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2013年12月

2013年12月29日 (日)

老子超解:第五十九章 反収奪

五十九 反収奪

民衆が飢えるのは、お上が税を収奪するからこそなのだ。民衆を治め難いのは、お上がことさらなことをして干渉するからこそなのだ。民衆が死を軽んずるのは、お上が生命に執着するからこそなのだ。そもそも生命をことさらに重視しない者は、生命を貴ぶ者より賢明なのである。


 通行本では終章に近い第七十五章に当たる本章では簡潔ながら幾つかのことを重畳的に説いているが、中心は冒頭の「反収奪」にあると見れば、続く「民生不干渉」を説く句と合わせて、
結局はかの無為の政治を具体化したものと読める。
 後半は哲理篇第三十九章でも見た「生命執着の戒」の再言である。哲理篇では「生命に執着すると、自ら死を招く」と逆説的に説かれていたが、本章ではそうした養生論ではなく、政論として敷衍されている。ここでも民衆が死を軽んずる風潮の要因を為政者の生命執着に求める老子的逆説は忘れられていない。
 ちなみに重税による収奪は、為政者自身の永生・繁栄を願う生命執着の現れとも言えるから、そうした意味での養生政治批判は冒頭の「反収奪」ともつながってくるだろう。

2013年12月28日 (土)

老子超解:第五十八章 反圧政

五十八 反圧政

民衆が為政者の権威を畏れなければ国難に至る。
そこで民衆の生存を脅かしたり、その生業を圧迫したりしないようにせよ。圧迫しないからこそ、圧迫されないのだ。
こういうわけで、理想の人(為政者)は自ら明知に達しても誇示せず、自愛しても自尊しない。だから、あれを捨ててこれを取るのだ


 通行本第七十二章に当たる本章から先では、前章までの総論を踏まえて各論的な政治政策論が展開される。その筆頭章の主題は「反圧政」である。

 これは無為の政治の核心と言ってよいもので、近代政治学流に言えば消極国家論である。ただ、消極国家の典型である夜警国家とも異なり、老子流消極国家は警察的ではない。このことは、第五十五章の「悶々たる政治」でも示されていたとおりである。
 第一段は後続段との関連性がやや薄いように見えるが、為政者の強権的な権威ではなく、為政者の良い意味での権威―抑圧・圧迫しないことへの信頼―の必要性を反面的に説くものと解し得るであろう。
 第二段の「圧迫しないからこそ、圧迫されない」はそうした為政者‐民衆間の信頼関係を簡潔に語る箴言である。

2013年12月26日 (木)

投資という生き方

 晩期資本主義とは、良くも悪くも「資本主義らしい資本主義」である。そういう時代に最もふさわしい生き方は、投資である。投資で生きるということは不労所得で生きることを意味しており、典型的にブルジョワ的な生き方ではある。
 だが、資本主義とはまさに資本の投下から始まる経済である。であれば、株式投資に代表されるような投資活動は資本主義に不可欠のバックボーンである。
 今、株式市況が活況を呈し、プチ・バブルの様相であるが、バブル経済とは資本主義の生理的本質であって、決して病理現象ではない。法則上バブルの後にはその崩壊プロセスが来るが、そうしたアフター・バブルも計算に入れた投資行為は資本主義的な生理行動である。
 しかし、投資が真に資本主義的と言えるのは、むしろそれが究極の搾取だからである。搾取の現場実務は企業の経営責任者が担うが、そのバックには投資者が隠れている。効率的な労働搾取で利潤を上げ、株主に株価上昇の利益をもたらすことを要求しているのは投資者にほかならない。
 自ら搾取される労働者でありながら、そうした搾取に加担することを潔しとしないという向きもあろう。だが、遠慮は無用である。これからは賃金増はおろか、安定雇用も多くは望めない時代である。好・不況の波と雇用は連動しなくなる。好況だが雇用はないということが常態化する。
 だから、もはや賃金所得だけには頼れない。賃金をすべて生活費に投入するのではなく、少なくとも一部は投資に回し、短期的にも長期的にも資産を殖やしていく。 
 自ら搾取される労働者であると同時に、搾取する側にも回る。晩期資本主義時代には生計の技術として堂々とそうすることが許されると割り切ってよいと思うのである。

2013年12月22日 (日)

老子超解:第五十七章 道に基づく政治―総括

五十七 道に基づく政治―総括

遠い過去のすぐれた実践者は、(道によって)民衆を小ざかしくしたのではない。むしろ純朴にしようとしたのだ。民衆を治めにくいのは、かれらに小ざかしい知恵が多いからである。だから、知恵によって国を治めるのは国の害となる。知恵によって国を治めないのが国のためである。この二つのことを理解するのはやはり鉄則である。いつもこの鉄則を理解していること、これを玄徳という。玄徳は深遠である。万物とともに(根源へ)復帰する。そうして然る後に(道への)大なる帰順へと至るのである。

 
 
通行本第六十五章に当たる本章の前半は、無為の政治の知性的側面を説く。その基調は反啓蒙論に置かれている。
 原文では「以愚之(民)」と表現されているが、これは文字どおりの愚民化政策を意味しているのではない。老子的知は、哲理篇第二十三章で示されているように、儒教的な知識ではなく、啓蒙を手段として復帰的に到達するような明知(洞察)であった。
 つまり、「以愚之(民)」の真意は儒教的な知識政治を排し、言わば「非知の政治」を対置することを通じて、末尾で示唆されているように、に基づく政治に帰着せしめようとするにある。
 要するに、に基づく政治を序説的に説き起こした第四十八章に始まる政論篇総論部分の総括的な意義を持つのが本章である。

2013年12月19日 (木)

スウェーデン超小史(連載第1回)

序 バイキング時代

スウェーデン・モデルの源
 北欧の中心国スウェーデンは租税を原資としたその高度な社会政策と平等性、また透明性の高い民主政治をもってしばしば「スウェーデン・モデル」として範例化され、北欧周辺国はもとより、世界中で参照され、影響を及ぼしてきた。
 そのモデルは専ら近代以降に構築されたものであるが、源は歴史の中にある。従って、歴史を異にする諸国が表面上模倣することはできないものがある。
 しかし、遠く離れた日本でスウェーデン史は意外に知られていない。そのため、スウェーデンはどこか遠くの楽園として理想化されがちであるが、その歴史は世界歴史上の重要な出来事とも密接に絡み合い、意外な激動に満ちている。そうした歴史を踏まえて、スウェーデンの現実を直視することは、スウェーデンを楽園ではなく、問題も抱える生身の一国家としてとらえ直す契機となるであろう。

陸に上がったバイキング
 スウェーデンの歴史は、北方ゲルマン人のバイキング活動の渦中で始まる。バイキング活動は、4世紀から5世紀にかけての「ゲルマン民族大移動」の際には移動の波に加わらなかった北方ゲルマン人による遅れての移動を伴う植民活動であったと言える。
 それは海洋民族であったかれらの特質を反映して多くは海上活動の形を取ったが、その中でスウェーデン系バイキングの活動はやや特殊であった。かれらは他のバイキングとは異なり、言わば陸に上がったのである。
 スウェーデン系バイキングは東方を目指し、海の代わりにドニエプル河やボルガ河のような大河を往来し、ビザンティン帝国や新興のスラブ諸国、イスラーム世界のような東方世界と接触した。
 他のバイキングと同様、かれらも商人であったが、スウェーデン系バイキングはノルウェーやデンマーク系バイキングが事とした略奪活動よりも正当な商取引活動を選好した。その商業中心地は世界遺産にも登録されているビルカであった。この遺跡からの出土品には西欧を含む東西を結ぶ活発な商取引の証拠が残されている。

ロシア建国
 東方へ進んだスウェーデン系バイキング活動の白眉は、9世紀、ロシアの建国に関与したことである。確証は不十分であるが、ロシアの語源である「ルーシ」がスウェーデン系バイキングの別称ともされるように、ロシアは東欧に定着したスウェーデン系バイキングの首長によって建てられたと推定されている。
 かれらがスラブ系国家の建国者となったのは、当時分裂状態にあったスラブ人勢力からの推挙によるものであったとされる。当初はリューリク、シネウス、トルヴォルのルーシ人豪族三兄弟の分割統治であったが、長男リューリクが二人の弟の死後、ホルムガルドと呼ばれた現ノヴゴロドを建設、ここを首都とする公国を単独で建て直した。これが、その後16世紀まで続くロシア最初の王朝リューリク朝の始まりである。
 リューリクの死後、後継者によって首都は現ウクライナ領のキエフに遷され、以後、キエフ公国が確立される。公国は元来、公家を中心とする支配層のごく一部のみがスウェーデン人系であって、大多数の公国民はスラブ系であったため、建国後間もなく、公家も含め、急速にスラブ化していき、キエフ公国の歴史はもはやスウェーデン史とは分かれ、ロシア・ウクライナ史に手渡される。

dangerリューリク朝の起源をめぐっては、スラブ民族主義史観の立場からルーシ人のバイキング出自を否定し、元来ルーシ人はスラブ系であるとする見解がロシア・東欧では有力である。いずれにせよ、スウェーデン系バイキング活動がロシア方面にも及んでいたことは確実である一方、リューリク朝の歴史の大部分がロシア史に属することもまた確かである。

2013年12月18日 (水)

気象台か、展望台か

 2008年のリーマン・ショックに端を発した世界大不況は、懸念された「大恐慌」の再来には至らず、ひとまず収束し、資本主義は生き延びた。あれから5年を経た現在は、巻き直しの好況期に入っているようである。
 短期的には一安心ということだろうが、資本主義の歴史においては、ここからが晩期資本主義本番である。つまりは、終わりの始まりである。最終的な終わりがいつになるかはわからない。おそらく100年単位の過程であろう。だから、普通に考えて現在世代が生きている間に本物の終わりを見ることはないかもしれない。
 問題はその先である。だから資本主義をありのままに受け止めようとするか、それともポスト資本主義を展望しようとするか。前者なら、某紙コラムのタイトル「経済気象台」がふさわしい。そこでは、せいぜい明日の経済気象を予測し、対策していればよいからだ。
 後者ならば、「経済展望台」である。ここでは、100年先を予見しなければならない。そこから逆算して明日の対策も考えるのである。ポスト資本主義から逆算して、晩期資本主義を生きる術を見出す。それが、本プチ・コラムのちいさな目的である。

2013年12月15日 (日)

老子超解:第五十六章 嗇の政治

五十六 嗇の政治

人を治め、天に仕えるには、嗇なるに限る。そもそも嗇なればこそ、(道にも)早く服するのだ。(道に)早く服するとは、徳を積み重ねることをいう。徳を積み重ねれば、克服できないものはない。克服できないものがなければ、限界も知らない。限界を知らなければ、国を維持できる。
国を維持する母(なる大元=嗇)を守れば、国は永続するであろう。これを根を深くしっかりと張り、恒久存続する道[みち]というのだ。
大国を治めるのも、小魚を煮るようなものだ(嗇を守ってつましくするのがよい)。


 通行本第五十九章に当たる本章のキーワードは嗇である。これは単なる吝嗇ではないし、倹約とも異なる老子独特の概念であって、精神的な気高さを伴ったつましさのようなものである。

 ただ、本章では個人の倫理ではなく政論として展開されているから、一種の国家財政論と読むことができよう。もちろん単純な緊縮財政ではなく、つましい財政を維持することである。そうした嗇は国を維持する大元だともいう。これもまた無為の政治の財政的側面を示すものと言えよう。
 大国統治の要諦に触れる第三段は、通行本では続く第六十章冒頭の句を評者が本章へ移置したものである。
 「小魚を煮る」とは解釈の難しい独特の比喩であるが、大魚を包丁でさばくような仕方ではなく、小魚を煮るようにつましく統治するという意味に解して本章と関わりが深いものと読解した。

2013年12月14日 (土)

老子超解:第五十五章 悶悶たる政治

五十五 悶悶たる政治

政治が悶悶としたものならば、民衆もほのぼのとして純朴である。政治が察察としたものならば、民衆も純朴さを失ってかりかりとしてくる。
禍あるところに福あり、福あるところに禍あり。こうした(禍福転変の)果てを誰が知っていようか。そもそも正邪の規準はないのであろうか。正しいことがかえって偽りとなり、善がかえって邪悪となる。人々がこうしたことに思い悩むのは、もう古くからのことだ。
こういうわけで、理想の人は方正であっても裁かず、純粋であっても傷つけず、率直であっても我を張らず、光っても輝かないのである。


 通行本第五十八章の本章は、前章まで展開されてきた「無為の政治」の言わば司法的側面について述べた章である。
 「悶悶」とは日本語で意味するあれこれと思い悩む様子のことではなく、ぼんやりとしておおらかな様子を意味する。それと対になる「察察」とは、かっちりとして厳しい様子である。

 要するに、察察とした政治とは、言わば統制的な警察国家の描写であって、当時の中国思潮では厳格な法―なかでも刑法―による社会統制を高調した法家思想に則る政治を示唆するとみてよい。老子はこうした思潮に反発して、悶悶とした政治、すなわち無為の政治を対置しようとしているのである。
 ちなみに、
法家も儒家の仁愛に基づく徳治政治へのアンチテーゼとして登場した思潮であったが、第五十三章でみたとおり、老子は同じく仁愛の政治を批判しながら、法家に対してもアンチテーゼとなる無為の政治という独異なオールタナティブを示そうとしたのである。
 第二段では、そうした無為の政治の倫理的な基底となる禍福、正邪論を展開しているが、ここでの老子は単純な相対主義ではなく、やはり万物相同論によって、禍福や正邪の相同性とそこから生じる禍福、正邪の転変性とを指摘している。
 第三段はそうした倫理的基底に基づき、裁かないことを理想の政治として提示する。「裁かない」という思想はキリストとも共通するが、老子にあってはキリストのような原罪論ではなく、善悪相同論からの帰結である。

2013年12月12日 (木)

ユダヤ人の誕生(連載最終回)

Ⅵ ユダヤ人の確立(続き)

aries「パレスチナ人」の分岐
 ユダヤ亡国後、多くのユダヤ人が離散し、ディアスポラとなったが、ローマ帝国はかつてのアッシリアのように強制移住政策を採らなかったから、故地を離れたユダヤ人は想定されるほど多くはなかった可能性もある。
 そうした残留ユダヤ人がどの程度存在したかは不明であるが、かれらはバル・コクバ大公国崩壊後、ユダヤの名を抹消され、シリア・パレスチナと改名されたローマ属州民として生きることを強いられた。
 4世紀にローマ帝国がキリスト教を容認した後、パレスチナではキリスト教寺院の建設が始まり、キリスト教中心地となる。アエリア・カピトリーナは再びエルサレムに戻され、今日まで続くキリスト教聖地ともなった。
 反キリスト的なユリアヌス帝時代にはユダヤ人のエルサレム立ち入りが解禁され、ユダヤ教神殿の再建許可すら出されたこともあるが(未実現)、長いキリスト教化の過程でキリスト教に改宗するユダヤ人も相当数輩出したと考えられる。
 ローマ帝国の分裂後、パレスチナを支配した東ローマ帝国(ビザンティン帝国)の力が衰えると、アラビア半島から勃興してきたアラブ人の活動が活発になり、特に預言者ムハンマドが創始した新たな一神教イスラームを掲げる勢力が台頭する。イスラーム勢力は7世紀以降、中東各地に遠征し、638年にはエルサレムを征服、ここを聖地とした。
 こうしてイスラーム教が到達すると、パレスチナは宗教的‐文化的にも言語的にも急速にアラブ‐イスラーム化される。その結果、今日「アラブ系」とみなされる「パレスチナ人」が誕生したとされるが、真相はさほど単純ではなさそうである。
 実際、今日の遺伝子系譜学的研究によれば、イスラエルのユダヤ人とパレスチナ人の相当部分はY染色体の遺伝子プールを共有し合っているという。このことは、イスラーム勢力のパレスチナ征服後、同地の残留ユダヤ人の相当数が一部アラブ人とも通婚しながら、イスラーム教に改宗したことを物語っている。極端に言えば、「パレスチナ人」とはイスラームに改宗したユダヤ人である。
 もっとも、今日イスラエル人と対立的に用いられる「パレスチナ人」という民族主義的概念は近代のものであるが、その土台となる中世以降のパレスチナ住民の基層は、元をただせばユダヤ人であったとも考えられるのである。
 かくしてキリスト教徒の分離に続き、イスラーム教改宗によって「パレスチナ人」が分岐したことで、なおユダヤ教を強固に保持する「ユダヤ人」の概念と宗教‐民族意識はいっそう強く確立されていったであろう。
 それは欧州をはじめとする離散地での長い差別・迫害の歴史―その究極がナチによるホロコースト―、一方では実業界や知識界での活躍の歴史の中でさらにいっそう強化され、ついに帰還国家イスラエルの成立をもって、ユダヤ国家は再生を果たすのである。(連載終了)

2013年12月11日 (水)

ユダヤ人の誕生(連載第18回)

Ⅵ ユダヤ人の確立

ariesキリスト教徒の分離
 キリスト教創始者ナザレのイエスが生まれたのは、ヘロデ大王末年の紀元前4年とされる。新約によれば、ヘロデ大王は新たな王がベツレヘムで生誕したとの情報を得て、ベツレヘムの2歳以下の男児全員の殺害を命じたため、イエスの両親はエジプトに避難し、イエスは殺害を免れたという。
 この逸話の信憑性は測り難いが、猜疑心がひときわ強いヘロデ大王は自らの王朝に対する脅威を取り除くためには残酷な粛清も辞さなかったから、こうした事実もあり得なくはないだろう。
 いずれにせよ、イエスは生き延び、やがて洗礼者ヨハネから受洗される。イエス・キリストの先駆者と目されるヨハネは、前述したようにヘロデ大王の息子で後継領主ヘロデ・アンティパスの異母兄妻との再婚を姦淫として非難したため、捕らえられ、斬首される。
 イエスはやがてヨハネとは別に従来のユダヤ教とは異なる新たな宗教活動を開始する。イエスの教えの基本にはユダヤ教保守派パリサイ派の厳格な形式主義に対する批判とともに、ハスモン朝以来、権力と結びつきつつ神殿を支配し、商業にも手を染めていた現世的なサドカイ派双方への批判があった。
 パリサイ派とサドカイ派は表向き対立関係にあったが、イエスが両者を敵に回したことは、もはやユダヤ教全体と敵対するに等しかった。
 特にイエスが神殿から御用達商人の追放を訴えたことは、商人と癒着関係にあったサドカイ派祭司らの反感を買った。ために、イエスは彼を反ローマの政治犯に仕立てるサドカイ派の策略によって宗主国ローマ当局に告発され、サドカイ派の主張を受け入れた当局によって磔刑に処せられたのだった。
 しかし、「キリスト復活」の奇跡―伝承―に象徴されるように、イエスの教えは当時の形式化し、腐敗したユダヤ教の現状を受け入れられない人々の間で継承発展されていった。
 こうしてイエスの教えに感化され、ユダヤ教を離脱し、キリスト教に改宗するユダヤ人が分離されたことは、逆にユダヤ教にとどまるユダヤ人の存在性を強め、ユダヤ人概念をいっそう確立することとなった。
 特に亡国後のユダヤ人は地中海域から欧州にも離散・移住していったため、同じ地域に広く伝道されていったキリスト教とは競合的な関係を強めたことから、ユダヤ教に改宗した異民族をも新たに加えつつ、ユダヤ人=ユダヤ教徒の存在性は際立つようになり、やがてそれぞれの地域でのユダヤ人差別の風潮をも生み出すようになるのである。

2013年12月 9日 (月)

ユダヤ人の誕生(連載第17回)

Ⅵ ユダヤ人の確立

aries同系民族の征服
 ユダヤ人という民族概念は血統的なものではなく、宗教的なものである。すなわち、「ユダヤ人=ユダヤ教徒」なのであった。
 こうした独特の民族概念が明確に形成されたのは早くともハスモン朝全盛期であり、それ以前は血統的概念としての「イスラエル人」という概念しかなかった。
 決して長くはなかったハスモン朝の全盛期は、前134年から104年まで30年間の長期治世を保ったヨハネ・ヒルカノス1世とその二人の息子アリストブロス1世及びアレクサンドロス・ヤンナイオスの時代であった。この通算して約60年の間、ハスモン朝はイドマヤ人やサマリア人といった元来は同系の諸民族を次々と征服し、しかもユダヤ教への強制改宗を断行したのであった。
 結果、イドマヤ人は比較的早くにユダヤ化されていったが、後にハスモン朝自体がユダヤ化したイドマヤ人ヘロデのような人物に王権を簒奪されたのは、歴史の皮肉であった。だが、前に指摘したとおり、異民族ヘロデ大王こそは最初の「ユダヤ人」を象徴する人物だったのである。
 これに対して、サマリア人は簡単に同化されなかった。前述したように、サマリア人はアッシリアによって北イスラエル王国が滅ぼされた後、アッシリアの民族同化政策に基づき、その王都であったサマリアを中心に、移住してきたアッシリア人その他の異民族と残存ユダヤ人(イスラエル人)が通婚・同化することで形成された新民族であった。
 サマリア人は宗教的にも異教の影響を強く受け、ユダヤ教からは別宗派とみなされるようになった。
 かれらはサマリアのゲリジム山を宗教上の聖地としたが、ヒルカノス1世は前128年、このゲリジムの神殿を攻撃し、破壊した。それでも降伏しないサマリア人を完全征服するため、ヒルカノスは前110年から109年にかけて大規模なサマリア遠征を行い、サマリア市街を壊滅させた。
 これによって、サマリアもハスモン朝ユダヤ王国の版図に組み込まれたが、サマリア人は迫害の中、なおも独自の信仰を守り続ける。
 強盗に襲われ、負傷したユダヤ人旅行者をユダヤ人の祭司や律法学者らは見て見ぬふりをするなか、一人のサマリア人が介抱し宿屋の費用まで立て替えたという新約に見える有名な「善きサマリア人」のたとえは、イエスの時代にあってもサマリア人が一般的には善からぬ民族として忌避されていたことを示唆している。
 実際のところ、ユダヤ教祭司一族が創始したハスモン朝自身、ヘレニズムの強い影響下にあり、ユダヤ教保守派のパリサイ派からは批判され、ためにヤンナイオスの時代にはパリサイ派との内戦まで招いたほどであったのだが、ユダヤ人概念はハスモン朝下でサマリア人をはじめとする非ユダヤ系民族に対する征服・迫害を通じて自覚的に形成されていったことはたしかである。
 時代下って自らが被迫害民族となるユダヤ人が、その出発点においては異民族迫害を通じて確立されていくのも、歴史の皮肉であったろう。

2013年12月 8日 (日)

医学議会

 科学にこそ、民主的な「議会制度」が必要だ。特にそのことを痛感するのが、命にも関わる医学の分野である。医学では診断の正否や治療・検査の効果・副反応等に関して、医師・医学者の間で見解が大きく分かれることは少なくない。医学はそれだけ「余白」の部分が大きいということかもしれない。
 基礎医学のような純粋理論分野であればそれも結構だろうが、患者という門外の第三者が必ずはさまる臨床科学の医学では、そうした見解の対立は患者を当惑させる。近年はセカンドオピニオンを取れという勧めもあるが、医師の見解が分かれた場合、患者はどれを支持すればよいのかわからない。
 民主的な対面討議の場がなければ、例えばよく使われている薬剤を巡って、その効能を一方的に宣伝する論者とその無効性・危険性を煽る論者といった対立が、商業出版の思惑も絡み書籍を通じて患者を巻き込むことになりやすい。
 とりわけ特定の治療法ないし検査法の無効性・危険性を提起する論者は、主張を個人化し安易な商業出版によるのでなく、自ら研究会や新たな学会を設立するなど非営利的な形で科学的な討議の場を設け、患者や取材者の傍聴を認めつつ、反対論者も招いた討論を興して欲しいと願う。

2013年12月 4日 (水)

老子超解:第五十四章 無心の政治

五十四 無心の政治

理想の人には私心がなく、民衆の心をもって自らの心とする。善き者は私も善しとし、善からぬ者も私はまた善しとして、善を得る。誠実な者は私も信じ、不誠実な者も私はまた信じて、誠実を得る。
理想の人が天下に対するときは無心に構え、天下を治めるときはぼんやりとしている。大衆は耳目を全開にして(情報を得ようとするが)、理想の人は(耳目を)完全に閉ざすのである。

 
 
通行本では第四十九章の本章におけるキータームは「無心」である。日本語の通常語義で「無心」と言えば、特段の考えがないことや、無邪気といった意味合いになるが―最悪「物をねだる」という意味もある―、老子的「無心」は私心がなく、公平であることを意味する。従って、これは無為の政治の基底を成す一つの政治哲学ともなる。
 特に目を引くのは、前段で、善からぬ者も善しとし、不誠実な者も信じるという言明である。万物相同の哲学をベースとする老子にとって、善/不善(悪)、誠実/不誠実といった二元論は克服済みではあるが、さらに踏み込んで不善者をも善しとし、不実者をも信じるという実践は容易でない。
 しかし、第四十五章でも理想の人は常に人を救い見捨てないとあったように、老子には「救済」のモチーフがある。政治にあっても、老子的政治は悪人や不実者を切り捨てず包摂していく、究極の公平を目指すのである。その際のキーワードが「無心」である。
 そうした意味での無心の政治を実践するためにも、理想の為政者は耳目を閉ざし、外部の情報に惑わされないようにするというのである。これは「感覚遮断」として五感の作用への依存が戒められていたこと(第十九章)が政治にも応用されたものであると同時に、膨大な外部情報に日々踊らされている現代的政治のありようへの鋭いアンチテーゼともなろう。

2013年12月 3日 (火)

老子超解:第五十三章 非仁愛政治

五十三 非仁愛政治

天地は仁ならず、万物をあたかもわら犬のごとく扱う。理想の人(為政者)も仁ならず、人民をあたかもわら犬のごとく扱うものだ。
天と地の間(天空)は言わば送風器のようなものであろうか。それは真空でありながら尽きることなく、動じてはいよいよ湧出してくるといったものだ。
饒舌はしばしば行き詰るのであり、(寡言の)無心を守っていくに限る。

 
 
前章の反儒教政治論の中でも特に儒教の政治思想の中心概念である「仁(愛)」に絡めて、そのアンチテーゼとしての非仁愛の政治を説くのが通行本で第五章に当たる本章である。
 冒頭で比喩的に出される「わらの犬」(原語は「芻狗」)とは当時祭礼に用いたわら人形で、祭礼終了後は屑として棄てられたという。老子的な非仁愛の政治では、人民をこうしたわら人形のようにあえて粗末に扱うというのである。これはむろん人民を見棄てるということではなく、仁愛の政治がしばしば陥るような偏頗な支配を避けるための策なのである。
 仁愛の政治はその標榜どおりにあまねく全人民への博愛の政治とはならず、為政者から見て愛す可き者のみを可愛がる不公平な政治となりやすい。そこで、老子的な非仁愛の政治にあっては、あえて人民を平等に素っ気なく扱うのである。
 これは民生に介入しないという無為の政治の一つの側面である無干渉ということにも関わっている。老子にとって公平な政治とはえてして美辞麗句に終始する博愛ではなく、かの無為を基本とする政治なのである。

 なお、第二・第三段は第一段の内容からは離れており、後世やや無造作に継ぎ足された可能性が指摘されているが、第三段は次章の主題となる無為の政治の精神的側面としての「無心」についての言及であり、次章へのつなぎとなる章句とも読める。

2013年12月 2日 (月)

老子超解:第五十二章 反儒教政治 

五十二 反儒教政治

(儒教的な)聖知を絶ち(小ざかしい)知恵を棄てれば、民衆の利益は百倍になるだろう。仁を絶ち義を棄てれば、民衆は(真の)孝行と情愛に復するだろう。小細工を絶ち利便を棄てれば、盗賊はいなくなるだろう。
以上の三つのことではまだ言い足りないから、以下で補足しよう。
ありのままの自己を表に出し、純朴さを内に抱け。私心を抑え、欲求を控えよ。(儒教的な)学を絶ち、憂いをなくせ。


 前章で示唆された反儒教政治論が、通行本第十九章に当たる本章では正面から展開される。「大道廃れて、仁義あり」で始まる哲理篇第十三章と対になっていると理解できる章である。第一段は前章で説かれた「無為の政治」の効用をより抽象度を高めて敷衍したもので、特に新しい主題は扱われていない。

 第二段を介して補説される第三段は政論を離れ、老子にしては珍しく直接、命令的に教えを説く戒律的な言述であり、果たして老子のオリジナルか疑問もあり、第二段込みで後世の付加である可能性もあるが、自己の本来性への覚醒を説くところは、老子的実存哲学の典型的な表れである。

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