« 2013年8月 | トップページ | 2013年10月 »

2013年9月

2013年9月26日 (木)

ユダヤ人の誕生(連載第7回)

Ⅱ 「出エジプト」の真相(続き)

aries中央山地への移住
 前回、旧約の出エジプト物語はエジプト新王国によるヒクソスの駆逐の史実と重なる部分は認められるものの、それだけでは説明し切れず、別の史実の投影も想定しなければならないと指摘した。
 この点で、エジプト第18王朝によるパレスチナ支配の確立という新状況を視野に置く必要がある。長く続き、エジプトの再興を主導した同王朝は、紀元前15世紀半ば頃になると、パレスチナ各都市に代官を駐留させ、宗主としての支配を強めていた。
 その後、後期青銅器時代晩期から初期鉄器時代にかけて、パレスチナの中央山地で集落が急増するという考古学的事実が認められる。この頃エジプトによるパレスチナ支配は平野部を中心としており、山地は支配の及ばない空隙となっていたと見られる。このことは、平野部の民族であるエジプト人は山岳を苦手としたであろうことからも容易に想像がつく。
 この時期に山地集落が増えた理由としては、平野部の原カナン人の一部がエジプト支配を逃れてエジプトの支配が及ばない山地へ集団移住したということが考えられる。出エジプト物語では出エジプトの主たる動機は、エジプトにおけるユダヤ民族搾取からの解放ということにあったが、そうした搾取が行われていたとすれば、それはエジプト本国ではなくして、まさにパレスチナ=カナンの地においてではなかったか。
 そうしたエジプトによる一種の植民地支配を逃れるため、平野部の住民の一部が山地へ脱出した。これこそが、真の「出エジプト」であると考えられるのである。
 後に旧約が編纂される過程では、先のヒクソス駆逐作戦による原カナン人の避難・帰還の伝承とその後におけるエジプトの支配する平野部から山地への集団移住の伝承とが合成されて、モーセの引率による出エジプトという壮大な物語が創作されたのではないだろうか。
 そう考えた場合、この中央山地に居住するようになった原カナン人こそ、ユダヤ民族の最初の核となった集団とみなしてよいであろう。実際、それを裏書きするように、この時期の平野部の遺跡からは豚の骨が出土するのに、山地の遺跡からは出土しないという。このことは、山地住民の間で後のユダヤ教戒律につながる豚肉に関する禁忌がすでに形成されていたのではないかとの推定を導く。
 一方で、この時期の山地住民と平野部住民が全く別の民族であったことを示すほどの顕著な差異は認められないことからすると、両住民は元来同一民族集団に属したが、ある時点から別れて住むようになり、特に山地住民は狭隘な地で定住生活に入ったことで、宗教的にも独自のアイデンティティーを共有し合う新たな民族としての意識を高めていったと考えられる。
 こうして、おおむね初期鉄器時代以降のパレスチナ中央山地住民こそが「出エジプト」した原ユダヤ民族(原イスラエル人)の始祖集団であったと結論づけられる。逆に言えば、これ以前、ユダヤ民族はまだそれとしては存在していなかったのである。

2013年9月23日 (月)

老子超解:第四十一章 被褐懐玉

四十一 被褐懐玉

私の言葉は大変理解しやすく、大変実践しやすいのに、世間によく理解できる者がなく、よく実践できる者がない。言葉には真髄があり、実践には要諦がある。そもそもそれを理解しないからこそ、私を理解できないのだ。私を理解する者がまれなのは、要するに私が貴重だということだ。そういうわけで、理想の人は褐[襤褸]を着て玉を懐に抱いているのだ。

 
 
孤高の哀愁を帯びた前章のトーンから一転して、通行本第七十章に当たる本章では冒頭から、世人に理解されないことをむしろ誇りとする自己肯定的なモノローグが展開されている。
 末尾の襤褸を着て玉を懐に抱く理想の人とは、まさに老子の自己像に合致する描写であろう。こうした点では、本当に襤褸を着て大樽を住処としたキュニコス派の代表的哲学者ディオゲネスを彷彿とさせるイメージである。
 ちなみに『論語』に、孔子が弟子の子貢から「美しい玉があるとして箱にしまっておきますか、それともよい買い手を探して売りますか」と尋ねられたのに対し、即座に「売ろう」と答えたというエピソードが記されている。これは、孔子の積極的な自己顕示の姿勢をよく示す(直接的には宮仕えの意欲を示す)エピソードである。
 本章はこれを意識したものかどうか定かでないが、玉を襤褸の懐に隠し持って顕示しない―従って、宮仕えのような「出世」にも関心を持たない―のが、老子の流儀なのである。この点、魯迅が老子を主人公とする短編『出関』の中で、宮廷の階を上る孔子の靴に対して、老子の靴を流沙を踏む靴と対照しているのは至言と言うべきであろう。
 老子はむろん砂漠の民ではなかったが、前章にも描写されていたように、老子的実存は所属を持たず、止まぬ風のように漂流するノマド的なものなのであった。

2013年9月22日 (日)

老子超解:第四十章 孤高の詩

四十 孤高の詩

(丁重な)「はい」という返事と(ぞんざいな)「ああ」という返事とでどれほどのへだたりがあろうか。美と醜とでどれほどのへだたりがあろうか。他人が憚ることは憚らざるを得ないが、そんなことを気にかけていたらきりがない。
世の中の人たちはうきうきとして、宴会を楽しむかのごとく、また春の日に展望台に登るかのごとくだ。私独りじっとして身動きせず、まだ笑うこともできない嬰児のようだ。ぐったりとして帰る場所もない。世の中の人たちはあり余るほど所有しており、私独りすべてを失ったかのごとくだ。私は何となまくらなことよ、鈍重なのだ。
俗世間の人たちはきらきらと輝き、私独りどんよりとしている。俗世間の人たちははきはきとして明晰であり、私独りぼんやりとしている。ゆらゆらと漂うこと海のごとく、ひゅうひゅうとさまようこと止まぬ風のごとくだ。世の中の人たちは皆有用であるが、私独り頑な異分子なのだ。私独り他人とは異なり、母(なる道の根本)を食んでいるからだ。

 
 
通行本第二十章に当たる本章からは、老子なりの実存主義的なモノローグがしばらく続くが、原文では韻を踏む詩の形で表現された本章は、そのハイライトと言えよう。
 冒頭で再び言及された万物相同論に代表されるように、世間常識・世知をことごとく否定するかのごとき老子の晦渋な思想は、同時代人からも理解されなかった。俗世間に浸かって世人と同様に生きることをあえて拒む老子的実存の寂寥感が滲み出ているのが本章である。
 この点では、やはり俗世間に埋没した大衆的生を批判したハイデガーが、そうした自己の本来的な存在を忘却し、日常性の中に埋没した非本来的な人間をDas Man(=ただの人)とやや軽蔑的に呼んでいたのとは異なり、老子は大衆的生き様と自らの孤高の生とをやや自虐的に対照してみせている。老子は孤高ではあったが、俗世間を見下す高慢ではなかったのだ。
 とはいえ、老子は自虐に終始するすね者でもない。末尾で「母を食んでいる」自己へのプライドをさりげなく示してどんでん返しをしているのである。「母を食む」とは、儒教的には看過し難い不遜な表現であるが―老子が儒教を意識してあえてこう表現したのかは定かでない―、これは第一章でも比喩的に「母」で象徴されていたの体得を指している。
 そういう観点で改めて本章全文を読み返せば、老子が大衆的生き様と自虐的に対照してみせた嬰児のようで、帰属もなく、無所有、重厚、芒洋として漂流する無用者とは、これまで見てきたように、老子的には理想とされていたの実践の総列挙なのである。
 要するに、本章には老子一流の逆説的な形で、の体得者としての気概が示されているのであり、これはそのまま次章のよりポジティブなモノローグへと接続されていくのである。

2013年9月21日 (土)

ユダヤ人の誕生(連載第6回)

Ⅱ 「出エジプト」の真相(続き)

ariesヒクソスの駆逐
 旧約の出エジプトはそれだけで一冊の書にまとめられた壮大な物語である。それによると、ヤコブ一族のエジプト定着後、ユダヤ民族はエジプトで地歩を築いていたが、ユダヤ民族が増えすぎたことから、ファラオはユダヤ民族を重労働で搾取した末、ユダヤ民族に生まれた男子を殺害する一種の民族浄化政策に踏み込む。
 出エジプトの指導者となるモーセはこうした政策の最中に生まれたが、捨て子となっていたところをファラオの王女に救われ、実は自らの実母である乳母によって宮中で育てられ、成長する。やがて彼はエジプト人殺害事件を起こして逃亡中、神からユダヤ民族を脱出させるよう啓示を受ける。
 そこで、彼はファラオにユダヤ民族の国外退去を請願するが、何度も拒否される。しかしそのたびにエジプトに厄災がもたらされ、ついに10回目でエジプト人の初子はすべて死ぬという重大な厄災が生じるに及んで、ファラオの裁可が出る。そこで、モーセは同胞を率いてエジプトを出る。
 このような劇的なあらすじであるが、これもヨセフの入エジプトと同様、史実の忠実な反映とは思われない。ここで想起されるのは、前回述べたエジプト人勢力によるヒクソス駆逐の事実である。
 ヒクソス系第15王朝の末期からエジプト人勢力の抵抗が始まり、上エジプトのテーベを拠点に地方的なエジプト系第17王朝が樹立される。その後、同系第18王朝の実質的な開祖と目されるイアフメス1世は弱体化したヒクソスに対する効果的な掃討作戦を展開し、前1500年代半ば頃までにエジプト再統一に成功した。
 そればかりか、彼はヒクソスをパレスチナ方面まで追撃する遠征を行い、これによってヒクソスのパレスチナ側拠点であったシャルヘンを陥落させた。そして従来とは逆に、パレスチナ地方にまでエジプトの支配権を拡大したのである。
 ただ、これは旧約上の出エジプトとは逆に、ファラオ側が異民族勢力を追い出したのであり、出エジプトのプロットとは合致しない。
 ただ、出エジプト物語でもユダヤ民族退去の裁可を後悔したファラオが追っ手の軍勢を差し向けてきたが、モーセが杖をかざすと海が裂け、モーセ一行は乾いたところを通って渡り切るが、エジプト軍は水に飲まれて全滅する話になっている。この部分では、イアフメスのパレスチナ追撃作戦と重なる点も認められる。
 結局のところ、断定はできないが、出エジプト物語の根底には上述したエジプト新王国によるヒクソス駆逐作戦と、それによって難民化して原郷へ帰還していった原カナン人の記憶が伝承として反映されているのではないかとの推測は働く。
 とはいえ、先に見たように、ヒクソス駆逐作戦と出エジプト物語では状況的な差異も少なくなく、両者を完全に同一視することは難しい。とすると、出エジプト物語にはさらに別の史実の反映も想定しなければならないであろう。

2013年9月20日 (金)

ユダヤ人の誕生(連載第5回)

Ⅱ 「出エジプト」の真相

aries「入エジプト」の経緯
 旧約で最重要のトピックと言えば、「出エジプト」である。この物語は聖書を超えてユダヤ民族にとってのバックボーンでもある。カナンの地を本貫としたユダヤ民族にとって「出エジプト」は当然「入エジプト」を前提とするが、旧約によればその経緯はアブラハムの孫に当たるヤコブの子・ヨセフが兄弟たちに疎まれて奴隷として売り飛ばされ、エジプトへ連行されたことに始まる。
 エジプト王宮侍従長の下僕となった機転の利くヨセフは同家の財産管理を任されるが、妻の誘惑を断った仕返しに策動で投獄されるも、そこで今度は監獄管理人となり、ある出来事からやがてファラオの知遇を得てエジプト宰相にまで栄進する。
 その後、飢饉でエジプトへ食料買い付けに来た兄弟たちと再会し、最終的に兄弟と父ヤコブもエジプトに呼び寄せる。こうしてヤコブ一族がエジプト入りすることになる。ヨセフの兄弟は彼を含めて12人おり、これがイスラエル12部族の祖とされる。
 こうした劇的なプロットはもちろん史実を忠実に反映したものとは思われない。かといって入/出エジプトがすべて創作であると断定することもできず、この話には何らかの史実的基礎はあると見られる。
 この点、まず出発点となる「入エジプト」については、紀元前1600年代半ばから同1500年代半ばにかけてエジプトを支配した異民族勢力ヒクソスとの関連が想定される。ヒクソスは元来、シリア・パレスチナ方面のセム語系を主軸とする混成勢力と見られているが、この勢力にユダヤ民族の母集団でもある原カナン人が含まれていた可能性は大いにある。
 従来の説では、ヒクソスを否定的に叙述するエジプト側の記録に従い、ヒクソスは外部から襲来してエジプトを侵略し、王朝(第15王朝)を形成してエジプトを異民族支配したとされる。
 しかし、近年はこうした西アジア系勢力は早くからエジプトに移住して地盤を築いていたと考えられるようになっている。このことは、カナン地方がエジプトの入り口に当たるシナイ半島と陸続きであり、元来シナイ半島にも原カナン人の勢力範囲が一部及んでいたと見れば、何ら不自然さはない。
 要するに、原カナン人の一部はすでにヒクソス王朝成立以前から「入エジプト」し始めており、とりわけ東部デルタ地帯はかれらの拠点であった。ヒクソス王朝が首都とした都市アヴァリスでは実際、第12王朝後期の遺跡から、シリア・パレスチナに起源のある武器やその他の文物が出土している。
 またヒクソス王朝である第15王朝の王や、同王朝がエジプト人の抵抗勢力によって転覆された後、エジプト系の第17ないし18王朝と一時並立したと見られるヒクソス系地方王権第16王朝の王名中に「ヤコブヘル」や「ヤクバアム」など後のユダヤ民族を思わせる名が見えるのも、ヒクソス勢力に原カナン人が含まれていたことを暗示させる。

2013年9月16日 (月)

老子超解:第三十九章 生命執着の戒

三十九 生命執着の戒

人は生まれて死ぬ。生き永らえる者は十人中三人あり、早死にする者も十人中三人ある。しかし、中には生きているうちに自分から死地へ赴く者も十人中三人ある。それはなぜか。生命に執着し過ぎるからである。
あるいは聞くところによると、正しく摂生する者は陸を旅しても猛牛や虎に遭わず、戦場に出ても鎧兜を身に着けない。猛牛も角を突きようがなく、虎も爪を立てようがなく、武器も刃を突き刺す余地がないというのだ。それはなぜか。(正しく摂生する者には)死地がないからである。

 
 
老子的養生論の総括として説かれるのが、通行本第五十章に当たる本章、「生命執着[しゅうじゃく]の戒」である。ここでの注目ワードは「死地」。これはもちろん物理的な意味での「死に場所」ではなく、ここでは死を招く動因のようなものを指している。
 老子が警告するのは早死にではなく、生きているうちに死の動因を招き寄せてしまうことである。それは、老子によれば、生命に執着し過ぎることから起こる禍である。この点で、老子は生命の価値を過剰に称揚する凡百の養生論―現代におけるその代表格は西洋医学的な養生論であろう―と一線を画す。
 かといって、老子は死に過剰な意識を集中しようとしているわけではない。この点で、ハイデガーのキーワード「死への存在(Sein zum Tode)」ともすれ違う。このような死を意識した生の有限性の自覚は、反転して生命への強烈な執着を結果することにもなりかねないであろう。
 老子はそうした方向もとらず、結局は、本章では直接に言及されない、かの「柔弱」を推奨するのである。「死地」がないという「正しく摂生する者」とは、言い換えれば「柔弱を実践する者」にほかならない。

2013年9月15日 (日)

老子超解:第三十八章 強梁の戒

三十八 強梁の戒

人々が嫌うのは、みなしご・ひとりもの・ろくでなしといったものだが、為政者らはそう自称して(へりくだって)いる。とすると、物事は減らすことで増えたり、あるいは増やすことで減ったりもするわけだ。
人々が教えることを、私もまた教えよう。すなわち強梁者(強がる者)はまともな死に方をしない。私はこのことを教えの基本にしようと思う。


 
柔弱の教えの反面として引き出される箴言が、通行本第四十二章になる本章で説かれる「強梁の戒」である。従って、老子的には「柔弱」の実質的な対語は「堅強」ではなく、「強梁」である。
 冒頭で挙げられたみなしご・ひとりもの・ろくでなしとはいずれも社会的弱者の代名詞であるが、為政者が謙遜としてそうした代名詞を自称したという当時の慣用を引き合いに出して自説を説くのが本章の特徴である。
 この点、第十二章でも、「貴きものは賎しきものを基本とし、高きものは低きものを基本としている」という命題の引証として、同じ例が挙げられていたところでもある。本章の文脈に即せば、「強きものは弱きものを基本としている」という命題に引き直せるであろう。もっとも、一般には強がってみせる為政者らの謙遜は儀礼にすぎず本心でないとすれば、この引証には老子の皮肉が込められているかもしれない。
 いずれにせよ、老子は「強さ」を追求する常識的な養生論には与しない。「減らすことで増え、増やすことで減る」という逆説も、「柔弱」がかえって「強靭」に転じ、「強梁」がかえって「脆弱」に転ずることを警告しているのである。
 なお、通行本では本来、本章第一段には「道が一を生じ、一が二を生じ、二が三を生じ、三が万物を生ずる。万物は陰を負って陽を抱き、沖気がこれを調和させているのである。」という章句が来るが、これは内容上「無」について説く第九章と関連が深いことから、評釈者の判断であえて移置したものである。

2013年9月12日 (木)

ユダヤ人の誕生(連載第4回)

Ⅰ ユダヤ民族の原郷(続き)

aries聖書カナン人と原カナン人
 前回、ユダヤ民族は「カルデアのウル」から約束の地カナンへ移住してきたのではなく、初めからカナンに居住していたと述べた。この考えによれば、ユダヤ民族にとってカナンは神から約束された異郷ではなく、まさに原郷であって、かれらこそは真の「カナン人」であったことになる。
 この点、旧約上のカナン人はユダヤ民族によってやがてカナンの地から追われる七つの民族の一つであり、ユダヤ民族とは別の民族として描かれている。こうした言わば「聖書カナン人」とは区別して、ユダヤ民族もそこに包含される「原カナン人」というものを想定することができる。
 このような「原カナン人」はまだそこからユダヤ民族や後に地中海を支配する海商民族として台頭するフェニキア人などが分岐する以前の未分化集団であって、より北方を拠点としたアムル人とも近縁であったと見られる。
 かれらの生活形態は、旧約のアブラハムらの生活描写にあるとおり、おそらく半遊牧的な羊牧畜民で、ラクダ遊牧民ではなかった。中東におけるラクダの家畜化は後期青銅器時代以降とされるから、旧約でアブラハムの息子イサクがアラム人の花嫁リベカを迎えるくだりでラクダが登場するのは時代先取りの錯誤的叙述と見られている。
 原カナン人は言語も共有していたと見られ、現在ではヘブライ語だけを残し、すでに消滅したフェニキア語も含むセム語派のカナン諸語という言語学的カテゴリーにその痕跡が認められる。このカナン諸語はまたアラム語などとともにセム語派の北西セム語に大分類され得ることからも、原カナン人とアラム人も言語的に共有する点があったと考えられる。
 こうした原カナン人の宗教文化的な源流は紀元前16世紀から13世紀にかけて全盛期を迎えた都市国家ウガリットに見ることができる。ここで発見された粘土板文書(ウガリット文書)には叙事詩形式の神話が記録されており、これは旧約のヘブライ文学とも共通点を持つ原カナン神話につながる原典とも言えるものであった。
 これに対し、旧約上の聖書カナン人は、ユダヤ民族が一旦エジプトへ移住し、そこからモーセに率いられて「出エジプト」して再びカナンに戻ってきて以降、その地に居住していたアモリ人(アムル人)を含む七つの民族の一つであったが、このことは原カナン人からユダヤ民族などが分岐した後のカナンには多様な民族が混在するようになっていたことを示すものであろう。

2013年9月11日 (水)

ユダヤ人の誕生(連載第3回)

Ⅰ ユダヤ民族の原郷(続き)

ariesアブラハムの出身地
 旧約では、民族始祖アブラハムの出身地を「カルデアのウル」とする。このウルとは、三代にわたってシュメール人の都市王国が栄えたメソポタミア文明圏の由緒ある故地ウルと同一視されている。
 アブラハム(旧名アブラム)とは元来「群集の父」の意味を持つから、アブラハムとは一人の個人ではなく、要するに集合的に民族の始祖を表象している。
 そういうアブラハムがウル出身の富裕な遊牧民であったとされることから、ユダヤ民族が前期青銅器時代のメソポタミア周辺に展開していた有力遊牧民族アムル人(旧約上はアモリ人)から分かれたのではないかとの推測を導くことになった。つまりアムル人の一派が前期青銅器時代末期の前2千年紀初頭頃に西方へ集団移住してカナンの地に入り、ユダヤ民族となったという仮説である。
 一時有力化したこの仮説はしかし、結局のところアムル人の西進という事実が考古学的に実証できなかったことから下火となり、今日では疑問視されている。
 そうすると、旧約は一体なぜウルという地名を出したのかということが改めて問題となる。この点については、時代下って旧約の編纂が始まった時期の特殊性を考慮する必要がある。旧約に含まれる書物が最初に書かれたのは、紀元前597年からおよそ半世紀に及んだ「バビロン捕囚」の時代であった。
 バビロンもまたまさにアムル人が最初の王朝を建てたメソポタミアの古都で、ウルとも比較的近い。このバビロン捕囚時代のユダヤ民族にとってウルはまさに文明発祥の誉れ高い地であり、民族始祖の原郷をここに設定したことは自民族の起源を飾るうえで意味のあることだったのである。
 それではユダヤ民族がアムル人と全く無関係かと言えばそうとも言い切れない。アムル人自体の原郷はシリア方面と理解されている。ということは、アムル人がメソポタミアの地から西進したのではなく、逆にかれらはシリア方面から東進してメソポタミア地方へ移住したと考えられるのである。先のアムル人仮説とはちょうど逆向きとなる。
 これが何を意味するかと言えば、アムル人もユダヤ民族も本来シリアと連続的なカナンをも含めたレバント地方を原郷とする同一もしくは近縁な民族集団から出ているのではないかということである。
 従って、メソポタミアのアムル人が移動してユダヤ民族となったのではなく、ユダヤ民族は初めからカナンの地に居住しており、かれらと同一もしくは近縁な民族集団がメソポタミアへ移住してアムル人となったのである。

2013年9月 4日 (水)

老子超解:第三十七章 柔弱の優位性

三十七 柔弱の優位性

人が生まれるときは柔らかく弱いが、死ぬときは堅く強ばっている。草木も生まれたときは柔らかくしなやかだが、死ぬときは枯れてしなびている。とすれば、堅強なるものは死の同類であり、柔弱なるものは生の同類なのだ。
こういうわけで、軍は強ければ勝てず、木は強ければ折られる。強大は下位にあり、柔弱が上位にあるのである。


 
通行本第七十六章に当たる本章で平易な比喩をもって説かれる「柔弱」は、老子的養生論のキーワードである。
 ここでも柔弱なるものを生と結びつけ、死と結びつけられた堅強なるものの上位に置くという老子流逆説が展開されているが、老子の謂う「柔弱」とは「軟弱」ではなく、「柔軟」の方に近い。

 この点、第二十一章で嬰児のある種柔軟な強靭さを身心の平衡状態の理想とみなしていたことが想起されるし、本章冒頭でも誕生したばかりの嬰児を硬直した死体と対比させつつ、柔弱なるものの象徴として挙げている。また後の章で水を柔弱なるものの象徴として挙げるのも、水力の柔軟なパワーを想起すれば首肯できよう。
 こうした老子の「柔弱」は養生論の域にとどまらず、本章後段にもあるように、常識的には強大さを追求する兵略論にさえ応用され、さらに政論にも及んでいくのである。

2013年9月 3日 (火)

老子超解:第三十六章 曲全の処世

三十六 曲全の処世

曲がっていると安全であるし、くねっているとまっすぐになれるし、くぼんでいると満ちる。使い古すと新生する。多く持たないと満足できるが、多く持つと迷う。こういうわけで理想の人は基本の一を守り、天下の範となるのだ。
自分を見せびらかさないからこそ注目され、自説を絶対化しないからこそ際立つのである。また自慢しないからこそ成功するし、自尊しないからこそ長持ちするのである。
そもそも争うことをしないからこそ、天下に理想の人と争える人はいない。古くから言われるように、曲がっていると安全だとの格言はどうしてでたらめであることがあろうか。まことに(そうであってこそ)身を全うして根源に帰っていけるのだから。

 
 
通行本第二十二章に当たる本章は、逆説家老子の面目躍如たる一章である。第二段で前章の内容が再び繰り返されているように、老子の「自己顕示の戒め」は逆説的な一種のプレゼンテーション戦略だと指摘したことが、本章に現れる。
 「曲全」の教えで始まる第一段はその白眉であるが、こうした逆説的論法は老子を一見ソフィストのように思わせるかもしれない。しかし老子がソフィスト的であるのは儒家への対抗戦略であって―これも老子なりのプレゼン戦略なのであろう―、老子は決して本質的な詭弁家ではなかった。
 プラトン的理解によれば、古代ギリシャのソフィストは価値相対主義的な観点から「白は黒い」式の詭弁を駆使したのだったが、老子的逆説の根底には、本章で久しぶりに登場した一=が控えている。老子はの立場から一般常識・通念を逆転させ、揺さぶりをかけてみせているのだと言えよう。
 その点、ここで改めて第十一章で見た万物相同論を振り返ってみると、これもソフィスト的価値相対主義の言説とは異なり、個物の差異の手前にあるへの復帰という視座からの価値一元的な相対論であること―これも一つの逆説である―が確認されるのである。

2013年9月 1日 (日)

避難訓練より避難分析

 90年前の関東大震災記念日のきょう9月1日は「防災の日」として、毎年避難訓練が繰り返されてきた。それは訓練が防災につながるという確信のもとに行われている。しかし、その確信は果たして科学的だろうか。
 そもそも訓練のシナリオどおりに起きてくれる災害など存在しないのだから、避難訓練のやりすぎは実際の災害で想定外事態に直面したとき、かえって訓練マニュアルに縛られて遭難につながりかねない。その意味で避難訓練は科学というより、行政の領域に属する。
 避難訓練より科学的なものがあるとすれば、それは人間の避難に際してのとっさの判断力を分析することである。2年前の3・11でもとっさの判断の正否は明らかに生死を分けている。こうした判断力はミクロにはヒトの脳神経の働きに関わることであるし、マクロにも自然現象に関する正しい科学的知識を前提とする。 
 「防災科学」というならば、避難訓練を恒例行事化するよりも、災害に際して的確な判断で避難に成功した人たちの行動を分析して、経験則を抽出することのほうが科学と呼ばれるにふさわしいのではないだろうか。 

ユダヤ人の誕生(連載第2回)

Ⅰ ユダヤ民族の原郷

ariesユダヤ人とユダヤ民族
 「ユダヤ人」という語は「日本人」とか「ドイツ人」といった語とは次元を異にする概念を擁している。「日本人」とか「ドイツ人」といった場合、それぞれ民族としての日本人なりドイツ人といった血統的な概念を擁するが、「ユダヤ人」とは宗教としてのユダヤ教を信じ実践する者、要するに「ユダヤ教徒」と同義である。
 従って、例えば民族的には日本人でもユダヤ教に改宗・入信すれば「ユダヤ人」ということになる。このようなユダヤ人=ユダヤ教徒という概念は当然にも、宗教としてのユダヤ教が成立・確立された後に現れたものである。
 これに対して、「日本人」とか「ドイツ人」に相応する民族としてのユダヤ人のことは「イスラエル人」と言い換えることもできる。
 ただ、今日「イスラエル人」という語は「イスラエル国民」と同義で用いられることが多い。この場合は、法的にイスラエル国籍を有する者ということで、当然ながら民族的にはユダヤ人でないイスラエル国籍者も「イスラエル人」である。これでは紛らわしいので、本連載では民族としてのユダヤ人のことを「ユダヤ民族」と称することにする。
 本章では、まずこうした「ユダヤ民族」の原郷を探ることを主題とするが、その前提として、旧約に示されたユダヤ民族の由来を初めに概観しておくことにしたい。これは旧約を読み込んでいる人にとっては既知のことであろうが、本連載全体の前提命題として重要であるので、ここで整理しておきたいのである。
 旧約によると、ユダヤ民族の始祖アブラハム(原名アブラム)は、カルデアのウルを原郷とする有力遊牧民とされる。アブラハムは75歳のとき、神ヤハウェの啓示を受け、約束の地とされたカナン(現パレスチナ)を目指して、妻サラ(原名サライ)や甥のロト、中継地ハランで加わったその他の人々とともに移住の旅に出る。
 やがてアブラハム一行はカナンの地に到着・定住する(ロトはヨルダン川東岸へ再移住)。アブラハムは100歳のとき、サラとの間に初めてイサクという息子を授かる。このイサクはカナン女性リベカとの間にエサウとヤコブの双子兄弟をもうけるが、弟ヤコブは兄エサウを出し抜いて長子の祝福を受ける。旧約によれば、このヤコブの子孫たる12部族がユダヤ民族の直接の始まりとされる。
 ヤコブの息子の一人ヨセフは父に溺愛されていたため、異母兄弟たちから妬まれ、陰謀により隊商に売り飛ばされ、奴隷としてエジプトへ連行される。やがて曲折を経てエジプト宰相の地位に昇ったヨセフは大飢饉に見舞われたカナンから穀物の買い付けにエジプトへやってきた兄弟たちと再会し、存命中の父ヤコブを含めて家族をエジプトに呼び寄せ、暮らさせた。
 これによってユダヤ民族はいったんカナンを離れ、エジプトに居住することになる。ここから、有名な預言者モーセに率いられた「出エジプト」の物語につながっていくが、この問題は改めて後に触れる。
 以上、重要なエピソードを一切省略して非常な駆け足で旧約のあらすじを追ってきたが、一層要約すれば、ユダヤ民族とはメソポタミア地方を原郷とし、一時飢饉を契機にエジプトに移動していたが、基本的には「約束の地」カナンを本貫とする移民集団であるというのが、旧約の立場ということになる。

« 2013年8月 | トップページ | 2013年10月 »

2017年9月
          1 2
3 4 5 6 7 8 9
10 11 12 13 14 15 16
17 18 19 20 21 22 23
24 25 26 27 28 29 30