« 2013年6月 | トップページ | 2013年8月 »

2013年7月

2013年7月31日 (水)

音楽と土壌

 西洋音楽で挫折した者がこんなことを言えば、言い訳に聞こえるかもしれないが、果たして日本人を含む東洋人が西洋音楽を真に理解し演奏することができるのかという疑問が拭えない(反対に、西洋人が東洋音楽を真に理解し演奏することができるのかという疑問も成り立つ)。
 音楽という芸術は、美術など他の芸術以上に文化的土壌との関わりが密接である。音楽はそれを生み出す作曲者個人のアイデアのみならず、その基底に民族的なエートスが埋め込められているからである。その意味で、音楽はおそらく言語と並んで、あるいはそれ以上に各民族の象徴なのだ。
 言ってみれば、音楽とはしっかりと大地に根を張った大木みたいなもので、他の土壌に安易に移植すれば立ち枯れてしまう。西洋音楽は西洋の文化的土壌を土台とする大木であるし、邦楽は日本の文化的土壌を土台とする古木である。
 従って、演奏者もまたそうした音楽の土壌にどっぷりと浸らなくては真に理解し演奏することはできず、たとえ東洋人がどれほど巧みに西洋音楽を演奏しようと―その逆についても―それは精巧な物真似にすぎない。
 ただ、幼少時に海外の他民族社会で育ち、その文化的土壌に浸かることで、この問題はクリアできる可能性がある。実際、近年海外育ちの日本人西洋音楽家の活躍なども見られる。それはそれとして、ポジティブに受け止めるべきことではあろう。

2013年7月27日 (土)

老子超解:第三十一章 無私について

三十一 無私について

天長地久。天地がそのように長く久しく続くわけは、(永遠に)自生しようとしないからなのだ。
こういうわけで、理想の人は自身を(他者の)後ろに置きながら(他者の)前に進み、自身を脱しながら実存しているのである。このように無私なればこそではないか、(理想の人が)自己を形成することができるのは。


 
冒頭の「天長地久」は日本に入って天皇・皇后の生誕日を意味する天長節・地久節という慶祝対句の語源に転用されることになったが、老子本来の用語では天地、広くは自然の無私性を表現するものである。
 西洋的な独我論と東洋的、とりわけ日本的な滅私の精神との相克は、近代以来、東洋の知識人を葛藤させてきたテーマであり、日本では「自己本位」の思想から「則天去私」の思想へと展開した夏目漱石―異論もあるが―が知られる。
 漱石の場合、最終的にはまさに老子的な去私の境地へ赴くのであるが、そこでは〈私〉を去るというところに力点が置かれているように見える。
 しかし老子の「無私」は〈私〉を去って自己を形成するという逆説的な概念である。そこから真の実存(existence)―ハイデガーの言う「脱自‐存在」―が開かれるのである。

 これを日常処世訓に引き直せば、「我を張らない」哲学である。しかしこうした生き方は、隠者を目指すのではなく、後段にあるように、他者の後ろに立ちつつ、実は他者の前を行く真に前衛的な生き方なのである。

2013年7月24日 (水)

科学と疑似科学・似非科学

 疑似科学は科学の言わば影武者のように、科学に寄り添ってきた。そもそも科学と疑似科学の差自体、相対的である。
 科学的な仮説はおろか、従前の科学的通説の完全なる誤りが論証され、根底から覆されれば、旧通説は事後的にではあるが、ある種の疑似科学であったことになる。
 その意味では、疑似科学を単純に嘲笑することはできない。疑似科学なくして科学的発展なしとさえ言えるかもしれない。
 これに対し、初めから科学の衣をまとっただけの似非科学もある。例えば血液型性格分類などはそうした例であろう。
 似非科学は外見上科学に見えても明らかに科学的原理に反しているので、「疑似科学」ですらなく、その正体は民間迷信やある種の神秘思想である。この意味では、一応現時点で正しい科学的原理に明確に反しているとは言えない疑似科学と反している似非科学とは区別されるべきである。
 ではこうした似非科学は何ら意味のない妄言にすぎないのかと言えば、案外そうでもない。似非科学はそれを巡って一つの科学的論争の手がかりとなることもあり得るし、なぜそうした似非科学が発生したのかを「科学的」に考究する対象ともなるからである。
 そうした意味で、似非科学も科学的な論議の一つの活性化要素としてとらえるべきで、無下に一蹴するべきではないだろう。

2013年7月20日 (土)

世界歴史鳥瞰・総目次

本連載は終了致しました。下記目次各「ページ」(リンク)より該当記事をご覧いただけます。

序論 p1 p2

第1章 東から発祥した文明
〈序説〉
一 文明の発祥 
p3
(1)文明の履歴としての歴史
(2)文字の発明
(3)都市の成立
二 古代四大文明圏の発展 p4
(1)四大文明圏の意義
(2)メソポタミア文明圏
(3)エジプト文明圏
(4)インダス文明圏
(5)黄河文明圏
三 西洋の「東方」文明 p5
(1)エーゲ文明圏
(2)クレタ文明期
(3)ミケーネ文明期
四 ギリシャ世界の盛衰 p6
(1)暗黒時代から都市国家へ
(2)アテネとスパルタ
(3)ペロポネソス戦争から衰退へ
(4)マケドニアの旋風
(5)ローマ時代へ

第2章 ローマ帝国の覇権 
〈序説〉
一 都市国家ローマ 
p7
(1)エトルリア人の先行文明
(2)都市国家への発展
二 共和制時代 
(1)共和制樹立
(2)十二表法の制定
(3)元老院と民会
三 帝国への道 p8 
(1)軍事大国化
(2)共和制の揺らぎ
(3)奴隷反乱と同盟市戦争
(4)三頭政治から「帝政」へ
四 絶頂から分裂へ p9
(1)「ローマの平和」とその揺らぎ
(2)キリスト教迫害政策
(3)寛容令から国教化へ
(4)東西分裂と西ローマ帝国の滅亡
(5)東ローマ帝国の存続と繁栄

第3章 中国王朝の興亡
〈序説〉
一 秦の統一まで 
p10
(1)春秋・戦国時代
(2)秦の台頭と統一
二 漢帝国の400年 p11 
(1)建国と新政
(2)集権化と帝国化
(3)簒奪と再興
(4)後漢の繁栄と没落
三 大唐帝国へ p12 p13
(1)魏晋南北朝時代
(2)隋から唐へ
(3)唐の支配政策
(4)開元の治と安史の乱
四 唐滅亡とその後  p14
(1)唐滅亡まで
(2)五代十国から宋へ
(3)宋金共存時代
五 古代朝鮮の展開 p15 
(1)国家形成から漢の植民まで
(2)三韓と高句麗の成立
(3)三国攻防時代
(4)統一新羅から高麗へ
六 倭王権の成立と発展 p16
(1)小国分立時代
(2)邪馬台国時代
(3)天皇王権の確立
(4)律令制とその解体

第4章 イスラーム世界とモンゴル帝国 
〈序説〉
一 イスラームの創唱 p17
(1)イラン帝国と東ローマ帝国
(2)7世紀初頭のアラブ社会
(3)最初のイスラーム革命
二 イスラーム勢力の展開 p18 p19 p20 p21
(1)アラブ・イスラーム勢力の遠征
(2)ウマイヤ朝の成立と教団の分裂
(3)アッバース朝の盛衰
(4)トルコ勢力の台頭
(5)サラディンと十字軍撃退
(6)インドのイスラーム勢力
三 モンゴル勢力の旋風 p22 p23
(1)モンゴルの由来
(2)世界征服
(3)中国王朝としての元
(4)分裂とイスラーム化
(5)ティムール帝国からムガル帝国へ
四 オスマン帝国の台頭と全盛 p24
(1)先行者マムルーク朝
(2)由来と建国
(3)版図拡大
(4)オスマン帝国の内外政策
五 高麗王朝から朝鮮王朝へ p25
(1)武臣政権と元の支配
(2)朝鮮王朝の成立と発展
六 平安朝から武家支配へ p26 
(1)平氏政権の成立
(2)幕府体制の確立と危機

第5章 ヨーロッパの形成
〈序説〉
一 独仏伊の形成 p27
(1)フランク族の台頭
(2)カロリング帝国の覇権
(3)カロリング帝国の分割
ニ イングランド・北欧の形成 p28 
(1)アングロ‐サクソン族の来住
(2)北欧バイキング
(3)ノルマン征服とその後
(4)北欧諸国の形成
三 東欧・ロシアの形成 p29 
(1)スラブ諸国の形成
(2)ロシアの形成
(3)ハンガリーの建国
(4)モンゴル・トルコの支配
四 ビザンツ帝国の盛衰 p30 
(1)ビザンツ帝国の独自性
(2)領土縮小と大シスマ
(3)十字軍と帝国転覆
(4)復旧から滅亡まで
五 西洋中世の実像 p31
(1)文明史的逆説
(2)領主支配制
(3)制度的キリスト教

第6章 ヨーロッパの巻き返し
〈序説〉
一 レコンキスタと十字軍 p32
(1)初期レコンキスタ
(2)十字軍の狂熱と打算
(3)シチリア王国の成立
(4)レコンキスタの勝利

二 「西洋近代」の黎明 p33 p34 p35 p36
(1)大航海と植民
(2)君主主権国家の成立〈1〉
(3)君主主権国家の成立〈2〉
(4)ルネサンス革命
(5)宗教改革から30年戦争へ
(6)仏宗教戦争と英国国教会

三 帝政ロシアの成立と発展 p37
(1)ロシアの自立
(2)ロマノフ朝の始まり
(3)帝政ロシアへ

四 明から清へ p38 p39 
(1)明と中国社会の変容
(2)清の成立
(3)最後の王朝・清

五 戦国動乱から幕藩体制へ p40 p41
(1)戦国動乱と「南蛮人」到来
(2)織豊政権と動乱の中断
(3)徳川幕藩体制の確立

六 イスラーム勢力の後退 p42 
(1)オスマン帝国の後退
(2)ムガル帝国の衰退

第7章 大英帝国の覇権
〈序説〉
一 英国の台頭 p43 P44
(1)先行者オランダ共和国
(2)革命の17世紀〈1〉
(3)革命の17世紀〈2〉
(4)スペイン継承戦争と七年戦争

二 アメリカ独立とフランス革命 p45 p46 p47
(1)北アメリカ植民地の形成
(2)アメリカ合衆国の成立
(3)アメリカ独立=革命の意義
(4)フランス革命〈1〉
(5)フランス革命〈2〉
(6)ナポレオンの独裁と失墜

三 資本主義と労働運動 P48 p49
(1)産業革命と資本主義
(2)労働者階級の誕生
(3)労働運動からパリ・コミューンへ
(4)パリ・コミューン以後

四 帝国主義の攻勢 p50 p51 p52 p53 p54
(1)近代帝国主義
(2)ポルトガル・スペインの後退
(3)帝国主義の展開〈1〉:参入国
(4)帝国主義の展開〈2〉:対象地域(上)
(5)帝国主義の展開〈3〉:対象地域(下)
(6)オスマン帝国の縮退

五 幕藩体制から大日本帝国へ p55 p56
(1)「鎖国」体制の限界と「開国」
(2)明治維新と「近代化」
(3)帝国主義への合流〈1〉
(4)帝国主義への合流〈2〉

六 近代中国と近代朝鮮 p57
(1)清の衰亡
(2)辛亥革命
(3)朝鮮王朝の終焉

七 第一次世界大戦と英国の斜陽化 p58 p59
(1)大戦の要因と経緯
(2)大戦の特質
(3)大戦の経過と結果
(4)トルコ革命とオスマン帝国の崩壊
(5)英国の後退と米国の躍進

第8章 アメリカ合衆国とソヴィエト連邦 
〈序説〉
一 ロシア革命とソ連邦の成立 
p60 p61
(1)革命の胎動
(2)革命の経緯と経過
(3)革命の結果
(4)革命の余波〈1〉:大戦当事国への波及
(5)革命の余波〈2〉:周辺国への影響

二 ファシズムとスターリニズムの暴風 p62 p63 p64
(1)ファシズムの発生と拡散
(2)ファシズムの展開
(3)スターリニズムの対抗

三 第二次世界大戦と米国の覇権確立 p65 p66
(1)大戦の要因と経緯〈1〉
(2)大戦の要因と経緯〈2〉
(3)大戦の特質
(4)大戦の経過と結果
(5)米国の覇権確立

四 東西冷戦の時代 p67
(1)冷戦の背景と発端
(2)東西二大陣営の結成
(3)冷戦の特質

五 日本の民主化と経済発展 p68
(1)米国の日本「民主化」戦略
(2)日米同盟と親米保守支配
(3)経済発展の真相

六 諸国の独立 p69 p70 p71
(1)アジア諸国の独立〈1〉
(2)アジア諸国の独立〈2〉
(3)中東諸国の独立とイスラエルの建国
(4)アフリカ諸国の独立
(5)島嶼地域の独立と残存植民地
(6)独立後の明暗
(7)非同盟諸国運動

七 冷戦体制の完成から終焉まで p72 p73
(1)冷戦体制への抵抗
(2)冷戦体制の完成
(3)冷戦体制の行き詰まり
(4)冷戦体制の再燃そして終焉
(5)東欧革命からソ連邦解体へ
(6)中国の路線転換

補章 ソヴィエト連邦解体後の世界  
〈序説〉
一 ロシアの混乱とチェチェン戦争 p74 
(1)経済的混乱と憲法戦争
(2)チェチェン戦争

二 外観上の米国一極支配 p75
(1)湾岸戦争と繁栄の90年代
(2)「単独行動主義」とその挫折

三 「流極化」の時代 p76 p77
(1)ヨーロッパの統合
(2)中国の急成長
(3)ロシアの「復興」
(4)四極プラス2
(5)「流極化」のゆくえ

四 「流極化」の中の危機 p78 p79 p80
(1)民族紛争の噴出
(2)イスラーム過激主義の攻勢
(3)東アジアにおける冷戦の残存
(4)核兵器の拡散

2013年7月19日 (金)

世界歴史鳥瞰(連載第80回)

補章 略

四 「流極化」の中の危機

(3)東アジアにおける冷戦の残存
 冷戦終結から20年以上を経ても、東アジアではまさに残雪のように冷戦の遺物が残されている。とりわけ南北朝鮮の分断状況である。この間、冷戦終結後1990年の韓ソ国交樹立と翌年の南北同時国連加盟という新しい展開もあったが、これはかえって南北分断を固定化する結果となっている。
 そうした中、南の韓国では80年代からの民主化運動の結果、軍部の非政治化と政権交代を伴う文民政権の定着が進み、資本主義経済大国への道を歩んでいる。一方の北の朝鮮は最大援助国ソ連を失い、経済的打撃を受ける中、94年には建国以来の指導者金日成主席が死去し、息子の金正日労働党書紀(後に総書記)が後継者となった。
 父親ほどのカリスマ性を持たない正日総書記は軍部を権力基盤とすべく憲法を改正し、軍事指導機関の国防委員会を中核とする軍事優先の体制を固め、現在の最大援助国・中国の反対をも押し切って本格的な核開発に乗り出し、東アジアの新たな緊張要因となった。
 その一方、経済は農業生産の落ち込みから、地方では飢餓の発生も伝えられ、70年‐80年代には好調であった工業生産も伸び悩み、危機的状況にある中、後ろ盾である中国の援助が生命線となっている。
 ただ、韓国における長年の民主化運動指導者・金大中が98年、大統領に就くと朝鮮との融和を目指す「太陽政策」を進め、00年には平壌で金正日総書記との歴史的な南北首脳会談を実現させ、後継の盧武鉉政権をまたいで南北融和の機運は高まったが、08年、韓国側での保守系政権への交代に伴い、南北融和も終わりを告げ、再び武力衝突を含む緊張モードに戻っている。
 また、金日成時代末期の90年から始まった日朝国交正常化交渉も、02年に平壌で金総書記と小泉純一郎首相の歴史的な首脳会談で進展するかに見えたが、同会談で朝鮮側が公式に認めた朝鮮諜報機関による日本人市民拉致の解決を巡る交渉が難航し、国交正常化は実現していない。
 なお、金正日総書記は11年に死去し、息子の正恩第一書記を中心とする体制が発足した。社会主義の枠内での実質的な世襲制というこの特殊な体制の下、朝鮮の将来はなお不透明である。
 一方、東アジアにおける冷戦のもう一つの遺物である中国・台湾の分断も不変である。しかし、中台関係は南北朝鮮とはかなり違った状況にある。
 70年代以降、国民党支配体制の下、開発独裁的手法で資本主義的経済成長を遂げた台湾では、88年に就任した李登輝総統の下、まずは国民党体制の枠内で民主化が進められ、2000年の総統選挙で長年の野党・民進党の陳水扁政権に交代した。しかし同政権は台湾独立論に傾斜したため、「一つの中国」を国是とする中国を刺激し、中台関係はかつてなく緊張した。
 ただ、中国の経済成長に伴い、中台間の経済交流は活発化しており、経済的パートナーシップとしての関係の進展が軍事的緊張を緩和する効果を果たしている。

(4)核兵器の拡散
 「流極化」の中の危機の究極は、言わば「核の流極化」と言うべき核兵器の拡散である。
 核兵器については、かねて米ソ(露)英仏中の国連五大国にのみ保有の公式の権利を認める核兵器拡散防止条約(NPT)が締結されているが、このNPT体制自体「恐怖の均衡」を核とする冷戦時代の産物にほかならなかった。しかもこの体制は、インドの公然たる核保有とイスラエルの秘密の核保有によってすでに冷戦時代から崩れていたのである。
 冷戦終結後も、98年のパキスタンの公然たる核保有に北朝鮮とイランの核開発疑惑が続き、近年はイスラーム過激派などの武装集団が小型核兵器を手にする危険も懸念されている。
 中でも朝鮮の最初の核開発疑惑に基因する94年の朝鮮半島危機では、アメリカとの間で一触即発の状況に至ったが、朝鮮側のギリギリの譲歩で、危機は回避された。
 しかし、朝鮮はその後も、深刻さを増す経済危機を相殺する国威発揚の手段として金正日体制の下で公式の核保有を宣言し、体制保証のための対米外交カードとしても利用してきた。同様の傾向は、イランにも認められる
 しかし、核戦争の現実的危険は、むしろインドとパキスタンの間にこそある。両国は共にNPT未批准の未公認核保有国であるが、宗教対立の絡む領土問題から、独立以来近親憎悪的な印パ戦争をたびたび繰り返してきた。
 隣接する両国の核保有は、「抑止」を超えて「実戦」をも射程に収めたものとみなさざるを得ない。特にインドにヒンドゥー至上主義、パキスタンにイスラーム原義主義の政権が並び立った場合に、核戦争の危険は現実のものとなろう。
 他方、イスラエルのように核保有の有無を明示しない核保有は、その不透明さという点では明示的な未公認核保有国以上に脅威となる面もある。
 こうした中で09年、アメリカ史上初のアフリカ系大統領となったバラク・オバマは反響を呼んだ「核兵器なき世界」の構想をアメリカ大統領として初めて提唱し、ノーベル平和賞を受賞した。しかし、その後、構想に沿った実質的な行動は見られず、オバマ政権はかえって核抑止力の維持に加え、限定的ながらも実戦使用の可能性すら示唆している。
 核兵器という高度科学技術商品こそ、ある意味で資本主義の到達点とも言えるモノである。資本主義総本山のアメリカ合衆国が世界で最初の、そして現に世界で最大の核保有国であるという事実は単なる偶然ではあり得ない。
 「核兵器なき世界」は資本主義そのものの転換なくして可能なのかどうか━。オバマの提起は、当人の想定―それが彼の本心だとして―を超えて、そうした大きな歴史的問いを世界に投げかけているのである。(連載完結)

2013年7月18日 (木)

世界歴史鳥瞰(連載第79回)

補章 略

四 「流極化」の中の危機

(1)民族紛争の噴出(続き)

④旧ソ連圏の民族紛争
 ソ連時代には「民族問題は解決済み」ということが公式見解とされ、国会に相当する最高会議のうちの一院は各民族代表で構成される「民族会議」と称されていたが、ソ連邦の実態はロシアを中心とする社会主義「帝国」であったから、その解体の過程で隠蔽されていた民族紛争が噴出してくることとなった。
 そうした旧ソ連の民族紛争の火薬庫は諸民族の交差点とも言えるカフカス地方周辺である。この地方では先に触れたチェチェン紛争に加え、旧ソ連から独立したグルジア内部でもアブハジアや南オセチアといった少数民族地域の分離独立をめぐる紛争とそれを巡るロシア(独立支持)とグルジアの対立・武力衝突も絡み、複雑な様相を呈している。
 同様に、旧ソ連から独立したアゼルバイジャン領内のナゴルノ‐カラバフ自治州の多数派アルメニア人が同じくソ連から独立したアルメニアへの編入を要求して92年に独立宣言し、少数派のアゼルバイジャン人と対立、アゼルバイジャン、アルメニア両国を巻き込む戦争となった。
 94年の停戦以降、未承認のナゴルノ‐カラバフ共和国は事実上アルメニアの占領下にあるが、抜本的な解決には至っていない。
 また、ルーマニア系主体のモルドヴァでは少数派のロシア人・ウクライナ人らスラブ系住民が未承認国家・沿ドニエストル共和国を建て、事実上分裂状態にある。
 中央アジアのキルギスでも独立後二度目となる2010年の民衆革命で権威主義的な政権が倒れた直後に、多数派キルギス人と少数派ウズベク人の衝突が発生し、多数の難民を生じさせている。

⑤中国の「西部問題」
 中国における民族紛争は、清の時代の18世紀に版図に収められた西部のチベット自治区と新彊ウイグル自治区を震源地とする。その意味で、これは中国にとっての「西部問題」と言える。
 ただ、この問題は今に始まったことではなく、特にチベット問題はチベットの宗教=政治上の最高指導者ダライ・ラマのインド亡命を結果した1959年の動乱以来の沿革を持つ。
 しかし、近年のチベット解放運動は中国自身がソ連邦解体後の世界で枢要な極として実力を高める中で、新たな展開を示している。
 中国が国家的威信をかけて準備していた08年北京オリンピックを控えた同年3月にチベット自治区で起きた民衆蜂起はチベット問題への世界の関心をかつてなく高めた。
 また、本来文化的には中央アジアの延長部分とも言える新彊における近年のトルコ・イスラーム系ウイグル人の解放運動―09年には中心都市ウルムチで大規模な騒乱事件が発生した―は、旧ソ連圏の中央アジア諸国の独立や一部イスラーム過激派の影響をも受けた、まさに「流極化」の中の民族紛争という一面も強い。
 これまでのところ、中国当局は圧倒的な鎮圧力をもって両自治区を抑え込んではいるが、それはロシアのチェチェン問題への対処方針と同様、根本的な解決には遠い。

(2)イスラーム過激主義の攻勢
 ソ連邦解体後の世界で、かつてイスラーム圏でも盛行した社会主義に代わって攻勢を強めているのは、反米を旗印とするイスラーム過激主義である。今日、その拠点はアフガニスタンとパキスタンに置かれている。
 その沿革は1980年代のアフガン内戦に絡んで、社会主義政権を援助したソ連への対抗上、アメリカが当時の親米パキスタン軍事政権とも組んで支援した反政府・反ソのイスラーム武装勢力にあり、アル・カーイダの指導者ビン・ラディンもサウジアラビアから参加したイスラーム義勇兵の一人であった。
 しかし、89年のソ連軍完全徹底に引き続く社会主義政権崩壊後に成立した旧イスラーム武装勢力の軍閥連合政権が内紛などから安定しない中、難民キャンプやパキスタン領内のイスラーム学院(マドラサ)で教育を受けた青年を中心にイスラーム原理主義に基づく社会改革を目指す運動ターリバーンが結成された。
 ターリバーンは武装闘争の末、96年に革命を成功させ、極度に厳格なイスラーム原理主義の政教一致体制を樹立した。一方で、ターリバーンと連動しながらアメリカ中東支配に反対する反米活動の組織化がアル・カーイダとして発現した。
 こうしてみると、アメリカにとっては1980年代のアフガン内戦介入を通じて自らが培養し、利用した勢力に報復される因果応報と言える状況にあるのだ。
 一方、国内にアル・カーイダやその連携組織が拠点を置くイスラーム圏諸国のみならず、欧米や日本でも「テロ抑止」を口実に市民的自由の広範な制限を正当化する風潮が広がっている。
 自由を脅かす連邦レベルの保安機関を持つことに否定的であったアメリカで、9・11事件をきっかけに国土保安省が新設されたのは、その象徴である。こうした「治安管理国家」モデルのグローバルな拡散が自由を脅かしている。
 さらに、欧州では「イスラームの脅威」を煽り、イスラーム教徒を主要なターゲットとする移民・外国人排斥の動きも広がっている。特に中東・北アフリカからのイスラーム教徒移民の多い諸国では移民排斥をマニフェストとする極右勢力の伸張が目立つ。

2013年7月17日 (水)

世界歴史鳥瞰(連載第78回)

補章 略

四 「流極化」の中の危機

(1)民族紛争の噴出
 覇権国家の消滅と世界の流極化傾向は、民族主義の新たな目覚めと急進化を促進している。
 それはもはや植民地からの独立ではなく、独立した既存国家からの新たな分離独立国―後で述べるバルカン諸国をはじめ、91年にエチオピアから独立したエリトリア、93年にチェコスロバキアが分離してできたチェコとスロバキア、02年にインドネシアから独立した東ティモール、11年にスーダンから独立した南スーダンがある―を生み出す一方、世界中で民族紛争を噴出させ、多くの犠牲者を出している。
 その主要なものを地域別に見ると、歴史的にも民族紛争の火薬庫であったバルカン半島のほか、アフリカ・中東、さらに旧ソ連圏及び中国西部に集中している。

①バルカン諸国の分離独立
 第二次大戦後のバルカン半島では対独レジスタンスの指導者チトーの下、スロベニア、クロアチア、セルビア、ボスニア‐ヘルツェゴヴィナ、モンテネグロ、マケドニアの6共和国がソ連邦と同様に国家主権を持たない形でユーゴスラビア連邦を構成する体制が構築された。
 この小型ソ連邦とも言うべきユーゴスラビア連邦は、事実上の支配政党であった共産主義者同盟が各共和国の民族主義を抑圧しながらチトーのカリスマ的支配の下に統合されるという構制を取りつつ、ソ連とは一線を画して一部市場原理を取り入れた自主管理社会主義を標榜して注目されていたが、多分にしてチトーの人格と結びついていたユーゴは1980年の終身大統領チトーの死とともに分解する運命にあった。
 チトーの死後、当面は集団指導体制で統一が保たれていたが、ソ連邦解体に前後してクロアチアを中心に分離独立の動きが表面化する。そしてついに91年6月、スロベニアとクロアチアが独立を宣言して連邦を離脱する。これを容認しない連邦内の中心国セルビアが介入し、クロアチアとの間では95年まで続く激しい戦争となった。
 この間、91年にはマケドニアが、92年にはボスニア‐ヘルツェゴヴィナも独立を宣言する中、92年、セルビアはモンテネグロとともに新たなユーゴスラビア連邦を構成して連邦の維持を図った。
 ただボスニア‐ヘルツェゴヴィナは旧ユーゴ構成共和国中、最も複雑な民族構成を持ち、オスマン・トルコ支配時代にイスラーム化したボスニア人にギリシャ正教系のセルビア人、カトリック系のクロアチア人が鼎立するまさにバルカン半島の縮図であった。この中で、ユーゴ政府の支援を受けるセルビア人勢力が分離独立に強く反対し、92年以降、激しい内戦に突入する。
 一連のユーゴ紛争の中でも特に凄惨を極めたこの内戦では、セルビア人勢力によるボスニア人に対する虐殺・集団レイプなどを伴う民族浄化作戦が実行され、ヨーロッパではナチス・ドイツ以来のジェノサイドの再発として世界に衝撃を与えた。
 3年以上にわたったこの内戦は95年12月の和平協定で終結し、ボスニア‐ヘルツェゴヴィナはボスニア人とクロアチア人とで構成する連邦とセルビア人の共和国の連合という民族別分割形式で統一を維持する妥協案が成立したのであった。
 一方、セルビア共和国内でイスラーム系アルバニア人が中心を占めるコソボ自治州でも80年代末から自治の拡大を求める運動が活発化していたが、ミロシェヴィチ(後にユーゴ連邦大統領)を中心とするセルビア指導部は反対に自治を制限して抑圧を図った。
 新ユーゴ連邦内での自治の回復を求めるアルバニア人勢力の活動が過激化すると、連邦政府は掃討作戦による住民虐殺で応じたため、99年3月、アメリカ軍を中心とするNATO軍が国連安保理決議なしにユーゴ空爆を開始し、ユーゴ連邦軍を撤退させた。
 これを契機にユーゴ国内でも反ミロシェヴィチの運動が高まり、ミロシェヴィチ政権は2000年10月に崩壊した。その結果、連邦の結束も弱まり、03年には国名をセルビア‐モンテネグロに変更したが、06年にはモンテネグロも独立していき、ここにユーゴスラビアは完全に終焉したのである。
 なお、ユーゴ紛争の間、セルビア及びユーゴ連邦の独裁的指導者として中心にあったミロシェヴィチは戦争責任を問われ、国連の国際戦犯法廷に起訴されたが、審理中の06年に病死した。
 一方、コソボは国連主導の暫定統治を経て08年に独立を宣言したが、セルビアをはじめ、ロシアや中国も承認しておらず、その国際的地位はなお定まっていない。
 こうして約20年に及んだ一連のバルカン諸国独立をめぐる紛争は一応終息に向かい、安定化しつつあるものの、半島諸民族に残されたトラウマははかり知れず大きい。

②アフリカ民族紛争の混沌
 多数の民族・部族がひしめき合うアフリカ大陸は冷戦時代から民族紛争を抱えていたが、その時代には米ソいずれかの陣営に接近・編入された独裁体制によって民族問題が強権的に抑え込まれていたケースも少なくなかった。
 しかし、「流極化」の中ではそうしたタガも外れ、抑圧されていた紛争が一挙に噴出してきた。その例は枚挙にいとまがなく、それだけでも一冊の著書になるほどであるが、ここでは特に国際社会が解決能力を示せず、痛恨事となっているいくつかの大規模な紛争を取り上げるにとどめる。
 まず最大級の惨事として、80万人以上ともされる犠牲者を出した94年のルワンダ内戦とそれに付随して多数派フツ族が少数派ツチ族と宥和派フツ族を虐殺したジェノサイドがある。
 発生地がアフリカ内陸部の小国であったこともあり、国際社会の介入が遅れたこの深刻な民族紛争の遠因は、ルワンダの旧宗主国ベルギーが植民地支配の中で少数派ツチ族を優遇する民族分断化政策を採ったことにあり、アフリカでは典型的な帝国主義的過去を引きずる紛争でもあった。
 また冷戦終結と前後して始まったソマリア内戦では戦闘が激化する中、93年に国連が派遣した平和執行部隊が現地武装勢力と武力衝突し双方に多数の死傷者を出したことから、結局撤退を余儀なくされた。ソマリアは現在にまで及ぶ内戦・分裂状態に置かれ、大量の難民を生じているほか、武装勢力による周辺海域での海賊行為の温床ともなっている。
 この紛争は91年に反政府武装勢力の攻勢で崩壊したバーレ独裁政権の下で抑止されていた同一民族(ソマリ族)内部の氏族間対立に基因している点で、通常の民族紛争とはやや性質を異にしているが、冷戦構造を最も強く引きずっている。
 69年の軍事クーデターで発足したバーレ政権は当初マルクス‐レーニン主義を標榜しソ連陣営に組み込まれたが、隣国エチオピアとの領土紛争(オガデン戦争)でソ連が当時同じくマルクス‐レーニン主義を掲げていたエチオピア支持に回ったことから、一転アメリカに接近し援助を受けるようになっていたところ、冷戦終結とともにバーレ政権は「用済み」となり、見棄てられたのだった。こうしてソマリアは典型的な米ソ代理戦争の道具として翻弄されたのだ。
 2000年代に入ってからの最も深刻な民族紛争は、スーダンのダルフール紛争である。この紛争は地域自体が民族のるつぼであるスーダン西部ダルフール地方におけるアラブ系中心の遊牧民と非アラブ系農耕民の歴史的な対立に基因し、アラブ系主体の政府軍に支援されたアラブ系民兵組織が非アラブ系住民殺戮などのジェノサイドを実行し、03年以降推定40万人とされる犠牲者を出した。
 そうした経緯から、この紛争にはスーダンのバシル大統領も深く関与している疑いが持たれ、国連の国際刑事裁判所は09年、バシルの逮捕状を発付したが、現職国家元首の逮捕には法的に高い壁が立ちはだかっている。
 他方、スーダンでは冷戦時代からアラブ系主体の北部と黒人系主体の南部の間で内戦が断続的に続いてきたが、05年の和平合意を経て、11年には南部が南スーダンとして分離独立した。しかし、翌12年には石油資源が集中する南スーダンと石油パイプラインを握る北スーダンの間で国境紛争が発生するなど、南北スーダンの対立は独立国家同士の紛争に形を変えてなお続いている。
 こうしたスーダンの二重の民族紛争は元来スーダンが旧宗主国の大英帝国が民族間の境界線を無視して一方的に引いた国境線のもとに形成されたことに対立の芽があるという点で、やはり帝国主義的過去を引きずる紛争と言える。
 このようにアフリカの民族紛争は混沌としているが、「流極化」の中でアフリカ連合(AU)の地位と紛争解決能力が高まることは、民族紛争の解決にひとつの可能性を与えるであろう。しかし、現実にはAU自身が50を超える諸国で構成され、民族的・宗派的にも多様なアフリカを束ねることの困難さに直面している。

③中東紛争の混迷
 中東地域の民族紛争では最大級のパレスチナ紛争では93年にPLO・イスラエル間における暫定自治合意という大きな成果があった。これにより、イスラエル軍が撤退したガザ地区とヨルダン西岸地区のみの自治という限界内ではあるが、アラブ国家の樹立に一歩近づいたかに思われた。
 ところが、95年、暫定自治合意のイスラエル側当事者であったラビン首相の譲歩姿勢に反感を持ったユダヤ極右青年によりラブンが暗殺されたことで、和平の道は暗転していく。
 イスラエルでは01年に発足した強硬派のシャロン政権がパレスチナ自治区への攻勢を強め、アラファト議長を公邸に攻囲する中、同議長が04年に病死すると、アラファトが率いる支配政党ファタハも求心力を失い、06年の総選挙では対イスラエル強硬派の新興勢力ハマスに敗れた。ハマス政権とファタハの対立が深まると、ハマスはガザ地区を実力で占拠し、パレスチナ自治区は分裂した。
 イスラエル側もハマスを交渉相手として認めず、軍事攻勢を強め多くの犠牲を出している。結局、パレスチナ紛争は双方の強硬派対決に陥り、混迷の度を深めることとなった。
 一方、イラク戦争後のイラクではサダム・フセインとフセイン政権下でジェノサイドの標的とされた北部のクルド人が自治を獲得するという成果もあったが、一方サダム時代には強権的に抑え込まれていた多数派シーア派と少数派スンナ派の宗派対立が表面化し、多くの犠牲を出している。
 アメリカは戦後の占領統治を通じてイラクに議会制民主主義を強制したが、イラクのような条件下で単純に議会制を当てはめれば、宗派別に政党が結成され、しかも多数派シーア派が常勝することで宗派対立が刺激されることは必至であった。
 イラクではソ連邦解体後、資本主義とセットでグローバルなイデオロギーとして“布教”されるようになった議会主義の限界が鋭く問われているのである。

2013年7月13日 (土)

「心」という余白

 科学の余白といえば、「心」という広大な余白が残されている。もっとも、近頃は、心も脳の働きで説明がつくという唯物論的な考えが強まり、心理学が脳科学に吸収されかねない勢いである。
 これによって、医学においても心の病気が脳の病気と解釈し直され、心の病気を扱う精神医学と脳の病気を扱う神経医学とが接近し、再び統合される可能性も出てきている。今や、精神医療の現場でも精神分析のような心理学的な治療はすっかり廃れ、抗うつ剤の投与に代表される薬物療法が花盛りであるようだ。
 精神分析の祖・フロイトも元は神経病理学者であったことを考えると、これは知的後退のようでもある。ただ、患者予備軍からすると、どうしても壁の高い精神科とそうでもない神経内科が統合されてくれれば、受診しやすいということになるかもしれない。
 もはや「心」は文学の世界に移行しようとしているのだろうか。それならそれで結構だが、心には脳の働きだけでは完全に説明し切れない「何か」がやはり残るのではないだろうか。残ったほうが、奥ゆかしい気もするが。

2013年7月11日 (木)

世界歴史鳥瞰(連載第77回)

補章 略

 「流極化」の時代

(4)四極プラス2
 21世紀の最初の10年を過ぎた現在、客観的に見て異論なく覇権国家と呼び得る超大国はもはや存在しない。しかし、国際政治経済の主導権を巡るせめぎ合いが終わったわけではない一方、「多極化」と表現できるほどに世界秩序を主導する極が多岐に分解しているわけでもない。
 そうした主導権争いの主要な極として、米・欧・中の三極に「復興」したロシアが食い込む形で、四つの極がせめぎ合うのが現況と言い得るであろう。
 この四極の中でアメリカはなお圧倒的な軍事力と、一国では世界トップの経済力を武器に優位性を保持している。しかしヨーロッパ統合や中国の急成長という新たな状況の下、その優位性はすでに絶対的なものではなくなっている。
 そのうえ、アメリカ発金融危機に端を発した2008年世界大不況の渦中でアメリカ資本主義の象徴でもあったゼネラル・モーターズをはじめとする自動車産業が経営破綻し、国是とも言える経済自由主義に反して連邦政府による国費投入・事実上の国営化という形で救済される事態に至ったことは、アメリカの覇権の物質的土台であった経済力の揺らぎを印象づけた。
 ちなみに、アメリカの将来像として、現在すでに全人口の15パーセントを超え、最大の少数民族となっている主にメキシコ系のヒスパニック層がその出生率の高さから将来ヨーロッパ系を抜きアメリカの人口構成上最大勢力となれば、アメリカはラテン化し、地政学的にもラテンアメリカに組み込まれる可能性は十分にある。
 一方、EUは域内全体のGDPではすでにアメリカを抜いている総合的な経済力と、環境保護運動の蓄積の上に立って、97年の京都議定書以来国際的な最重要課題となった気候変動を中心とする地球環境問題で主導権を取ろうとしているが、小ブッシュ政権時代に京都議定書を脱退したアメリカは、環境問題ではEUの対抗者となっている。
 また中国は世界最大人口を擁する巨大市場の潜在力を土台としつつ、新興国・後発国の代表者としての発言力を増しており、とりわけ環境問題では経済開発を優先したいこれら諸国の利益を代弁している。
 これに対して、ロシアはソ連時代の強みであった軍事力の低下に加え、かつての東欧同盟諸国やソ連邦を構成したバルト諸国がこぞってEUに組み込まれていったことで、その国際的地位は少なからぬ制約を受けている。従って、ロシアが再びアメリカに匹敵する独自の極として浮上できるかどうかは、単独での経済=軍事力の回復に成功するかどうかにかかる。
 ちなみにロシア自らがEUに加盟したうえ、EUの主導権を握るという奇策も考えられなくはないが、当然にもそうしたロシアによるEU乗っ取りを警戒するEU側はロシアの加盟には消極的となるであろう。
 これら四つの極に続く潜勢的な極として注目されるのは、インドとアフリカ連合(AU)である。
 インドは90年代以降、建国以来の社会主義的な体制を改め、自由主義経済に転換した後、単独では中国に次ぐ大人口を擁するアジアの巨大国家として急速な資本主義的成長を記録してきた。内部にはなお貧困や宗教紛争を抱える不安定性もあるが、政治的には議会制民主主義が定着しており、欧米的価値観を共有するアジアの極となり得る潜在性を持つ。
 一方、アフリカは絶対的貧困や民族紛争などの構造的問題を抱えつつも、豊富な天然資源を基盤に資本主義的成長の兆しを見せつつあり、地域的にも02年に従来のアフリカ統一機構を強化し、EU型統合を目指してAUを発足させた。まだ緒に就いたばかりとはいえ、域内人口10億を擁する潜勢力である。

(5)「流極化」のゆくえ
 以上に見たように、世界秩序を主導する極が流動化していく傾向―言わば「流極化」―の中での主導権争いはもはや体制イデオロギーを巡るものではない。それはソ連邦解体後の世界が資本主義一色に染まっていく過程での経済帝国主義的な権益獲得抗争である。
 その抗争がおおむね国連の枠組みの中で行われている限り、世界大戦のような大規模な戦争に発展する可能性は低いであろう。しかし国連の枠組みを離れた経済帝国主義的抗争が激化すれば、第三次世界大戦の端緒が開かれないとは限らない。
 その意味でも第二次世界大戦の重要な成果である国連が今後とも存続し、有効に機能し得るかどうかは、人類にとって決して軽視できない試金石である。
 もっとも、「流極化」による経済帝国主義的な権益獲得抗争の激化は、直ちに世界大戦を招かないとしても、世界経済を不安定化させ、世界大不況のように同時多発的なグローバル経済危機の続発と、それに伴う世界民衆の生活の不確実性を増大させずにはいられないだろう。
 一方、別の可能性として、「流極化」が逆に冷戦時代のように二極分解的な方向へと収斂していき、第二の冷戦のような事態が生じるとすれば、それは米ソ冷戦の焼き直しとしての米露対立よりも米中対立を軸として生じる可能性が高い。
 ロシアは一時的ないし個別的にアメリカと関係悪化に陥ることはあっても、もはやアメリカとの間に根本的な対立を抱えていないのに対し、米中間では南北朝鮮や中台関係のほか、中国の軍備増強やアジア太平洋地域での領土拡張策などをめぐって根本的な対立の芽があり、中国の軍事力のいっそうの伸長いかんでは、かつての米ソ対立と類似の状況が生じる恐れはある。
 その場合、中国がロシアと結び、NATOを通じた米欧と対峙し、米欧対中露という対立構図が現れると、本格的な第二の冷戦となりかねない。

2013年7月 9日 (火)

世界歴史鳥瞰(連載第76回)

補章 略

三 「流極化」の時代

(1)ヨーロッパの統合
 ソ連邦解体後、外観上の米国一極支配の背後で生じていた大きな状況変化の一つは、ヨーロッパ統合の進展であった。
 オランダ、ベルギーに、19世紀後半オランダから独立した小君主国ルクセンベルクを加えたベネルクス三国の経済同盟を最初の核とし、1967年にはヨーロッパ共同体(EC)を結成して経済運営の連携を強化していた西欧諸国では、冷戦時代から米ソ両超大国に対する発言力を高めるべくヨーロッパ統合を目指す構想は存在したものの、国家主権の保持にこだわる諸国の反対にも根強いものがあった。
 しかし冷戦体制の終焉は東西ヨーロッパの統合まで見据えた新たな統合の機運を生じさせ、ソ連邦解体と同じ91年末にはヨーロッパ理事会(EC首脳会議)が経済通貨統合と共通外交安保政策を通じた政治統合を目指すヨーロッパ連合条約(マーストリヒト条約)の締結を決定した。
 このマーストリヒト条約に基づいて93年、ヨーロッパ連合(EU)が発足する。そして98年にヨーロッパ中央銀行を設立し、翌99年には共通通貨ユーロの導入を実現した。00年には社会分野の統合としてヨーロッパ基本権条約も成立した。さらに04年以降、東欧諸国やバルト諸国など旧ソ連圏の諸国も加盟国に加えたEUは、東西ヨーロッパにまたがる超域機構となった。
 しかし焦点の政治統合については国家主権との関わりで難航し、曲折を経て07年に採択されたリスボン条約が09年12月に発効、これによって大統領に相当するEU理事会常任議長と外相相当職の外交安保上級代表が創設されたうえ、EUに単一の国際法人格が付与され、「国家」的な体裁が具備された。
 こうしてEUはヨーロッパ大陸を包摂する国家連合体に仕上がってきたわけであるが、それは旧ソ連邦とは異なり、加盟国の国家主権を残したままの「統合」という限界を抱えてもいる。また経済的にも東西格差と、それに起因する東欧の西欧への経済的従属といった構造的問題も大きな課題である。

(2)中国の急成長
 ヨーロッパ統合と並行するように東で生じたもう一つの大きな状況変化は、中国のめざましい急成長である。
 先に述べたように、天安門事件後の中国では共産党一党支配を固守したうえで共産党の指導の下に市場経済を推進していく「社会主義市場経済」を目指し、93年にはこのテーゼを憲法にも明記して公式に国是とした。
 このように政治的統制を強化しつつ、国家主導で上からの資本主義経済開発を強力に推進していくやり方は、東南アジアなどでも先行的に見られた開発独裁的手法とも重なるところが少なくない。
 中国はこの社会主義市場経済テーゼに従って外資系企業誘致を引き続き推進するとともに、90年代後半からは国営企業や協同組合企業の株式会社化を積極的に進めた。土地は国有を原則としながらも土地使用権の譲渡を容認するようになり、農地についても農家生産請負責任制の下で農民が負担していた農業税を廃止したため、実質上私有を認めたに等しくなった。
 さらに05年まで人民元の価値を低く抑制して輸出を伸ばす政策を続けた結果、巨額の貿易黒字が累積した。そして01年には台湾とともにWTO加盟が承認され、自由貿易体制にも組み込まれた。
 こうした施策の結果、中国経済は2003年から5年連続で年率二桁成長を記録し、08年からの世界大不況でやや成長は鈍化したものの大きな打撃は受けず早期に持ち直し、10年にはGDPで日本を抜き、アメリカに次ぐ第二位に躍進した。
 こうして2000年代の中国はなお「社会主義」を標榜しながら、資本主義的階級格差が明瞭に発現するという矛盾を抱えつつ、経済成長を続ける一方で、軍備拡張を進め、軍事大国化の構えも見せている。

(3)ロシアの「復興」
 中国とは異なり共産党支配が完全に一掃されたロシアではエリツィン政権を継承したプーチン政権の下、大統領自身を含む旧ソ連治安機関出身者を中心に治安回復を軸としつつ、エリツィン政権時代の経済的・政治的混乱の収拾を図った。
 特にチェチェン問題ではアメリカの「テロとの戦い」とも連動しつつ、武断主義的な姿勢で対処し、国民の支持を高める一方、政権に批判的な言論機関・言論人の締め付けを強め、反政府系ジャーナリスト暗殺事件への政府関与が取り沙汰されるなど、エリツィン政権時代の自由化路線にはブレーキがかかった。一方、経済面でも国家の経済関与の度合いが高まり、ロシアでも開発独裁的手法への傾斜が見られた。
 しかし豊富な天然資源にも支えられつつ、ロシア経済はプーチン政権の2期8年で成長軌道に乗り、中国やインド、ブラジルなどと並ぶ新興国として「復興」を果たしたが、08年からの世界大不況では大きな打撃を受けた。ソ連時代には一定水準にあった社会保障制度の劣化や文化・科学予算の削減による大量の頭脳流出も課題である。
 ロシアは軍事的にはなおアメリカと並ぶ核大国ではあるが、財政難から軍備の革新が進まず、ソ連時代のようにアメリカと拮抗するだけの戦力を回復するには至っていない。

2013年7月 6日 (土)

老子超解:第三十章 知少について

三十 知少について

戸口から出ずして天下のことを知り、窓から外を窺わずして自然の法則を察する。出かけることから遠ざかれば遠ざかるほど、知ることはいよいよ少なくなる。こういうわけで、理想の人は出かけずして知り、見ずして明らかにし、何もせずして成し遂げるのだ。

 
 
通行本第四十章に相当する本章では、「無為」の知的側面―「知少」―について、老子らしい簡潔即妙な表現で語られている。
 「無為」の知的側面としての「知少」は、「見識が浅い」という意味での「知小」とは単なる一文字の違いにとどまらない違いがある。実際、第一文にもあるように、天下のことや自然の法則に関する識見は否定されていないのである。
 しかし老子的な知は、外へ向かう見聞的な知ではなく、「出かけずして知り、見ずして明らかに(する)」洞察的な知である。それは個物に関する瑣末な知識ではなく、より深遠な大局的知であり、究極的にはかのに関する洞察に至るものである。
 方法論的に言えば、野外へ出るフィールドワークのような知的方法ではなく、書斎でする理論物理学のような知的方法が老子的「知少」に近いかもしれない。
 老子によれば、瑣末な知識をふるい落としたこうした「知少」に基づき、ことさらな謀をしない「無為」を実践すれば、物事が達成されるのである。「知小謀大」とは対極の教えである。

2013年7月 3日 (水)

「無」と科学

 科学の余白と言えば、宇宙の起源問題が最大級のものだろう。すなわち宇宙はどこから生まれたか、という問題である。
 近年は「時間も空間も存在しない無から生まれた」という理論が有力なようだ。しかし、これでは科学的説明にならない。
 無=ゼロは数学的観念としては想定できても、物理学的に「何も無いゼロ」ということは考えられない。「0から1が生まれる」というのはまさに手品だ。
 ちなみに、2000年以上も前に「有は無より生じる」と明確に説いたのは老子だが、だとすると老子こそ無からの宇宙生成論の先覚者だということになる。
 だが、老子の「無」もよく読めば「何も無い」のではなく、おぼろげな「何か」が有るとされている。その「何か」とは何かがわからない。あるいはエネルギーであろうか。まさに余白だ。
 そこで、「宇宙は神が創造した」という説明で余白を埋めると安心できる。実際、こうした神学的な天地創造説は「宇宙は無から始まった」と理解する。無からの宇宙生成論とは天地創造説の科学版であると言ったら言い過ぎであろうか。
 宇宙の起源は永遠に解けない謎かもしれないが、いつか解ける日を待望しつつ、科学の余白として残しておきたい。

« 2013年6月 | トップページ | 2013年8月 »

2017年4月
            1
2 3 4 5 6 7 8
9 10 11 12 13 14 15
16 17 18 19 20 21 22
23 24 25 26 27 28 29
30