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2013年10月

2013年10月26日 (土)

老子超解:第四十六章 大器晩成

四十六 大器晩成

すぐれた人が道のことを聞けば、熱心にそれを実践する。ありふれた人が道のことを聞けば、半信半疑である。くだらない人が道のことを聞けば、一笑に付す。(くだらない人に)笑われなければ、道と呼ぶに値しない。
だから、格言にこういうことがある。明るい路は暗いかのごとく、進む路は退くかのごとく、平らな路は起伏があるかのごとく、広い徳は(徳が)足りないかのごとく、確固とした徳は怠惰のごとくだ。また不変の本質は変化するかのごとく、純白は黒く汚れているかのごとく、真の方形は角がない。そして大器はなかなか完成せず、すぐれた音は騒がしくなく、すぐれた象は形がない、と。
道は(現象のかげに)隠れていて名がない。それでいて道は、よく(万物に)力を貸し立派に成長させるのだ。


 日本語の四文字熟語としても定着している「大器晩成」の典拠となった章である。通行本第四十一章に相当する本章は、全体として老子的逆説の最終総括のような意義を持ち、「大器晩成」も第二段で重畳的に説かれた逆説中の一例として現れる一句である。

 そうした本章の文脈に即してとらえると、「大器晩成」とは日本語の熟語として言われるときの「大器は完成が遅いが、いずれは大成する」というような陶冶論的な主旨ではなく、「大器ほどなかなか完成しない(結局、未完に終わる)」という逆説にとらないと、一貫しないであろう。
 その点では、老子本来のオリジナルな「大器晩成」の意味は、潜在的に相当な実力がありながら、それに見合う成果をなかなか上げられない人の形容である「未完の大器」に近いと言えるかもしれない。要するに、大器は未完のままだというのである。
 ちなみに、老子の言う「大器」とは、具体的には冒頭の原文にいわゆる「上士」(=すぐれた人)と同義とみてよかろう。すなわちの実践者のことであるが、「大器晩成」とは結局、の実践に完成というものはない、言い換えるとは一つの到達点ではなく、未完のまま体得されていくような過程であるということを示してもいるのである。

2013年10月24日 (木)

老子超解:第四十五章 救人救物の妙

四十五 救人救物の妙

すぐれた行いは痕跡が残らない。すぐれた言葉には瑕疵がない。すぐれた算術は計算器を使わない。すぐれた戸締りはかんぬきを使わずして開くことができない。すぐれた結び方は縄を使わずしてほどくができない。
こういうわけでは理想の人は、いつも人を救うのにすぐれており、だから人を見捨てることがないのだ。(理想の人は)いつも物を救うのにすぐれており、だから物を棄てることもないのだ。これを明に従うという。だから善き人は善からぬ人の師であるし、善からぬ人は善き人の資なのである。(善からぬ人が)その師を貴ばず、(善き人が)その資を大切にしないならば、どんなに(小ざかしい)知恵があろうと多いに惑うのだ。これを要妙[奥深い真理]という。


 通行本第二十七章に当たる本章は、「救済」という異色のテーマを扱う。「救済」というモチーフは中国思想には比較的珍しく、老子の中でも正面から救済に言及されるのは本章だけである。

 とはいえ、前段でいろいろ例を挙げて説かれているのは、要するに「無為」という老子的実践哲学である。これが後段の救済という主題とどう結びつくのかという点は実はいまひとつ鮮明でないのだが、結局のところ、ことさらな作為をしないこと=無為が人や物も含めた万象を救うことになるという趣旨に解すれば一応つながるであろう。
 「救済」は宗教的なテーマでもあるから、本章での老子は限りなく宗教的な境位に近づいており、実際、善良でない者も救うという発想はキリスト教における神の無限の愛(アガペー)や衆生を救う弥勒思想にも通ずるところがある。
 それでも、老子はあくまで世俗の内で思惟しており、老子的「救済」とは、神仏を媒介しない言わば真理―要妙―による直接的な救済なのである。人のみか物まで救済の対象とされるのもそのためである。それは結局のところ、による救済ということになるだろう。
 ちなみに、「救済」と関連づけて本章で扱われているもう一つのテーマは、善と悪の問題である。この点、老子の万物相同論によると、善と悪は二項対立関係にない。それゆえ、老子は本章では「悪」という語を避けて、「不善」と表現する。
 後段で明快に説かれているとおり、善き人は善からぬ人の師であるとして、善の規準性を老子も認めるが、善からぬ人は善き人の資であるとして、不善が善の質料であること、つまり善は不善から作られるという善悪の相同性をも指摘するのである。

2013年10月23日 (水)

ヒッグス粒子

 今年のノーベル物理学賞は、ヒッグス粒子の理論提唱者ピーター・ヒッグス博士とベルギーのフランソワ・アングレール博士に贈られた。特にヒッグス博士は従来、素粒子が質量を持つメカニズムが不明であったところ、質量の元となる未知の粒子の存在をおよそ半世紀前、理論的に予言していた。
 物質の質量がどこから生じるのかという問題は、まさに長年科学の大きな余白であった。科学的に説明がつかなければ、それこそ質量は神が与え給うたと説明するしかないような話である。そこに科学的な説明を与えて余白を埋めようとした代表者がヒッグス博士であった。
 だが、科学ではそうした粒子の存在が実験で確証されなければ、単なる仮説にとどまり、存在しない粒子の実在を単に信じるならば、疑似科学となりかねない。
 ヒッグス粒子の存在については、近年になって欧州原子核研究機構(CERN)での実験の結果、完全ではないものの、ヒッグス粒子に相当し得る新粒子が発見され、その存在が確証されつつあることが、理論提唱から半世紀後の受賞につながったと見られる。
 まさに科学の余白がまた一つ埋められようとしているわけである。科学賞とはこうした余白を埋めた功績を讃えるためにあると言ってよいが、仮に新粒子発見が理論提唱の100年後であれば、受賞は間に合わなかった。いつ埋まるとも知れない科学の余白をめぐって賞を出すことの難しさである。

2013年10月21日 (月)

ユダヤ人の誕生(連載第10回)

Ⅲ 入植・王国時代(続き)

aries王国の分裂
 ダヴィデ、ソロモン父子王の時代に栄華を誇ったとされる統一イスラエル王国はソロモンの没後、南北に分裂する。そのうち南王国(ユダ王国)はほぼ代々ダヴィデの子孫が王位を継承していくのに対し、北王国(北イスラエル王国)は一介の官僚にすぎなかったヤロブアム1世によって建てられた。
 従来、統一王国が分裂した理由として、ソロモン王時代の重税や過酷な賦役への民衆の不満も指摘されているが、前回論じたように、元来「統一」王国は南部の部族を主体としており、北部に対する実効支配の程度には疑問符がつくことからして、王国の「分裂」とは、もともと王国に内在していた分裂がダヴィデ、ソロモンのような強力な王の没後に表面化しただけのこととも言えよう。
 いずれにせよ、紀元前10世紀末以降、ユダヤ民族は南北二つの王国に分かれ、しばらくは両国間で抗争が続いていくわけだが、どちらかと言えば、北王国のほうが国力に富んでいたものと考えられる。北王国がやがて王都に定めたサマリアは山地であったが、北王国の支配領域は平野部にも広く及んでおり、農業生産力も高かったと見られるからである。
 一方、エルサレムを王都とする南王国はダヴィデ、ソロモンの系譜を引く点で王国としての正統性には勝っていたものの、その支配領域は山地を中心としており、農業生産力も十分とは思われない。ただ、南王国は政情が安定しており、唯一の例外として前国王の母が女王として即位し、内政を混乱させたケースを除き、世襲王朝として存続していくのである。
 北王国のほうはその全史を通じてクーデターが頻発し、たびたび王位が簒奪される政変に見舞われた。こうした政情不安が命取りとなる。折からオリエントではアッシリアが強勢化して、カナンにも手を伸ばしてきていたところ、末期の北王国は相次ぐクーデターで政情不安がいっそう募っており、アッシリアの攻勢に対して防備を固める余裕はなかった。
 結果として、北王国は前722年、アッシリアの征服王サルゴン2世の大規模な侵攻作戦の前に滅亡した。
 以後、北王国支配層は捕虜として各地に強制移住させられ、民衆は少なからぬ者がアッシリアの属州統治政策としてカナンに移入してきたアッシリア人をはじめとする異民族と通婚・混血させられ、同化されていった。
 新約では「善きサマリア人」のたとえで言及されるサマリア人とは、こうして生じた混血系の新たな自覚的少数民族であったがゆえに、ユダヤ人から迫害を受けることになる。
 ちなみに有名な「失われた10支族」とは北王国を構成し、王国滅亡後に「行方不明」となった10部族のことであるが、伝承としてはともかく、史実としての「失われた」とは、混血同化による民族的アイデンティティーの喪失を意味しているであろう。
 さて、「ダヴィデ朝」としての伝統を保持した南王国は政情の安定に支えられて、北王国よりもおよそ150年ほど長く存続していく。外交的にもアッシリア、次いで勢力を回復したエジプトに服属することで安全を確保していたが、新興の新バビロニアに宗主エジプトが敗れたことを契機に新バビロニアに押さえ込まれていく。
 前597年と586年の二度にわたる新バビロニア王ネブカドネザル2世によるエルサレム攻略により、支配層や有力者の多くがバビロンに捕虜として連行され(バビロン捕囚)、ダヴィデ朝はついに滅亡したのであった。

2013年10月20日 (日)

ユダヤ人の誕生(連載第9回)

Ⅲ 入植・王国時代(続き)

aries王国の形成
 中央山地勢力によるカナン平野部再移入が一段落すると、入植地を保持する目的から、統一王国樹立の機運が生じた。旧約によれば、イスラエル最初の王はサウルであった。彼は、最後の士師サムエルが神の啓示によって選んだベニヤミン族の若者であった。
 サムエル自身は王制に否定的であったが、民衆の要求に従うよう神の命を受けたとされる。その際、神はサムエルに王の権能について民衆に事前告知するよう指示し、民衆が王によって抑圧されるような事態もあり得ると王制のデメリットを説明したうえ、民衆の判断に委ねたのである。
 このエピソードから読み取れるユダヤ民族の政治思想は、反王制ということである。王国樹立はあくまでも入植地の安全を保障するための技術的な手段にすぎなかったのである。ユダヤ民族は本来、士師時代のように部族ごとの分権体制への性向が強く、現実の必要から王国を樹立しても世襲の専制王権とはならず、初期には王はサウルやダヴィデのように庶民から選抜されたり、後にもしばしばクーデターによる王位簒奪が発生するなど、血統より実力を重んじる傾向が根強かったと言える。
 ともあれ、紀元前11世紀末頃には統一イスラエル王国が樹立される。だが、この「王国」が実際どの程度整備されていたかは疑わしい。サウルもダヴィデもサムエルによる選抜であったことを見ると、最初期の最高実力者はなお士師サムエルであって、王は象徴的な存在ないしは軍司令官のような地位に過ぎなかったようにも見える。
 ただ、1990年代前半に今日のイスラエル北部の遺跡で発見された紀元前9世紀頃のアラム語碑文に「ダヴィデ朝」と解釈できる文言が刻まれていたことから、ダヴィデを開祖とする王朝の存在は確認できる。だが、これは王国分裂後のことである。
 統一王国時代の王都は南部のエルサレムで、サウルの属したベニヤミン族もダヴィデの属したユダ族も南部に根拠を置く部族であったことからすると、かれらの「統一」王国は主として南部の部族による連合王国であり、北部をどの程度実効支配していたか疑問なしとしない。
 しかも、サウルもダヴィデもその治世の大半をペリシテ人との戦いに費やしており、依然パレスチナ南部ではペリシテ人が強大な勢力を保持していたことが窺え、根拠地の南部地域ですら決して安全は保障されていなかったと見られる。
 その「統一」王国も最初のサウル王統はダヴィデとの内戦に敗れたサウルの息子イシュ・ボシェテで終わり、ダヴィデが新たな王朝を開く。ダヴィデ王の晩年にはようやく安定を確保し、彼は中央集権統治の確立に向け、王権強化を進めたとされる。ダヴィデの後を継いだのが、彼の息子で有名なソロモンである。
 ソロモンはその栄華と英知をもってその名をとどろかせたとされ、彼の時代は統一王国時代の全盛期とみなされるが、高名なはずのソロモンが同時代のエジプトやアッシリアの文献では一切言及されないことからも、初期のイスラエル王国の権勢について過大評価は避けねばならないだろう。

2013年10月19日 (土)

ユダヤ人の誕生(連載第8回)

Ⅲ 入植・王国時代

aries平野部再移入
 前回、旧約の「出エジプト」とは本来ほぼ今日のパレスチナに相当するカナンの先住民であった原カナン人の一部が、エジプトの支配を逃れて山地へ移住した事実を壮大な物語化したものであろうと論じた。
 旧約によれば、ユダヤ民族はモーセに率いられてエジプト本国を出国し、苦難の彷徨の末、モーセを継いだヨシュアの時、カナンの地へ帰還を果たすが、モーセ一行がたどったとされるルートの検証がほとんど成功していないのは、エジプト本国からユダヤ民族が大挙して出国したということが史実でない以上、当然のことである。
 実際のところ、ヨシュア以降、いわゆる士師時代に進展するユダヤ民族のカナン入植とは、いったん中央山地へ逃れ定住していた勢力が平野部へ再移入していった事実の反映であると考えられる。
 通常士師時代は初期鉄器時代、すなわち紀元前13世紀末頃から紀元前11世紀中頃までと理解されているが、山地へ逃れた勢力が平野部へ再移入し得た要因として、エジプトの西アジア支配が失われたことが最も大きいはずであるので、それを考慮すれば、エジプトが最盛期を過ぎ衰退を始めた第20王朝の時代、ことにエジプトの内政が混乱に陥った紀元前12世紀半ば以降の可能性が高い。
 旧約によれば、士師時代のカナンには「カナン人」をはじめとする七つの異民族が居住しており、ユダヤ民族はこれら異民族を制圧してカナン入植を進めていくことになるのだが、実際上これらの「異民族」とは元来はユダヤ民族と同様に「原カナン人」から派生した諸民族に過ぎなかった。
 だた、山地勢力は山地居住の間にカナン伝統の宗教とは異なる後のユダヤ教につながる独自の宗教的慣習とそれをベースとした民族的アイデンティティを形成し始めており、平野部勢力を征服すべき「異民族」と認識するようになっていたのであろう。
 真に「異民族」と言えたのは、士師時代後半期に主敵となるペリシテ人勢力である。ペリシテ人とはパレスチナの地名の語源ともなった勢力で、元来はいわゆる「海の民」の構成集団と見られ、エジプトから撃退された後、エジプト当局の許可の下、カナン南部地域に居住し、エジプトに服属していた。かれらの民族的出自は多様であったが、その支配層はギリシャ系と見られる。
 旧約では特に士師サムソンの物語の中でペリシテ人との抗争が劇的に叙述されているが、おそらくエジプトの衰退後、ペリシテ人も自立化し、いくつかの都市国家に分かれて勢力を張るようになり、同じく優勢化していたユダヤ勢力と衝突を起こすようになったのだろう。
 旧約によれば、ユダヤ民族はこれらの敵勢力を順次制圧してカナンの地の支配者となるのだが、完全に滅ぼすことはしなかったとされているとおり、入植の過程で近隣集団と衝突を繰り返しながらも、通婚・混血によってこれらの集団を吸収・同化していったのであろう。
 こうした入植活動を指揮したのが旧約で士師と呼ばれる英雄的指導者たちであったが、この時期のユダヤ民族はまだ統一されておらず、山地勢力が首領に率いられた小さな武装集団に分かれて順次平野部への入植活動を展開し、平野部の新たな居住地域ごとにいわゆる十二部族に代表されるような諸部族を形成するようになったと考えられる。
 同時に、こうして平野部再入植を果たして初めて、統一した民族意識―イスラエル人―が形成され、政治的にも王国樹立への機運が生じてくるのである。

2013年10月16日 (水)

音と音楽のあいだ

 老子は音楽―広くは芸術全般―に否定的であった。老子にとっては人工的に作出される音声一般が文明という名の劣化なのであり、音なき声こそ、老子にとって理想の音であった。
 音なき声は決して無音ではない。老子にゼロの観念はない。だからジョン・ケージの『4分33秒』のように、無音の休止だけで成り立つ「音楽」は老子的な音なき声ではない。
 では、音なき声とは何か。老子は明言しないが、おそらく自然音のようなものだろう。例えば、川のせせらぎや風に揺れる木の葉の音、鳥や虫の鳴き声などである。それらを『田園』などと題し音楽としてシュミラークルしてしまえば、それはもはや音なき声ではない。
 近年は実際、自然音を採取して「擬似音楽」に組み立てる試みもあるが、これも「音楽」一歩手前まで行っている点で、老子からすれば満足いくものではないだろう。
 そういう意味で、老子的音なき声とは、単なる音と音楽の間にあるものであろう。自然音とはそういうものである。
 とはいえ、人類は音楽とは切っても切れない関係にあって、音楽を排除した生活はおそらく成り立たないだろう。だが、音楽の麻薬的効果にはまらないためには、いっとき音楽を離れ、森の中で耳を澄ましてみるのもいいかもしれない。

2013年10月13日 (日)

老子超解:第四十四章 信言不美

四十四 信言不美

信[まこと]の言葉は飾りがなく、飾った言葉は信でない。善なる者は弁じ立てず、弁じ立てる者は善でない。真に知る者は博識でなく、博識の者は真に知っていない。
理想の人は蓄積しない。ことごとく他人のために尽くして、己はますます持ち、ことごとく他人に与えて、己はますます豊かである。
自然の法則は(万物に)利益を与え害することなく、理想の人の流儀は何事かしても争わないのである。

 
 
通行本では本章が最終章を締めくくる。内容的には前章を受け、第一段で、真なるものの外観と実質の齟齬を言説や知のあり方に関連づけて説いている。その主旨は「反修辞」、「反雄弁」、「反博識」であり、明言されないものの、これらはいずれも儒教的素養に対するアンチテーゼともなっている。
 第二段では主題を変えて「反蓄積」という経済思想が、第三段では「不争」という生活哲学が簡潔に語られ、いずれも老子の核心的思想ではあるが、第一段とはやや内容上距離があるので、本章は元来、三つの断章を後世の編集により一本化したものかもしれない。
 とはいえ、第一段の「反修辞」を四文字熟語で言い表す「信言不美」は、まさに老子の思想の特色を凝縮するキーフレーズとも言い得るために、本章をもって締めの最終章とする章立てが一般化したものであろう。

2013年10月12日 (土)

老子超解:第四十三章 真なるもの

四十三 真なるもの

真に完成したものは欠陥があるかのごとく、その効用はいつまでも尽きない。真に充満したものは空虚のごとく、その効用はいつまでも限りがない。
真にまっすぐなものは曲がっているかのごとく、真に巧みなものは拙いかのごとく、真に雄弁なものは訥弁であるかのごとくである。

(第三段削除)


 通行本第四十五章の本章から先の五章は、哲理篇の総括的な意義を持つ。中でも本章は総括の序といった位置づけとなる。

 ここでは、およそ真なるものの外観はまるでその実質の正反対であること、一般化すれば形相に対する質料の優位が説かれている。
 形相に事物の本質を見たアリストテレスとは反対に、老子は質料に本質を見る。これは個別的な形相の現れとしての個物の追求を現実の哲学的課題とみなした前者に対し、あらゆる個物の始原的質料と言うべきへの復帰を究極の第一哲学とした老子の分岐点を示してもいる。
 老子はまた本章を通じて、しばしば事物の外観にとらわれて本質を見失い惑う世人の価値基準に警告を発している。襤褸を着て懐に玉を隠すという「被褐懐玉」とは、そうした世俗的価値基準に対するアンチテーゼとなるたとえでもあった。

2013年10月 4日 (金)

老子超解:第四十二章 老子的三宝

四十二 老子的三宝

世間の人は皆、私のことを遠大だが愚者のようだと言う。たしかに遠大だからこそ、愚者に見えるのだ。もし利口だったら、とっくの昔に小物になっていただろうよ。
私には三つの宝があり、それらを大切に守り続けているのだ。一に慈、二に倹、三にあえて世の前衛に立たないこと。慈なるがゆえに勇敢たり得るのだし、倹なるがゆえに寛大たり得るのだし、あえて世の前衛に立たないがゆえに人材の長たり得るのだ。今、慈を捨てて直ちに勇敢たらんとし、倹を捨てて直ちに寛大たらんとし、後衛を捨てて直ちに前衛たらんとすれば、死あるのみである。
そもそも慈は、それによって攻めれば勝ち、それによって守れば固い。天も(慈ある者に)味方し、慈によって護ってくれるのだ

 
 前章の「被褐懐玉」、すなわち老子が襤褸の懐に隠して顕示しない玉とは何かを具体的に説示するのが、通行本第六十七章になる本章である。老子は、本章で慈・倹・後を三宝として提示している。
 はじめの「慈」とは、慈愛とか慈悲とかいうときの慈(いつくしみ)とは微妙に異なり、かの「柔弱」にほぼ相当する。老子によれば、真の勇敢さとは慈に由来するという。
 次の「倹」とは、経済的な倹約という狭い意味にとどまらず、むしろ精神的な態度として、控えめで自己顕示しないことを意味している。これも慈≒柔弱から導かれる処世態度である。
 最後の「後」は直接には出てこないが、世の前衛に立たず、後衛に徹して、しかも人材の長となることである。これは「倹」から導かれる老子流リーダーシップ論とも言える。
 こうして慈→倹→後と連関する三宝の出発点は「慈」にあり、これは末尾で再言されるように、兵略論にすら応用されている。
 ちなみに「三宝」というと、仏教における仏・法・僧の三宝のほうがよく知られているが、これは老子の影響を受けた中国仏教を介して「三宝」という言葉がサンスクリット語の訳語として仏教にも取り込まれたもので、内容上老子的三宝とのつながりは認められない。
 むしろ制度的仏教の信仰対象・教義・修行を表現する仏・法・僧はいずれも、本来非宗教的で、教義も修行も伴わない老子の思想とは対極にあるとさえ言えよう。

2013年10月 3日 (木)

慎重の原則

 科学的根拠を欠く行為(不行為を含む)には通常、不合理の推定が働く。しかし、場合により科学的根拠を欠く行為が不合理とは言い難い場合もある。それは事が環境保護や生命健康に関わる場合である。
 こうした場合、現時点では科学的根拠を欠いているとしても、根拠が判明するのを待っていては危険であるならば、科学的根拠を欠いていても慎重を期して危険回避のため特定の行動を控えるか、特定の行動をとることがむしろ合理的である。
 こうした「慎重の原則」に基づく措置はしばしば経済的な利益の要求に反することもある。福島原発での汚染水問題に関連して、韓国政府が福島産を中心とした日本の水産物の輸入を禁止した策などは最近の例である。
 この場合、政府の規制措置は科学的根拠を欠いているとしても、事は環境及び生命健康に関わるため、「慎重の原則」を適用することがいちがいに不合理とは言えない。だが、輸出元の利益を害するため、政府間で貿易摩擦を生じる。この問題の解は、究極的には命をとるか金をとるか、の価値選択に委ねられるだろう。
 ただ、「慎重の原則」に基づく措置はあくまでも暫定的なものであるから、科学的根拠が判明した暁に、その措置が不合理と結論されたときは解除されるべきものである。その意味で、これも科学の余白に関わる問題と言える。

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