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2013年4月30日 (火)

マルクス/レーニン小伝(連載第30回)

第2部 ウラジーミル・レーニン

第4章 革命から権力へ

(4)内戦・干渉戦と「勝利」

内戦・干渉戦の勃発
 選挙によって招集された制憲会議を巧妙な手段で転覆し、クーデターに成功したレーニンは、意外なところでやがて自らの命をも縮める代償を支払わされることになった。
 問題の発端は、レーニンがクーデターの過程で連立政権に抱き込んだ左翼エス・エルにあった。元来、土地政策に大きな違いのあるエス・エルとの連立は党略的な手段であったから、長続きするはずもなかったのであるが、閣内対立の原因は土地問題ではなく、ドイツとの講和条件をめぐるものであった。
 レーニン政権が10月革命直後に発した「平和に関する布告」で打ち出した無併合・無賠償・民族自決の原則に基づく即時講和という立場に反して、ロシアにとって極めて不利な併合条件を甘受するブレスト・リトフスク条約をもってドイツとの単独講和に踏み切ったことは、ボリシェヴィキの一部とともに、戦争を継続してドイツをはじめ当事国における革命につなげようという「革命戦争」を主張していた左翼エス・エルを憤激させた。結局、同党は1918年3月の第四回全ロシア・ソヴィエト大会が前記条約を批准するや、連立を離脱していったのである。
 対立はしかし、これだけでは終わらなかった。モスクワに首都を移転したレーニン政権が5月、農民に一定量を残して収穫した穀物の全量供出を義務づける「食糧独裁令」を発し、労働者で組織する「食糧徴発隊」を農村に差し向けて徴発に当たらせるという農民収奪政策に走ると、左翼エス・エルは7月初め、ドイツ大使を暗殺したうえで、武装反乱を起こした。
 この反乱自体は直ちに鎮圧されたが、レーニン政権が報復措置として左翼エス・エルのソヴィエト代議員を逮捕し、非合法化に踏み切ると、同党は地下に潜伏し、テロ活動に入っていく。元来、エス・エルはレーニンの兄アレクサンドルが加入していた「人民の意志」以来、テロ戦術では数々の“実績”を持っていた。その矛先が今度はレーニンに向かう番であった。
 8月30日、モスクワの旧工場で演説を終えて車に乗り込もうとしたレーニンをエス・エル党員の女性狙撃者が銃撃した。二か所に重傷を負ったレーニンは一命を取りとめたものの、一時は重体に陥った。
 こうした左翼エス・エルの動きとほぼ並行して、5月末からは大戦中のロシア側が捕虜としたオーストリア軍中のチェコスロバキア人軍団(チェコ軍団)がシベリア鉄道沿線で反乱を起こし始めた。彼らは元来対独戦に投入する目的で帝政ロシア軍の独立軍団として編入されていたところ、先のドイツとの単独講和後、チェコスロバキア独立支援のためシベリア経由で西部戦線へ移送される途中で反乱を起こしたのである。この外国人軍団の反乱が内戦の引き金を引く。
 まずエス・エル残党が各地でチェコ軍団に合流したのに続いて、しばらく鳴りを潜めていた反革命勢力も次々と蜂起して西シベリア、ウラル、ヴォルガなどロシア東部を占領していき、各地にこれら反革命白衛軍の地方軍閥政権が樹立されて本格的な内戦に突入する。
 一方、当初事態を静観しているかに見えた連合国は18年3月に英国軍がヨーロッパ‐ロシアの北岸ムルマンスクに上陸したのに続いて、4月以降は日本軍や米軍がシベリアへ侵攻し、最終的には16か国が先のチェコ軍団の救出を口実に白衛軍を支援する干渉戦に乗り出した。日露戦争に際しては帝政ロシアを撃破し第一次革命のきっかけを作ってレーニンに称賛された日本軍は、最も遅く22年6月に至るまで東シベリアを占領し続けた。
 レーニンはこうした事態を「帝国主義世界総体の攻撃」と規定しつつ、労働者・農民と資本家の「最後の決戦」と大衆を煽った。このようにして、ロシアは大戦から一転、今度は大規模な内戦・干渉戦へ引きずり込まれていくのである。 

コミンテルンの設立
 レーニンがドイツとの講和問題に際して「革命戦争」に否定的であったのは、相手方ドイツにおける革命の可能性に対して悲観的であったからである。
 ドイツ社民党主流は改良主義化していたし、古代ローマで奴隷反乱を起こしたスパルタクスにちなんで「スパルタクス団」という勇ましい名称を持つ分派を形成していたローザのような革命的左派も、前述したように大衆の自発性を神秘化する受動的な立場に終始しており、ボリシェヴィキに相当する勢力はドイツに見当たらなかった。
 ところが、そのドイツで1918年11月、水兵反乱をきっかけに革命が起き、帝政が倒れる。兵士と労働者はソヴィエトにならってレーテ(評議会)を結成し革命の拠点としていた。臨時政府はブルジョワジーと妥協する社民党右派の手中にあったが、カール・リープクネヒトやローザらスパルタクス団のメンバーも釈放され、19年1月にはドイツ共産党を立ち上げた。ここまではロシア2月革命と似ていた。
 レーニンはドイツ革命の報に接した時、エス・エルによる暗殺未遂事件で負った怪我の療養中であったが、予想外の出来事に欣喜雀躍し、ドイツ革命を支援するため赤軍(新政府軍)の増強方針を打ち出した。
 同時に当時内戦・干渉戦に直面していたロシアの国際的孤立状態を打開するため、世界の共産主義政党の国際組織として共産主義インターナショナル(コミンテルン)の設立を推進した。
 ただ、ドイツ革命は前にも触れたように、反革命化した社民党政府が1月、ローザらドイツ共産党指導者を虐殺してブルジョワ革命の限度で収束したため、19年3月にモスクワで開かれたコミンテルン第一回大会はローザらへの追悼大会を兼ねたものとなった。
 コミンテルンは第一次大戦を機に解散していた第二インターに続く第三インターと通称されることもあるが、レーニンが参加資格を限定したため、結局はレーニンと18年3月にボリシェヴィキから改称されたロシア共産党とを支持する各国政党の連合組織にすぎなかった。
 それはカウツキーに代表される第二インターの理念はもちろん、「労働者階級は労働者階級自身の手で闘い取られねばならない」というマルクスのテーゼを基本として組織された元祖第一インターの理念からも遠く隔たったレーニン主義党の指導による世界革命の司令部となるべきものなのであった。
 実際、レーニンはコミンテルン第一回大会ではカウツキーから寄せられていた「独裁」批判に対する痛烈な反論書『プロレタリア革命と背教者カウツキー』をベースに、彼の理解によるプロレタリアート独裁の理論―その概要については第1部第5章(4)で先取りしてある―に基づく「ブルジョワ民主主義とプロレタリアートの独裁に関するテーゼと報告」を全会一致で承認させた。
 続いて20年7‐8月にコミンテルン第二回大会向けのテクストとして執筆した著作『共産主義内の「左翼主義」小児病』の中で、レーニンは改めて故ローザらドイツ共産党の誤りを取り上げ、かれらが「大衆の党」か「指導者の党」か、「大衆の独裁」か「指導者の独裁」かという問いを立て、自然発生的に下から盛り上がる大衆の革命に期待する「大衆の党」「大衆の独裁」という自己規定によって結局敗北していったと分析する。
 彼はこうした傾向を「プチブル革命性」と呼んで批判したうえで、革命的プロレタリアートの団結を保持し、ブルジョワジーとの闘争に勝ち抜くためには、「プロレタリアートの無条件の中央集権と最も厳格な規律」が基本的条件であることを力説し、10月革命に勝利したボリシェヴィキの「鉄の規律」と自らの指導の正しさとを自画自賛するのであった。

苦い「勝利」
 レーニンのマルクス主義の師であったプレハーノフは、10月革命の三日後にザスーリチらと共同で発表した公開状の中で、10月革命を「史上最大の厄災」と論難し、それは結果として内戦を誘発し、2月革命の到達点よりもはるかに後方へ後退するだろうと警告したが、この警告は的中した。
 第一次大戦の終結から間もなく勃発した内戦・干渉戦は、大戦とそれに続く革命の激動の中にあってただでさえ疲弊していたロシア経済にダブル・パンチ的な打撃を与えたのだった。
 内戦・干渉戦が終息に向かった1920年には大工業生産高は戦前の七分の一、農業生産高も同二分の一に低下していた。燃料不足も深刻で、出炭量は戦前の三分の一、石油採取量は同五分の二という惨状の下、多くの工場が稼動停止に追い込まれていた。20年初夏にヴォルガ河流域で発生した飢餓では数百万人に上る死者を出した。
 こうした苦い結果を伴いながらも、レーニンとボリシェヴィキ党は「勝利」した。まずは日本を除く連合国の干渉軍が19年末から20年にかけて順次撤退していくと、元来まとまりを欠く地方軍閥勢力の寄せ集めにすぎなかった白衛軍の勢力も退潮していき、最後までクリミア半島を拠点としていた勢力が国外へ放逐されると、ほぼ内戦も終息したのである。
 しかし、それで落着ではなかった。内戦・干渉戦を勝ち抜くためにレーニン政権が導入していた「戦時共産主義」という名の統制経済、中でも内戦突入のきっかけとなった18年の左翼エス・エル反乱の原因でもあった食糧割当徴発制に対する農民の不満が20年から21年にかけてタムボフ県で爆発した。
 かつて10月革命を下支えした農民革命の原点の地で起きたこの反乱にはまたしてもエス・エルが絡んでおり、5万人の武装した農民たちが決起し、農村の共産党員らを殺害した。
 これに続く21年2月末から3月に中旬にかけては、「共産党独裁」を公然批判し、社会主義への道を開く労働者階級自身による「第三革命」を呼号するクロンシュタット要塞の水兵反乱が発生した。
 こうした大規模な武装反乱を容赦なく鎮圧しながらも、レーニンはクロンシュタット反乱の渦中に開かれた第十回党大会で、食糧割当徴集制に代えて、農産物の市場取引を認め現物税を導入することを柱とする新経済政策(NEP)への移行を決定したのである。
 「我々はひとたび権力を握ったら、手放すことはしない」と誓ったとおり、レーニンと彼の党の特質は政治生命力の強さにあった。しかも、かれらは破局的な内戦・干渉戦を通じて権力を単に守り通したばかりでなく、焼け太り的に増強さえしてみせたのだった。
 まさに内戦・干渉戦最中の19年3月に開かれた第八回党大会で、党はソヴィエトにおいて「自らの完全な政治支配を達成する」という野心的な宣言が採択され、これに基づきソヴィエトの骨抜きと党への従属化が徹底されていく。実は先のクロンシュタットも最後まで残っていた自立的な地方ソヴィエトの拠点だったのである。
 同時に、レーニンと党は革命以降旧ロシア帝国領内で進行していた民族独立の動きにも歯止めをかけていった。その手始めは10月革命直後ウクライナ人民共和国を宣言していたウクライナの独立運動を武力で鎮圧したことであった。そして、各地に傀儡的に設立された民族別共産党をすべてロシア共産党中央委員会の支部として回収していった。
 その仕上げが22年の連邦条約をもって創設されたロシア、ウクライナ、ベロルシア、ザカフカスの四共和国で構成するソヴィエト社会主義共和国連邦(ソ連邦)であった。この連邦体において構成共和国相互は対等の関係にあると説明されていたが、どう見ても中心にあるのはロシア共和国であり、ソ連邦は社会主義の衣を着たロシア帝国にほかならなかったであろう。
 民族問題の観点からながめると、ロシア内戦とはレーニンとボリシェヴィキ党がロシア革命のもう一つの底流を成していた民族独立革命を抑圧し、分離しかけていた周辺諸民族を再征服してロシアの帝国的統一を回復・維持する戦いであったとさえ言えるのである。
 最後に、内戦・干渉戦という国家的非常事態はレーニンと党指導部に超法規的な万能権力を与えた。18年7月16日には、エカチェリンブルクで囚われの身となっていた前皇帝ニコライ・ロマノフと未成年子を含むその家族7人が白衛軍による身柄の奪還を防ぐとの名目で、党中央委員会の指令に基づき銃殺された。これは正式な司法手続きなしの超法規的処刑、要するに政治的虐殺にほかならなかった。
 しかし、この重大な一件は、ボリシェヴィキ的万能権力の作動のほんの手始めにすぎなかったのである。

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