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2013年8月

2013年8月29日 (木)

ユダヤ人の誕生(連載第1回)

序論

 民族としてのユダヤ人は、おそらく日本人と並んでその出自が神話に満ちた民族である。それは日本人の出自が『記紀』に見える日本神話に依拠していることと似て、ユダヤ人の出自がユダヤ教聖典である『旧約聖書』(以下「旧約」と略す)に依拠していることによるであろう。
 本連載は旧約の読解を通じて、神話的なユダヤ民族の出自を改めて解明することを目的とする。それは決して好事家的な興味によるのではなく、むしろ現在最も困難な国際紛争の一つとなっているイスラエル‐パレスチナ問題解決の糸口を探ろうという実践的な関心によるものである。
 今日中東の国民国家の一つとして存在するイスラエルは、パレスチナの地から古代に離散したユダヤ民族が近代になって帰還して建国された特殊な国民国家である。
 国民国家はその成り立ちによって、現在地に古来土着した民族が主体となって建設された「土着国家」―典型例は日本―と、別の土地から移住してきた民族が主体となって建設された「移民国家」―典型例はアメリカ合衆国―に分けられるが、元の居住民族が帰還して建設された「帰還国家」は例外的である。
 仮に将来、パレスチナ国家が正式に発足すれば、新生パレスチナもイスラエルによって一度追われたパレスチナ人が帰還することで成立する帰還国家となるだろう。
 いずれにせよ、帰還国家はその場所の後住・先住民族間で深刻な紛争を生じやすく、実際イスラエル‐パレスチナ紛争もこうした帰還国家ならではの難問に直面しているのである。
 そうした難問の本質的な解決のためには、外交術的な紛争解決策を繰り出すばかりでは全く不足であり、歴史に目を向ける必要がある。その場合、イスラエル‐パレスチナ問題解決の糸口は、古代中東の諸民族の関係について詳述する旧約の読解に見出し得る。
 読解といっても、それは批判的読解(クリティカル・リーディング)の手法によらねばならない。これはすべての史料解読に共通することではあるが、なかでも旧約はユダヤ教の視点からユダヤ民族の事績・功業を讃える立場で叙述されているため、それをそのままに受け取ることはできないからである。
 ここで私事に及ぶと、筆者の聖書との出会いは幼稚園時に遡る。当時通っていた地元幼稚園がキリスト教系であったため、聖書に基づく教育方針が採られていたのだった。ただ、それは『新約聖書』(以下「新約」と略す)のほうであって、旧約は馴染みがなかった。しかし、政治的な重みという点では、旧約のほうが新約に勝る。そうした意味でも、旧約は批判的読解が不可欠なのである。
 こうした批判的読解という手法については、すでに終了した拙連載『天皇の誕生―日本古代史異論―』でも『記紀』の批判的読解として試みたところであるが、本連載でも同様の手法を踏襲してみようと思う。もとより筆者は聖書学者ではなく、中東古代史の専門家でもないが、現代の懸案に古代からアプローチするささやかな試みの一つとして展開してみたい。

2013年8月17日 (土)

老子超解:第三十五章 余食贅行の戒

三十五 余食贅行の戒

爪先立つ者は長く立てず、大股で歩く者は長く歩けない。自分を見せびらかす者は注目されず、自説を絶対化する者は際立てない。自慢する者は成功せず、自尊する者は長続きしない。これを道の立場からみると、余食贅行という。(道なる)物もそうしたことを嫌悪するものだ。だから道を体得した者はそんな真似をしないのである。


 
通行本第二十四章に当たる本章も、前章と同じく箴言の章であり、内容的には「知足」の行為倫理的側面を改めて述べたものである。ここでは「余食贅行」(余分な食事と無駄な行為)がキーワードであるが、これは単に質素を説くものではない。要諦はむしろ「自己顕示」の戒である。
 とはいえ、これも卑下、隠棲とは異なり、実は逆説的な一種のプレゼンテーション戦略でさえあることは次章で明らかとなるのだが、本章も逆読みすると、地に足をつければ長く立て、小股で歩けば長く歩ける、自分を見せびらかさなければ注目され、自説を絶対化しなければ際立つ、自慢しなければ成功し、自尊しなければ長続きする・・・というように、逆説的なプレゼンの秘訣を示唆していることがみてとれよう。

2013年8月16日 (金)

老子超解:第三十四章 持満の戒

三十四 持満の戒

いつまでも何かを満(盈)たし続けることは、やめるに限る。鍛えて何かを鋭くしても、長くは続かない。金品を家中に満たしても、それを守り通せるものではない。富裕であることを驕れば、自ら禍根を残す。
功を遂げても身を退くのが、自然の道である。


 
老子には生活・処世訓を戒めの形で表現する章がいくつか見られるが、通行本第九章に当たる本章はその典型的な章である。ただし、老子における戒めは宗教的な「戒律」とは異なり、律法性を有しない箴言の性格を持つにとどまる。
 本章は、前章で展開された「知足」と関連する箴言であるが、「満たすこと」自体ではなく、「満たし続けること」の危険性を警告していることからもわかるように、「知足」は「禁欲」と同義ではない。この点、老子の「知足」はエピクロス派のキーワード「アウタルケイア」に近いと言え、ストア派の禁欲主義とはへだたっている。
 その意味で、老子には「東洋のエピクロス派」と呼ぶべき一面があるが、老子の「知足」は前章で明瞭に説かれていたように、身体的充足に核心があり、この点では心の平安=「アタラクシア」を理想とするエピクロス派とも袂を分かつのである。
 従って、末尾の「身を退く」も、エピクロス派の生活信条「隠れて生きよ」のような隠棲のすすめとは微妙に異なるのであるが、このことについては後の章で改めて説かれるであろう。

2013年8月14日 (水)

神を科学する

 科学の余白の中でも最大の難問は、神の問題であろう。この点、神の存在/不存在証明については、古くから盛んに論じられてきたが、これまでのところ神の存在が物理学的に実証されたことはないので、少なくとも神の存在性が科学的に証明されているとは言えないだろう。
 ただ、反対に神の不存在が証明されたとも言えないが、元来不存在証明は不能な証明であるから、不存在証明の欠如をもって、神の存否は不明と結論づけることはできない。
 こうした存在/不存在の問題とは別に、神という事象そのものの科学的探究は、それ自体が宗教上のタブーに触れかねないため、正面から行われていない。
 実際のところ、神とは何なのだろうか。おそらくは複雑な人間の脳が作り出す精神作用の一つなのであろうが、それを解明できた試しはなく、今後も無理かもしれない。だが、憑依のような現象であれば、脳科学的にも説明可能であろう。憑依を超えて、神という事象自体がいかにして生じるのかはなお不明である。
 おそらく神を科学するという営為がタブーなく可能となるのは、宗教的な縛りが最終的に解けた相当に遠い未来のことになるであろう。それまでは、神は科学の余白として最大限の慎重さをもって保存されるべきである。

2013年8月 4日 (日)

老子超解:第三十三章 知足知止

三十三 知足知止

名誉と身体といずれが切実か、身体と財産といずれが貴重か。得るのと失うのといずれが害悪か。というわけであまりに節約しすぎれば必ず大浪費をし、多く貯蓄すれば必ず大損失をする。足ることを知れば辱められず、止まることを知れば危険もない。そうしていつまでも安泰である。


 
通行本第四十四章に当たる本章は前章後半で提示された「知足」の意義について、そのヴァリアントとしての「知止」を含め、比較的平明な生活訓の形で敷衍した章であるが、注目すべきは「知足」が身体論と結ばれていることである。
 まず冒頭で名誉と身体、身体と財産の価値比較の問いかけがなされているが、老子の答えはいずれも身体に軍配を上げる。
 ただし、老子は名誉という精神的価値に対しては物質的な身体の価値を、財産という物質的価値に対しては非物質的な身体という価値を優位せしめる独特の物質‐精神的身体論を提示している。

 その点で老子は精神‐身体二元論を乗り超えていることからすると、「身体」と訳出せず、原文のまま「身」としたほうがよいのかもしれない。むろん老子にとって身体と精神の対立を超克し、両者を統一する契機となるのは、かのであろう。
 こうして老子的「知足」とは単なる節制・倹約のすすめではないし、石田梅岩の「知足安分」のような身分秩序への安住という封建的イデオロギーと結びついた「知足」論とも異なり、深い内省を通じた身(体)的な充足を志向するものと言える。

2013年8月 3日 (土)

老子超解:第三十二章 自知自勝

三十二 自知自勝

他者を知るのは知恵によってであるが、自己を知るのは明知によってである。他者に勝つのは(むき出しの)実力によってであるが、自己に勝つのは真の強さによってである。
足るを知ることが真の豊かさである。真の強さを追求する者には志がある。自己の本来性を失わなければ永続する。死しても亡びないことが真の長寿である。

 
 通行本第三十三章に相当する本章前段は内容上、サルトルが哲学的課題とした人間の対他存在と対自存在に関わる問題を扱っている。

 その際、老子はサルトルと同様に、対他存在より対自存在を意識存在としての人間の本来的なあり方とみなす。老子によれば、対他存在は他者を知るという知恵の作用に係るが、対自存在は自己を知るという明知(内在的洞察)の作用に係る。
 サルトルも指摘したように、対他存在における他者同士は相互否定的な関係に立つから、自己と対立する他者を乗り越えるには結局、実力によって他者を打ち倒すしかない。しかし対自存在における自己を乗り越えるのはむき出しの実力ではなく、真の(精神的な)強さによってである。
 ただ、サルトルとは異なり、老子的対自存在はそこから自由な自己投企へとは展開されない。本章後段の主題「知足」は老子実践哲学上のキーワードの一つであるが、それはサルトルのように背伸びせず、自己の本来性に目覚め、そこに充足する内省的な対自存在の実践である。
 結局、老子的対自存在は即自存在としての自我に限りなく接近していくものと言えよう(それを老子の限界性とみなすかどうかは一つの論点である)。

 本章末尾の「死しても亡びない」ことを真の長寿と規定するのも、しばしば老子からイメージされる不老不死の神仙思想とは異なり、有限な生命を充足的に生き切るという意味での「長寿」の逆説的な謂いである。要するに、単に長く生きるだけが長寿なのではないという含意である。
 一方で、「死しても亡びず」とは霊魂の不滅性を説くのでもなく、有限の生命の終わりとしての肉体的死を恐れず、これを自らに引き受けつつ生き切ることで死の恐怖を乗り越えようとすることを真の「長寿」と規定する含みでもあると解されよう。

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