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2014年5月

2014年5月30日 (金)

私家版松平徳川実紀(連載第4回)

三 松平長親(1473年‐1544年)

 松平長親〔ながちか〕は松平家の史実上の家祖・信光の孫に当たる。父は信光の子・親忠〔ちかただ〕だが、親忠は長寿を保った信光から家督を相続した時、すでに高齢であり、ほどなく息子の長親に家督を譲って隠居した。
 長親の使命は、祖父が一代で築いた国人領主家・松平氏をいっそう発展させることにあったが、この頃、駿河国を拠点とする今川氏の攻勢が強まってくる。今川氏は松平氏とは異なり、源氏系足利氏に連なる吉良氏の分家として、明白に源氏系の系譜をたどれる強大な名門守護大名であった。
 長親の時代の今川氏当主は有名な今川義元の父・氏親〔うじちか〕であった。今川氏は本来、駿河国を越えて遠江国まで支配していたが、1419年以降、同じ足利一門の斯波氏に奪われていた遠江奪還が今川氏累代の宿願となっていた。氏親の遠江派遣軍の指揮を執ったのは、氏親の母方のおじに当たる伊勢盛時(後の北条早雲)であった。
 早雲の軍勢は15世紀末に遠江中部を押さえると、16世紀初頭以降さらに西三河にも兵を進めたため、この地の国人領主となっていた松平氏も早雲軍から攻められることになった。これに対し、時の当主長親は自ら兵を率いて戦い、わずか500余の兵で1万余の今川勢を撃退したとされる。誇張はあるにせよ、当時の松平氏の軍事動員力が今川氏とは比べものにならなかったことは確かであるが、長親も勇猛かつ有能な武将だったようである。
 長親は今川勢を撃退したのに前後して、まだ30代ながら突然幼少の息子・信忠に家督を譲って隠居したが、実権は掌握し続けた。これは後に徳川氏で隠居した先代による大御所政治がしばしば見られたことの先例であるかもしれない。
 とはいえ、長親の早期隠居は松平氏が一時衰微するきっかけとなった。長じた信忠は暗愚で、家臣団からも信頼されず、結局側近らの嘆願で長親も信忠の早期隠居、孫の清康への家督相続を決めたのである。一方で、家臣団の間では次男の信定(桜井松平家始祖)を支持する声が強く、信定自身も家督継承の野心を隠さず、お家騒動のもととなった。
 ただ、長親自身は比較的長命で、清康が不慮の死により夭折し曽孫の広忠が家督を継ぐまで事実上の家長として采配していたと見られ、こうした「院政」期も含めれば半世紀近い長親の時代に家臣団の整備など大名としての基礎が徐々に固まっていったものと考えられる。
 とはいえ、強大な今川氏の脅威は何ら減じておらず、松平氏の実態はまだ自立的な戦国大名と呼べるようなものではなかった。実際、清康早世後、清康の孫に当たる家康の台頭まで松平氏は今川氏に従属する状態となる。

2014年5月27日 (火)

概説:公用エスペラント語(連載第6回)

三 基本品詞(3)

Ⅳ 動詞

動詞は人称、数、時制、法による変化を一切せず、不定形は‐i、統一活用形は‐asの語尾を取る。

 正統エスペラント語も人称、数による変化をしないが、時制については英語と同様、過去・現在・未来の三変化があるほか、条件法、命令法による活用変化がある。しかし、公用エスペラント語は不定形を除けば、正統エスペラント語における現在形語尾‐asが統一活用語尾となる。
 この点、例えば、mi iras ar kinejo.と表記しただけでは、「私は映画館に行く/行った/行くだろう。」のいずれなのか判別できない。そこで時を表現するにはnun(今)、hierau(昨日)、morgau(明日)などの副詞ないし副詞句を必ず添えなければならない。
 このことは一見不便にも思えるが、実際のところ、時の表現には微妙な幅があって、現在・過去・未来といった画一的な時制によって表現し切れるものではなく、副詞や副詞句の助けを一切借りずに表現することのほうが不自然であるので、動詞の活用変化が存在しないことは決して不都合ではない。代表的な自然言語でも中国語の動詞は時制変化しない。

 また命令法・仮定法の活用変化が存在しないことも問題にはならない。命令法は英語と同様、主語を省略した動詞文で示すことができるし、仮定法では、仮定(もし)を示す接続詞seで条件節を導けば、動詞を特殊に変化させなくとも意味的に十分成り立つ。

分詞は、能動分詞と受動分詞に分かれ、それぞれに継続形・完了形・未然形の活用変化がある。すなわち能動分詞はant、‐int、‐ont、受動分詞は‐at、‐it、‐otである。

 分詞のうち能動分詞は副詞的に用いられ、分詞構文の従属節を導く。受動分詞は英語のbe動詞に相当する動詞estiと組み合わせて受動態を作る。また共に形容詞的にも用いられる。
 分詞については正統エスペラント語と同様に、継続・完了・未然という一種の時制変化があるが、分詞は修飾語として用いられるため、動詞が時制変化しない公用エスペラント語では、補足的に時制を表現できることが分詞に要請されるからである。

分詞を用いた完了形・進行形等の複合時制は、存在しない。

 正統エスペラント語では、分詞を用いた複合時制も文法的に可能であるが、通常好まれないとされる。
 しかし、簡素簡明を旨とする公用エスペラント語では、そもそも複雑な複合時制は廃止し、時間的な相を表す副詞ないし副詞句で実質的に複合時制を表現すれば足りる。

2014年5月26日 (月)

私家版松平徳川実紀(連載第3回)

二 松平信光(生没年不詳)

 現在のところ、初期松平氏の当主として史料に名が見えるのは、家系図上3代目の松平信光からである。信光の父は系図上2代目泰親の子とされるが、初代親氏の子とする説もあり、父母も生没年も不詳である。親氏・泰親二代は造作の可能性が高いため、結局信光の出自は記録に残らないほどマイナーであったということになろう。
 彼は後に貴族として賀茂朝臣を称したことから、松平氏の真の出自を平安貴族の賀茂氏とみなす向きもあるが、確かな証拠はなく、平安貴族の流れを称するのも、戦国時代以前の土豪らが家系を飾る仮冒の方策であった。賀茂朝臣は松平郷が属した加茂郡にちなむのだろうが、これはおそらく一帯が賀茂神社の神領地であったことに由来すると見られ、松平氏はそうした神領地の富農名主層から出た一族と推定される。
 史実上確証のある信光の活動は比較的晩年に集中する。彼は室町時代末期、幕府の政所執事伊勢貞親の被官となり、和泉守の武家官位も与えられたことが知られている。
 被官としての主な功績は、寛正六年(1465年)に三河国額田郡で起きた土豪一揆の鎮圧である。これは当時、足利将軍家に連なる吉良氏の元配下の武士集団が幕府に反乱を起こした事件であり、室町幕府の威信低下を示す一件であった。これに対し、幕府は信光その他地元の国人衆に出動を命じ、鎮圧した。この功績で、信光は西三河方面に新たな所領を拝領し、勢力圏を拡大した。
 とはいえ、記録によれば、当初信光らはこの一揆に対し、傍観に近い態度を取り、伊勢貞親が三河守護を通じて督促状を発してようやく討伐にかかったとされる。この経過からすると、当時の信光は形式上幕府官僚の被官の地位にはあったが、反乱を起こした国侍勢に対してすら、さほど優位な立場を確保していなかったと見られる。
 ともあれ、この一件で所領を拡大した信光は、続いて勃発した応仁の乱では東軍陣営に入り、西軍の畠山氏が拠る安祥城を策略を用いて奪取し、以後ここを松平氏の新たな居城に定めた。安祥城は三河国碧海郡にあり、この地を根拠にしたことは松平氏がさらに平野部へ進出していくうえでの足がかりとなった。
 信光は子沢山で、特に男子に恵まれたため、息子たちを分家させて各地に配置し、子孫の繁栄に寄与した。俗に「十八松平」と呼ばれる松平分家のうち少なくとも6家は信光の子を祖としている。このような他の武将家に例を見ない多分家作戦はその後、松平徳川家に踏襲され、継嗣断絶を防ぐ手段となる。
 一方、本来の根拠地・松平郷については異母兄とされる松平信広に委ねて分家させた(松平郷松平氏)。山間部の発祥地を固執も放棄もせず、庶きょうだいに分領したことは、自らの本宗家に万一のことがあった場合の最後の保険としての意義もある巧みな戦略であったと言える。
 信光は戦国時代の初期に没したため、彼の代の松平氏はまだ戦国大名化していなかったが、生没年に諸説あるとはいえ、どの説でもかなりの長寿を保ったようであり、そのことも松平氏の隆盛にプラスしたであろう。
 かくして、松平信光こそは、戦国大名松平氏の史実上の家祖と言える人物であり、おそらく彼は一代で一族を三河の有力国人領主に押し上げたセルフメードの人であった。

2014年5月25日 (日)

赤のアメリカ史(連載第6回)

二 白人侵奪国家の樹立

ホワイトオンリー国家
 アメリカ独立戦争の結果成立した新生アメリカ合衆国は、通説的な史観によれば、同時代のフランス革命と並び、世界歴史を変えた輝かしい立憲革命の成果として賞賛されるが、インディアンにとってのアメリカ合衆国は、かれらの土地に一方的に樹立された全く理解し難い白人侵奪者の部族連合体であった。
 もっとも、13植民地の対等な連合によって結成されたアメリカ合衆国の独特の政体は、インディアンのイロコイ部族連合の「民主的」な仕組みを参照したものだという説もある。しかし今日の研究ではそうした影響関係は明白に証明されず、インディアンの部族連合体も近代的な意味での民主制とは無縁の伝統的な長老合議制の域を出るものではなかったとされる。
 結局、アメリカ白人開拓者たちは、最初の植民からおよそ200年近くをかけ、武力や威嚇をもってインディアンの土地を侵奪し、自身の独立国家の樹立を達成したことになる。
 この国家の特徴は、初めから人種的な線引きがなされていたことである。つまり、アメリカ合衆国は白人だけの国家であった。なるほどアメリカ独立宣言には「すべての人間は平等に創られ、創造主によって、生存、自由そして幸福の追求を含む不可侵の権利を与えられている。これらの権利を確実なものとするために、人間の間では政府が設立されるが、その正当な権力は被治者の同意に基づく。」と謳われているが、この章句で人間とは専ら白人を指しているのであった。
 このことは、独立後1790年に制定された帰化法によってはっきりする。そこには、帰化の条件として「自由白人(フリー・ホワイト)」であるべきことが明記されたのである。つまり、赤いインディアンと黒いアフリカンはアメリカ国民たり得ないということである。現代風に言えば、近代的なアメリカ合衆国は人種隔離的なアパルトヘイト国家として出発したのである。
 ちなみに、今日に至るまでアメリカで市民の銃武装の権利の根拠として引用される憲法修正第2条は、宗主国イギリスとの戦い以上に、インディアンとの絶え間ない戦争を通じて成立した合衆国の由来をよく物語っている。インディアンの奇襲には個々人が武器をもって対抗すべしという習慣の名残である。

cafeアメリカ合衆国建国者・初代大統領として日本でもよく知られているジョージ・ワシントンは「姿形こそ違えど、インディアンとオオカミはどちらも猛獣である。」と断言し、インディアン絶滅作戦を「正義」と言って憚らなかった。実際、彼は独立戦争に際してイロコイ族絶滅作戦(サリバン遠征)を命じたことから、イロコイ族からは「町の破壊者」とあだ名され、このあだ名はその後イロコイ族の間でアメリカ大統領の一般的な呼び名にまでなった。こうしたワシントンのインディアン観は後代の大統領にもしっかりと受け継がれていく。

2014年5月24日 (土)

私家版松平徳川実紀(連載第2回)

一 松平親氏/泰親(伝承)

 関東平野を縦貫する東武伊勢崎線に世良田〔せらだ〕という鄙びた小さな駅がある。今日は群馬県太田市に属するこの世良田が松平徳川氏の系図上の家祖・松平親氏〔ちかうじ〕の出た新田氏系世良田氏の本貫地であることから、松平徳川氏の公式な発祥地ともされている。実際、世良田駅から20分ほど歩いたところに徳川家康を祀る世良田東照宮がある。
 これは寛永二十一年(1644年)、家康の孫に当たる3代将軍家光の命により、日光東照宮の奥社殿を新田氏の氏寺のような存在でもあった長楽寺の境内(明治の神仏分離により分離)に移築して創建された東照宮の一つである。将軍の肝いりでここに東照宮が創建されたのは、この地を松平徳川氏発祥地とみなす公式家伝の立場を補強するためであることは言うまでもない。
 しかし、松平徳川氏の家系図上の家祖・親氏と、親氏を助けて共に松平氏興隆の基礎を築いたとされる嫡子の泰親〔やすちか〕父子について、同時代の史料にその名は見えず、「親氏」といういかにも元祖を示唆する名前や親を安らかにしたとの含意であろう「泰親」といった名前からして、いずれも造作された人物である可能性は高い。
 興味深いのは、親氏は松平徳川氏最古参の筆頭家臣で、後に譜代大名となる酒井氏の家祖ともされていることである。それによれば、親氏ははじめ三河国碧海郡酒井郷の土豪酒井氏の婿養子となり、酒井広親を生むが、妻と死別後、今度は松平氏の婿養子に転じたといういささか取ってつけたような話となっている。これは、後に酒井氏が主家・徳川氏と同祖のつながりを持つことを強調するために造作された家系図だとも言われるが、逆に徳川氏側が本来は酒井氏の家祖伝承を横取りして自家の家系図に組み入れたという推定も成り立ち得る。
 真実の世良田氏は南朝方について信濃で敗れた後、一族の者が一時三河に逃亡潜伏していた事実は実際に認められる。その間、地元土豪と何らかの接触を持ち、あるいはその息女との間に子をもうけるようなこともあったかもしれない。その事実はおそらく周辺地域で長く記憶され、家系を飾りたい土豪たちの家祖伝承に都合よく利用され、使い回しされることになったとも考えられる。
 ところで松平氏の真の発祥地松平郷は、今日の愛知県豊田市松平町としてその名を残している。鉄道駅はなく、最寄の名鉄豊田市駅からバスで40分ほどいった山あいの集落である。ここにも、世良田より古く、元和五年(1619年)に創建された松平東照宮がある。
 言わば元祖松平氏の発祥地がここ松平郷であるが、しかし松平郷という地名の史料初出は松平氏5代目長親〔ながちか〕の時であり、それ以前、この地が何と呼ばれていたかは不明のままである。つまり史料上の順序としては、人名の松平が先にあって、地名の松平は後ということになる。
 ただ、当時の土豪は地名を氏族名に流用することが珍しくなかったので、史料上の順序はともあれ、松平の名は松平という地名に由来する可能性は十分に存在する。それにしても、こんな鄙びた山間集落の土豪はいわゆる国人領主ですらなく、せいぜい武装した名主のような存在にすぎなかったとしか考えられない。
 しかも、後に庶宗家として松平宗家から分離して松平郷領主にとどまり、江戸開府後は旗本の交代寄合に遇せられた松平郷松平氏の所領は500石にも満たない規模であったところからすると、松平郷の実質生産高は低く、名主といってもたかが知れていたに違いない。
 実際、世良田氏の流れ者の食客を婿養子に取ったことが真実だったとしても、それは当時の松平家には近隣の国人領主家から婿を貰うほどの実力がなく、流れ者に家督を相続させるという苦肉の策を取らざるを得なかったことの反映であろう。

2014年5月23日 (金)

私家版松平徳川実紀(連載第1回)

 戦国大名は源氏系や藤原氏系を公称したがったが、明白に系譜関係をたどれる一部例外を除き、ほとんどの戦国大名は地方の国人領主や土豪の出自にすぎなかった。であればこそ、武力で下克上して階級上昇を果たす中で、家系の由緒来歴を飾るため、家系図を捏造し、特に武家の憧れであった源氏系を仮冒する一族が多かった。
 中でも、江戸幕府の主となる松平徳川氏は、とりわけファンタスティックな家系図を作り出した。それによると、松平徳川氏の家祖は源氏系新田氏から分かれた世良田氏の流れである松平親氏〔ちかうじ〕とされているが、この親氏の来歴がなかなかドラマチックである。
 彼は本姓得川といい、本貫は上野国世良田であるが、南北朝時代に南朝側に立ち、北朝・幕府側の鎌倉公方の軍勢に敗れ、相模国の時宗総本山清浄光寺に逃げ込んで出家し、徳阿弥を名乗った。その後、徳阿弥は父親とともに一人の従者を連れて遊行僧として諸国を流浪するうち、三河国加茂郡松平郷という山あいの集落にたどり着く。そして、その地の土豪であった松平信重の食客となった。跡取り息子がなかった信重は文武両道に秀でた徳阿弥に感服し、彼を婿養子に取り、家督を継がせることにした。ここに、松平親氏が誕生する。彼は養父の期待にこたえ、近隣の土豪たちを順次服従させ、戦国大名松平氏の土台を築いたため、親氏をもって松平徳川氏の実質的な家祖とみなすというのである。
 系図上では親氏から数えて9代目に当たる家康は、こうした来歴に鑑み、苗字を松平から親氏の本姓である得川の「得」の字を嘉字の「徳」に置き換えたうえ、徳川と改姓した。こうして誕生した家康を初代とする徳川宗家が将軍家となるわけである。
 こうした松平徳川家の家系図は今日、学問的にはほぼ否定されており、家康が側近御用学者の手を借りつつ集中的に施した仮冒工作の結果とみなされている。結局のところ、松平氏の由来は三河の山あいの集落を本貫とする一介の土豪にすぎなかったということになろう。足軽もしくは農民から出た豊臣氏を別とすれば、マイナー出自揃いの戦国大名の中でもひときわマイナーな一族である。
 そんな一族が浮沈を繰り返した後、全国を制覇して天下人となり、250年以上も持続した日本近世の支配体制を作り上げたというのは、不可思議なことである。これは、そんな異彩を放つ一族の謎を解く物語である。

2014年5月21日 (水)

文学と科学

 人気連載漫画『美味しんぼ』で、福島県の原発被災地で鼻血を出すなど体調異変を訴える人が多いと叙述されたことが波紋を呼んだが、この問題は漫画のような広い意味の文学と科学の関係性を改めて考え直す好個の素材である。
 所詮は創作と割り切るなら、どうということはないが、地名・人名とも架空のファンタジー作品ならともかく、創作とはいえ実在の地名・人名が登場するリアル作品では、科学的に未検証の内容を安易に断定的に叙述すべきではないと考える。
 特に放射線医科学の分野は、放射線事故が日常頻発しないことからも―頻発しては困る!―、未解明なことが多い。結果、放射線への恐怖も手伝って、放射線障害が「伝染」すると信じているような人も存在するありさまである。そうした非科学的な迷妄は差別の元ともなる。
 科学の余白を埋めたいという欲求は、まさにそれを仕事とする科学者のみならず、作品のインパクトを強めたい創作家にもあり得ることだが、十分な科学的証明なしに余白を性急に埋めようとすることはどんな場合でも避けるべきである。それは先のSTAP細胞問題の教訓でもあるはずだ。

[追記]
この点、原発事故直後には福島県からの避難者の二人に一人ほどが家族などの鼻血を体験している事実を挙げ、これを、原発から飛散した放射性セシウムなどが結合した金属粒子が鼻の粘膜に付着する「接触被爆」の現象とする医師の指摘もある(神戸新聞2014.7.14)。

2014年5月20日 (火)

平均資産1700万円也

 先頃、総務省が発表した2013年度統計によると、二人以上の世帯の平均資産が過去最高の1739万円(勤労者世帯では1244万円)に上ったという。サンプル抽出・自己申告による調査という限界はあるが、この数値が意味するのは、皆が平等にリッチになったということではもちろんない。
 実際は、三分の二の世帯が平均資産未満で、資産段階でみると資産100万円未満が10パーセントと最大であった。さらに平均負債額は499万円(勤労者世帯では740万円)、中央値をとると981万円にも上る。
 要するに、平均資産が増えたのは皆が平等にリッチだからではなく、上層がいっそう富裕になって、平均値を押し上げたのである。他方、負債は勤労者世帯の負債増加が押し上げ要因となっている。これは格差社会の進行を示すデータであり、晩期資本主義社会の特質を裏書きしている。

2014年5月19日 (月)

概説:公用エスペラント語(連載第5回)

三 基本品詞(2)

Ⅲ 人称代名詞

人称代名詞の一人称はmi(単数)/ni(複数)、二人称はbi(単数)/biri(複数)、三人称はjhi(単数)/iri(複数)である。

 正統エスペラント語では、三人称単数が英語等と同様に男性・女性・中性の三性に分かれるが、公用エスペラント語ではジェンダー中立的にjhi一語に包括される。文脈上性別の明示が必要な場合は、それとわかるよう実質的に表現すれば足りる。例えば、jhi estas matro.(その人は母親である。)のようにである。
 一方、正統エスペラント語の二人称は単複の区別がないが、二人称複数形が存在しないとかえって不便な場面も少なくないことから、公用エスペラント語では二人称複数形としてbiri〔ビーリ〕を加える。

 ちなみに、ジェンダー中立性は名詞の接辞にも及び、正統エスペラント語で男性形から女性形を派生させる接尾辞‐inoは廃される。例えば正統エスペラント語で「母親」は「父親」を意味するpatroに‐inoを付加した派生語patrinoであるが、公用エスペラント語では固有のmatroを用いる。同様に「男性」biroに対し、「女性」はhemo〔ヘーモ〕である(正統エスペラント語では「男性」viroの派生語virino)。

人称代名詞の所有格は、上記人称代名詞の末尾に‐aを付加するが、口語体では名詞に人称代名詞を後置する便法も認められる。

 ‐aは形容詞の品詞語尾に準じている。例えば「私の家」はmia domoである。口語体では、これをdomo miと表現してもよい。正統エスペラント語では認められない人称代名詞の後置用法である。

人称代名詞の目的格は、‐nを付加する。

 この法則は名詞の場合と同様である。例えば「私を」はminとなる。

2014年5月16日 (金)

赤のアメリカ史(連載第5回)

一 ヨーロッパ人の侵入(続き)

もう一つの「独立戦争」
 七年戦争が英国の勝利に終わると、1763年、英国はインディアンとの関係を安定させるため、さしあたりオハイオ河を境界線とし、アパラチア山脈を越えて英国植民地人が移住・開拓することを禁じ、イロコイ連合を相手方とする68年のスタンウィックス砦条約では、西に拡大する形で修正のうえ、正式に国境線を画定した。しかし、本国政府によるこの一方的な線引きは開拓者らの反発を買い、対英独立戦争への引き金の一つとなった。
 こうした状況で、1775年にアメリカ独立戦争が開始された。独立戦争というと通常は東部方面で展開された戦争を指すが、もう一本、西部方面でも戦争が起きていた。ここでは開拓地の拡大を追求する白人勢力に対し、68年の条約では当事者から排除されていたオハイオ方面のインディアン諸部族を英国が支援する形での戦争となった。この独立戦争‐西部戦線は独立戦争というよりも侵略戦争の性格が強く、アメリカ独立後19世紀に大々的に展開される民族浄化戦争の先駆けのような意義を持った。
 新たな情勢変化の中で、インディアン諸部族はまたも敵味方に分裂した。特に元来ミシシッピ河流域を勢力圏としていた大部族チェロキー族は、中立派と反植民地派に大きく内部分裂した。反植民地派で18世紀後半に今日のテネシー州方面に移住していた集団は周辺諸部族と同盟し、英国やスペインの支援を受けながら76年以降、開拓者勢力との独自の戦争に入った。当時白人側がこのチェロキー系集団に命名したチカマウガにちなみ、「チカマウガ戦争」と呼ばれるこの戦争は、独立戦争と並行してアメリカ独立後の94年まで20年近くに及ぶ長期戦となった。
 他方、北部のイロコイ連合も独立戦争をめぐり分裂していた。構成6部族のうち4部族は英国側についたが、2部族は植民地側についた。そうした中、79年には後に合衆国初代大統領となる植民地軍のジョージ・ワシントン総司令官の命令でサリバン将軍に率いられた部隊がニューヨーク北部で英国に加担するイロコイ集落の焦土化・絶滅作戦を展開した(サリバン遠征)。この作戦での「功績」により、本来弁護士である指揮官サリバンは合衆国独立後、州知事や連邦判事にまで昇進したのだった。
 独立戦争は、1783年のパリ条約で植民地側の勝利に終わり、ここにアメリカ合衆国が成立する。戦争当事者の米英はそれぞれがインディアン諸部族を同盟に引き込んで戦闘したにもかかわらず、パリ条約の交渉にはインディアン代表はオブザーバーとしてすら招かれることはなく、白人同士の取り決めで、ミシシッピ河から東をアメリカ領土と決めてしまったのだった。

cafe白人にドラッギング・カヌーとあだ名されていた長老ツィユ・ガンシニと後任の混血系長老ジョン・ワッツに率いられて20年近くも戦争を続けたチェロキー族は、1794年の休戦条約の後は、白人と一部混血しつつ、白人文化を取り入れて生活するようになった。こうした自主的同化政策は白人側からは他の4大部族とともに「文明化五部族」などと呼ばれ、表面上は歓迎された。チェロキー族はそれまで独自の文字を持たなかったインディアンの中で初めて独自の文字体系を開発し、普及させた。だがそれも束の間、新興の白人国家アメリカ合衆国は、間もなくインディアン勢力を追放・絶滅させる次なる作戦を開始するのだった。

2014年5月15日 (木)

体験的介護保険制度批判(追記4)

 集団的自衛権をめぐるいざこざの影に隠れるように、5月14日、「医療・介護推進総合法案」が衆議院厚労委員会で強行採決された。ここしばらく封印していた強行採決という安倍政権の常套法が使われたということは、政権がいかにこの法案を重視しているかを示している。
 この法案、「推進総合」などと銘打っているが、内容的には医療と介護の双方にわたる負担増・サービス減のオンパレード法案であり、真の名は「抑制推進法案」がふさわしく、「推進総合」とはブラックジョークである。
 介護分野に限ってみても、その柱は①要支援1・2の訪問介護・通所介護を国基準の介護給付から切り離し、市町村事業に移行させること②一定所得以上の人の介護サービス利用料を2割負担に引き上げること③特別養護老人ホームへの入所基準を原則として要介護3以上に限定すること④預貯金が一定額を超えたり、世帯分離した配偶者が課税対象となっている介護施設入所者については、食費・居住費の負担を軽減する補足給付を打ち切ることにあり、いずれも介護保険制度の重大な改悪的変更である。
 このうち、①の要支援者分離については、元来要支援とは介護不要ということにほかならないので、財源の有効活用の観点から分離することにも一定の意味はあるが、代償として要介護者の保険支給限度額の引き上げをすべきところ、今般改定ではそうなっておらず、単純に要支援者を締め出すだけになっている。
 最も影響が大きいのは、②の利用料2割負担の導入であろう。1割を2割に引き上げるのは倍増である。しかも医療保険とは異なり、介護は日々利用し、かつサービスの単価が高いので、負担倍増の痛みは医療保険の比ではない。「一定の所得」の要件は年間合計所得160万円以上(単身の年金収入のみなら280万円以上相当)とされるが、この要件を若干上回る程度の人は決して富裕層とは言えず、負担倍増の直撃は大きい。これに④の介護施設での補足給付打ち切りがかぶってくると、その負担増は急激である。支払い不能により退所せざるを得ない人も出てこよう。
 介護保険はよく錯覚されているように、介護サービスを「使わせる制度」ではなく、「(なるべく)使わせない制度」であるから、制度施行からわずか15年ほどでここまで後退してきたことに今さら驚いてはならないのだが、それにしても想定以上に早いペースで制度は事実上の破綻に向かっていると認識せざるを得ない。
 これからも制度見直しのつど、官の側は姑息な奸智を駆使して利用抑制策を積み重ねていくだろう。それに対して、民の側も泣き寝入りするのでなく、とにかくあらゆる知恵を絞って―対抗上少々姑息な手段を使ってでも―、崩れゆく制度を骨までしゃぶりつくすしかあるまい。福祉小国・日本に生まれたる者の宿命として。

[追記の追記]
2割負担の対象世帯の要件設定の根拠として、厚労省が世帯の可処分所得額を過大に見積もって、2割負担者を水増ししていることが判明した(赤旗2014.6.4)。

2014年5月14日 (水)

概説:公用エスペラント語(連載第4回)

三 基本品詞(1)

Ⅰ 名詞

 エスペラント語は、名詞・動詞・形容詞・副詞という基本品詞ごとに統一された語尾(品詞語尾)が割り振られる点に、最大の特徴がある。このような法則は自然言語では見られず、計画言語ならではの便利な特徴である。これにより、語尾で品詞の見分けがつくのである。

名詞は語幹に品詞語尾‐oを付加して得られる。複数形はoの後にjを追加して得られる。

 例えば、esperanto(エスペラント語)、esperantisto/esperantistoj(エスペラント語話者/話者たち)、esepero (希望)などである。これは、寿司=sushio(発音はスシーオ)のような日本語起源の語でも同様である。

上記の法則は、固有名詞には当てはまらない。

 例えば国名や地名でも、正統エスペラント語では日本はJapanio、横浜はJokohamoというように品詞語尾が付加されるが、公用エスペラント語では固有名詞の固有性を尊重し、品詞語尾を付加せず、現地発音に近いnihonなりjokohamaと斜体表記する。

名詞の格変化は目的格のみである。目的格は名詞語尾の後に‐nを付加する。

 例えば、mi habas esperon.(私は希望を持っている。)のようになる。

Ⅱ 冠詞

冠詞は存在しない。ただし、定冠詞を冠すべき名詞の語頭文字を大文字にすることが許される。 

 正統エスペラント語では唯一の定冠詞laが存在するが、公用エスペラント語には冠詞が存在しない。通常定冠詞を冠すべき場合、単語の語頭を大文字にしてもよいが、あくまでも任意である。例えば、jhi estas Parramentejo.(あれは国会議事堂である。)のようである。

2014年5月11日 (日)

赤のアメリカ史(連載第4回)

一 ヨーロッパ人の侵入(続き)

白人‐インディアン戦争の始まり
 赤のアメリカ史は19世紀末、白人側が最終的に勝利を収めるまで、血塗られた戦争の歴史であった。そうした戦争をひとことで「アメリカインディアン戦争」(単に「インディアン戦争」とも)と呼び慣わすが、それは一つの戦争ではもちろんなく、各地で繰り広げられた大小無数の戦争の連続であった。
 またこの戦争の本質は明らかに白人による侵略戦争であったから、本来は「アメリカ白人戦争」と呼ばれるべきであるが、ここでは通説的な呼称に配慮しつつ、公平を期して「白人‐インディアン戦争」と呼ぶことにする。
 こうした一連の戦争の始まりを正確に確定することは性質上困難であるが、前回も触れたように、17世紀前半のバージニア植民地におけるアングロ‐ポウハタン戦争を嚆矢とみなすことができる。
 三次にわたるこの戦争の最初のものは、早くも1610年に起きた。14年まで続いたこの戦争で白人側は火器をもって焦土作戦を展開した。この戦争が和平で一段落した後、1622年にはポウハタン族員の射殺事件を契機に、部族勢力が同植民地の中心地ジェームズタウンとその周辺に奇襲攻撃をしかけた。この攻撃により、白人側では植民地人口の三分の一が犠牲となり、この件に限って言えば白人側は敗北した。しかし、白人側も報復としておよそ10年にわたり断続的に焦土作戦を展開した。
 三度目の戦争は44年から46年までの比較的短いものであったが、46年の和平協定で、インディアン勢力は広大な土地の割譲を余儀なくされ、ポウハタン族の衰退が進んだ。
 北部でも1637年にはマサチューセッツ湾植民地とプリマス植民地が連合して地元のピクォート族を殲滅したピクォート戦争が起きたが、より本格的な戦争は1675年から翌年にかけてニューイングランド全域に及んだ「フィリップ王戦争」であった。
 こうした白人‐インディアン戦争は次々と創設されていくすべての植民地で大なり小なり発生するのであるが、18世紀に入ると、白人‐インディアン戦争の様相が変わり始める。
 すなわち1688年に始まるアウクスブルク同盟戦争以来、ヨーロッパ内の戦争が北アメリカ植民地にも持ち込まれ、とりわけ当時カナダ地域とルイジアナを拠点に北アメリカへの拡大を図っていたフランスと、これに対抗するイギリスの対立にインディアン勢力が巻き込まれる構図が出てきた。英仏両国は地元インディアン部族を同盟相手に引き込んで戦闘したからである。
 その嚆矢が南部で1721年から63年まで断続的に40年以上にも及んだチカソー戦争である。チカソーとは、今日のミシシッピ州北部からテネシー州西部にかけて居住していたインディアン部族であったが、この地域の支配をめぐって英仏両植民勢力が衝突した。チカソー族はイギリス側と同盟し、対するフランスはチョクトー族・イリニ族を同盟に引き込んだ。この戦争で、チカソー族は強力な団結力を見せて勝利し、結果として同盟するイギリス側を利することにもなった。
 もう一つは1755年から63年まで続いたいわゆるフレンチ‐インディアン戦争であるが、この戦争はヨーロッパにおける七年戦争の北アメリカ戦線の位置づけを持ち、その本質はやはりインディアン勢力を巻き込む英仏間の戦争であったから、おそらく「英仏‐インディアン同盟戦争」と呼ぶのがよいだろう。この戦争で、イギリス側は主にイロコイ部族連合と、フランス側はワベナキ部族連合と同盟した。
 こうした北アメリカを舞台とする英仏間の戦争はイギリス側の勝利に終わり、1763年のパリ条約をもって終結する。これ以降、白人‐インディアン戦争の様相が、今度は北アメリカ植民地と本国英国の間の対立を軸とするものに変化していくのである。

cafe北アメリカのインディアンは統一国家を創設することはなかったが、ヨーロッパ人の侵入に前後して地域的な部族連合を形成するようになっていた。こうした動きは、白人‐インディアン戦争の過程で促進されていった。ただ、これも国家と言えるような組織性はなく、長老の調停に支えられた合議制を基本とする各部族集団の連合体にすぎなかったから、白人との戦争では奇襲作戦で一時的に勝利することはあっても、結局は組織的な軍事力に勝る白人に勝利できなかった。この頃に形成された部族連合の中でもカナダにまたがって勢力を張るイロコイ部族連合は、今日まで維持されている稀有の存在である。しばしば「イロコイ連邦」とも訳されるが、もちろん公式の独立国家ではない。しかし、独自の合議システムを持ち、パスポートも発行するなど、事実上の部族自治組織となっている。

2014年5月 8日 (木)

概説:公用エスペラント語(連載第3回)

二 発音法則

 習得容易性という条件からすると、公用エスペラント語の発音法則は可能な限り簡単明瞭でなければならない。この点で、公用エスペラント語が正統エスペラント語からそのまま引き継ぐいくつかの発音法則を列挙すると、次のようである。

ⅰ 母音はa i u e oの五つである(日本語と同じ)
ⅱ すべての単語は書かれたとおりに読まれる
ⅲ アクセントは常に最後から二番目の音節にある
ⅳ 声調は存在しない

 このうち、一番目の5母音主義は、母音の数をしぼることで、英語のように区別の微妙な曖昧母音を排除する趣旨である。いずれの母音も明瞭に発音される。
 二番目の文字と発音の一致は、フランス語や英語にも見られるように表記されているが発音されない黙字や同じ文字が前後の文字いかんで何通りにも発音されるといった例外は一切存在しないことを意味する。エスペラント16箇条の第9条を引き継ぐ。
 三番目の固定アクセントは、正統エスペラント語16箇条の第10条を引き継ぐもので、例えばまさにエスペラント語を意味するesperantoのアクセントはranの所にあるので、語頭の「エ」ではなく、「ラ」を強めに発音する。パンを意味するpanoのような単語では最後から二番目の音節が語頭音節と一致するので、語頭「パ」を強めに発音する。
 ちなみにこのようにアクセントのくる母音の後に一つの子音しかない単語の場合、正統エスペラント語では「パーノ」のように長母音化するという法則があるが、公用エスペラント語ではその点は任意とし、「パノ」という短母音の発音でもよい。
 四番目は、中国語に代表されるように音の高低が音節ごとに定められた声調言語ではないということで、結果として比較的平板な発音になるが、声調を習得する労は要しない。

 こうしてみると、正統エスペラント語を含めたエスペラント語の発音法則の簡単明瞭さが理解できるであろうが、 子音体系の中にあっても、lとrの区別やf、vのように日本人にとって英語と同様に難関となる音は対応する文字とともに削除されている。その結果、正統エスペラント語にあったlegi(読む)とregi(支配する) 、beni(祝う)とveni(来る)、fundo(底)と hundo(犬)のような一文字違いの類音異義語がなくなり、それぞれregi、beni、hundoに全く異なる二義があることになる。

2014年5月 5日 (月)

赤のアメリカ史(連載第3回)

一 ヨーロッパ人の侵入

英国人の侵入と緊張
 アメリカインディアンの部族社会にとって画期的な転換点となったのは、17世紀初頭の英国人植民団の侵入であった。赤のアメリカ史は、ここから始まると言っても過言でない。白のアメリカ史では半ば伝説化されたピルグリム・ファーザーズの入植が有名であるが、それより前に入ってきたのは、より実利的な野心を持ったバージニア会社が1606年に送り込んだ植民団であった。 
 この植民団は07年、今日のバージニア州ヘンリー岬から遡ったジェームズ河口の島上に、時の英国王ジェームズ1世にちなみジェームズタウンと名づけられたバージニア植民地を築く。バージンに由来するバージニアの名のとおり、これが英国人にとって最初の恒久的な北米植民地であり、今日のバージニア州の前身である。
 実はこれに先立ち、1580年代にも英国人植民団が送り込まれ、今日のノースカロライナ州にロアノーク植民地が築かれたが、おそらくは深刻な干ばつが原因で、同植民地は姿を消した。バージニア植民地でも当初は飢餓とマラリアに襲われ、わずか1年で人口は半減した。
 こうした苦境を救ったのは、周辺を拠点としていたインディアンのポウハタン部族であった。かれらは主食のトウモロコシの栽培法を教え、糧食を提供するなどしたため、バージニア植民地はロアノークの二の舞を避けられたのであった。
 しかし、白人たちはそうした恩義をあだで返し始める。植民地指導者のジョン・スミスは軍事訓練を通じて植民地の武力を強化し、インディアンに対抗しようとした。1610年代になるとタバコ栽培が軌道に乗り、バージニア植民地は経済力もつけていった。それに伴い、土地を侵奪されたインディアン勢力との緊張が高まり、以後17世紀半ばまでに三次にわたる戦争(アングロ‐ポウハタン戦争)が引き起こされた。結果は火器を持つ白人勢力の勝利で、地元インディアンは次第に圧迫されていった。
 一方、ピルグリム・ファーザーズによって1620年に築かれた今日のマサチューセッツ州プリマス植民地でも、こちらは寒さから多くの犠牲者を出したが、ここでも地元インディアンのワンパノアグ部族の援助で生き延びることができた。そして、この地では当初インディアンとの間で「土地の譲渡」を含む友好協約を結ぶことにも成功した。
 しかし、毛皮貿易を通じてプリマス植民地が発展していくと、インディアンは居住地を奪われ、追い詰められていく。ついに1675年、それまで散発的な衝突を除けば比較的平穏だったプリマスでも白人とインディアンの全面戦争が勃発する。ワンパノアグ側を指揮した長老メタコメットのあだ名フィリップ王にちなみ、「フィリップ王戦争」とも呼ばれるこの戦争は、翌年メタコメットの戦死をもって白人側勝利に終わった。
 後のいわゆる「インディアン戦争」の先駆けともなるこうした白人とインディアンの武力紛争の大きな要因として、土地観念の相違があった。白人側ではプリマスのように植民当初こそ共産制が採られたが、まもなく私有制に移行していった。しかしインディアン社会は依然原始共産制的であり、土地は誰の者にも属しないと観念された。土地の所有権やその譲渡といった白人的経済観念を理解しないまま、かれらは白人らに土地を侵奪され、居住地を追われていくのである。

cafe最初期のロアノーク植民地はミステリアスにも忽然と姿を消したため、「失われた植民地」と呼ばれ、様々な推測・仮説を生んできた。本文でも触れたように、気候学的な研究により、当時現地を襲った記録的な干ばつが打撃となったことはほぼ確実と見られるが、それだけでは短期間での住民の集団失踪を説明し切れない。この点、付近のインディアン系住民の間に今日まで英国人植民者と同じ姓を持つ者が見られることから、地元インディアンとの通婚・同化の可能性が考えられている。当初の苦境を生き延びたバージニアやプリマスでも、地元インディアンは白人植民者らに寛大な援助の手を差し伸べており、より気候条件が厳しかったロアノークでは崩壊した植民地の生き残り住民の少なくとも一部がインディアン社会にある種の救済統合された可能性は十分あり得ることである。近年、ヒューストンに拠点を置く民間のファミリーツリーDNAプロジェクトの一環として、この問題が遺伝系譜学的に研究されており、成果が待たれている。

2014年5月 3日 (土)

イケアの秘密

 特定企業の宣伝の場ではないが、近年日本でも精力的に事業展開するスウェーデン発祥の家具量販店イケアは商品以上に経営方針で注目すべき点がある。パートと正社員を区別しない同一労働同一賃金制の導入や、児童労働廃絶への貢献、環境的持続可能性への配慮などを単なるPR目的のスローガンでなく、具体的に実践しようとしているからである。
 こうした企業文化のある面はイケア独自のものだとしても、おそらくそれはスウェーデン式社会民主主義の特質に由来するものだろう。言わば「社民主義企業」である。スウェーデン系企業は市場経済下で活動しつつも、企業文化として伝統の社民主義が―嫌でも―埋め込まれているから、典型的な利潤追求型の資本主義企業とは異質である。
 イケアは非上場の閉鎖会社の体制を維持しており、株式市場の外にある企業でもある。そのため株式市場の圧力を考慮しない独自理念による活動が自由に展開できるとされる。閉鎖会社ゆえの不透明さと私物化の危険という問題点は軽視できないが、こうした公益配慮型の企業運営は、未来の共産主義的企業への橋渡し的な位置にあると言えるかもしれない。

2014年5月 2日 (金)

消えた巨匠たち

 音楽界から、巨匠が消えた。クラシックならマエストロ、ポピュラーならスーパースターと呼ばれるようなアーティストだ。特にクラシックでは指揮者という総監督的な巨匠がいるものだが、近頃は指揮者も営業マン風だ。なぜだろうか。いろいろ考えると、やはり市場経済に行き当たる。
 音楽がクラシックも含め市場経済に組み込まれて久しいが、近年市場規模の拡大に伴い、大衆の趣向の多様化に直面する文化資本にとっては、「多品種変量生産」が無難な戦略となる。一人の巨匠に頼るより、多数のアーティストを売り出してトータルに稼ぐほうが効率的だ。実際、単独性の強いアイドル歌手までも今やソロではなく、グループが普通になっている。
 悪く言えば小者揃いという現状は果たしてどうなのか。一握りの巨匠が音楽シーンを独占していないという点ではある種“民主的”とも言えるが、強烈にずば抜けたパフォーマンスが見られず、どれもこれもどんぐりの背比べというのは、鑑賞者からすれば、寂しい気もするのだが。
 結局のところ、巨匠とは市場経済に半ば組み込まれていても、実際上は市場原理を超越した普遍性を持つアーティストたちであった。だから、音楽の市場化が途上だった頃にはまだ存在し得たのであるが、音楽市場経済が完成に至った今日、巨匠の居場所はなくなったのだ。

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