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2014年5月16日 (金)

赤のアメリカ史(連載第5回)

一 ヨーロッパ人の侵入(続き)

もう一つの「独立戦争」
 七年戦争が英国の勝利に終わると、1763年、英国はインディアンとの関係を安定させるため、さしあたりオハイオ河を境界線とし、アパラチア山脈を越えて英国植民地人が移住・開拓することを禁じ、イロコイ連合を相手方とする68年のスタンウィックス砦条約では、西に拡大する形で修正のうえ、正式に国境線を画定した。しかし、本国政府によるこの一方的な線引きは開拓者らの反発を買い、対英独立戦争への引き金の一つとなった。
 こうした状況で、1775年にアメリカ独立戦争が開始された。独立戦争というと通常は東部方面で展開された戦争を指すが、もう一本、西部方面でも戦争が起きていた。ここでは開拓地の拡大を追求する白人勢力に対し、68年の条約では当事者から排除されていたオハイオ方面のインディアン諸部族を英国が支援する形での戦争となった。この独立戦争‐西部戦線は独立戦争というよりも侵略戦争の性格が強く、アメリカ独立後19世紀に大々的に展開される民族浄化戦争の先駆けのような意義を持った。
 新たな情勢変化の中で、インディアン諸部族はまたも敵味方に分裂した。特に元来ミシシッピ河流域を勢力圏としていた大部族チェロキー族は、中立派と反植民地派に大きく内部分裂した。反植民地派で18世紀後半に今日のテネシー州方面に移住していた集団は周辺諸部族と同盟し、英国やスペインの支援を受けながら76年以降、開拓者勢力との独自の戦争に入った。当時白人側がこのチェロキー系集団に命名したチカマウガにちなみ、「チカマウガ戦争」と呼ばれるこの戦争は、独立戦争と並行してアメリカ独立後の94年まで20年近くに及ぶ長期戦となった。
 他方、北部のイロコイ連合も独立戦争をめぐり分裂していた。構成6部族のうち4部族は英国側についたが、2部族は植民地側についた。そうした中、79年には後に合衆国初代大統領となる植民地軍のジョージ・ワシントン総司令官の命令でサリバン将軍に率いられた部隊がニューヨーク北部で英国に加担するイロコイ集落の焦土化・絶滅作戦を展開した(サリバン遠征)。この作戦での「功績」により、本来弁護士である指揮官サリバンは合衆国独立後、州知事や連邦判事にまで昇進したのだった。
 独立戦争は、1783年のパリ条約で植民地側の勝利に終わり、ここにアメリカ合衆国が成立する。戦争当事者の米英はそれぞれがインディアン諸部族を同盟に引き込んで戦闘したにもかかわらず、パリ条約の交渉にはインディアン代表はオブザーバーとしてすら招かれることはなく、白人同士の取り決めで、ミシシッピ河から東をアメリカ領土と決めてしまったのだった。

白人にドラッギング・カヌーとあだ名されていた長老ツィユ・ガンシニと後任の混血系長老ジョン・ワッツに率いられて20年近くも戦争を続けたチェロキー族は、1794年の休戦条約の後は、白人と一部混血しつつ、白人文化を取り入れて生活するようになった。こうした自主的同化政策は白人側からは他の4大部族とともに「文明化五部族」などと呼ばれ、表面上は歓迎された。チェロキー族はそれまで独自の文字を持たなかったインディアンの中で初めて独自の文字体系を開発し、普及させた。だがそれも束の間、新興の白人国家アメリカ合衆国は、間もなくインディアン勢力を追放・絶滅させる次なる作戦を開始するのだった。

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