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2013年4月

2013年4月30日 (火)

マルクス/レーニン小伝(連載第30回)

第2部 ウラジーミル・レーニン

第4章 革命から権力へ

(4)内戦・干渉戦と「勝利」

flag内戦・干渉戦の勃発
 選挙によって招集された制憲会議を巧妙な手段で転覆し、クーデターに成功したレーニンは、意外なところでやがて自らの命をも縮める代償を支払わされることになった。
 問題の発端は、レーニンがクーデターの過程で連立政権に抱き込んだ左翼エス・エルにあった。元来、土地政策に大きな違いのあるエス・エルとの連立は党略的な手段であったから、長続きするはずもなかったのであるが、閣内対立の原因は土地問題ではなく、ドイツとの講和条件をめぐるものであった。
 レーニン政権が10月革命直後に発した「平和に関する布告」で打ち出した無併合・無賠償・民族自決の原則に基づく即時講和という立場に反して、ロシアにとって極めて不利な併合条件を甘受するブレスト・リトフスク条約をもってドイツとの単独講和に踏み切ったことは、ボリシェヴィキの一部とともに、戦争を継続してドイツをはじめ当事国における革命につなげようという「革命戦争」を主張していた左翼エス・エルを憤激させた。結局、同党は1918年3月の第四回全ロシア・ソヴィエト大会が前記条約を批准するや、連立を離脱していったのである。
 対立はしかし、これだけでは終わらなかった。モスクワに首都を移転したレーニン政権が5月、農民に一定量を残して収穫した穀物の全量供出を義務づける「食糧独裁令」を発し、労働者で組織する「食糧徴発隊」を農村に差し向けて徴発に当たらせるという農民収奪政策に走ると、左翼エス・エルは7月初め、ドイツ大使を暗殺したうえで、武装反乱を起こした。
 この反乱自体は直ちに鎮圧されたが、レーニン政権が報復措置として左翼エス・エルのソヴィエト代議員を逮捕し、非合法化に踏み切ると、同党は地下に潜伏し、テロ活動に入っていく。元来、エス・エルはレーニンの兄アレクサンドルが加入していた「人民の意志」以来、テロ戦術では数々の“実績”を持っていた。その矛先が今度はレーニンに向かう番であった。
 8月30日、モスクワの旧工場で演説を終えて車に乗り込もうとしたレーニンをエス・エル党員の女性狙撃者が銃撃した。二か所に重傷を負ったレーニンは一命を取りとめたものの、一時は重体に陥った。
 こうした左翼エス・エルの動きとほぼ並行して、5月末からは大戦中のロシア側が捕虜としたオーストリア軍中のチェコスロバキア人軍団(チェコ軍団)がシベリア鉄道沿線で反乱を起こし始めた。彼らは元来対独戦に投入する目的で帝政ロシア軍の独立軍団として編入されていたところ、先のドイツとの単独講和後、チェコスロバキア独立支援のためシベリア経由で西部戦線へ移送される途中で反乱を起こしたのである。この外国人軍団の反乱が内戦の引き金を引く。
 まずエス・エル残党が各地でチェコ軍団に合流したのに続いて、しばらく鳴りを潜めていた反革命勢力も次々と蜂起して西シベリア、ウラル、ヴォルガなどロシア東部を占領していき、各地にこれら反革命白衛軍の地方軍閥政権が樹立されて本格的な内戦に突入する。
 一方、当初事態を静観しているかに見えた連合国は18年3月に英国軍がヨーロッパ‐ロシアの北岸ムルマンスクに上陸したのに続いて、4月以降は日本軍や米軍がシベリアへ侵攻し、最終的には16か国が先のチェコ軍団の救出を口実に白衛軍を支援する干渉戦に乗り出した。日露戦争に際しては帝政ロシアを撃破し第一次革命のきっかけを作ってレーニンに称賛された日本軍は、最も遅く22年6月に至るまで東シベリアを占領し続けた。
 レーニンはこうした事態を「帝国主義世界総体の攻撃」と規定しつつ、労働者・農民と資本家の「最後の決戦」と大衆を煽った。このようにして、ロシアは大戦から一転、今度は大規模な内戦・干渉戦へ引きずり込まれていくのである。 

flagコミンテルンの設立
 レーニンがドイツとの講和問題に際して「革命戦争」に否定的であったのは、相手方ドイツにおける革命の可能性に対して悲観的であったからである。
 ドイツ社民党主流は改良主義化していたし、古代ローマで奴隷反乱を起こしたスパルタクスにちなんで「スパルタクス団」という勇ましい名称を持つ分派を形成していたローザのような革命的左派も、前述したように大衆の自発性を神秘化する受動的な立場に終始しており、ボリシェヴィキに相当する勢力はドイツに見当たらなかった。
 ところが、そのドイツで1918年11月、水兵反乱をきっかけに革命が起き、帝政が倒れる。兵士と労働者はソヴィエトにならってレーテ(評議会)を結成し革命の拠点としていた。臨時政府はブルジョワジーと妥協する社民党右派の手中にあったが、カール・リープクネヒトやローザらスパルタクス団のメンバーも釈放され、19年1月にはドイツ共産党を立ち上げた。ここまではロシア2月革命と似ていた。
 レーニンはドイツ革命の報に接した時、エス・エルによる暗殺未遂事件で負った怪我の療養中であったが、予想外の出来事に欣喜雀躍し、ドイツ革命を支援するため赤軍(新政府軍)の増強方針を打ち出した。
 同時に当時内戦・干渉戦に直面していたロシアの国際的孤立状態を打開するため、世界の共産主義政党の国際組織として共産主義インターナショナル(コミンテルン)の設立を推進した。
 ただ、ドイツ革命は前にも触れたように、反革命化した社民党政府が1月、ローザらドイツ共産党指導者を虐殺してブルジョワ革命の限度で収束したため、19年3月にモスクワで開かれたコミンテルン第一回大会はローザらへの追悼大会を兼ねたものとなった。
 コミンテルンは第一次大戦を機に解散していた第二インターに続く第三インターと通称されることもあるが、レーニンが参加資格を限定したため、結局はレーニンと18年3月にボリシェヴィキから改称されたロシア共産党とを支持する各国政党の連合組織にすぎなかった。
 それはカウツキーに代表される第二インターの理念はもちろん、「労働者階級は労働者階級自身の手で闘い取られねばならない」というマルクスのテーゼを基本として組織された元祖第一インターの理念からも遠く隔たったレーニン主義党の指導による世界革命の司令部となるべきものなのであった。
 実際、レーニンはコミンテルン第一回大会ではカウツキーから寄せられていた「独裁」批判に対する痛烈な反論書『プロレタリア革命と背教者カウツキー』をベースに、彼の理解によるプロレタリアート独裁の理論―その概要については第1部第5章(4)で先取りしてある―に基づく「ブルジョワ民主主義とプロレタリアートの独裁に関するテーゼと報告」を全会一致で承認させた。
 続いて20年7‐8月にコミンテルン第二回大会向けのテクストとして執筆した著作『共産主義内の「左翼主義」小児病』の中で、レーニンは改めて故ローザらドイツ共産党の誤りを取り上げ、かれらが「大衆の党」か「指導者の党」か、「大衆の独裁」か「指導者の独裁」かという問いを立て、自然発生的に下から盛り上がる大衆の革命に期待する「大衆の党」「大衆の独裁」という自己規定によって結局敗北していったと分析する。
 彼はこうした傾向を「プチブル革命性」と呼んで批判したうえで、革命的プロレタリアートの団結を保持し、ブルジョワジーとの闘争に勝ち抜くためには、「プロレタリアートの無条件の中央集権と最も厳格な規律」が基本的条件であることを力説し、10月革命に勝利したボリシェヴィキの「鉄の規律」と自らの指導の正しさとを自画自賛するのであった。

flag苦い「勝利」
 レーニンのマルクス主義の師であったプレハーノフは、10月革命の三日後にザスーリチらと共同で発表した公開状の中で、10月革命を「史上最大の厄災」と論難し、それは結果として内戦を誘発し、2月革命の到達点よりもはるかに後方へ後退するだろうと警告したが、この警告は的中した。
 第一次大戦の終結から間もなく勃発した内戦・干渉戦は、大戦とそれに続く革命の激動の中にあってただでさえ疲弊していたロシア経済にダブル・パンチ的な打撃を与えたのだった。
 内戦・干渉戦が終息に向かった1920年には大工業生産高は戦前の七分の一、農業生産高も同二分の一に低下していた。燃料不足も深刻で、出炭量は戦前の三分の一、石油採取量は同五分の二という惨状の下、多くの工場が稼動停止に追い込まれていた。20年初夏にヴォルガ河流域で発生した飢餓では数百万人に上る死者を出した。
 こうした苦い結果を伴いながらも、レーニンとボリシェヴィキ党は「勝利」した。まずは日本を除く連合国の干渉軍が19年末から20年にかけて順次撤退していくと、元来まとまりを欠く地方軍閥勢力の寄せ集めにすぎなかった白衛軍の勢力も退潮していき、最後までクリミア半島を拠点としていた勢力が国外へ放逐されると、ほぼ内戦も終息したのである。
 しかし、それで落着ではなかった。内戦・干渉戦を勝ち抜くためにレーニン政権が導入していた「戦時共産主義」という名の統制経済、中でも内戦突入のきっかけとなった18年の左翼エス・エル反乱の原因でもあった食糧割当徴発制に対する農民の不満が20年から21年にかけてタムボフ県で爆発した。
 かつて10月革命を下支えした農民革命の原点の地で起きたこの反乱にはまたしてもエス・エルが絡んでおり、5万人の武装した農民たちが決起し、農村の共産党員らを殺害した。
 これに続く21年2月末から3月に中旬にかけては、「共産党独裁」を公然批判し、社会主義への道を開く労働者階級自身による「第三革命」を呼号するクロンシュタット要塞の水兵反乱が発生した。
 こうした大規模な武装反乱を容赦なく鎮圧しながらも、レーニンはクロンシュタット反乱の渦中に開かれた第十回党大会で、食糧割当徴集制に代えて、農産物の市場取引を認め現物税を導入することを柱とする新経済政策(NEP)への移行を決定したのである。
 「我々はひとたび権力を握ったら、手放すことはしない」と誓ったとおり、レーニンと彼の党の特質は政治生命力の強さにあった。しかも、かれらは破局的な内戦・干渉戦を通じて権力を単に守り通したばかりでなく、焼け太り的に増強さえしてみせたのだった。
 まさに内戦・干渉戦最中の19年3月に開かれた第八回党大会で、党はソヴィエトにおいて「自らの完全な政治支配を達成する」という野心的な宣言が採択され、これに基づきソヴィエトの骨抜きと党への従属化が徹底されていく。実は先のクロンシュタットも最後まで残っていた自立的な地方ソヴィエトの拠点だったのである。
 同時に、レーニンと党は革命以降旧ロシア帝国領内で進行していた民族独立の動きにも歯止めをかけていった。その手始めは10月革命直後ウクライナ人民共和国を宣言していたウクライナの独立運動を武力で鎮圧したことであった。そして、各地に傀儡的に設立された民族別共産党をすべてロシア共産党中央委員会の支部として回収していった。
 その仕上げが22年の連邦条約をもって創設されたロシア、ウクライナ、ベロルシア、ザカフカスの四共和国で構成するソヴィエト社会主義共和国連邦(ソ連邦)であった。この連邦体において構成共和国相互は対等の関係にあると説明されていたが、どう見ても中心にあるのはロシア共和国であり、ソ連邦は社会主義の衣を着たロシア帝国にほかならなかったであろう。
 民族問題の観点からながめると、ロシア内戦とはレーニンとボリシェヴィキ党がロシア革命のもう一つの底流を成していた民族独立革命を抑圧し、分離しかけていた周辺諸民族を再征服してロシアの帝国的統一を回復・維持する戦いであったとさえ言えるのである。
 最後に、内戦・干渉戦という国家的非常事態はレーニンと党指導部に超法規的な万能権力を与えた。18年7月16日には、エカチェリンブルクで囚われの身となっていた前皇帝ニコライ・ロマノフと未成年子を含むその家族7人が白衛軍による身柄の奪還を防ぐとの名目で、党中央委員会の指令に基づき銃殺された。これは正式な司法手続きなしの超法規的処刑、要するに政治的虐殺にほかならなかった。
 しかし、この重大な一件は、ボリシェヴィキ的万能権力の作動のほんの手始めにすぎなかったのである。

2013年4月25日 (木)

世界歴史鳥瞰(連載第68回)

第8章 略

五 日本の「民主化」と経済発展

(1)米国の日本「民主化」戦略
 
敗戦した日本に対する連合国の占領方式はドイツと異なり、分割占領の形をとらず、米軍のダグラス・マッカーサー元帥を最高司令官とする連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)を通じた実質上アメリカの単独占領となった。
 このような方法が採られたのは、当時の連合国内部にはソ連を含め、日本の戦後処理をアジア・太平洋地域に権益を持つアメリカにさしあたり委ねることに了解があったからであった。
 その際、統治方式としても直接的な軍政によらず、日本政府に対するGHQの指令・勧告に基づく間接統治方式が採用された。このことは、連合国側が日本の支配体制に対しては、ナチス・ドイツの場合のように根底から解体し尽くす必要までは認識していなかったことを示している。一方で、ドイツの場合以上に軍の解体が重視されたのは、軍部こそが日本民主化の最大障害要因と認識されていたことの証しである。
 とはいえ、ポツダム宣言に基づくアメリカの日本民主化計画は政体から社会経済構造にまで踏み込むもので、「国体護持」に固執する保守的な日本支配層にとっては受け入れ難いものであった。
 とりわけ、まさに「国体」に関わる新憲法の内容をめぐっては日米間の相克が激しかったが、結局アメリカ側の要求を強く反映する形で象徴天皇制と交戦権の放棄(いわゆる平和主義)を軸とするブルジョワ民主憲法を受け入れざるを得なかった。
 このことが日本支配層にとっては痛恨事となり、保守勢力に「押し付け憲法」との被害意識を植え付け、事実上の憲法廃棄を意味する「改憲」が世代を超えて今日にまで至る宿願となっているのである。
 実際、初期のGHQでは民政局を中心とするリベラル派が主導権を握っていたために、新憲法も一種社会民主主義的な傾向のリベラルな内容を備え、それが農地解放、財閥解体、労働基本権の保障、家父長制解体・男女平等、教育の民主化、警察・司法の民主化等々の革新的な政策と連動していたことは、保守的な日本支配層にとっては不満以外の何ものでもなかったのである。
 要するにアメリカの日本民主化戦略は、少なくともその初期段階にあっては「横からのブルジョワ民主革命」と呼ぶべき性格のものであったと言える。
 しかし、日本支配層にとっては幸いなことに、アメリカ自身が冷戦の開始という国際的な新局面を前に、日本民主化にブレーキをかけざるを得なくなった。ソ連と国境を接する日本はアメリカにとって「反共の砦」とならなければならなくなったのだ。GHQ内部でも民政局に代わって反共的な情報部(G2)が主導権を握ったことで、日本民主化はカッコ付きのものに変わった。
 その最初の変化は1947年頃から始まる労働運動の抑圧に現れたが、50年に朝鮮戦争が勃発すると、先に公職追放されていた軍国主義者らの復権と入れ替わりの形で、共産主義者の公職追放が断行された。また、この間、下山事件、三鷹事件、松川事件のように、労組員や共産党員を陥れるため、G2が関与して仕組まれたと見られる謀略事件も相次いだ。
 同時に、GHQは50年7月、警察予備隊の創設を指令した。これは名目上警察力の補完と謳われていたが、実際は大半が朝鮮戦争に出払った駐留米軍の代替部隊として構想されたもので、事実上の再軍備指令に等しいものであった。実際、警察予備隊が現自衛隊の前身となる。
 一方、アメリカは外交上も、日本との講和と日本の主権回復を急ぎ、朝鮮戦争中の51年、中国が招請されず、ソ連や東欧諸国は招請されるも講和条件への不服から署名しないという敵対的な状況の中、アメリカを含む西側48か国と日本とのサンフランシスコ講和条約の締結を主導したのである。
 このアメリカの対日戦略は要するに、ひとまず日本の法的な独立状態を回復させたうえで、同時に締結した日米安全保障条約(旧安保条約)及び条約の発効直前に締結された日米行政協定を通じて、軍備を持たない日本を防衛するという名目で軍事基地と駐留軍を存続させ、日本を極東におけるアメリカの総代理店的な衛星国化しようとしたものにほかならなかった。
 そのためにも、さしあたり戦略的に枢要な沖縄と小笠原諸島は、講和条約上国連信託統治領とする可能性が示唆されながら、実際上はアメリカの軍政下に置かれ続けたのである。

(2)日米同盟と親米保守支配
 アメリカの「反共の砦」戦略は、新憲法体制を不満とし、戦前回帰的な衝動を隠さない日本支配層にとっても好都合であった。なぜなら彼らは戦前と同様の「反共」を今度は旧敵と共有し合いながら、なし崩しに旧体制への復帰を図っていくことができたからである。
 実際、1952年4月にサンフランシスコ条約が発効し独立を回復した日本が真っ先に行ったことが警察予備隊の保安隊への格上げ、次いで自衛隊の創設であったのは象徴的である。
 これによって再軍備への道が正式に開かれ、続いて「逆コース」と呼ばれた政治反動の潮流がまず治安・警察分野、次いで教育分野で生じる。仕上げは、55年の二大保守政党(日本民主党と自由党)の合同による自由民主党(自民党)の結党と自民党支配体制の樹立であった。
 この新体制を受けて、アメリカ側も対日戦略を微修正し、60年には旧安保条約に代わる新しい安保条約(現行条約)を締結し直し、従来の片務的な日本防衛体制を改めて表面上「対等」な日米共同防衛体制を確立したのである。
 ただし、この条約下での駐留米軍は日本防衛を超えて「極東における国際の平和及び安全の維持」をも任務とし(条約6条1項)、引き続きアメリカが日本を極東における“不沈空母”として利用し続けることには変わりなかった。しかも、この“空母”は72年に日本へ復帰させた沖縄に米軍基地集約の負担を課すいびつな形のものとなった。
 この安保条約に基づく日米同盟―その性格はアメリカを盟主とする従属的な同盟関係―とそれの保証者としての自民党支配体制が93年に至るまで、38年間にわたって持続していく。
 このように、戦前から不変の強固な官僚制によって輔弼されつつ、多党制の下で自民党が常時与党として政権を維持し続ける「55年体制」にあって、自民党は労働者階級政党の排撃を公然と掲げる一方、主要な経済団体・職能団体の大半を支持基盤に組み込み、選挙では集票マシンとしてフル稼働させ、恒久的な政権維持を図っていたから、この体制は制度上ではないが事実上の一党支配―ブルジョワ・ヘゲモニー―であった。
 反面、日本社会党が自民党に先駆け、同じ55年に再統一され―そのことが保守合同・自民党結党の重要な契機ともなった―、以後護憲勢力の代表として55年体制の下で野党第一党の座を維持し、憲法上改憲に必要な自民党の議席獲得を阻止していたため、自民党本来の宿願である改憲は棚上げにしつつ、「解釈改憲」のような超法規的な手法で運用上憲法をなし崩しに空洞化させていく戦術が採られたことも、自民党長期支配の秘訣となっていた。
 この55年体制下の国政選挙は結果として自民党政権に対する信任投票的な意義しか持たなかったが、戦後合法化された日本共産党が「自主独立路線」により60年代半ば頃からソ連と不和に陥ったことを背景として、日本社会党に対するソ連の影響力が強まったことから、55年体制下の国政選挙は以後80年代までは米ソの代理戦的な意義をも持たされるようになった。

(3)経済発展の真相
 55年体制の時代、とりわけ50年代後半から70年代前半にかけての約20年間は、日本経済が「奇跡」とも称された急成長を遂げ、早くも1968年に資本主義諸国間では国民総生産(GNP)でアメリカに次ぐ第二位に躍進した高度資本蓄積の時代でもあった。
 敗戦後のこの驚異的な経済発展は明治維新後の近代化と並び称せられ、その間の所得増は日本人の勤勉性の表れであり、技術革新は日本人の優秀性の証しであると自画自賛されてきた。そうした主観的な思い入れはもちろん、純経済的な分析も脇に置いて歴史的にリアルにとらえ返してみると、その「奇跡」にもいくつかの客観的な要因があったことが浮かび上がる。
 その第一は、アメリカによる「育成」という優遇が与えられたことである。前述したように、アメリカは「西側」陣営構築のために西欧と並び日本にも復興支援を行い、経済成長の土台を与えた。いわゆるドッジ・ラインで導入された1ドル=360円という固定為替レートも輸出産業の成長を促すアメリカによる優遇的な「育成」の意味を持った。
 第二は冷戦という好機に恵まれたことである。日本が経済成長の最初のきっかけをつかんだのは朝鮮戦争特需であった。この時、日本産業界は鉄鋼業を中心に生産力を回復・急伸させた。
 その後も、冷戦時代はソ連とソ連に追随した「東側」陣営がこぞって国際資本主義競争に参画していなかったため、日本の競争相手は盟主アメリカを別格とすれば、ほぼ西欧諸国に限られていたのである。要するに、日本の高度経済成長とは冷戦の副産物であった。その時期が冷戦時代の真っ只中とほぼ重なっていたのも、決して偶然ではなかったのだ。
 第三はアジア諸国への経済支配を利用したことである。すなわち西欧諸国や日本の植民地から独立し、当面国作りに追われていた新興アジア諸国の経済発展が遅れていたため、その間隙を利用して経済援助と資本輸出を組み合わせた経済帝国主義を実践することができたのである。
 こうした経済帝国主義はとりわけ韓国や東南アジアなど日本の植民地ないし占領地であった新興諸国との間で、戦時賠償に代えて経済援助を与える形で実行されていった。
 第四は労働搾取が構造化されていたことである。この点がしばしば“日本人の勤勉性”と錯覚されてきた(今日でも?)のである。
 しかし、高度成長期の巨大蓄積は資本丸抱えの終身雇用慣行―その陰には日雇いの使い捨て労働も伏在していたが―に支えられ、過労死を常態化させるような長時間労働による搾取的な生産活動の産物であった。
 このような構造的労働搾取は55年体制のブルジョワ・ヘゲモニーの下、労働時間規制が全く不徹底であったこと(今日でも)、戦後一時的に飛躍を見せた労組組織率が労働運動抑圧に転じたGHQの方針変更以降低落し、労組の対抗力も弱化していったことに後押しされつつ、“日本人の勤勉性”といったプロパガンダによって隠蔽・美化されてもきたのである。
 以上のような諸要因の幸運な相乗作用によって達成された日本の「経済発展」とは、蓄積された国富の国民福祉還元率の低い「飢餓輸出」的な要素さえもいくぶん帯びた貿易大国としての「発展」であった。結果、巨額の貿易黒字を生み、やがて盟主アメリカとの貿易摩擦問題のもとともなるのである。

2013年4月21日 (日)

マルクス/レーニン小伝(連載第29回)

第2部 ウラジーミル・レーニン

第4章 革命から権力へ

(3)ボリシェヴィキの全権掌握

flag10月革命の性格
 帝政を終わらせた2月革命はたしかに「革命」であったが、2月革命の結果成立した臨時政府を転覆した10月革命は「革命」ではなく、ボリシェヴィキの「クーデター」であったとする見方がある。この見方は10月革命の結果構築されたソ連邦が解体され、10月革命の歴史的意義を否定する見解がロシアでも広がった今日では多数説と言ってよいかもしれない。
 しかし、「10月革命=クーデター説」はすでに10月革命直後から、ボリシェヴィキに追われた臨時政府側やメンシェヴィキ、エス・エル右派―後述するように、エス・エルは左派が分裂し、一時ボリシェヴィキと行動を共にしていた―などの敗北当事者が採っていた立場を引き継いだものにすぎない。
 10月革命は、前述したようにレーニンの言う「戦闘術」に従ってボリシェヴィキ党が綿密に計画・実行した軍事蜂起ではあったが、それだけにとどまったのではない。1917年7月の武装デモ以来、臨時政府が統治能力を喪失し、無秩序が拡大していく中で、底流においては社会革命のうねりが起きていたのである。
 中でも大規模なものは農民革命である。臨時政府が公約していた土地改革が一向に進まない中、農民らは集団で地主貴族の居館を襲撃・焼打ちし―時に地主を殺害し―、地主らが所有する土地や家畜・農具を村落ごとに分配していった。こうした動きが8月から10月にかけてロシア全土に広がりを見せていた。
 レーニン政権が10月革命直後のソヴィエト大会に提案し圧倒的多数で採択された「土地に関する布告」はボリシェヴィキ本来の政策である土地の国有化をいったん棚上げして、さしあたりエス・エルの農業綱領であった「農民要望書」―エス・エル自身が先送りしていた―に沿って、地主的土地所有の廃止と地主所有地の農民による共同管理を謳っているが、これはすでに進展してきていた農民革命の成果を追認したものにほかならなかった。
 一方、都市労働者の側でも、臨時政府の経済無策により、不況、物不足、物価高騰がおさまらない中、2月革命直後から結成され始めていた労働者自主管理組織としての「工場委員会」が急進化し、労働者自身が工場を占拠して採用・解雇を監督し、在庫や必要物資の管理にも当たる「労働者統制」の動きが広がっていた。
 労働者統制は、レーニンが「4月テーゼ」の中でも「労働者代表ソヴィエトによる統制」という形で提起していたところであったが、改めて11月に公布された「生産と分配に対する労働者統制令」の中で確認されている。
 また、農民・労働者から徴兵されていた兵士らは2月革命直後からソヴィエト内で重要な役割を果たしてきており、とりわけペトログラード・ソヴィエトが3月1日付けで発した「命令第一号」は軍隊内における兵士の自治組織である「兵士委員会」の創設を謳ったものであった。
 この組織は帝政ロシア軍の内部からの解体を招いたが、それはとりもなおさず「兵士の革命」であった。そのおかげで、10月革命蜂起に際して、ボリシェヴィキは自派に忠実な部隊を編成し、かつ大きな抵抗もなしに首都を制圧することもできたのである。
 このように、10月革命は決してレーニンとボリシェヴィキ党の力だけで成し遂げられたものではなく、ローザ的な意味での「自発的」な民衆の革命運動の流れに乗って初めて成功したのであり、何の社会的条件もなしにボリシェヴィキが限られた勢力でクーデターを断行したという前記のような見方はレーニンとボリシェヴィキ党の力量を過大評価するものである。
 しかしその一方で、相互に別個独立して行われていた民衆の革命的行動だけで10月革命が成功したという自然発生的な説明が妥当しないことも事実であり、民衆革命の沸騰点でレーニンとボリシェヴィキ党の計画的な軍事蜂起が革命を収束させ、新たに一定の秩序を作り出したのである。
 それでは、レーニンとボリシェヴィキ党はおよそクーデターと無縁であったのかと言えば、決してそうではなかった。奇妙にも、かれらによる言葉の真の意味での「クーデター」は、政権樹立後に起こされたのである。

flagボリシェヴィキのクーデター
 10月革命直後、10月26日の第二回ソヴィエト大会でレーニンを首班とする新政府・人民委員会議が創設されたことはすでに述べた。
 人民委員(コミサール)とは政府の閣僚に相当するが、君主の秘書官から派生した「大臣」とは異なり、人民から付託を受けた執政官という意味が込められた新しい行政制度であり、これはスターリン時代の1946年に廃止され、より一般的な閣僚制度に切り替えられるまで、10月革命の産物として存続していた。
 それはともかく、この発足したばかりのレーニン政権は翌27日に旧臨時政府が以前から公約していた制憲会議選挙を11月12日に実施する旨の政令を公布した。
 レーニンとしても、制憲会議選挙は2月革命以来の民衆の要求事項とみなされていたことを考慮したのであった。ということは、この時点でのレーニン政権は制憲会議成立までの暫定政権としての性格を持つにすぎないことを自ら認めていたことになる。
 果たして制憲会議選挙を実施してみると、結果は比例代表制で選出された707議席中、エス・エルが370議席を占め、ボリシェヴィキはわずか四分の一程度の175議席にとどまったのである。この結果は農村部に厚い支持基盤を持つエス・エルの強さと、主として都市労働者層にしか支持されていなかったボリシェヴィキの実力差をはっきりと見せつけるものであった。
 レーニン政権は自ら公約し実施した選挙で明らかに敗北した以上、いったん総辞職すべきであった。ところが、レーニンはエス・エルが選挙直後に分裂し、左派が新党「左翼社会革命党」を結成した事実を挙げて、ソヴィエトによる議員リコールを主張したうえ、制憲会議議員の過半数に当たる400人が首都に到着してから開会するという口実で、11月28日に予定されていた制憲会議の招集を延期した。
 これに抗議する動きが出ると、わずか17議席しか獲得できなかったカデットを「人民の敵の党」と断じ、同党議員を逮捕した。これがクーデターの最初の一歩となる。
 次いで、レーニンは選挙後の分裂を問題視したばかりのエス・エル左派と12月8日に連立協定を結んで政権抱き込みを図った。そのうえで彼は「制憲会議に関するテーゼ」を発表し、制憲会議選挙の有効性について、先のエス・エル分裂問題を繰り返すとともに、選挙が10月革命の規模と意義を人民大衆が理解できない時に実施されたこと―しかし、そういう日程で選挙を実施したのはレーニン政権自身であった―を問題視する。
 そして、制憲会議(議会)はブルジョワ共和国にあっては民主主義の最高形態であるが、「ソヴィエト共和国」―しかし、憲法制定前に政体をレーニン個人が決めることはできないはずである―は、通常のブルジョワ共和国よりも高度な民主主義制度の形態であり、また社会主義への最も苦痛の少ない移行を保障できる唯一の形態であるとの一般論を持ち出し、ソヴィエトのほうが制憲会議に優先する―そう考えるなら、そもそもレーニン政権はなぜ制憲会議選挙をわざわざ実施したのか―と結論づけるのである。
 レーニンはこの「テーゼ」をまず制憲会議のボリシェヴィキ議員団に全会一致で採択させた。その後、取り急ぎ「ロシアを労働者‐兵士‐農民代表ソヴィエト共和国と宣言する。中央及び地方のすべての権力はソヴィエトに属する。」という条項で始まる「勤労被搾取人民の権利宣言」を起草し、これをボリシェヴィキで固められたソヴィエト中央執行委員会に全会一致で採択させた。
 この文書は「権利宣言」と銘打たれていたけれども、内容的には政体のあり方にも及ぶ憲法草案と言ってよいものであって、これを制憲会議の招集前に持ち出したのは、制憲会議を無視するクーデター宣言に等しいものであった。
 しかし、用意周到なレーニンはこれでけりをつけるのではなく、明けて1918年1月5日、公約どおりに制憲会議を招集してみせ、前記「権利宣言」の採択を制憲会議に迫るのである。ここで制憲会議がこれを実際に採択していたら面白いことになったのだが、エス・エルをはじめとする多数派が審議拒否で応じたことは、レーニンに恰好の口実を与えることになった。
 レーニンはボリシェヴィキ議員団を制憲会議から引き上げさせたうえ、同日深夜にはソヴィエト中央執行委員会に「制憲会議の解散に関する布告」を採択させた。そして翌6日には武装部隊を差し向けて制憲会議を強制解散したのである。
 1月12日、第三回全ロシア・ソヴィエト大会は改めて先の「権利宣言」を圧倒的な賛成多数で採択するとともに、レーニン政権の政策をすべて承認し、従来の布告の中から制憲会議に関わる文言をすべて削除することまで決議した。制憲会議は遡って存在そのものをすら否認されたのである。
 こうして選挙に基づいて招集された制憲会議を非合法的な手段で転覆したレーニンとボリシェヴィキ党の「本物」のクーデターは、成功裡に完了した。
 ここで改めて作り出された体制は、クーデター体制にふさわしく抑圧的であった。レーニン政権はすでに前年の12月にはソ連の悪名高き秘密政治警察KGB(国家保安委員会)の前身となる非常委員会(チェ・カー)を創設して、反体制派狩りの準備を整えていた。そして、クーデター後の4月3日には結社登録制、検閲、集会許可制などの言論統制を定める布告も発せられた。
 18年7月にようやく制定された革命後初の憲法「ロシア社会主義連邦ソヴィエト共和国憲法」は新生ロシアを「すべての労働者人民の自由な社会主義社会」と規定していたが、それは初めから虚しい空文句であったのだ。

2013年4月20日 (土)

マルクス/レーニン小伝(連載第28回)

第2部 ウラジミール・レーニン

第4章 革命から権力へ

(2)10月革命と権力掌握

flag4月テーゼの採択
 レーニンの4月テーゼは不評であった。事実上別の党となっていたメンシェヴィキから激しい非難を浴びたのは致し方ないとしても、彼自身のボリシェヴィキ内部からも異議を唱えられたのだ。
 そうした内部異論派の急先鋒は、古参幹部の一人レフ・カーメネフであった。後にスターリンによって粛清される運命にあった彼はメンシェヴィキとエス・エルが支配的なソヴィエトに同調し、臨時政府が革命を強化する限りでこれを支持するという立場から、4月テーゼに反対し、レーニンの革命論はブルジョワ革命がまだ完了していない現状で次の社会主義革命への転化を促すもので、性急すぎると批判したのだった。
 ある意味では全うなこの批判は影響力を持ち、4月テーゼは4月8日のボリシェヴィキ・ペテルブルク委員会では圧倒的な反対多数をもって否決されてしまった。
 しかし、レーニンはあきらめることなく党内の説得を続けた。その際、彼はカーメネフのようにブルジョワ革命は完了したとかしないとかを論じるのは古い公式にしがみつく教条主義であると反論した。ここで、レーニンはカーメネフを批判しながら、実はマルクスの「革命の孵化理論」を批判しているのである。
 そのうえで、レーニンは当時のロシアの状況はブルジョワジーが権力を掌握した限りでブルジョワ革命は終わったと言えるし、一方では「プロレタリアートと農民の革命的民主主義独裁」もソヴィエトという形である程度まで実現しているとし、革命的蜂起の機は熟していると論じたのであった。これは卵が孵化する前に、未熟卵のままひよこを取り出してしまおうというまさに彼の「早まった革命」の公式そのものであった。
 間もなく風向きがレーニンにとって有利に変わったのは、彼のやや牽強付会な理論的説得が功を奏したというよりも、臨時政府の失政のためであった。4月18日、臨時政府のミリュコーフ外相が連合国軍に送った覚書の中で戦争継続の意思を表明し、しかも領土併合・賠償取立てをも容認する趣旨の文言が付加されていたことが明らかとなったのだ。この事実は戦争終結と無併合・無賠償の講和を望む大衆の強い反発を呼び、臨時政府発足以来初の大規模な反政府デモ(4月デモ)が発生した。
 デモ隊は「ミリュコーフ打倒!」「臨時政府打倒!」「全権力をソヴィエトへ!」の急進的スローガンを叫び、臨時政府への公然たる異議を唱えていた。こうした主張は、明らかにレーニンの4月テーゼに沿うものであった。
 この追い風に乗って、4月テーゼは党の指導部よりも下部において浸透し始め、ついに4月24日から29日まで開催された全ロシア党協議会で圧倒的な賛成多数で採択されたのだった。
 ただし、これはあくまでも当時まだ党員数10万人に達していなかったボリシェヴィキの運動方針にすぎず、かれらがソヴィエト組織内においてはなお少数派である事実に変わりなかった。

flag革命までの曲折
 4月デモは臨時政府とソヴィエトの妥協により収拾が図られた結果として、5月初めに臨時政府が改造され、非難の矢面に立ったミリュコーフ外相は辞任する代わりに、ソヴィエト側からメンシェヴィキ、エス・エル系の6人の「社会主義者大臣」が入閣し、第二次臨時政府(リヴォフ首相は留任)が発足した。
 これにより、言わばソヴィエトとの連立政権の形となり、従来の臨時政府‐ソヴィエトの並行権力構造が軟化する。これは以後、ソヴィエト側の保守化を導いたであろう。
 その最初の徴候は、6月に開催された第一回全ロシア労働者‐兵士代表ソヴィエト大会に表れた。この頃には全国に拡大され、305のソヴィエトから送られた1000人近い代議員が参加して開かれた記念すべきこの大会の席上、自身逓信大臣として入閣していたソヴィエトのツェレテリ議長(メンシェヴィキ)は、従来よりも明確に臨時政府への支持を訴え、臨時政府に代わって権力を掌握できるような政党は存在しないと言明した。
 この時、「そういう政党はある。我が党は権力掌握を拒まないし、いつでもその準備はできている」と会場から公然反論したのがレーニンであった。この大会でボリシェヴィキは全権力をソヴィエトへ移す宣言案を採択するよう提案していたのである。しかし、大会代議員のうちボリシェヴィキ系は105人にすぎず、勝負は初めからついていた。
 とはいえ、この大会はレーニンの「4月テーゼ」に基づくボリシェヴィキの公然たる「政権奪取宣言」の場ともなったのである。
 一方、臨時政府側も次第に右傾化し、労働者・兵士への抑圧を強めていたことから、ボリシェヴィキはソヴィエト大会期間中の6月10日に労働者と兵士の統一的な平和的デモを計画した。ところが、メンシェヴィキとエス・エルが主導するソヴィエトはデモ禁止措置を打ち出し、違反者は反革命分子とみなすとまで通達したのである。レーニンはこうしたソヴィエトの保守化を前に慎重策をとり、デモの中止を決めた。
 これに対し、ソヴィエト側は6月18日に一種の官製デモを計画・実施した。当然ながら、デモ隊のスローガンの中心はメンシェヴィキなどの主張に沿って「制憲議会を通じて民主共和国へ!」といった穏健なものであった。
 これを見たボリシェヴィキはこのデモに飛び入り参加を決め、「全権力をソヴィエトへ!」のスローガンを対抗的に掲げてデモ行進した。デモ参加者の多くはむしろボリシェヴィキのスローガンになびき、このデモは不発に終わった6・10デモに代替する「ボリシェヴィキのデモ」に転化したのだった。ボリシェヴィキは事実上優位に立ったかに見えた。
 ところが7月に入り、再びボリシェヴィキを暗転させる事態が出来する。6月18日の官製デモの同日、臨時政府はドイツ軍に対する捨て身の大攻勢に出る。しかしこの無謀な作戦は大誤算であり、ドイツ軍の激しい反撃に遭い、かえって敗色濃厚となった。この新たな臨時政府の失策が兵士の大きな反発を招き、首都での武装デモに発展する。
 この武装反乱事件―政府はそう認識した―の口火を切ったのは、ペトログラードでも労働者街ヴィボルグ区に駐屯する第一機関銃連隊であった。かれらは先の大攻勢で前線へ送られることになっていたのである。
 かれらの反乱には労働者も合流して7月3日以降、デモは大規模化していった。デモ隊はボリシェヴィキに対しても行動を求めて突き上げた。保養中のフィンランドから急遽戻ったレーニンはしかし、動かなかった。
 この時点でのレーニンは、彼の想定する「第二の革命」の方法について平和的移行と武装蜂起とを天秤にかけていたのだ。当面の彼の判断は武装蜂起の機はいまだ熟さずというものであった。当時は臨時政府の事態掌握力はなお強く、蜂起の成功見込みはないと分析していたからである。
 その代わり、レーニンは今度のデモを平和的なものへ誘導することに決めたが、7月4日のデモは参加者50万人ともされる大規模な武装デモとなってしまった。事態を憂慮した臨時政府は武装デモの禁止と反乱部隊の武装解除、関与者処罰の方針を示した。ネフスキー大通りでは政府軍部隊による発砲もあり、5日にボリシェヴィキはデモの中止を決めた。
 だが、臨時政府側はこの時からはっきりとボリシェヴィキを敵視し、弾圧に乗り出した。ボリシェヴィキの活動家多数が逮捕され、レーニンも21日には反逆及び武装反乱の罪で起訴された。反逆容疑とは、かねてより反戦を唱える彼に対して向けられていた「ドイツのスパイ」という中傷にひっかけた根拠のないでっち上げであった。
 ただ、逮捕を見越したレーニンは5日には地下に潜伏し、12日以降はペテログラードから30キロ以上離れたラズリフ湖畔に変装して身を隠し、8月半ばになって今度は火夫に変装して機関車で国境を越えフィンランドへ逃亡するというまたしても007張りの逃避行を強いられたのであった。

flag反転攻勢
 7月の武装デモの後、臨時政府側にも重大な変化が起きた。第一次と第二次の臨時政府を率いてきたリヴォフ首相がついに辞任し、代わって第二次政府から陸海軍相として軍を掌握して影響力を強めていたケレンスキーが首相に就くことになったのである。こうしてレーニン起訴の三日後の7月24日にケレンスキー首班の臨時政府が発足する。
 偶然にもケレンスキーはレーニンと同じシンビルスク生まれで、彼の父がレーニン在籍当時のシンビルスク古典中学校長であったことは、第1章でも触れた。しかも、ケレンスキーの「本業」も同じく弁護士であった。しかし同じなのはそこまでで、ケレンスキーは初めエス・エル党から分かれた穏健なトルードヴィキ所属の帝政ロシア国会議員として頭角を現した。そして2月革命後はペトログラード・ソヴィエト副議長から臨時政府に入閣し、法相、陸海軍相を歴任して、ついに首相に上りつめたのである。
 レーニンより一回り年下でまだ30代の若き首相は一応「社会主義者」を標榜していたが、実際のところはナポレオンを気取った権力志向の野心家で、陸海軍相時代に足場を築いた軍を権力基盤に強力な政府を作って革命を収束させようとしていた。そのためにも、レーニンとボリシェヴィキは何としても潰しておく必要があった。
 潜伏中のレーニンは、彼がボナパルティストとみなすケレンスキーの政権掌握という新局面を見て、天秤を武装蜂起のほうへ傾け始めた。彼は7月の出来事とケレンスキー政権の登場をもって従来の並行権力の時期は事実上終わったと分析した。臨時政府は反動化し、メンシェヴィキとエス・エルが支配するソヴィエトも反動化した臨時政府の事実上の与党になり下がってしまった。代わって、ブルジョワ軍事独裁の危険が立ち現れたと考えたのである。
 こうした情勢の下では、平和的な方法で全権力をソヴィエトへ移すことは不可能であって、武装蜂起によってブルジョワ独裁権力の打倒を目指さざるを得ないということが新方針となった。レーニンはラズリフ湖畔に潜伏していた時にこうした方針を固め、この頃台頭しつつあった若手のスターリンら身柄が自由な党幹部を通じて指導していった。
 しかし、8月に入るとロシア国内での潜伏は危なくなり、前述のような007張りの方法でフィンランドへ逃亡しなければならなくなった。二度目となるフィンランド潜伏はレーニンが最も強く暗殺を意識した時期であった。実際、彼はこの時期に執筆した『国家と革命』の原稿を万一に備えて死後出版できるようカーメネフに託したほどだった。
 『資本主義の最高段階としての帝国主義』と並んでレーニンの二大著作とされるこの政治理論書がいつになく教科書的な書きぶりとなっているのも、この時期の彼がこの書を後世への一種の遺言として書き残そうとしていたからかもしれない。
 しかし、事態はまたしてもレーニンにとって有利な方向に動き始めた。きっかけは8月末、ケレンスキーから軍最高総司令官に任命されていたコルニーロフ将軍が軍事クーデターを企てたことであった。帝政ロシアのエリート軍人としては珍しくコサック出身であった将軍は、無秩序状態を終わらせることのできない臨時政府に代えて軍事政権を樹立して秩序回復を目指す考えを持っており、ブルジョワ保守層の間で期待を集めていた。
 しかし、コルニーロフ将軍のクーデター計画は事前にケレンスキー首相に知られるところとなり、将軍は解任された。しかし、将軍はコサック師団を動員して軍事反乱を起こす企てに走る。これは2月革命以来最大規模の反革命反乱であったが、軍人でないケレンスキーは政府軍を掌握し切れておらず、自力では反乱に対処できなかった。
 ここに至り、ソヴィエトは臨時政府を守るため、メンシェヴィキ、エス・エルに非合法化されたばかりのボリシェヴィキも加えた「反革命に対する人民闘争委員会」を組織し、反革命反乱軍に対抗する労働者民兵組織(赤衛軍)も結成する。革命の一大危機を前に、革命諸派が2月革命後初めて団結したのであった。
 中でもボリシェヴィキの活躍はめざましく、反乱軍と果敢に交戦したほか、巧みな宣伝活動を通じて、反乱軍のペトログラード進軍を阻止するための妨害・説得工作に一般市民を動員することにも成功した。こうして首都への進軍を阻まれた反乱軍内部では命令拒否などの背信的な動きが広がり、反乱はあえなく瓦解、コルニーロフ将軍の逮捕をもって鎮圧された。
 このように民衆が体を張って「保守派」のクーデターを阻止するという経験を、ロシア人はその74年後のソ連邦末期に、今度は全く正反対の形でもう一度持つことになる。
 ともあれ、コルニーロフ反乱は「革命を救った」ボリシェヴィキの声望をいまだかつてなく高めた。10月革命で政権を追われることになるケレンスキーは後年、「コルニーロフのクーデターがなければ、レーニンの時代は来なかっただろう」と述懐している。まことに、レーニン最大の“恩人”は反革命派コルニーロフ将軍であったのだ。
 8月末から9月初めにかけて、ペトログラードとモスクワの二大都市のソヴィエトは相次いで、ブルジョワ勢力との協力関係を断ち、革命的プロレタリアートと農民の協力を構築することを求めるボリシェヴィキ提案を賛成多数で可決した。そして、ペトログラード・ソヴィエトの議長にはボリシェヴィキからトロツキーが選出されたのである。

flag革命の成功
 コルニーロフ将軍の反乱の結果生じたボリシェヴィキにとっていまだかつてない有利な状況の下、レーニンは初めて武装蜂起にゴーサインを出す。「ボリシェヴィキは権力を掌握しなければならない」というそのものずばりの論説がそれである。同論説で、彼は冒頭、「ボリシェヴィキは二つの首都の労働者・兵士代表ソヴィエトで多数派となった以上、国家権力をその手に掌握できるし、また掌握しなければならない」と定言的に言明している。
 彼はボリシェヴィキが全国のソヴィエトの中で形式上(数字上)の多数派を占めていなくとも武装蜂起すべきだと主張するのである。
 このように先を急ごうとするレーニンの念頭には、ケレンスキー側の動向があった。ケレンスキーはコルニーロフ反乱の鎮圧でボリシェヴィキに借りを作ったとはいえ、ボリシェヴィキに妥協するつもりはなかった。むしろ「ボリシェヴィキの人質」という風評を払拭するためにも、臨時政府が3月に公約していた制憲会議選挙の準備を急いでいたのである。その第一歩として、彼は17年9月1日には「共和国宣言」を発し、ボリシェヴィキの手に落ちつつあるソヴィエトに代わる予備議会として「共和国評議会」の設置を決めていた。
 こうしたレーニンの方針に対しては、またしても慎重なカーメネフが異論を提起したため、党議決定が進まなかった。カーメネフの意見は、10月20日に予定されている第二回全ロシア・ソヴィエト大会でボリシェヴィキは多数派を形成する公算が高い以上、武装蜂起せずとも平和的に全権力をソヴィエトへ移すことは可能であるという楽観的なもので、この時点では党中央委員会の多数の支持を得ており、レーニンは孤立していた。
 しかし、彼は持ち前の粘り腰で自説を主張し続け、中央委員辞任までちらつかせて説得を試みた。その結果、10月10日にヴィボルグ区の隠れ家で21人の中央委員中12人だけ集めて開かれた党中央委員会の秘密会議では、ついに10対2の票決で武装蜂起が採択されたのである。
 ちなみに、この時二票の反対票を投じたのは、カーメネフと後に彼とともにスターリンによって粛清されるグレゴリー・ジノヴィエフであった。二人は16日の党中央委員会会議で改めて巻き返しに出る。彼らは、党下部組織からの報告によると兵士は疲弊し、労働者の士気も落ちており、ソヴィエト大会前に蜂起できる情勢にはないと主張し、蜂起の延期を求める動議を提出した。この動議は否決されたものの、今度は全21人の出席者中6人の賛同者を出した。
 カーメネフは中央委員を辞任したうえ、ゴーリキーが発行していた新聞紙上でボリシェヴィキの武装蜂起計画を暴露した。これにより計画が公になってしまったため、レーニンは激怒し、カーメネフとジノヴィエフの除名を口走ったが、二人の排除はさしあたりスターリン時代まで持ち越される。
 レーニンは9月に武装蜂起の方針を決めた際に書いた手紙形式の論説の一つ「マルクス主義と蜂起」の中で、蜂起をマルクスにならって「戦闘術」として性格づけたうえ、10月8日に書いた同じく手紙形式の「一欠席者の助言」では、この「戦闘術」について、マルクスをまるで軍事戦略家のように扱いつつ、マルクスが武装蜂起の要諦に関して述べた「法則」を引きながら、蜂起の実際を事細かに指示している。
 このように、10月革命蜂起はレーニンとボリシェヴィキ党によって綿密に企画された軍事蜂起であり、その司令部として10月12日にはペトログラード・ソヴィエトに軍事革命委員会が設置された。これは形式上ソヴィエトの機関でありながら、事実上はボリシェヴィキの軍事指導機関であり、その下に赤衛隊が組織された。
 先述のように、すでに蜂起の計画がカーメネフによって暴露されて一般紙上でも取り沙汰されるようになっていたことは、蜂起を遅らせるどころか、もはや決定的なものとした。第二回ソヴィエト大会は5日延期されて25日招集の予定となっていたから、この日が目標期限に設定された。
 対するケレンスキー政権側はすでに報道からボリシェヴィキの武装蜂起計画を察知していたが、ボリシェヴィキの能力を見くびっていたため、積極的な未然防止措置に出ず、蜂起したボリシェヴィキを難なく粉砕できると楽観視していたのだった。政権側はようやく24日になってボリシェヴィキの新聞発行所を強制閉鎖し、中央機関紙の発行停止を命じた。
 ボリシェヴィキにとっては、これが軍事行動開始の合図となった。24日夜から25日にかけてボリシェヴィキ側が次々と首都の重要拠点や公共機関をほぼ無血のうちに制圧した。翌26日には前日のうちに首都を脱出していたケレンスキーを除く臨時政府閣僚が士官学校候補生や女性突撃隊などわずかな非正規部隊によって警護されながら立てこもっていた冬宮も制圧され、閣僚らは逮捕された。
 同日、第二回ソヴィエト大会は臨時政府が打倒されたことを告げるレーニンの有名な檄文「労働者、兵士、農民諸君へ!」をほぼ全会一致で採択するとともに、レーニンを首班とする新たな政府・人民委員会議を設立した。
 直後、首都を脱出していたケレンスキーが一部の旧政府軍部隊の支持を取りつけて反撃に出る。彼の部隊は28日には首都から25キロ地点まで迫り、これに呼応する反乱がモスクワやペトログラードでも起きたが、間もなく鎮圧された。ケレンスキーは配下のコサック部隊にも裏切られ、ほうほうのていで逃亡し、ひとまずフランスへ亡命していった。
 こうして旧暦10月25日にほぼ帰趨を決した10月革命は、ボリシェヴィキの完勝に終わったのである。2月革命からわずか8か月、電光石火の「第二革命」であった。

2013年4月13日 (土)

老子超解:第二十五章 道の実践者

二十五 道の実践者

遠い過去の道のすぐれた実践者は微妙に奥深く、その深さは測り知れないほどであった。そもそも測り知れないからこそ、ここであえてその様子を描いてみよう。
そろそろと川を渡るかのごとく、おずおずと四方を警戒するかのごとく、きりりとして客人のごとく、さらさらとして氷が解け始めるかのごとく、しっとりとしてまだ削られていない粗木のごとく、広々として谷のごとく、混沌として濁り水のごとくといったところである。
濁ったままの静かな状態からだんだんに澄み切らせていくことが(道を実践しない)誰にできようか。じっとしたまま動かない状態からだんだんに物を生み出していくことが誰にできようか。かの道を守る者は何事も満ちることを望まない。そもそも満ちることを望まないからこそ、使い古しても新生するのだ。


 
前章まで様々に言表を変えて縷々説かれてきたを実践する人とはいったいどんな人物像なのだろうか。仙人のような超越者なのか。そんな疑問に答えるのが通行本第十五章に当たる本章である。
 言語による概念規定を好まない老子が第二段で詩的な対句の形式で描写するの実践者とは、慎重・丁重・柔弱・重厚・寛大・深遠といった人物像である。これに第三段末尾で語られる満ちることを望まない無欲も加えられるだろう。
 ここからイメージされるのは仙人ではなく、文明を身につける以前の先史時代の賢人のような人物ではないだろうか。老子は決して復古的な反文明論者ではないが、彼が言わば理念型として参照するのは、文明以前の人間社会と人間像なのである。これが老子特有の遡行的思惟である。
 ところで、『論語』で古人の三つの欠点として肆[し](遠大)・廉(謹厳)・直(愚直)ということが指摘されている。『論語』では、こうした古人のまだしも許せる欠点が同時代人にあってはそれぞれ蕩(放埓)・忿戻[ふんれい](短気)・詐(偽善)にまで堕してしまったことが手厳しく批判されている。
 おそらく老子も同時代人に関しては同じ批判を共有すると思われるが、『論語』では―当然にも儒教=文明によって―克服されるべき古人の欠点として示された肆・廉・直の三つの性格は、老子にあってはむしろ本章で描写されたの実践者の長所と重なると言ってよいだろう。
 このあたりは、老子と孔子が互いに交差する地点を持ち合いながらも、結局は対抗的にすれ違っていく両者の微妙な関係性がうかがえるところである。

2013年4月10日 (水)

天皇の誕生(連載第46回)

第十章 天智天皇と天武天皇

(4)天武天皇の実像

兄の同志
 天智天皇の同母弟で、後に第40代天武天皇となる大海人皇子―逆に天武を天智の兄とする説もかねてより存在するが、ここでは立ち入らない―の動向が『書紀』で最初に確認されるのは、孝徳政権末期、中大兄が無血クーデターで難波から飛鳥へ遷都を強行した際に兄に同行したとの記事である。
 その後、百済救援の時に彼が果たした役割はよくわからないが、筑紫遷都にも同行したことは、後に皇后となる妃の鸕野讚良[うののさらら]皇女が後の皇太子・草壁皇子を筑紫で出産している事実からも明らかである。
 大海人の実務面での実質的なデビューは白江敗戦後の664年2月に兄の命により甲子の宣を発布した時である。そして、近江遷都後の667年(正史上は天智元年)に東宮太皇弟[ひつぎのみこ]の称号を得て、正式に後継指名を受けている
 天智が自身の忠実な同志として振舞っていた実弟をいったんは後継者に定めようとしたのは、自身は男子に恵まれなかったせいであろう。天智には『書紀』に挙げられているだけでも14人の子がいるが、皇后で天智自身が討伐した異母兄・古人大兄の娘・倭姫王[やまとひめのおおきみ]との間に子がなく、14人全員が庶子であったうえ、内訳は女子10人、男子4人で、4人の男子の中で成人まで生き残った3人の実母はすべて身分が低かった。
 天智が後に天武の皇后、そして天皇にも登位した鸕野讚良を含め、4人もの娘を大海人に嫁がせたのも、将来大海人が皇位を継いだ後も、自らの血が実弟の家系に継承されていくことを期待してのこと―事実、そうなった―と考えられる。とはいえ、いざ弟を後継者に立ててみると、天智の胸には割り切れない気持ちも去来したであろうことも、想像に難くない。

天智の変心
 こうした天智の複雑な思いが表面化してきたのは、治世末期の670年に息子の大友皇子を新設の太政大臣に任命した時のことである。
 太政大臣とは前年に内大臣として事実上の首席大臣の座にあり、乙巳の変以来天智の知恵袋でもあった藤原鎌足が病没したことを受けて、新たに設けられた律令制の先駆け的な制度である。この要職に大友皇子を就けたのが、天智の心変わりの始まりであった。
 大友皇子は天智が後宮の采女に産ませた子で、実母の身分は低かったが、665年に講和のため使節団を率いてやってきた唐の使者・劉徳高が引見して「この皇子は風格・容姿が世人とは異なり、この国にそぐわないくらいだ」と絶賛したというほど、人格識見に優れた人物であったようで、とみに評判が高まっていた。
 そのため、父・天智としても、ある時点から大友皇子を後継者とする腹づもりをしていたと思われ、若い大友をあえて太政大臣の要職に任命して、政治経験を積ませようとしたのだろう。
 天智がもう少し長く生きていれば、大友へのスムーズな皇位継承を実現することも可能であったかもしれないが、天智は間もなく発病し、死の床に伏せることになる。
 この先、『書紀』では天智が大海人を病床へ呼び出して皇位を譲りたい旨を伝えるが、大海人は固辞し、皇位は皇后に譲り、大友皇子を皇太子として諸政を行わせるよう進言、天皇はこれを了承したとされる。そして、大海人は天皇の許可を得て出家し、吉野へ隠退していく話になっている。
 しかし、天智は大海人をすでに後継指名してあったのに、改めて死の床で禅譲を申し出るというのは不自然である。元来、『書紀』は天武の子である舎人親王が編纂総裁となって編集されたものであるだけに、天武天皇を偉大な君主として礼賛する「天武崇拝」を基調としているから、この“出家”から挙兵に至るまでの経緯は明らかに天武に都合よくまとめられている。
 思うに、天智は大友皇子を太政大臣に任命した時点ですでに心変わりしており、大海人を病床に呼び出したのは、「大友後継」の新方針を告げ、「東宮太皇弟」の大海人を太政大臣など大友を補佐する役職へ異動させることに同意を求めるためだったのである。
 これに対して、すでに兄の変心に感づいていた大海人は表面上「大友後継」に同意しつつ、自らの役職転換はやんわり固辞し、病気を口実に出家による政界引退を申し出たのである。
 しかし、数々の謀略を成功させてきた天智が大海人の“出家”を額面どおりに受け止めたとは考え難く、こちらも表面上弟の申し出を許可しながら、大友皇子らには大海人の今後の動静に注意し、ひょっとすると政敵に謀反の罪を着せて滅ぼす得意の手法を伝授さえしたかもしれない。
 ともあれ、天智は間もなく死去し、さしあたって近江朝廷は大友皇子を擁して重臣の集団指導体制が採られることになる。

“出家”から挙兵へ
 『書紀』によると、大友皇子は天皇に正式に即位しないまま、壬申の乱に敗死したことになっているが、平安時代以降、「大友即位説」も強くなり、近代になって「弘文天皇」の諡号も追贈された。
 平安朝下で「即位説」が高まったのは、奈良朝最後の光仁天皇が天智天皇の孫に当たり、光仁の子・桓武天皇が平安朝を開いたことで、以後は「天智系」皇統に確定したため、近江朝廷が再評価されるようになったことが関係しているかもしれない。
 しかし、より実質的に考えて、大海人の“出家”を信用していなかった天智は大友に早期の即位を遺言していたはずであり、大友が父の死去から間を置かずに即位していた可能性は十分にあると思われる。『書紀』が大友の即位を記さないのは、天武にあからさまな皇位簒奪者の汚名を着せないようにするための政治的な作為とも考えられるのである。
 いずれにせよ、“出家”して吉野へいったん隠退した大海人は、間もなく近江朝廷が自分を抹殺しようとしている徴候があるとの密告を受け、挙兵を決意する。
 この挙兵動機となった「謀略」は実在したのか、それとも元来皇位簒奪の機を窺っていた大海人側の口実にすぎないのか。先述したように、死の床にあっても意識ある限り謀略家であった天智は、大友らに大海人の早期抹殺を教唆していた可能性は十分にあり、「謀略」は真実であろう。しかし、近江朝廷の誤算は、朝廷内に大海人の内通者が伏在しており、謀略の動きを大海人側に察知されたことである。
 こうした謀略の発覚は、元来皇位簒奪の機を窺っていた大海人にとっては挙兵の絶好の大義名分となった。『書紀』が本人の言葉として伝えているように、「隠退して療養に努め、天命を全うするつもりであったのに、自分を亡き者にしようという策動を黙って見ていられるか」というわけである。
 大海人は先手を打って東国入りし、軍を徴発して挙兵準備にかかる。こうして勃発した壬申の乱の詳細は『書紀』の天武天皇即位前紀(壬申紀)に活写されており、「天武崇拝」の『書紀』が最も力を入れて叙述する小戦記となっている。

遊興人・天武
 壬申の乱は皇位継承をめぐる天下分け目の動乱ではあったが、長期の内戦に発展することはなかった。『書紀』の大活劇的描写をもってしなくとも、大海人は本質的に武人であったのに対して、大友は人格識見に優れていたとしても、文人タイプの若者にすぎず、海千山千の叔父を武力で滅ぼすことができるほどの機略を持ち合わせてはいなかったのである。
 それに加えて、近江朝廷内部にも、天智が死の直前に後継者を変更し、生母の身分が低い庶流の皇子を後継者に立てたことへの当惑・反発も相当にあり、確信をもって大友を守り抜こうとする者は少なかったと見られる。
 こうして、乱は比較的短期決戦で大海人側の勝利に終わり、近江朝廷はわずか5年ほどで滅んだ。もっとも、天皇となった大海人は政治的には兄の路線の継承者であったから、後昆支朝自体は系統を変えて継続していく。
 天武政権の主要な事績は兄が志半ばに終わった律令制を基軸とする天皇至上制の確立に努めたことである。そのために、まず治世5年という即位後の比較的早い段階で、後期天智政権時代に天武も関わった甲子の宣で諸氏に支給されていた部曲(民部)を全廃し、官人の俸禄制度である食封[じきふ]制度に切り替え、氏族の経済的特権を剥奪した。
 そのうえで、甲子の宣で示された氏族等級制をより制度的に高め、有力氏族を真人・朝臣・宿禰・忌寸・道師・臣・連・稲置の八等級に分ける「八色の姓」を制定した。これは従来のような「豪族」の割拠状態に最終的なピリオドを打ち、天皇を頂点とする貴族制度の幕開けを告げる施策であった。
 天武政権はこうした政治経済的な土台を踏まえ、中央省庁の整備にも取り組み、天智時代には完成しなかった令の編纂事業にも本格着手した。
 これらの「痛みを伴う」諸改革を上から断行していくためにも、天皇の地位はいよいよ高められ、万葉集でも「大王は神にしませば」とまで歌われるほどに神格化されていった。天皇を神の化身に見立てる「現御神(あきつみかみ)」という天皇制に特有のキー観念も、天武時代に作り出されたと考えられている。
 おそらく「天皇」を「テンノウ」と音読みする習慣も、この時代に確立されたのではなかろうか。それまでの「スメラミコト」はまだ「最高位の貴人」にすぎなかったが、「テンノウ」は「天の皇帝」であり、かつての「治天下大王」はついに天まで昇って神そのものになったのである。
 しかし、生身の人間としての天武の本領は武人であり、決して神の化身でもなければ、大政治家でもなかった。彼は壬申の乱の功労者たちが早世すると驚き嘆く哀楽の情の激しい人柄で、博戯(すごろく)や無端事[あとなしごと](クイズ)を好む宴会好きの遊興人でもあった。そして『書紀』は明確に記さないが、酒色をも好んだと思われる。
 神の化身となった天武は、現実の政治においては大臣を置かず、要職を身内で固める独裁政治(皇親政治)を展開したが、その中で天武政権の実質的な太政大臣格として影の実力者となったのが、『書紀』で「終始天皇を助けて天下を安定させ、常に良き助言で、政治面でも輔弼の任を果たされた」と讃えられる鸕野讚良皇后であった。
 実際、この人がいなければ、神の化身もまともな政治運営をなし得なかったであろう。兄・天智の知恵袋は藤原鎌足という官人であったが、天武の知恵袋は皇后であったのである。

 乙巳の変で成立した後昆支朝は、天智・天武兄弟天皇の治世計30年ほどの間に、将来の律令制国家へ向けた基礎を整備した。この間、王朝ルーツの百済は滅亡したが、それはかえって倭が独自国家「日本」として自立する契機となった。
その新生「日本」の神話と歴史の構築に深く関わり、律令制を完成させ、神の化身にまで昇華された天皇を制度的にも確立したのは、天智でも天武でもなく、両者の血を引く一人の女帝ではなかったか。

2013年4月 5日 (金)

マルクス/レーニン小伝(連載第27回)

第2部 ウラジーミル・レーニン

第4章 革命から権力へ

ああいうパン粉からロベスピエールみたいな人物が作られるのです。
―師プレハーノフ

(1)第二次革命の渦中へ

flag第一次世界大戦と「帝国主義論」
 レーニンは、1912年1月のプラハ協議会を通じてボリシェヴィキ党を自立させた後、同年6月、妻とともにオーストリア領のクラカウへ移った。当時中・東欧にまたがる多民族帝国であったこの地で、レーニンは民族自決権をめぐって、またしてもローザと論争を展開することになった。
 ローザが民族自決という観念はブルジョワ的であって、プロレタリア革命抜きの「独立」は民族ブルジョワジーを利するだけだとみなし、自身の祖国ポーランドの早期独立にも反対するのに対し、レーニンは被支配民族のブルジョワジーが支配民族から国家的独立を目指す限り、社会民主党はそれを支援すべきだとしてローザに反駁するのである。
 レーニンはそうした観点から、当時アジアで活発化していた多くは民族ブルジョワジー主導の独立運動を高く評価したのである。そのことを主題的に論じた彼の論文「後進的ヨーロッパと先進的アジア」には、ある意味でマルクスよりも進んだレーニンのアジア観がよく表わされている。
 こうしてレーニンは、今日では重要な国際法原則として確立を見ている民族自決権の先駆的擁護者としての栄誉に浴している。もっとも、彼が権力掌握後にソヴィエト連邦を構築した際に示した態度は、ロシア国内及びその周辺諸民族の自決権を十分に尊重するものとは言い難かったのであるが。
 ともあれ、レーニンとローザが民族自決論争を戦わせた直後に、まさに民族自決をも重要な争点の一つとする第一次世界大戦が勃発したのだった。
 この時期の大戦勃発はレーニンにとっても予想外であったようだが、彼の得意技は臨機応変にあった。不測の事態に直面すると直ちに新たな方針を立てて行動に出るのである。彼が独立したばかりのボリシェヴィキをスイスのベルンの森の中に招集して示した方針は、後に彼が簡潔にまとめたスローガンで表現すれば、「帝国主義戦争を内乱へ!」であった。
 その際、彼はまず表向き「反戦」の立場をとる。しかしこの「反戦」とは、平和主義からの単純な「戦争反対」とは異なり、大戦によって生じるであろう国内の混乱と窮乏を利用して、それを内発的な革命に転化しようという戦略であった。
 これに対して、マルトフを除くメンシェヴィキやプレハーノフ、さらには1889年以来社会主義インターナショナル(第二インター)を主導してきたドイツ社民党もローザらを除く主流派は開戦後、社会主義者の立場から祖国防衛戦争を支持する左翼愛国主義に流れていった。
 レーニンはこうした流れに反対し、戦争を機に事実上崩壊した第二インターに代わって18年8月、ベルン近郊のツィマーヴァルトで開かれた反戦社会主義者の大会に出席し、反戦運動の国際的連帯を推進した。
 その一方で、彼は重要著作の執筆にとりかかった。今日『資本主義の最高段階としての帝国主義』という表題で知られるこの著作は小著ながら、マルクス没後に進展してきた帝国主義という新たな政治経済的現象をマルクス主義的に分析したものとして、マルクス『資本論』を補充する意義を持つレーニンの代表的な著作とみなされている。
 この著作で彼が示した帝国主義の定義「独占体と全資本家の支配が成立し、資本輸出が顕著な重要性を獲得し、国際トラストによる世界分割が開始され、最強の資本主義諸国による一切の領土の分割が完了した、そうした発展段階の資本主義」は、長きにわたりレーニンの権威とともに帝国主義の定番的公理とされてきたが、今日ではほぼ否定されていると言って過言でない。
 特に帝国主義を独占資本と直結させるのは後発帝国主義国であったドイツ、米国、日本などには妥当するとしても、先発帝国主義国の英国やフランスにはほとんど妥当しない点で、一面的な定義であった。
 そればかりでなく、表題にあるように帝国主義をもって「資本主義の最高段階」ととらえ、著作の最終章で「死滅しつつある資本主義」と結論づけるのは、資本主義が第一次世界大戦をはるかに越えてまさに今日まで持続してきたことを見れば、早まった予測であったとしか言いようがない。むしろ当局の検閲を考慮して彼が当初与えた表題『資本主義の最新段階としての帝国主義』のほうがまだ堅実であっただろう。実際、帝国主義は当時における資本主義の新たな化身であったからである。
 マルクス理論による限り、資本主義はそれ自身の高度な発達によって共産主義を孵化させ産み出すのであって、「死滅」するようなものではない。この点で、レーニンはまたしてもマルクスから離反するのである。
 しかし、こうしたレーニンの早まった予測も、先に見たスローガンのとおり、戦争を革命に転化させるという彼の革命戦略に照応したものであり、要するにこれも彼の「早まった革命」(=労農革命)の正当性を裏づけるための理論にほかならなかったのである。

flag2月革命と帰国
 大戦は果たしてレーニンの期待したとおり、国内に革命的状況を引き起こした。戦争開始後連戦連敗を続け、前線の兵士を含めて反戦ムードが高まる中、労働者のストとデモの広がりに対して事態掌握力を喪失した帝政は崩壊し、ロマノフ朝の300年が終焉した。
 旧暦で1917年2月23日に起きたことから「二月革命」と呼ばれるこの新たな革命の主役は―大戦中の1914年にペテルブルクから改称されていた―首都ペトログラードの労働者及び兵士であったが、革命後発足した大地主の自由主義者ゲオルギー・リヴォフ公爵を首班とする臨時政府は、エス・エル系のアレクサンドル・ケレンスキー法相を除けばカデット系のリベラルなブルジョワ政権であった。
 一方、これに先立って労働者‐兵士の側は第一次革命の先例にならい、ソヴィエトを組織していた。その議長と副議長の一人はメンシェヴィキ系で、もう一人の副議長が先のケレンスキーであた。このように、2月革命当初のソヴィエトはメンシェヴィキとエス・エルが主導しており、レーニンのボリシェヴィキは全くの少数派だったのである。
 こうした構成を反映して、ソヴィエトの当面の方針は一挙に政権獲得に走るのでなく、まずは臨時政府の動向をウォッチしながらこれを条件付きで支持するという穏健なもので、これはプロレタリア革命を時期尚早と認識するメンシェヴィキの考えにおおむね沿っていた。こうして以後、10月革命までは臨時政府とソヴィエトの並行権力の時期を成す。
 一方、開戦後オーストリア当局に逮捕され再びスイスへ亡命していたレーニンは2月革命勃発の報に接すると、直ちに帰国の準備にとりかかった。しかし危険な革命家の通過を認める第三国はほとんどなく、帰国の方途に乏しいことが悩ましかった。
 そこで、反戦の立場では珍しく一致していたマルトフがロシアに抑留中のドイツ・オーストリア人捕虜と交換する条件で敵国ドイツを経由して帰国する方法を提案し、レーニンもこれを承諾した。こうして実現したのがいわゆる「封印列車」による帰国である。
 レーニンは帰国直前の17年3月、手紙の形式でいくつかの論説をしたためたが、その中で早くも明確に2月革命に続く「第二の革命」―すなわち労農革命―に言及し、その準備として規律ある民兵組織とそれに依拠したソヴィエトの強化を要請している。つまり彼はこの段階で現実の権力掌握を射程に入れ始めたのだ。そしてその手段として、12年前の第一次革命でも着目していながら利用し損ねたソヴィエト組織を利用することも狙っていたのである。
 レーニンは4月3日、封印列車でペトログラードへ到着した。ボリシェヴィキは12年に「独立」した後、直後の4月にシベリアのレナ金山で起きた労働者虐殺事件を契機に再燃した労働運動の波に乗って、首都ペトログラードを中心に声望を高めていたから、レーニンもすでに有名になっており、その帰国は歓呼をもって迎えられた。大衆の間では、すでに彼は将来の国家指導者たり得る一人と想定され始めていたのだ。
 レーニンはこの帰国に際して、さしあたりボリシェヴィキ党に向けた主要十項目から成る要綱を携えていた。後に「4月テーゼ」として知られるようになったこの要綱には次のような驚くべき内容が盛り込まれていた。

○戦争は依然として帝国主義的なものであり、「革命的祖国防衛主義」にはいささかも譲歩しないこと。
○ロシアの現状は、権力をブルジョワジーに譲り渡した革命の最初の段階から、プロレタリアートと貧農層の手中に権力を引き渡さなければならない革命の第二の段階への過渡期であること。
○臨時政府を一切支持しないこと。
○ボリシェヴィキがソヴィエト内で少数派であるという事実を認めること。ソヴィエトがブルジョワジーの影響下にある間はその誤りを大衆の現実的要求に即して説得すること。
○労働者‐雇農‐農民代表ソヴィエトの共和国。警察、軍隊、官僚の廃止。
○すべての地主所有地の没収と土地の国有化。地方の雇農‐農民代表ソヴィエトによる土地管理。模範農場の創設等。
○全銀行を単一の全国的銀行に統合し、労働者代表ソヴィエトによる統制を実施すること。
○社会的生産と生産物の分配に対する労働者代表ソヴィエトによる統制。
○党の任務として党大会の招集、党綱領の改訂、党名変更。
○革命的インターナショナル組織の創設。

 見てのとおり、この「テーゼ」はほとんどそのままボリシェヴィキ党の政権公約に等しいものであった。党員にとっても寝耳に水のこの「テーゼ」は、かねてよりレーニンの習慣となっていた一人で決めて通達するワンマン的手法が、現実の権力を前にはっきりと前面に姿を現したものにほかならなかった。ローザなら即座に論戦を挑んできそうであったが、彼女はこの頃反戦運動のかどで獄中にあった。

2013年4月 2日 (火)

世界歴史鳥瞰(連載第67回)

第8章 略

四 東西冷戦の時代

(1)冷戦の背景と発端
 大戦後の平和も束の間、誰も望まなかった大戦の第二幕が間もなく開けた。それは共に大戦の勝者であったアメリカとソ連の対立から生じた長期にわたる世界の東西分断と敵対、すなわち冷戦である。平和は以後40年余りにわたってまさに凍結されるのである。
 前節で触れたように、アメリカは連合国の盟主格として大戦を通じて覇権を確立したわけだが、その一方で対独戦に勝利し、大戦の戦局を変えた功績を持つスターリン独裁下のソ連がアメリカに対する挑戦者的なライバルとして急浮上していた。その確執の最初の発端は東欧問題であった。
 戦後ナチス・ドイツの支配から解放された東欧諸国では対独レジスタンス組織を母体とする共産党を含めた連合政権が成立していたが、やがて東欧地域への勢力圏拡大を狙うソ連が裏で糸を引くクーデターや操作された選挙によって共産党(もしくは共産系労働者政党)が政権を掌握し、順次マルクス‐レーニン主義を体制教義とするソ連型国家社会主義体制に切り替わっていった。これらの政権はほとんどが親ソ傀儡政権の性格を持つものであった。一方、ギリシャでも共産党勢力が伸張し、反共勢力との内戦が勃発していた。
 この間、46年3月にはチャーチル英首相が有名な「鉄のカーテン」演説を米国で行い、暗にソ連との対決姿勢を打ち出した。これを受ける形で47年3月にはトルーマン米大統領が英国から引き継いだギリシャと隣国トルコ―革命後のトルコは一時ソ連に接近していた―への財政・軍事援助を通じて「全体主義体制」(ソ連)の影響力を封じ込めるいわゆる「トルーマン・ドクトリン」を発表した。これはソ連の名指しを慎重に避けつつも、事実上冷戦の宣戦布告に相当するものとみなされた。
 同時に、アメリカは47年6月、自国の資金でヨーロッパの戦後復興を進めるいわゆるマーシャル・プランを発表し、ヨーロッパへの経済援助を通じた影響力の拡大を図った。さらに、極東方面でソ連と国境を接する日本での占領行政を通じて日本の戦後復興を急ぎ、日本を東アジアにおける「反共の砦」として再構築する戦略をも推進していくのである。
 これに対し、ソ連はマーシャル・プランに強い不快感を示し、ヨーロッパ各国の主権を侵害するものとして参加を拒否するとともに、東欧各国にも同調を求めた。そして、47年9月にはソ連共産党を中心に東欧各国とフランス、イタリアの共産党もしくは共産系労働者政党を束ねるコミンフォルム(共産党・労働者党情報局)を結成した。
 これは対戦中の43年に米英との協調を重視して解散していた旧コミンテルンを改めてソ連の強い主導の下に復活させたに等しいもので、スターリン体制にとっては従前の一国社会主義テーゼの正式な転換を意味した。
 ただ、対独レジスタンス組織が独自に解放を進め、ソ連と距離を置く姿勢が強く、マーシャル・プランをも受容したユーゴスラビア(共産主義者同盟)は48年に早々とコミンフォルムを除名され、以後は東西いずれの陣営にも属さない非同盟諸国運動のリーダー格として独自路線を歩むことになる。

(2)東西二大陣営の結成
 こうして鮮明になってきた東西対立を決定づけたのは、48年6月のソ連によるベルリン封鎖であった。
 大戦後、米英仏ソ四か国共同で分割占領していたドイツではすでに米英仏とソ連の間で戦後復興の方法をめぐって亀裂が生じていたが、48年3月に四か国で構成するドイツ管理理事会が決裂して機能を停止すると、米英仏は同年6月西側占領地域で通貨改革を実施し、新ドイツ・マルクを導入した。対抗上、ソ連も占領地区域内で新東ドイツ・マルクを導入、ドイツはまず通貨面で東西に分断された。
 これを受けてソ連はベルリン市の西側占領地区への電気・ガスの供給停止と全交通路遮断の措置を講じたのに対し、西側は救援物資の空輸作戦で応じた。
 こうした緊張の中、ソ連は49年1月、東欧六か国と社会主義諸国間の経済協力や国際分業を目指す経済相互援助会議(コメコン)を結成して「東側」陣営の基礎を固めた。これに対して、同年4月、米国とカナダ、英仏伊など十二か国は北大西洋条約を結び、これに基づく対ソ軍事同盟の性格を持つ集団的安全保障機構として北大西洋条約機構(NATO)を設立し、「西側」の軍事的結束を強化した。
 東西対立の最初の舞台となったドイツでは49年9月、西側占領地域にブルジョワ共和制のドイツ連邦共和国(西独)が発足すると、翌月、ソ連占領地域でもドイツ共産党と同地域のドイツ社民党が合併してできたマルクス‐レーニン主義政党、社会主義統一党が支配する親ソ派のドイツ民主共和国(東独)が発足し、ドイツは東西分断国家となった。
 これに伴い、首都ベルリン市も西独に属する西ベルリンと、東独に属する東ベルリンに分断され、やがて61年には当時の東独当局によって東独市民の西ベルリン脱出を防止するための障壁(ベルリンの壁)が構築され、東西冷戦の象徴ともなった。
 ドイツと並び東西冷戦のもう一つの主要舞台となったのは、朝鮮半島であった。
 大戦後、日本から解放され、北緯38度線(旧日本軍師団境界線)を境にまさに分割占領されていた朝鮮でも両国の利害対立から47年に米ソ合同委員会が決裂した。
 その結果、48年5月にアメリカの後押しで南朝鮮の反共右派が単独選挙を強行し、8月に親米派李承晩を大統領とする大韓民国(韓国)を発足させると、翌月に平壌で親ソ派金日成を首班とする朝鮮民主主義人民共和国(以下、朝鮮と略す)が樹立されるという形でドイツと同様の分断状況が生じた。
 しかし、分断された朝鮮が分断されたドイツと異なっていたのは、東西と南北という分断の方角よりも、分断後の展開であった。東西ドイツ間で戦争は起きなかったが、南北朝鮮間では戦争が勃発したのだ。
 50年6月、抗日パルチザンの指導者であった金日成に率いられた朝鮮は武力統一を狙い、38度線を突破して韓国へ進攻した。朝鮮軍の優勢な軍事力のため首都ソウルが陥落し、韓国が崩壊寸前になると、アメリカは国連を動かして朝鮮軍の軍事行動を「侵略」として非難する安全保障理事会決議を採択させ、十六か国から成る「国連軍」―実質上は単なる多国籍軍―の名の下に軍事介入を開始した。
 アメリカ主導の国連軍の参加により戦局は一変し、国連軍は朝鮮軍を押し返して中国国境の鴨緑江まで迫った。これに脅威を感じたのは前年に発足したばかりの共産党主導の中国(中華人民共和国)であった。
 中国が朝鮮支援のため人民義勇軍を投入すると再び戦局は転換し、国連軍は押し戻され、またもソウルが一時占領された。しかし、その後は一進一退の膠着状態が続く中、核兵器の再使用まで提言していた強硬派の国連軍総司令官マッカーサーが解任されるに及んで、停戦の機運が訪れた。
 53年に入ると、早期停戦を公約するアイゼンハワー米政権が発足し、同年3月にはソ連の独裁者スターリンが死去するという米ソ双方での政権交代を経て、7月に停戦協定が成立した。その結果、南北朝鮮の固定的分断線とされた「38度線」は「ベルリンの壁」と並ぶ冷戦の悲劇的な象徴となった。
 朝鮮戦争は冷戦期にしばしば見られた米ソ間の代理戦争の最初例と位置づけられるが、実はソ連も補給支援などのため秘密裡に空軍を投入していたことが判明している。そうだとすると、この戦争では言わば覆面で米ソが直接交戦していたことになり、冷戦時代の中ではほとんど唯一の米ソ直接戦争の事例だったととらえることもできよう。
 スターリン死後のソ連では集団指導体制の下、内政の動揺が見られ、対外政策はやや消極化するが、55年に西独がNATOに加盟したのを機に、ソ連は東側の軍事同盟としてワルシャワ条約機構を立ち上げた。これによって、米ソをそれぞれ盟主とする東西二大陣営が出揃うことになる。

(3)冷戦の特質
 冷戦とは第二次世界大戦中、反ファシズムという一点で一致していた同じ連合国内部のアメリカとソ連の対立が大戦終結前から徐々に顕在化し、終戦後に全面化したものであった。
 そこには、自由主義(資本主義)対社会主義(共産主義)という経済体制論に絡めた体制イデオロギー対立があった点で、第二次世界大戦と共通した構造が認められる。その意味でも冷戦は第二次世界大戦の延長戦なのである。しかも、アメリカが冷戦時代に旗印とした「反共産主義」は皮肉にも第二次世界大戦でアメリカが打ち破った枢軸国側のマニフェストをそのまま引き継いだものであった。
 しかし、この「反共」ドグマはソ連の実態とはずれていた。ソ連はたしかに共産党の支配下にはあったが、社会の段階は共産主義ではなく、将来共産主義へ移行する過程としての社会主義であり、ソ連晩期の1977年に制定された憲法でさえ、当時の発展段階を「発達した社会主義社会」と規定していた。スターリンの死から25年を経ても、スターリン時代に一応完成を見た国家社会主義の域をまだ出ていなかったわけである。
 冷戦はしかし、そうしたイデオロギー対立だけにとどまるものではなく、実戦の危険ないし実戦そのものを伴う「戦争状態」でもあった。
 特に核戦争危機を内包していたことが深刻な問題であった。ソ連は49年、アメリカの自主的スパイから入手した機密をもとに原爆実験に成功して以来、アメリカの後を追って核開発を推進していった。その結果、最初の核戦争危機は62年のキューバ危機として現実化した。しかし、この危機はたまたま当時の米ソにケネディとフルシチョフという共に「リベラル」な指導者が就いていたおかげで回避され、以後結局、冷戦期に米ソ核戦争が勃発することはなかった。
 これは米ソ両国がキューバ危機を教訓としたという以上に、両大国が「平和共存」の名の下に核の恐怖の均衡による両すくみ状態を続けた結果にほかならなかった。
 こうした両すくみのために、晩年のスターリンが懸念していたような本格的な米ソ戦争自体は一度も起きなかったのではあるが、その代わり、両大国は各々の陣営に属する他国を介した代理戦争や諜報戦を通じて、間接的に火花を散らし合ったのである。
 冷戦はまた、米ソがそれぞれ覇権を競い合う帝国主義的な競争関係でもあったが、この場合の両国の覇権の追求はもはや植民地の獲得によるのではなく、他国を内政干渉や軍事介入をも伴う従属的な同盟関係に置く「衛星国」方式や経済援助と組み合わせた資本輸出によって経済的な従属関係に置く「経済帝国主義」方式を通じて行われたのである。
 そこで、このような第二次世界大戦後の新しい形態の帝国主義をそれ以前の帝国主義に対して「新帝国主義」と呼ぶことができるであろう。
 ただ、冷戦期における米ソの覇権競争において終始リードしていたのはアメリカであって、ソ連は「アメリカに追いつき、追い越せ」を合言葉に常に後追いの挑戦者の立場であり続けた。
 そうした意味では、冷戦とは大英帝国に取って代わった覇権国家アメリカ合衆国が自らの覇権をソヴィエト連邦の挑戦から守ろうとして発動した消極的な防衛戦であったとも言えるであろう。

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