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2014年3月

2014年3月30日 (日)

老子超解:第七十八章 無事革命

七十八 無事革命

学問をすれば(知識は)日々増すが、道を実践すれば(知識は)日々減じる。減じてまた減じ、無為に至るのである。無為にして何かを達成できないことはない。
天下を取るにも必ず無事による。ことさらな事に及んでは、天下を取り損なうのだ。


 前段は哲理篇第三十章で説かれていた老子的知性論「知少」の再言であり、前章で言われた「大なる象を把握する」ための具体的な方法である。ここでは、これを前章で説かれた自動革命の知的な要諦を説くものと解した。

 ただ、後段には前章で自動詞的に言われた「天下は往く」ではなく、他動詞的に「天下を取る」という言表が見えるから、これを政論篇第四十九章と同様に統治の意味にとって、「知少」を統治の要諦として再言したものと理解するほうが素直かもしれない。
 しかし、あえてここでは革命の意味―言わば無事革命―に解釈してみた。自動革命とはいっても、寝て待つ果報ではなく、究極的には無為を通じた人為の政治行動なのである。

2014年3月29日 (土)

老子超解:第七十七章 天下往く

七十七 天下往く

大なる象[かたち]をつかめば、天下は(自ずから)そこへ往く。往って混乱はなく、安全、平和、安泰である。
音楽や料理となると、通りすがりの人も足を止める。道が言葉に出されると、淡白で味わいもない。それを視ようとしてもよく見えず、聴こうとしても聞こえないのであるが、その効用は尽きないのだ。


 
通行本第三十五章の本章は、字句通りに読めば大なる象、すなわちの把握により世界が開示されるという形而上学的な哲理が述べられていることになろうが、「天下往く」という動的な表現からは、同時に政治的な革命を示唆するものと二重に解釈できる。
 
ここで「天下を取る」と他動詞的でなく、「天下は往く」と自動詞的に表現されているのは、言わば革命の自動性(必然性)を述べたものであろう。このことは次章以降でさらに明らかにされる。
 なお、後段は哲理篇でも説かれていたの微妙かつ有用な物象性について、音楽や料理の大衆誘引力との対比で再言したものである。

2014年3月26日 (水)

スウェーデン超小史(連載第6回)

五 社会民主主義革命

社会民主党結党
 19世紀までのスウェーデンは未開発の農業国であった。そのため、19世紀後半の議会制度黎明期、最初に現れた萌芽的大衆政党は農民を主要な支持基盤とするラントマンナ党であった。ラントマンナとは「地方人」を意味する。当時の大衆は地方農民であった。
 ラントマンナ党は明確なイデオロギーを携えた近代的政党ではなかったが、依然国政を牛耳っていた貴族・聖職者層への野党的意義を担い、同党からは第二代首相として貴族出身のアルヴィド・ポッセを輩出するなど、国政でも影響力を示した。同党は自由貿易主義と保護貿易主義をめぐりいったん分裂したが、再統合した後は連合的な保守政党として発展、今日の保守系有力政党・穏健党へ連なる。
 19世紀末になると、スウェーデンでも遅れて工業化が始まる。1880年代には労働組合が結成され、先行のドイツ社会民主党の影響下に、1889年に社会民主労働者党(以下、社民党と略す)が結成された。同党は、1896年にはリベラル政党・自由党の支援で初の議席を獲得するなど、早くから議会政治に進出した。

メンシェヴィキ派の勝利
 初期スウェーデン社民党の立役者は、ヤルマール・ブランティングであった。彼はベルンシュタイン流の筋金入り修正主義者であったから、スウェーデン社民党では当初から修正主義が党内主流となる。
 同党は1917年にはいち早く自由党との連立政権に参加し、与党を経験した。同じ年に勃発したロシア革命をめぐる党内抗争で、非主流のボリシェヴィキ支持派が集団離党、21年に共産党を結成したため、残留主流派はメンシェヴィキ支持の議会主義政党として純化・発展することとなった。
 その結果、20年には早くも政権を獲得した。この第一次ブランティング政権は選挙で成立した史上初の「社会主義」政権とされる。ブランティングは翌年の普通選挙制導入後もさらに二度、20年代に計三度にわたり首相を務めている。こうして他国の同種政党に先駆けて社民党が議会政治に適応したスウェーデンは、社民党ボリシェヴィキ派が革命に勝利し、一党支配体制を樹立したロシアとは対照的な20世紀史を歩むことになるのであった。

静かな革命
 社民党は1925年のブランティング死去の翌年に政権を失うが、32年の総選挙で再び政権を獲得する。この後、同党は36年ひと夏だけの中断をはさみ、第二次大戦を越えて76年までおよそ44年にわたり、選挙を通じて政権を維持していく。この期間こそ、社会民主主義に基づくスウェーデン福祉国家モデルの構築期であった。それは長い、静かな社会革命であった。
 とりわけ大戦後間もない46年から69年まで、民主国家の指導者としては異例の20年以上連続して首相を務めたターゲ・エルランデルの時代が、その全盛期である。
 その政策は、一代前のペール・アルヴィン・ハンソン首相が提唱した「国民の家」という理念の具体化であり、階級闘争ではなく、政府の福祉政策による資本主義市場経済の修正を旨とした。言い換えれば、ソ連式の国有化・集団化ではなく、資本及び個人からの租税収入に支えられた社会国家の構築が目指された。それはベルンシュタイン流修正主義の発展モデルでもあった。
 そうしたモデルがスウェーデンにおいて高度に発達した条件として、第二次大戦でも中立政策を維持し、戦争での出費・犠牲がなかったことも大きいが、より大きくは19世紀以来の貴族層主導での民主化の伝統に加え、社民党の選挙戦略の巧みさ、また小国であるがゆえに社民主義的政策の障害となる大資本とそれを支持基盤とするブルジョワ政党の力が弱かったことも挙げられるだろう。

danger1990年代末に明るみに出されたナチスばりの障碍者強制断種政策が内外に衝撃を与えた。対象者は2万人を超え、実施期間は34年から75年まで、ほぼ「革命」の期間に相当した。「国民の家」から障碍者は排除されていたようだ。ただ、これはスウェーデン・モデル固有の政策ではなく、当時の世界的な優生学的偏見を反映したものでもあった。 

2014年3月22日 (土)

老子超解:第七十六章 自然の衡平さ

七十六 自然の衡平さ

自然の法則とは、言ってみれば弓を張るようなものであろうか。高い方は押さえ、低い方を持ち上げ、余りある方は減らし、足りない方を補うのである。人為の法則はそうではない。足りない方を減らし、余りある方へ献上するのだ。
あり余っているものを天下に献上できるのは誰か。道を有する者だけだ。こういうわけで、理想の人は業績を上げても成果に頼らない。功成っても成功に居座らない。そもそも有能さを見せびらかそうとはしないのだ。


 
通行本第七十七章の本章では、配分的・補填的に働く自然の法則の公平性が、収奪的・搾取的な人為の法則と対照されつつ、弓張りのたとえを用いて説かれている。これは前章の反私有制論のより抽象的な展開と言えるだろう。
 ここで言われる公平性とは単なる数量的な平等(=イクォーリティ)ではなく、低い方や足りない方を補填する実質的な衡平(=エクィティー)を意味している。
 ただし、そうした衡平の具現は自然そのものの作用ではなく、それも一つの人為の成果である。後段で、あり余っているものを天下に献上できるのはを有する者だけだと定言されるのは、まさに革命の示唆とも読めるわけである。

2014年3月20日 (木)

原始重力波観測

 先般、ハーバード大学の研究チームが宇宙の生成理論で、加速膨張インフレーション説を裏づける原始重力波の痕跡の観測に成功したと発表した。インフレーション理論は米国のアラン・グース博士や日本の佐藤勝彦博士によって提唱されてきた理論であるが、従来観測データの裏づけがなく、有力仮説にとどまっていた理論の証拠として、宇宙の始まりという最大級の科学の余白を埋める発見である。
 このところ世界を騒がせているSTAP細胞も米国側ではハーバード大学が関わっていたが、今度は確実なのだろうか・・・。 と慎重に受け止めなければならないほど、STAP細胞問題は科学世界の信頼を揺るがせているが、物理学では理論仮説と実験または観測による検証が分離されている点で、捏造の危険は比較的回避しやすいかもしれない。もちろん、この観測自体の検証も求められる。 
 とはいえ、インフレーション理論の土台となったビッグバン理論も当初は常識破りの理論であったから、STAP細胞も誰かが別の方法であれ、生成に成功すれば、存在が改めて証明されることになるだろう。検証されないものは結論を急がず、あくまでも仮説として提唱すれば、捏造疑惑は避けられる。 

[追記]
懸念していたとおり、本研究もその分析手法への疑問が広がっている。原始重力波による渦巻き模様とされた「Bモード偏光」は、銀河のちりがもたらす偏光だった可能性を排除できていないという。STAP問題と類似の結論先行的手法である。物理学よ、お前もか!

[続・追記]
2015年1月、欧州宇宙機関などの国際研究チームは、138億年前に宇宙が誕生した直後の原始重力波の痕跡をとらえたとした米研究チームの昨年3月の発表は誤りであり、一部で指摘されていた通り、銀河のちりの影響であると結論づけた。

2014年3月16日 (日)

老子超解:第七十五章 反私有制

七十五 反私有制

私にわずかでも世知が授けられれば、大路を歩みながら脇道へ逸れることを恐れるだろう。大路は極めて平坦であるのに、世人は脇の小路を好むからだ。
宮廷は立派に掃き清められていても、田はひどく荒れ、米倉はすっかり空だというのに、(支配層は)飾り立てた服を着て、鋭い名剣を帯び、飽きるほど飲食し、財貨はあり余っている。これを盗っ人の奢りという。盗っ人の奢りとは何と道に外れたことか!


 
通行本第五十三章に当たる本章は、まるでプルードンの「所有とは盗みだ!」を思わせる老子にしては烈しい憤りの心情を吐露する珍しい章である。
 前段の「脇道」とは、から外れた私有制の暗喩であろう。「世知が授けられれば」とは、遠大で世知とは縁遠く、世人からは愚者と揶揄された(第四十二章参照)老子の皮肉である。
こうした内容からも、本章は老子的革命論の序説を成すものと読める。
 超然主義的な老子は後継の荘子とともにおよそ革命とは無縁の隠者と解釈されるのが普通であるが、そうした通念に反して本章は政治的関心の深い老子と超越的な荘子の決定的な相違を明瞭に示している。

2014年3月15日 (土)

余白は汚されていた

 第一報の過熱報道の際、慎重に構えておいたとおり(余白を汚すなかれ)、やはり簡易なSTAP細胞なるものは、少なくとも時期尚早であったようだ。これまで公表されている情報では、実験そのものが捏造であったとまで断定できないとはいえ、決定的な証拠写真が加工ないし「誤掲載」であったとなれば、反証可能な証拠は存在しないことになり、科学的な事実としては認められない。
 それにしても、専門的な研究者(複数)が科学的方法論の素養すら疑わせる論文を出し、指摘されるまで気がつかなかったというのもにわかに信じ難く、捏造の疑いは晴れない。少なくとも功を焦り、自己検証不十分なままに論文発表したことは間違いだろう。iPS細胞との安易な対比に関して重要な警告を発していた山中博士の指摘を軽視して、過熱報道にのめり込んだメディアにも責任の一端はあろうが、余白は報道の前に科学者自身の手によって汚されていたのだ。
 科学の余白を我が手で埋めたいという野心は第一線の科学者であれば誰もが持つであろうし、それが研究意欲の源泉でもあろうが、純粋の理論物理学などとは異なり、生命科学では特許や研究資金獲得競争も絡み、研究者の焦慮と不正への誘惑が生じやすい。そうした悪魔の囁きから逃れるためには、モラル論だけでは無理で、透徹した科学哲学を確立する必要があるだろう。

2014年3月13日 (木)

スウェーデン超小史(連載第5回)

四 ベルナドッテ朝の時代

ベルナドッテ元帥の招聘
 グスタフ3世を追放した宮廷立憲革命の後擁立されたのは、3世の叔父に当たるカール13世であったが、かつては兄グスタフ3世の反動政治の協力者だった彼は政治的な定見を持たず、女性関係に派手な人物で、世子もなかったため、生前から王位継承問題が発生した。
 スウェーデン議会は当初デンマーク王家の分家に当たるアウグステンブルク家のカール・アウグストを王太子に指名したが、彼が落馬事故がもとで急死すると、曲折を経て最終的に敵国であるフランスのナポレオン麾下ベルナドット元帥を招聘するという奇策に落ち着いた。
 スウェーデン語読みでベルナドッテは生粋のフランス人で、法律家の息子から兵卒として軍に入り、ナポレオンに認められて将軍まで昇進した職業軍人であって、軍功によりナポレオンからイタリアのポンテコルヴォ大公に封ぜられていたとはいえ、王族はおろか本来貴族でさえなかった。
 このような人物が王太子として招聘されたのは、かつて反ナポレオンの立場でスウェーデンがフランス陣営のデンマークと戦った際、フランス軍の将軍だったベルナドッテがスウェーデン兵捕虜を丁重に扱い、敵国スウェーデンでも好感を持たれていたことがあるとされるが、そればかりでなく、対ロシア防備を考慮すると練達の軍人が元首となることに意義があったこと、さらには立憲君主制の確立を目指す革命派にとってスウェーデン事情に疎い外国人の王を担ぐほうが都合が良かったであろうことも考えられる。
 ナポレオンはこの奇策を馬鹿げたものとみなしたが、反対もしなかったため、ベルナドッテはスウェーデンで優勢なプロテスタントに改宗したうえ、1810年、カール13世の王太子兼摂政として着任した。

カール14世ユーハン
 王太子兼摂政時代のベルナドッテは、期待どおりさっそく軍人としての手腕を発揮する。ナポレオンとの関係はすでにフランス軍人時代から微妙なものなっていたが、「スウェーデンのために戦う」と宣言してスウェーデン王太子となってからは、反ナポレオンの立場を鮮明にし、反仏盟主ロシアと同盟を結ぶ冷徹な一面を見せた。
 ナポレオンがロシア遠征の失敗で勢力を失うと、迷わず反ナポレオン連合に参画し、1813年のライプチヒの決戦では連合軍総司令官として勝利に貢献した。その後、親仏の隣国デンマーク領ノルウェーに侵攻し、14年にはキール条約でノルウェーを併合するなど再び「大国」の時代の再現も演じてみせた。
 凱旋の栄誉に浴する中の18年、ベルナドッテはカール13世死去を受けて、カール14世ユーハンとしてスウェーデン国王に即位した。即位後の彼はノルウェーの反乱を鎮圧してノルウェーを同君連合下に置いた後、しそれ以上の膨張政策は封印して武装中立政策を採り、ナポレオン打倒後の反革命的な国際秩序ウィーン体制を忠実に履行した。
 カール14世ユーハンは内政面でも超保守的であった。彼は革命派が期待したような民主的な立憲君主制も支持せず、ウィーン体制の枠内で権威主義的に振舞ったが、専制君主となることはなく、26年に及んだ治世中、スウェーデンは内外ともに安定した環境にあったため、44年に81歳で死去するまで、その王座が揺らぐことはなかった。

ベルナドッテ朝の確立
 カール14世ユーハンを継いだのは、ナポレオンの元婚約者だったやはりフランス人のデジデリア王妃との間の一人息子オスカル1世であった。
 彼は即位後間もない1848年にヨーロッパ各地で同時発生した民主革命「諸国民の春」には否定的で、そのスウェーデンへの波及を抑圧したが、父王とは異なり、民主的な価値観の持ち主であり、立憲君主制の確立には積極的であった。そのため、スウェーデンの立憲君主制はオスカル1世時代から整備されていく。
 外交面でもヨーロッパを巻き込むクリミア戦争と戦後のポストウィーン体制の中で英仏と協調しながら難しい舵取りに成功し、折から沸き起こってきた近代ナショナリズムの波の中で、スウェーデンを近代的国民国家として確立する地ならしをした。
 オスカル1世の後は、彼の二人の息子カール15世とオスカル2世の兄弟が相次いで即位したが、この時代に古い身分制議会の廃止と近代的な議会制度・内閣制度の創設などの民主的な改革がいっそう進んだ。
 外交面では、オスカル2世最晩年の1905年には同君連合下にあったノルウェーが分離独立し、前世紀初頭にロシアに割譲されたフィンランドに続いて領土は縮小され、「大国」スウェーデンの時代は最終的に終焉する。
 しかしベルナドッテ朝自体は近代的な立憲君主制として確立され、以後今日まで揺らぐことなく続いている。

danger17世紀以来続いたスウェーデンの外国人招聘王朝の伝統は、ついにスウェーデンと縁もゆかりもないフランス軍人ベルナドットの招聘で頂点に達したわけであるが、この奇策は大成功であった。伝統やしがらみにとらわれない平民出身のベルナドッテ朝は民主化に積極的であり、やはり17世紀以降外国人王朝であった英国と並び、他国に先駆けた民主的な立憲君主制の樹立に貢献したのだった。1980年には、ヨーロッパ王室で初めて男女不問の第一子王位継承制を導入している。

2014年3月 9日 (日)

老子超解:第七十四章 十歩後退

七十四 十歩後退

用兵について言われていることがある。吾が方から先制攻撃せず、応戦せよ。一歩前進でなく、十歩後退せよと。これを行軍するに道なく、腕まくりするに腕なく、手に取るに武器なく、引きずるに敵なしという。
禍は敵を軽んずるほど大きなものはない。敵を軽んずれば、私の宝(三宝)をほぼ失うことになるであろう。ゆえに交戦して兵力が均衡していれば、(交戦を)哀しむ側が勝つのだ。

 
 明確に兵略を説く通行本第六十九章に当たる本章から、老子の戦争論はある種の専守防衛論であることが窺える。この点では前章の内容と合わせ、墨家の「非攻」思想と通ずるところがある。
 墨家の祖・墨子のほうが後世の人とすれば、老子が墨子に影響を及ぼした可能性もあるが、おそらく逆に比較的後世の人である老子が先行の墨子から影響を受けたものだろう。そう考えると、老子には儒教の仁愛を差別愛とみなして批判するところなど、全般に墨家思想からの影響が認められる点は注目される。 
 ちなみに、本章は次章以降と関連する老子的革命戦術論として読むこともできなくはない。そう読むと、レーニンの「一歩前進、二歩後退」論との微妙な違いも意識される。
 本章でも言及された老子的三宝(第四十二章)の一つに「後」(後衛)があったように、老子は一歩たりとも前衛には出ないのである。

2014年3月 8日 (土)

老子超解:第七十三章 不祥の用具

七十三 不祥の用具

そもそも兵器は不祥の用具であり、あるいは万物も嫌悪するものであるから、道を有する者はそれに頼らないのである。(だから)平時は(吉の)左をよしとし、戦時は(凶の)右をよしとする。
兵器は不吉な用具であって、貴人の用具ではない。やむを得ずこれを用いるときは、あっさり使うのがよい。戦勝しても栄誉ではないのに、これを栄誉とする者は人殺しを楽しんでいるのだ。そもそも人殺しを楽しむ者は志を天下に得ることはできない。
吉事では左をよしとし、凶事では右をよしとする。(軍隊でも)副司令官は左につき、司令官が右につくのは、葬礼の礼式によっているわけである。そして(戦争で)大勢を殺したときは、悲哀をもって泣き、戦勝すれば葬礼を挙行するのである。

 
 通行本第三十一章に当たる本章からも、老子は決して観念的な平和愛好家ではなく、戦国時代の現実を踏まえた最小限戦争論者であることが見てとれる。

 ただ、やや冗長な本章は内容的にも兵家的に軍事を正面から説いており、老子のオリジナルかどうか疑われてきたところでもあるが、戦争を必要悪とみなし、勝者の側が大勢の犠牲を出した敗者のために葬礼を挙行すべしとする意表を突く逆説はまさに老子的であり、仮に後世の付加だとしても、老子の思想を十分に踏まえた内容と言える。

2014年3月 5日 (水)

すべては「途上国」

 前回「先進国」の新定義について述べたが、共産主義経済学の視点から見ると、実のところあまり意味のある議論ではない。共産主義の観点から見れば、地球上の現存国家はすべて未だ共産主義段階に達していない「途上国」だからである。
 とはいえ、こうした総途上国の中にも、先頭グループ(先端途上国)・中間グループ(中位途上国)・後進グループ(後進途上国)の分類は可能である。
 このうち、先頭を行く先端途上国とは、資本主義的な発展段階を問わず、国家の枠組みを緩め、かつ貨幣経済(市場経済)の適用範囲を限定しようとしている諸国を指す。具体的に言えば、国家権力の抑圧性が弱く、無償サービスの適用範囲が広い国である。
 そうした視点で見ると、先端途上国に含まれるのは、欧州の中小国の一部に限定されてくるだろう(結果的に、資本主義的な意味での「先進国」と重なる)。
 中東などの産油国では、無償サービスの適用範囲は広くとも、国家権力の抑圧性は強いことが多いため、先端途上国とは言えない。ただし、これら諸国も国家権力の緩和に努めている限りでは「中位途上国」に分類し得る。
 これに対し、国家と市場に強く固執し、共産主義を峻拒する姿勢の強い米国や日本をはじめとする資本主義大国群―その多くは資本主義的に見ても「後退国」であるが―は、ここでの分類においては明確に「後進途上国」とみなさざるを得ないだろう。 

2014年3月 4日 (火)

「先進国」の新定義

 前回、資本主義的な発展レベルで見た場合に、従来の「先進国」「途上国」に「新興国」と「後退国」を加えた四つの国家分類について触れたが、この分類でいくと、「先進国」とはどんな国なのか。
 元来政治経済学的に厳密な「先進国」の定義があるわけではないが、かつて経済開発一辺倒の時代であれば、生産力の規模が大きな国ということで十分であった。しかし、生産力の規模だけなら「新興国」も相当伸びてきている現在では、生活水準の高さ―その基盤に生産力の高さは当然ある―が「先進国」の最大基準になろう。
 その場合も単純に一人当たりGDP値といった数値基準だけでなく、暮らしを支える公的な社会サービスが充実しており、住宅や医療・介護・福祉、保育・教育といった分野で、家計の負担が少なく、安心して暮らしていけるような制度が整備されているかどうかという基準も加味して見るべきであろう。
 こういう実質的な基準で見た場合、現時点での「先進国」は北欧、ベネルクス、中欧等欧州の中小国を中心に、通常はせいぜい「新興国」の分類にとどまる中東等の一部産油国が含まれてくる可能性がある。一方で、大国はほとんど含まれないだろう。
 その総数は20にも満たず、総人口でもわずかである。要するに、地球人の大多数は「先進国」の住民ではないという残念な事実が浮かび上がる。

2014年3月 2日 (日)

スウェーデン超小史(連載第4回)

三 衰退から「革命」へ

絶頂期から対ロシア敗戦まで
 ヴァーサ朝を継ぐプファルツ朝初代カール10世は、ヴァーサ朝の遺産を活用し、国力のさらなる増強に鋭意努めた。彼はクリスティーナ前女王の平和政策を改め、依然大国であったポーランド、デンマークとの北方戦争に乗り出す。
 この戦争は1660年、カール10世が急死したことで、講和へ向かった。スウェーデンは軍事的に勝利しなかったが、有利に講和し、特にポーランドの王位請求を放棄させたことで王権が安定し、バルト海域の覇権を確立することに成功した。
 カール10世を継いだ息子のカール11世は即位時わずか4歳であったが、摂政統治期を経て、1672年以降親政を開始すると、重臣ユーハン・イェレンシェーナの助力を得て絶対王権の樹立へ向けた改革に着手する。
 特に80年から82年にかけて国王への権力集中や大貴族の土地収用などの政策を断行し、晩年の93年には王の絶対性が宣言されるに至って、スウェーデン絶対主義は頂点に達する。晩年はアウクスブルク同盟への参加とその結果としての大同盟戦争にも関わったが、終戦を見ずに97年、死去した。
 カール11世の治世は早世した父とは異なり、40年近くに及び、「カール朝絶対主義」とも称される強力な王権によってスウェーデンをバルト海域の大国に導いた。
 11世の後は、息子のカール12世が15歳で継いだ。彼は好戦的な人物で、その治世はほとんど戦争に費やされた。特にピョートル1世(大帝)の下で台頭してきた帝政ロシアとの戦争である。1700年から20年以上に及んだこの大戦―大北方戦争―は、「大国」スウェーデンにとって一大転機となった。
 この戦争は当初こそスウェーデン優勢で、12世は「北のアレクサンドロス」の異名をとるが、09年、ウクライナ東部ポルタヴァの戦いで敗れると、戦況が変わり、ロシアに押されていく。結局、18年、彼はロシア陣営のデンマーク支配下にあったノルウェー攻略戦中に戦死を遂げた。
 12世は生涯独身だったため、妹のウルリカ・エレオノーラが即位したが、この時点でロシアの勝利は確定していた。同時にスウェーデン元老院は絶対王政を否定するべく、王権を制限する新憲法を制定し、スウェーデン絶対王政は外交・内政両面でひとたび崩壊したのであった。

「自由」の時代と反動
 ウルリカ・エレオノーラ女王はわずか2年ほどで、王位を夫のヘッセン・カッセル方伯フレドリク1世に譲り、ここにプファルツ朝に続いて同じくドイツ系のヘッセン朝が成立した。
 フレドリク1世の初仕事は、大北方戦争を終結させるニスタット条約の締結であった。これによって、スウェーデンはバルト海域の領土を喪失し、同海の覇権をロシアに譲り渡すことになった。内政面でも、フレドリクは憲法によって権限を制約され、国政は貴族層に掌握された。
 結果として、スウェーデンでも立憲君主制が成立したが、それは貴族層に実権が戻されることを意味した。とりわけこの時期は、親露のメッソナ派(キャップ派)と親普仏のハッタナ派(ハット派)の二大党派対立が激化した。両派閥はそれぞれパトロン国から資金援助を得て活動したため、この時代のスウェーデンはロシアと普仏を中心とした西欧の傀儡的な状況となった。
 絶対王政を脱した限りで「自由」の時代とも呼ばれるこの貴族党派政治は、世子なく没したフレドリク1世を継承した同じくドイツ系ホルシュタイン・ゴットルプ朝のアドルフ・フレドリクの治世でも継続された。
 両派は政策面でも、重商主義的なハッタナ派に対しメッソナ派は自由主義的で、1766年には当時の欧州でも珍しかった言論の自由法を制定するなど、イデオロギー的な違いがあり、二大政党政の萌芽のような要素が見られた。
 この党派対立がスウェーデンの国力を弱めていることが明らかとなると、アドルフ・フレドリクを継いだ息子グスタフ3世は自ら宮廷クーデターを起こして実権を掌握し、再び絶対王政の復活に乗り出したのだった。彼はフランス絶対王政を範とし、文化的にもフランス化を進めた。一方で彼はフランス啓蒙思想の影響も受けた啓蒙専制君主でもあったが、言論の自由法は大幅に制約され、治世中に勃発したフランス革命に際しては、反革命の立場を鮮明にした。こうして、スウェーデンは反動の時代に入る。

立憲宮廷革命
 1792年、国王に反感を持つ元近衛士官の一貴族によって暗殺されたグスタフ3世を継いだ息子のグスタフ4世は、父王の反革命政策をいっそう強化し、絶対王政の再確立を目指した。
 外交的には、父王の反革命政策を継承し、反ナポレオンの立場から、ロシアと同盟し、アメリカ独立戦争に際しての武装中立同盟にも参加するが、ナポレオンの大陸封鎖やロシア懐柔策などの巻き返しにあい、外交的な閉塞状況に陥った。結果として、ロシアのスウェーデン領フィンランドへの侵攻を招き、フィンランド領土の大半を喪失した。
 内政面でも、当時のスウェーデンの主産業であった農業の不振や財政難にも直面し、グスタフ4世に対する国民各層の不満が高まっていった。
 こうした内憂外患の中、1809年、反グスタフ派の軍人・貴族らが決起し、グスタフ4世は拘束、廃位された。これを受け、グスタフ4世の叔父に当たるカール・ヨハン―彼は元来、兄グスタフ3世の反動クーデターの協力者であった―が臨時政府摂政に就任、続いて国王カール3世として即位した。
 この政変は形の上では軍事クーデターであったが、グスタフ3世・4世父子の時代に息を吹き返した絶対主義的な反動政治を終わらせ、再び「自由」の時代の立憲君主制が復活された限りでは、立憲宮廷革命の性格を持つ出来事であり、近代スウェーデン史の幕開けでもあった。

danger18世紀から19世紀初頭にかけてのスウェーデンは、絶対主義と自由主義の間を揺れ動く激動の時代であった。この間に「バルト帝国」の地位をロシアに明け渡し、「大国」から「小国」へ退いていく。興味深いことに、今日のように民主的かつ社会サービスが充実したスウェーデンの「生活大国」への道は、国際的な関係では「大国」を滑り落ちて、「小国」になってから開かれていくのである。

2014年3月 1日 (土)

老子超解:第七十二章 反軍国

七十二 反軍国

道によって政治指導者を補佐するとは、天下に軍国を強いることではない。それではかえって報いを受けるものだ。軍団が駐留した所は荒地となり、大戦の後には必ず凶作の年が来る。
すぐれた者はただ勝つのみである。それ以上に強がらない。勝って誇ることなく、勝って威張ることなく、勝って驕ることなく、勝ってやむを得ないことだったとする。これを勝って強がらないというのだ。
物は強盛であるほど衰退する。これを不道という。不道では終わりも早い。


 
反軍国を説く通行本第三十章に当たる本章は、前章の趣旨からすれば当然の事理を述べたものである。
 前章でもが行われ平和であれば軍馬は耕作に転用されるとあったが、本章では戦争による畑地の荒廃、凶作が懸念されているように、老子には農を重視する農家思潮とも共振するところがある。

 第二段は軍国思想の根底にある強盛の追求を戒めている。強盛を衰退の徴候とみなす「不道」を説く第三段は哲理篇第二十一章第三段のリフレインである。

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