« 2013年5月 | トップページ | 2013年7月 »

2013年6月

2013年6月27日 (木)

世界歴史鳥瞰(連載第75回)

補章 略

二 外観上の米国一極支配

(1)湾岸戦争と繁栄の90年代
 冷戦終結後の1990年8月、イラクのサダム・フセイン政権がクウェートとの国境地帯にあるルメイラ油田の採掘権をめぐる対立からクウェートに侵攻し併合するという古典的な暴挙を犯した。
 フセイン政権はイスラーム革命後のイランとの間で80年から88年まで続いたイラン・イラク戦争に際しては、反イランで一致した米ソ両国の援助を受けて軍事的に強大化していた一方で、戦時債務の累積に苦しみ、活路を石油権益の拡大に求めようとしていたのだった。
 これに対して、アメリカは国連安全保障理事会の武力容認決議を背景に91年1月、30か国を超える多国籍軍を率いてイラクを攻撃した。
 この戦争は久方ぶりに多数の国が参加する国際戦争となったが、それはもはやかつての第一次及び第二次世界大戦のような総力戦ではなく、ハイテク兵器の見本市のような空前の技術戦であり、世界の人々が戦況をテレビで「観戦」するという壮大な「スペクタクル戦争」の初例ともなった。
 結果は、最新鋭の空軍を主体とするアメリカのハイテク兵器の前に旧式のソ連製兵器で武装した陸軍主体のイラク軍が惨敗し、アメリカ・多国籍軍側死者数百人に対し、イラク軍側死者推定2万人以上という著しく非対称なものであった。
 この戦勝と同じ年にかつてイラクの後ろ盾でもあったソ連邦も解体・消滅し、アメリカは二重の“勝利”の美酒に酔った。少なくとも外観上は、アメリカが「唯一の超大国」として世界を支配する時代の開幕と見えた。
 実際、アメリカはインターネットの商業的な開放・普及によるアメリカ情報資本の成立をも支えに、91年から10年間にわたり堅実な経済成長を示し、90年代には一人勝ち的な繁栄を享受したのだった。これは同時期の日本がバブル経済の崩壊に続き、10年を超える長期不況(失われた10年)に突入したことと好対照であった。
 90年代にはアメリカ資本を中心とする多国籍企業が旧ソ連圏にも展開し、市場経済を原理的に追求するアメリカ流の経済的自由主義が旧ソ連圏や第三世界にも“布教”され、資本主義の地球規模化(グローバリゼーション)が進展していった。その司令塔は誰の目にもアメリカ合衆国と映った。

(2)「単独行動主義」とその挫折
 1993年に発足したクリントン民主党政権はほぼその任期中続いた好況にも支えられて、2期8年を全うしたが、外交面では軟弱で、一貫性に欠けるという批判もあった。
 そうした点への批判も吸収して、2001年に発足した新千年紀最初のブッシュ共和党政権―政権の主ジョージ・ブッシュは湾岸戦争当時の同名大統領の息子でもあるので、父親の「大ブッシュ」に対して「小ブッシュ」と呼ぶ―は、ソ連解体後、今や「唯一の超大国」となったと自任するアメリカにとって最後の潜在的敵対勢力としてアメリカが「ならず者」と断ずるイラン、イラク、リビア、朝鮮など反米姿勢の強い後発諸国に対しては単独での武力行使も辞さない考えを示した。
 これは「唯一の超大国」テーゼに見合ったアメリカの新たな世界戦略の提示でもあるとともに、冷戦終結後にその比重が低下しつつあった軍産複合体の再生へ向けた新政治経済戦略という側面も隠されていた。
 小ブッシュ政権発足間もない01年9月11日、ニューヨークを中心に同時多発した空前の航空突撃事件(9・11事件)は、こうした戦略を実行に移す恰好の引き金になった。
 この事件は湾岸戦争後におけるアメリカの中東支配に反対するイスラーム過激派組織「アル・カーイダ」の犯行と断定された。同組織は96年の革命によりアフガニスタンの支配勢力となっていた新興のイスラーム原理主義勢力「ターリバーン」に庇護されており、その最高指導者で9・11事件の首謀者と目されたウサマ・ビン・ラディンもアフガンに潜伏中との情報に基づき、アメリカはアフガンを軍事攻撃しターリバーン政権を転覆、事実上の親米傀儡政権を立てることに成功したが、ビン・ラディンの身柄確保には至らなかった。
 アメリカはこれ以降、「テロとの戦い」を掲げ、アメリカ対反米イスラーム勢力という構図を冷戦時代の米ソ対立に代わる世界秩序の新たな対立軸として打ち出し、アフガンへの長期軍事介入を正当化するようになる。
 小ブッシュ政権はアフガンに続いて、大ブッシュ政権が主導した湾岸戦争後も国連の経済制裁を受けながら、焼け太り的に独裁を強化さえしていたイラクのフセイン政権に改めて矛先を向け、事後に虚偽と判明する同政権の大量破壊兵器保有を口実として、03年3月、国際社会の異論・疑義を押し切り、日本を含む「有志連合」を結成してイラク侵攻に踏み切った。
 これは湾岸戦争が曲がりなりにもイラクによるクウェート侵攻という不法行為に対する国連の武力行使容認決議に立脚していたことと比較しても、正当性・合法性に欠ける軍事侵攻であったが、今度もアメリカはいっそう進歩したハイテク兵器の力で圧勝し、フセイン政権転覆に成功した。
 その後、イラクではアメリカ主導の占領統治の下で、「民主化」が進められた。その結果、本来イラクの人口構成上は多数を占めるシーア派の親米政権が成立する。
 しかし同じシーア派イランの影響力が浸透するイラク新体制は安定せず、スンナ派武装組織や旧政権残党も加わった反米武装闘争が続き、泥沼化する中、09年に発足したオバマ民主党政権は11年末までのアメリカ軍完全撤退を実現したが、情勢は流動的で、なお武装組織の活動が続いている。
 小ブッシュ政権時代の二つの「戦争」は、いずれも実態としては政権転覆を狙う大規模な軍事介入であり、それは冷戦時代の新帝国主義的手法の踏襲にほかならなかった。
 とりわけその正当性・合法性に強い疑義のあったイラク「戦争」は、全世界でベトナム戦争以来の大規模な反戦運動を巻き起こし、フランスをはじめアフガン戦争にはNATOを通じて協力した西欧諸国の離反を招いたうえ、中東諸国民の反米感情をも高めた。
 ターリバーンが拠点を置くパキスタン領内まで拡大されるようになったアフガン軍事介入も、アメリカ軍の急襲作戦による11年のビン・ラディン殺害にもかかわらず、大きな成果は上げておらず、かえってアメリカとその傀儡政権に対する武装抵抗組織としてのターリバーンの復活を招いている。
 かくして、「単独行動主義」は挫折したと言ってよい。

2013年6月26日 (水)

世界歴史鳥瞰(連載第74回)

補章 ソヴィエト連邦解体後の世界

〈序説〉
 本章で扱うのは過去20年余りの同時代史である。同時代史は厳密な意味では「歴史」ではないが、現代史の延長部分として歴史を補完する意義がある。
 普通、過去20年の世界同時代史は「冷戦終結後(ポスト冷戦)」としてくくられることが多いが、ここではあえて「ソ連邦解体後」というくくり方をする。あえてそうするのは、ソ連邦解体という出来事は、ソ連体制に対する当否の評価を超えて、やはり歴史を画する事象だったと言うべきだからである。
 ソ連邦解体は単に一つの大国の消滅だけを意味したのではなく、歴史観を含む世界の人々の価値観をも大きく変えてしまった。すなわち社会主義、共産主義その他の何主義であれ、およそ資本主義ないし資本主義的経済発展に対して根本的に異を立てるような思想・理論の一切が無効化されてしまったのだ。
 それゆえ漠然とした「冷戦終結後」ではなく、「ソ連邦解体後」と置いてみて、初めて過去20年間に喧伝された「グローバリゼーション」が資本主義のイデオロギー的絶対化とその世界化の婉曲表現にすぎないこと、IMFやWTOがそうしたグローバリゼーションの執行機関として台頭し、各国に資本主義市場経済原理を強制する新自由主義が猛威を振るったこと、また日本の「55年体制」の終焉が長年の親米支配政党・自由民主党の解体ではなく、ソ連の影響下にあった最大野党・日本社会党の解体とそれに引き続く政治地図の総ブルジョワ化をもたらしたことの意味も理解されるであろう。

一 ロシアの混乱とチェチェン戦争

(1)経済的混乱と憲法戦争
 旧ソ連時代の国家社会主義を全否定する新生ロシアのエリツィン政権は市場経済移行を急ぎ、92年1月、過激な価格自由化措置を断行した。これにより年率2500パーセントものハイパーインフレーションを生じ、大衆は生活難に陥った。
 同年からは憲法改正案をめぐって、強力な大統領権限を求めるエリツィン大統領とこれを制限しようとする議会の対立が激化した。そして93年10月には大統領と議会の間でついに武力衝突となり、大統領側が抵抗派議員の立てこもる議事堂を砲撃、200人近くの死者を出すという前代未聞の惨事の末、大統領側が勝利した。同年末、憲法は国民投票で承認されるも、下院選挙ではよもやの極右政党が得票数・率で第一党に躍進、大統領派は第二党に甘んじた。
 そうした混乱した状況下で実施された国営企業民営化では、バウチャー証券方式の下、バウチャーを安価で買い占めた若手の旧体制エリート層が成金的な新富裕層となり、階級格差が拡大した。
 98年には国際通貨危機に直撃され、財政赤字を埋めていた高利回り国債の利子支払い・償還を停止する事態となり、銀行の倒産が相次ぎ、ルーブル相場は急落した。
 96年に再選したエリツィン大統領は健康問題を抱えており、通貨危機が一段落した99年末に辞任した。2000年3月の大統領選挙ではエリツィン政権末期に首相を務めた旧ソ連情報機関兼秘密警察機関KGB要員出身のウラジーミル・プーチンが当選し、ロシアは新たな時代に入った。
 こうしてソ連邦解体後ロシアの約10年にわたる流血を伴う経済的・政治的混乱は、帝政ロシア時代末期に次ぐ第二の資本主義的原始蓄積期であったと言える。

(2)チェチェン戦争
 ソ連邦が解体していく過程で、19世紀の帝政ロシア時代に征服・領土化されたカフカス地方のイスラーム教徒チェチェン人が独立の動きを見せ、91年にはソ連空軍の将軍でもあったジョハル・ドゥダエフを中心に独立を宣言する。
 しかし、帝政ロシア時代以来採掘されてきた油田を持ち、石油産業の中心地であり、ロシアにとって枢要な石油パイプライン・ルートでもあるチェチェンの独立は他にもまして論外であった。
 当時のエリツィン政権は当初、経済封鎖でチェチェン独立派に圧力をかけるが、議会との憲法戦争に勝利した後、94年末から軍事介入を開始(第一次戦争)、96年にはドゥダエフを空爆で殺害するという「成果」を上げた。
 その後、チェチェン武装勢力によるとされる爆破事件が相次ぐと、政権は99年9月から第一次戦争を上回る規模の第二次戦争を発動する。その結果、2000年7月までにチェチェン全土を制圧し、親露政権にの樹立に成功した。
 この間、独立派の間ではイスラーム神政体制の樹立を目指す過激派の影響が強まり、アラブ諸国などからの義勇兵も加わりチェチェン外でも人質立てこもりや爆破などの過激な手法に走っていく。
 これに対し、治安回復を掲げるプーチン政権は旧ソ連から引き継いだ軍・治安機関を総動員した指導者暗殺・独立派への弾圧など手段を選ばぬ苛烈な掃討作戦により表面上は独立運動を鎮圧することに成功したが、18世紀以来の抵抗の歴史を持つチェチェンという「問題」の根本的な解決にはなっていない。
 ただ、チェチェン問題に関するロシアのこうした武断的対処には、表向き諸民族の平等を謳うソ連という皮膜の下に隠されていた「ロシア帝国」の体質が再び表に滲み出てきたものとも言える一面が見てとれる。

2013年6月20日 (木)

科学の余白

 科学はあらゆる自然現象を解明し尽くせるものではない。このことは、よほど教条的な科学主義者―科学者ではない―でもない限り、今では承認されるそれ自体一つの科学法則であろう。しかし、このことを「科学の限界」とみなすべきかどうかについては議論が分かれ得る。
 「科学の限界」と言ってしまうと、科学が解明できない部分は神秘現象として説明するという道へ流れていきがちである。それは信じるか否かという神学やオカルトの問題になる。
 そうした信仰の道へはあえて踏み込まないとすると、科学で解明し切れない部分は「科学の余白」として空欄のまま残しておいたほうがよいだろう。
 実際、科学には多くの余白があるが、科学の進歩はそうした余白を順次縮小してきた。現時点では余白の部分が数年、あるいは数十年後には新たな科学的知見で埋められる可能性は十分にあるのである。
 そうした意味でも、「科学の限界」より「科学の余白」と考えたほうがよいと思われるのである。科学は万能ではないが、なかなか有能である。このことも、よほど頑迷な反科学者でない限り承認される真理であろう。

2013年6月16日 (日)

老子超解:第二十九章 天網恢恢

二十九 天網恢恢

あえて勇ましく何事かすれば命を落とし、あえて勇ましく何事かしなければ生き延びられる。この両者には、利害得失がある。しかし天が憎むところなると、誰がその理由を知ろうか。(後略)
天の法則は争わずして立派に勝ち、言わずして立派に答え、招かずしておのずからに来させ、悠然としてうまくとりはからう。天の網は広々として粗いが何も逃さないのだ。


 
通行本第七十三章に当たる本章は「無為」について、改めてこれを天の法則として説明し直そうとする。「天」は古代中国思想では神に相当する至高存在であったが、老子における「天」は「自然」とほぼ同義であり、それだけ脱神格化された抽象概念となっている。
 結びの言葉「天網恢恢」は日本語の四文字熟語としても定着しているところであるが、日本語熟語としての「天網恢恢」は「天の法網は悪事を見逃さない」という天の裁き=天罰の応報性を述べたものと解釈されてきた。
 しかし、老子本来の「天網恢恢」は決して罪人に対する報いを強調する応報的な観念を説いたものではない。むしろ天罰の確実性―その最たるは自然死―を指摘して、しばしば悪事の見逃しや冤罪も犯す人為的な処罰=刑罰制度からの解放を説く老子なりの「非処罰」の法思想の表れと読み取るほうがよいだろう。
 そうすると、これは人為的な法=刑罰を用いた法治を推奨する法家思想へのアンチテーゼということにもなるが、さしあたり本章の文面からすると、「無為」一般を天=自然の法則と規定し直すことによってその理法性を説くことに本章の眼目は置かれているだろう。

2013年6月13日 (木)

世界歴史鳥瞰(連載第73回)

第8章 略

七 冷戦体制の完成から終焉まで(続き)

(4)冷戦の再燃そして終焉
 70年代の最後の年に同時発生した三つの重大事件が、70年代の「緊張緩和」の流れを止め、米ソを冷戦の再燃に向かわせることになった。
 その最大級のものが、79年12月からのソ連によるアフガニスタン軍事介入であった。アフガンでは前年4月の革命で親ソ派社会主義政権が成立していたが、革命政権の内紛が絶えず、79年9月のクーデターで成立した新政権は十分な統治能力を持たず、外交上もアメリカへ接近する気配を見せたため、ソ連は軍事介入して親ソ傀儡政権にすげ替えたのであった。
 この介入は、第二次戦略兵器制限交渉の調印直後に起きたため、アメリカは条約の批准を延期し、穀物輸出停止などの対ソ制裁も実施した。アフガニスタンは革命前からソ連に接近しており、ソ連としても社会主義政権内部の争いに支援介入したにすぎないのに、アメリカがこれほど強硬な反応を示した背景には、79年に起きたあと二つの大事件があった。
 一つは2月のイラン革命である。この革命では冷戦体制下で反共親米の立場から西洋近代化を開発独裁的な手法で上から推進していたパフラヴィ王朝が打倒され、その後に反米のシーア派イスラーム主義体制が樹立された。
 そればかりか、ソ連のアフガン軍事介入の前月には、アメリカへ亡命したパフラヴィ前国王の身柄引き渡しを求めるイスラーム神学生らがテヘランのアメリカ大使館を占拠し、大使館員らを人質に取るというアメリカにとって不面目な事態が発生していた。
 もう一つ、同年7月に中米ニカラグアで革命が成功し、40年以上にわたり世代を継いで反共親米独裁体制を維持してきたソモサ一族が打倒され、親キューバ・親ソの左派政権が樹立されたことは、アメリカにキューバ革命の悪夢を思い起こさせ、同種革命の周辺波及を懸念させることになった。
 アメリカにとって由々しき二つの事件に直面する中でのソ連のアフガン軍事介入に対しては、強い姿勢で臨まざるを得なかったのだ。
 こうした緊迫した情勢の中、イラン大使館占拠事件の早期解決に失敗したカーター民主党政権が批判を浴び、事件渦中の80年11月の大統領選挙で、カーター大統領は共和党のレーガンに再選を阻まれた。
 81年1月に発足したレーガン政権はソ連を「悪の帝国」と断じ、改めて対ソ強硬姿勢を示しつつ、ソ連の核抑止力を減じるべく、宇宙空間からの衛星追跡と地上迎撃システムの連動により敵の大陸間弾道ミサイルを破壊するという戦略防衛構想(SDI)を提唱してソ連に圧力をかけた。
 さらに革命後のニカラグアでは旧ソモサ政権残党らが結成した反政府武装組織を公然と軍事援助した。またニカラグアと同様、79年の革命で親キューバの社会主義政権が成立していたカリブ海の小国グレナダでは、83年のクーデターで成立した軍事政権が親キューバの姿勢を強めると、武力侵攻してこれを転覆、親米政権にすげ替えた。
 アフガンでも、ソ連軍及びアフガン政府軍に対抗するイスラーム勢力を軍事援助した。当時、イスラーム圏ではソ連の軍事介入はイスラーム対共産主義(無神論)の聖戦(ジハード)と宣伝され、アラブ諸国からも多数の義勇兵が反政府ゲリラに身を投じ、長期の内戦に突入していた。
 アメリカは敵の敵は味方という発想から、本来イデオロギー的に相容れないイスラーム勢力に肩入れしたのだ。こうしてアメリカに培養されたイスラーム勢力の一部が後に過激化し、皮肉にも今度はアメリカに矛先を向け替えることになる。
 このような冷戦再燃のツケは直ちに回ってきた。アメリカは軍事支出の膨張から財政赤字に陥り、折からの貿易赤字と併せて「双子の赤字」に悩み、レーガン政権の二期目初年の85年には債務国に転じた。
 一方、ソ連側では、前述したように60年代からの成長鈍化に加え、80年代に入ると元来弱い一般消費財の生産・流通が機能不全に陥り、物不足が深刻化し、いわゆる「欠乏経済」が常態化した。
 そのうえ、傀儡政権を立てて早期撤退する予定であったアフガン軍事介入は読みを誤り、ソ連軍にも多数の戦死者を出す泥沼の内戦に引きずり込まれていた。ソ連にとってのアフガンは、アメリカにとってのベトナムとなっていたのだ。
 こうした苦境にあった85年、当時高齢化していたソ連指導部の中では異例の54歳でソ連共産党書記長に選出されたミハイル・ゴルバチョフは86年以降、政治経済全般の包括的な改革(ペレストロイカ)に着手した。
 特に外交面では今までになく踏み込んで西側との対立解消を目指す「新思考外交」を打ち出し、アメリカをはじめとする西側各国の共感を得た。87年12月に米ソ両国の間で調印された中距離核戦力全廃条約は、その成果であった。これは両国核戦力のごく一部とはいえ、初めて既存核兵器の廃棄を合意した点で画期的であった。
 さらにゴルバチョフ書記長は88年3月、訪問先のユーゴスラビアで、社会主義諸国に対するソ連の介入・統制を明確に否定するとともに(新ベオグラード宣言)、同年にはアフガンからの全面撤退を表明した。
 これを合図に、89年に入ると東欧各国で民主化のうねりが発生、同年11月には民衆の平和的デモの結果、冷戦の象徴であったベルリンの壁が撤去される中、12月に独立25周年を迎えた地中海の小国マルタで会談したゴルバチョフとアメリカのブッシュ新大統領は冷戦の終結を宣言したのである。

(5)東欧革命からソ連邦解体へ
 冷戦体制の終焉は単にそれだけでは終わらず、そのままソ連邦という超大国の解体・消滅に直結した。このことを米ソ両首脳による1989年12月の冷戦終結宣言の時点で明確に予言できた人はほとんどいなかったであろう。
 しかし、ソ連邦という体制は、冷戦の仕掛け人であったアメリカ以上に冷戦体制と一体であったのである。ただ、ソ連邦が解体に至るまでには、東欧の衛星諸国における連続革命が先行しなければならなかった。
 東欧では社会主義圏における民主化革命の先駆的な意義もあったハンガリー動乱の後も、68年に当時のチェコスロバキア共産党改革派指導部が「人間の顔をした社会主義」のスローガンの下に試みた民主化改革「プラハの春」―それはソ連の「ペレストロイカ」の20年早い先駆けとも言えた―や、80年代初頭のポーランドにおける反体制労組「連帯」による民主化運動など、民主化を求める上と下双方からの波は続いていたが、いずれも当時のソ連保守派指導部が直接間接に介入・抑圧していた。
 しかし、ゴルバチョフ書記長は先の新ベオグラード宣言で、そうしたソ連による統制方針を転換した。これを受けて、まず従来から内政面では独自の自由化路線を歩んでいたハンガリーで、支配政党・社会主義労働者党内部の急進改革派が89年初頭以降実権を握り、複数政党制や市場経済原理の導入などの改革を実施した。さらに、長らく議論自体が封印されていたハンガリー動乱を「革命」として再評価した。
 またポーランドでも、81年から83年までの軍事政権による戒厳令下でいったんは抑圧されていた「連帯」と政府の協議が成立し、89年6月の総選挙で「連帯」が勝利した結果、「連帯」系政府が誕生、統一労働者党の一党支配に終止符を打った。
 一方、ソ連が作出したと言ってよい東ドイツでも88年秋頃から教会を拠点に行われていた平和集会が次第に大規模化し、89年に入ると反体制街頭デモに発展した。同年5月にはハンガリーがオーストリア国境の鉄条網を撤去したことをきっかけに、東ドイツ市民の西側脱出の波が止まらなくなった。
 こうした中、東ドイツ当局もベルリンの壁の開放に追い込まれ、冷戦終結の象徴的な出来事となった。ベルリンの壁崩壊は急速にドイツ再統一の機運を高め、90年10月には東ドイツが西ドイツに吸収・編入される形で、統一ドイツが再生した。
 ベルリンの壁崩壊は東ドイツの消滅のみならず、周辺東欧諸国にも波及的な影響を及ぼし、共産党支配体制が比較的強固であったブルガリア、チェコスロバキアでも共産党一党支配に終止符が打たれた。
 ワルシャワ条約機構の原加盟国ながら、60年代からソ連と距離を置いていたルーマニアでは共産党一党支配の形を取ったチャウシェスク大統領一族の独裁体制が強固であったが、ここでも民主化デモが治安警察隊との市街戦を含む流血革命に発展した末、民主化勢力が勝利し、大統領夫妻は処刑された。
 東欧連続革命は、中ソ対立の中で親中国の立場を採り、ソ連と断絶し、さらに毛沢東死去後の中国からも離反し、事実上の鎖国状態にあったアルバニアにまで及び、難民流出や流血自体の末、91年に労働党一党支配体制が終焉した。
 この間、ソ連のゴルバチョフ政権はその言葉通り、一連の連続革命に不介入方針を貫き、ソ連自身も90年3月の憲法改正で共産党一党支配を廃止した。
 こうした東欧革命と並行して、ソ連邦内部の構成共和国からも離反の動きが現れていた。それは特に89年にソ連当局がようやくその存在を認めた39年の独ソ不可侵条約の秘密議定書でソ連への併合が密約されていたバルト三国において激しかった。
 88年11月にエストニアが主権宣言を発したのを皮切りに、89年にはリトアニア、ラトヴィアが続き、90年には三国いずれもが独立宣言に進んだ。リトアニアでは独走したソ連軍部が流血介入し、ゴルバチョフの指導力の低下を印象づけた。
 しかし構成共和国の離反の動きは止まらず、89年から90年にかけてバルト三国にならった主権宣言が相次ぎ、ついには「本家」ロシア共和国でも「急進改革派」の元ソ連共産党政治局員候補で、保守派幹部と激しく対立して党指導部を追われていたエリツィンが元首に当たる共和国最高会議議長となって主権宣言を発する事態となった。
 一方、ゴルバチョフ政権が進めていた「ペレストロイカ」のうち、情報公開や思想・表現の自由の拡大といった政治的自由化は国内でも好評であったが、国営企業の独立採算制移行や協同組合の商業活動容認などの部分的市場化政策はその中途半端さのためにかえって流通を混乱させ、インフレを招き、慢性化していた物不足に拍車をかけていた。その結果、配給制や買出し制限といった統制経済へ逆戻りする事態となった。
 こうした中、90年の改憲で新設されたソ連邦大統領に就任していたゴルバチョフは、市場経済への完全移行と共和国の自主権を尊重した新連邦条約の締結を目指すが、特に後者に強く反発したソ連共産党保守派は91年8月、クーデターを断行してゴルバチョフを拘束、国家非常事態委員会を設置してペレストロイカを終わらせようとした。しかしエリツィン派とモスクワ市民の抵抗の前に、クーデター政権は文字どおり三日天下に終わった。
 この後、いったん復権したゴルバチョフの異議を排して、エリツィンらの主導によりソ連邦解体の動きは加速、12月にはロシア、ウクライナ、ベラルーシ三国首脳が22年連邦条約の無効と、各加盟国の完全な主権を承認する独立国家共同体(CIS)の創設を宣言した。
 このCISにはバルト三国とグルジアを除く11共和国すべてが加盟することで合意したため、ソ連邦解体は確定的となり、ゴルバチョフ大統領は91年12月25日をもって事実上辞職、ここにソ連邦はおよそ70年の歴史に幕を下ろしたのである。
 その結果、バルト諸国とグルジアに加え、新たにウクライナ、ベラルーシ、モルドヴァ、アルメニア、アゼルバイジャン、トルクメニスタン、ウズベキスタン、カザフスタン、キルギス、タジキスタンが独立し、ロシアも改めて単独共和国として再出発した。
 なお、同年には東欧革命の結果、すでに有名無実となっていたコメコンとワルシャワ条約機構も解消されたため、いわゆる「東側」陣営は完全に消滅した。
 現代史の最終章に当たるこの一連の激動に歴史的評価を下すのはまだ早いが、今日の大方の見方は「資本主義の勝利」―言わば「資本主義革命」―というものであろう。しかし、この評価には少なくとも二つの点で留保をつける必要がある。
 一つはソ連型社会主義(国家社会主義)の実態とは、前述したように「国家資本主義」と呼ぶべきものであったことである。実際、ソ連でも60年代から企業に一定の自主権を保障し、利潤指標を重視する動きや、西側資本との合弁事業などコンバージェンス(相互収斂)と呼ばれる現象は始まっていた。国家社会主義とは原理的な市場経済を伴わないまでも―「闇市場」は存在していた―、資本主義と完全に絶縁するものではなかったのだ。
 もう一つは、マルクス理論によれば共産主義への道を開くプロレタリア革命は、資本主義が高度に発達したところで初めて生ずべきはずのものであったことである。だとすれば、東欧・ロシアは国家社会主義の介在によってかえって資本主義の発達が阻害され、停滞していたプロレタリア革命への道を改めて歩み直し始めたのだとさえ言える。それはとりわけロシアにとっては、1917年10月革命を取り消し、さしあたり2月革命の線まで歴史を巻き戻すことを意味するであろう。

(6)中国の路線転換
 中国は50年代末から60年代前半にかけてソ連から離反していく中で、当時のフルシチョフ・ソ連指導部を「修正主義」と非難していたことからして、国内でも「修正主義」を容赦しない路線を取った。
 そのため、50年代末頃から一定限度で市場経済の導入を図る「調整」を進めていた劉少奇、鄧小平らの党幹部を「資本主義の道を歩む実権派(走資派)」と断じ、打倒対象とする体制内運動が活発化した。この動きは66年以降、「走資派」を打倒し、プロレタリア文化を創出するための新たな革命(プロレタリア文化大革命)の提唱につながり、このいわゆる「文革」は68年から本格的に実施に移される。
 この運動においては当初「大衆の自己解放」といった自発性が謳われていたが、結局は建国指導者・毛沢東の個人崇拝に陥り、結果としてソ連のスターリン独裁時代の大粛清に匹敵するような大量抑圧と迫害を産み出した。
 その一方で、文革期の中国は71年、アメリカの中国接近策に乗る形で、台湾の国民党政府に代わって国連復帰を果たし、72年にはアメリカのニクソン大統領の訪中受け入れや日中国交正常化など、ソ連を見限り西側に歩み寄る外交方針に転換してみせた。
 76年に毛が死去すると、時の華国鋒首相は文革を主導した毛側近「四人組」を逮捕して文革に終止符を打ち、共産党主席に就任した。しかし穏健ながら本質的には保守派であった華は、結局のところ文革の幕引き以上のことはできず、復権を果たした旧実権派リーダーの鄧小平によって追い落とされた。
 その鄧の指導で78年以降、「改革開放」のスローガンの下、中国式農業集団化の制度であった人民公社の解体と農業生産責任制への移行、「経済特区」の制度を通じた外貨導入による市場経済化の道へ大きく舵を切った。こうして毛死去後の中国は、まさに走資実権派の時代となる。
 しかし、80年代後半、鄧によって抜擢された胡耀邦総書記がソ連のゴルバチョフ改革とも共振する政治面を含めた自由化路線に踏み出そうとすると、鄧を事実上の最高実力者とする共産党指導部は胡を解任に追い込んだ。鄧は89年にゴルバチョフを北京に迎え、歴史的な中ソ和解を演出しはしたが、政治的自由化には否定的だったのである。
 実際、89年4月の胡の死去をきっかけに、民主化を求める学生らが北京の天安門広場で大規模なデモを行い、これが革命的状況を呈すると、同年6月、党指導部はこの動きを「反革命」と断じ、軍を投入して武力鎮圧した(天安門事件)。多数の犠牲者を出したこの事件は、文革に匹敵する中国現代史上のトラウマとなった。
 同時に、前年ビルマの社会主義独裁体制を打倒した学生革命が結局は軍のクーデターで流血鎮圧され、長期に及ぶ軍事政権の出現を許したのと同様、中国の天安門事件もアジアにおける民主化運動の困難さを印象づけたのである。
 結局、天安門事件後の中国は、ソ連のゴルバチョフ改革が共産党支配体制を廃しつつ中途半端な市場経済化によって挫折したのとは対照的に、共産党支配体制を力で固守しつつ、市場経済化をいっそう大胆に進めて事実上資本主義の道を歩む「社会主義市場経済」を国是として経済発展を目指す路線に確定する。90年の上海、深圳両証券取引所の開設は、その象徴であった。

2013年6月12日 (水)

世界歴史鳥瞰(連載第72回)

第8章 略

七 冷戦体制の完成から終焉まで

(1)冷戦体制への抵抗
 冷戦体制が進行する中で強まっていく米ソ両超大国の新帝国主義に対しては、1950年代から多くの抵抗の動きが見られた。前節でも見た非同盟諸国運動も国際的なレベルでのそうした抵抗の主要なものとみなすことができるが、国内的・一国的なレベルでの抵抗もあった。
 その最初の大きな動きは、1953年のスターリンの死をきっかけにソ連の膝元ポーランドとハンガリーで生じた。56年2月、ポーランドで賃金未払いなどに抗議する労働者のデモが反政府暴動に発展したポズナニ暴動に引き続いて、10月にはより明確に反ソ暴動の性格を持ったハンガリー動乱が勃発する。ソ連軍が介入する中で首相に復帰した改革派のナジはワルシャワ条約機構からの脱退と中立を宣言し、複数政党制移行などの民主化政策を打ち出した。
 これに対して他の同盟諸国への波及を恐れたソ連当局は二度目の軍事介入を断行してナジ政権を崩壊させ、親ソ政権を立てた。数千人の死者を出し、ナジもソ連と親ソ派新政権の手で処刑されたこの動乱は、ハンガリー現代史上のトラウマとなったが、間接的にはこの事件がその33年後の東欧連続革命の引き金を引くことにもなるのである。
 一方、アメリカの目と鼻の先キューバでも大きな抵抗の動きがあった。59年、長きにわたってアメリカの代理人としてラテンアメリカにおけるアメリカ従属経済の象徴であったバティスタ独裁政権に対するフィデル・カストロやアルゼンチン出身のチェ・ゲバラらの率いる青年運動が革命に成功したのだ。
 アメリカは当初こそカストロ新政権を承認したが、新政権が農地解放に続き、米国系企業の国有化にまで踏み込むと圧迫に転じ、61年には国交を断絶、経済封鎖を断行するとともに、亡命キューバ人勢力を使った政権転覆を図るも、結局成功しなかった。
 カストロ政権は当初独自的な民族革命路線を打ち出していたが、アメリカの敵対的な姿勢への対抗上、マルクス‐レーニン主義に傾斜してソ連圏に入った。このことが、62年のキューバ危機の要因ともなる。
 キューバ革命の翌年60年には、日本でも折からの日米安保条約改定に際して、日本の本格的な再軍備に道を開く防衛の双務性を柱とする新条約の下、アメリカの戦争戦略に日本が巻き込まれることを懸念する条約改定反対の運動が全国的に盛り上がり、空前の国会包囲デモに発展した。
 同年5月に衆議院で強行採決されていた条約承認案は6月、参議院で審議しないまま自動成立したが、警備上の理由からアイゼンハワー米大統領の訪日は中止となり、岸信介首相―復権した戦犯容疑者で「逆コース」の象徴でもあった―は辞任に追い込まれた。
 60年代には、「西側」の有力メンバーであったフランスがアメリカに抵抗を示すようになる。第二次世界大戦の英雄ド・ゴール大統領の強力な指導の下、フランスはアメリカへの従属を拒否し、60年に核保有国となり、64年には共産党中国を承認、66年にはNATOの軍事機構からも脱退する(2009年に復帰)。そして自らの旧帝国主義を克服して第三世界の立場を支持し、アメリカの軍事介入を非難するとともに、ソ連とは通商協定を結び、独自の第三極を目指した。
 同じ頃、発足当初「向ソ一辺倒」だった中国がソ連との対立を深めていた。その発端はスターリン死後のフルシチョフ指導部によるスターリン批判やアメリカとの「平和共存」路線に対する毛沢東の反発にあるとされる。
 しかし、元来中国は反帝国主義の立場で非同盟諸国運動にも一定の理解があり、64年にはアジアで初の核保有国となった中国が米ソ冷戦体制に背を向けて独自の道を歩み始めることは、時間の問題であったと言える。

(2)冷戦体制の完成
 冷戦体制には多くの抵抗があったとはいえ、50年代の米ソ両国はいずれも国力の充実期にあったこともあり、外部からの抵抗のために冷戦に歯止めがかかることはなかった。
 しかも、冷戦はソ連が1949年に核保有国となって以来、核開発を軸とした軍拡競争と同義となり始めていた。しかしながら、この競争においては、ソ連が後手に回っていた。そのため、スターリン死後のフルシチョフ指導部も表向き「平和共存」を口にしてアメリカの核攻撃能力の一方的進化を牽制しつつ、自らも大陸間弾道ミサイル(ICBM)を中心に核軍拡に鋭意努めていたのである。
 こうした米ソ間の核軍拡競争が一瞬現実の核戦争危機にまで行き着いたのが、62年のキューバ危機であった。前述したように、キューバの革命政権はアメリカの政権転覆策動からの防御策としてソ連の庇護を求めているようになっていたため、ソ連はキューバ防衛を口実としてアメリカの目と鼻の先キューバに中距離核ミサイルを配備することを企てたのだ。
 ソ連がこのような危険な挙に出たことには、当時アメリカがすでにソ連本土への核攻撃能力を備えていると推定されていたのに、ソ連はまだアメリカ本土への核攻撃能力を持つに至っていなかったという核戦力の不均衡を補完しようとの切実な狙いがあった。
 しかしソ連のこのような露骨な威嚇は当然にもアメリカを憤激させ、当時のケネディ政権はミサイル搬入を阻止するため海上封鎖を実施するとともに、キューバ空爆も辞さない強硬姿勢でソ連にミサイル基地の撤去を要求した。これは冷戦期を通じて米ソ間で直接戦争が勃発する危険が最も高まった瞬間であった。
 しかし、当時のケネディとフルシチョフは共に両国の基準では「リベラル」な指導者であったことも幸いし、結局ソ連が基地を撤去する代わりにアメリカもキューバ不侵攻を確約することで危機は平和裏に収拾された。
 一般にはこの「危機」を一つの教訓に米ソ関係は緊張緩和に向かい、63年の部分的核実験禁止条約の発効がその「成果」として説明されることもあるが、事はさほど単純ではない。
 同条約にしても地下核実験については禁止対象から除外していたから、核軍拡競争を歯止める効果には乏しかった。結局、アメリカは60年代末まで、ソ連も64年のフルシチョフ解任をはさんで70年代初頭まで核軍拡を続ける過程で、アメリカは60年代半ばまでに、ソ連も60年代末までには相互に確証破壊能力を備えるに至ったと推定されている。
 こうしてソ連の核戦力がアメリカにひとまず「追いつく」ことによって、核抑止力を通じたいわゆる「恐怖の均衡」という両すくみの冷戦体制が完成を見たのである。

(3)冷戦体制の行き詰まり
 冷戦体制の完成は同時に、その行き詰まりの始まりでもあった。それは米ソ両国の経済危機に端を発していた。特にアメリカに「追いつく」ために無理を押して軍拡路線をひた走っていたソ連において危機は深刻であった。
 ソ連では国家社会主義体制の下、極端な軍事優先政策が行われた結果、当然にも民生を圧迫し、非軍事部門の技術革新は停滞した。そして生産性、国民所得の長期低落が60年代以降目立って進行していく。こうした事情が60年代末からの「緊張緩和」のソ連側舞台裏にあった。
 一方、アメリカの側でも、軍拡とベトナム戦争の泥沼化は財政を圧迫していたうえ、インフレを結果し、西欧や日本の経済発展に伴う国際競争力の低下も加わって、71年にはアメリカの貿易収支は赤字に転じた。これより先、アメリカの国際収支はすでに58年から赤字に転じており、ドルの大量流出が基軸通貨としてのドルの地位を脅かしていた。
 こうした経済危機は71年に時のニクソン政権が発表した10パーセントの輸入課徴金とドル・金交換の停止といういわゆる「ニクソン・ショック」を導く。そこへ73年からのオイルショック(第一次)によるスタグフレーションが追い打ちをかけた。
 米ソ両国がそれぞれの仕方で直面した経済危機は70年代、両国の軍縮に関する利害を一致させ、72年の第一次戦略兵器制限交渉(SALTⅠ)と引き続いての第二次交渉(SALTⅡ)の開始という成果を生んだ。
 さらに75年には、かねてソ連の提案によりアメリカ、カナダを含む35か国の参加の下に設置されていた全欧安全保障協力会議が緊張緩和と相互安全保障、国境不可侵、内政不干渉などを謳うヘルシンキ宣言を採択した。そして79年にはSALTⅡの調印も実現する。
 こうした「緊張緩和」という潮流はしかし、本質的に冷戦の終結と平和の到来を意味していたわけではなく、冷戦体制の行き詰まりの裏返しにすぎなかった。だから、新たな事態の下では再び振り出しに戻ってしまう危険を内包していたのである。

2013年6月 7日 (金)

天皇の誕生・目次

本連載は終了致しました。下記目次各ページ(リンク)より個別記事をご覧いただけます。

プロローグ p1

第一章 三人の「神冠天皇」 p2 p3
(1)二人の「初代天皇」
(2)崇神天皇と応神天皇
(3)応神天皇と八幡神
(4)応神天皇と神功皇后

第二章 「神武東征」の新解釈 p4 p5 p6 p7 p8
(1)「神武東征」の出発地
(2)天孫族の出自
(3)天孫族の渡来
(4)二系統の天孫族
(5)「神武天皇」の分割

第三章 4世紀の倭 p9 p10 p11 p12 p13
(1)邪馬台国の解体
(2)加耶人の世紀
(3)畿内加耶系王権
(4)伊都国の服属
(5)百済の接近

第四章 伊都勢力とイヅモ p14 p15 p16 p17 p18
(1)イヅモの由来
(2)伊都勢力の由来と大移動
(3)イソタケルと出雲西部勢力
(4)出雲東部勢力の興隆

第五章 「倭の五王」の新解釈 p19 p20 p21
(1)「讃」と「珍」の遣使
(2)「珍」と「済」の関係
(3)「済」と「興」の正体
(4)「武」の解明

第六章 「昆支朝」の成立 p22 p23 p24 p25 p26
(1)「昆支=応神」仮説
(2)「昆支朝」成立の経緯
(3)旧王家の運命
(4)昆支大王と倭の自立化
(5)昆支大王の宗教改革

第七章 「昆支朝」の継承と発展 p27 p28 p29 p30 p31  
(1)男弟大王への継承
(2)出雲平定と磐井戦争
(3)辛亥の変と獲加多支鹵大王

第七章ノ二 続・「昆支朝」の継承と発展 p32 p33 p34
(4)列島征服事業
(5)行政=経済改革
(6)二つの任那問題

第八章 「蘇我朝」の五十年 p35 p36 p37 p38 p39
(1)蘇我氏の出自
(2)昆支朝の斜陽化
(3)蘇我革命体制
(4)聖徳太子の実像
(5)王位継承抗争と蘇我入鹿

第九章 乙巳の変と「後昆支朝」 P40 p41 p42
(1)政変までの経緯
(2)真の政変首謀者
(3)政変の真相
(4)改新的復古

第十章 天智天皇と天武天皇 p43 p44 p45 p46
(1)孝徳時代の中大兄
(2)前期天智政権
(3)後期天智政権
(4)天武天皇の実像

第十一章 持統女帝の役割 p47 p48 p49 p50 p51
(1)生い立ち
(2)権力への道のり
(3)歴史‐神話の創造
(4)複雑な歴史観
(5)最初のフェミニスト
(6)「天皇」の制度的確立

エピローグ p52

天皇の誕生(連載最終回)

エピローグ

 本連載では「国、皆王を称し、世世統を伝う」(『後漢書』倭国伝)という分国状況の中、朝鮮半島の加耶にルーツを持つ勢力が九州を経由して畿内に建てた一地域王権が、やがて百済系渡来人勢力に簒奪された後、曲折を経て全国的王朝に発展し、天皇制という独自の君主制を確立するまでのプロセスを順次追ってきた。
 最後に改めて総整理の意味を込め、天皇制確立までのプロセスをやや図式化して示してみることにしたい。


[一]地域王権時代(4世紀中頃‐477年頃)

 遅くとも4世紀前葉に九州北部へ渡来してきた加耶系移住民が東遷して畿内の在地諸勢力を糾合して建てた地域王権の時代。王権の構造は氏族連合体的なもので、王権は弱かった。
 この王朝は4世紀末から百済と修好するようになるが、5世紀に入ると高句麗対策の思惑から百済によって侯国化され、その統制を受けるようになった。461年には百済王弟・昆支が総督格で派遣されてくる。

[二]昆支朝創始・発展期(477年頃‐571年)

 475年、高句麗の侵攻を受けて百済王都・漢城が陥落した後の477年頃、昆支が本国百済の関与と支持基盤の河内閥(主として百済系渡来人勢力)の支援の下、クーデターで畿内王権の王位に就き、新王朝を開く(昆支朝)。倭国王昆支は「武」名義で中国の南朝宋に遣使した。
 昆支朝の王号は「大王」(和訓はオオキミ)で、旧加耶系王権時代の氏族連合体構造はいったん揚棄され、王権が強化された。昆支大王(応神天皇)の後、男弟大王(継体天皇)、クーデター(辛亥の変)を経て母方から旧加耶系王権の血をも引く獲加多支鹵大王(欽明天皇)と三代約90年に及んだ王朝創始・発展期には支配領域が大幅に拡大され、部民制を軸とする大王中心の中央・地方支配体制が整備された。

[三]昆支朝復権期(571年‐593年)

 昆支朝全盛期を作った王朝三代目・獲加多支鹵大王の40年に及ぶ治世の後、その皇子らの代になると、弱体かつ短命な大王が続き、獲加多支鹵大王代に百済から伝来した仏教の扱いをめぐって政権内で崇仏派と排仏派の抗争が発生し、王権の基盤が揺らぐ。
 そうした中で、昆支大王が百済から呼び寄せた豪族・木刕満致を祖とする崇仏派の蘇我氏の実権が強まり、王朝史上初の大王暗殺に発展、昆支朝は危機に陥る。

[四]蘇我朝時代(593年‐645年)

 昆支朝第6代崇峻大王を暗殺した蘇我馬子が自ら大王に即位して以来、孫の入鹿に至るまで蘇我氏が大王家として支配した時代。ただし、馬子は獲加多支鹵大王の娘で姪に当たる豊御食炊屋姫(正史上の推古天皇)との共治体制を取り、馬子の長子・善徳太子(正史上の聖徳太子)の没後、後継争いに勝利した馬子の息子・蝦夷は大王位に就かず、全権大臣にとどまったので、単独で大王位に就いたのは孫の入鹿のみである。
 明確な簒奪王朝であった蘇我朝の王号は従来からの「大王」に加え、「天足彦」(馬子)、「君大朗」(入鹿)など一定せず、本格的な「蘇我王朝」はついに完成しなかったが、全盛期の馬子大王時代には仏教を国教とし、大陸中国(隋)との「対等」外交を樹立し、大陸的な冠位制度を導入するなど、永続的な効果を持った政策も展開された革新の時代を画した。

[五]昆支朝復権期(645年‐671年)

 昆支朝正統王家のメンバーとその支持勢力が、強権的な暴君であった蘇我入鹿大王とその父君・蝦夷を暗殺した乙巳の変を経て、軽皇子が大王に即位し(孝徳天皇)、昆支朝を復活させた(後昆支朝)。
 後昆支朝は二度と王権を簒奪されないため、強力な大王至上制の確立を目指し、部民制解体・公民制への移行、氏族特権の剥奪、律令制の導入などを打ち出した。また、君号として従来の「大王」よりも超越的な「天皇」(和訓はスメラミコト)を案出した。
 この昆支朝復権期の途中で、王朝ルーツであった百済が唐・新羅連合軍によって滅ぼされ、倭によるレジスタンス支援も虚しく、百済は最終的に滅亡した。これを受けて、百済ルーツを離れた独自の国作りが目指され、天智天皇時代には新国号「日本」が用いられるようになった。

[六]天皇制確立期(672年‐701年)

 天智天皇死去後の後継者争いであった壬申の乱に勝利した天武天皇とその皇后で後継者となった持統天皇によって、天皇の地位がイデオロギー的にも制度的にもいっそう強化され、「天皇制」として確立された時期。
 天皇は神の化身たる現御神となり、持統天皇の指導により天皇を中心とする国定の歴史・神話が創造された。持統時代には都城と律令も整備され、701年の大宝律令施行を経て、権威主義的な天皇制律令国家が姿を現した。

 
 このようにして誕生した律令の衣を纏った天皇は、やがてその制度的確立に尽力した藤原氏(その祖は4世紀初頭頃の加耶系渡来人)の摂関政治によって実権を奪われた後、上皇院政という形での短い復権期を経て、臣籍降下された皇族出身の有力武家平氏と源氏に相次いで実権を奪われる。
 その後、700年近くに及んだ武家支配下の長い斜陽の時代を耐え、明治維新による王政復古と近代憲法に根拠づけられた「近代的神権天皇制」という変則的な形での復権、そしてその体制下での帝国主義的君主を経て、敗戦に伴う政治的権能なき象徴天皇への転化と、時代ごとに役割・機能を変えつつ、天皇はなおも存在し続けている。
 このことを“連綿”と表現するならば、それは本家が完全に亡びた百済王家の分家が1500年以上にわたって倭国大王家→日本天皇家に姿を変えて“連綿”と続いていることを意味することになる。天皇家は姓を持たない日本で唯一の一族であるが、もし天皇家が姓を持つとすれば、それは旧百済王家と同じ「扶余」もしくは中国風一字名で「余」である。
 こうした天皇の誕生をめぐる歴史的深相を、日本人は、また韓国・朝鮮人はいかに受け止め得るであろうか━。これは本連載の主題を超えた「民族」という概念に関わる大きな問いかけである。(連載終了)

2013年6月 6日 (木)

天皇の誕生(連載第51回)

第十一章 持統女帝の役割

(6)「天皇」の制度的確立

立太子の制度化
 昆支朝では5世紀後葉の開朝以来、大王位継承をめぐる抗争が絶えず、6世紀末にはそうした抗争を巧みに利用した臣下の蘇我氏に王権を簒奪され、蘇我朝に取って代わられた。その蘇我朝から王権を奪還した後昆支朝でも、持統自身、身をもって体験した壬申の乱のような皇位継承をめぐる動乱を防ぐことはできなかった。
 こうした抗争が発生するのは、皇位継承の制度と手続きが未整備であったことが大きい。そこで持統は壬申の乱のような動乱の再発を防止するためにも、皇位継承制度の確立を自分の代の大きな課題とした。
 その中心が立太子の制度化である。元来、立太子に相当する制度は、昆支朝の大兄称号以来、徐々に整備されてきてはいたが、持統の一人息子の草壁皇子も立太子されていながら、父・天武の死去後当然には即位できなかったように、制度としては未確立であった。
 しかも、持統は草壁の遺児でまだ10代の軽皇子に直接皇位を継承させるという前例のない代襲相続型の皇位継承をもくろんでいたから、なおのこと周到な理論武装と制度設計を必要としていた。
 ここで力を振るったのが、藤原不比等であった。彼は父・鎌足が晩年にもうけた息子で、669年に父が死去した時はようやく10歳ぐらいであった。そのため天武時代はまだ任官年齢に達していなかったが、持統の皇后称制時代の688年2月、刑部省判事に任命された9人の官人の中に初めて不比等の名が登場する。
 持統は律令の制定をライフワークとしていたから、とりわけ律に関わる刑部省の人事を重視していたと思われ、抜擢された不比等は法律に通じていたと見られる。
 この若手官人が大出世のきっかけをつかむのは、694年にかの県犬養三千代と結婚してからである。三千代はそれまで三野王という皇族の妻であったが、夫が筑紫大宰率となって任地に赴任した後、離婚して不比等の側室となったのである。
 三千代はこの時すでに軽皇子の乳母から持統側近にのし上がっていたから、一方で父・天智の知恵袋だった鎌足の息子・不比等に早くから目を付けていた持統が、妻とは不仲であったらしい三野王を筑紫へ飛ばして三千代を離婚させ、改めて不比等との再婚をセットしたのではないかとさえ思える。
 不比等は判事として出発した以上、法令に詳しく、軽皇子立太子に当たっては持統の法的理論武装を助けることができた。その結果―有力な皇位継承権者の一人であった太政大臣・高市皇子の急死という幸運も手伝ったとはいえ―、持統11年(697年)2月に軽皇子の立太子を実現、持統天皇は同年8月に軽皇子に譲位し(第42代文武天皇)、改めて新設の太上天皇(上皇)に就いたのである。
 一方、不比等は同年、娘の宮子を文武天皇に入内させたうえ、翌年には彼の子孫だけが藤原姓を名乗る永久特権を授与され、藤原氏栄華の基礎を築くこととなった。任官からわずか10年での大躍進であった。

譲位の制度化
 こうした立太子の制度化と不可分のセットと言える施策が譲位の制度化であった。立太子が円滑に行われても、天皇死去後に謀反・動乱が発生することを完全に防止することはできない。そこで、天皇が生前、皇太子に譲位しておくことは、平和的な皇位継承を保証するうえで一つの有効な方法となる。
 この場合、譲位した天皇が役職に就かない方法もあり得るが、軽皇子は天皇即位時、わずか15歳であったため、持統は太上天皇という地位を新設し、自ら就任した。
 この制度は、当時不比等らが鋭意編纂作業を進めていた初の本格的な律令・大宝律令にも取り入れられて定着していき、後には上皇院政の道具ともなる重要な制度である。
 持統太上天皇は孫の文武天皇が年少のうえ病弱でもあったらしいことから、実質的には702年の死去まで天皇時代と変わらない実権を保持していたと見られる。従って、彼女は史上初めて院政を敷いた人物であるとも言える。
 後昆支朝のイデオロギーである一君万民思想の下では西欧君主制でしばしば見られたような親子共同国王制は理論上採れないため、天皇の背後に太上天皇という天皇に準じたポストを設けることが苦肉の策となったのであろうが、それが後世、上皇院政時代には不透明な二重権力を発生させる要因ともなった。
 しかし、さしあたり7世紀末の段階では安定的な皇位継承を実現し、天皇を制度的に確立するうえでは、生前譲位・太上天皇就任という手続きを法的に整備したことが重要であった。そして、この制度設計にも藤原不比等が深く関与していたことはほぼ間違いない。

即位の礼の定型化
 持統天皇は約3年半の皇后称制を経て天皇に即位したが、この時の即位の礼を見ると、大楯の立楯、天つ神の寿詞読み上げ、神璽の剣・鏡の献上、公卿百官の拍手という手順が明確になっている。
 中でも新しい点は、拍手であった。これは神拝の方法としてのいわゆる拍手(かしわで)と同じもので、天皇を神の化身と見立てる天皇=現御神という命題の儀式化である。
 ただ、持統の即位式では宣命の読み上げが記録されていないが、孫の文武天皇の時からは「現御神と大八嶋国知ろしめす天皇が大命らまと詔りたまう大命を、集り侍る皇子等、王等、百官人等、天下公民、諸聞きたまえと詔る」という前文で始まる宣命が読み上げられるようになる。
 こうした宣命の現存最古の記録は飛鳥池遺跡出土の木簡に記されたもので、7世紀末頃から使われ始めたと考えられる。そうすると、宣命も現御神テーゼとともに、持統天皇がその成立に深く関わっていたと見てもさしつかえないだろう。
 こうした即位の礼の定型化は皇位継承を慣習的なルティーン化することを意味しており、先に見た譲位・太上天皇のような法的な制度と組み合わさって、儀礼的な面から天皇を一つの体系的な制度として確立することを促進したであろう。
 ちなみに持統の即位式で天つ神の寿詞を読み上げたのは神祇伯中臣大嶋朝臣という藤原不比等とも親戚筋に当たる中臣氏の一族であったが、中臣=藤原氏が持統時代における天皇制の確立の局面で大いに貢献していた事実は注目されてよいであろう。

都城の建設
 以上のような天皇の法的・儀礼的な制度化に加えて、天皇制の持続性を担保する視覚的な表象をも伴う大舞台として、固定的な都城の建設という大仕事も持統の代に成し遂げられた。
 従来、昆支朝も蘇我朝も中国風の都城の建設にはなぜか無関心であったし、後昆支朝でも孝徳天皇時代は難波、天智天皇時代は筑紫、近江などたびたび遷都され、王都自体が容易に定まらなかったが、天武天皇の時代になってようやく都城の建設が計画されるようになる。
 はじめ治世5年に新木(今日の大和郡山市)に都城建設が計画されたが実現しなかった。その後、治世晩年の12年になって「都城や宮室は二、三箇所あるべきである」との天武の考えから、まず難波に都城を建設する詔が出されるが、これも実現しなかった模様で、翌13年3月9日に天武自ら京内を巡行して、都城建設地を選定した。結局、都城の地は飛鳥地域内ということで落ち着いたようである。
 そして最晩年の治世14年になって、泊瀬王、巨勢朝臣馬飼ら20人に「畿内の役」を任じた。これが本格的な都城建設プロジェクトの作業チームと見られる。しかし天武は翌年病没し、都城建設は妻の持統の手に委ねられることとなった。
 『書紀』でいわゆる藤原京のことに言及されるのは、持統4年11月に太政大臣・高市皇子が藤原の宮地を視察したとあるのが初出であるが、おそらくこの頃(690年)には具体的な建設工事が着工され、最終的に持統8年(694年)12月に藤原京への遷都が成る。
 この日本初の条坊制都城は後の平城京や平安京と比べても最大規模のもので、臣下の立ち入りを許さなくなった大極殿院を中核として、天皇の隔絶された権力を象徴する場として画期的な舞台装置となった。
 藤原京はわずか16年で廃棄されることになるが、以後もさらに数度の遷都を経て、周知のように京都の平安京が天皇の都城として明治維新まで固定される。それとともに、大枠としての後昆支朝の皇位自体は、中世の南北朝分裂を経ても二度と揺らぐことはなかったのである。

孫の軽皇子に譲位して太上天皇となった持統は、ライフワークであった初の本格的な律令・大宝律令の施行(701年)を見届け、翌702年に没し、遺言により初の火葬された天皇となった。
持統は、通説上の過小評価とは異なり、7世紀半ば過ぎに百済ルーツを喪失した後昆支朝によって新装された「日本」の歴史・神話の基礎形成を指導し、天皇の制度的確立にも努めた天皇制の権化とも言うべきイデオローグであり、彼女の治世に確立された天皇制イデオロギーは姿形を変えながらも、1300年後の現代日本社会をも強く拘束し続けているのである。

2013年6月 5日 (水)

天皇の誕生(連載第50回)

第十一章 持統女帝の役割

(5)最初のフェミニスト

持統フェミニズム
 7世紀代の女性を「フェミニスト」と呼ぶことはいささか時代錯誤的であり、躊躇も覚えるが、持統の思想の根底には女性性を協調・讃美するある種のフェミニズムがあったと思われるのである。
 古代は全般に男尊女卑の観念が強い中、わけても男性優位で女王に否定的な百済に遠いルーツを持つ後昆支朝にあって、単独統治女帝の正統性を支配層内部で認めさせるには苦労も少なくなかったに違いない。
 そこで、持統は女性権力の正当性を単に政治的のみならず、思想的にも確証するために、女性性を讃美するような一連の思想を提示したものと考えられるのである。
 このことはもちろん、近代的な意味での「男女平等」であるとか、女性の地位の向上を目指したものでは全くなく、あくまでも自身の統治権力を正当化し、政権基盤を固めるという目的から出たイデオロギー戦略にすぎなかったのであるが、それでもこの持統フェミニズムは持統以降、奈良朝にかけてのべ4人(うち1人は重祚)もの単独女帝を輩出するきっかけをなしたことは間違いない。
 同時に、持統フェミニズムは男性編者の手になる記紀の中にも希釈化された形でなお反映されており、日本の歴史・神話に女性性に富んだ独特の性格を与える結果となったのである。この持統フェミニズムはまず持統の宗教観に集中的に表れるが、歴史観や一部政策実務面にも一定発現してくる。

天照大神信仰
 宗教観における持統フェミニズムの発現は、女神である天照大神を皇祖神として位置づけるという大胆な構想を提起したことに見られる。これは同時に、政策的にも宗教(反)改革としての重大な意味を持っていた。
 第六章で論じたように、昆支朝開祖・昆支大王は三輪山宗教改革に乗り出し、この地域本来の太陽信仰とその中心であった女神に代えて、出雲意宇王権との神聖同盟に基づき出雲神道を強制していたのだった。それに伴い、天照大神は畿外へ押し出されて、最終的に伊勢へ移置されたようである。この事実を示唆する記事が垂仁紀25年条に見える伊勢神宮の由来記事である。
 それによると、天照大神を鎮座する場所を探し求めていた垂仁天皇の娘・倭姫命[やまとひめのみこと]が伊勢国に至った時、「伊勢国に居りたい」との天照のお告げを聞いたので、祠を伊勢に建て、斎宮を五十鈴川のほとりに置いたのが伊勢神宮の始まりだという。
 第七章で論じたところによれば、垂仁=継体(男弟大王)であるから、この記事をより現実的にとらえ直してみると、昆支大王を継いだ男弟大王代の6世紀前葉、天照大神は伊勢へ移され、伊勢神宮の前身社が建立されたと読める。
 ちなみに、伊勢は第四章で見た伊都勢力の太平洋側拠点の一つであったのだが、ここへ天照を移置しようとした昆支朝の意図はまだよくわからない。いずれにせよ、昆支朝の体制神道は乙巳の変を経た後昆支朝の下でも持統以前は出雲神道だったのである。ところが、持統はこの開祖・昆支大王以来の宗教政策に重大な変更を加え、畿外へ排斥された太陽神たる女神を皇祖神として位置づけようとしたのである。
 この「天照大神=皇祖神」という新しい命題は、おそらく持統が即位前に招集した例の宗教会議で自ら百官に通達したものと思われる。このように皇祖が女神であるとなれば、天皇家の家長が女性であることも認められ、単独女帝にも道が開かれるのである。
 ただ、皇后のこの突然の通達は百官の間に波紋・動揺をもたらしたことは想像に難くなく、持統の天皇即位はともかく、「天照大神=皇祖神」テーゼは容易に受け入れられなかったと見られる。そこで持統は即位前の持統6年、自ら伊勢へ行幸することで伊勢神宮の威信を高める策に出た。
 『書紀』はこの時、持統が伊勢神宮を訪問したかどうか黙しているが、この行幸は陰陽師に日取りを決めさせたうえ、14日間にも及ぶ日程の大がかりなものであったことからみて、単なる視察ではなく、宗教上の目的があったことは明らかである。
 ところが、この時、三輪朝臣高市麻呂[みわのあそんたけちまろ]という官人が「農時の妨げになる」という理由から、官位を賭して二度にわたり行幸に反対する進言をしたのである。三輪氏と言えば、第六章で見たように、昆支の宗教改革で三輪山神官長に任命された出雲意宇王権王族・大田田根子を祖とする有力氏族であり、高市麻呂はその末裔に当たる官人である。
 彼が反対した表向きの理由は「農時の妨げ」であったが、実際には持統が従来の体制神道である出雲神道を捨てて天照大神を中心とする伊勢神道を興そうとしていることへの反発という宗教的理由があったことは間違いない。彼は昆支大王の宗教改革を逆行させるかのような宗教(反)改革に反発する勢力を代表していたのである。
 高市麻呂自身は壬申の乱にも功労のあった人で、彼の職を賭しての二度の進言に対して、持統も当初の3月3日出発予定を3日間延期したが、結局進言を却下し、同月6日に伊勢行幸に出たのである。ちなみに官位を賭したという高市麻呂は、結局次の文武天皇の代まで勤め上げ、従四位上・左京大夫まで昇進している。文字どおりに職を賭すほどの気概はなかった模様である。
 こうして持統は抵抗勢力を押し切って伊勢神道を創始し、これは今日まで永続的な効果を保っているが、記紀の叙述を見る限り、天照大神は必ずしも皇祖神として絶対の地位を与えられているとは言えない。特に『書紀』神代編のクライマックスである天孫降臨場面の本文にはそもそも天照大神が姿を現さず、代わりに男性神の高皇産霊尊[タカミムスビノミコト]が天孫降臨の主宰者となり、この神が「皇祖」と呼ばれているのである。
 また戦前の皇国教育で暗誦を強制された天照大神がニニギに下す「葦原千五百秋の瑞穂の国は、これ吾が子孫の王たるべき地なり」云々という有名な神勅も、本文ではなく、別伝第一書に見えるにすぎない。同じ天孫降臨場面で天照がもう少し前面に出てくる『記』でも、天照大神は男性神の高御産巣日神(高皇産霊尊)との共同主宰神的な地位にとどまっている。
 記紀に見られるこうした天照大神の過小評価は、持統フェミニズムに対する記紀の男性編纂者たちの抵抗感の痕跡と理解することができそうである。

神功皇后説話
 持統フェミニズムの歴史観への反映と考えられるのが、「神功皇后」の造型である。「神功皇后」はよく知られた「三韓征伐」のヒロインであり、朝鮮蕃国史観とも密接に結びつけられた征服王であるが、通常は男性である征服王が女性であるところに大きな特徴がある。
 「神功皇后」は見方によっては天照大神の人間化と解釈することもできるが、実在のモデルがあったとすれば、持統の父方の祖母である宝皇女(正史上の皇極=斉明天皇)と推定される。
 宝皇女が皇室の女性家長たる皇祖母尊として、百済救援のため老体を押して筑紫遷都に同行し、「西征」したイメージは、臨月の身重で三韓征伐へ乗り出していったとされる「神功皇后」と重なる部分もある。また、宝皇女も何らかの宗教に傾倒しており、宗教的な公共工事を好み、シャーマン的な性格を持っていた点で、同様にシャーマン的である「神功皇后」と重なる。
 持統はこの祖母を敬愛しており、朝鮮蕃国史観の基礎付けともなる征服説話の主人公にあえて宝皇女をモデルとした神功皇后を立てたのではないか。
 それはともかくとしても、神功皇后は記紀では昆支朝開祖・昆支大王=応神天皇の「母」という位置づけを与えられている。要するに、昆支朝生みの母という想定であり、皇祖神天照大神に次ぐ枢要な地位にあると言える。それと同時に、「神功皇后」は昆支朝とそれ以前の加耶系王朝とを接合して、統一王朝史観を支える役目をも担っている。
 このように、「神功皇后」は単なる征服王を超えた新生「日本」の歴史全体の主人公でもある。このような「神功皇后」の役割規定は細部では相違点も少なくない『記』と『書紀』とでほぼ共通しているところを見ると、「神功皇后」構想の原型は持統の時代にすでに形成されていたものと見るべきであろう。
 ただ、『書紀』が注記の形で、「神功皇后」を邪馬台国女王卑弥呼に比定しようとしたのは、いささか飛躍した編纂者独自の見解であり、持統の想定外であったと思われる。

命婦制度の確立
 持統フェミニズムの政策実務面への発現と言えるのは、命婦制度の確立である。このことに関わって注目されるのは、役人の新しい登用基準を示した天武2年5月の天皇の詔の中に「婦女は夫の有無及び長幼を問うことなく、宮仕えしたいと望む者を受け入れよう。その選考は一般男子役人の例に準ずる」とあることである。
 要するに、女性は既婚・未婚の別や年齢も問わず宮廷への就職希望者は広く受け入れ、選考は男子役人と同等ということで、まるで現代の「男女共同参画」政策を思わせるような先進的な女性登用政策である。こうして登用された女性官人(女官)も、高位者には天武4年に導入された官人の新たな俸禄制度である食封が男子役人と共に支給された。
 こうした積極的な女性登用策を進めた天武自身がフェミニストであったという特段の証拠もないので、政策決定の背後に「常に良き助言で、政務でも輔弼の任を果たした」と記される皇后時代の持統の献策があったと見ても不合理ではないだろう。
 天武10年5月条には、「百寮の人々の宮廷の女官に対する崇め方には行き過ぎがある」として、女官に対して自分の訴えの取次ぎを依頼したり、贈答品を贈ったりする行為を罰則付きで禁止する詔が出されているが、天武の治世後半になると、早くも政治的に有力な命婦が出現し、一種のロビー活動まで行うようになっていたものと見える。
 こうした有力な命婦の中の出世頭が、奈良朝以降の有力貴族・橘氏の祖となる県犬養三千代[あがたいぬかいのみちよ]であった。
 三千代は6世紀半ばの欽明=獲加多支鹵大王時代に設置された犬養部に遡る氏族出身で、元来その地位はさほど高くなかったが、天武時代に女官として採用され、皇太子・草壁皇子の子で天武と持統の孫に当たる軽皇子の乳母となって持統の知遇を得、女帝の側近ナンバーワンにのし上がる。そして女帝のもう一人の側近・藤原不比等―父・天智の知恵袋であった藤原鎌足の子―と再婚して夫妻ともども大出世し、やがて有名な光明皇后の母となる人である。

2013年6月 3日 (月)

世界歴史鳥瞰(連載第71回)

第8章 略

六 諸国の独立(続き)

(6)独立後の明暗
 第二次大戦後独立を果たした諸国の多くは経済的自立基盤も不十分なままスタートしたため、独立とは法的な建前だけで、実質上は旧宗主国の経済的従属下になおも置かれ続け、あるいは米ソの冷戦体制に組み込まれ、代理戦争の舞台として利用された。
 独立後の指導者が植民地時代の圧政を継承し、独裁体制構築のために再利用する例も跡を絶たなかった。権力闘争や民族対立、圧政への抵抗が多くの内戦、クーデターを生んだ。
 特にアフリカ諸国では植民地時代に強制されたモノカルチャー経済の影響で、伝統的な自給自足の農村共同体が崩壊していたところへ、干ばつや砂漠化などの環境破壊や、クーデターの頻発による政情不安、内戦、独裁者の失政・腐敗などが重なり、貧困・飢餓が定在化するようになった。
 一方、アジアでは冷戦体制を反映した米ソの代理戦争の舞台とされる諸国が少なくなかった。冷戦初期の朝鮮戦争に続いて、アメリカがインドシナ半島、ひいては東南アジア全体の共産化を防ぐとの名目で65年から発動したベトナム戦争は、ベトナムとその周辺地域に大きな傷跡を残した。
 この戦争はアメリカと南ベトナムが周辺のカンボジアやラオスにも戦線を拡大したことから、70年代以降第二次インドシナ戦争に発展したが、結局アメリカ・南ベトナムはソ連と中国が支援した北ベトナム・南ベトナム解放民族戦線に勝利できず、75年に戦争は終結した。その結果、統一ベトナム、カンボジア、ラオスはそろって社会主義体制へ移行することになった。
 そのうちカンボジアで政権に就いたクメール・ルージュ(カンボジア共産党)は反西欧文明を叫ぶ狂信的な原始共産化政策を強行し、都市住民の農村への強制移住や知識人虐殺などで最大170万人とも推計される犠牲者を出した。これはナチスのホロコーストにも匹敵する20世紀における二大ジェノサイドの一つとして記憶に留められるべき事変である。
 中国の支援を受けていたクメール・ルージュは79年、当時中国と不和に陥っていたソ連を後ろ盾とするベトナムの侵攻を受けて政権を失った後、他の反ベトナム勢力と組んでベトナム傀儡政権に対する武装闘争を続けた。新たな局面を迎えたカンボジア内戦は91年のパリ和平協定で一応終結するが、クメール・ルージュは93年の総選挙に参加せず、98年に最高実力者ポル・ポトが失墜・死亡するまでゲリラ戦を継続した。
 カンボジアはこうして、米ソの東西対立のみならず、「東」の社会主義圏内部での中ソ対立という副産物によっても翻弄されたのである。
 こうした苦難を味わう諸国の一方で、アジアでは権威主義体制の下で上からの資本主義的開発を推進して成功した国も少なからず現れた。その中でも韓国とシンガポールが際立っている。
 韓国では60年学生革命の後、61年に軍事クーデターで政権に就いた軍人朴正熙が軍部を権力基盤とする長期支配体制を樹立し、国内の反対を抑えつつ、65年の韓日基本条約で早期国交正常化を果たした旧宗主国日本からの経済援助・資本流入とアメリカの軍事援助をバックに、70年代以降「漢江の奇跡」と称された高度経済成長を達成した。
 また65年にマレーシアから分離独立した中国系主体の都市国家シンガポールでは法律家出身のリー・クアン・ユー(李光耀)の家父長制的とも称される長期の権威主義支配の下で、積極的な外資誘致を通じた工業化を推進し、東南アジア随一の生活水準に到達した。
 一方、アラビア半島の産油国でも、第二次大戦前からの独立国サウジアラビアを含め、戦後独立したクウェートやアラブ首長国連邦といった同種の小国も潤沢なオイルマネーを活用して上からの開発を推進し、高い生活水準を達成していった。
 しかし、こうした開発独裁体制もしくはその亜類型としての資源独裁体制は、経済成長と見かけの豊かさの影に、恒常的な人権抑圧と経済格差を蔵するものであった事実を見落とすわけにはいかない。

(7)非同盟諸国運動
 第二次世界大戦後、諸国の独立が続いたことの重要な成果が非同盟諸国運動であった。これは元来、独立後米ソいずれとも距離を置きつつ独自の社会主義的路線を採っていたインドの初代首相ネルーを中心とする南アジア・東南アジア5か国首脳が1954年にセイロン(後のスリランカ)で開催したコロンボ会議に端を発している。
 この構想に基づく54年のネルーと周恩来中国首相の平和五原則声明、そして55年にインドネシアのバンドンで開かれたアジア・アフリカ会議で確認された平和十原則を引き継いで61年、ユーゴスラビアの首都ベオグラードで25か国参加の下、初の非同盟諸国首脳会議が開催された。
 この運動を初期に率いたのはネルーのほか、48年にコミンフォルムを除名された後、ソ連と袂を分かち市場的要素を伴う独自の「自主管理社会主義」の実験を試みていたユーゴのチトー大統領、民族主義・イスラーム・共産主義三勢力の連合(ナサコム)の下に「指導された民主主義」を実践していたインドネシアのスカルノ大統領、52年のエジプト革命ですでに形骸化していたムハンマド・アリー朝を廃して共和制を樹立し、アラブ民族主義のリーダーとなっていたエジプトのナセル大統領といった個性的な顔ぶれであった。
 そこで提示された「非同盟」とは東西冷戦が進行していく中で単に中立を保持するばかりでなく、民族解放の支援など反帝国主義的な積極中立を目指す概念とされた。これは冷戦体制に対する有力なオールタナティブではあったが、現実には新興国の多くが冷戦体制によって不可避的に制約されていた。
 実際、エジプトでは56年のスエズ戦争(第二次中東戦争)に実質上勝利した後のナセルの親ソ姿勢は否定できなかったし、インドネシアでは共産党が背後で関与したとされた65年のクーデター未遂事件後、67年に軍部の圧力でスカルノが辞任に追い込まれたことを受けて成立した軍部主導のスハルト政権は明らかに親米路線に転じた。
 そのうえ反帝国主義を謳う非同盟諸国運動が、メンバーの「第三世界」諸国首脳自身の独裁支配を隠蔽する働きをしていた面も否定できず、民主主義の促進という観点からはマイナスの効果さえも認められたと言えよう。

2013年6月 1日 (土)

老子超解:第二十八章 無為の効用

二十八 無為の効用

世界で最も柔らかなものが、世界で最も堅いものを駆動する。有形的でないものが、隙間のないところに入り込める。私はこのことによって、無為の効用を知るのである。不言の教え、無為の効用は、世の中にこれに及ぶものはまずない。


 
前章でも説かれていた無為の効用をやや別の角度から補足したのが、通行本第四十三章に当たる本章である。
 老子特有の簡潔な―老子の言う「不言」―断章の形をとる本章では、柔らかなもの・有形的でないものの有用性が無為の効用と結びつけられている。
 ここで柔らかなものや有形的でないものとは、いずれも老子にあっては「無」の態様を表している。ここから、「無為」という倫理的行為概念と「無」という存在論的概念の間には内的な連関性があることもわかる。

 こうした無為のイメージをあえて形で表すとすれば―いささか反老子的ではあるが―、伸縮自在なアメーバのような動きということになろうか。「アメーバ運動」のすすめである。

« 2013年5月 | トップページ | 2013年7月 »

2017年9月
          1 2
3 4 5 6 7 8 9
10 11 12 13 14 15 16
17 18 19 20 21 22 23
24 25 26 27 28 29 30