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2013年11月

2013年11月30日 (土)

ユダヤ人の誕生(連載第16回)

Ⅴ ローマ支配と亡国(続き)

aries抵抗運動と挫折
 前回述べたように、一時的に実質上ヘロデ朝を復活させたアグリッパ1世が44年に死去した後、そのローマ育ちの息子アグリッパ2世はもはやローマ帝国の完全な傀儡にすぎなかった。
 第一次ユダヤ戦争はそうしたアグリッパ2世の時代に起きたユダヤ人による最初の反ローマ蜂起であった。それは偶発的に始まった。
 発端はギリシャ人がヘロデ大王が建設した海辺の都市カイサリアでユダヤ教会堂シナゴーグを冒涜した行為に対してローマ当局が介入しなかったことをめぐり、ユダヤ神殿の管長が抗議行動を組織したのをきっかけに、反重税の抗議行動も加わり、エルサレムでも暴動に発展していったのである。
 対抗上、ローマ当局が見せしめに多数のユダヤ人を処刑したことでかえって火が付き、全土的な騒乱状態となった。時の皇帝ネロは後に自らも皇帝となる将軍ウェスパシアヌスを派遣するも、ネロの自殺に端を発するローマ政治の混乱もあって、戦線は膠着する。しかし、ウェスパシアヌスは息子ティトゥスとともに、アグリッパ2世の助力も得ながら各都市を撃破し、ついに70年には首都エルサレムを制圧する。
 こうして以後、ユダヤはローマ属州として実質上の軍政下に置かれることになる。多くのユダヤ人がローマ当局の報復を恐れて海外へ離散し、ディアスポラとなった。しかし、ユダヤ人の抵抗はこれで終わらず、散発的な抵抗が続く。
 特に115年から117年にかけて、キプロス島を含む中東のユダヤ人ディアスポラが大規模な同時多発的反ローマ蜂起を起こした。
 この反乱鎮圧の功労者クイエトゥス将軍の名を取って「キトス戦争」とも呼ばれるこの蜂起もまた、ローマ軍の前に粉砕されたが、反乱終結の年にトラヤヌス帝から皇位を継いだハドリアヌス帝はユダヤ支配の強化を目指し、エルサレムをローマ風都市として再建したうえ、自らの氏族名にちなんで「アエリア・カピトリーナ」と改名さえしようとしたのだった。
 表向きユダヤ人に同情する態度を示していたハドリアヌス帝は第一次戦争以来荒廃していたエルサレムの再建を公約し、一時はユダヤ人の間で解放者のようにみなされていたが、ハドリアヌスの底意が判明すると、ユダヤ人の失望は怒りに変わった。
 132年、当時のユダヤ教最高指導者ラビ・アキバによって救世主メシアと認証された一ユダヤ人バル・コクバが指導者となって武装蜂起し、エルサレムを解放して「大公」を名乗り、ラビ・アキバを宗教上の最高指導者とする事実上の独立国家の樹立に成功した。
 しかしハドリアヌス帝は将軍セウェルスに命じてバル・コクバ政権への反撃を開始、3年の戦闘の後、135年にはエルサレムを制圧した。バル・コクバは戦死し、ラビ・アキバも処刑された。こうしてしばしば「バル・コクバの乱」ないし第二次ユダヤ戦争とも呼ばれるこの武装蜂起も、圧倒的なローマ軍の前に挫折に終わった。
 戦後のローマの対ユダヤ政策はいっそう苛烈な民族浄化的なものとなった。ユダヤ属州からユダヤの名は削られ、代わりにかつてユダヤ人と敵対したぺリシテ人の名にちなんだシリア・パレスチナ属州と改名され、予定どおりに建設されたエルサレム改めアエリア・カピトリーナにはユダヤ人の立ち入りさえも禁じられた。これによって、ユダヤ人のディアスポラ化は決定的となる。

2013年11月27日 (水)

ユダヤ人の誕生(連載第15回)

Ⅴ ローマ支配と亡国(続き)

ariesヘロデ朝の終焉と亡国
 ヘロデ大王は30年以上独裁者として君臨した後、前4年に死去した。彼が創始した王朝(ヘロデ朝)は、大王の死に際し、おそらくは宗主国ローマの意向を呈した大王の遺言により3人の息子の間で分割相続の形となったため、事実上分裂する。
 この3人の息子、すなわちヘロデ・アルケラオス、ヘロデ・フィリポスおよびヘロデ・アンティパスはそれぞれ領地を与えられて分割統治したが、父のように王を称することは許されなかったため、ローマ帝国を宗主とする封建的な分封領主の地位にとどまった。よって、厳密に言えばヘロデ朝はヘロデ大王一代限りで終焉したと言ってよいだろう。
 さて、3人の息子のうち年長のヘロデ・アルケラオスは旧ユダヤ王国の中心部と一族の出身地エドムやサマリアなどの要地を与えられたにもかかわらず、統治者としては無能で、失政を繰り返したことから、領民の訴えにより罷免され、ガリアへ追放された。これにより、旧ユダヤ王国中心部がローマの直轄領に編入されたため、ユダヤの自治も終焉したに等しかった。
 またガリラヤの地を与えられたヘロデ・アンティパスも異母兄の妻であったヘロディアと不倫関係に陥った末結婚するなどの不行跡があり、ヘロディアの教唆により王位を望んだことで、ローマから危険視され、これも罷免のうえガリアへ追放となった。
 ちなみにオスカー・ワイルドの戯曲をベースとしたリヒャルト・シュトラウスの著名な楽劇『サロメ』の主人公サロメはヘロディアと前夫の間に生まれた娘で、アンティパスとヘロディアの結婚を姦淫として非難したために捕らえられ、斬首された洗礼者ヨハネの首を宴会の舞の褒美として求めたとする伝承の主である。史実性はともかくとしても、アンティパス政権の堕落ぶりを示すエピソードである。
 結局、ローマは紀元37年以降、ヘロデ大王の孫に当たり、旧ハスモン朝の系譜をも引くアグリッパ1世に上記三分統治時代の各領地のほぼすべてを順次委ね、一本化した。
 もっとも、彼も前任者らと同様、正式の王位は与えられなかったが、ほぼユダヤ全域の統治者となったことで、実質上ヘロデ朝が一時復活したに等しい形となった。
 彼は前任者らと異なり、統治者としてはまずまず有能であったと見え、「アグリッパ大王」と称されることもあるが、宗教政策面ではユダヤ教保守派パリサイ派に立脚して、当時広がりを見せていた初期キリスト教グループを弾圧し、イエスの使徒らを処刑・投獄した。
 しかしアグリッパ1世が44年に死去すると、ローマはその年少の子アグリッパ2世に父の地位を継承させず、ユダヤ地方は再び直轄領となった。
 後にアグリッパ2世もガリラヤ地方の領主に任じられるが、ローマ宮廷で育成された彼はユダヤ人というよりローマ人であった。実際、66年に勃発したユダヤ人による最初の反ローマ蜂起(第一次ユダヤ戦争)に際しては、ローマの鎮圧軍に肩入れさえしたのであった。
 ユダヤはこの第一次戦争でその宗教的象徴エルサレム神殿を破壊され、敗北したことで、ローマの完全な支配下に入り、以後近代国家イスラエルとして復活するまで長い亡国の時代を迎えることになる。

2013年11月26日 (火)

ユダヤ人の誕生(連載第14回)

Ⅴ ローマ支配と亡国

aries最初のユダヤ人・ヘロデ大王
 ハスモン朝を倒したのは、ローマ帝国と結んだヘロデであった。彼は元来ユダヤ民族出自ではなく、イドマヤ人の出自であった。
 聖書上、イドマヤ人(エドム人)はユダヤ民族の祖ヤコブの双子の兄エサウから出た兄弟民族にして、ダヴィデ王時代に服属したとされるから、おそらくは原カナン人として同系民族集団から出ているのであろう。
 しかし、かれらはダヴィデ時代ではなく、ハスモン朝最盛期のヨハネ・ヒルカノス1世時代に征服され、ヘロデの青年時代にはユダヤ王国の支配下にあった。前回先取りしたように、ヘロデはハスモン朝末期のヒルカノス2世に仕えた武将・政治家アンティパトロスの息子で、彼自身もガリラヤ知事を歴任し、政治的な重鎮となる。
 ヘロデはローマ帝国と結んだ父の死後、ローマ三頭政治首脳の一人マルクス・アントニウスの支持者となり、その後ろ盾を得て、ハスモン朝最末期の王位継承抗争を利用しつつハスモン朝を打倒、自ら新王朝を開くのである。
 聖書では、ヘロデ大王というと悪逆の暴君として描かれる。たしかに彼は王権維持のためには粛清をためらわず、一応史実として取れるだけでも、自らの王妃や王子さえも含むハスモン家一族やユダヤ教高位聖職者らを大量処刑したため、「狂王」とすら呼ばれることもある。
 だが、それだけでヘロデの評価を決するのは早計である。ヘロデを否定的に見る者でもヘロデの功績として評価するのは、エルサレム神殿の改築事業である。「ヘロデ神殿」とも呼ばれるこの神殿は、バビロン捕囚からの帰還後に再建された「第二神殿」の大拡張工事として行われ、その威容は今日イスラエル博物館の模型を通じて知ることができる。
 王としても、ヘロデは当時中東まで触手を伸ばしてきていたローマ帝国とユダヤ王国の間に介在して、ローマに服属しつつ一定の自治を確保し、無能力化したハスモン朝に取って代わってユダヤ王国をしばらくの間延命させた功績を認めることができる。
 しかし、何と言ってもヘロデ最大の功績は彼自身最初のユダヤ人となったことであった。ここで言う「ユダヤ人」の意味は、ユダヤ民族ではなく、ユダヤ教徒という今日的な意味におけるそれである。
 実際、ヘロデは民族的には非ユダヤ系でありながら「ユダヤの王」として紹介されることが多いのも、彼がユダヤ教徒であり、ユダヤ化していたからにほかならない。その意味で、彼はまさにユダヤ人であった。
 こうして、ヘロデは民族籍と宗教を切り離した「ユダヤ教徒=ユダヤ人」という新定義を―おそらくは自ら意識しないまま―率先して体現していたのである。  

2013年11月21日 (木)

老子超解:第五十一章 無為の政治;効用

五十一 無為の政治;効用

(為政者が)賢人を重用したりしなければ、民衆をして(出世)競争に走らせることもなくなろう。また得難い財貨を珍重したりしなければ、民衆をして窃盗に走らせることもなくなろう。さらに欲望を刺激するようなものを見せびらかしたりしなければ、民衆をして乱心させることもなくなろう。
こういうわけで、理想の政治は民衆の心を空にし、腹を満たす一方で、意志を弱くし、骨を強くするのである。そうして常に民衆をして無知無欲ならしめ、かの学者どもをして余計なことをさせないようにするのだ。
要するに、無為を為せば必ず治まるというわけである。

 
 
通行本では序盤の第三章に来る本章では、「無為の政治」の効用が具体的に説かれている。ここで特に強調されているのは、「反賢人政治」である。明言は避けていても、老子が「賢人」と言う場合、それは儒学者を指している。従って、「反賢人政治」とはほぼイコール「反儒学(教)政治」を意味している。
 それに関連して本章で留目すべきは、第二段に見える民衆の腹を満たし、骨を強くする政治―言わば「身体政治」―である。これと対になるアンチテーゼが民衆の意志を強くする政治―言わば「精神政治」―であって、ここでもそうした「精神政治」の代表格と目される「儒学政治」への反撥が示唆されているわけである。
 哲理篇でも、一般的な理解に反し、老子哲学の唯物論的性格を指摘したが、政論篇においても、老子政治思想には唯物論的なモチーフが窺えるのである。
 民衆の身体を強化して無知無欲ならしめるという老子的統治は、これを表層的に受け止めれば愚民化政策による安定を志向しているようにも読み取れるが、老子の本意はそのようなところにあるのでなく、むしろ「無為の政治」を通じて民生を強靭なものにして安寧を得ようとしているのである

2013年11月17日 (日)

老子超解:第五十章 無為の政治;意義(二)

五十 無為の政治;意義(二)

安定している間は持ちこたえやすいし、兆しが現れない間は処置しやすい。もろいものは溶かしやすいし、かすかなものは消しやすい。(それで)有事に至らないように処理し、混乱しないうちに整理しておくのだ。
両手で抱えるほどの大木も微小な草から生じ、九重の塔も一盛りの土から起工され、千里の旅も足元から始まる。
民衆が何かに従事すると、いつもほとんど完成間際に失敗するものだ。終わりを始めのように慎重にすれば、失敗することもない。こういうわけで、理想の人は意欲しないことを欲し、入手困難な財を珍重せず、学問をしないことを学びとし、大衆の行き過ぎを元に戻し、そうして万物をありのままに助けて、あえて干渉しないのだ。

 
 通行本第六十四章に当たる本章は全体として処世訓を説いたものと読むこともできるが、第三段の内容から、前章で説かれた「無為の政治」の意義を処世訓とも絡めながら敷衍したものと読むこともできるであろう。

 ここで再び強調されるのは「無干渉」ということである。すなわち、政治は民生に干渉しないということであって、「無為の政治」はアナーキズムではないにせよ、近現代のいわゆる「小さな政府」論と交差するところもなくはない。
 
ただ、老子の「無為の政治」は全くの自由放任主義ということではなく、民衆の後ろからそっと見守って、時に軌道修正の手も伸ばすような政治である。
 同時に、第一段、第二段に表れているように、用意周到さと基礎からの着実さも「無為の政治」の重要な要素である。政治が周到・着実だからこそ、無為であっても世は安泰なのだとも言えるからである。
 ちなみに、第三段冒頭は「始めよければ終わりよし」の格言に反し、「始めよくても終わりも慎重に」という箴言である。これも日常処世訓として応用可能な用意周到さの一つの注意則であろう。

2013年11月16日 (土)

老子超解:第四十九章 無為の政治;意義(一)

四十九 無為の政治;意義(一)

正義をもって国を治め、奇策をもって用兵する(というが、もっと大切なことは)無事をもって天下を掌握することだ。私は何によってこのことを知ったか。以下の教えによってである。
そもそも世の中に禁忌が多いほど民衆は貧しくなり、民衆に利器が多く行き渡るほど国家は混乱し、民衆に小ざかしい知恵が増えるほど不正が起こり、法令が細かくなるほど盗賊が増える。
だから理想の人は言う、私は無為にして民衆は自ずからに教化され、私は平静を好んで民衆は自ずからに正しくなり、私は何も干渉せずして民衆は自ずからに富み、私は意欲を持たずして民衆は自ずからに素朴になるのだ、と。


 老子政治思想の核心を成す「無為の政治」の意義が明快に説かれているのが、通行本第五十七章に当たる本章である。

 冒頭、「正義による政治」とは儒家、「奇策による用兵」とは兵家の教えを象徴するものとみてよいが、老子はこうした主流的な政治・軍事思想に、「無事(むじ)による政治」という独自の思想を対置する。
 「無事」とは哲理篇第二十七章にも登場した用語であるが、それは単に何も起こさない「無難」ということではなくして、ことさらな事を起こさないことを意味するのであった。要するに、「無事(むじ)による政治」とは「無為の政治」であって、第三段がその内容を具体的に説いている。
 逆に「無為の政治」とは正反対の政治が行われればどうなるかの例証が第二段である。ここで指摘されていることは、まさに禁忌多く、利器行き渡り、民衆が小ざかしくなり、法令が細かくなった現代国家で起きていることではないだろうか。
 ちなみに、『論語』にも「無為にして治まる者はそれ舜なるか」という孔子の言葉が見え、同書では唯一「無為」への言及であるが、ここでは「無為の政治」は儒教の理想的人格者である伝説的な舜王ぐらいにしか実践できないという否定的文脈で言及されているのである。

2013年11月14日 (木)

ユダヤ人の誕生(連載第13回)

Ⅳ 捕囚と帰還・再興(続き)

aries独立運動とハスモン朝
 プトレマイオス朝からユダヤの地を奪ったセレウコス朝シリア第8代君主アンティオコス4世がエルサレム神殿で異教の祭儀を執り行うという冒涜行為を犯したとされることを契機に、前167年、モディンという小村の祭司マタティア一家の率いる反シリア抵抗運動が勃発する。
 マタティアは抵抗運動渦中の翌年病没するが、後を息子ユダ・マカバイが継ぎ、抵抗は継続される。
 ユダはシリアに対するゲリラ戦を指揮して戦果を挙げ、いったんはユダヤ民族の宗教的自由を勝ち取るが、再びシリアと戦争状態となって戦死した。後を継いだ弟のヨタナンはシリアと講和して大祭司に任ぜられ、さらにその後継者となった弟シモンは前140年までに独立を達成した。これはユダヤ民族にとってはバビロン捕囚以来、およそ450年ぶりの独立回復であった。
 シモン政権は対外的にローマからも承認され、対内的にもシモンはユダヤの民族指導者兼大祭司としての地位とその子孫への世襲も承認されたことから、実質上ここに一族の出たハスモン家の王朝が成立した。そしてシモンの孫アリストブロス1世の時には正式に王を名乗るようになった。
 こうして新たに登場したユダヤ人の独立王朝ハスモン朝は祭司一族が創始した祭司王朝であって、祭司=王という神権政治を特徴とした。
 これは従来、世俗の王と祭司を分離してきたユダヤ的伝統に反するうえ、小村の一介の祭司一族から出たハスモン朝支配の正統性は終始疑問視されたが、ハスモン家が独立運動に果たした役割の偉大さと忠実な預言者が現れるまでの間という「暫定政権」の論理とによって、ハスモン朝は民衆からもひとまず受容されたのである。
 結局のところ、以後約一世紀にわたりハスモン朝は世襲王朝として存続していくこととなった。そして祭司王朝としての性格からしても、ハスモン朝治下の決して長くはなかった時代は、ヘレニズムの影響下にユダヤ教の大いなる発展期ともなった。前2世紀後半期になると、セレウコス朝の衰退に伴い、領土も北方へ拡張され、旧南北王国時代の全領域に近い範囲に及んだ。
 だが、ハスモン朝は前1世紀に入ると王位継承をめぐる内紛などから内政が混乱し始め、そこへ中東への勢力圏拡大を図るローマ帝国の進出も重なり、ハスモン朝ユダヤは弱体化する。
 熾烈な王位継承抗争の中、第10代ヨハネ・ヒルカノス2世側近のイドマヤ人将軍アンティパトロスとその息子ヘロデが台頭してくる。結局、ハスモン朝はローマに巧みに取り入って後ろ盾としたヘロデのクーデターにより前37年、滅亡に追い込まれたのである。

2013年11月11日 (月)

老子超解:第四十八章 道に基づく政治

四十八 道に基づく政治

道は常に無為であって、しかも何かをするのだ。為政者がそうした道の立場を守れば、万物は自ずと育つであろう。育って増長しようとするものがあれば、私は名前のない粗木(道)によって抑制しよう。名前のない粗木によれば、意欲のない理想状態がもたらされるであろう。意欲がなくなって平静になれば、天下は自ずと定まるであろう。


 通行本で第三十七章になる本章から先は、評者独自の整理によれば、第四十七章までの哲理篇に対して、老子の政治哲学・政策が展開される政論篇を構成する。

 序文でも指摘したように、老子の哲学は純粋の思弁哲学にとどまらず、その奥に現実の政治に対する関心が控えている点に荘子との大きな相違があり、一般的な理解におけるように「老荘思想」とひくくくりにできない固有の要素が認められるのである。
 その政論篇筆頭章の本章では、老子の政治的理想であるに基づく政治が序説的に説かれている。
 ここでのキーワードは哲理篇にも登場した「無為」ないしその主意主義的な換言である「無欲」にある。哲理篇第二章でも注解したとおり、老子の「無欲」とは単に欲求がないことではなく、何かをことさらに企図しないことであった。

 天下をそうした意味での「無欲」に保つことで、天下が定まるというのである。これはまさに謀略的企図が横行する戦国時代を生きた老子の時代に抗するアンチテーゼでもあった。
 ここには先史時代の素朴な共産社会への憧憬がほのめかされているが、老子の政治的理想はそうした原初への単純な回帰にあるのではなく、ある種の哲人政治的な理想なのである。といっても、それは決してプラトンのように哲人を最上位に置く階級政治的理想ではなく、超越的指導者のいない平等社会を志向するものである。
 哲理篇でもたびたび登場した「聖人」―本章では一人称で語られる―とは、一人の偉大な指導者ではなく、を体得したすべての人、つまりは哲理篇最終第四十七章で説かれたように、身から天下へがあまねく行き渡った暁の世界万民を指していると読み取ることができるであろう。

2013年11月 8日 (金)

ユダヤ人の誕生(連載第12回)

Ⅳ 捕囚と帰還・再興(続き)

ariesバビロン捕囚と帰還
 前回述べたとおり、南王国滅亡後のバビロン捕囚はユダヤ民族の滅亡をもたらさず、それどころかかえって民族的意識の高揚を結果することとなった。
 南王国の支配層はユダ部族であったから、ユダヤ民族とは、厳密に言えばこの南王国支配層とその子孫のことであって、わかりやすくするため北王国を構成した10部族を含めて「ユダヤ民族」と包括してきた本連載のこれまでの記述は実のところ正確さに欠けることになる(10部族も包括する場合は「イスラエル民族」と称するべきであろう)。
 とはいえ、バビロン捕囚で高揚した民族意識の下、旧約の基礎資料の作成も開始される。
 ここでメソポタミアの中心部に囚われたことは、旧約にメソポタミア的性格を濃厚に刻みつけた。ノアの方舟説話も、チグリス・ユーフラテス河の氾濫に由来するシュメール人以来の古い洪水伝承に取材したものであるし、ユダヤ民族の祖アブラハムがシュメール時代の古都ウルの出身とされたのも、旧約の基礎資料がメソポタミアの地で生み出されたことの証左である。
 この捕囚はしかし、そう長くは続かず、およそ60年で終わりを告げた。おそらくこの幸運も、ユダヤ民族が保持された大きな要因であろう。もし捕囚が恒久的であったとしたら、いかに民族意識が高揚しようとも、世代を追うごとに周辺民族との同化は避けられなかっただろうからである。
 捕囚解除・解放の契機となったのは、新バビロニアに取って代わったアケメネス朝ペルシャのキュロス2世の命であった。ペルシャの民族政策は比較的寛大であり、ユダヤ民族にも故地帰還が許されたのであった。
 とはいえ、これはあくまでもペルシャ支配下での限定的な「解放」にすぎず、ユダヤ民族の王国再興が許されたわけではない。ユダヤ民族帰還後のカナン地方ではペルシャ時代の都市遺跡が少ないのも、この時代、ユダヤ民族固有の都市文化が閉塞していたことを暗示する。
 それでも、帰還後のユダヤ民族は早速新バビロニアによって破壊・放置されていたエルサレム神殿を再建し、宗教的な再興のきっかけを手にした。いわゆるユダヤ教はバビロン時代に整理された律法をベースに、実質上このペルシャ支配時代に整備されたとみなしてもさしつかえないであろう。
 しかしこの先、ユダヤ民族はさらにペルシャに取って代わったマケドニア帝国とその後継者たるプトレマイオス朝、セレウコス朝の異民族支配を順次受け続けることになるが、この時代はいわゆるヘレニズム時代であり、ユダヤ固有のヘブライズムとヘレニズムの出会いと接合という文化的には豊かな産物を生み出すことになる。

2013年11月 5日 (火)

ユダヤ人の誕生(連載第11回)

Ⅳ 捕囚と帰還・再興

aries二度の捕囚
 ユダヤ民族は、その歴史の中で二度にわたり外国によって集団的な捕囚の身とされる数奇な経験を持っている。その最初は北王国滅亡後の「アッシリア捕囚」であった。
 この時は南王国の一部住民と北王国を構成した10部族が帝国各地に強制連行され、特に後者はその後もカナンへの帰還の事実がないということから、「失われた10支族」の伝承を生み、人々のイマジネーションを搔き立ててきた。
 中でも今日アフガニスタンの多数民族であるパシュトゥン人の一部部族がイスラエル人起源の伝承を持つことから、失われた10部族の一部が東へ移住してパシュトゥン人となったとの説も一時有力であったが、今日の遺伝学的研究はパシュトゥン人=イスラエル人起源説には否定的である。
 前回も指摘したとおり、10部族が「失われた」のはアッシリアの民族同化政策によって通婚・混血が急速に進み、民族的アイデンティティを喪失したことが大きい。これはアッシリアから強制された政策の結果でもあるが、元来簒奪王朝として出発し、外国の影響を受けて異教的であった北王国の性格の結果でもあった。
 そうした北王国の異教的性格は、北王国の暴君として悪名高いアハブ王の娘アタルヤが南王国に嫁ぎ、息子のアハズヤ王死後、女王に即位した時には南王国にも及びかけたが、アタルヤ女王は間もなく南王国大祭司を中心とする反対勢力によるクーデターで地位を追われ、南王国の伝統は保持された。
 これに対し、南王国滅亡後の「バビロン捕囚」は、ユダヤ民族を失わせる結果とはならなかったどころか、この苦境はかえって民族的・宗教的覚醒を強める歴史的な契機にさえなった。
 これは新バビロニアがアッシリアとは異なり、強制同化政策を採らず、王をはじめとするユダ王国支配層を首都バビロンに連行し、俘囚として集住させる政策を採ったためでもあったが、それ以上に、ダヴィデ、ソロモン王の系譜を引くユダ王国民が元来、宗教的によく団結していた結果でもあった。そのため旧王国領内にとどまった民衆も、バビロニア統治下で民族的統一を保持し得たのである。

2013年11月 2日 (土)

老子超解:第四十七章 身から天下へ

四十七 身から天下へ

しっかりと建てられたものは抜けないし、しっかりと抱かれているものは落ちない。(そのようにして道をしっかり建て、抱いていれば)子々孫々の祭祀も絶えない。
それ(道)を自身で修めれば、その徳は真正なものとなる。それを一家で修めれば、その徳はあり余るほどになる。それを一村で修めれば、その徳は永続的なものとなる。それを一国で修めれば、その徳は豊かなものとなる。それを天下で修めれば、その徳はあまねくいきわたる。
こうして、自身を通して自身を見据え、一家を通して一家を見据え、一村を通して一村を見据え、一国を通して一国を見据え、天下を通して天下を見据える。私はいかにして天下の情勢を知るのか。以上のようにしてである。


 
本章は通行本では第五十四章に当たるが、評者独自の章立てでは哲理篇の最終章に置いた。その理由は最後に回すとして、まず本章の中心をなす第二段と類比されるのは、正統派儒学の教典『大学』に見える「修身・斉家・治国・平天下」の階層的標語にまとめられた「修己治人」の修身政治理念である。

 表面上、本章の主旨はこの理念に近く見えるが、老子的修身論は儒家的修身論とは根本的に違っている。儒家的修身論が出発点とする「身」とは、人格化された身体=人倫のことであって、実践的には立身出世の要諦を言っているのに対し、老子的修身論における「身」とは、物質的‐生理的身体を基盤として精神化された身体である。
 しかし一方で、老子的修身論は決して超越的な修養論にとどまるのではなく、身体を基礎にその視野は家から村落、国家を通って天下=世界―老子の時代の天下=世界とは、さしあたり中原を意味するにとどまったが―へも向けられている。老子が、荘子との系譜関係(いわゆる老荘思想)においてイメージされるような竹林の隠遁者ではないゆえんである。
 言わば、老子は天下=世界へ向けて自己を投企する。自己内観の場としての身体にとどまる荘子的身体とは異なり、老子的身体は政治的身体へと展開するのである。その点では儒家と共通する部分もあるが、老子的投企は野心的な立身出世を求めての投企ではなくして、等身大の脱力的投企である。第二段を受けた第三段における堅実な情勢把握の方法論はそのことを示している。
 こうした点では、存在の根源まで遡行する思惟を共有しながらも、人を「存在の牧人」という傍観者的位置に置くハイデガー流の投企とも異なる。ハイデガーの「牧人」的態度は、一時ハイデガーをしてナチズムに接近させるという誤った政治的投企を導くことになったが、傍観者にあらず、天下=世界を常に見据えている老子はそうした政治的妄動とは無縁である。
 ところで、もう一つ本章第二段と類比され得るのは、ヘーゲルの「人倫の弁証法」である。だが、老子的修身論は、人倫を出発点に家族‐市民社会‐国家への弁証法的展開を説くヘーゲルの所論とも異なっている。
 ヘーゲル的弁証法によれば、人倫の完成態である国家が絶対化されるが―その点でヘーゲルの思想は「西洋の儒教」とも呼び得る―、老子の場合、出発点が各自に固有の身体に置かれることから、ある種の実存主義的な制御が働いて、国家の絶対化は生じない。それどころか、今後政論篇で見るように、老子の政治思想にはアナーキズムと解釈できる余地も認められるのである。
 さて、如上のような内容にかんがみ、本章はを主題とする哲理篇をその政治的展開としての政論篇へつなげる架橋的な位置にあると理解されることが、本章を哲理篇の最終章とした理由である。

2013年11月 1日 (金)

ダークマター

 ヒッグス粒子から解明の道が開かれると考えられているのが、宇宙の質量の大半を占めるといういわゆるダークマターである。「暗黒物質」というのが定訳らしいが、ここでの「ダーク」は暗黒よりも未知とか未確認といったニュアンスであるから、本来は「未確認物質」とでも訳すほうがよいのだろう。まさに科学の次なる大きな余白である。
 ストレートにダークマター=ヒッグス粒子とする性急な仮説もあるようだが、そう簡単には埋まらないのが科学の余白であろう。ダークマターと関連し、ダークマターよりも宇宙で大きな組成割合を占めるというダークエネルギーも未解明である。「ダークマター(=未知の問題)」とはまさに科学の余白の別名と言ってよい。
 2000年以上前に宇宙の始原について思索した老子は万物の始原――を視ようとしても見えない何やらおぼろな物として把握しており、その物質理解はかねてより量子論的・エネルギー論的とも評されるが、老子はもとより科学者ではなく、東洋の古典哲学者であった。哲学的思惟を科学的知見に練り上げる仕事は未完である。 

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