無料ブログはココログ

« イケアの秘密 | トップページ | 赤のアメリカ史(連載第4回) »

2014年5月 5日 (月)

赤のアメリカ史(連載第3回)

一 ヨーロッパ人の侵入

英国人の侵入と緊張
 アメリカインディアンの部族社会にとって画期的な転換点となったのは、17世紀初頭の英国人植民団の侵入であった。赤のアメリカ史は、ここから始まると言っても過言でない。白のアメリカ史では半ば伝説化されたピルグリム・ファーザーズの入植が有名であるが、それより前に入ってきたのは、より実利的な野心を持ったバージニア会社が1606年に送り込んだ植民団であった。 
 この植民団は07年、今日のバージニア州ヘンリー岬から遡ったジェームズ河口の島上に、時の英国王ジェームズ1世にちなみジェームズタウンと名づけられたバージニア植民地を築く。バージンに由来するバージニアの名のとおり、これが英国人にとって最初の恒久的な北米植民地であり、今日のバージニア州の前身である。
 実はこれに先立ち、1580年代にも英国人植民団が送り込まれ、今日のノースカロライナ州にロアノーク植民地が築かれたが、おそらくは深刻な干ばつが原因で、同植民地は姿を消した。バージニア植民地でも当初は飢餓とマラリアに襲われ、わずか1年で人口は半減した。
 こうした苦境を救ったのは、周辺を拠点としていたインディアンのポウハタン部族であった。かれらは主食のトウモロコシの栽培法を教え、糧食を提供するなどしたため、バージニア植民地はロアノークの二の舞を避けられたのであった。
 しかし、白人たちはそうした恩義をあだで返し始める。植民地指導者のジョン・スミスは軍事訓練を通じて植民地の武力を強化し、インディアンに対抗しようとした。1610年代になるとタバコ栽培が軌道に乗り、バージニア植民地は経済力もつけていった。それに伴い、土地を侵奪されたインディアン勢力との緊張が高まり、以後17世紀半ばまでに三次にわたる戦争(アングロ‐ポウハタン戦争)が引き起こされた。結果は火器を持つ白人勢力の勝利で、地元インディアンは次第に圧迫されていった。
 一方、ピルグリム・ファーザーズによって1620年に築かれた今日のマサチューセッツ州プリマス植民地でも、こちらは寒さから多くの犠牲者を出したが、ここでも地元インディアンのワンパノアグ部族の援助で生き延びることができた。そして、この地では当初インディアンとの間で「土地の譲渡」を含む友好協約を結ぶことにも成功した。
 しかし、毛皮貿易を通じてプリマス植民地が発展していくと、インディアンは居住地を奪われ、追い詰められていく。ついに1675年、それまで散発的な衝突を除けば比較的平穏だったプリマスでも白人とインディアンの全面戦争が勃発する。ワンパノアグ側を指揮した長老メタコメットのあだ名フィリップ王にちなみ、「フィリップ王戦争」とも呼ばれるこの戦争は、翌年メタコメットの戦死をもって白人側勝利に終わった。
 後のいわゆる「インディアン戦争」の先駆けともなるこうした白人とインディアンの武力紛争の大きな要因として、土地観念の相違があった。白人側ではプリマスのように植民当初こそ共産制が採られたが、まもなく私有制に移行していった。しかしインディアン社会は依然原始共産制的であり、土地は誰の者にも属しないと観念された。土地の所有権やその譲渡といった白人的経済観念を理解しないまま、かれらは白人らに土地を侵奪され、居住地を追われていくのである。

最初期のロアノーク植民地はミステリアスにも忽然と姿を消したため、「失われた植民地」と呼ばれ、様々な推測・仮説を生んできた。本文でも触れたように、気候学的な研究により、当時現地を襲った記録的な干ばつが打撃となったことはほぼ確実と見られるが、それだけでは短期間での住民の集団失踪を説明し切れない。この点、付近のインディアン系住民の間に今日まで英国人植民者と同じ姓を持つ者が見られることから、地元インディアンとの通婚・同化の可能性が考えられている。当初の苦境を生き延びたバージニアやプリマスでも、地元インディアンは白人植民者らに寛大な援助の手を差し伸べており、より気候条件が厳しかったロアノークでは崩壊した植民地の生き残り住民の少なくとも一部がインディアン社会にある種の救済統合された可能性は十分あり得ることである。近年、ヒューストンに拠点を置く民間のファミリーツリーDNAプロジェクトの一環として、この問題が遺伝系譜学的に研究されており、成果が待たれている。

« イケアの秘密 | トップページ | 赤のアメリカ史(連載第4回) »

〆赤のアメリカ史」カテゴリの記事

2019年7月
  1 2 3 4 5 6
7 8 9 10 11 12 13
14 15 16 17 18 19 20
21 22 23 24 25 26 27
28 29 30 31