014年6月26日 (木)

概説:公用エスペラント語(連載第10回)

五 種々の構文

Ⅰ 語順

公用エスペラント語には、語順(文成分の配列)の決まりはなく、SVO、SOV、VSO、VОS、OVS、OSVのいずれも文法的に成り立つ。

 この語順自由の原則は、正統エスペラント語と同様であるが、正統エスペラント語では標準文型はSVOであり、その余は文頭に来る単語を強調する修辞的な表現とされる。
 しかし、世界公用語としての普及を予定する公用エスペラント語では、上記諸文型に意味・ニュアンスの相違はなく、各自が母語とする民族語の基本語順に従って語順を選択してよい。従って、下記の各文はすべて等価的に「花子は茶が好きだ。」を意味する。

hanako amas teon.:SVO

hanako teon amas.:SOV

amas hanako teon.:VSO

amas teon hanako.:VOS

teon amas hanako.:OVS

teon hanako amas.:OSV

Ⅱ 疑問文

公用エスペラント語では疑問文の語順も、平叙文と変わらない。ただし、疑問詞疑問文では疑問詞は必ず語頭に置く。

 これも基本的に正統エスペラント語と同様である。ただし、正統エスペラント語では、肯否を尋ねる諾否疑問文の場合、文頭に疑問助詞Chuを置くことになっているが、公用エスペラント語では必要なく、平叙文の文末に疑問符?を置くだけでよい。例えば、次のようである(SVO型を選択)。

hanako amas teon ?(花子は茶が好きか。)

 ちなみに、これを理由を尋ねる疑問詞疑問文に変更すると、次のようである。

kial hanako amas teon ?(花子はなぜ茶が好きなのか。)

2014年6月25日 (水)

「ウーマノミクス」の深層

 アベノミクスの成長戦略で女性支援策がぶち上げられている。近年は、世界的にも資本主義が女性を持ち上げる傾向にある。こうした女性経済=ウーマノミクスが現象しているわけは、女性労働力が非正規労働化の時代にマッチしているからである。
 非正規職は出産・育児とも両立させやすい。また正規職の夫の賃金を抑制しつつ、非正規職の妻に家計を補わせる働き、あるいは夫婦とも非正規職の共働きで補い合う働きも期待できるというわけである。
 それを超えて、企業幹部・経営層を女性に譲り渡すつもりは、ウーマノミクスを称揚する男性階級の側にはない。ただアリバイ的に管理職への女性登用も進めるだろうが、それは名ばかりの名目管理職の増設という方法によるだろう。つまり男女性別役割制を本質的に転換するつもりなどないということだ。
 従って、都議会で「女性蔑視」的な野次を飛ばした議員が、女性支援策をぶち上げている党に所属していた事実も、そうしたウーマノミクスの深層心理が言葉化されて表出されたものととらえれば、決して矛盾ではないとわかるのである。

2014年6月22日 (日)

赤のアメリカ史(連載第11回)

三 民族浄化の19世紀(続き)

「最終解決」へ
 南北戦争後の国家再建とともに、インディアン問題も「最終解決」の段階を迎える。ナチスのようにガス室送りにこそしなかったが、この時期の南北戦争及び民族浄化作戦の「英雄」フィリップ・シェリダン将軍のものとされる言葉「良きインディアンとは、死んだインディアンだ」(本人は発言を否定)は、その象徴的な標語であった。
 インディアン側の抵抗も頑強であった。いったんは抑え込まれていたスー族が、再び蜂起する。原因はまたしても金鉱であった。条約によってスー族の聖地と取り決められていたブラックヒルズ(今日のサウスダコタ‐ワイオミング州境)に良好な金鉱が発見され、ゴールドラッシュが起きると、条約は反故にされ、白人の侵奪が始まった。時のグラント大統領は一応インディアンとの交渉によってブラックヒルズの割譲を認めさせようとしたが、インディアン側をこれを拒否すると、軍事占領を図った。これがブラックヒルズ戦争である。
 この戦争では1877年、モンタナ州リトルビッグホーンの戦いでインディアン側が合衆国陸軍部隊を全滅させる戦果を上げたが、結局、翌年には巻き返しに出た合衆国側の殲滅作戦が功を奏し、スー族は再び封じ込められた。
 一方、アパッチ戦争でも、グラント大統領は表面上和平を追求する姿勢を示し、アリゾナ州の故地に保留地が指定されたが、地元白人の反発もあり、アパッチ族はより不毛な保留地に閉じ込められることになった。これに抵抗したのが、ジェロニモである。
 ジェロニモが生まれたのは、今日のニューメキシコ州域、当時は隣国メキシコ領であり、彼の抵抗戦争の出発点はメキシコ軍部隊に家族を虐殺されたことによるメキシコへの憎悪にあった。その意味では、彼の闘いは本来メキシコに対するものであったが、白人の地理上はその後の米墨戦争で勝利したアメリカがメキシコから獲得した領土にまたがるものであった。
 ジェロニモは小さな戦士集団を率いて山岳ゲリラ戦を展開したが、結局、86年、アリゾナ州で米軍に降伏し、最終的にオクラホマ州で戦争捕虜として終生拘束された。これをもってアパッチ戦争は終結する。
 合衆国政府はブラックヒルズ戦争後もまだ抵抗を続けていたスー族残党に対して、90年から91年にかけて大規模な軍事攻勢をかける。この間、90年12月にはサウスダコタ州ウーンデッド・ニーで米陸軍精鋭の第七騎兵隊がスー族集団300人近くを虐殺する事件が起きた。結局、この象徴的な虐殺の年、合衆国はインディアン戦争の終結を宣言したのであった。
 この後も、20世紀初頭にかけて、なおインディアンとの散発的な戦闘が発生するが、大規模な戦争に発展することはもはやなかった。民族浄化は歴史的な時間をかけて成功した。とはいえ、文字どおり民族を絶滅させたわけではなく、保留地内に隔離した部族民の処遇という問題は次の世紀に持ち越される。

cafeインディアン戦争は大小無数にあり、そのすべてを記録すれば、それだけで大部の戦記になる。そうしたインディアン戦争の大半を担ってきたのがアメリカ陸軍である。今日世界最強を誇るアメリカ軍の力の源泉は、インディアン勢力との100年に及ぶ恒常的な実戦経験という特異な歴史に由来するものと言ってよい。そして、20世紀以降の対外戦争の中でしばしば見せるアメリカ軍の無慈悲な殲滅作戦もまたインディアン戦争での殲滅作戦にその由来があると見られる。民族浄化が一段落した合衆国は、こうして鍛えられた軍事力とそれによって侵奪した広大な領土に発達する産業を基盤に、20世紀以降、覇権国家として世界に進出していくのである。

2014年6月21日 (土)

私家版松平徳川実紀(連載第9回)

八 徳川頼宣(1602年‐1671年)

 徳川家康の晩年に生まれた御三家家祖三兄弟の中でも、歴史結果的に最も重要なキーパーソンとなるのが、紀伊徳川家家祖・頼宣〔よりのぶ〕である。彼は家康の十男として生まれ、初め水戸に所領を与えられるが、駿府転封を経て、家康没後、兄の第2代将軍秀忠の命により紀伊に転封となり、以後、紀伊徳川家の家祖となる。
 家康晩年の子であるため、隠居していた家康が手元に置き、駿府城で育成された。武芸と人格識見にすぐれ、父親や周囲からも高い評価を得ていたと言われる。一歳上の異母兄で尾張徳川家家祖となる家直が儒学の素養を持つ文人肌の謹厳な人物だったの対し、頼宣は武家的な気風が強かったようである。
 紀伊という遠方地に転封させられたのは、大名統制を強化する兄・秀忠が兄弟に対しても自由に転封させる権力を持つことを知らしめる一種の見せしめの意味があったと見られる。結果として成立した紀伊徳川家は、後世、秀忠系の徳川宗家が断絶した後、時の当主・吉宗が第8代将軍を継承して以来、格式では上位にあった尾張徳川家を押さえて宗家の地位に立ち、幕藩体制の存続保証に大きな寄与をすることになったのだった。
 頼宣は地方領主としても手腕を発揮し、紀州藩の基礎を築き、城下町和歌山を繁栄に導いた。紀伊藩の政策や制度は後に吉宗によって中央の幕府にも持ち込まれる。
 1651年の慶安の変に際しては、首謀者・由比正雪が頼宣の印章を偽造したことから、クーデター謀議への関与を疑われ、江戸に留め置かれる波乱もあった。有能さが禍して謀反の濡れ衣を招いたものと思われるが、頼宣の巧みな弁明が功を奏し、間もなく嫌疑は晴れた。彼は甥の第3代将軍家光よりも長生し、最晩年には徳川氏長老として重きをなした。

九 徳川頼房(1603年‐1661年)

 徳川頼房は家康の十一男かつ末男として生まれ、二人の異母兄とともに駿府城で育成された。頼宣の紀伊転封に伴い、水戸に所領を与えられるが、石高も少なく、継母に当たる父・家康側室の養子とされ、1636年まで徳川姓を許されないなど、兄たちよりも冷遇された。
 家康の没後、江戸へ転居するが、少年時代の頼房は服装や態度が乱れ、一種の不良少年のような生活ぶりだったと伝えられるのも、こうした末男としての冷遇のゆえかもしれない。この頃、一歳年下の甥で、後の第3代将軍家光の知遇を得たと見られる。
 しかし、成人後は態度を改め、所領の水戸藩をたびたび訪れ、藩法令制定や城下町水戸の造成など、水戸徳川家の家祖として水戸藩の基礎を築いた。三男で第2代水戸藩主となる光圀は、彼をモデルとする「水戸黄門」説話の主人公として父よりも有名になった。
 頼房は少年時代を共にしたらしい家光から相談役として重用されたことから、家光の将軍就任後はほぼ江戸定府となる。その結果、頼房に始まる水戸徳川家は尾張徳川家や紀伊徳川家ほどの家格は持たないものの、水戸藩主は将軍の事実上の補佐役として参勤交代免除・江戸定府が義務づけられたことから、「副将軍」の俗称も生まれるようになった。
 最後の将軍・徳川慶喜が紀伊徳川家の流れを汲む一橋家の養子に入る形ながら、「副将軍」格の水戸藩から出たのも、決して偶然ではなく、幕藩体制の最終的な幕引き役にはふさわしかったと言える。

私家版松平徳川実紀(連載第8回)

七 徳川秀忠(1579年‐1632年)

 徳川秀忠は家康の三男であったが、長兄・信康は秀忠が誕生した年に素行不良等の理由で父の命により切腹し、次兄の秀康(越前松平家家祖)は政略から豊臣氏、次いで結城氏の養子に出されたため、三男の秀忠に将軍位が転がり込む幸運に恵まれた。
 彼は武将としては才覚がなく、関ヶ原の戦いでは城攻めに失敗するなど、めぼしい実績に乏しい。当時の大名級武家としては珍しく正式の側室を持たなかったことから俗に恐妻家であったと言い伝えられるなど、性格も温厚で武家的ではなかったようである。 
 しかし、家康から早くに譲位を受け、家康の後見下に第2代将軍として歩み始め、帝王学を授けられた。その消極的な性格も、戦乱に終止符を打ち、発足直後の新体制を守っていく「守成」(家康)の時代を統治するには適合的であったとも言える。
 実際、秀忠は、父・家康との共同統治、家康没後の単独統治、息子・家光に譲位後の大御所統治の各時期を通じて、公家諸法度・武家諸法度などの封建基本法の整備によって朝廷と諸大名を統制し、幕藩体制の基礎を固めた統治者としての実績が認められる。
 ただ、秀忠の時代は体制固めの段階であり、積極的な政策展開は乏しい。その代わり、一族を含む諸大名の改易・転封を繰り返し、幕府の権力基盤の強化に努めている。
 特に大きな改易処分としては、関ヶ原で随一の功績を上げ、広島藩主に封じられていた福島正則の改易がある。広島城を無断改修したことを武家諸法度違反に問うたものであったが、実際は豊臣氏遺臣である福島氏の増長を恐れてのことと考えられる。
 そのほか、父・家康から不興を買っていた異母弟(家康六男)の松平忠輝も改易・配流処分とした。皮肉にも、流刑地諏訪にあって、忠輝は家康の息子たちの中では最も長い91歳まで長生した。
 晩年の大御所時代には、娘を入内させていた朝廷に対しても厳しい処分を下している。寛永四年(1727年)のいわゆる紫衣〔しえ〕事件である。
 この年、時の後水尾天皇は幕府に無断で複数の高僧に紫衣着用の勅許を出したところ、秀忠はこれを公家諸法度違反に問い、勅許の無効と紫衣の没収を命じた。この処断に反発し、抵抗した高僧らは流刑に処せられた。天皇の権威を貶める幕府の処断に憤激した天皇は、一方的に退位してしまう。しかし、幕府はこの一件を通じて、朝廷に対する法的な優位性を確立した。
 このように、秀忠の治世は朝廷・諸大名らへの法的な処分が目立ち、法と秩序の維持に専念していたことが窺える。まさに「守成」の政策であった。それを可能にした秀忠の権威は、独自のものというより、やはり創業の父からの借りものの要素が強く、そのためにも父・家康をその遺命を越えてことさらに神格化する必要があったのだろう。

2014年6月20日 (金)

概説:公用エスペラント語(連載第9回)

四 接辞

 エスペラント語では、接辞体系が極めて発達していることが特徴である。そのため、基礎的な語基に接辞を付加して様々な品詞を派生させることができ、実質的な単語の数を制限して学習を容易にする効果がある。
 中でも、女性形の接尾辞-inoと反意の接頭辞mal-(l音のない公用エスペラント語ではmar-と表記)は正統エスペラント語の特徴を示す代表的な接辞である。
 しかし、全世界の公用語としての意義を持つ公用エスペラント語は、反差別の価値観を強く内蔵させたものでなくてはならず、そうした観点から、上記接辞の運用に関して制限がかかる。

男性形から女性形を派生させる接尾辞-inoは、公用エスペラント語では廃止し、女性形に固有の単語を充てる。

 例えば、biro(男性)に対しbirino(女性)ではなく、女性には固有の単語hemoを充てる。またpatro(父)に対しpatrino(母)ではなく、母には固有の単語matroを充てる。

否定の接頭辞mar-は差別的ニュアンスを帯びる場合には廃止し、固有の単語を充てる

 例えば、sano(健康)に対しmarsano(病気)とするのは、健康を基準として病気=不健康という差別的ニュアンスを帯びるので、病気には固有の単語iroを充てる。ただし、病気とは別に「不健康」という否定的なニュアンスを示す語として、marsanoを用いることは許される。
 またjunuro(若者)に対しmarjunuro(老人)とするのは、若者を基準として老人=非若者という差別的ニュアンスを帯びるので、老人には固有の単語erduroを充てる。

 一方、barmo(熱)に対しmarbarmo(冷)、hermi(閉じる)に対しmarhermi(開く)などは特段差別的ニュアンスを帯びないので、そのままでよい。
 やや微妙なのは、ronga(長い)に対しmarronga(短い)のような例である。これも長いことを基準にして短いことを「長くない」と表現する点に差別的ニュアンスを嗅ぎ取ることはできるが、見方によっては端的に「短い」と表現するより婉曲的とも言えるので、これは維持されてよい。

2014年6月19日 (木)

残業代ゼロ時代

 政府が検討する残業代ゼロ政策の導入は、1985年の派遣労働の解禁以来、労働面でまた新たな段階の始まりを画する。現時点では年収1千万円以上限定と言っているが、派遣解禁当時もそうだったように、一部例外から始めて、なし崩しに拡大していくやり方が踏襲されていくだろう。「蟻の一穴」作戦である。最終的には派遣労働の残業代ゼロもあり得る。
 派遣といい、残業代ゼロといい、資本の賃金ゼロ化作戦の一環としてつながっている。派遣は賃金支払いを丸ごと派遣企業に委託する、残業代ゼロは本来支払うべき追加賃金をカットすることを意味するからである。
 残業代ゼロは成果主義賃金制度とは異なり、労働時間の外延的延長策の一つである。成果主義は労働時間の内包的延長策だが、「成果」の評価基準が難しく、あまり成功していないと言われる。そこで極めて単純に労働時間を延長して延長分をタダ働きさせようというわけである。ここで、無償残業をよくこなせば成果給をアップするという形で、成果主義と組み合わせる方法もあり得るだろう。
 いずれにせよ、これまで比較的労働条件に恵まれていた上級労働者層にも、こういう形で労働条件悪化の波が寄せてきているということである。これをマイナスにばかり取るべきでなく、むしろ革命論的には労働者階級の上下層分裂を修復するチャンスでもあると受け止めることができる。

2014年6月18日 (水)

赤のアメリカ史(連載第10回)

三 民族浄化の19世紀(続き)

西部開拓時代と民族浄化
 合衆国は強制移住政策によって、インディアンを西部保留地へ追い込んだとはいえ、その西部の「未開拓地」にも白人が押し寄せてきた。西部開拓時代の始まりである。西部への領土拡張をアメリカ白人の運命とみなす「マニフェスト・デスティニー」がそのプロパガンダであった。
 西部の大平原地帯には、元々様々な狩猟騎馬民族系のインディアン諸部族が割拠していたが、五大湖方面から移住してきたスー族が次第に他部族を圧倒して、主流的な部族となっていた。しかし、かれらもまた1851年の二つの条約により、今日の南北二つのダコタ州域を含んでいたミネソタ準州内の保留地に囲い込まれていた。
 合衆国は保留地で農業を強制したが、保留地は不毛で農業に適しなかった。南北戦争の影響もあり、約束されていた食糧配給が停止され、飢餓に陥ったスー族は62年、武装蜂起するに至った。時は南北戦争の渦中であり、当初合衆国政府は対応できず、多くの白人が襲撃殺害される中、リンカーン大統領はようやく殲滅作戦を指示し、民兵隊が出動して鎮圧に至った。
 リンカーン政権は見せしめ的な報復処置として、多数のインディアンを即決軍事裁判にかけて死刑に処した。追い打ちをかけるように、リンカーン政権は先の保留地条約を一方的に破棄し、スー族を別の保留地へ追放するか、残党は皆殺しにするかした。
 一方、南西部ではナバホ族がスー族同様に保留地で窮乏し、蜂起すると、リンカーンは殲滅作戦を命じ、徹底した焦土作戦で鎮圧したうえ、部族を約500キロ東の強制収容所へ徒歩行軍させた。多くのナバホ部族民は行軍途上あるいは収容所で命を落とした。チェロキー族「涙の旅路」と同じやり方であった。
 リンカーン大統領はまさにスー族暴動のあった62年に歴史的な奴隷解放宣言を行い、人権史に名を刻んだが、その裏ではインディアン殲滅作戦を命じていたのであった。黒人奴隷は奴隷として使役される存在であったから、「解放」される余地があったが、インディアンはそもそも殲滅浄化の対象であったから、「解放」の余地もないのであった。
 ところで、南西部ではナバホ族とも近縁だが、ナバホの敵部族でもあり、より有名なアパッチ族が頑強な抵抗勢力となった。アパッチ族の居住領域には良好な金鉱が存在していたため、白人にとってアパッチの排除は不可欠であった。
 アパッチ族は山岳ゲリラ戦を得意とし、有能な戦士を多く輩出したため、容易に降伏せず、戦争は長期戦に持ち込まれた。有名なジェロニモもそうしたアパッチ族戦士で、南北戦争の頃から、1880年代後半まで断続的に20年以上にわたって続いたアパッチ戦争後半の主役であった。

cafeインディアン浄化作戦と同時並行的に行われていたのが、アメリカバイソン狩りである。白人が侵入する以前、カナダを含めた平原地帯に数千万頭も生息していたと言われるアメリカバイソンは、19世紀末には絶滅寸前にまで追い込まれた。合衆国政府推奨のもとに行われたバイソン狩りの目的は皮革や牛の放牧地確保などいくつかあったが、狩猟民族であるインディアンの主食であったバイソンを絶つことでインディアン殲滅を図るという政治的な目的が含まれていた。この政策は的中し、実際インディアンは半ば自発的に保留地に入って、政府の配給に依存せざるを得なくなっていったのだった。民族浄化にはこうした「動物浄化」も伴われていた。

2014年6月17日 (火)

プロレタリア的投資法

 賃金・年金に依存できない時代、プロレタリア階級も投資を趣味にとどまらず、生活の手段として正面に据えるべき時代が到来しているが、プロレタリア階級にふさわしい投資とは何か。
 まず、投資を期間的に短期と長期に分けると、プロレタリア投資にふさわしいのは長期投資である。従って、頻繁な株式売買で当座の利益を出すよりも、投資信託の形で長期保有することが望ましい。プロレタリア投資の主目的は老後資金の形成にあるのだからである。
 投資信託にも配当的な分配金があるものとないものの二つのタイプがある。長期的資産形成という点では分配しないタイプのほうが利殖効果は高いが、プロレタリア投資にふさわしいのは、分配型である。なぜなら、プロレタリア投資は資産形成とともに、生活手段でもあるので、賃金や年金を補充する収入を確保できることが望ましいからである。ただ、余裕資金を無分配型投信で利殖する形で、バランスを取ることができればベストであろう。
 いずれにせよ、投資会社に委託することになる。この場合、低収入のプロレタリアは手数料の高い大手を避けたい心理が強く働くが、逆説的にもプロレタリアこそ割高な大手がふさわしい。たしかに高い手数料負担は損失だが、経営破綻や詐欺・背任被害の危険が相対的に低い大手のほうが大きな視点で見れば、「割安」なのである。
 もちろん、投資会社の手数料稼ぎの餌食とならないよう、また投資商品の選択に当たっては自ら情報を集め、内容を見極め、選定することが、ブルジョワ投資者以上に重要ではある。

2014年6月16日 (月)

赤のアメリカ史(連載第9回)

三 民族浄化の19世紀

強制移住政策
 米英戦争後の合衆国は、新たな段階に入る。すなわち、真の独立を得て、本格的な国作りが始まるのである。そのことは、インディアン政策にも変化を与えた。白人国家アメリカ合衆国を障害なく発展させていくためには、インディアン勢力の徹底排除が必要であった。そのために、従来のようなもぐら叩き戦術ではなく、より政策的な排除―民族浄化―が企てられた。
 先鞭をつけたのは、米英戦争の「英雄」でもあったジャクソン大統領である。1830年のインディアン移住法がその根拠法となった。これによって、特に南部のインディアン諸部族を西部に設定したインディアン保留地に囲い込むことが狙われたのだ。
 その基本は、インディアン部族と条約を締結し、予め確保しておいた不毛地(保留地)に囲い込むというものであった。これは表向き合意に基づいて行われるが、部族が条約締結を拒否する場合は、武力をもって殲滅するとされた。言わば、殲滅の威嚇による国内追放政策である。法律名Indian Removal Act には、インディアンの「移転」と「除去」の二重の意味が込められていたのだ。
 実際のところ、こうしたインディアン強制移住政策のコンセプトは、合衆国建国の父の一人で、第3代大統領トーマス・ジェファーソンがすでに提起していたものであった。ジャクソン時代の移住法はこうした政策を正式に立法化し、法的根拠を明確にしたものである。
 これに対するインディアン側の反応は当然にも否定的であったが、対応は分かれた。元来はミシシッピ河流域を拠点としていたチェロキー族は、交渉を通じて反対した。
 中心となったのは、部族代表者ジョン・ロスであった。この時代にはインディアン部族の中に白人との混血系の有力者が生まれ始めており、彼もその一人であった。ロスは白人的なやり方で粘り強くロビー活動を行ったが、成果は出ず、チェロキー族は半ば強制的に集団移住させられる。
 この時、1万5千人を越すチェロキー族が、ジョージア州を中心とした南部から今日のオクラホマ州まで約2000キロに及ぶほぼ徒歩による行軍を強いられ、途上で数千人が疫病などで命を落としたことから―その中にはロスの最初の妻もいた―、「涙の旅路」と称されるようになった。
 一方、戦争に訴える部族もいた。フロリダ州を拠点とする複合部族セミノールはその代表であった。フロリダは元スペイン植民地であったが、米英戦争終結後、ジャクソンが侵攻・占領、21年にスペインはフロリダ譲渡に同意し、アメリカ領となっていた。合衆国政府はこの地のセミノールを例によって西部へ追い出そうとしたが、セミノールは武力で抵抗し、戦争となった。
 このセミノール戦争は35年から42年まで続く久々の長期戦となり、泥沼化したゲリラ戦からベトナム戦争になぞらえられることもあるが、高額の戦費と大量の兵員をつぎ込んだ合衆国側の勝利に終わり、セミノールも西部保留地への移住を強いられた。しかし、セミノールはなおも抵抗を続け、50年代後半にもう一度戦争を起こした。
 こうして、西部保留地に集住させられたインディアン諸部族は自発的に白人文化に同化していくが、合衆国は保留地に合衆国の正式領土としての地位を与えることはなかった。それは最初の明確な人種隔離政策であり、こうした隔離を土台として白人国民国家としてのアメリカ合衆国が本格的にスタートするのである。

cafeこの時代、チェロキー族のように「文明化」したインディアン部族民は、血統的にも白人との同化が進んでおり、「涙の旅路」の行軍を監督し、部族民を率いて集団移住を実現させたことから「モーゼ」になぞらえられるジョン・ロスは母方から部分的にチェロキーの血を引いているに過ぎなかった。父は裕福なスコットランド系交易業者で、ロス自身も黒人奴隷を所有する農園主兼交易業者であった。「涙の旅路」で強制移住を強いられたチェロキー族の中には彼のような奴隷所有者が相当数おり、黒人奴隷も共に行軍させられたという。富裕なインディアンは、保留地移住後も、黒人奴隷を使役してプランテーションを経営した。奴隷解放以前には、富裕なインディアンのほうが黒人より社会階層上優位にあったことを示す事実である。

2014年6月15日 (日)

資本主義的地下経済

 近時、GDP統計に禁制品や違法サービスなどを含む地下経済を取り込む動きが欧州を中心に強まっている。ドイツの研究機関の推計によると、OECD(経済協力開発機構)加盟39か国の地下経済規模は、2010年でGDPの平均18.3%に達し、日本でも11%と推計されるという。
 地下経済といえば、かつては自由な商業活動が認められない統制的な社会主義経済体制における闇市場の代名詞であったが、基本的に商業活動が自由な資本主義経済体制下の地下経済は、麻薬や偽ブランド品などの禁制品の密売や売春などの違法サービスといったまさに闇の部門になってくる。資本主義は表向きこれらを法的に違法としつつ、経済統計上は正規の経済活動としてカウントしようとしているわけである。
 このことは、単にGDP数値の「かさ上げ」という統計操作にとどまらず、晩期資本主義がいよいよ「表」の経済活動だけではまかなえず、「裏」の経済活動を取り込まなければ維持できなくなり始めた徴候と言える。
 一部諸国では麻薬売買を解禁して、禁制品市場を合法化するという「表」と「裏」の垣根を取り払う戦略にすら出ているところもある。これも資本主義のなりふり構わぬ延命策と言えるが、代償として麻薬の蔓延による社会の退廃という自滅を招くことになるだろう。

2014年6月12日 (木)

私家版松平徳川実紀(連載第7回)

六 徳川家康(1543年‐1616年)

 今さら言うまでもない徳川宗家の創始者である。彼は先代松平広忠の唯一の男子として生まれたが、彼が生まれた時期の松平氏は歴史上最も苦境の中にあった。広忠の項でも述べたとおり、幼少の家康は今川氏の人質として移送される途中、織田氏に略取され、しばらく尾張に拘束されるも、間もなく捕虜交換の形で今川氏側に移される。
 そのため、彼は今川氏家中で育成されることになるが、その待遇は決して悪いものではなかったとはいえ、家格の違いから慇懃な軽侮を受けていた。そのことも、彼をして早期に今川氏離脱、本来は敵方織田信長との同盟に走らせたのであろう。この選択は間違っておらず、三河の再統一に成功し、さらに信長の知遇を得て有力戦国大名へのし上がるチャンスとなった。
 その後、豊臣秀吉家臣となってさらに躍進を続け、最終的に幕府を開くまでの軌跡はあまりにもよく知られているので、繰り返すまでもなかろう。ただ、その事績は戦国大名としてのそれと開府後の統治者としてのそれとに分けてとらえることができる。
 戦国大名としての家康の成功要因は、彼が武略・知略・強運という戦国大名に必要な三要素すべてを備えた冷徹な人間だったことにあった。その性格は、信長の不興を買った長男に切腹を命じ、次男は豊臣氏の養子に出すという継嗣断絶につながりかねない決断すら辞さなかったことにも表れている。
 そうした冷徹さは政権に就いた後も変わらなかった。実際、家康が体制固めのため旧主家の豊臣家を滅ぼした過程を見れば、その狡猾さと残酷さはまさしく戦国大名そのものであった。
 家康の統治者としての時期は大御所時代を含めても長くないため、その評価はやや難しいが、幕藩体制の土台となる大名知行制や朱印船による管理貿易などは前代の豊臣政権からの継承であり、家康独自の政策は乏しい。
 彼はこの時代の封建支配者の例に漏れず、父権的・権威主義的ではあったが、信長や秀吉のような独裁者ではなく、松平氏の伝統であったらしい合議を重視した。
 江戸幕府の統治機構も松平氏の家政機構を引き継いで「庄屋仕立て」と揶揄されるほど簡素なものであったが、これは官僚的セクショナリズムが蔓延するのを防いだ。官僚制が未発達なため、将軍が代われば幕府高官も多く入れ替わり、体制内でプチ政権交代が起きるような構造であった。このことには体制を護持しながら失政の早期転換を可能にする効果もあっただろう。
 家康は長男を自刃させ、次男を養子に出してもまだ後続の男子に恵まれ、そこから家系の持続性を保証する多くの分家を輩出した点では、松平氏の史実上の家祖である松平信光のような人物でもあった。彼は祖父の清康が名乗り始めた源氏に連なる新田氏系世良田氏流得川氏の名乗りを改めて行い、「徳川」の氏族名を案出して、家系を飾ることも怠らなかった。
 家康が、源氏系足利将軍家の子孫として残っていた喜連川頼氏が関ヶ原に参陣しなかったにもかかわらず、主従関係を結ばないまま事実上の大名格として下野に喜連川藩を立藩させ、御所号をも認めて厚遇したのも、こうした源氏系仮冒と連動した政策であったのであろう。

2014年6月10日 (火)

概説:公用エスペラント語(連載第8回)

三 基本品詞(5)

Ⅵ 前置詞/相関詞

 エスペラント語は英語と同様、多くの前置詞を持つ前置詞型言語であり、その点では日本語のように名詞の後に付加する助詞で単語をつなぐ後置詞型言語とは大きく異なっている。

エスペラント語の前置詞は格支配せず、後続名詞は前置詞による語尾変化をしない。

 正統エスペラント語16箇条の第8条は「すべての前置詞は主格を支配する。」と言い表すが、要するに格支配をしないということにほかならない。この点は英語と同様であり、単純明快である。
 ただ、前置詞は種類が多く、意味も多義的であるため、学習者はしばしばその選択に迷うが、エスペラント語には特定の意味を持たない融通前置詞jeがあり、便利である。例えば、tiu chi romano meritas je premio.(この小説は賞賛値する。)のように用いられる。

 ちなみに、正統エスペラント語では目的格-nを転用して、「・・・へ」という方向を表したり、上記の融通前置詞jeに代替させたりする後置詞的用法もある。これはこれで便利な用法ではあるが、特定の格を別の意味に転用するのは煩雑になるので、公用エスペラント語ではこの用法は用いない。

 ところで、エスペラント語には相関詞と呼ばれる一群の品詞がある。それは指示(ti-)、疑問(ki-)、不定(i-)、普遍(chi-)、否定(neni-)を表す限定詞の総称であり、実質的には指示詞、疑問詞、不特定詞、普遍詞、否定詞として独立の意義を持つが、上掲の共通語幹を基本に統一的な語形変化をするため、ひとくくりにされる。
 この点、公用エスペラント語では定冠詞が廃止されるため、指示相関詞tiu(その、あの)や近称詞chiを組み合わせてtiu chi(この)といった指示表現で定冠詞機能を代替させることができる。

2014年6月 8日 (日)

赤のアメリカ史(連載第8回)

二 白人侵奪国家の樹立(続き)

米英戦争と侵奪の拡大
 北西インディアン戦争に敗れたグリーンビル条約の後、北西部のインディアン勢力は10年近く閉塞していた。しかし1801年、後に合衆国大統領となるウィリアム・ハリソンが北西部で初の自治領域インディアナ準州の知事に就任すると、彼は強硬な土地拡張政策によってインディアンの土地を次々と紙切れ一枚の「契約書」で買い占めていった。
 こうした新たな状況下で、グリーンビル条約に署名しなかったショーニー族出身のテカムセら新世代のインディアン戦士は改めて白人の合衆国に対する闘いに挑む。テカムセは当初、ハリソン知事との直談判を試みるも失敗に終わると南部に赴き、この地のインディアン諸部族の同盟を募ったが、応じたのはクリーク族だけであった。この間、ハリソンも開戦準備を整え、11年、インディアナ州で両者の激突となった。
 このティッペカヌーの戦いでは、白人側にインディアン側を上回る戦死者を出したものの、インディアン側も戦力不足のため、結局、白人側が勝利する形となった。テカムセらはカナダに逃走し、その地のイギリス軍と同盟関係を結んだ。
 当時、欧州ではナポレオン戦争の只中にあり、イギリスはフランスとともに、中立を宣言したアメリカに対し海上封鎖で圧力をかけていたため、アメリカ経済は打撃を受けていた。そのうえ、敗走したインディアン勢力を庇護して、合衆国への緩衝地帯の設定をもくろむイギリスが結ぶ事態となり、アメリカの反英感情は沸騰点に達した。その結果、時のマディソン大統領は再び対英戦争に打って出た(米英戦争)。
 この戦争は、独立戦争と同様、またしても互いにインディアンを味方につけての戦争であった。戦線は全米からカナダにまで拡大し、大きく五大湖・カナダ戦線、大西洋戦線、南部諸州戦線に分かれた。五大湖・カナダ戦線では再びハリソンとテカムセが対戦したが、13年、アッパー・カナダのテムズの戦いでテカムセは戦死を遂げた。
 インディアン戦争としての性格が最も濃厚だったのは、南部諸州戦線であった。ここでは、かつてテカムセの薫陶を受けたクリーク族が蜂起した。この時、白人側部隊を指揮して戦果を上げたのが、やはり後に大統領となるテネシー民兵隊を率いたアンドリュー・ジャクソン大佐であった。彼は徹底した虐殺作戦によって白人の間で名を馳せた。
 結局、南部戦線でも白人側が勝利を収め、14年のジャクソン砦条約により、クリーク族はその土地の大半を割譲させられたのだった。米英戦争全体も、同年のガン条約をもって講和となった。
 米英戦争の結果、インディアンの土地の侵奪は南部でも進み、絶滅作戦によって多くの部族が離散・消滅していった。しかし、南部のインディアン諸部族の闘いはなお続くのである。合衆国にとっても、従来のもぐら叩きのようなインディアン戦争とは別の政策を検討すべき時期に来ていた。

cafe米英戦争は白人の合衆国にとっては真の独立を画する戦争であった。真の独立とは、旧宗主国イギリスの干渉を排し、インディアン勢力の脅威を減じたことを意味する。そしてこの戦争の「英雄」からは、二人の大統領が誕生した。一人は南部諸州戦争で活躍した第7代ジャクソン大統領、もう一人は五大湖・カナダ戦線で活躍した第9代ハリソン大統領である。米英戦争以後の19世紀アメリカ史は全般にインディアンの民族浄化に費やされる時代となるが、ジャクソンとハリソンの二人は、そうした時代の幕開けを象徴する人物であった。ちなみに、1840年に選出され、翌年在任1か月で病死したハリソン大統領以後、20年刻みで選出された米大統領に不幸が訪れる現象はハリソン部隊に殺されたインディアン戦士テカムセにちなみ、「テカムセの呪い」と呼ばれる。

2014年6月 7日 (土)

ニート問題展望

 6月3日発表の政府白書で、ニートが3万人減少と宣伝された。帳尻あわせの批判もあるが、政府がニート撲滅に躍起になっていることはたしかである。だが、日本におけるニート現象はまさに晩期資本主義の特徴を示している。
 それはいわゆる途上国で共通して見られる貧困・未就学が要因の「失業」とは異なり、相対的に豊かで教育も整備された中での労働からの排除―「排業」―である。こういう現象が起こるのは、日本のような晩期資本主義国では高度情報化・電子化の進展で、大量労働動員は必要なくなったからである。日本が得意とする産業用ロボットの開発普及が進めば、その傾向は一段と進む。
 ただ、資本としては未熟練労働力として安く使い捨てできるニートの潜在労働力に一定の魅力は感じている。また自室でゲーム三昧というライフスタイルのニートは、娯楽資本にとっては有力な消費者という一面もあろう。一方、政府は高度蓄積期の「国民皆労」政策をいまだに捨て切れないので、ニート現象を国辱のように受け止めて、撲滅に躍起となっている構図である。
 これまでにも書いたように、晩期資本主義時代は労働中心の生活形態の終焉期でもある。皆がそれなりに職を見つけられた幸せな時代は過ぎた。とはいえ、資本主義が続く限りニート化の遷延は将来の生活難につながるので、対策は必要である。
 基本的には、親からの贈与・相続資産の投資運用を基本に将来設計するのが合理的であろう。ある種の貴族的生計となるが、晩期資本主義時代は中流労働者階級が準有産階級化している時代でもあるから、不可能ではない。そのためには親世代の理解も必要だが、それは国民皆労世代が多い親世代がいかに時代の大きな変化を直視できるかにかかる。

2014年6月 6日 (金)

私家版松平徳川実紀(連載第6回)

五 松平広忠(1526年‐1549年)

 松平徳川氏の全史を通じて、この人ほど薄幸の当主はいなかっただろう。広忠は父の清康が守山崩れで不慮の死を遂げた直後に宗家乗っ取りを図った叔父の松平信定一派によって岡崎城を追放され、従者らと伊勢方面を放浪することとなった。
 しかし、家臣らの尽力により、敵の今川氏の庇護を得ることに成功し、天文六年(1537年)には岡崎城に帰還することができた。しかし、これは松平氏が今川氏に従属することを意味した。
 そのうえに、父・清康が狙った織田氏から逆に攻め込まれる事態となる。広忠帰還から間もない同八年(39年)には織田信秀(信長の父)が松平氏の前の拠点・安祥城に攻め込み、奪取した。これを足がかりに西三河征服を狙う織田氏に対し、同じくこの地を狙う今川氏も軍勢を送って対抗した。こうした松平氏を盾に取った織田‐今川間の戦闘が、1540年代に二度起きた。
 1548年に起きた二度目の合戦は大規模であった。この時、広忠は水野氏、戸田氏という有力家臣の相次ぐ裏切りにもあい、窮地に陥った。
 広忠が、織田方に寝返った水野氏の出であった妻(家康の生母)・於大の方を離縁し、今川氏の庇護を固めるため家康を人質として差し出さなければならなかったのも、この時であった。家族離散である。
 彼は戸田氏を買収して今川氏の人質として移送中の幼い家康を略取した信秀から織田氏傘下に寝返るよう脅迫されたが、拒否した。広忠は息子の身の安全より今川氏への恩義を優先するまさに封建的な忠誠心に満ちた人物でもあったようだ。
 結局、この時は今川方が勝利して、今川庇護下での松平氏の地位は保全されたのであるが、広忠は天文十八年(49年)、急死してしまう。享年22歳。死因には病死説と暗殺説があり、真相は不明である。当主の死因すら正確に記録されないほどに当時の松平氏家中は混乱・衰微を極めていたのであろう。
 ただ、継嗣の家康はこの時まだ織田氏の下に拘束されていたため、広忠の急死により、岡崎城は城主不在という非常事態に陥る。そこで今川氏側では、家康の奪還を図り、織田氏支配下にあった安祥城に攻め込み、一度は失敗したものの、二度目に城代で信秀の息子・信広を捕虜とすることに成功、信広との捕虜交換という形で家康を奪還した。この後、岡崎城には今川氏の代官が派遣され、西三河は完全に今川氏のものとなった。
 こうして、広忠時代の松平氏は大きく後退したため、広忠は弱体の当主として記憶されるようになった。しかし、凋落の発端となったお家騒動は広忠に責任のないことであり、当時の松平宗家は今川氏を頼る以外に存続の道はなかったこともたしかであった。ただ、広忠最大の「功績」は、松平氏を再興する以上の功績を上げることになる徳川家康を生み出したことにあるかもしれない。

2014年6月 5日 (木)

私家版松平徳川実紀(連載第5回)

四 松平清康(1511年‐1535年)

 松平清康は、家臣団の信頼がなかった父・信忠の早期隠居を受けて、幼少で家督を相続した。祖父・長親の後見があったとはいえ、彼は周囲の期待どおり早くから武将としての才覚を発揮し始める。まだ15歳の頃には、宗家に対して反抗的であった大草松平家の居城を攻めて降伏させ、同家の拠点であった岡崎城を奪取し、所領を併合した。これは、松平宗家が三河の平野部を根拠地とし、三河統一を達成するための足がかりとなった。
 実際、清康は以後、本来の拠点である西三河から東三河方面にも触手を伸ばし、この地の牧野氏、戸田氏、菅沼氏、奥平氏、熊谷氏など、孫の家康による江戸開府後に大名に取り立てられることになる有力国人領主を次々と打ち破って、1530年頃までに三河統一に成功した。清康まだ20歳にならない時分であった。
 三河統一から間を置かず、当時強大な織田氏が支配する尾張国の奪取を狙い、織田信長の叔父に当たる信光が拠る守山城に攻め込んだ。この時、清康の真の標的は信光の兄で信長の父に当たる織田信秀であった。清康はこの守山城攻めの時、部下のある勘違いにより、殺害されてしまう。
 天文四年(1535年)に起きたこの不可解な謀反事件(守山崩れ)の顛末は、家臣・阿部定吉に織田氏内通の風評が流され、陣中で突然馬が騒いだことを父が討たれたものと錯覚した定吉の息子が清康を斬殺したというものであった。 
 これを奇禍として、家督を狙っていた叔父に当たる桜井松平家の信定が介入してきた。彼は清康の幼少の息子・広忠を岡崎城から追放して、城を占拠した。事実上の宗家乗っ取りであった。こうした手際のよさから推すと、守山崩れは自身、織田氏と密接な姻戚関係にあり、織田氏の真の内通者であった疑い濃厚な信定と娘の夫でもあった信光が仕組んだ謀略だったのではないかという仮説も、確証はないものの成り立ち得ると言えるだろう。
 これに対し、追放された広忠を奉じるグループは敵の今川氏に帰順して庇護を取り付けることに成功した。今川氏の後ろ盾を得て、広忠は岡崎城に帰還、信定も家督継承を諦め、本拠に撤退した。松平宗家はこのお家騒動を乗り切ったが、代償として今川氏に従属することになったのであった。
 清康が長生していれば、おそらく松平氏は彼の代で戦国大名にのし上がっていたであろうが、清康早世後の一族の内紛により、かえって松平氏は三河での支配権を失い、弱小領主に逆戻りしてしまった。
 ちなみに、松平氏が新田氏系世良田氏流を公称し始めたのも、清康からと言われている。これは一度は三河統一に成功し、戦国大名に手が届きかけた清康が家系を飾るために吹聴し始めた伝説だったのであろう。

2014年6月 2日 (月)

概説:公用エスペラント語(連載第7回)

三 基本品詞(4)

Ⅴ 形容詞・副詞

形容詞は、語根に‐aを付加して得られる。

 形容詞の品詞語尾は、‐aである。品詞語尾‐oを取る名詞と組み合わせると、例えばbona homo(良い人)となる。名詞を直接修飾する場合は、前置・後置いずれでもよく、先の例ではhomo bonaと後置しても、意味は変わらない。

形容詞は、修飾される名詞の単複や格にかかわらず、一定である。

 正統エスペラント語では修飾される名詞が語尾‐jを取る複数形のときは、形容詞も連動して複数形語尾‐jを取るという規則があるが、公用エスペラント語ではこの規則を廃し、形容詞は名詞の単複に連動せず、一定である。従って、例えば上例ではbona homoj(良い人々)でよい。
 ちなみに、正統エスペラント語では形容詞が術語として用いられる場合にも、主語が複数形なら形容詞も複数形となるが、公用エスペラント語ではこの規則も廃される。従って、例えば「あなたたちは、良い人々である。」は、ni estas bona homoj.でよい。
 また、正統エスペラント語では修飾される名詞が目的格のときは、形容詞も連動して目的格語尾‐nを取り、例えば、bonan homon(良い人を)のようになる。公用エスペラント語ではこの規則も廃され、bona homonでよい。

副詞には、本来副詞と派生副詞とがあり、派生副詞の品詞語尾は‐eである。

 本来副詞とは他の品詞から派生したのでない副詞のことで、hierau(昨日)、hodiau(今日)、morgau(明日)など、時を表す副詞が比較的多い。
 これに対し、派生副詞とは他の品詞から派生した副詞で、例えば形容詞bonaからbone(良く)が派生する。さらに、home(人に)のように名詞から副詞を派生させることもできる。こうした規則は、正統エスペラント語16箇条の第7条を引き継いでいる。

形容詞・副詞ともに、比較級はpriを前置することで、最上級はprejを前置することで作られる。

 エスペラント語では、比較級・最上級特有の語尾は存在せず、すべて前置詞で表現される。例えばpri bona/e、 prej bona/eのようである。比較級において「・・・よりも」を表す接続詞はorである。これも、基本的にエスペラント語16箇条の規則を引き継いでいるが、公用エスペラント語にはl音がないので、pri 、prej、 orのようにr音になる点に留意。

2014年6月 1日 (日)

赤のアメリカ史(連載第7回)

二 白人侵奪国家の樹立(続き)

北西インディアン戦争
 アメリカ独立戦争を終結させた1783年のパリ条約は、オハイオ州を中心とした北西部の合衆国による領有を認めていた。
 しかし、パリ条約に参加していないこの地域のインディアン勢力にとってはとうてい承服し難い一方的な取り決めであったし、合衆国のいくつかの構成州が領有を主張したり、また敗北したイギリス軍も五大湖南の砦に駐留を続けるなど、北西部の領有関係はなおあいまいであった。
 これに対し87年、合衆国連合会議は北西部条例を制定し、北西部を正式に合衆国領土に編入することを取り決めた。この条例制定過程からもインディアンは排除されていたが、条例上、インディアンとの信義の尊重、その土地は同意なく侵奪しないことなどのインディアン配慮条項は置かれていた。だが、白人国家アメリカにとって、これも多分にしてリップサービスであり、新たな開拓白人の流入を防ぐことはできなかった。
 北西部のインディアン勢力はアメリカ独立戦争前の1740年代からすでに結束して白人の侵入に対抗し始めていたが、アメリカ合衆国成立後の85年、正式に同盟(西部同盟)を結成し、改めてオハイオ河をインディアン勢力と合衆国の境界線とすることを求めて決起した。この西部同盟は従来のような部族単位ではなく、イロコイ連合を含む部族横断的な大同盟であることが特徴であったが、ここには、白人の合衆国体制からの影響もいくぶんあったかもしれない。
 以後1795年の終結まで、西部同盟は合衆国との10年に及ぶ長期戦に入る。当初は残留イギリス人の支援を受けたインディアン勢の攻勢が激しかった。特に1791年、今日のオハイオ州フォートリカバリーでセントクレア将軍の部隊がインディアン勢に敗北し、多数の犠牲を出した「セントクレアの敗北」は、インディアン勢にとっては歴史的な勝利であった。
 こうした劣勢を挽回するため、合衆国のワシントン大統領は、独立戦争当時の名将であったアンソニー・ウェイン将軍を陸軍司令官に任命、専門的な軍事訓練を施させた陸軍部隊をオハイオに送り込んだ。この時にウェインが築いた前線基地がリカバリー砦で、フォートリカバリーの現地名の由来である。ウェインの精鋭部隊は94年、フォールン・ティンバースの戦いで決定的勝利を収め、北西インディアン戦争を終結させた。
 結果はいつものとおりであった。95年に締結されたグリーンビル条約で、オハイオの大部分とインディアナの一部が合衆国領土とされ、北西インディアン勢はこの地の権利を失ったのである。

cafe北西インディアン戦争を勝利に導いたウェイン将軍は、白人の間では国民的英雄であり、今日アメリカの数多くの地名や施設名にその名が冠されている。西部劇の往年のスター俳優ジョン・ウェインも芸名をウェイン将軍から取っている。ウェインは元来、義勇軍に近かった合衆国軍に初めて専門的な訓練を施した。彼が任された新たな統合型の合衆国軍団は、近代的な合衆国軍の原形となった。一方、敗北したインディアン勢からも後にインディアン側英雄となる若き戦士テカムセを輩出する。彼はフォールン・ティンバースの戦いにも参加したが、グリーンビル条約への署名は拒否して、19世紀以降、新たなインディアンの闘いで指導者となっていくのである。

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