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2013年5月

2013年5月30日 (木)

マルクス/レーニン小伝・目次

本連載は終了致しました。下記目次各「ページ」(リンク)より該当記事をご覧いただけます。

第1部 カール・マルクス

第1章 人格形成期 p1 p2
(1)中産階級的出自
(2)進歩‐保守的な恋愛
(3)哲学との出会い
(4)古代唯物論研究

第2章 共産主義者への道 p3 p4 p5
(1)17歳の職業観
(2)新聞編集者として
(3)在野知識人へ
(4)盟友エンゲルス
(5)『共産党宣言』まで

第3章 『資本論』の誕生 p6 p7 p8
(1)初期の経済学研究
(2)プルードンとの対決
(3)経済学研究の道
(4)主著『資本論』をめぐって

第4章 革命実践と死 p9 p10 p11 p12 p13
(1)共産主義者同盟の活動
(2)国際労働運動への参画
(3)パリ・コミューンへの関与
(4)バクーニンとの対決
(5)労働者諸政党との関わり
(6)最後の日々

第5章 「復活」の時代 P14 p15 p16 p17
(1)マルクス主義の創始
(2)エンゲルスからレーニンへ
(3)ロシア革命とマルクス
(4)ソ連体制とマルクス
(5)正当な再埋葬

第2部 ウラジーミル・レーニン

第1章 人格形成期 p18 p19
(1)中産階級的出自
(2)兄の刑死
(3)逮捕と追放
(4)弁護士資格取得

第2章 革命家への道 p20 p21 p22 p23
(1)ペテルブルクへ
(2)最初の政治活動
(3)何をなすべきか
(4)社会民主労働者党への参加

第3章 亡命と運動 p24 p25 p26
(1)党内抗争と理論闘争
(2)第一次ロシア革命と挫折
(3)哲学への接近
(4)レーニン主義政党の構築

第4章 革命から権力へ p27 p28 p29 p30 p31
(1)第二次革命の渦中へ
(2)10月革命と権力掌握
(3)ボリシェヴィキの全権掌握
(4)内戦・干渉戦と「勝利」
(5)最高権力者として

第5章 死と神格化 p32 p33 p34 p35
(1)レーニンの死
(2)忠実な相続人スターリン
(3)偉大な亜流派トロツキー
(4)人間レーニンの回復
 

マルクス/レーニン小伝(連載最終回)

第2部 ウラジーミル・レーニン

第5章 死と神格化

(4)人間レーニンの回復

flagソ連邦解体とレーニンの「責任」
 レーニンが10月革命によって作り出した体制は、74年後の1991年、やはり一種の革命によって解体・消滅した。このことに対して革命から6年余りで世を去ったレーニンにどの程度の「責任」が認められるかが問われるであろう。
 これは裏を返せば、仮にレーニンがスターリンの没年1953年(レーニン83歳)まで健在してソ連を指導していたら、ソ連体制はもっと持続していたであろうかという問いに等しい。
 答えはノーであろう。なぜなら問題の発端は10月革命そのものにあったからである。10月革命はレーニンとボリシェヴィキの当座の権力掌握という「戦闘術」に関しては鮮やかに成功した革命であったが、長期的に見れば超未熟児のような体制を産み出した「早まった革命」であり、1世紀=100年は持続しなかった「失敗した革命」でもあった。
 レーニンの「早まった革命」はマルクスの「革命の孵化理論」を踏まえず、資本主義が発達し切らない前に労働者と農民―実際はレーニンらの職業的革命家―が蜂起して社会主義の建設に向かうというものであったから、初期のレーニン自身が予見していたロシアにおける資本主義の発達の可能性を阻害する一方で、マルクスによれば発達した資本主義の中から産まれるはずの共産主義を産み出すこともできず、商品生産と賃労働という資本主義的要素を残したまま、他方では生産手段の国有化という形で擬似共産主義的な要素を併せ持つ中途半端な国家社会主義という方向へ収斂していかざるを得なかったのである。
 この点ではちょうど同時期、メンシェヴィキ支持派が多数を占めたスウェーデンの社会民主労働者党が議会政治の枠内で長期政権を担い、資本主義と共存しつつ労働者の生活水準を引き上げる高度福祉国家の建設に乗り出していったこととは好対照であった。
 このスウェーデン・モデルは、マルクス主義を放棄し、やがてケインズ経済学に依拠するいわゆる「修正主義」の代表的成功例であり、ロシアでもこのモデルが適用されていたら、その後の展開は全く違ったものとなったかもしれなかった。
 しかし、ロシアのメンシェヴィキはあまりにも弱く、本来的には少数派でありながら戦術に長けたボリシェヴィキに勝って政権を掌握することなど望むべくもなかったのだ。
 しかし、レーニンが作り出した超未熟児体制も国家社会主義の形態をまといながら、スターリン時代には工業化、経済成長をかなりの程度達成し、よく生き延びはしたと評価することもできる。何はともあれ、ソ連の70年間で、ロシアと他の連邦構成共和国は「発展」―「社会主義的不均等発展」もあったにせよ―したのである。
 しかし、1991年のソ連大衆は政治的抑圧と物不足の貧弱な消費生活を強いるだけの体制の存続に関して、もはやいかなる幻想も抱いてはいなかった。
 同年8月、かねてからソ連体制の根幹に関わるブルジョワ自由主義に傾斜した改革プログラムを進めていたゴルバチョフ大統領―前年の憲法改正で共産党一党支配を廃止していた―に対して、共産党保守派がクーデターを起こすと、モスクワ市民はちょうど74年前の8月に反革命派コルニーロフ将軍のクーデターと対峙した市民たちのように、体を張ってクーデターを阻止したのである。
 年末、“急進改革派”のロシア大統領エリツィンらによってレーニン政権が提起した22年連邦条約の無効が一方的に宣言され、10月革命とソ連邦の終焉が決定的となっても、ソ連大衆は強く反対することはなかった。
 この結果、ロシアは10月革命を取り消し、2月革命の線まで立ち戻って、レーニンにより中断されていた資本主義の道を再び歩み出すこととなった。レーニンを非難する言葉こそ聞かれなかったが、彼は無言で断罪されたのである。

flagレーニンの脱神格化
 ソ連邦解体は、スターリン以降のソ連体制によって付与されてきたレーニンの神格を剥ぎ取る契機ともなった。レーニンの脱神格化である。レーニンの脱神格化とは何か。それはレーニンに対するタブーなき批判の自由が確保されることである。
 旧ソ連時代にもスターリン死後のフルシチョフ政権当時にスターリン批判が共産党指導部自身によって行われたことはあったが、革命と建国の父レーニンに対する批判は長らくタブーであり、タブーが徐々に解けたのはソ連末期のゴルバチョフ政権下で情報公開と言論の自由化が進んでからのことであった。
 ただ、レーニンを批判するという場合、単に彼の理論と実践の個別的な誤りを指摘するだけでは足りない。それを超えて、彼の理論と実践を全般的に批判的分析の対象とすることが必要となる。
 なかでもマルクス主義者レーニンがマルクス離反者でもあったという事実を正面から見すえなければならない。「レーニンはマルクスの理論を後進的だったロシアの現実に適用した」というソ連当局によって宣言され、今日でもなお基本的に維持されているレーニン評価は見直されなければならないのだ。
 すでに随所で触れてきたとおり、彼はマルクス理論の「適用」どころではない、それからの「離反」を示している。彼の理論はマルクスの用語を使用してはいるが、マルクスとは別個のレーニン独自のもので、端的に「レーニン主義」と呼ばれるのが最もふさわしい。ソ連とその同盟国が体制教義としていた「マルクス‐レーニン主義」は実態と乖離したイデオロギーにすぎなかったのである。
 レーニン脱神格化の第二弾は、為政者レーニンの失政を直視することである。すでに見たように、レーニン政権下での社会的混乱は並大抵のものではなかった。
 それは想像を超えた混乱であったため、10月革命は、反革命派の間ではおよそ革命なるものが大衆にとっていかに辛い苦難を強いるものかを宣伝する材料として今日まで使われているほどである。
 レーニンをはじめボリシェヴィキは一般命題的な「テーゼ」を巡る論争に明け暮れることが多く、具体的な政策立案能力には欠けていたと言わざるを得ない。その失政の最たるものが民衆の生活にとって肝心な農業・食糧政策であった。レーニン政権は「戦時共産主義」という誤った政策のために帝政ロシア時代にも見られなかったほどの飢餓を引き起こした。農業・食糧問題での失政は悲惨な内戦の要因でもあった。
 マルクスから離反して労農革命を唱導したレーニンが為政者として農業問題に関して一貫した良策を打ち出すことができなかったのは、彼にとって農民との同盟は権力掌握のための手段的な意味合いが強かったためである。彼自身は農民に共感などしていなかったし、かつてのナロード二キのように農村に直接足を踏み入れることもなかったのである。
 ・・・とこのようにレーニンを断罪していくと、レーニンを全否定し、歴史から抹消してしまうことになりかねない。実際、今日ではレーニンも10月革命もソ連もまるで存在しなかったかのような空気が世界に広がっている。ロシアにおいても、旧暦10月25日の革命記念日はもはや祝日ではなくなっている。
 しかし、レーニンが指導した革命事業は神ならぬ人間のなせる業であり、そこには反面教師的な側面も含めて多くの教訓が含まれている。それは近代における革命について考える際の素材の宝庫なのである。革命など真っ平ご免蒙りたいと思っている人にとっても、なぜ、いかにして革命が起きるのかを考える手がかりが得られるだろう。
 そうした意味で、映画のタイトルにもなった「グッバイ、レーニン!」は“神レーニン”に対する決別宣言でなければならず、“人間レーニン”に対しては、「ハロー、レーニン!」でなくてはならない。
 ちなみに、ソ連邦解体を主導したロシアの“急進改革派”エリツィン政権は、レーニン廟に保存されているレーニンの遺体の撤去・埋葬を企てたが、反対も根強く、実現しなかった。たしかに、レーニンを葬り去るにはまだ早いが、人間レーニンを回復するためには、普通の人間として埋葬し直すほうがよくはないか。(連載終了)

2013年5月29日 (水)

マルクス/レーニン小伝(連載第34回)

第2部 ウラジーミル・レーニン

第5章 死と神格化

(3)偉大な亜流派トロツキー

flag予定された敗者
 スターリンのライバル・トロツキーは10月革命時にはペトログラード・ソヴィエト議長として軍事革命委員会を率いて武装蜂起を指揮した立役者であった。この時レーニンはまだ臨時政府から追われ地下潜伏中の身であり、前面に出られなかったことから、10月革命の実戦面での功績はトロツキーにあったと言ってよい。
 そして、レーニン最晩年にはトロツキーは後継候補に浮上したうえ、レーニンがスターリンと衝突してその解任を検討するに至って、最有力後継候補となったはずであった。にもかかわらず、結果として彼はスターリンの巻き返しに遭って、言わば逆転負けを喫してしまった。それも生命を奪われるような形で。
 そういう結果に終わったことについては、スターリンの権力闘争の巧みさもさりながら、トロツキー自身に内在する敗因もあったと考えられる。その意味で、彼は予定された敗者であったのだ。
 何よりもまず彼はナロードニキ→メンシェヴィキ→調停派→ボリシェヴィキと渡り歩いた革命的渡り鳥であった。そのうえボリシェヴィキ入党は第二次革命渦中の1917年のことにすぎなかった。この点で、スターリンが初めからボリシェヴィキで一貫していたことと比べ、党歴に弱みがあった。
 また性格の点でも、レーニンから指摘されたように、トロツキーには自己過信の強い自惚れ屋の一面があった。このような性格は当然、同志たちから好かれず、党内で多数派を形成することに失敗する要因ともなった。
 さらに理論面でも、彼の長期的スパンを伴う世界革命論にはどこかメンシェシェヴィキ的な革命待機論の響きが感じられ、単純明快なスターリンの一国社会主義論と比べて魅力に欠けたのであった。とりわけ早く新しい革命事業をやりたがっていた若手党官僚たちにとってはそうであった。
 最後に、あまり言われないことではあるが、トロツキーのユダヤ系富農という出自も看過できないマイナス要素であったろう。元来、ボリシェヴィキは母方から一部ユダヤ系の血を引くレーニン自身を含め、多くのユダヤ系党員を擁していたから、党内的にはユダヤ系出自は直接に問題視されることはなかったが、ロシア社会全般ではユダヤ人差別の存在を覆うべくもなかった。
 実際、第二次革命とその後の内戦期にも動乱に便乗したユダヤ人に対する集団暴行・虐殺事件(ポグロム)が頻発していた。こういう状況では、ユダヤ人がロシアを中核とするソ連の指導者となることにはロシア人の反感が予想された。それに加えて、富農はボリシェヴィキにとって打倒対象であるはずであった。
 こうしてトロツキーは24年のレーニンの死の直後から坂道を転げ落ちるようにして失墜させられていく。まず25年に陸海軍人民委員(国防相)を解任されたのを皮切りに、27年の党大会で党・政府の全役職を奪われたうえ、29年には国外追放の身となり、流浪の末最終的にメキシコまで流れていかなければならなかった。それでも敵の魔手を逃れることはできず、40年、ついにメキシコで暗殺されてしまうのである。

flagトロツキー幻想
 トロツキーは本来、スターリンなどよりはるかに傑出した10月革命の元勲でありながら、スターリンによって排除され非業の死を遂げたため、死後多くの崇拝者を出した。かれらはトロツキストと呼ばれるマルクス主義の一派を成して今日でも活動を続けている。
 レーニンがスターリン以降のソ連体制によって神格化されたとすれば、トロツキーは反スターリン主義者によって聖人化されてきたと言える。しかし、レーニンともスターリンとも違うとされるトロツキーの理論的独自性については、しばしば過大評価がつきまとってきた。
 彼を最も有名にした永続革命論(一段階革命論)はレーニンの即時武装蜂起の意思決定にも示唆を与えたことが知られるが、トロツキー理論のもう一つの支柱である世界革命論について言えば、「プロレタリアートによる革命の輸出」というテーゼ自体はレーニンが一国社会主義論を打ち出した前出論文の中でも示唆していたことである。
 ただし、レーニンの場合はトロツキーのように世界革命―さしあたりは西欧諸国での革命―をソ連における社会主義建設の条件とまでは考えていなかったのに対し、トロツキーはマルクスとエンゲルスがかつて『ドイツ・イデオロギー』で打ち出したテーゼ「共産主義は経験上、主要な諸国民の行為として「一挙的」かつ同時的にのみ可能」に立ち戻っているようにも見える。
 しかし、スターリンの一国社会主義論の下で、ソ連の工業化と経済成長がかなりの程度達成されたことで、永続革命論・世界革命論の意義は失効してしまった。
 もっとも、トロツキーのように、10月革命はスターリンによって「裏切られた」と解釈し、スターリン流社会主義を偽りの“似非社会主義”とみなすならば、トロツキーの所論はなお効力を保っていることになるが、それではトロツキーの社会主義認識とはいかほどのものであったのだろうか。
 この点、トロツキーの農民強制論、すなわち「プロレタリアートは農民を強制して社会主義の建設を急がねばならない」というテーゼは、要するにネップのように農民のブルジョワ的願望を満たす慰撫政策に異を立てたもので、同じことを農業集団化によって大々的に実行したのがスターリンであったとも言える。
 その意味で、農民強制論はスターリンでも支持できるようなテーゼである。富農出身であったトロツキーは、農民は本質的に動揺階級であって、革命的闘争にも反動的闘争にも参加する信用のおけない階級とみなしていたが、このような農民観もスターリンと共有できるものであっただろう。
 しかしその一方で、トロツキーはネップ期の経済体制については、諸産業が労働者国家の手中にある限り「資本主義はその形式を残していても客体としては存在しない」という論理で、これを擁護する矛盾した主張もしている。このような理解はネップの発案者であったレーニン自身がより率直にネップの本質を「国家資本主義」と認めていたことと対比しても妥協的・後退的な理解と言わざるを得ない。
 トロツキーがレーニン以上に民主主義的であると評されるのが党官僚制に対抗する党機関の下部服従論である。たしかに彼は言葉の上ではレーニン以上に党官僚制に対して否定的であった。
 しかしそのトロツキーが一方では人間を本質上怠惰な動物とみなし、資本主義を社会主義で置き換えるには、政府による強制と労働の軍隊化が不可欠であるとして、労働組合の国家管理を提起したのである。
 この考えは労働組合を党官僚制への対抗力と考えていたレーニンによって強く批判され、一時トロツキーを警戒したレーニンをしてスターリンにトロツキーへの対抗を準備させるまでになった。スターリンはこのことを後々まで記憶していたに違いない。
 もっとも、労働組合はスターリン時代を通じて、レーニンの要望よりもまさにトロツキー提案に沿う形で完全な国家管理下に置かれてしまうのであるから、この点でのトロツキーとスターリンの距離は遠くない。
 ちなみに「労働の軍隊化」といったテーゼからも、トロツキーにはスターリンと同様、軍隊的組織への傾倒が看て取れる。彼が10月革命時の戦闘指揮で活躍し、革命後は赤軍(ソ連軍の前身)の創設者となったのも、決して偶然とは言えない。
 労働者をサボタージュ分子、農民を動揺分子と見下していた彼は、レーニン以上にエリート主義的な観点を持つがゆえに、スターリンとともに軍隊的規律強制に積極的なのである。
 こうしてみてくると、トロツキーはレーニンよりも宿敵スターリンとの間に意外な共通点を共有しつつ、レーニンとスターリンの間を天翔るような偉大な亜流派であったと理解できるのではなかろうか。
 実際的な面からしても、仮にトロツキーがスターリンを抑えてレーニンの後継者に就いていたとして、決して成功はしなかったであろう。最晩年の論文でレーニンはトロツキーの自己過信とともに行政的な側面への過剰な没入に苦言を呈していたが、実際のところ、トロツキーの行政的手腕には疑問符が付く。そのことは外務人民委員(外相)時代に担当した戦争終結を巡る外交交渉の結果にも表れている
 当時、彼はレーニンの単独講和論にもそれに反対する革命戦争論(戦争継続論)にも与さず、「抗戦も講和もしない」との中間的な立場をとり、結局交渉では成果を上げないままロシアに不利な条件での単独講和を甘受せざるを得なかったのである。
 このようなトロツキー流の中間的な立場は彼がまだ調停派であった頃からのものである。彼は当時、その煮え切らない態度をレーニンから「彼はどんな見解も持たない・・・・・低級な外交家だ」と痛罵されたことがあった。トロツキーはずっと後に調停派時代の自らの態度を自己批判したが、その本性は終生変わらなかったようである。もっとも、こうした中間的な立場はトロツキーの分析的な性向に由来するものとも言えるかもしれない。
 結局、トロツキーは学究肌の面を持った自意識の強い作家肌の人間であって、彼の真価は文筆面で大いに発揮された。実際、彼は自意識の強い人間にふさわしく、史料的というより文学的に価値の高いすぐれた自伝を残した。この点は自己を語ることに禁欲的で、自伝の類を一切残さなかったレーニンともマルクスとも異なるトロツキーの魅力と言えるであろう。

2013年5月28日 (火)

マルクス/レーニン小伝(連載第33回)

第2部 ウラジーミル・レーニン

第5章 死と神格化

(2)忠実な相続人スターリン(続き)

flagレーニンとスターリン〈1〉
 レーニン死して、後継争いを制したスターリンの時代が到来した。世上しばしば「レーニンの正しい路線をスターリンが歪めたために、ソ連体制は最終的に失敗した」と言われてきたが、このような評価は果たしてどの程度妥当するのであろうか。
 スターリンが加えた歪みとして筆頭に挙げられるのは、生前レーニンが警戒していた党官僚制を肥大化させて党と人民大衆との著しい乖離を生じさせたことである。
 しかし、党官僚制はレーニンの持論であった中央集権的党組織論から必然的に生ずるものであって、レーニンと無縁のものではあり得ない。党中央委員会を頂点とするヒエラルキー的党組織は、党が政権を担うようになればそれ自体が国家官僚制の類似物に転化することは必定であり、10月革命後のレーニン自身もそうした党官僚の頂点に立ったわけである。
 ただ、レーニンは党官僚制に対する防波堤を労働組合に求めようとしていた。彼は労組を長期的に見て「すべての労働者に国民経済を管理すること」を教える「共産主義の学校」ととらえ、実際ネップ期には労組の自立性が相対的に保障されていた。
 しかし、労組にそこまでの役割を期待するのは、マルクスが労組に賃労働制廃止、つまりは革命的な役割まで期待していたことと同様、過大な要請であった。まして党官僚制がすでに強固に形成されつつある中、労組も党の支配下に置かれてしまっている状況で、労組に対抗力を期待することはほぼ不可能であったと言ってよい。スターリンはそういう現実を、自らも古参の党官僚として十分に理解していたのである。
 党官僚制の問題とともに、スターリンのレーニンに対する裏切りと非難されてきたのが、有為の人材の大量喪失を招いた「大粛清」である。
 この点、今日ではレーニン時代にも前に述べたような「赤色テロ」による大量抑圧のあったことが明らかになっている。ただ、レーニンの「赤色テロ」は党外の反革命勢力に向けられたものであったのに対し、スターリンの「大粛清」はまさに粛清、つまりは党内の反対派(と彼が疑った者)に向けられた内部テロであった点に大きな違いがある。
 しかし、レーニン時代にもすでに帝政ロシア秘密警察のスパイであったことが発覚した党幹部マリノフスキーに対する粛清という一件があったし、「大粛清」で多用された秘密警察―当時は内務人民委員部(NKVD)と改称されていた―を動員した裁判なしの、または略式裁判による収容所送致や銃殺といった方法は、すでにレーニン時代の「赤色テロ」でも使われていた適正手続無視の手法をスターリンが学習し、いっそう拡大・応用したものにすぎなかった。
 それにしても、レーニン時代にはこれほど大がかりな内部粛清はあり得なかったと言われるかもしれない。現象的に言えばそうであるが、内部粛清の理論的な淵源がレーニンの「鉄の規律」という党組織論にあることは否めない。「鉄の規律」は党内の異論派への非寛容を生み出し、粛清的雰囲気を高めるのである。
 実際、「大粛清」の序曲となった1936年‐37年のいわゆる「見世物裁判」で真っ先に標的にされたのは、10月革命蜂起に反対してレーニンが一時除名を検討したカーメネフとジノヴィエフであった。彼らは当時海外に亡命していたトロツキーと結託して反ソ活動を行ったとする虚偽の自白をさせられ、銃殺されたのであるが、彼らの粛清は20年前のレーニンの意思に基づくと見ることもできる。もっとも、レーニンは彼らの党からの抹消を望んだだけで、地上からの抹消を望んだわけではなかったのであるが。
 ちなみに、この「見世物裁判」で粛清された今一人の古参幹部は、スターリンが対トロツキー闘争の過程で一時手を組んだこともあるブハーリンであったが、彼もレーニン最晩年にレーニンから弁証法に対する無理解を指摘され、後継候補から事実上外されていた。
 こうしてみると、スターリンはレーニンからも問題視されたことのある人物たちを彼なりの仕方で最終的に“始末”したのだとさえ言えるのである。
 ただ、スターリンの「大粛清」が途方もない広がりを見せたことは、彼の個人的な性格によるところも大きかったのは事実である。スターリンの性格の特異性は極端なまでの猜疑心の強さにあった。スターリンは他人の些細な態度や言動の中に不忠と裏切りの臭いを嗅ぎ取るのであった。おそらくそれは晩年のレーニンが指摘した粗暴さよりは、むしろ小心さの表れと見るべきものであろう。
 そうしたスターリンの小心さが当時ヨーロッパ方面におけるドイツ、極東における日本の脅威が高まり、第二次世界大戦の足音が迫る中、彼の猜疑心を病的なまでに増幅させていたのである。

flagレーニンとスターリン〈2〉
 政策的な面でスターリンがレーニンを裏切ったと言えなくないのは、ネップを早々と廃止して農業の全面的集団化に踏み切ったことである。
 しかし、ネップは元来、農民反乱を抑えるための慰撫策の側面が強かったうえ、レーニン存命中から農民の売り渋りによる食糧難という新たな問題を抱え込んでおり、とうてい持続可能な政策ではなかったのである。
 もっとも、そこから一挙に農業集団化へ飛躍したことで新たな農民反乱を招くこととなったが、元来ボリシェヴィキの農業綱領は土地の国有化を前提とするものであったし、スターリンの農業集団化政策の中で基礎的な単位集団と位置づけられた協同組合(コルホーズ)はレーニン最後の論文の中で提示されていた協同組合構想にも十分合致する制度であった。
 農業集団化に合わせてキャンペーンを打たれた「階級敵としての富農絶滅」は農民反乱を鎮圧するための公安政策であり、実際、集団化に抵抗する農民は「富農」の烙印を押されてシベリア送りや財産没収の対象とされた。このような抑圧もレーニン時代の食料割当徴発制の時に用いられた手法の応用にほかならなかった。
 他方、1928年度から始まった第一次五か年計画も、ネップ期の21年に設置されていたゴスプランの記念すべき初仕事であった。
 こうしてみると、ネップの廃止もその時期の問題はともかく、レーニンの遺志に反するようなものではなく、レーニン政権が存続していたとしても、いずれは実施されるはずのことだったのである。
 政治路線的な面では、スターリンが当初ソ連一国でも社会主義の建設が可能だとする一国社会主義から第二次世界大戦を経てソ連中心の帝国主義的膨張へ転回していったことも、レーニンからの逸脱として論議の的となってきた。
 しかし、一国社会主義もレーニンが第一次世界大戦中の1915年に書いた論文「ヨーロッパ合衆国のスローガンについて」の中ですでに提起していたことであった。彼はこの論文の中で、資本主義の不均等発展の法則を立て、そこから初めは少数または一つの国だけで社会主義を建設することも可能だと論じていたのである。
 しかし、図らずもドイツ革命が連鎖的に起きたため、レーニンもドイツ革命支援の目的を込めてコミンテルンの設立を急いだのであったが、臨機応変の無原則主義者であった彼はトロツキーのように世界革命なくしてソ連の社会主義建設は進まないとまでは考えていなかった。
 スターリンはレーニンの理論を教条化することができる程度にはレーニン理論を学習していたのであって、世界革命論で理論武装したトロツキーへの対抗上、レーニンの一国社会主義論を引っ張り出してきたのである。従って、これも決してスターリンがレーニン路線から逸脱したのではなく、レーニン路線の継承なのである。
 しかし、そこから新帝国主義へ転回していくのはさすがにレーニンとは無縁のように見える。ここにはスターリン政権初期の工業化の進展と第二次世界大戦を通じてソ連がアメリカのライバルとして急浮上していくというレーニンも予見できなかった新たな国際政治経済状況が関わっている。
 とはいえ、レーニンとボリシェヴィキを支援する各国政党の国際組織として始まり、実際レーニンの「テーゼ」を追認ばかりしていたコミンテルンは、すでにしてインターナショナリズムならぬインペリアリズムの芽となりかけていたのではないだろうか。
 最後に、本質的に実務者であったスターリンが苦手とした哲学的な基礎理論の面でも、彼は弁証法をひどく単純化して対立物の統一という原理に限局しようとしたとの批判がある。しかし、これについても、エンゲルスによる弁証法の図式化をいっそう進めて弁証法の核心を対立物の統一に見ようとしていたレーニンの未完の書『哲学ノート』をスターリンはやはり“学習”していたに違いない。
 以上の検討からして、スターリンはレーニンの背信者などではなく、実は案外忠実な相続人であったことが理解される。本来、スターリン主義とはレーニン‐スターリン主義と連記されてもよいものであったのである。
 そう理解することで、今日何かとソ連体制の元凶として非難されがちなスターリンの名誉回復ともなろうというものである。同時に、そう理解することで、レーニンをスターリンから切り離して讃美することもできなくなり、スターリンの暗部はレーニンの暗部と二重写しになってくるはずである。
 スターリンは特異な個人崇拝体制を築いたが、これも彼が神格化したレーニンの威を借りて初めて可能となったことであった。スターリンとはレーニンという死んだトラの威を借りたキツネにすぎなかったのである。

2013年5月26日 (日)

ワーグナーと政治

 今年はワーグナー生誕200年である。ワーグナーと言えば、ナチスによる政治利用の歴史から、「音楽と政治」という論点における定番メニューであるが、そろそろこの問題は“卒業”してもよい頃である。
 ワーグナーはたしかにその反ユダヤ主義傾向とゲルマン神話への傾倒から、ナチスに利用されてもやむを得ない性格はあったが、およそ創作家はその作品を死後に自らの意図を離れて政治利用されても、そのことに責任を負い得ない。ワーグナーもナチの犯罪に対する加担責任は負わないし、仮に彼がナチス時代まで生き永らえたとしても、ナチの積極的な支持者となったとは思えない(R・シュトラウスのように協力者となった可能性はあるが)。
 それはそれとしても、陶酔的なロマン派音楽の塊のようなワーグナーは好みでない。むしろ同時代の反ワーグナー派であったブラームスの側に立つ。オペラなら奇しくも同年生まれで、今年同じく生誕200年のヴェルディを推す。
 ロマン派音楽はナショナリズムと切っても切れないから、毒抜きが必要である。愛国者ブラームスは古典に立ち戻ることで、ヴェルディは愛国的な作風から多国籍で世俗的な作風に転回することによって、上手く自分自身の毒抜きをしている。
 ワーグナーはそうした毒抜きをしなかった。そのことが最悪の政治利用を許したのである。せめて演奏・演出家が解釈上毒抜きすれば、ユダヤ人国家イスラエルでの事実上の演奏禁止も解けるかもしれない。

2013年5月23日 (木)

天皇の誕生(連載第49回)

第十一章 持統女帝の役割

(4)複雑な歴史観

天智・天武崇拝
 『書紀』は持統天皇が自ら執筆に関わったものでないことは明らかだが、その基本線には持統自身の歴史観がまさに影のごとく投影されていると考えられる。
 その「持統史観」の核を成すのは、天智・天武両天皇の事績の絶対化である。天智は畏敬すべき父であり、父の実弟・天武は崇敬する夫であったから、これは当然であったろう。
 特に自身がその申し子と言うべき乙巳の変は全面的に正当化され、美化される。この考えを継承して『書紀』の編纂者らは「大化の改新」史観を作り上げた。すなわち「大化の改新」に、持統も寄与した大宝律令以降の律令体制の出発点としての位置づけを与え、まるで7世紀半ばから律令国家体制の整備が着々と進んでいたかのような潤色を加えたのである。
 そのうえに、乙巳の変の時分にはまだ若者にすぎず、政変でも蘇我入鹿大王暗殺実行部隊長役を果たしたにすぎない天智(中大兄)を政変とその後の「改新」の中心人物であるかのように描き出した。
 そして、天智天皇治下最大の失政であった筑紫遷都・百済救援失敗の責めを直接天皇に帰せしめないようにするため、天智天皇の即位を近江遷都後まで繰り下げ、即位前に持統の祖母・宝皇女が「斉明天皇」として即位したかのような作為を施した。
 この編年上の作為を加えたのが持統自身なのか、『書紀』の編纂者なのかは確定し難いが、筆者は持統存命中にそのような作為の基礎資料が形成されていたものと推定する。
 持統はこのように父・天智を美化する一方で、父が創設した近江朝廷には否定的で、これを武力で転覆した夫・天武の行動を正当化し、壬申の乱の詳細を天武有利の観点に立って記録した。
 『書紀』の壬申紀に反映されている大活劇的描写は、乱の間、夫と行動を共にした持統自身による証言がベースになっているとしか考えられないほどリアルである。彼女が壬申の乱の記録を何らかの形で残していたことは間違いないであろう。
 そして、天武天皇の治世を極めて詳細に記録し、夫・天武を父・天智の構想を継承し、律令国家の基礎を築いた偉大な君主として描き出すのである。この天武崇拝は、まさに天武の子・舎人親王が責任編集した『書紀』はもちろん、『記』の太安万侶序文においても共通するモチーフとなっているものである。

蘇我氏の名誉回復
 生い立ちのところで、持統天皇は母方の祖父に当たる蘇我倉山田石川麻呂が父・天智もそれに責任を負う冤罪事件で自殺に追い込まれたことを苦にして狂死した生母への追慕の情から、秘かに蘇我氏への肯定的な感情を抱いていた可能性を指摘した。
 そのため、蘇我王朝を打倒した乙巳の変を正当化する一方で、蘇我氏の名誉回復をも図ったのである。しかし、彼女自身もその系統に属する君主であった後昆支朝にとって、簒奪者蘇我氏の直接的な名誉回復は許されないタブーであった。そこで、間接的な形で蘇我氏の名誉回復を図るために生み出されたのが「聖徳太子」であった。
 「聖徳太子」の正体は、前述したように蘇我馬子大王の長子・善徳であった。そうだとすると、蘇我王朝の象徴である善徳太子をそのまま聖人化して崇拝の対象とすることは先のタブーに触れる。そこで、善徳を用明天皇の子として皇統に編入したうえ、蘇我本宗家からは分離して聖人化するという作為を加えたのである。このことによって、とりわけ馬子大王時代の事績の多くを「聖徳太子」のそれに振り替え、もって間接的に蘇我氏の名誉回復を実現し得たわけである。
 この作為が確実に持統主導で行われたと推定できるのは、「聖徳太子」の伝承と信仰の発生時期が、天武・持統時代であったからである。しかも、天武は蘇我氏の血が薄い(母方の高祖母は蘇我稲目の娘・堅塩姫)昆支朝正統王家の系統であったから、蘇我氏の名誉回復に格別の関心を持つ理由に乏しく、「聖徳太子信仰」を広めた張本人は持統以外に考えにくいからである。
 実際、皇后時代の彼女は、天智天皇時代に火災で焼失したと記録される善徳ゆかりの法隆寺の再建を指揮し(完成は8世紀初頭)、ここを「聖徳太子信仰」のメッカとして整備しようとしたのである。同時に『上宮記』など「聖徳太子」の伝記類の編纂や、金堂薬師如来像光背銘などの金石文の造作も主導したと考えられる。
 この「聖徳太子プロジェクト」は大当たりし、強固な「聖徳太子」伝承と信仰が確立されていく。これが『書紀』で総括されて、「聖徳太子」は実質上日本の守護聖人のような存在となった。そして時代下って昭和の時代には一万円紙幣の“顔”として刷り込まれ、人々の財布の中にまで鎮座したのであった。

朝鮮蕃国史観
 「持統史観」としてもう一つ特筆すべきは、朝鮮を蕃国視し、古来日本に従属・貢納する国として見下す史観(朝鮮蕃国史観)である。
 このような史観は、父・天智天皇が百済滅亡による王朝ルーツ喪失を受けて近江で始めた新生「日本」の国作りを天武・持統が継承していく中、支配層内部で徐々に形成されていったと考えられるが、さしあたりは朝鮮半島の統一国家となった新羅との関わりで形成されたものと見られる。そのことを示唆する持統天皇自身の言葉がある。
 それは即位前の称制時代、持統3年5月のこと、天武天皇の死去に際して派遣されてきた新羅の弔使の階級が低く、前例に異なることを非難し、贈答品などを封印・返却する報復措置を取った際、新羅側の説明を引用する形で「我が国は日本の遠い皇祖の時代より、何艘もの舟を連ねてお仕えする国です」云々と述べている箇所である。
 新羅自身がこのように説明していたという言い方は巧妙であるが、これは持統自身の朝鮮蕃国史観の表現でもあるのである。彼女はこのような史観に立ちつつ、「神功皇后」の三韓征伐譚を造作し、新羅に限らず、自らの遠いルーツである百済や加耶(任那)をも含めた朝鮮全体が古来日本に従属していたかのような史観を発展させた。
 『書紀』はこの史観をさらに整備し、「任那経営」などのより具体的な朝鮮支配の構図を構築し、朝鮮各国からの使臣がもたらす儀礼的な贈答品を「調」と律令的な貢納の表現で記述するのである。
 一方、記紀は昆支朝の百済ルーツを隠したうえで、王朝開祖の元百済王子・昆支大王を誉田別=応神天皇に変換し、昆支朝以前の加耶系王朝―加耶ルーツも天孫降臨神話の中に隠した―と接合させ、皇祖神・天照大神以来、神代から神勅に基づき連綿として継承されてきた日本独自の統一王朝の歴史を創造してみせたのであった。
 このような統一王朝史観は、記紀の編纂過程―とりわけ先行して完成したと言われる『記』のそれ―を通じて最終的に整理・体系化されたものと見られるが、次節で改めて述べるように、皇祖神たる女神・天照大神を起点とする日本独自の皇統というコンセプト―それは、朝鮮蕃国史観に基づき昆支朝の百済ルーツを歴史から抹消することと対をなす―自体は、持統が主導して提起したものと考えられるのである。

2013年5月22日 (水)

天皇の誕生(連載第48回)

第十一章 持統女帝の役割

(3)歴史‐神話の創造

天皇中心の国史
 持統天皇が夫・天武天皇から継承し、仕上げを試みた重要な事業に国史の編纂がある。天武はすでに治世10年の節目に当たり、帝紀及び上古の諸事の記録の校定を命じ、天智天皇の子・川島皇子を責任者とする作業チームを任命していた。
 これは、『記』の序文によると「帝紀と本辞は邦家の経緯であり、王化の鴻基である」との天武の考えから、各氏族に伝わる『帝紀』(歴代天皇の記録)と『本辞』(上古の諸事の記録)の内容がまちまちで、真偽入り乱れているのを統一整理したうえ、抜群の記憶力を持ったという舎人・稗田阿礼に暗誦させるという手法で行われた国史編纂プロジェクトであった。
 要するに、天皇至上制を確立するためのイデオロギー補完装置として天皇中心の国史の創造が要請されていたのであり、同時にその60年ほど前に蘇我馬子大王が企てたように、簒奪者が王権の正統性を粉飾するために行う歴史の書き換え作業という意味をも持っていたのである。
 すでに文字記録が普及し始めていたにもかかわらず、文書化せずに一人の舎人に記憶・口誦させるという古典的な手法が採られたことも、体制にとって都合の良い内容を天皇の近習であった舎人に誦み習わせることで歴史を検証不能な伝承と化してしまおうとする狙いがあったと考えられる。
 『記』序文によれば、この作業は天武の死によって中断し、平城京遷都後の和銅4年(711年)になって、時の元明天皇が帝紀と旧辞(本辞)の入り乱れているのを正そうとの考えから、改めて太安万侶に稗田阿礼が誦む天武勅命の帝紀と旧辞を撰録・献上せよとの命令を下した結果、編纂されたのが『記』であるという。この説明によれば国史編纂作業は天武の死後、25年近くも中断していたことになる。
 しかし、それは疑わしい。天武存命中は予備的な史料整理にとどまっていたと思われるが、本格的な編纂は持統天皇が継承していたと考えられるからである。そのことを示す記事として、持統5年8月条に、有力18氏にその先祖の墓記の上進を命じたとあることが注目される。
 ここに挙げられている18氏はいずれも古くから大王・天皇に奉仕してきた由緒ある中央豪族であり、各々の先祖の事績を記す家伝の提出を求めたのは、皇室に伝わる文書・旧伝の内容を補完する史料としてこれらの家伝が必要となったためと見られる。
 もう一つは、これに先立つ持統3年6月条に、天智天皇の子・施基皇子を責任者とする撰善宮司[よきことえらぶつかさ]、すなわち良い説話を撰録する作業チームを新たに任命したとの記事がある。
 これは単なる説話集作りではなく、国史に説話的要素を盛り込み、歴史物語(ヒストリー)としての性格を高めるために持統の発案で新たに開始された作業であって、国史編纂の一環としての位置づけを持つ追加プロジェクトであったと考えられるのである。
 こうした記事から推すと、『記』に直接の言及はないものの、国史の編纂は持統天皇の下でも鋭意進行していたものと理解されるのである。

国定神話
 持統天皇が新たに開始したもう一つの一つのプロジェクトは神話の創造である。前述したように、天武天皇の時代には天皇を神の化身と見立てる天皇=現御神というテーゼが確立されたが、この定式に歴史的な基礎付けを与えるためには神話を歴史の序章として構成し、天皇を神の子孫として提示する必要がある。
 そのようにして朝廷主導で編集されてできたのが日本神話なのである。そうであればこそ、記紀という史書も「神代」から説き起こされているわけである。
 この点が日本神話の大きな特徴であり、それは何よりも世紀末の朝廷が校定した国定の神話であり、単なる民間伝承的な神話とは全く異なるものである。しかも、それは一般的な古代多神教の世界とも異なり、皇室の祖として天皇権力に正統性を付与する「皇祖神」を主役とした一神中心的な政治的神話の体系なのである。日本神話がしばしば対比されるギリシャ神話と決定的に異なるのはこうした点においてである。
 おそらく神話の国定化を日本の朝廷ほど徹底的に行った体制は世界に例がないのではなかろうか。そして、その国定神話の創造を指導したのが他でもない持統女帝であった。そのことを示す根拠として、従来ほとんど注目されていなかった『紀』の持統3年8月条に見える次の一節がある。

「百官、神祇官に会集りて、天神地祇の事を奉宣る。」

 これは持統が招集した宗教会議と呼ぶべき大会議で、おそらくここで朝廷主導の国定神話の内容が討議されたに違いない。このような会議は公式には一度しか記録されていないが、非公式な形では持統天皇時代を通じて複数回開催された可能性もある。
 ちなみに、持統天皇の二つの和風諡号のうちの一つ、「高天原広野姫天皇(たかまのはらひろのひめのすめらみこと)」に日本神話における天つ神の住まう世界を意味するキーワード「高天原」が冠されているという事実に、持統天皇と日本神話との緊密な結びつきが暗示されている。こう言ってよければ、「高天原」を創造したのは政治家持統なのであった。

持統へのオマージュ
 以上のような歴史及びそれと分かち難く結び合った神話―歴史‐神話―の創造は、持統天皇が孫の軽皇子に皇位を譲って太上天皇(上皇)に退いた後も鋭意継続されていたと言ってよいであろう。
 確証はないが、稗田阿礼に口伝させる基本的な作業は持統の時代にほぼ完了していたのではないかと思われる。その後、8世紀に入って平城京遷都後の奈良朝が時代の節目に当たり、稗田阿礼が口誦した記録の書籍化を企画する中で『古事記』と『日本書紀』(正式には『日本紀』)の二書が誕生する。
 このうち前者の『紀』は編者の太安万侶の序文によって時の元明天皇の命令で編纂されたことが明確に示されている。元明天皇は持統天皇の父方の異母妹かつ従妹にして息子の草壁皇子妃でもあった人で、持統とは何重にもゆかりの深い人であったから、元明が『記』の撰録を発案した背景に持統への敬意があったとしてもおかしくはない。
 一方、『書紀』のほうは序文も付されていないことから成立の経緯がよくわかっていないが、完成したのは元明天皇の後を継いた娘の元正天皇代の養老4年(720年)のことであった。元正天皇は草壁皇子の遺子で、持統の孫娘に当たり、持統直系の女帝であった。しかも、『書紀』の編纂総裁を務めた舎人親王は天武天皇の子で、持統の甥にも当たり(異母妹の子)、持統9年に天皇から浄広弐に叙せられた縁がある。
 このようにして、記紀はいずれも奈良朝時代に持統と縁の深い天皇・皇族の手によって公刊された史書であり、天武色以上に持統色の方が強い、持統天皇へのオマージュと言ってもよい性格を伴っている。
 この点、稗田阿礼口伝の言わば縮刷版である『記』の安万侶序文では天武天皇によって国史編纂が開始されたという経緯が強調され、持統への言及は見られないが、8世紀前葉の奈良朝から見て「現代史」に相当する叙述を含む『書紀』が持統紀をもって最後を飾っているのは、それ自体が持統への献呈としての意味を持つものとも言える。なぜなら、平城京遷都前までを「現代史」ととらえるならば、持統の次の文武天皇時代を叙述する文武紀で最後を飾ってもよかったからである。
 持統紀の人物紹介で(架空や分身像を含めた)『書紀』収録の歴代天皇の中でも最大級の賛辞を贈り、「深沈にして大度」「礼を好み節倹」「母儀の徳あり」などと礼賛していることも、そうした持統へのオマージュの裏づけとなる。

2013年5月18日 (土)

老子超解:第二十七章 無為・無事・無味

二十七 無為・無事・無味

無為を為し、無事で事に当たり、無味を味わう。
小なるものを大なるものとし、少なるものを多なるものとし、怨みには(包容の)徳で報いる。
難事は容易なうちにとりはからい、大事は小事のうちに対処する。世の難事は必ず容易なことから起こり、世の大事は必ず小事から起こるものだ。こういうわけで理想の人は決して大きなことをしないからこそ、大成するのである。
そもそも安請け合いは決まって信義が少なく、安易な振る舞いが多いと決まって困難も多いものだ。こういうわけで理想の人すらなお(何事も)困難と受け止めるからこそ、ついに困難はなくなるのである。


 
「無為」は老子実践哲学上最重要のキータームであり、それは通常語義の「怠惰」とは全く異なり、ことさらな行為をしないこと―能動的非行為―を意味している。通行本で第六十三章に相当する本章は、そうした老子独自の無為の意義を平易な処世訓と絡めながら説いている。
 冒頭第一段では無為と並べて無事[むじ]、無味という類語も提示されるが、いずれも無為の派生語であって、無為による物事への対処法が無事であり、無為による事物の把握法が無味である。無為が単なる怠惰を意味しないように、無事とは単に無難なことではなく、ことさらな事を起こさないことを意味し、無味も単に味気ないことではなく、ことさらに感覚器官を働かそうとしないことを意味しているのである。結局のところ、これらは道の行為的側面を言い表したものにほかならない。
 第二段以下は、無為の現実生活への適用を示したものであり、老子の意外なリアリストぶりがみてとれるところでもある。その要諦は、ことさらに大事を成そうとせず、小事でも安易に扱わず、難事として用心深く対処せよ、ということにある。このような消極主義の処世はかえって大成や困難の克服をもたらす逆説的な効用を持つというのである。
 こうして非日常的な無為の概念から日常的にも十分実践可能な処世訓が抽出されるところに老子哲学の妙味があると言えよう。

2013年5月15日 (水)

マルクス/レーニン小伝(連載第32回)

第2部 ウラジーミル・レーニン

第5章 死と神格化

ロシアの労働者と農民がヴェ・イ・レーニン率いる共産党の指導の下に成し遂げた10月社会主義大革命は、資本家と地主の権力を打倒し、抑圧の鉄鎖を打ち砕き、プロレタリアートの独裁を確立し、新しい型の国家にして革命の成果の防衛及び社会主義と共産主義の建設の基本的な手段であるソヴィエト国家を作り出した。資本主義から社会主義への人類の世界史的転換が始まった。
―ソヴィエト社会主義共和国連邦憲法前文第一段

(1)レーニンの死

flag早かった死期
 レーニンは大規模な内戦・干渉戦がようやく終息に向かった1920年に50歳を迎えた。まだ老いる年齢ではなかったが、体制の基盤が固まるのに反比例してレーニンの健康は衰えていく。
 彼は22年4月、18年の暗殺未遂事件の際の銃撃で肩に打ち込まれた銃弾の摘出手術を受けたが、その直後の5月と12月に二度にわたって脳梗塞と見られる発作を起こした。
 その年末にはかの「グルジア問題」をめぐってスターリンと対立し、「レーニンの遺言」として知られる最後の論説の中で、スターリンの性格を「粗暴」と評し、党書記長からの解任を検討するが、実現しなかった。
 スターリンとの対立は翌年もう一度発生する。今度は病状が悪化したレーニンを政治活動から遠ざけ、党中央で治療管理する方針を決めたスターリンがクループスカヤ夫人に対しレーニンに政治活動をさせないよう求めたことを妻への暴言と受け止めたレーニンが激怒し、スターリンに謝罪か絶交かを迫ったのだ。
 レーニンの病状を考えると、彼の態度は過剰反応とも言えるものであったが、このエピソードにはレーニン夫妻の一心同体的な絆の深さが表れている。レーニンが壮健だった頃の二人は苦難に直面すると、散歩や山歩きをして支え合うような間柄であった。そこにはマルクス夫妻とも似た関係が見られた。
 それだけにレーニンは自分を遠ざけようとするスターリンの政治的な野心を嗅ぎ取った以上に、妻に対するスターリンのそんざいな物言いを自らに対する侮辱と受け止めたものと見られる。
 この一件の後、23年3月、レーニンは三度目の発作を起こしてついに言語機能を喪失し、事実上政治生命を絶たれた。これは病状が一時的でも回復するようなことがあれば解任が現実のものとなったかもしれないスターリンにとっては幸いなことであった。
 翌24年1月に四度目の発作を起こして意識を失ったレーニンは同月21日、息を引き取った。53歳での死はマルクスよりも10歳以上若かったが、その後の扱いはマルクスと雲泥の差があった。
 レーニンの葬儀は荘重を国葬をもって執り行われたうえ、党政治局の決定により遺体は永久保存措置を施され、特別に建設されたレーニン廟に納められ、今日に至るまで一般公開されている。
 旧都ペテルブルクはソ連邦解体後にほぼ旧名のサンクト・ペテルブルクに戻されるまで、レーニンにちなむレニングラードと改称されていた。彼の郷里シンビルスクもレーニンの本姓ウリヤーノフにちなむウリヤーノフスクと改称され、こちらは現在でもそのままである。

(2)忠実な相続人スターリン

flagレーニン神格化政策
 レーニンの死後、彼に対してソ連当局がとった態度は神格化と呼ぶにふさわしいものであった。そして、このようなレーニン神格化政策を主導したのが他でもないスターリンだったのである。
 彼は死の直前期のレーニンと不和になり、個人的な性格を論文の中でなじられるという屈辱を受け、内心レーニンへの反感が募っていたはずであるが、間もなく始まるであろう後継者争いに打ち勝つため、さしあたりレーニンを神格化して自らレーニンに最も忠実な弟子であることの証しを立てなければならなかった。
 生前のレーニンは明確な後継指名をしていなかったが、病床で筆記させた最後の論文の一つで、トロツキーとスターリンの名を挙げ両人の協力を要請していたことから、この二人に的を絞っていたことは間違いない。
 しかし、死の直前のレーニンがスターリンと激しく対立したことからすると、トロツキー株が上がっていたように見えた。もっとも、トロツキーの弱点は元来メンシェヴィキであり、ボリシェヴィキに正式に加入したのは、第二次革命の時にすぎないという点にあった。
 そこで、スターリンがトロツキーとの違いを際立たせる道は故レーニンへの絶対的忠誠と帰依を見せつけることであった。そこで彼はレーニンの遺体の保存措置に関する党政治局決定を主導し、レーニン廟の建設を推進した。そして、いち早く「レーニン主義の基礎」という論文を発表してレーニン思想の教条化にも着手した。
 こうしたレーニン神格化政策の効果は大きく、もともとレーニンに対する忠誠心に疑問符がつきまとうトロツキーとの後継争いで優位に立つことに成功した。そのうえで彼はかつて10月革命時に軍事蜂起に反対してレーニンの不興を買ったカーメネフとジノヴィエフを味方につけてトロツキーを少数派に落としておいて、27年の党大会ではトロツキーとともに当時コミンテルン議長の座にあったジノヴィエフも追い落として権力基盤を固めたのである。

2013年5月12日 (日)

老子超解:第二十六章 道の利益

二十六 道の利益

道なるものは万物の深奥である。善き人の宝である。(同時に)善からぬ人がそれによって救われるものでもある。虚飾の言葉でさえ世の尊敬を買い、虚飾の行為でさえ栄進を可能にする。ならば、善からぬ人だからといって、どうして見捨てることがあろうか。
だから、天子を立て、三公を任ずる際に、両手で抱えるような大きな玉を四頭立て馬車の前に捧げることがあるが、(そんな飾り立てた儀礼を尽くすよりも)座って道を進言するに限る。
遠い昔の人たちがかの道を尊重したわけは何か。それによって求めるものが得られ、罪あっても免れると言われていないか。だから(道は)世界で最も貴重なものなのだ。

 
 
いったいとやらを実践することに何かご利益はあるのか━。功利主義者が発するであろうそうした問いに答えようとするのが、通行本第六十二章に当たる本章である。
 これに対する老子の答えは意外にも、浄福と免罪である。第二段はそうしたのご利益に絡めた儒教の「礼」に対するあてこすりである。
 天子や三公といった為政者の中にはしばしば善からぬ人間が含まれているが、そんな人間でもを実践すれば救われるのであるから、かれらにも虚飾的な「礼」より「」について教えてやったほうがよくないか、という功利主義を逆手に取った反論である。

 このような善人/悪人を問わない無差別・平等の浄福・免罪というモチーフはあたかもキリスト教における「神の愛」(アガペー)を想させる。
 しかし、前にも見たように、老子の思想は本質的に世俗思想であるから、老子のは神格を持たない。の無差別の浄福・免罪効果は、神の愛のような超越的なものに由来するのでなく、の根源性とそこから導かれる善/悪二分論を超えた「万物相同」の思想(第十一章参照)に由来するのである。

2013年5月10日 (金)

天皇の誕生(連載第47回)

第十一章 持統女帝の役割

持統天皇は、一般的に夫・天武天皇の遺志を継いで律令制を完成させた“中継ぎ”の天皇と脇役的にとらえられているが、彼女の果たした役割はその程度のことにとどまるものであったか。

(1)生い立ち

「乙巳の変」の申し子
 正史上の第41代持統天皇は後に天智天皇となる中大兄皇子と、乙巳の変の後「改新」政権(孝徳政権)で最初の右大臣となる蘇我倉山田石川麻呂の娘・遠智娘[おちのいらつめ]の間の二女(別伝では三女)として誕生したが、こうした彼女の出生自体が、乙巳の変と不可分に関わっている。
 遠智娘は乙巳の変の直前に蘇我王家傍流の石川麻呂を味方に引き込んで蘇我朝を分断するという中臣(藤原)鎌足の計略で中大兄に嫁がされることになっていた姉が一族の者(石川麻呂の弟・日向)に犯されるという不祥事が起きたため、衝撃で放心状態の父を救おうと、自ら志願して姉の代役で中大兄に嫁いだ経緯があった。
 そうだとすると、645年生まれとされる正史上の持統の生年は、このエピソードと整合しないところがある。天智紀によると、彼女は天智と遠智娘との間の第二子または第三子とされるため、その生年は乙巳の変のあった645年よりも後のはずである。
 いずれにせよ、母の遠智娘はその父・石川麻呂が弟の日向に仕組まれた冤罪で自殺に追い込まれたばかりか、その遺体をさらに斬られるという陵辱を加えられたことを気に病み、狂死してしまう。こうして、持統は幼くして生母を喪った。
 しかも、この件には父の天智が中心的に関わっていたことから、持統は後々まで父に対する複雑な感情を抱いていたものと思われる。一方で、母を介して蘇我馬子大王の四世孫にも当たることから、母への追慕の情とともに、蘇我氏に対して秘かに肯定的な感情を抱いていたとしても不思議はない。
 こうした微妙な生い立ちは、持統の歴史観や政策にも影響を及ぼさないわけにはいかなかったであろう。ただ、その微妙さは『書紀』の人物紹介に「落ち着きある広い度量の人柄」と記される性格の中に慎重にしまい込まれていた。

河内育ち
 持統の諱の「鸕野讚良」は河内国讚良郡鸕野里[さららのこおりうののさと]にちなんでいるが、この「讚良郡」は百済の海南県紗羅郡に由来すると言われ、実際この近辺は5世紀後葉以降、百済系渡来人の集住地域となっていた。
 天武天皇時代に連の姓を賜った地方豪族の中に娑羅羅馬飼造[さららのうまかいのみやっこ]、菟野馬飼造[うののうまかいのみやっこ]など馬の飼育に関わる氏族名が確認できるが、これらも王朝開祖・昆支大王の支持基盤であった河内閥に遡る可能性のある百済系豪族と見られる。
 持統の諱がこの讚良郡鸕野里にちなむということは、彼女が幼年時代、この地で養育されていた可能性を示している。おそらく皇族の傅育を担当する百済系氏族のもとに預けられていたものであろう。ともあれ、持統の諱は、昆支朝の百済ルーツをよく示しているものと言える。
 持統は夫・天武を輔弼した皇后時代から天皇、譲位して太上天皇(上皇)となった後の事績から推すと、政治・行政に関する相当の識見を有しており、古代の女子としては異例の高等教育を授けられていたと思われる。
 その理由はよくわからないが、皇后との間に子がなく、男子にあまり恵まれなかった父・天智が側室の妃の中では最も身分の高かった遠智娘との間に生まれた鸕野讚良皇女に期待をかけ、女子ながら男子並みの知識教育を受けさせたということも考えられないことはない。
 いずれにせよ、彼女は天智の数多くいた娘たちの中でも突出して知的に育てられ、やがてその知力を武器にして政界でも頭角を現すようになるのである。

(2)権力への道のり

叔父との政略婚
 持統天皇となる鸕野讚良皇女が政界へ足を踏み入れるきっかけは、叔父に当たる大海人皇子の妃となったことであった。それは657年のこととされるから、正史上の出生年で計算しても数えでわずか13歳、実際にはもっと幼年であった可能性が高い。要するに許婚の形での幼年政略婚であり、天智が弟の大海人に嫁がせた四人の娘の一人であった。
 その後、彼女は661年の筑紫遷都にも夫とともに同行し、翌年にはその地で二人の間の一粒種となる草壁皇子を出産している。十代での第一子出産であったにもかかわらず、以後二人の間には子が生まれなかったことが医学的な理由によるものでないとすれば、二人の関係は次第に夫婦というより政治的な同志のようなものに変容していったものと考えられる。
 そうした政治的同志としての活動の最初は、輿に乗って夫とともにに東国入りし、『書紀』に「兵に命じて味方を集め、天皇(大海人)とともに戦略を練った。死を恐れぬ勇者数万に命じて、各所の要害を固めた」と記された壬申の乱の時であった。
 もっとも、鸕野讚良がまるで大海人陣営の参謀長でもあったかのように記されるのは『書紀』の誇張であろう。壬申紀にも見えるように、乱で実際に大海人側の参謀長役を務めていたのは、大海人の一番年長の息子で鸕野讚良にとっては義理の息子である高市皇子であったと考えられるからである。
 もっとも、乱に際し夫と行動をともにしていた鸕野讚良も必要に応じて戦略上の助言をしていた可能性はあり、政治的助言者としての彼女の地位は夫の天皇即位前から確立されていたものと見てよいだろう。
 このように、鸕野讚良は幼年政略婚で大海人の妃となりながら、ただの「出産機械」で終わることなく、夫の同志・助言者として次第に自らも権力への道を意識的に歩むようになっていくのである。

皇后時代
 壬申の乱に勝利を収めた夫・大海人が天皇に即位すると、鸕野讚良は皇后となる。実は大海人には実姉の大田皇女も嫁いでいたが、早世していたため、皇后の座は妹の鸕野讚良に回ってきたのであった。
 皇后時代の彼女は、前章でも見たように、天武天皇の皇親政治の中では実質的な太政大臣格として天皇の輔弼の任に当たり、重要な政策決定のほとんどすべてに関わったことは確実である。
 実際のところ、晩年になるにつれて怠惰な遊興人と化し、健康も悪化していった天武に代わってますます皇后の政治的な比重は高まり、天武の病気がいよいよ重くなった686年7月には天皇の勅命により、皇太子・草壁皇子とともに事実上の摂政として国政の権限を委任された。
 同年9月に天武が死去すると、皇后称制体制を敷き、政権を掌握する。その直後に、甥(大田皇女の子)で義理の息子でもある大津皇子の謀反が発覚すると、事件処理を指揮し、大津を処刑、他の共犯者らを流刑に処する迅速な処断で政情を安定させた。
 この大津皇子の「謀反」については、『書紀』ですら「威儀備わり、言語明朗」「有能で才覚に富み、文筆を愛した」と簡潔ながら最大級の賛辞を寄せる大津を実子・草壁の潜在的なライバルとみなし、皇后が謀反の罪を着せて抹殺した冤罪とする見方もある。
 しかし、大津が単なるノンポリ文学青年でなかったことは、天武12年2月条に大津皇子が初めて参政したとの記事があることからわかる。また大津という近江にちなんだ名前や、祖父の天智天皇に愛されたという『書紀』の人物紹介からすると、大津皇子は内心では近江朝廷派で、秘かに近江朝廷復活を夢見ていた可能性はある。
 従って、大津皇子の謀反はどの程度具体的な計画であったかという点は別としても、真実であった可能性は高い。しかし、十分吟味せず、即決処刑する皇后のやり方は父・天智譲りなのであろう。
 この後、皇后称制は三年近くも続くが、すでに天武10年の節目に一人息子・草壁皇子が立太子していたのに、なぜ早期に皇太子を即位させなかったのかという点についても議論がある。
 自ら皇位に就く意図があったという説もあるが、立太子の制度が天武時代にはまだ法的に確立されていなかったため、草壁後継は必ずしも不動の既定路線とは言い難かったことや、草壁の年齢がまだ若かったことなどが現実的な理由であろう。また大津皇子の謀反事件も大きな波紋を呼び、称制期間を長引かせる要因となったかもしれない。

天皇即位
 ところが、689年4月、草壁皇子が死去してしまう。これにより、後継問題は一挙に流動化する。存命中の天武の皇子の中で最有力の後継候補は、壬申の乱でも活躍し、天武皇親政治の中では皇后に次ぐ地位にあったと見られる高市皇子であったが、彼の生母は九州の地方豪族・胸形君の娘で、母の身分に難点があった。
 皇后が自らの即位を決心したのは、おそらく一人息子・草壁の死去後のことであったと思われる。彼女は、夫がやり残していた令の施行を前倒しし(飛鳥浄御原令)、即位の条件整備をしたうえで、690年正月に即位する。後昆支朝では初の単独統治女帝である。
 従来、男性優位の百済系昆支朝の慣習では、女性の単独即位には否定的であったはずなのに、7世紀末になって単独統治女帝が出現したのは、この時期に女性の地位が急上昇したためではなく、皇后が天武時代の実質的な宰相であった事実を誰もが認めざるを得なかったことに加え、彼女自身が天智天皇の娘でもあるという「血統」の確かさもプラスに作用したに違いない。
 より大きな背景として、百済滅亡により王朝ルーツを喪失して以来の「日本国」では、百済=扶余的な慣習からの脱却が進んでいたことと、また半島のライバル国家となった新羅では7世紀半ばに単独女王を輩出していたことも、単独女帝の出現に道を開き、以後8世紀の奈良朝にかけて複数の単独女帝を輩出する流れを作り出したと考えられる。
 天皇としての持統の統治スタイルは、夫の独裁的皇親政治を形式上は修正し、身内の高市皇子を太政大臣に、ベテラン官人の丹比嶋真人[たじひのしまのまひと]を右大臣に任命して補佐させる体制を採ったが、本質的には天武時代の独裁的統治スタイルを継承していた。
 そうした統治スタイルの点のみならず、政策面においても、持統が夫・天武の代にやり残された仕事を継承していたことは間違いない。とりわけ律令の制定、国史の編纂、都城の建設である。
 これらのプロジェクトを持統は「夫の遺志」をよりどころとして継承していたわけであるが、それは単に中継ぎ的なレベルでの継承ではなく、「大化の改新」以来、父・天武天皇が目指したような天皇至上制の完成へ向けた積極的な継承事業であったのである。

2013年5月 8日 (水)

世界歴史鳥瞰(連載第70回)

第8章 略

六 諸国の独立(続き)

(4)アフリカ諸国の独立
 ヨーロッパ列強の分割競争のアリーナにされたアフリカ大陸の独立の動きはアジア・中東に比べ出足が鈍かったが、1950年代以降徐々に進行していく。その先陣を切ったのは中東の延長とも言える北アフリカのアラブ系諸国であった。まず51年のリビアを皮切りに、56年にはチュニジア、モロッコ、さらに黒人系諸民族を南部に擁する北東部のスーダンも独立を果たした。
 例外はフランス領のアルジェリアであった。ここはフランス帝国主義にとっての原点でもあり、多くのフランス人入植者を抱えていたため、フランスの固執姿勢は強かった。それだけに現地民の独立運動も激しく、54年に民族解放戦線が結成され武装闘争に入る。これに対し、インドシナ戦争で敗退したばかりのフランスは巻き返しのため武力鎮圧を図るが、国際的批判を受けて孤立化し、62年に至ってついにアルジェリアの独立を承認したのである。
 一方、サハラ以南ブラックアフリカの独立はいっそう遅れるが、最初のきっかけは57年の英領黄金海岸すなわちガーナの独立であった。翌年には仏領西アフリカのギニアが続く。
 これによって西アフリカを中心に独立の波が高まり、60年には一部内陸・東アフリカを含む形で、モーリタニア、セネガル、コートジボワール、トーゴ、ベナン、ナイジェリア、ニジェール、オートヴォルタ(現ブルキナファソ)、マリ、カメルーン、ガボン、コンゴ共和国、コンゴ(現今度民主共和国)、中央アフリカ、チャド、ソマリア、マダガスカルの計17か国が独立し、「アフリカの年」と称された。
 これに続いて内陸・東アフリカでも独立の動きが高まり、一部西アフリカも含みつつ、61年にタンガニーカ(現タンザニア)、シエラレオネ、62年にウガンダ、ルワンダ、ブルンジ、63年にケニア、ザンジバル(64年タンザニアに統合)、64年にザンビア、マラウィ、65年にガンビア、66年にボツワナ、レソト、68年にスワジランド、赤道ギニアが各々独立した。さらに70年代には共に東アフリカの仏領コモロ諸島と沿岸のジブチもそれぞれ75年と77年に独立している。
 以上に対して、戦後もファシズム体制が存続したポルトガルとスペインの植民地の独立は両体制が終焉する前後の70年代中頃までずれ込む。
 特にポルトガルは植民地の解放闘争を軍事力で抑圧し、強い国際的非難を浴びていた。74年の軍事革命(リスボンの春)は、一つにはこうした守旧的植民地政策に疑問を抱いた軍部の左派系若手・中堅将校らがファシズム体制打倒に決起したものであった。革命の結果、ポルトガル植民地は革命直前の73年に先行独立したギニアビサウを別として、75年にモザンビーク、アンゴラ、さらに島嶼部のカーポヴェルデ、サントメ・プリンシペが一挙に独立した。
 一方、スペイン領ではモロッコ(南部)と赤道ギニアは先行的に独立し、最後まで残った西サハラでは76年に解放闘争組織ポリサリオ戦線が独立を宣言したが、隣国モロッコとモーリタニアが領有権を主張し合ったため、紛争となった。モーリタニアが領有を断念した後もモロッコが領有権を主張し続け、現在も決着はついていない。
 異例の経緯をたどったのは、南部の英領ローデシアであった。大英帝国時代の著名な植民地行政官セシル・ローズの名にちなむこの地域では65年、土着白人勢力が一方的に独立を宣言し、人種差別政策を敷いたが、本国はこれを認めず、経済制裁を科した。黒人勢力の解放闘争も激化した結果、80年に白人勢力は政権を放棄し、ジンバブウェとして正式に独立した。
 ここで南アフリカの状況についても触れておきたい。南アフリカは英国が先行のオランダ系白人入植者を植民地支配下に置くという特異な二重植民地であったが、この状況は1910年に白人勢力が英連邦内の自治領の地位を獲得し、34年には英連邦内に属する独立国家として承認されたことで、一応解消されていた。
 しかし、アフリカーナーを称するオランダ系土着白人は当初英国系白人より劣位に置かれていたところ、48年にアフリカーナーを主体とする白人極右政党・国民党(民族主義的政党であるため、「民族党」と訳すほうが適切であろう)による政権が成立すると、黒人参政権を認めないばかりでなく、黒人の土地所有や居住・移転まで厳しく制限し、白人と非白人の結婚や性行為さえ禁ずる徹底した人種隔離政策(アパルトヘイト)を施行した。国際的非難が高まると国民党政権は61年、英連邦を離脱して共和制へ移行し、事実上の一党支配を強化した。
 これに対して、黒人勢力は12年に結成されたアフリカ国民会議(ANC:「アフリカ民族会議」が定訳であるが、独立を目指す民族解放闘争組織とは性格を異にするので、適切とは思えない)の下に結集し、反アパルトヘイト闘争を強化した。ANCは国際社会が天然資源大国である南アへの厳重な制裁に踏み切れない中、40年以上に及ぶ闘争を続けた結果、91年、ついに国民党政権からアパルトヘイト撤廃を勝ち取った。
 その結果、初の全人種参加選挙を経て94年、ANC指導者で90年まで30年近く投獄されていたネルソン・マンデラが史上初の黒人系大統領に選出され、ここに白人体制は終焉したのである。
 この間、国際連盟時代の委任統治終了後も南アの国民党政権がかねて一方的に併合し、事実上植民地化していた北隣のナミビア(旧南西アフリカ)でも黒人勢力の解放闘争の結果、90年に独立を果たした。これをもってアフリカ大陸部の植民地はようやく消滅するのである。

(5)島嶼地域の独立と残存植民地
 大陸部を中心とした地域の独立に続いて、洋上の島嶼地域でも小国の独立の波が起きた。その先駆けをなしたのは、英国から独立した東地中海のキプロス(1960)であった。ただし、キプロスではギリシャ系住民とトルコ系住民の対立にギリシャ、トルコ両政府が直接介入する形でトルコ系の北部とギリシャ系の南部が分裂し、74年以来事実上の分断国家となっている。
 なお、ヨーロッパの島嶼部ではキプロスに続き、アラブ系とヨーロッパ系が混交した独特の言語を持つ同じ地中海上のマルタも1964年にやはり英国からの独立を果たした。
 一方、南太平洋諸島では62年のサモアを皮切りに68年にはナウル、70年にフィジー、トンガ、75年にパプアニューギニアが独立、さらに78年にはソロモン諸島、ツバル、79年にキリバス、80年にバヌアツと続いた。第一次世界大戦後ドイツ植民地を引き継いで日本の委任統治領となり、第二次世界大戦後は国連の信託統治領としてアメリカの施政下に置かれていた南洋諸島のうちミクロネシア連邦とマーシャル諸島は86年に、パラオも94年に独立した。
 またカリブ海地域では62年のジャマイカ、トリニダード・トバゴの独立に続き、66年にはバルバドス、73年にバハマ、74年にグレナダ、78年にドミニカ、79年にセントルシア、セントヴィンセント・グレナディーン、81年にアンティグア・バーブーダ、83年にセントクリストファー・ネイヴィスと、いずれも英国からの独立が続く。
 さらにインド洋でも65年のモルディブを皮切りに、68年にモーリシャス、76年にセイシェルの独立が続いた。
 しかし、これらの島嶼地域には米仏英蘭などの植民地が海外準州/県といった形態のものを含めて相当数残されており、大西洋地域にも英国やポルトガルの植民地がなお残されている。
 これら島嶼地域の残存植民地では経済的自立の困難さなどから一般に独立運動は低調であるとはいえ、米領グアム島のように本国の軍事基地が置かれたり、仏領ポリネシアのように長期間本国の核実験場として利用されるなどの負担を課せられてきたところもあり、帝国主義的植民地支配がなお完全に過去の歴史とはなっていないことを示しているのである。

2013年5月 7日 (火)

世界歴史鳥瞰(連載第69回)

第8章 略

六 諸国の独立

(1)アジア諸国の独立〈1〉
 第二次世界大戦後に確立された民族自決原則がまず適用されたのは、日本の植民地ないし占領地であった。
 そのうち中国はいち早い解放後、国連五大国の一つに名を連ね、順調な歩みを見せるかに思われたが、国共合作で抗日戦争を闘った国民党と共産党の対立が再燃し、1946年7月以後内戦に突入する。
 当初、国民党はアメリカの支援を受け優勢であったが、土地均分化政策で農民層の支持を得た共産党が内戦に勝利し、49年10月に中華人民共和国を樹立した(中国革命)。
 毛沢東率いるこの共産党中国は当初、「向ソ一辺倒」を掲げ、50年には中ソ友好同盟相互援助条約を結び、マルクス‐レーニン主義に基づくソ連型国家社会主義の道を歩み始める。
 一方、敗北して台湾へ逃れた蒋介石率いる国民党はここに中華民国政府を置いた。以後、国連では71年までこの台湾国民党政府が公式に中国を代表した。ただ、この蒋介石体制は、国民党の一党支配の下、蒋が終身間総統として独裁する一種の権威ファシズム体制と化し、孫文の理想とはかけ離れたものとなった。
 なお、英国の植民地であった香港とポルトガルの植民地であったマカオについては、ともに90年代まで返還が持ち越された。
 一方、冷戦下南北分断国家としてスタートさせられた朝鮮では、朝鮮戦争を経て分断が固定化された。そのうち南の韓国では親米の李承晩初代大統領が独裁化し、60年の学生革命で辞任・亡命に追い込まれる。これに対し、北の朝鮮では朝鮮労働党の一党支配下で当初はマルクス‐レーニン主義に基づくソ連型国家社会主義体制の建設が進められたが、次第に独自の「主体思想」に立脚する建国者・金日成の個人崇拝的独裁が強められていく。
 東南アジア方面では最も抗日運動が激しかったフィリピンがいち早く46年に独立した。ビルマは一時日本軍の支援の下に英国からの独立を図ったが、後に抗日に転じ、英国と交渉の末、48年に独立を果たした。
 同じく日本軍の支援の下オランダからの独立を図ったインドネシアは、日本降伏直後の45年8月に独立宣言を発したが、支配を回復したオランダの武力介入を招いた。しかしオランダは独立運動を抑え切れず、49年に独立を承認した。
 これに対して、インドネシアとも民族的・文化的に一体的なマレー半島の独立経緯はやや複雑であった。マレー半島は日本軍の占領支配から再び英国の支配下に戻った後、57年になってマラヤ連邦として英国から独立、その後シンガポールやボルネオ島北部を含めてマレーシア連邦が成立するが、マレー人優位の連邦に反発した中国系主体のシンガポールは65年に連邦から離脱して独立国となった。
 なお、石油収入確保のため連邦参加を拒否したボルネオ島北部のマレー系君主国ブルネイは英国の自治領を経て84年に至り独立した。
 独立の過程で深刻な動乱を生じたのが、仏領インドシナであった。まずベトナムでは日本占領下で抗日運動を指導したホー・チ・ミンを中心に45年9月、社会主義のベトナム民主共和国の樹立が宣言されると、ラオスとカンボジアでも独立の動きが起きた。
 これに対して植民地政策に固執するフランスは容赦せず、46年末から大規模な軍事行動に出たため、第一次インドシナ戦争が勃発した。10年に及ぶ戦争の末、フランスは事実上敗北し、54年にジュネーブ休戦協定が成立、フランスの撤退とラオス、カンボジアの独立などが決まった。
 ただ、ベトナムは北緯17度線で分断され、南には親米派のベトナム共和国(南ベトナム)が樹立された。アメリカと南ベトナムは協定で取り決められた南北統一選挙での敗北を恐れ、協定に調印しなかったことから、ソ連の支援を受ける北のベトナム民主共和国(北ベトナム)と分裂し、ベトナムも南北分断国家となった。
 この分断は後にベトナム戦争(第二次インドシナ戦争)の原因となり、同戦争で北ベトナムが事実上勝利し統一を達成するまで、今一つの冷戦の象徴となった。

(2)アジア諸国の独立〈2〉
 大英帝国の原点でもあったインドは47年に独立を果たした。これは長年の独立運動の結果であるとともに、英国自身のギブアップによるところも大きかった。大戦で疲弊した当時の英国にはもはやインド経営の余力は残されていなかったのだ。折から英本国では独立運動に理解のある労働党が本格政権を担っていたことも、独立を後押しした。
 しかし、この独立はヒンドゥー系インドとイスラーム系パキスタンとの分離を伴う独立であった。これは大英帝国が植民地支配下で多数派ヒンドゥー教徒と少数派イスラーム教徒の対立関係を利用しつつ少数派イスラーム教徒を優遇する分断政策を採ったことの結果にほかならなかった。両派の融和を説いた非暴力主義の独立運動指導者マハトマ・ガンジーが独立から間もなく暗殺されたのもそのためであった。
 印パ両国間では今日まで対立が絶えず、特にムスリム住民の多い北部カシミール地方の情勢をめぐり武力紛争が繰り返されてきた。パキスタンも独立当初はインドをはさんで東のベンガル語地方と西のウルドゥー語地域とが分断される変則的な飛び地国家であったことから、東西対立を生じ、71年に東パキスタンが独立を起こし、インドの支持を得て改めてバングラデシュとして独立した。
 インド、パキスタンに続き、48年にはセイロンも英国から独立し、72年にスリランカと改称した。この島国では多数派仏教徒シンハラ人(印欧語族系)の政権がシンハラ人優遇策に偏ると、英国統治下では優遇されていた少数派ヒンドゥー教徒タミル人(ドラヴィダ語族系)の分離独立運動が激化し、1983年以降長期の内戦に突入した。この凄惨な内戦は第三国による和平調停が実らないまま2009年、シンハラ系政府軍の勝利をもって終結した。
 なお、インドの北に位置するチベット系主体の小王国ブータンは法的には現王室が成立した1907年以降独立国でありながら、事実上は10年から49年まで英国の保護下にあった。49年以降はインドとの条約に基づき内政干渉を受けない形でその外交的庇護下に入ったが、2007年の条約改定の結果、より対等な関係に移行した。

(3)中東諸国の独立とイスラエルの建国
 前章でも見たように、旧オスマン帝国領の中東地域の中で第一次世界大戦後に英仏の委任統治領という形で両国の勢力圏に組み入れられていたシリア、レバノン、パレスチナ、トランスヨルダンのうち、レバノンは第二次世界大戦終結直前の1944年、シリアとヨルダンは直後の46年に相次いで独立した。
 その結果、元来歴史的にはすべてシリアとして一体であった地域の分割が固定化することとなった。特にフランスがシリアと切断したレバノンはアラブ諸国の中では例外的にキリスト教徒(マロン派)が優勢であるため、イスラーム教徒との宗派対立から75年以降内戦に突入し、これにシリアやイスラエルが介入し、事態をいっそう紛糾させた。
 しかし最大の問題は、英国の委任統治領パレスチナの扱いであった。この地域にはすでに第一次大戦後からパレスチナ帰還運動の結果、ユダヤ人の入植が始まり、ナチスによるユダヤ人迫害はその流れに拍車をかけていた。
 こうした状況を受けて47年、国連はパレスチナをユダヤ人国家とアラブ人国家とに分割し、エルサレムを国際管理下に置くという将来に禍根を残す折衷案を採択した。これに基づき48年、英国の委任統治終了と同時にユダヤ人は独立国家イスラエルの樹立を宣言した。
 これに強く反発したアラブ諸国は軍事行動を起こし、第一次中東戦争が勃発した。この戦争は翌年、国連の仲介で停戦が成立したが、結果的にイスラエルは分割前よりも領土を拡張する一方、推定で100万人近いパレスチナ人がイスラエルにより追放され、難民化した。
 以後、イスラエルは最大規模の在外ユダヤ人を擁するアメリカを後ろ盾としながら、中東随一の軍事大国にのし上がり、アラブ諸国を圧倒していく。特に67年の第三次中東戦争ではわずか6日間の電撃戦でエジプトのシナイ半島にまで至る最大規模の領土を獲得したうえ(シナイ半島は後に返還)、聖地エルサレムも占領した。
 これに対して、パレスチナ人の側も64年以来、パレスチナ解放機構(PLO)を結成し、当初は72年のミュンヘン五輪選手村襲撃事件に象徴されるような破壊戦術も辞さない反イスラエル闘争を展開したが、後に主流派はアラファト議長の指導の下、破壊戦術を放棄したため、強硬派が離脱するなど結束が乱れるようになった。
 比較的平穏裡に独立が進んだのは、英国の領有または保護下にあったアラビア半島方面であった。まず湾岸諸国では61年のクウェートを皮切りに、71年にはバーレーン、カタール、アラブ首長国連邦、オマーンが一挙に独立を果たした。
 やや複雑だったのは、紅海側のイエメンである。イエメンは16世紀以来オスマン帝国の版図に組み入れられていたが、南部の要港アデンを中心とする南イエメンは1839年以来英国の支配下にあった。
 こうした中、北イエメンはイエメン王国として18年にオスマン帝国から独立を果たす一方、南イエメンは解放闘争の末、67年にイエメン人民共和国(後に人民民主共和国)として独立し、アラビア半島では唯一の社会主義国としてソ連圏に組み込まれた。
 こうしてイエメンも南北分断国家となったが、冷戦終結後の90年、62年の革命以来共和国となっていた北イエメンに南イエメンが吸収される形で、統一が果たされた。しかし南北間の融合は容易に進まず、内紛が続いている。

2013年5月 5日 (日)

即興演奏について

 即興演奏は音楽の自由の最大限を表現する。作曲と演奏が不可分に融合している即興演奏は音楽家の楽才が最も発揮される領野だ。楽譜が絶対視されがちなクラシックの分野でも、バッハ、モーツァルト、ベートーベンなどかつての―特に古典派以前―大作曲家はみな即興演奏の名手でもあった。 
 しかし、次第に記譜法が高度に確立されていくにつれて楽譜による拘束が強くなり、今日では即興演奏はほぼ廃れている。協奏曲のカデンツァのような部分的な即興演奏は残されているが、それすら実際には楽譜が用意されている「名ばかり即興」がほとんどである。皮肉にも、「即興曲」というタイトルの立派な楽譜付き楽曲もある。 
 クラシックより自由度が高く、自作自演も珍しくないポピュラー音楽の世界でも即興演奏はまれで、かつて完全即興が隆盛したジャズの世界で細々と残されている程度である。
 ジャンルを問わず、音楽の歴史とは、自ら表現の自由を制約し、規則に縛られたコード芸術に変質していった歴史であるとも言える。なぜそうなったのか。おそらく即興演奏は商品化が難しいからであろう。
 即興では楽譜という形での知的財産化ができないことは当然として、即興演奏もレコーディングという形で複製されてしまえば、それはもはや厳密には「即興」ではなくなる、即興は一回的な生演奏でしか表現できない。
 元来は資本主義の外部にあった音楽という文化領域が商業主義=文化資本主義の中に組み込まれるようになり、音楽も資本主義的な「音楽市場」に出荷される規格的な消耗品の仲間入りを果たしたのだ。生演奏ですら予めプログラム化されたコンサートという形の無形商品となった。即興演奏の復権はポスト資本主義の未来のことだろう。

2013年5月 2日 (木)

マルクス/レーニン小伝(連載第31回)

第2部 ウラジーミル・レーニン

第4章 革命から権力へ

(5)最高権力者として

flag抑圧と収奪
 10月革命後の為政者としてのレーニンの統治期間は6年余りにすぎず、彼の履歴においては革命家としての活動期間が圧倒的に長いことから、従来為政者としてのレーニンの特質についてはあまり正面から検証されてこなかった。
 しかし、レーニンはまぎれもなく10月革命後のロシア及びソ連時代の最高権力者であった。そういう最高権力者としてのレーニンの特質として目を引くのは、抑圧と収奪に対するためらいのなさである。
 レーニン政権による抑圧は10月革命の直後から始まっている。前にも述べたように、10月革命の三日後に革命を強く批判する声明を出したプレハーノフは早速翌日ボリシェヴィキ系武装部隊の家宅捜索を受け、フィンランドへの亡命を余儀なくされた。メンシェヴィキの指導者マルトフは反ボリシェヴィキの活動を続けて秘密警察チェ・カーの追及を受けた。しかし、レーニンも若き日の友を逮捕・処刑することはさすがに気が引けたと見え、マルトフには人を介して亡命を勧めている。レーニンは今や敵となったかつての師や友まで亡命に追いやったのである。
 この点、カール・シュミットは政治的なるものの本質として、敵/味方の峻別という有名な定義を提出したが、革命運動の時代以来、為政者としても敵/味方の峻別に厳格であったレーニンは、まさにシュミット的な意味での政治的なものの実践者であり、このことも敵への報復という形で抑圧を導きやすかったと考えられる。
 こうしたレーニン政権の抑圧はかのエス・エルによるレーニン暗殺未遂事件の後に最高潮に達した。党は「赤色テロ」でもって報復することを宣言し、チェ・カーをフル動員してエス・エルに限らずおよそ反体制分子全般に対する大規模な抑圧に乗り出す。その基本は裁判なしの、または略式裁判による投獄・処刑であった。暗殺未遂後の「赤色テロ」だけでも1万ないし1万5千人が裁判なしに処刑されたと推定されている。
 ソ連時代末期以降の情報公開政策の中で次第にその実態が明るみに出され始めたこうした抑圧は内戦が本格化するとむしろ常態化して恐怖政治の手段となり、内戦が終息し社会が安定化しても、体制の体質として残されたのである。
 こうした点で、レーニンはマルクスよりもフランス革命時のジャコバン派指導者ロベスピエールの方に似ていたし、彼自身それを意識していた形跡もある。
 ここで、レーニンもロベスピエールも法曹(弁護士)であったのになぜかくも法を軽視することができたのかという疑念も浮かぶが、実のところ、彼らは法律家であったからこそ、法を軽視できたのである。
 彼らはともに「緊急は法を持たず」という法格言の忠実な実践者であった。国家権力は法に基づいて行使されなければならないという「法治」とは平時の原則であって、緊急時の国家は法を超越して行動することが許される━。これが上記格言の趣旨である。前皇帝一家に対する裁判なしの銃殺処分も赤色テロも、その観点からしてレーニンにとっては少しも良心のとがめるところではなかったのである。
 もう少し政治的な観点から眺めると、例外状況に関して決定を下す者をもって主権者と定義した前出カール・シュミット的な意味において、レーニンはまさに主権者=最高権力者だったのであり、彼の体制において人民は主権者ではなかったのである。
 レーニンは抑圧に加え、すでに言及した農村の食糧割当徴発制のような収奪もためらわなかった。ここでも農民が対抗手段として食糧隠匿に走ると、人民の敵たる「富農」との烙印が押され、抑圧の対象とされた。この政策は内戦前に導入されたものではあったが、内戦が本格すると「戦時共産主義」という例外状況の中で、いよいよ大っぴらに抵抗勢力に対するテロルを伴いつつ展開されていった。
 この間、レーニンの傍にあって、冷徹な彼の抑圧と収奪の手段を逐一“学習”していたのが、かのスターリンなのであった。

flag無原則主義
 政策決定者としてのレーニンを特徴づけるのは、その時々の情勢に応じて施策を使い分ける状況判断であった。
 この特徴は革命家時代には臨機応変な状況判断に基づき10月革命を成功させるうえで大きな力となったものであるが、為政者としてはまさに「一度握った権力は手放さない」と誓ったとおり、権力を保持するうえで極めて有効であった。
 このようなレーニンの状況判断は確固とした原則を持たない無原則主義の現れにほかならなかった。これは、一定の原則を持ちつつも状況によって動揺し、軸がぶれていく動揺分子的な立場とも、また状況に応じて自己の利益に適う立場を選択する日和見主義とも異なる、まさに「レーニン主義」独自の特質であった。
 こうした無原則主義も、個別具体的なケースごとに対処法を選択していく法律家的な発想と手法に由来するものと取れないことはない。それは善解すれば「柔軟」ということになろうが、民衆の生活に直結する基本的な経済政策があまりに「柔軟」に変動すると、社会的な混乱のもととなる。
 レーニン政権の経済政策は当初「戦時統制経済から社会主義へ」というテーゼに沿って「戦時共産主義」と称される統制経済からスタートするが、その結果、各種工場や銀行の急激な国有化のために経済が大混乱に陥ると、内戦・干渉戦終結後、今度は中小企業の私的営業の容認や独立採算制の導入まで含んだ「新経済政策(NEP)」に転換する。
 しかし、事実上資本主義の原理を容認し、社会主義に逆行するようなネップが党内で批判されると、レーニンはプロレタリア国家の統制と規制の下に置かれた「国家資本主義」なるマルクスにはない新概念を持ち出して正当化を図った。
 一方では社会主義とも辻褄を合わせるため、ネップへの政策転換と同時に経済計画の立案・実施機関となる国家計画委員会(ゴスプラン)をも設立した。さらに、まだネップ期にあった死の直前の頃にまとめて書いた五論文の一つでは、社会主義をもって「文明化された協同組合員の体制」とするユートピア的定義を提出し、完全な協同組合化を文化革命と呼んで、後世に託してもいる。
 こうしたレーニン流無原則主義は経済問題のみならず、民族問題や宗教問題といったよリデリケートな領域でも発揮されている。
 特に民族問題に関わる彼の無原則主義が大きな政争に発展したのは、ソ連邦結成に際して生じた「グルジア問題」であった。グルジアのソ連邦への参加方法をめぐっては、独立してソ連邦に参加することを主張する民族派と、「自治共和国」という形式で参加することを主張するスターリンらロシア寄りグループの対立があったが、レーニンはそのどちらも支持せず、カフカス地域を包括するザカフカス共和国に編入して参加させる方式を提案し、党に認めさせたのである。
 彼はスターリン案を「大ロシア主義」と批判しながら、自らの案もグルジア人の民族自決を認めず、ロシア中心の連邦構成を目指したにすぎなかった。レーニンはソ連邦を構築するに当たっては、かつてローザとの論争で高調した民族自決云々よりも、資源をはじめとする帝政ロシア以来の経済的権益の方を優先していたのだ。
 宗教問題に関する無原則主義もまた鮮明であった。レーニンの宗教認識が最も鮮明に現れているのは、第一次革命の渦中で書かれた1905年の「社会主義と宗教」という論文である。そこでの彼は宗教を人民の阿片とみなすマルクスの認識を継承しつつも、宗教に対しては「穏やかで、自制力のある、寛容なプロレタリア連帯性と科学的世界観の宣伝を対置する」との指針を示していた。
 ところが為政者としては、レーニン政権がコミンテルンの活動資金に充てるためロシア正教会の財産の没収を強化していたことに抗議する信徒らの暴動を契機に、22年にはロシア正教会の弾圧に乗り出し、聖職者の処刑を断行したのであった。その20年近く前の論文における「寛容」な宗教対抗策は、現実の宗教暴動の鎮圧と帝政ロシアの精神的支柱であった正教会の打倒という政権課題の前では棚上げにされたのである。
 レーニンの死の三年後に自ら命を絶つ芥川龍之介が遺作「或阿呆の一生」の中で書き付けた次のような詩的なレーニン評は、レーニンのしたたかな二枚舌、三枚舌の無原則主義を鋭い文学的直観で的確にとらえていたように思える。

誰よりも十戒を守つた君は
誰よりも十戒を破つた君だ。

誰よりも民衆を愛した君は
誰よりも民衆を軽蔑した君だ。

誰よりも理想に燃え上つた君は
誰よりも現実を知つてゐた君だ。

flag上意下達政治
 為政者としてのレーニンの統治スタイルは上位下達のワンマン政治であった。このやり方は革命家時代からの彼の習慣であって、党内権力を確立してからの彼はいつも一人で決め、起草した文書を「テーゼ」と名づけて定言命法的に通達し、機関決定を迫るのであった。これは要するに、レーニンの指導への服従命令を意味していた。
 こういうワンマン・スタイルが如実に表れたのが、2月革命直後に帰国した際に示したかの「4月テーゼ」であった。この時はさすがに党内から反発が出て紛糾を来たしたことはすでに見たとおりだが、それでも彼は異論派をねじ伏せて自らの「テーゼ」を貫徹したのである。
 このような手法は為政者となっても本質的に変わらなかったが、それは必然的に側近政治につながり、レーニンと彼の取り巻きで構成された党指導部の専制が党の基本的な運営スタイルとして定着していく。
 レーニンが確立し、その後世界の共産党の党運営の鉄則となったいわゆる民主集中制も、所詮は党指導部独裁、それも多くの場合、最高指導者の個人的独裁のイチジクの葉として機能してきたにすぎない。その点では、ブルジョワ保守系政党の方がより民主的な党運営を行っていることも少なくない。
 レーニンは従来、あまり「独裁者」と呼ばれてこなかったが、彼はまぎれもなく独裁者であり、こう言ってよければ社会主義の衣を着た新ツァーリですらあった。にもかかわらず、彼が独裁者呼ばわりされることを免れているのは、その統治期間が短かったことに加え、後継者スターリンの長期にわたった独裁ぶりが度外れに悪名高いがために、前任者の独裁が霞んでしまったからにすぎなかった。
 その二代目スターリンは能吏タイプの党専従活動家としてレーニンの信任を得、若くしてレーニン側近となってその統治スタイルを着実に“学習”し、身につけていったのである。ただ、彼が党内権力を掌握するためには、レーニンの発病というチャンスがめぐってこなければならなかった。

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